白 狼 伝



第八章



 咆哮が、聖地の大気を満たしている。
 凄まじい数の咆哮である。
 聖地の周囲の森に棲息するすべての獣達の耳に届き、その心に響くかとおもわれるような咆哮。
 聖地を埋め尽くさんばかりの、ワー・ウルフ達による咆哮である。
 ワー・ウルフ達は、あるいは両足で立ち、あるいは四つ足の姿勢で、喉を垂直に立て、遠吠えをあげている。
 そして、聖地を一望できる岩山の上に、ひときわよく響く、ほとんど音楽的とさえ言えるような声を放つ存在があった。
 純白の毛皮に身を包んだ、馬ほどの大きさの狼。
 無論、それは常の意味の狼ではない。姿勢も体形も、四足獣のそれとは違う。しかし他のワー・ウルフのような、人の姿を歪曲させたような、不自然なプロポーションでもない。その体の線はあくまで自然であり、本物の狼を遥かに超える気高さと機能美をまとわりつかせている。
 その白い狼の放つ声に、唱和するかのように、他のワー・ウルフは咆哮を放っているのだ。
 昇りかけた満月に対する狂おしいまでの声が、今はある一つの意味を有している。
 喜び、である。
 果てしない時の果てに再びその姿を現した王に対する喜びだ。
 かつて〈白狼王〉と呼ばれ、自らを率いて闘った称えるべき王。
 その帰還への歓喜が、最高潮に達した時――
 異変が、聖地にさざなみ小波のように広がった。
 中央の、磨かれた黒曜石の祭壇が、するすると音も無く地に沈んでいったのである。
 次第に、その場を支配している空気が、ある種のとまどいを含んでいく。
 すでに、咆哮は止んでいた。
 岩山の上の白い狼も沈黙し、天を仰いでいた顔を、聖地に向ける。鮮やかな赤い光を宿す瞳に、警戒の色が浮かんでいた。
 中天近くまで昇り、血に浸したような色を漂白されつつある月の光が、しずしずと地に降りてくる。
 そして、沈んだ時と同様に音も無く、祭壇が再び浮上した。
 その上に、二つの人影がある。
 祭壇の中央で、ちょうど〈白狼王〉の側に頭を向けて横たわる、柔らかな金髪の少女と、その足の側に立つ、青いローブの男。
 ティティスと、シモン・マグスである。
 マグスは、胸に下げたメダルを左手で握り締めながら、〈白狼王〉にその無表情な目を向けていた。
 マグスの右手に、細身の両刃の剣が握られている。
 いかなる金属を鍛えたものなのか、夜空のような漆黒の刀身に、びっしりと奇怪な文字が刻まれている。それは、カバラではなく、また、この大陸のあらゆる文字とも違う記号群であった。
 〈月霊剣〉アシュモダイ。
 この世界に、合わせて七十二本しかないとされる魔剣の一つである。
 魔剣は、黒い光としか呼びようのない不可思議な闇を放射しながら、マグスの手の中で細かく打ち震えていた。
 聖地の空気を、異様な緊張が包む。
 その緊張は、この場にいるワー・ウルフ全ての心の内の葛藤によるものであった。二人の支配者の出現による、精神を引き裂かんばかりの葛藤である。
 自らの血のみが僅かに憶えている正当な王と、強力な呪術によって精神を操り、自らを縛る恐るべき男。
 しかし、次第に前者に対する忠誠が、後者に対する畏怖に勝りつつあった。
 ワー・ウルフ達が、脅えと、そして明らかな敵意を込めて、マグスに向き直っていく。威嚇の唸りが、その喉からもれた。
 マグスは、そんなワー・ウルフ達の噴出しつつある憎悪を、微風ほどにも感じていない様子である。
 そのまま、十数秒が過ぎた。
「ぐおっ!」
 張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、マグスの正面にいたワー・ウルフが数体、地を蹴った。その鋭い攻撃の延長線上に、マグスの細い体がある。
 決着は一瞬だった。
 マグスの呪術によって操られている精霊と、そして〈月霊剣〉アシュモダイがどのように作用したのか、その場で完全に理解し得たのは、マグス自身と、〈白狼王〉のみであったろうか。
 マグスに襲いかかったワー・ウルフ達の体は、霧のように血をしぶかせ、幾つもの断片となって、マグスの周囲に飛び散った。しかし、マグスはおろか、その足元のティティスの体さえも、返り血一つ浴びた様子はない。
「……うろたえ者め」
 マグスが、大きくはないが、奇怪なほどによく響く声で言い放つ。その声は聖地の窪地に反響し、その場にいる者全ての心に直接届くかのようであった。
「お主らは忘れたのか、あの〈白狼王〉がお主らを裏切り、滅びに導かんとしたことを」
 もとより精神を変質させたワー・ウルフに、まともな人の言葉が届くわけはない。これは、マグスの呪術の一環である。
 しかし、マグスの呪術が乗せられた言葉は、ワー・ウルフ達の呪われた血に刻み込まれた遥かな記憶を呼び覚まし、伝説の時代の〈白狼王〉の所業をその場によみがえらせるかのようであった。
 そもそも呪術は、カバラを使う法術や、太古の竜の契約を利用する魔術と異なり、言語体系そのものの持つ力を導くものではない。むしろ、呪術師の操る言葉や身振りの内容そのものが、精霊に対する強い干渉力となるのだ。
 ゆえに、優れた呪術師は、対象となる精霊や精神の暗部に働きかけ、それを操ることによって望みの効果を得るのである。
「〈白狼王〉はこの〈月霊剣〉を手にするや否や、お主らを裏切り、〈月の民〉を裏切り、自らをも裏切って、異国の侵略者に協力して、その王朝を打ち立てることに力を注いだ」
 言いながら、マグスは高々と右手に握る魔剣を掲げた。
「侵略者に抗すべく、自身を犠牲としたお主らを闇に追放したのは、かの〈白狼王〉ではなかったか。お主らが守るべき〈月の民〉を侵略者に売り渡したのは、お主らが王と仰ぐ者ではなかったのか」
 マグスの言葉は、ワー・ウルフの狂気と獣性に支配された精神を、毒のように痺れさせ、酸のように蝕む。
「復讐の刃を向けるべきものを誤るな! お主らの牙は、〈月の民〉に仇なすものを砕くべきものであろう!」
 ワー・ウルフ達が、マグスの言葉に答えるかのように、次々と吠え始める。その目は、もはやマグスの方を向いてはおらず、自らの王を刺し貫くかのような視線を放つばかりだ。
「弁解の余地があるか、〈白狼王〉――いや、エール・リカオニウスよ」
 エール・リカオニウス。
 その、あまりにも長く封印され、忘れられていた名前が口にされた時、〈月霊剣〉は目をくらませるばかりの黒い光を放ち、マグスの意志のまま、〈白狼王〉にしてエールス建国の英雄の体を指し示した。
 かつては自らの中の獣性を制し、封じるために利用した〈月霊剣〉アシュモダイの黒い光に貫かれながら、〈白狼王〉エール・リカオニウスは微動だにしない。ただ、赤い瞳に燃えるような光を宿らせ、マグスの顔を凝視するのみだ。
 そして、剣の黒い光に導かれるように、その場の全てのワー・ウルフが、リカオニウスの立つ岩山のもとに殺到しようとする――
 その瞬間のことである。
 大地が、鳴動した。



 それより少し前、はるかな地の底で、宝物庫の天井は、いよいよ三人の頭上に迫っていた。
 もはや、両手両膝を床につかなければ、頭がつかえてしまうような状況である。
 部屋を無用に傷めないためか、それとも駆動機械が古くなったせいか、天井の降下はひどくゆっくりとしている。それはまるで、侵入者の苦痛と絶望を最大限まで引き出そうとする、迷宮自体の悪意によるものかとさえ思えた。
 無論、ラグーンもエスカもレンも、ただ黙って押し潰されようとしているわけではない。どうにか、二つある扉のどちらかを破壊し、脱出を図ろうと試みてはいるのだ。しかし、青銅製の扉はおそろしく厚く、蝶番などの金具もひどく頑丈にできていた。
 しかし、彼らはあきらめようとしなかった。レンは、しばらく前から周囲の壁を調べ、非常用の隠し扉のたぐいがないかどうかを調べており、またエスカは、財宝の中でつっかえ棒になりそうなものを壁際に立て、少しでも天井の降下を遅れさせようとしている。
 そしてラグーンは、愛用の長刀を壁と扉の隙間に差し込み、それを梃子にしてなんとか扉を動かそうと力を振るっていた。
 すでに、扉は半ば以上が天井に隠されている。内開きの扉である以上、普通に開くことは絶対に無い。ラグーンは、金具が弾け飛び、扉自体が枠から外れることに賭けていた。
 が、それは絶望的な賭けである。
 常識で考えれば、いかに鍛えられた鋼とは言え、扉が壊れるより先に長刀が折れるのが先のはずであった。しかし、ラグーンは汗を滴らせ、満身の力を長刀に注いでいる。
 筋肉が膨れ上がり、腕は普段の倍ほどの太さになっているように見えた。
 そして、その時が来た。
 鋭い音とともに、長刀が中央から折れ跳んでしまったのだ。
「くっ……」
 ラグーンは悪態一つつかず、周囲を見回した。他に梃子になるものを探しているのだ。
 その目の前に、エスカが、細かな装飾の施された銀製らしき杖を差し出す。
「すまん」
 さすがに表情を固くしているエスカを安心させるように、少し笑みを浮かべ、ラグーンがそれを手に取った。
 作業を再開するラグーンの両腕に、エスカも両手を添え、共に力を込める。女にしては大柄なエスカだが、ラグーンと比べると、その腕はひどく華奢に見えた。
「ねえ、ラグーン」
 荒い息の合間に、エスカは、囁くようにラグーンに声をかけた。
 草原の部族の言葉である。ラグーンが久しぶりに聞く、故郷の言葉だった。
「あたし、あなたの言うことを信じたくなってきたわ」
「何をだ?」
 ラグーンのいらえも、また故郷の言葉である。
「あなたと、父さんのことよ」
 しばし無言であった後、ラグーンはやはり草原の言葉で言った。
「今は判断しない方がいい。助かってからにするんだな」
「助かってから?」
 目を丸くし、童女の顔に戻ったエスカに、またかすかに笑いかけながら、ラグーンは確信に満ちた声で言った。
「お前は、助かる」
 その時、頭上のきしむような金属音が、ひときわ大きく響いた。
 そして、これまで心をすり減らすかのように鳴り響いていたあらゆる音が、不意に止む。
 天井の降下が止まっていた。
「……故障か?」
 壁を両手でまさぐっていたレンが、僅かに期待のこもった声で言う。
「いや……」
 ラグーンが、緊張にこわばった顔で周囲を見回した。また別の音が、もはや這い進むことしかできなくなった宝物庫の空気を震わせている。
 それは、虫の羽音のような、わずかな唸りだった。
 壁も、天井も、そして床も、その音に呼応するかのように、びりびりと震動している。床に散らばった硬貨や宝石がふれあい、かたかたと音を立てた。
 唸りと震動は、まるで競い合うかのように、次第に大きくなってゆく。
 知らず知らずのうちに、エスカは、ラグーンの腕を掴んでいた。しかし、ラグーンはそれに全く気が付かない。
 唸りはいつしか遠雷のような低い轟きに変わり――
 迷宮が、鳴動した。



 ファールの意識が戻ったのは、さらにその少し前であった。
 静寂と、淡い光の中での覚醒だった。強く打ったせいか、頭がひどく重く感じる。
 ファールは朦朧とした意識のまま、左側を下にして横向きになっている体を起こそうとして、その身をひねった。
「でっ……!」
 全身に、激しい痛みが走った。体は、ほとんど動かない。
「あ……」
 混乱していた感覚が、次第に戻ってくる。それとともに、自分の今の状況が、次第に把握できてきた。
 見ると、天井から崩れてきた土砂が、下半身を覆っていた。その上、右脚が大きな岩に挟まれてしまったらしく、まったく動かすことができない。
 ファールは体に負担をかけないように、今度はゆっくりと上体を起こした。体中のあちこちに打撲傷があるらしく、動かすたびに痛む。
 土砂はどうにか払い除けることができたが、やはり右脚は動かない。押さえつけている岩が大きすぎて、一人では動かせないのだ。
 岩に挟まれた際に右足首をひどく捻挫してしまったらしく、ひときわ痛みが激しい。
 しかし、少し場所がずれれば、骨折したり、足自体が押し潰されていた可能性もあったわけで、その点は幸運だったといえるかもしれなかった。無論、このままここを動けなければ結果は同じではあるが。
 体の状態を一通り見た後、ファールは装備をチェックした。
 革鎧や武器などは無事だが、ザックに入れていた食料などは、軒並み潰れてしまっている。傍らに転がっていたランプも、めちゃめちゃに砕けてしまっていた。
(ありゃ? ランプが無いってことは……)
 ファールは顔をあげ、この塞がれた通路を照らす光源を探した。よく見れば、この光はランプや松明のものではない。柔らかく青白い、どこか冷たいような光だ。
 光源は、すぐ目の前にあった。
 いや、いたと言うべきか。
 さっきまでは視界のどこにもいなかったはずの人影が、ファールの正面、崩れた天井の瓦礫の上に立っている。手を伸ばせば触れることができそうな距離だ。なのに今まで、ファールはその気配に気付きさえしなかった。
「ティティス……」
 確かに、それはティティスの姿だった。
 ティティスが、一糸まとわぬ姿で、そこに立っていたのだ。その体が青白い光を放ち、この場所を照らしているのである。
 白い肌と、細い金色の髪、翡翠のように美しく空ろな緑色の瞳。
「ティティス……どうしたの、こんなとこで?」
 ファールは、微妙な違和感を覚えながら、目の前の無表情な少女に話しかけた。
「そんなカッコで、寒くない?」
 ひどく間抜けなことを訊いてしまう。しかしその時のファールは、実際のところ、裸体に対してこの年頃の少年が当然示すであろう反応を、どうしても示すことができなかった。うろたえたり、頭に血を昇らせたりするには、ティティスのその細い肢体は、あまりにも可憐すぎたのである。
「ファールくん……」
 ティティスが、ファールの問いを無視する形で、語りかける。
「あたしは、あなたの知ってるティティスじゃないの」
「え?」
「これまで、あなたの力を引き出して、ここまで導いてきたけど、もうすぐ、それもおしまい……」
「な、何言ってんのさ、ティティス!」
「あたし、もうすぐ、消えるの……」
 そう言いながら、ふとティティスは目を閉ざした。
「あ……」
 ファールは、思わず声をあげた。
 まるで、自らの言葉を証明するかのように、ティティスの姿が一瞬だけ透けて見えたのだ。
「ファールくん……」
 再び、ティティスは目を開く。その体は、一応また実体を取り戻したかのようだが、まるで幻のように頼りなかった。
「誓える?」
「な……何を、だよ?」
「何があっても、もう一人のあたし……ううん、ティティスのことを、助けるって」
「…………」
「どう?」
「……誓うよ」
 ファールは、自分が何を言っているのかほとんど意識しないまま、言った。言いながら、思わず立ち上がろうとして、自由にならない右脚のために無様に尻餅をつきながら、さらに続ける。
「助けるよ! 当然だろ! そのためにここまで来たんだから……!」
 そんなファールに、ティティスは、ふと笑いかけた。今までファールが見たことのないような、優しい笑みである。
 それは、言うなれば大人の女の微笑みだったのだが、今のファールにはそのようなことが分かるわけもなかった。
「そう……じゃあ、助けてあげる」
 笑みを浮かべたまま、ティティスの姿が少しずつ透明になっていく。
「ティティス!」
 ふうっ、と、あとに何の痕跡も残さず、春の雪のように、ティティスは消えた。
 その後を追うように、青白い光の方も、次第に弱々しくなっていく。
「ティティスっ!」
 ファールの声は、悲鳴に近い。しかし、それは迫り来る闇への恐怖によるものでは、けしてなかった。
 まるで、消えてしまったティティスを追おうとするかのように、必死になって岩の隙間から右脚を抜こうとする。そのたびに、傷めた足を凄まじい激痛が襲うが、まったく気にはならなかった。
 突然、ファールの足が自由になる。
「うわっ?」
 勢い余ったファールは、背中から転がってしまった。まだ満足に動かない右足をかばって、ようやく立ち上がる。
 ファールは目を見張った。
 今まで自分の脚を押さえていた岩が、宙に浮いているのだ。ファールの体の五倍はあろうかという、巨大な岩が、である。
 浮いているのは、その岩だけではなかった。
 岩も、瓦礫も、小石も、迷宮のありとあらゆるものが、宙に浮いている。
 通路全体が、びりびりと震えていた。
 遠雷のような重い音が、ファールの腹に響いている。
「な、何が、起こってるんだ……?」
 ファールは、周囲を見回した。そうして見る間に、天井にも、床にも、壁にも、迷宮全体に次々と亀裂が走る。
 そして――
 凄まじい大音響が、ファールの耳を叩いた。
 岩が砕け、ぶつかり合う音である。
 今、聖地の迷宮を構成するあらゆる岩が、大地の束縛から解放され、月に導かれるまま宙に浮上したのであった。



 岩塊が、次々と天に落下するかのように浮上していく。
 それは信じられないような光景であった。
 聖地の窪地が大きくえぐられ、そこにあった土砂や岩石、周囲の石柱、はては岩山までが、天頂にある月を目指すかのように浮かんでいるのである。
 新たに大地が裂け、宙に浮き始めるたびに、何かの爆発にも似た音が響き、一帯はまるで雷雲のただ中にあるかのようである。
 岩塊は空中で互いにぶつかり合い、そのたびに砕け、上にいるワー・ウルフ達を振り落としていく。
 どういうわけか、この作用は聖地の大地そのものにしか効果がないらしかった。今まで自分の踏んでいた地面を失ったワー・ウルフ達は、そのほとんどが落下し、浮上してくる岩に激突しているのである。
 その姿は、遠くから見ると、まるで生あるもののようには思えず、あたかも虫の死骸か何かのように呆気なかった。
 そのような中、マグスは巧みにバランスを取りながら、黒曜石の祭壇のある岩塊の上に立っていた。冷たく強い風に、青いローブが激しくはためいている。
 中央に位置していたためか、それとも地盤がしっかりしていたのか、マグスの立つ岩塊は、周囲の宙に舞う岩よりはるかに大きく、未だ、館一つほどの大きさを保っていた。
 その岩塊の上にも、時々ワー・ウルフが落下してくる。上方の岩から落ちてきたものだ。
 いかに、銀でない武器では傷は負わないとは言え、落下の衝撃によって体内が一瞬にして破壊されるためか、無事には済まない様子だ。さすがに不死の肉体だけあって、死んでしまうようなことはないが、その動きは痙攣と呼ぶのがふさわしいものとなり、いつしか足を滑らせて、さらに下方へ落下してしまう。
 マグスの正面、祭壇の上には、依然として、ティティスが眠っている。
「これは、この〈月の娘〉の仕業か……?」
 そのティティスの顔を眺めながら、あくまで無表情な顔で、マグスは呟く。
「いや、そうではないな。では、“先代”の亡霊のなしたことか」
 言いながら、冷静に周囲の様子を確認する。大地に刻まれた儀式のための魔法陣はまだ機能を失ってはいない。高度の相違を詠唱の中で微調整すれば、術の完成はさほど困難ではないはずだった。
 術に入る前に、さらに精霊の様子を探る。その位相は当然のことながら混乱を極め、精霊の流れは大いに乱れている。しかし、カリヴスによって肉体から追放された〈月の娘〉の霊は、どこにも感じられない。
「消滅と引き換えに、大地を月の力に委ねたか……」
 天空より海を動かす月の力――潮汐力。今、発現しているのは、それがさらに強力になったものだ。
 マグスの口が、嘲笑の形に歪む。確かに見た目は派手だが、それのみで自分の儀式を無効にできるような性質のものではない。
 マグスは、〈月霊剣〉アシュモダイを頭上に掲げた。
 黒い刀身から放射される闇の光が明滅し、その唸りはまるで歌声のように高くなっている。
 ろおおおおおおおおおおおおおぉ……。
 それは、歓喜の歌のようでもあり、また乙女の鳴咽のようでもあった。
 その剣の声に呼応させるかのように、マグスが呪文の詠唱を始める。
 時の流れを操る、失われた体系の呪文だ。
 この世界を創造し、そして万物の破壊を企て、自ら創星した十二宮の神々に幽閉された、宇宙神アブラクサスのカバラである。それは、時間の隠された秘密を示す、荘厳で美しいとさえ言える詠唱であった。
 祭壇の周囲に描かれた魔法陣に魔力が注ぎ込まれ、複雑な光の記号が次々と浮かび上がる。
 その光の記号は、宙で螺旋を描き、光の軌跡を顕しながら、いつしか何匹もの金色の光の蛇のような形をとっていた。
 蛇は、鎌首をもたげ、一斉に襲いかかるかのように、ティティスの体に殺到する。
 びくん、とティティスの体が震えた。
 〈月の神〉と同調する〈月の娘〉の存在を示すカバラに、マグスの唱えるカバラが割り込みをかけたのである。
 儀式の第一段階を終えたマグスは、剣を下ろし、後ろ向きのままそろそろと魔法陣を離れた。
 そのままゆっくりと振り返る。
 岩塊の端、今にも砕けてしまいそうな突端部分に、彼は立っていた。
 マグスの倍以上はありそうな、優美な白い狼。
 〈白狼王〉リカオニウスである。
 かつては、冒険者シモンと、ラーマンド男爵クルペオンとして会い、言葉を交わした二人であった。しかしその時は、相手が何者であるか、気付きさえしなかった。
 それは、以前とは別の顔であったからと言うより、互いの過ごしたあまりに長い時間に阻まれたためであったろう。
「背後から襲わなかったその判断力は、褒めておこうか」
 マグスが、十歩ほどの距離を無造作な歩調で縮めながら、言った。右手一本で〈月霊剣〉を構え、左手で法具のメダルを握っている。
「互いに、同じ過ちを繰り返すほど若くはない」
 獣の喉から発せられたとは思えないような綺麗な発音で、リカオニウスが応えた。クルペオン男爵として過ごしていた時と、ほぼ変わらぬ声である。
 彼が言っているのは、遥かな過去、建国の英雄エールと呼ばれていた最後の時のことだ。
 当時、エール・リカオニウスは、シモン・マグスの不死の儀式の魔法陣を〈月霊剣〉アシュモダイの魔力によって打ち砕いたのである。
 その際に溢れ出し、暴走した魔力は、リカオニウスによる〈月霊剣〉の支配を解き、マグスの精神に回復不能かと思われるほどの痛手を与えたのだ。
 結果として、偶然にも両者ともが、何百年にもわたって、圧倒的な狂気と、つかの間の理性の間をさ迷うこととなったのである。
「……この〈月霊剣〉無しで、自らを律することができるようになったとは、正直驚きだな」
 そう言いながら、マグスが歩を止める。
「だとすると、お主が何故ここに現われたのか、いささか疑問ではある。最早、お主には、これは必要ないものであろうに」
 あと少しでも踏み込めば、リカオニウスの攻撃圏内だ。そのことを知っての停止である。
「俺が、その剣を求めるのは、力を求めてではない」
「では、何故だ?」
「その剣だけが、俺の命を絶つことができる」
「…………」
「俺の、この呪わしい生をな」
 言い終わるやいなや、リカオニウスが風の速度で動いた。
 獣のものとも、人のものとも違う、それでいて美しいほど均整のとれた腕の先の鉤爪が、マグスの喉笛を狙う。
 しかし、それは空を切った。
 空を切ったそのままの姿勢で、リカオニウスの姿勢が固まっている。いや、制止させられたのだ。
 その純白の獣毛に覆われた体を、青黒い粘液を滴らせた十体近くの異形のもの達がつかまえていた。人の骨格に、汚泥で肉付けをしたらこうなるのではないかと思われるような、おぞましい姿のものである。
 それは、マグスが冥界から瞬間的に召喚し、実体を与えた死霊達だった。
「お主のごとき者が、無限の生の前に恐れを抱くのは分からんではないが……」
 死霊達を制御するため、法具のメダルを高々と捧げながら、マグスは剣をリカオニウスに向け、言う。
「お主と心中するつもりは、私には無い」
「無限の生に恐怖を抱かんとは、つまり、貴様はこれまで生きてはいなかったのだろうよ!」
 リカオニウスは、異界の力でねじ伏せられながらも、吠えるように言った。
「生きているように見せかけているだけでな!」
「……生きることに、真も偽もなかろう。ただ、現象としての生体活動があるのみ」
 そう言いながら、マグスは、〈月霊剣〉の黒い刃を、リカオニウスの首に当てた。
 そして、一気に喉を刺し貫こうとした時――
 ごがっ!
 という音とともに大きく地面が揺れた。
 ひときわ大きな岩が、祭壇のある岩塊にこするように激突したのだ。それは、二人の立つ場所のすぐ近くであった。
 足元が大きく傾き、削り取られた石が容赦なく二人の顔を叩く。
 しかし、ただそれだけであったなら、マグスの動きを止めるには充分でなかっただろう。
「シモンさんっ!」
 そう叫びながら、ファールが、ぶつかったその岩から跳び移ってきたのだ。
 きっかけはその呼びかけであった。
 マグスが左手に持っていたメダルの中央の宝石が、ひときわ赤く光る。
「ぬううっ!」
 その光は紅蓮の炎となり、マグスの左手を灼き、精神の集中を致命的に乱した。
 それと同時に、死霊はそのかりそめの肉体を青黒い霧のように分解させ、冥界へと帰っていく。
 リカオニウスの体が、解放された。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 黒い刃によって半ば喉を裂かれるのも構わず、大きく踏み込んで、その強力な顎で〈月霊剣〉を握る右の拳を捕らえ、一気に噛み砕く。
「ぐあっ!」
 その時には、リカオニウスの両腕は、がっしりとマグスの体を抱き締めていた。
 抱き締めた姿勢のまま、わずかに右腕を動かし、口にくわえた〈月霊剣〉を掴む。
 そして、その禍々しい黒い刀身で、腕の中のマグスの背中を、深々と貫いた。
「ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいぃっ!」
 マグスが体を弓なりにし、怪鳥のような悲鳴をあげた。
 拳を失った右手と、炎に包まれた左手で、狂ったようにリカオニウスの顔を叩く。
 無論、そのようなことでリカオニウスの力が緩まるはずがない。
 リカオニウスは、マグスの喉笛にその鋭い牙を立てた。
 がっ、がっ、と空気を貪るように、マグスの口が動く。
 あるいは、呪文を唱えようとしているのかもしれないが、漏れ出るのは血と唾液ばかりだ。
 次第にマグスの動きが緩慢なものになってゆく。
 それでも、十分以上の間、マグスが生きていたのは、魔法の力によるものであったのか。
 左手を焼き焦がした火は、マグスの青いローブに燃え移っていた。
 上空を吹く強い風にあおられ、火は見る見る大きくなっていく。
 炎に包まれながら、リカオニウスはがっくりと両膝を突いた。それでも、愛しい恋人を抱き締めているかのように、マグスを離そうとはしない。
 その背中には、マグスとともに自らの体を貫いた〈月霊剣〉の漆黒の刃が、わずかにのぞいている。
 メダルが、乾いた音とともに地面に落ちた。



 ファールは、茫然とそこに立ち尽くしている。
 言葉も無かった。
 あの凄まじい異変の中、立っていた地面ごと空中に放り出された後、ファールは何度も死を覚悟した。覚悟しながらも、けして諦めずに、自らが生き残るべく最善の努力をしたのだ。これは、冒険者にとってはけして矛盾する態度ではない。冷静な心が、最後には活路を見出すのだ。
 そのことはシモンに教わった。
 痛む足を酷使し、空中に浮かぶ岩から岩へと、より安全と思われる場所に飛び移った。
 すぐ足元で岩が二つに割れることもあった。岩肌にしがみつき、滑り落ちた時には、全身が傷だらけになった。落下するワー・ウルフの体が肩にぶつかり、ともに夜空に投げ出されそうにもなった。
 どうにか、そう簡単には砕け散りそうもない岩に乗り移り、強い風に飛ばされないように全身でしがみついた時には、地表が見えなくなっていた。暗い空中で、月明かりに照らされる宙に浮かんだ岩だけが、世界の全てであるように見えたものだ。
 もしかして、天の下の大地そのものが全て砕け散ったのではないかと思いながらも、ファールは必死で岩にしがみついていた。
 そしてようやく、長く別れたままになっていた大切な仲間に再会したと思ったのである。
 しかしシモンは、目の前で巨大な白いワー・ウルフに襲われ、奇怪な剣で背を刺し貫かれた上、炎に包まれて死んでしまった。
 自分が声をかけたせいか、と考えることができるまで、ファールの理性は戻っていない。
 ただ、訳も分からないうちに、仲間であり、師匠でもあった陽気で皮肉屋の青年を失ってしまったという、巨大な喪失感があった。
 ぐらり、ファールの体がよろめく。
 それは地面が傾いているせいばかりではなかった。
 涙も、声さえも出でない。
「あのですねー」
 その時、今まさに失ったと思われた男の、場違いなほど緊張感に欠けた声を、ファールの耳は捉えていた。
「え……?」
 ゆっくりと立ち上がり、きょろきょろと辺りを見回す。
「このままだと、僕、落っこちちゃうんだけど……」
 ファールは、未だ燃えくすぶっている死体の傍らに駆け寄り、首を巡らせて、そしてようやく足元に声の主を見つけた。
 それは、マグスが取り落とした、赤い宝石をあしらったあのメダルであった。
「シ、シモン、さん?」
「やっと気がついてくれましたかぁ」
「って、一体どういうことだよお!」
「どうもこうも、実は今現在、こちらが僕の実体んなんですねえ。そこで、僕の魔法を受けて焦げちゃったのは、僕の創造者にして支配者だった人なんですけど……ま、このほど、やっと反抗の機会にありついた次第で」
「んなこと言ったって、何が何やら……」
 ファールはあまりことに絶句した。しかし、目の前のメダルから聞こえている声が、まぎれもなくあのシモンのものであることも事実なのだ。
「詳しい説明は後回しにしましょ。それより、彼女を助けないと」
「あ……ティ、ティティス!」
 未だ光り続けている魔法陣の中央、黒曜石の祭壇の上のティティスに、ファールはようやく気が付いた。まるでその体を弄んでいるかのように、光の蛇が幾重にも巻きついている。
 ファールは、猛然と地を蹴った。
「あ、ちょ、ちょっと!」
 メダルから発せられる警告の声を無視して、一直線にティティスを閉じ込める魔法陣に突っ込む。
「うわあああっ!」
 鞭を鳴らすような鋭い音とともに、ファールが大きく後方に飛ばされた。
 光の蛇が衝撃波の塊となって、儀式を妨害する侵入者を排除したのである。
 転がったファールの革鎧は真っ二つに裂け、その下の胸元にも浅くない傷が刻まれている。もし鎧が無ければ、傷は肺や心臓にまで達していたはずだ。
「あででででで……」
「落ち着いて落ち着いてぇ」
 メダルの声は、苦笑しているようだった。
「あの魔法陣は、僕の焦げた師匠が念入りに作り上げた、半ば意志を持った魔力のカタマリなんですから。素人がただ突っ込むだけなんて論外ですよぉ」
「じゃ、どうすりゃいいんだよお!」
「まずは、僕と、あとこの黒焦げに刺さったままの剣を取ってください。熱いと思うけど、ことは一刻を争いますんで」
 とてもそうは思えないほどのんびりとした声に導かれるまま、ファールは、メダルを首から下げ、剣を手にした。むっと、肉の焦げた悪臭が顔を叩く。
 剣の柄は火に焼かれ、革の手袋ごしでも火傷するほどだったが、ファールは歯を食い縛ってそれに耐えた。
 死体から引き抜くと、奇怪なことに、剣はすぐにその温度を下げ、氷のように冷たくなる。
 ファールは、自分の手の中でこの〈月霊剣〉と呼ばれる物が、まるで生き物のように脈打ち、震えているのを感じた。
「上出来です……。さあて、これからが問題です。君の手にしている剣は、魔剣といって、所有者の資格を試すという厄介なシロモノで……」
 ファールは、最後まで聞かずに、再び魔法陣に駆け寄った。
 光の蛇が一斉に垂直に立ち上がる。
 ティティスを閉じ込めるそれは、まるで、金色に輝く檻のように見えた。
「あー、ちょっとちょっとちょっとちょっとお!」
 ファールは、シモンの声による制止に耳も貸さず、闇雲に〈月霊剣〉アシュモダイを、光の格子に叩き付けた。



 かつて短い間、かりそめにある名前で呼ばれていたその少女は、心地よいまどろみの中にあった。
 自分の全存在が、何か巨大で美しいものと響きあっている。
 その事実の前には、ちっぽけな苦悩はおろか、自分自身さえ、何の意味も持たないように感じられた。
 意識が溶け、浮遊し、その大いなる存在に還元される感覚。
 〈月の神〉の、静かで、優しく、柔らかな光が、周囲に満ちている。その光の緩やかな渦の中に、自らが一滴の光の滴となって、帰っていくようであった。
 目に見える風景ではない。
 魂がそれ自体で感じている、そういう状態である。その魂自体、ゆっくりと透明感を増していき、蒸発し、拡散しつつある。
(あぁ……)
 自分が消滅すれば、自分自身が何者かなどという悩みは、一片の重みも無くなるということに、名前の無いその少女の希薄な自我は、歓喜の声をあげていた。
 つい先ほどまで、〈月の神〉の光と一体化する自分に、何者かがまとわりついているようであったが、それも気にならなくなっている。
 完全なる解放が、すぐ目の前にあった。
 だが――突然、それを、激烈な苦痛が中断させた。
「!」
 声にならない悲鳴が、忘れていた身体の感覚を呼び戻す。
 五感が戻り、現実の風景が否応も無く体に侵入してきた。
 見覚えのある少年が、禍々しい黒い剣を振るいながら、何匹もの金色の光の蛇と格闘している。
 その少年の痛みが、自分の心に届いたのだ。
 少年は傷だらけで、血をしぶかせながら戦っている。しかし、彼女の感じた苦痛は、その傷によるものではなかった。魂が削り取られるような、内なる痛みである。
 それは、魔剣のもたらす試練であった。
 魔剣は、その所有者に、自らが切り付けたその対象のあらゆる苦痛を伝達する。所有者は、魔剣が相手にもたらす痛み、恐怖、怒り、憎悪、それらの全てを受け止めることができなくては、魔剣を握る資格を認められないのだ。
 少年の魂は、魔法陣の繰り出す光の蛇の、そのあまりに異質な魂の苦痛にさらされていた。
 冷たく、無機質で、常の意味の生き物とは全く異なる痛み。
 それが、少年と魂の絆を結ぶ少女の心に、否応もなく届いたのだ。
 それとともに、忘れていたはずの苦悩が、泡のようにぶくぶくと浮上してくる。
「や……」
 少女は、我知らず声を上げていた。
 今や、少女と少年を隔てる光の蛇は、そのほとんどが消滅させられている。神の手によらずして創造されたその不安定な命を、魔剣によって絶たれたのだ。
 そして、それだけの苦痛が、痛みを忘れたはずの少女の魂に刻まれたのである。
 黒曜石の祭壇の上で上体を起こした少女は、肩を抱き、その苦しみに細かく震えていた。
「さ、早く!」
 少年が、手を差し伸べる
「いやああぁっ!」
 少女は、ほとんど無意識にその手を払いのけた。
 ぽかん、と少年が呆けたように立ちすくむ。
 その時、わずかに残っていた光の蛇が、その総力をあげて少年に襲いかかった。
 蛇が、その身を輝く槍と変えて、容赦なく少年の小さな体を次々と刺し貫く。
 熱い血が、少女の顔を叩いた。
「あ……」
 思わず顔を上げた彼女の目に映る少年の表情は、茫然としたままだ。
 何が生じたのか分からない状態のまま、少年が、少女の顔を見ている。
 自らの血が、彼の足を滑らせた。
 半ば倒れ、その体を貫く光の蛇に支えられるようにしながら、血まみれの手を、それでも差し伸べてくる。
 おびえ、身を引く少女は、少年の切れ切れの声を聞いた。
 喘ぎと血にまみれた、ほとんど聞き取れないような声。
「……ティティス」
 魔剣が、力を失った少年の右手から、まるで生き物が逃れるかのように地に滑り落ちた。
 糸の切れた操り人形のように、その細い首に支えられた頭が落ちる。
 差し出されていた左手も、同様に――



 そこに、苦痛があった。
 目を瞑り耳を塞ぎながら、甘い夢にまどろむ弱さがあった。
 暗く深い絶望と、冷たく凍えた諦念があった。
 熱い血液を感じる肌があり、贖うべき罪がそこに生まれた。
 救い、導き、そして言葉を交わす相手が、目の前にいる。
 少年の瞳に映る姿があり、少年の声が呼ぶ名前があった。
 ばらばらに砕かれ、拡散し、還元された幾千のピースが、再び集っていく。
 錯覚から、解き放たれる。
 何も失っていない。
 何も変わっていない。
 何も終わってなどいない。
 私は、ここに、いる。
 成すべきことを、あらかじめ定められていたことのよように、明晰に理解する。
 だから、少女は――
 ティティスは、少年の名を叫んでいた。



「ファールくんっ!」
 叫びとともに、ティティスを中心に、強い光が周囲に広がる。
 光は、魔法陣もろともに金色の蛇を消滅させ、まるで月が地上に降りてきたかのように辺りを照らした。
 はるか下の地表にまで届く、白い光だ。
 それは、まるでもう一つの月がその場に現れたかのよう。
 その月光の中、倒れかかる血まみれのファールを、ティティスが抱き止める。
 そして――



 ラグーンとエスカは、ほとんど無表情に、かつて聖地と呼ばれていた場所を眺めていた。
 聖地からかなり離れた、森に近い岩山のふもとである。
 その傍らでは、レンが腕を枕にして横になっている。
 聖地の、空中に浮かんでいた岩石が、落下している。
 かなりの大音響のはずなのだが、これまであのただ中にいた三人の耳は一時的に聾してしまい、ほとんど聞こえない状態だ。
 ただ、大量の土砂と土煙が天を支える巨大な柱のように舞い上がり、風向きによってはこちらにまで届いてくる。
 つい先ほどまで聖地をまばゆいばかりに照らしていた謎の光も、消えてしまっていた。
 あそこから脱出できたのは、まさに奇跡であった。
 思えば、どうにか硬い大地に足を踏み下ろしたのは、岩が落下を始める寸前のことだった。
 それまで三人は、岩から岩へと跳び移りながら、聖地の外を目指したのだ。
 まともな地面に到達してからは、後ろを振り返る余裕も無く、走りに走った。いくつもの落下してくる石が体をかすめ、全身に打撲を負ったが、痛みを感じることもなく、ただただ圧倒的な崩壊を背に感じながら逃げ続けたのである。
 今、無事にあの中から抜け出すことが出来た以上、宝物庫は聖地の迷宮のかなり端にあったのだろうと、レンはぼんやりと考えている。しかし、もはや何の意味もなさなくなった手元の地図で、それを確かめる気にはなれなかった。
 もう、終わったのだ。
 仲間は本名を告げることなく死に絶え、侵入した迷宮は消滅し、怪物どもは埋葬されて、財宝は地下深くに封印された。残ったものは、あわててポケットに仕舞い込んだいくつかの宝石と、数枚の金貨だけである。
 何も理解しないうちに、全てが終わってしまった。そんな、遊びから取り残された子供のようなやるせなさが、レンの心に忍び入っている。
 今まで感じたことも無いような、奇妙な気分だ。
(まあ……目の前であれだけでかいことがあって、その事情も何も知らんってのは、気分いいもんじゃねえわな)
 満月は、大きく西の空に傾いている。
 夜明け前の深い群青が、次第に空を染めていた。
 容赦無い朝の気配の中、光の弱い星々が次第に姿を消していく。
 その空に、ちょっとした異変が起こったのを最初に発見したのは、レンであった。
 星が、現われたのだ。
 いや、星ではない。かすかに光る小さな球体が、ゆっくりと聖地上空の方角から、こちらに舞い下りてくるのである。
 レンが指摘する前にエスカがそれに気付き、最後にそれに目を向けたのはラグーンであった。
 ラグーンが、驚きの声をあげる。
 幼い二人の仲間が、その光の球体の中にいるのを、草原育ちのラグーンの目はしっかりと捕らえたのだ。



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