白 狼 伝



第五章



 ファールは、朦朧とした意識のまま、自らの骨のたてる音を聞いていた。
 かすかではあるが、重く、無気味な音である。強い力で、石に石を押しつければ、こういう音がするだろうか。
 骨自体がねじれ、変形し、歪み、膨張して、間に挟まった関節を押し潰しそうになっている。
 潰された関節は熱をもち、その熱が全身を包んでいた。それなのに、体の芯はひどく冷たい。滝のような汗を流しながら、歯が鳴るのを止めることができないのだ。その上、全身を包む熱には圧力があり、胸を押さえ、息をするのを邪魔している。
 しかしファールは苦痛を感じてはいなかった。
 ただ、これは報いなのだと、そう思っている。
 父親を、村の人々を見殺しにした報いだ。自分は今、あのとき体を包むはずだった炎にあぶられているのだ。
 体を覆う熱は脳髄を溶かすようで、意識が定かな形を保てない。ファールは、まるでそれを救いのように感じ、受け入れかけていた。
 ただ、その溶けかかった心の中に、何かひっかかるものがある。
 白い光だ。
 今、自分がいるこの闇を照らす、一筋の静謐な光。欠けた月。そして、緑色の瞳……。
 ファールは、その光を手放すでもなく、捕まえるでもなく、中途半端な状態のまま、自らが熱に焼かれるに任せていた。



 翌朝。
 鉛色の雲が、低く垂れ込める朝である。
 ラグーン達は、廃村の外れにある水車小屋の残骸の中で夜を明かした。小屋全体が朽ちており、傾いているような建物だ。とても快適な場所とは言えない。ただ、ワー・ウルフの死体のある広場から一番離れているという理由で選んだのだ。それほどの、血の匂いだったのである。
 明かり取りのための小さな窓と、そして丸太の隙間から漏れてくる日の光が、ひどく弱々しい。
 それでも、朝であった。太陽の支配する時間である。ラグーンは思わず大きく息を吐いた。
 その視線の先に、ファールが横たわっている。
 ファールの様子は、やや落ち着いたように見えた。未だに熱は高いが、荒かった呼吸は静まっており、表情も穏やかだ。
「どう、ですか……?」
 朝の光に目を覚ましたティティスが、毛布にくるまったまま、ラグーンに訊いた。目を、赤く泣きはらしている。
「峠は越したようだ。だが、ワー・ウルフの呪いを受けたのは確かだな。手遅れになる前に、呪いを解いてもらう必要がある」
「手遅れ……」
 ティティスは、思わず体を震わせた。
 ワー・ウルフの呪いは人に熱病をもたらす。ただしこの熱病は、呪いの本質ではない。むしろ熱は、呪いの犠牲者の体が、ワー・ウルフのそれへと大きく変質しつつあることの現われなのだ。
 すなわち、ここで言う手遅れとは、ファールが完全にワー・ウルフに成り果ててしまうことである。
「ラーマンドの村などに、このファールを治せる法術師がいるかどうかは、分からない。だが、何にせよ、こいつが動かせるようになったら、村に戻らなくてはならない。仕事を、途中で投げ出すことになるな。違約金は払おう」
「……いいです、お金なんて」
「まあ、今のところは、見ての通り落ち着いてる。……エスカが解熱の薬草を持っていたので、助かった」
 言いながら、ラグーンは小屋の隅でまだ毛布にくるまって眠っているエスカに視線を向けた。彼女とラグーンは、一晩中、交代で見張りを勤めているのである。
「エスカさん……」
 ティティスも、複雑な顔で、エスカの寝顔を眺めた。
 ラグーンからは、エスカのことを、故郷の知人であるとしか紹介されていない。また、エスカ自身も自らについては何も語ろうとしなかった。しかし、二人の間に何か尋常でない関係があったということは、ティティスにも分かった。
 そのエスカが、ダイロンとともに森から現われた。ティティスには、この二人の間に何があったのかも、よく分かっていない。森の中で偶然会ったと聞かされているだけである。
「そう言えば、ダイロンさんは?」
「彼なら広場だ。ずいぶんと前から、ワー・ウルフ達の埋葬をしている」
「そうですか……。すいません、あたし、そっちを手伝ってきます」
 ティティスはそう言うと、水車小屋の外れかけた扉に手をかけた。
「ティティス」
 ラグーンが、低く落ち着いた声で呼びかける。
「え?」
「……ファールのことなら、責任を感じることはないぞ。俺達は、冒険者だからな」
 その言葉を聞いたティティスは、一瞬だけ泣きそうな顔をして、逃げるように小屋から出ていってしまった。



(責任……なんかじゃない……多分……)
 とぼとぼと廃村の中を歩きながら、ティティスは、そんなことを考えていた。
 確かに、ファールはティティスを助けるために傷つき、ワー・ウルフの呪いを受けてしまった。その上、自分の法術は、原因不明の不調のために、そのファールを助けることができない。
 しかし、自分の今感じてるこれは、責任感などではない。ティティスには、そのことは痛いほどよく分かっていた。
(なんでだろう? すごく、ファールくんのことが心配で……苦しいくらい)
 これまで自分を育ててくれた〈月の民〉より、わずか一週間をともにしただけの冒険者の方が、より気にかかっている。
 そんな矛盾に気付く前に、ティティスは広場に出ていた。朝の光の中で見るその広場は、意外なほど小さい。
 その広場の端で、ダイロンが、そこいらに落ちていたとおぼしき壊れかけの農具で、黙々と穴を埋め戻していた。死体はもはや見えない。ダイロンはあらかた作業を終えてしまったようであった。
 ダイロンのひどく無表情な顔の中で、目だけがぎらぎらと赤く充血している。
 不意に、ダイロンはその赤い目をティティスに向けた。
「あ、あの……ダイロンさん……」
「ティティスか」
 ふっ、とダイロンは表情を緩ませた。しかし、頬はこけ、灰色の髪はぼさぼさで、ひどく疲れきっているように見える。
「ダイロンさん……。あの、みんなは……?」
「やられた」
 ぽつりと、ダイロンは抑揚を欠く声で答えた。
「やられたよ。どれだけ生き残っているかも分からない……」
 そう言いながら、ダイロンは農具を無造作に投げ出し、地べたに直接腰を下ろした。ティティスも、それにつられるようにしゃがみこむ。
「連中は、一度に襲ってきた。まるで訓練された兵隊のようにな。俺達には、どうすることもできなかった。いや……俺は、仲間を捨てて逃げてしまった」
 ダイロンが、その顔に自嘲じみた笑み浮かべる。
「儀式は中止だな。どの道、意味をもたなくなった」
「そんな!」
「あの冒険者の子供は、連中に呪いを受けた」
 ティティスの悲鳴に近い声を無視する形で、ダイロンは全く関係無いことを言い出した。
「これはまるっきり他人事じゃない。だから、そんなに心配してるんだろう?」
「それは……そうだけど……」
「〈月の民〉は消え、連中は残り、俺は……俺はまあ、自分の身くらいどうにかするさ。負け犬としてな」
「ダイロンさん……」
「ティティスも、〈月の娘〉から解放される。そういうことさ」
「あたし……あたしは、〈月の娘〉よ。ずっと」
 そう言うティティスの声は、自信なさげに震えている。ダイロンは不審げに目を細めた。そして、何か訊こうとするように、口を開きかける。
 しかしダイロンは問いを発することはできなかった。
「連中というのは、ワー・ウルフのことか?」
 そう言いながら、廃屋の陰からラグーンが現われたのである。
「いや、立ち聞きしてしまったのは謝る。ただ、こちらとしても事情は聞いておきたくてな」
「あの、ファールくんは?」
「エスカを起こして任せてきた」
「……ラグーン、だったか?」
 ダイロンは、うろんげな視線をラグーンに向け、口を開いた。
「事情を聞くって言うが、どこからどこまでの事情だ?」
「話してもらえることは全て」
 ラグーンはダイロンに向き直り、全く物怖じしない態度で言い放った。言いながら、自らも手近な岩に腰を下ろす。
「何故?」
「仲間が行方不明だ」
「……そう言えば、確かに、あのよく喋る魔術師の姿が見えないな」
「ああ。仲間――シモンという名だが、奴はここでワー・ウルフと戦っていたらしい。しかし、俺がここに来た時には、ワー・ウルフの死体があるだけだった」
「…………」
「奴が、自分の考えでここを離れたのか、何者かに連れ去られたのか、はたまた、こことは別の場所で屍をさらしているのか、それは分からん。だが、ここでワー・ウルフと戦っていたことは確かだ。そして、ワー・ウルフが群れて行動するというのは、尋常な話ではない」
「それには、俺も驚いている」
「しかも、定かなことは言えないが、ワー・ウルフたちは仲間割れを起こした気配さえある」
「確かに、死体を見るとそんな感じだったな。だが、俺にだって連中の考えは分からんよ。考えなんてものがあるとしての話だがね」
「しかし俺などよりは事情に通じているはずだ。無論、〈月の民〉の抱えている事柄や、ワー・ウルフとの関わり合いが、シモンの失踪と関係あるかどうかは分からん。だが、これから奴を探す上で、知っておきたい」
「ふん……」
 ダイロンは、値踏みするような目でラグーンを見、そして、しばし目を閉じた。
「〈月の民〉も、今や、あるかないかも分からん」
 目をつむったまま、天を仰ぐようにして、つぶやく。
「滅びたのであれば、隠す意味もなく、他言を禁ずる意味もない」
「…………」
「だが、未だ俺は〈月の民〉だ。よそ者に教えるべきでないことを、今日から易々と話せるようにはなれない」
 ラグーンは無言である。それでも話せとは言わないし、それなら聞かない、とも言わない。
 ティティスも、その小さな歯で唇を噛むようにして、押し黙っていた。
「……だから、これから俺が言うことは独り言だ。お前の顔を見ながら、話をすることは、しない」
 そして、やや間を置いてから、ダイロンは語り始めた。



 ここエールスの地には、かつて、国を持たない狩人たちが、小さな集落に寄り添うようにして暮らしていた。
 彼らには指導者はいても支配者はおらず、分配はあっても搾取はなかった。国王や租税といった制度を成立させるには、森の自然は厳しく、そのような余剰を許さなかったのである。人々は、野獣の群れや、それよりもはるかに恐ろしい怪物どもから、自らの身を守るだけで精一杯だったのだ。
 彼らは、害をなす獣を抱く夜の闇を恐れ、闇の中の光である月を崇拝した。月は夜の支配者であり、闇を照らす神であった。しかし、月は一定の周期に従ってその身を細くし、その力を衰えさせる。彼らは、自らを〈月の民〉と称し、〈月の神〉の力が衰える時期に、自らの祈りを捧げて力を貸すことを誓い、その庇護を求めた。それに対し〈月の神〉は、契約の証として〈月霊剣〉アシュモダイを〈月の民〉に授けたのだとされている。
 そのような、暗く、おぼろげな伝説の時代の終わりに、北方からの侵入者があった。この大陸全土に版図を広げ、すでに退廃の時代にあった帝国の植民団である。
 侵入者たちは、硬い鋼鉄と農作の技術を有し、月ではなく黄道十二宮の神を崇め、強力な魔法を操る指導者に率いられていた。指導者の名はマグスといい、知略に富み、そして冷徹であった。
 帝国からの侵入者は〈月の民〉の土地であるはずの森を焼き、畑を拓き、麦をまいた。無論、〈月の民〉は侵入者を放逐すべく勇敢に戦い、両者に多くの死者を出した。
 ちょうどこのころ、帝国本国は内乱によって滅びに瀕していた。それがなければ、〈月の民〉は帝国が派遣する恐るべき宮廷魔道師の軍団によって、一人残らず殺し尽くされていただろう。
 しかし、それでも形勢は〈月の民〉に不利であった。彼らには、鋼の剣も、戦のための余分な糧食も無く、そして何よりも圧倒的に少数であったのだ。〈月の民〉は、滅びの危機に瀕したのである。
 ついに、〈月の民〉は、<月の神>との約定をたがえ、人であることをやめて、ワー・ウルフとなって反抗を行った。その先頭には、自ら〈白狼王〉を名乗る、リカオニウスなる者がいたという。
 ここまでは、エールスの建国伝説でも伝えるところである。
 無論、エールスにおいては、先住民である〈月の民〉は不当に貶められ、侵略者であるはずの自らの祖先たちは多分に美化されている。建国の伝説とはそういうものだ。
 そして、エールス王国と十二宮神殿が、後世に編纂したところのエールス正史においては、ここで建国の英雄エールが颯爽と姿を現し、〈白狼王〉リカオニウスとその一党を征伐し、エールス王国の基盤を築くことになる。



「しかし、〈月の民〉の伝承においては、ことはそう単純ではない」
 そう言って、ダイロンは話を続けた。



 まず、エールス建国伝説では、〈月の民〉が本性を現してワー・ウルフとなったとされている。しかし、実際はそうではない。〈月の民〉の中でもワー・ウルフとなったのはごく一部の者たちだけだったのである。
 彼らは、敢えて〈月の神〉の禁忌を冒し、その呪いを受けてワー・ウルフと化したのだという。
 しかしワー・ウルフとなることは〈月の民〉にとって諸刃の剣であった。いや、はっきりと悪であったと言える。ワー・ウルフと化した者たちは、すっかり理性を無くし、血に酔うままに、敵味方を問わず虐殺を行った。もはや彼らは〈月の民〉ではなく、人でさえなかったのである。
 そして皮肉なことに、ワー・ウルフという全く新しい脅威が出現したために、侵入者は〈月の民〉と和睦を結んだのであった。ワー・ウルフたちの力は強大で、それに対するには、人々は団結するしかなかったのである。そして、この両者を仲介したのが、エールス建国の英雄、エールその人だとされている。
 〈月の民〉は、秘宝である〈月霊剣〉アシュモダイを、エールという若者に預けた。
 このエールという若者が何者であるか、〈月の民〉の伝承は何も語っていない。実は、これはエールス正史においてもそうである。無論、エールス王国においては、祖先をこの地に導いたマグスなる指導者と同一人物か、もしくはその血縁であるという説が強い。しかし、帝国出身の放浪の貴公子だとする説もあれば、それこそ〈月の民〉の若者だという口伝も、当の〈月の民〉には残っている。
 とにかくエールは〈月霊剣〉アシュモダイの力によって〈白狼王〉リカオニウスを制し、ワー・ウルフの恐怖からこの地を解放した。そして、どこへともなく姿を消してしまったのである。
 一方、〈月の民〉は今にいたるまで、一族が冒した〈月の神〉の禁忌ゆえに、その血に呪いを受け継いでいる。不本意とは言えエールス建国に協力しながらも、そのことを忘れ去られ、さらに根強い差別を受けているのは、彼らが異なる神を信じているからだけではないのだ。〈月の民〉は、〈月の神〉の呪いゆえに、ふとしたきっかけによってワー・ウルフと化してしまうのである。
 〈月の民〉は〈月の神〉に許しを乞うべく、代々一人の特別な法術使いを戴いてきた。それが〈月の娘〉である。〈月の娘〉は、〈月の民〉にとっては月の使者であり、精神的な指導者であり、時にはそれ以上のものであった。
 〈月の娘〉は、呪われた血の流れる〈月の民〉であってはならなかった。結果、〈月の民〉は、血のつながらない乳児を引き取り、幼い頃から〈月の娘〉として教育を施すという習慣を確立したのである。



「……野蛮な時代には、人さらいのようなこともしたらしい。長老は、エールスの連中の作り話だと言っていたがね。まあ、俺は、そういうことがあってもおかしくないとは思っているよ」
 いつのまにか、ダイロンは顔を元に戻し、目蓋を開けていた。
「ただ、〈月の娘〉としての資質をそなえた娘というのは、ごくまれだった。俺達〈月の民〉が〈月の神〉の許しを得、呪われた血から解放されるためには、百年に一度の周期で現われるかどうかという〈完全なる満月〉と〈月の娘〉の、二つが必要だったわけだ。今年のこの巡礼が、その時のはずだったわけだが……」
 うつむき、両の拳をきつく握っているティティスを、痛ましそうに見ながら、ダイロンは口をつぐんだ。
「一つ、訊いていいか?」
 ラグーンが、そのダイロンの目を真っ直ぐ見ながら、口を開く。
「まあな。俺も、独り言の多い男だ」
「ワー・ウルフが群れで動いているということは、奴等が頭とするものがいるということではないかと思うのだが」
「……〈白狼王〉が復活した、ということか?」
「そういうことが、ありうるかどうかを、聞きたい」
 ダイロンは視線を反らした。反らした視線の先には、ワー・ウルフ達が葬られた真新しい地面がある。
「ありうる、だろうな」
 顔を横に向けたまま、ダイロンはつぶやくように言った。努めて平静を装っているが、声がかすれている。
 ダイロンは、そんな自分の声に眉をひそめ、舌で唇をしめらせてから再び口を開いた。
「まだ〈月の神〉の呪いは解けていない」



 数日が無為に過ぎた。
 半月からやや形を歪めた月が、珍しく雲間から姿を見せ、夜空の中天にかかろうとしていた。
 ティティスは水車小屋の中で、膝を抱え、ファールの枕元に座っていた。時々、その額に乗せた布を水に浸し、取り替えている。
 ファールの状態は、ほんのわずかずつではあるが、良くなってきている。とは言え、相変わらず熱は高く、意識も戻らないままだ。ただ、苦しんでいる様子がないことが、救いであった。
 ティティスが、さすがにうとうととしかけた時、外れかけた扉を開けて、今まで見張りを行っていたエスカが中に入ってきた。
「明日には、動かせる」
 何の前置きもなしに、エスカはそう言った。
「……ファールくんを、村に運ぶんですか?」
「馬が、逃げたまま、見つからない。ラグーンが、担いでくだろう」
「エスカさんも一緒に?」
「……ああ」
 無表情にエスカは答えたが、その声には、不自然に力が込められているように、ティティスには聞こえた。
「ティティスは、どうするつもりだ?」
 毛布を下半身に巻き付け、壁に背を預けながら、エスカが訊いた。その中原語はあいかわらず無愛想で、どれだけティティスに関心を払っているのか、今一つ判然としない。
 しかし、ティティスにとっては、そんなエスカの態度の方がありがたかった。むしろ、ダイロンやラグーンの、自分を心配そうに見る視線の方が、体に突き刺ささる鋭い針のように感じられる。
 ティティスは、しばらく考えた後に、素直な気持ちで言った。
「分かりません……」
「頼りないな」
 エスカが、感じた通りのことを、そのまま言葉にする。
「ええ、そうなんです。……あたし、最近、自分でも自分のことがすごく頼りなくって」
「確かに、そう見える」
「……エスカさんは、いいですね」
 淡く笑って、ティティスは言った。思わず口にした言葉のはずだが、ひどく実感のこもった言葉である。
「いい? 何が?」
 エスカは、例のきょとんとした幼い目で、ティティスの方を向いた。ここ数日、同性ということで油断しているのか、エスカの表情はティティスに対してかなり無防備である。
「何だか、すごく強そうで……。弓が強いとか、そういうことじゃなくて……えっと、それも関係あるんだろうけど……」
 ティティスのはっきりしない物言いを、エスカはひどく奇妙な顔で聞いていた。頭の中で、部族の言葉にうまく翻訳しきれない様子である。ティティスは、そんなエスカにかまわず続けた。
「あの……自分のことが、よく分かってる、そういう感じがします」
「そうか?」
 エスカは、豊かな胸の前で腕を組み、そのまま、ごろんと横になる。そして、しばらくそのままの姿勢でいたが、腕を解き、まるで男のように右腕を立てて枕にした。思案しているのか、それともただ眠いだけなのか、その目は半ば閉ざされている。
「自分のことなんか、分からないな」
 エスカは、放り出すような口調でそう言った。
「そんな……」
 ひどくなさけない声を、ティティスはあげる。
「自分のことは、分からない。人のことは、もっと、分からない」
 畳み掛けるように、エスカは続けた。
「分からなくても、特に、困らない。……困るのは、もっと、別の時だろ……」
 ティティスは、どきん、と自分の心臓が跳ねる音を聞いたような気がした。
 しかしエスカは、そんなティティスに気を使う様子もなく、目をしきりに閉じている。その声は、ひどく眠たげだ。
「…………」
 そして、エスカは草原語で何か言った後、そのまま寝息を立て始めた。
 ティティスは、そんなエスカの寝顔をしばらく見つめていた。が、不意に、何かを決心したように、扉を開けた。
 入り口の傍らに、ラグーンが長刀を抱えるようにして座っている。
「どうした?」
「ちょっと……」
 ティティスの曖昧な答えに、ラグーンはそれ以上の追及をしようとしない。
 ティティスは、廃村の傍らを流れる小川に沿って、川上の方へ歩いていった。かつては、ティティスたちが寝泊まりしている小屋の水車を動かしていたはずの小川である。
 水車小屋のすぐそばの、朽ちかけた小さな橋を渡ると、茂みの奥が小さな池になっている。どうやら、廃村の住人たちが貯水のために掘ったものらしい。
 黒ぐろとした水面に、月が映っている。
 ティティスは、池のほとりでしばらく佇んでいた。池に映る月に目を向けてはいるが、その緑色の瞳は、さらにその奥を見透かそうとしているかのようである。
 そして、ティティスはおもむろに衣服を脱ぎ、畳んで、池のほとりの岩の上に置いた。
 何も身に付けていない状態で、池に入る。
 冷たい。秋の、しかも夜の水である。わずかな抵抗を感じながら足を進める度に、まとわりつく水が、まるで刃物のように肌に痛みを与える。
 しかし、ティティスは無表情に池に体を浸していった。
 池の水は、一番深いところでも、ティティスの薄い胸くらいまでしかない。ティティスは、そんな池の中央当たりまで歩いていき、仰向けに自らの体を浮かせた。
 四肢の力を抜き、浮力に身を任せる。柔らかい金髪が、まるで細い水草のように水中で広がり、漂った。
 しばらく目を閉じ、そしてゆっくりと開く。
 池の上に茂っている木々の間に空があり、そしてその空の雲の間に、月があった。
 月の光が、森の全てを濡らすかのように降り注いでいる。
 ――月光浴。
 〈月の娘〉となるべき女子が、もっとも最初に行う修行の一つである。肌を月の光にさらし、光に乗ってこぼれおちる〈月の神〉のカバラを受け止める、そういう儀式だ。
 もう、何年もやっていない、初歩的な行だった。
 しかしティティスは、あえて心を空っぽにし、物心ついた頃にやった最初の月光浴の時のように、月に向き合っている。
 池の水に溶けた月の光まで、全身で吸収する、そういうイメージを、心に描く。
 ティティスの、ゆっくりとした呼吸に合わせ、水面に波紋が広がった。
 静寂に満ちた風景の中で、動くものといえば、それくらいのものである。
 どれほどの時間が、過ぎたのか――
(なに……?)
 はっと、ティティスはその緑色の目を見開いた。
(なに……これ……?)
 それは、すでに忘れかけていた感覚であった。
 月から自分へ、天の泉から地にある器に水が注がれるかのように、体内に力が満ちていく。
 自分でも驚きを覚えるほど、強く、清浄な力。
 我知らず、歓喜の声をあげそうになった。
 初めて〈月の神〉のカバラに触れた時のような、衝撃的な感動が、ティティスの体を充たしている。
 今まで自分はからっぽだった。だが、杯の大きさは変わっていなかったのだ……。
 そのことを理解するよりも先に、直観した。
(使える……)
 ティティスは、強く確信していた。
(今なら、ファールくんを助ける力を、使うことができる!)
 体を丸めて水に沈め、半回転するようにして、ティティスは水底に立った。もはや水の冷たさなど感じていないにもかかわらず、体が細かく震えている。
 岸に上がり、持ってきた布でもどかしげに体をぬぐった。
 そしてティティスが、衣服を身につけた時である。
 絶叫。
 獣じみた、と言うより、獣そのものの凄まじい声が、夜の空気を切り裂いたのだ。
 聞き間違えようが無い。ワー・ウルフの声である。
 そして、目の前の茂みから、人影が現われた。
「ティティス、無事か?」
 ダイロンだった。
「連中だ。この村は囲まれている。ここを離れるぞ!」
 そう言って、ティティスの返事も待たずに、その細い腕を掴む。
「ま、待って、ダイロンさん!」
「連中の狙いは、お前だ」
 ダイロンは、痣が残るほど強い力で、ティティスを引いた。倒れまいとするティティスの動きは、そのまま、ダイロンに手を引かれて走る形になってしまう。
「は……離してダイロンさん! ファールくんが……」
 ティティスの抗議を無視して、ダイロンは走り続けた。その顔は、真っ直ぐ前方を向いているために、引きずられるようにして後を走るティティスには見えない。
 ダイロンの進む先には、闇があった。
 森の木々によって作られた、悪意を秘めたかのような闇だ。
 枝に体をひっかかれ、根に足を取られながら、ティティスは必死でダイロンの力に逆らおうとする。しかし、ダイロンの手はティティスの手首に吸い付いたように緩まない。
 ぞくり、とティティスの背中に冷たいものが走った。
(ダイロンさんじゃない?)
 ティティスは、無理な姿勢から強引に魔法を唱えた。ついさっきの月光浴によって体内に満ちた力を、〈月の神〉のカバラに乗せて解き放つ。
 闇の中で、白い光が弾けた。
 『不可触』の呪文である。術者に害意を持つ存在は、術者に接触しているだけで、強力な衝撃に見舞われる。
 ダイロンは、さすがに手を離し、物も言わずに地面に倒れ込んだ。それによってバランスを崩したティティスも、地面に後ろから転がる。
 ティティスは、どうにか息を整えようとしながら、ゆっくりと起き上がった。ダイロンはうつぶせに倒れたまま、ぴくりとも動かない。
 ティティスは、さらに魔法の明かりを空中に出現させた。今まさに雲の間に隠れつつある月のそれにも似た光が、ダイロンを照らす。
 その男は、まぎれもなくダイロンであった。少なくとも、外見上、ダイロンと異なる点は見受けられない。
 ゆっくりと、男は体を起こした。
 その硬直した顔には、いかなる表情も浮かんでいない。
(ダイロンさんだけど……違う。ダイロンさんなのに、ダイロンさんじゃない……)
 ティティスは、激烈な恐怖に襲われた。ダイロンであってダイロンでない、目の前の男。
 幼い頃からよく知っている部族の仲間が変貌した――それ以上の恐怖を、ティティスは感じていた。
(あたしに、にてる……)
 なぜか突然そんな思いが心に湧き起こった。
 ティティスの小さな手は、いつでも法術を放てるように、複雑な印を結び、目の前にかざしている。
 今の自分には、ようやく取り戻した〈月の神〉の力がある。戦いになっても負けるようなことはないはずである。
 しかし、そんなこととは無関係の恐怖が、ティティスを支配しつつあった。
 ダイロンが、無造作に両手をティティスに伸ばしかける。
「あなた、誰なの……?」
 やっとの思いで、ティティスはそう言った。
 ふと、ダイロンの動きが止まる。
「やっぱり、ダイロンさんなの? 魅入られてるだけ?」
 ダイロンの体が、細かく震えだした。そして、相変わらず無表情な顔の中で、唇がかすかに痙攣している。
 まるで、全身のうち口だけが、意志を持ち、懸命に動こうとしているかのようだ。
 しかし、返事は、背後からあった。
「――その通り」
 ティティスは、息を飲んで振り返った。背後で、ダイロンが再び倒れる気配がする。
「彼は、魅入られている。古い、古い、伝説の時代にまで溯る呪いにな」
 青い、魔術師のローブをまとった、痩せた長身の男が、そこにいた。
 フードに隠されたその顔には、みごとに特徴がない。そして、あまりに無表情なために、年齢さえ判然としなかった。ごく若い男のようでもあるし、しかるべき経験を積んできた壮年のようにも見える。
 胸に下げたメダルにあしらわれた、不規則に明滅する、赤い宝石。
 ティティスは、その男の名を知っていた。いや、その男に良く似た男を知っていたと言うべきか――
「……シ……シモン、さん」
「我が名はシモンにあってシモンにあらず」
 魔術師の声は、かつての陽気な調子からは考えられないほど、不吉で、しわがれていた。
「我が名は、シモン・マグス。――待ちかねたぞ、〈月の娘〉よ」
「え……?」
「皮肉なものだな。ダイロンとかいう、そのつまらぬ男は、もはやダイロンにあらず。私もまた、お主にシモンと名乗っていたシモンではない……」
「あ……」
 魔術師の、完璧なまでに特徴も表情もない顔が、奇妙に歪んだ。まるで、笑みを浮かべようとしているかのように。
「そして、お主も〈月の娘〉であって〈月の娘〉でなく、ティティスという名であって、しかもそうではない」
「いやああああああぁ!」
 ティティスは、恐怖の叫びとともに、印を切り、呪文を完成させた。
 白い一条の光が、魔術師の体を貫こうとする。『衝撃波』の呪文だ。
 しかし、魔術師の呪文の方が一瞬早かった。
 いや、それは、四大のエレメンタルの力を導く魔術ではなかった。シモン・マグスは、精霊の奔流によってティティスの精神集中を乱し、その魔法が正しく効果を発揮するのを妨害したのだ。
 光が、シモン・マグスの体に届く前に、無残に四散する。
(呪術!)
 驚愕に目を見開くティティスに向かい、シモン・マグスは言った。
「丁重に扱えよ」
 それはティティスに対する言葉ではなかった。
 不意に、ティティスは背後から恐ろしい力によって体を抱えられていた。
 胴に回された、獣毛に覆われた太い腕に力がこもり、そして、鉤爪の生えた手が口を覆う。
 悲鳴をあげる間も無く、ティティスの視界は赤い闇に包まれた。
 シモン・マグスの呪術が、さらに力を発揮したのである。
 ティティスは、意識を失う寸前に、ダイロンが完全にワー・ウルフになりおおせてしまったことを、絶望とともに知った。



 ワー・ウルフたちが去っていったのは、月が沈んで間もなくであった。
 今まで小屋を遠巻きに囲んでいたのが、一体、また一体と去ってゆき、ついには、廃村に静寂が戻ったのである。
 それでも、しばらくはラグーンは剣を構えていた。エスカも、小屋の屋根の上で、弓を構えたまま目を凝らしている。
 地面には、三体のワー・ウルフの屍が倒れていた。小屋を完全に取り囲むほどの数で押し寄せて来たにしては、この死体の数はかなり少ないと言える。事実、ワー・ウルフたちの攻撃は、執拗ではあったが、けして激しくはなかったのだ。
 彼らの目的は別にあったのだ。そして、ワー・ウルフたちが去ってしまった今、その目的が達せられたことは明らかだった。
 ラグーンには、その目的が何だったのか、分かりすぎるほど分かっている。
 ラグーンが剣を下ろし、小さく悪態をついた、そのときであった。
「兄貴っ!」
 ひどく切迫した声に、ばきゃっ、という木の割れる音が重なった。
 ファールが、小屋の扉を充分に開けずに、強引に外に出てきたのである。そのため、もともと壊れかけていた扉は、もはや単なる残骸となってしまった。
「あたたたたた、あ、兄貴、ティティスが……!」
「分かってる」
「わ、分かってるって、じゃ、何でそんなに落ち着いてんだよお!」
 ファールは、顔中を口にするほどの勢いで叫んだ。
「そっちこそ落ち着け。お前は、病人なんだぞ」
「落ち着いてられるかって!」
「いいから、聞け」
 けして大声ではないが、ずしりと腹に響くような重い声で、ラグーンは言った。さすがにファールは口をつぐむ。
「確かに、ティティスの行方は分からん。だが、お前は知らないだろうが、少し前に合流した拝月教徒の男も、ティティスと一緒に姿を消している。そいつは一族の戦士だし、ここいらの土地勘もあるはずだ。ティティスと行動している可能性が高い」
「……でも、さあ」
「そもそも、お前は数日の間、意識がなかった。今がどういう状況なのか、きちんと知るまい」
「…………」
「生き残るためには、知り、そして考えることだ」
 そしてラグーンは、シモンが行方不明になったことと、エスカとダイロンと出会ったこと、そして、ティティスとダイロンの姿が見えなくなるまでを、手短に語った。
「……エスカさんてのは、兄貴の何なのさ」
「命を狙われている」
 エスカが何か言う前に、ラグーンはごく簡単に言ってのけた。
「だが、まだ俺の方が強い。あいつは決闘にこだわっているから、まあ安心だ」
「ラグーン!」
 屋根の上のエスカは、激昂して叫んだ。
「その子供を、立会人にする!」
「病人を立会人にするのか?」
「おいら、もう治ったよっ!」
 ラグーンのひどく真面目そうな言葉に、ファールは大声で抗議した。しかし、それがたたったのか、頭に血を昇らせて、そのままへたへたと座り込んでしまう。
「ティティスのことは心配だが、お前の病気――いや、呪いの方は、手遅れになると取り返しがつかん」
 ラグーンは、ひどく厳しい声で言った。
「明日から、村に戻る」
「兄貴……」
「もう寝ろ。……エスカ、お前さんとの決闘は、こいつの件が片付いてからだ」
 ファールも、そしてエスカも、けしてうなずこうとはしない。
 しかしラグーンは、話は終わったとばかりに、小屋の中に入ってしまった。ファールが壊した扉の代わりになるような板を探すつもりなのである。



 明け方までの短い時間、見張りを立てずに眠るよう、ラグーンは二人に言った。
 ここで疲労を回復させるべきだという判断である。
 周囲への警戒は、罠を仕掛けることによって行うことにした。罠と言っても、丈夫な糸と木の枝を組み合わせた単純なものである。要は、不意をつかれないように、敵の接近に気付ければいい。
 罠を仕掛けたのはエスカだった。ファールは、未だ完全に病人扱いである。しかしファールは何も不平らしきことは言わなかった。
 まるで熱病がぶり返したかのように、むっつりと黙り込んで、毛布にくるまり、腐りかけの床板にその身を横たえている。
 エスカとラグーンは、よほど緊張し続けだったのか、小屋の壁に身を預けるや、すぐに眠りに落ちた。
 規則的な寝息で、次第に二人の眠りが深まっていくのが知れる。
 だが、ファールは、起きていた。
 のみならず、じっと二人の寝息をうかがっていたのだ。
 そして、自分の体に意識を向けた。
 おとなしくしていれば、何の違和感もない。まだ少しだけ熱っぽいような気がするが、むしろそのせいで、じっとしていられないくらいだ。
 胸騒ぎがする。
 その胸騒ぎは、熱とは関係ないものだった。そして、ファールにはその胸騒ぎの原因が分かっていた。
(ティティスが危ない……)
 まさに今、ティティスが危機に陥っている。
 そのせいで、こんなに胸が苦しいのだ。
 何の根拠も無いことは、当のファール自身が知っている。しかし、そんなこととは関係なしに、ファールは自分のその感覚が正しいことを確信していた。
(兄貴は、信用しねえだろうなあ……。あのエスカって姉ちゃんも、兄貴に輪をかけて頑固そうだし……ま、おいらの味方にゃあ、なってくんねえことは、賭けてもいいや)
 ファールは、二人が完全に寝静まるのを待っている。
 眠ってしまえばこっちのものだと、ファールは思っていた。
 寝ている人間に気付かれないように、音を立てず、気配を殺して行動する。それこそ、盗賊たるファールの本領である。ここのところの本業は洞窟あさりだが、怪物に気付かれないように先の様子を見に行くのは、常にファールの役目だったのだ。
 自分がワー・ウルフの呪いをかけられているというのに、単独行動を図る。これは、今までラグーンやシモンに教え込まれた「冒険者のやり方」ではない。ファールもそのことは重々承知していたが、それでも、自分の行動には何の疑問も抱いてなかった。
(シモンさんはいなくなっちゃってるし、依頼人もどうなってるか分からない。もう……「仕事」じゃ、ないんだ。だから……)
 枕にしていた自分のザックを、音がしないように抱え込み、予備のランプを失敬する。
 そして、ブーツを左手に持って、右手だけで、音もなく扉の代わりの戸板を動かし、するりとその身を外に出した。
 ファールは、この上もなく冷静に、エスカの仕掛けた罠を避けた。確かに巧みに隠されてはいるが、獣相手の狩人のやり方だ。人間相手の洗練された罠を扱ってきたファールには、子供だましにさえ見える。
(おいらが、ティティスを助ける……)
 しかし、その冷静な動きを支配しているのは、理不尽な、思い込みに近い感情だった。
(おいらじゃなきゃ、ダメだ)
 そして、ファールは、自分の奇妙な心の動きに気付く様子もなく、ランプを片手に、夜の森を駆け出した。
 ティティスのいる方角は分かっている。
 あとは、できるだけ速く歩を進めるだけだった。



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