赤の遺言

問題編



 林堂智視がその場所を訪ねた午後5時には、すでに空は暗く、雪の降りは激しくなっていた。
「すいません。この建物は、ホテルですか?」
 住宅としては大袈裟な、しかし旅館の類いとしては質素な造りの玄関扉を開けて顔を出した男女二人組に、林堂が尋ねる。
 男の方は、三十代半ばほどで、でっぷりと太った体をフォーマルなスーツで包み込んでいる。一方、隣に立つ無口そうな女は、地味な割烹着姿だ。
「うーん、そういうわけじゃないんですよねえ。宿泊施設には違いないですが」
 そう言われて、林堂は、改めて、その建物の外観を眺めた。
 平屋建の、おそらく鉄筋コンクリート製の建造物。飾り気はあまり無いが、この峠に降り積もる雪の荷重には充分に耐えられそうなほどには堅牢に造られている。防寒のために二重になったサッシには、なぜか、鉄網で覆われた金属製の格子が外側から嵌められていた。
 何かの収容所か、という空想を、林堂は軽く頭を振って冷たい大気の中に散らす。
「個人的な宿泊所ですか?」
「そういうことです。もしかして、道に迷われたんですか?」
 林堂の問いに答えた後、男の方が逆に質問する。
「迷ったわけじゃないんですが、向こうの道路で、自動車が立ち往生して……何しろ予想以上の大雪だったものですから、借りたレンタカーの装備が不充分だったみたいです」
「なるほど。それはお困りでしょうね」
 そう言って、男は、ますます降りの強くなる雪空を見上げた。
「もしかして、林堂智視さん?」
「――どうしてご存知なんです?」
 問われて、林堂が、さすがにその切れ長の目を見開く。
「やっぱりそうでしたか! いや、失礼失礼。実は僕、品川さんとは個人的な知り合いでしてね。紫蜥蜴の事件の時とか、彼女の飛び降り現場に野次馬でいたりしたんですよ。その時、お見かけしてて」
 唾を飛ばすような勢いで言われて、林堂はわずかに眉をしかめた。
「記者か何かの方ですか?」
「そういうわけじゃないんですけどね。研究家、と名乗っておきましょうか――っと、そちらのお名前を知っておきながら名乗らないのは失礼ですね。僕、阿久津真といいます。今は、この“ヨミ峠山荘”の管理人です」
「ヨミ峠山荘?」
 付近の地名とは特に関連の無いその名前に、林堂が、秀麗な眉をわずかに寄せる。
「大資産家である黒姫家の私的な宿泊施設ですよ。まあ、とにかく、お入りください」
「いいんですか?」
「ええ。僕個人としてだけでなく、山荘の管理人としても、名探偵・林堂智視にここで一夜を過ごしていただきたいと思いましてね」
「…………」
 林堂が、何かを考えている時の癖で、右手でその口元を隠す。
「さあ、どうぞどうぞ」
 阿久津は、にいっ、と不気味と言ってもいいような笑みを浮かべながら、林堂を山荘の中に案内した。



「阿久津さん、誰だね? その人は」
 玄関からすぐの場所にある食堂兼談話室といった風情の部屋に林堂が入るのとほぼ同時に、太い声が、暖房機で充分に温められた空気を震わせた。
「林堂智視さんといいます。まだ学生ですが、名探偵ですよ、醍醐さん」
 しれっとした態度で言う阿久津を、林堂が、さすがに制止しようとする。
「探偵だと!? あんたが呼んだのか!?」
 阿久津に醍醐と呼ばれた太い声の主は、さらに声を大きくした。
 四角い顔に、短く刈った髪の壮年だ。いかにも昔スポーツをしていたといった感じの堂々たる体躯に、仕立てのいいスーツをまとっている。酒が入っているのか、わずかに赤い顔に浮かんでいるのは、ひどく苦い表情だ。
「あんた、やっぱり、今夜ここで何か事件が起こると思ってるんだな!」
 言いながら、醍醐が、その大きな拳でテーブルの分厚い天板を叩く。
 同じテーブルに着いているのは、この醍醐を加え、車椅子の老人と、高校生らしきセーラー服姿の少女、そして洒落たデザインの眼鏡をかけた三十前後の優男の4人だ。それと、阿久津と林堂――部屋の中にいるのは、この6人である。
「起こるかもしれませんねえ。何しろ、事件あるところに名探偵あり、そして名探偵あるところに事件ありと言いますから」
 阿久津の物言いに、林堂は――極めて珍しいことだが――いつもの皮肉げで気障な笑みを浮かべることもできず、閉口したような表情になる。
「ふざけるな! くだらん因縁話に、妖怪に、人殺しに、次は探偵か! もう一秒だってこんなところにいられるか!」
 醍醐が、椅子を後ろに蹴り飛ばすような勢いで、席を立つ。
「出て行きますか? そうなると今年の試練は自動的に終了――ただ、この雪の降りだと、今すぐ出発しても雪の中で立ち往生だと思いますよ。あの、醍醐さんの平べったいスポーツカーではねえ」
「山荘の備品で、RVがあっただろう。あれを貸せ」
 醍醐が、傲慢な口調で言う。
「あの車でしたら、花江さんが自宅に帰るのに使いました」
 そう言って、阿久津は、隣にいる林堂に、ねえ、と同意を求めた。
「さっき隣にいた人、花江さんという名前なんですか?」
「そうです。何でも、今夜中に帰らないと親戚の結婚式に間に合わないとか言ってましてねえ。林堂さんが、麓の町に送ってくれるよう頼んだんですが、方向が反対だと拒否されました。まあ、僕としては、林堂さんとここで一夜を過ごしたかったの、で渡りに船だったわけなんですが」
 阿久津が、まるで醍醐を挑発するように、ヘラヘラとした笑みを浮かべる。
「腹の立つ女だ……どういうつもりだ……」
「醍醐さん、そうイライラしないでくださいよう。花江さんには及びませんが、僕の料理の腕も実は相当なものなんですよ」
「貴様の料理なんぞ食うか!」
 醍醐は、目を見開きながら声のトーンを上げた。
「――俺は自分の部屋に行く! 自分を殺すかもしれん連中と夕飯なぞ真っ平ごめんだ!」
 醍醐の言葉に、優男の顔がさっと青ざめる。が、車椅子の老人と、整った顔立ちの少女は、無表情なままだ。
「そうですか。じゃあ、部屋のミニキッチンでお湯を沸かしてカップ麺でもどうぞ。ちなみに4号室です。鍵はお渡ししてますよね?」
 人を食ったような阿久津の言葉に、醍醐は、奥の扉を乱暴に閉め、部屋から出て行った。
「肝の小さい男だ。あれで、不動産の取引などできるのか」
 車椅子の老人が、小さく鼻を鳴らしながら、言う。
「無理もないですよ、伯父さん。何しろ、去年の宗太郎伯父さんの件があるんですから」
 眼鏡の優男が、老人に言う。
「お前は、あれであのしみったれた土産物屋を潰さなくて済んだんだったな」
 老人は、そう言いながら、優男に冷たい視線を向けた。
「私の経営しているのはペンションですよ。民芸品も扱ってますが――」
「いやしくも黒姫の一族の男がする仕事か。……まあ、分家では仕方ないがな。勝広は、隅屋の家の中では、まあよくやってる方か」
「それはどうも」
 優男は、最低限の感情を込めて謝意を述べた。
 そんな二人の会話の間も、少女は、豪奢なテーブルクロスの一点を見つめたまま、人形のように動かない。
「現在の黒姫総本家筆頭の黒姫精次郎氏と、甥の隅屋勝広氏です。お嬢さんは、精次郎氏の孫娘の、澄乃さん」
 阿久津が、聞かれもしないのに、小声で林堂に説明する。
「さっき出て行ったのは、遠縁の醍醐鐘彦氏です。えーと、えーと、去年亡くなった宗太郎氏のお妾さんの弟さんの……」
「この、ヨミ峠の肝試しには不釣合いの男よ」
 精次郎が、阿久津の言葉に割り込む。
「ヨミ峠の肝試し?」
「地図ではどう書かれてるか知らんが、地主である黒姫の家ではここをヨミ峠と呼んでおる。夜を見る峠だとか、黄泉の国の黄泉だとかの文字を当てる奴もおるが……正しくは、何のことは無い。数字の四と三だ」
「四三峠――」
 林堂が、再び、その言葉を繰り返す。
「探偵だとか言ったな。確かに、小賢しそうな顔をしている。まあ、座れ」
 言われて、林堂は、ためらう素振りも見せず、精次郎の正面の椅子に腰掛けた。
「この峠にはな、因縁話がある」
「伯父さん、いいんですか?」
「いいじゃろ、別に」
 神経質そうな表情の勝広にじろりと一瞥をくれてから、精次郎は、林堂に向き直った。
「そもそも探偵を連れてくるとは、阿久津君は気が利いてるじゃないか。もしそういう備えがあれば、去年、兄貴は死なんで済んだかもしれん」
「いや、俺がここに来たのは偶然で――」
「偶然も、前世の因縁の産物。ならば家に入れた阿久津君が招いたも同然」
 かすかに苦笑しながら言う林堂の言葉を、精次郎がばっさりと切り捨てた。一方、当の阿久津は、鼻歌を奏でながら、食堂に隣接したキッチンで夕食の準備を初めている。
「話を戻すぞ。この峠の因縁の話だ。時は元禄年間と言われておるから300年以上も前のことだ。4人の旅人が、峠の山道を歩いておった」
 勝広が小さく溜息をつき、澄乃は身じろぎもせず、そして、林堂は、右手を口元に当てた。
「4人はいずれも、江戸で小金を貯め、それを元手に故郷で店を開こうと考えておった。だが、錦を飾ると言うには、少しばかり金が足りん。倍だの五割増しとは言わん。せめて二割五分でも割増しすれば、桁も違って人の覚えも良くなろうというのだが……」
「そんなことを、4人は、互いに明けっ広げに話をしていたんですか?」
「それぞれ江戸のころからの知り合いで、いずれの懐具合も分かっていたという話だ。それにな、若造、話を先回りするな。4人が3人になったのは、人殺しによるものじゃない」
「…………」
「カマイタチだよ」
 その言葉が聞こえたのか、キッチンの阿久津が、小さく吹き出した気配があった。が、精次郎の耳には届いていない。
「峠に住む妖怪のカマイタチが、旅人の体を切り刻んだのだ。3人は手を下しておらん。ただ、3人は、死んだ旅の仲間を丁寧に埋葬し、そいつの残した金を香典返しの代わりに失敬してしまっただけだ」
「……そして、3人は、それぞれ峠の麓で店を構え、そのうちの1つが黒姫家の先祖だと、そういうことですか」
「ふふん、また先回りか……。まあ、それは、正解だ」
 精次郎が、面白そうな表情で言う。
「残り2つの家は江戸時代の中頃までしか保たなかったという話だが、黒姫家は違った。初代の4人の息子がそれぞれ大店を構え、羽振りも良かったんだが……明治維新間近に地元の代官との付き合いをしくじってな。一時は、有ること無いこと罪を着せられて一族全員打首獄門かという話になったそうだ。しかし、方々に金をばらまいて何とか事を収めた。まあ、気付いた時には4つの店のうち1つは潰れ、主人一家は鎌で喉を裂いて自害したという話だがな」
「また、4つが3つに、ということですね」
「因縁話だからな……。で、その後も、大正時代に政商として活躍したものの、地元代議士との行き過ぎた付き合いが国会を揺るがす疑獄事件に発展したせいで、4つあった家のうち分家1つに全ての責任を負わせ、詰め腹を切らせて難を逃れたこともあるし、本家に4人いた娘のうち1人を、人質同然に政略結婚させて、その娘は結局は姑にいびられて喉を懐刀で突いて自殺したとかいう話もある。最近では、戦後すぐ、財閥解体のゴタゴタの時、黒姫物産、黒姫貿易、黒姫土木、黒姫商事のうち、黒姫物産を計画的に処分することで、グループ全体としては難を逃れた、ということがある。まあ、大量の首切りのせいで、本家に焼き打ちをされそうになったというオマケつきだがな」
 精次郎は、むしろ自慢げな表情で、いったん言葉を切った。
「それで、その四三峠の因縁話と、肝試しと――そしてこの建物に、どんな関係が?」
「それはな……4つが3つにの因縁がこれだけ続くと、逆に、それが縁起になる」
 この精次郎の言葉に、キッチンの阿久津は、今度は様にならない口笛を吹いた。
「黒姫の家が続き、栄えたのは、事あるごとに、4つのうちの1つを間引き、3つを残したからだとな……。少なくとも、先々代はそう思った。先々代というのは、要するに儂の爺さんだ。それで、爺さんは、ここに山小屋を建て、一族のうちの有志――というか物好きを泊まらせることを思い立った」
「そのうち1人に、カマイタチの害が及ぶことを期待して、ですか?」
「い、いや、それは、要するに、さっきから伯父さんが言ってるように、肝試しでね」
 かすかに震えた声でそう言ったのは、勝広だった。
「むしろ、因縁なんて恐くないと、豪傑ぶって笑い飛ばすことが目的だったんだと思うなあ。子供が、わざと怪談の舞台になっている廃墟を探検するようなものさ」
 話を遮られた精次郎は、渋面を作る代わりに、にたあ、と悪意に満ちた笑みを浮かべる。
「よく言う、勝広……。去年、兄貴が死んで一番助かったのはお前だろうに」
「そ、そんな……あれは、警察の捜査でも自殺だって……」
「そう。ガス管を喉に突っ込んでの中毒死だ。ご丁寧にホースを粘着テープで口に固定してな」
「それは……昏睡しているうちに外れないようにという用心だと、警察も……」
「いい、いい。むしろお前が財産目当てに兄貴を殺すような気概の持ち主なら、かえって見直すくらいだ」
「…………」
 林堂は、賢明な沈黙で、2人の会話がどういう意味なのか、説明を促した。
「ここで肝試しをしている最中に、4人のうちの誰かが死んだら、その死人の財産は、全ての法律を飛び越えて、残り3人に分配される――そういうしきたりなんですよね」
 オードブルの乗った皿を運びながら、陽気とも言えるような口調でそう言ったのは、阿久津だった。
「無論、厳密には、法律上、さまざまな障害が有る」
 精次郎が、阿久津の言葉を引き継ぐ。
「だが、それだけの金が残り3人の手に結果的には入るように、一族の中で速やかに金を回す。これは、黒姫の最も重要な家訓だ。実際、去年に兄貴が死んだ時は、だいぶ大きな金が動いて、他の連中は困り果てたらしい。全ての職から引退していたとは言え、仮にも、兄貴は総本家筆頭だったからなあ」
 その総本家筆頭の座を継いだという精次郎が、ほとんど欠落の無い黄色い歯を見せ、呵々大笑する。
 勝広は、眉間に縦皺を浮かべて胃の辺りを右手で押さえ、澄乃は、相変わらず、一言も発しない。
「今年のメンバーは、亡くなった宗太郎氏と醍醐氏が入れ替わった以外、去年と同じですか?」
 精次郎の笑いが止む頃合いを見計らって、林堂が尋ねる。
「そうだ。醍醐の奴め、最初は欲の皮を突っ張らせての参加かと思ったんだが――実際のところは、他の親戚連中に無理やり推されたというのが真相らしい。拍子抜けだな」
「ということは、あまりこのゲーム――失礼、肝試しの行事に参加するのを希望される方は、多くない、と」
「ゲームには違いないな。クックック――」
 精次郎が、林堂の物言いに再び笑いの発作を起こしそうになってから、不意に、真顔になる。
「この四三峠の肝試しを、これまで60年続けてきて、同じように死人が出たことが、去年の例を入れて16回あった」
「…………」
「それが多いか少ないか、それとも妥当な数字か――探偵なら、是非とも面白い答えを出してほしいものだな」
「――それは、せめてお食事の後に。さっきの前菜はともかく、このスープは冷めると不味いですから」
 そう言いながら、阿久津は、キッチンから次々と黄金色のスープを運んできた。



 午後9時。食事が終わり、黒姫家の人々は、それぞれ、宛てがわれた部屋に向かった。
 1号室、黒姫澄乃。2号室、黒姫精次郎。3号室、隅屋勝広。4号室、醍醐鐘彦。
「部屋割りは、1週間前に籤引きで決めてお知らせしてます。ちなみに、他に、客室――というか、肝試しメンバー用の部屋はありません。風呂もトイレも、それぞれの部屋の中に備え付けです。なお、部屋のロックは一般的なシリンダー錠です。鍵は、今日、この山荘に皆さんが集まったときに、一斉に渡しました」
 そう言いながら、阿久津は、食器棚の引き出しから、一枚の和紙を取り出した。
「何に使うんです?」
「――それは何です? と訊けば、僕みたいな人間は、何の変哲も無い和紙です、と答えるかもしれない。だからその用途を尋ねる。林堂さんはやっぱり頭がいい」
「買い被りですよ」
「そうですか。うーん、どうやら、僕は浮かれてはしゃいでしまってるらしい。鬱陶しい物言いはご容赦ください」
 そう言いながら、阿久津は、和紙を2センチ×5センチほどの長方形に切り分ける。
「もしかして、封印ですか?」
「ビンゴっ、でぇす!」
 そう言って、阿久津は、嬉しそうに両手を叩いた。
「いやあ、こういう遣り取り、憧れました。今、僕、本当に名探偵とお話ししてるんだなあ。感動ですっ」
 そう言いながら、小躍りしそうな足取りで、阿久津は、4枚の紙片とチューブ糊を持ち、1号室から4号室までの扉が並ぶ廊下に出た。一番手前が4号室、一番奥が1号室である。
 そして、阿久津は、それぞれのドアと枠に跨がるように、横長にした紙片を糊で丁寧に貼った。ドアも枠も双方とも木製で、しかも貼った場所が目の高さの遥か上であるため、糊を吸った和紙は、そこにあることを知る者でないと、容易には見つけることができない。
「……どうして、こんなことを?」
 阿久津の作業を背後から見ていた林堂が、さすがに呆れたような口調で言う。
「事件が起こることを予想してです。何しろ、それぞれの部屋への出入口はここだけですから。窓には外から防犯用の格子が嵌まってますし、換気扇を取り外しても外に出るのに充分な開口部にはならない。もちろん、屋根裏や床下を通っての移動も不可能です。図面だけでなく、工事中の業者の写真も確認しました」
「いや、その……」
「僕は、期待してるんですよ。いや、熱望していると言ってもいいかなあ。探偵になるほど頭のよくない僕ですが、名探偵の繰り広げる推理劇における端役くらいにはなりたいんです。だから、いかにも難事件、怪事件、猟奇事件が起こりそうな場所に臆面もなく出入りしました。この四三峠山荘もその1つです」
「……俺としては、阿久津さんが今したことが、徒労になることを願ってるんですけどね」
「またまたまたあ」
 廊下から食堂に戻ってきた阿久津が、林堂に振り向き、二つの歪んだ三日月の形に目を細める。
「…………」
「……えーと、まあ、確かにこれが僕の数多あった推理小説ごっこの1つに成り果ててしまうこともありえますが、そうはならないと、僕は確信してますよ。何しろ名探偵・林堂智視と一緒の夜なんですから。あ、いや、変な意味ではなく」
「そう願います」
「ははは、まさかそんな嫌そうな顔をするなんてねえ。さてさて、僕と林堂さんは、申し訳ないですが、この食堂兼談話室で夜明かしです。眠くなったらソファーで寝ていただいて結構ですが、希望としては、ミステリ談義で一晩を明かしたいですねえ」



 阿久津が、本人にしか分からない理屈で4つの部屋のドアを和紙で封印してから5時間後の、午前2時。
 窓の外ではいよいよ雪の降りは激しくなり、圧倒的な冷たい質量が、四三峠山荘の足元を固めてしまっている。
 そんな中、阿久津の希望どおり、ミステリに関する四方山話を続けていた林堂達は、ノックの音を聞いた。
「どうしました?」
 阿久津が奥の廊下に通じるドアを開けると、そこに、未だセーラー服を着たままの黒姫澄乃がいた。
「あの――どうしても眠れなくて」
 依然として無表情のまま、澄乃が、あどけない顔に似合わぬ、意外なほどに女らしい声で言う。
「僕達と話でも?」
「いえ」
 澄乃が言下に否定し、装飾の意味しかないイミテーションの暖炉の上に置かれている箱を指さした。
「あれ、勝広お兄さんのお土産ですよね」
「ああ……手作りの木製ジグソーパズルね。ピースが多い上に、無地だから難しいですよ」
「だったら、一晩は保ちますよね」
「一週間かかっても完成しないかもしれません」
「だったら、貸してください」
「差し上げますよ」
 そう言って、阿久津が、包装されたままのその箱を、澄乃に渡す。
 澄乃は、小さく会釈をして、廊下に戻った。
「――――」
 ドアが閉まる瞬間、阿久津が、妙な表情になる。
「精次郎さん、ですね」
 林堂が、阿久津に言う。
「ええ。ドアから顔を出してこっち見てましたねえ。何だろ」
「……1号室と2号室の封印、破られましたね」
 これまでの会話で、多少なりとも阿久津と気脈の通じる部分があったのか、林堂が、悪戯っぽい口調で言う。
「仕方ないですよ。さて、話も煮詰まってきましたし、チェスでもしませんか? これも勝広さんのお土産ですが」
「受けて立ちましょう」
 林堂の返事に、阿久津は、実に満足そうに頷いた。



 翌朝6時――
「ふわぁ〜あ……残念ながらぁ、これでぇ、肝試しの夜は終わりでぇす」
 いかにも眠たげな顔で、阿久津が、うーんと伸びをする。一方、林堂は、特に昨晩と変わった様子がない。
「でもまあ、最後の希望を込めて、各部屋の状況を確認しましょうか。あ、ちなみに、マスターキーはここです。この一晩、僕が肌身離さず持ってました」
「それは、俺も証言しましょう」
 ポケットから銀色の鍵を取り出した阿久津に、林堂が言う。
「さて……では、封印の確認です……って、あら、あららららぁ?」
 1号室から4号室までのドアが並ぶ廊下を歩きながら、阿久津が素っ頓狂な声を上げる。
 4号室の封印はそのままだったが、3号室の封印が破られていたのだ。無論、澄乃の1号室、精次郎の2号室の封印も、破られている。
「封印、あまり意味がなかったですね」
「ですねえ。うーん、夜中に互いの部屋でお話するほど仲のいい親類同士には見えなかったんだけどなあ……トイレも中にあるはずだし……」
 そう言いながら、阿久津が、1号室のドアをノックする。
「――はい」
「澄乃さん、起床の時間ですけど……」
 言いかけている阿久津の目の前で、ドアが開いた。
 一晩その格好だったのか、セーラー服のままの澄乃が、そこに立っている。
 林堂が、長身を活かして阿久津の肩越しに部屋の中を覗き込むと、カーペットの上に、半ばまで作られたジグソーパズルがあった。
「……パズル、もうそこまで出来たんですか?」
「徹夜しましたから」
 涼しげな口調で、澄乃が林堂の問いに答える。
「確かに、一晩中使わないとそこまでは無理でしょうね」
 ジグソーパズルのピース数と作成時の組み合わせについて頭の中で暗算しながら、林堂は言った。
「ところで、お爺様はもう起きてます?」
「いえ。どうしてです?」
「お爺様は、いつも朝5時には起きて、煙草を吸われますの。去年も、管理人の方が起こす前に談話室に現れてましたが……」
「…………」
 阿久津が、林堂に振り返る。
 その小鼻が興奮のためかわずかに膨らんでいるのを見て、林堂は、少し呆れ顔になった。
「さあさあさあ、事件の匂いですよ」
 両手の平をさすりながら、阿久津が、2号室の前に移り、まず、錠がかかっていることを確認する。
 そして、マスターキーを鍵穴に差し込み、ゆっくりと回転させた。
 ドアが開く。
「どひゃっ!」
 阿久津が妙な悲鳴を上げて部屋に飛び込み、林堂がそれに続く。
 部屋の中央で車椅子が横ざまに倒れ、その前方に、バスローブ姿の黒姫精次郎がうつ伏せになって倒れていた。
「まさかまさかまさか、本当に出くわすとは……っ!」
 目を見開き、瞳を爛々と輝かせながら、阿久津が周囲に視線を巡らせた。
 精次郎の喉は、ぱっくりと水平に裂け、大量に溢れ出た血がベージュのカーペットの中央に吸い込まれ、半ば乾いている。床には、外に血痕らしきものはない。
 床に無造作に打ち捨てられた、鎌のように兇悪に歪曲した血まみれのナイフが、凶器だろう。
 ベッドのサイドテーブルの上に、鍵が、無造作に転がっている。阿久津と林堂が手を触れないようにして確認すると、それには、102号室の刻印があった。
 死体の側の、小さなテーブルの上には、ごついガラスの灰皿と、僅かにウィスキーの入ったグラスが2つ。灰皿の中には、十本以上の煙草の吸い殻がある。
「林堂さん、あれあれあれ!」
「ああ、血文字ですね」
 阿久津に指摘される前から、林堂は、それに気付いていた。
 まるで、床を掻き毟るような形に曲がった右手の人差し指――その先に、赤い血が、半円の形に指先の軌跡を残している。
「D、ですかね! アルファベットのDっ!」
「そう読めますね」
 鼻息まで荒くしている阿久津とは対照的に、林堂は冷めた様子だ。
 そして、もう一人――いつの間にか部屋に入っていた澄乃が、やはり無表情な顔で、祖父の死骸を、三歩ほど距離を措いて見下ろしている。
 施錠された窓の外では、雪が、すでに止んでいた。
「――電気、点いてますね」
 林堂が、ぽつりと天井を見上げ、呟く。
「ひいいいいいいい! やっぱり、やっぱり人殺しいいいいいいいい!」
「お、お、お、伯父さんッ!」
 醍醐と、そして勝広の悲鳴が、開け放しのドアの外から響いた。



 午前9時。今や因縁話どおりに3人となった黒姫家の人々は、それぞれの部屋で朝食を取っている。
 その前に、1号室から4号室は、全員が立ち会いのもと、林堂と阿久津の捜索を受け、さらには全員に簡単な身体検査も行われた。澄乃も、顔色一つ変える事なく、下着姿になった。
 そして、林堂と阿久津は、朝食そっちのけで、食堂兼談話室で話をしている。
「犯行時間は、精次郎氏が僕達に最後に目撃された午前2時以降。指紋や、自分に付着した血、その他の証拠のの後始末に30分から1時間はかかると考えると、午前5時半まで、ってところですかねえ」
「カーペットの血痕の乾き具合からすると、少なくとも2時間くらいは経ってると思いますよ」
 阿久津の言葉を、林堂が、冷静な口調で修正する。
「となると、午前2時から4時の間の30分から1時間といったところですかあ……」
「封印が有効だったのは4号室のみでしたねえ。部屋と部屋の間の壁は厚いんで、車椅子や精次郎氏が倒れた際の物音を誰も聞いていなかったというのは不自然ではないですが……ところで、澄乃さんのジグソーパズル、アリバイになりますかねえ」
「客観的に見て、2時からの4時間であそこまで組んだこと自体が驚異的だと思いますよ。まあ、だからと言って、即、アリバイになると言うのは早計かもしれませんが」
「同じ製品をすでに持ち込み、午後9時から午前2時の間に組んでいたかもしれない……って言いたいんでしょう。でも、あれ、まだ試作品でね。製品化されてない、言わばこの世に唯一のものなんですよ。ちなみに、澄乃さんの床にあったジグソーパズルが、隅屋勝広氏オリジナルの手作り品だって事は、彼本人に確認済みです。事情を隠してね」
 阿久津が下手なウィンクをし、林堂が、当然のようにそれを無視して思索に耽る。
「……2号室は、密室でしたね」
「ええ。キーを使わずに、外側からあの扉を施錠することはできません」
 林堂の質問に、阿久津が答える。
「車椅子や死体、血痕の状況から、傷を負った精次郎氏が自ら施錠したとは考えられないし、状況から見て自殺も考えにくい。まあ、不可能ではないですが、不可解ですよね。なぜこんな形で自殺をしなければならないのか……」
「残り3人のうち誰かに財産を渡したかったから……にしても、もっと楽な方法でよさそうなもんですもんねえ」
「だとすると、マスターキーか――」
「いや、ちょっとちょっとちょっと。林堂さん、僕とずっと一緒だったでしょ。手品の余地はなかったし、あの3人のうち誰かと鍵の遣り取りをするヒマはなかったと思いますよ。ジグソーパズルを渡した時も含めてね」
「じゃあ、合鍵ですね。それを今日までに準備するのは、難しいかもしれませんが、不可能ではない」
 額を汗で濡らす阿久津の様子に笑いもせず、涼しい口調で林堂が言う。
「あらかじめ合鍵を用意していたのであれば、何も不可能な状態ではない。ただ、問題の鍵がどこに消えたかということですが……」
「1号室、3号室、そして4号室のどこにも、鍵を隠すようなスペースは無かったですよ。水洗便所のタンクから、レンジフードの中、カーペットの下まで調べたんですからね。もちろん、廊下や、この部屋も調べましたし」
「死体発見のゴタゴタの時に、窓や玄関扉から投げ捨てた可能性は?」
「窓の外の格子は鉄網で覆われてます。何でもこれ、先々代から伝わるカマイタチよけらしいですよ。霊験あらたかとは言えなかったですがね」
「玄関は?」
「内側からも施錠されていて、僕の持ってるマスターキーでしか開けられません。そういう構造になってるんです。ああ、それから、全員で確認したとおり、このヨミ山荘の周囲の雪の上には、今朝の時点で足跡は全くありませんでした。昨夜帰宅した花江さんの足跡やRV車の轍も、夜中に積もった雪で埋まってしまったと思われます」
「二重に――いや、雪を含めると三重に密室というわけですね」
「そうですそうですそうです」
 いかにも嬉しそうに、阿久津が林堂の言葉を肯定する。
「それと、やっぱり気になるのは、例の、“D”のダイイングメッセージですよねえ」
「え? まあ……そうですね」
 阿久津とは対照的に、林堂の反応は鈍い。
「死体の状況や、カーペットに残された血痕の様子からして、精次郎氏は、傷を受けてから十数秒から数分は意識があってもがいていたようですし……犯人の手掛かりを自らの血で残したと考えるのが自然だと、僕は思うんですけど、林堂さんの意見はどうです?」
「俺は――その、あれについては、あまり軽々には結論を出せないような気がするんですよね」
 さらに林堂が何か言いかけた時――廊下につながるドアが開き、勝広が、澄乃の肩を抱くようにして、食堂兼談話室に入ってきた。
 勝広は、その神経質そうな顔を緊張させており、澄乃は、相変わらずの無表情だ。
「大事なお話があります」
 二人を、この異常な事態における“探偵役”と認めたのか、勝広はそう言って、ぐい、と澄乃を前に突き出す。
「その……警察が来る前に言っておいた方がいいと思って……いや、その、私だけでは受け止めきれなくて……」
「警察が来るのは早くても今夜遅くだそうです。で、何ですか?」
 年に似合わぬ落ち着き振りで、林堂が先を促す。
「私、お爺様の部屋の合鍵を持ってました」
「はああ?」
 阿久津が、まるで飛び上がるような勢いで、ソファーから腰を浮かす。
「1号室から4号室までの合鍵、全部持ってました。お爺様の命令で」
「なぜ?」
 静かに座ったままの林堂が、じっと澄乃の顔を見つめながら、訊く。
「夜中にこっそりお爺様のお部屋を伺って、ご奉仕をするためです」
「えーっと、ご奉仕って……」
「性的な意味で、です」
「せッ……!」
 声を上げる阿久津に、澄乃が――初めて、淡い笑みのような表情を浮かべる。一方、勝広は、苦り切った顔だ。
「去年も、一昨年もそうでした。籤引きで、お爺様の部屋が決まって連絡が来ると、その部屋の合鍵をこっそり持ってきていたんです。合鍵は、5年くらい前に、お爺様が秘密で作らせていたようです」
「私も、そのことには薄々は気付いていました……。それで、昨夜の、夜中の0時頃、澄乃ちゃんの部屋を訪ねて問いただそうとしたんですが……」
 3号室の封印が破られたのはその時か、と、阿久津が口の中で呟く。
「その時間は、もうお爺様の部屋にいました」
 澄乃が、何の感情もこもっていない声で、言う。
「それで、その合鍵は?」
「実は、今年に限って家に忘れてきたんです」
「何だって?」
 勝広が声を上げる。
「いいえ、見つからなかったと言った方がいいかもしれないです。それで、結局、今年はお爺様にドアを開けていただきました」
「…………」
「…………」
「…………」
 林堂が、阿久津が、そして勝広が、しばしの間、沈黙した。
 3人が、揃って、自分の言葉を吟味している――そのことに可笑しみを感じたののか、澄乃は、先程よりも大きく、口元を綻ばせた。
 それは、婉然と表現してもいいほどに、艶やかな微笑みだった。


解答編

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