白 狼 伝



−幕間劇−



「旦那様!」
 その皺ぶかい喉から悲鳴のような声を上げ、老執事は目の前の重い樫の扉をノックすることなく開いた。
「大変でございます。聖堂騎士団が……!」
 そう言いかけて、息を飲む。もう、日が沈んでしまったというのに、部屋には灯かり一つともっていなかったのだ。
「どうしたのかね?」
 すでに主人は神殿の手が回ったのを知って遁走してしまったのではないか、という執事の疑念を、薄暗い部屋の中から響いた声が打ち消す。
 部屋の隅、頑丈そうな書斎机の前に、ラーマンド領主クルペオン男爵が座していた。
 小さな西向きの窓から、日没の残照がわずかに入るだけである。男爵の表情どころか、その顔の造作でさえ、判別することはできない。
 しかし、とにかく男爵は在室していた。執事は、荒くなった息を整え、重大な報告を始めた。
「十二宮神殿より派遣された聖堂騎士団の一隊が、館に参っております」
「用向きは? 異端審問か?」
「いや、それが、私には要領を得ないことでございまして……武装し、あまつさえ抜刀しておりまして。令状もなく、領内巡視権をたてに使用人の退去を勧告しておりました」
「……皆は、それに従ったのかね?」
「ほとんどの者は、従わざるを得ませんでした。今や、この館に残っているのは、私と旦那様だけかと」
「つまりお前は、聖堂騎士団の勧告を無視して、このことを知らせに来てくれたわけだな」
 男爵は、落ち着いた様子で椅子から立ち、机の上の分厚い書物を閉じた。栞は、挟まない。
 だが、この暗さの中で読書をしていたことに不信を抱けるほど、執事の精神には余裕はなかった。
「これは、やはりあのカリヴスの死に関係あることでしょうか?」
 執事の問いかけに、男爵は平民出身とは思えないような洗練された動作で、腕を組む。
 そして、しばし後に男爵の口から出た言葉は、その問いかけに対する答えではなかった。
「お前も、早くここから出ていった方がいい。……いや、むしろこの部屋に残った方が、安全だな」
 言いながら、執事が前に立つこの部屋の扉に向かい、歩いてくる。
「今まで、成り上がりの私に良くしてくれて、礼の言葉もない。その上、最後になって、このようなことに巻き込んでしまった」
 立ちすくむ執事の肩に、優しく手を置く。
 この距離になってやっと、執事は男爵の表情をうかがうことができた。今まで見たことも無いような、悲しげな目であった。
 しかし、なぜか執事は、主人のその目に、ひどくちぐはぐな感情を掻き立てられたのである。
(これは……?)
 ――恐怖。
 まるで、知らない間にひどく危険な場所に置き去りにされてしまったかのような恐怖が、執事の胸に広がっていく。それは、理由の分からない、原初的な感情だった。
「私はここを去らねばならない。皆のこれまでの給金などに関しては、全て任せる」
 そう言って、男爵は執事の横を摺り抜け、部屋を出た。
 問い質すべきことが山のようにある。しかし、執事は振り返ることはおろか、凍り付いたように身動きできなかった。
(あれは、本当に旦那様だったのか?)
 三年前、この地の領主として新たに館の主となって以来の、彼の人生からしてみれば、さして長くない時間。その時間の中で持ち得た、クルペオン男爵という人物に対するあらゆる認識が、根こそぎ奪われてしまったように、執事は感じていた。
 足音とともに、主人の気配が遠くなってゆく。
 その先には、二十人近くの、完全武装した生え抜きの聖堂騎士団達がいるはずだった。剣技と法術の双方に長けた、エールス十二宮神殿を守り、その意志を体現する為の精鋭達だ。
 彼らは、神殿の命によって、何の疑問も躊躇も無く、その力を振るう。たとえ相手が恐ろしい悪鬼や、また無力な子供や老人であってもそうするだろう。そのことが、聖堂騎士団の名誉であり、勇名とともに悪名の源にもなっているのだ。
 主人が、そんな聖堂騎士団と対峙する。しかし執事はそのことに対して当然抱くべき懸念を感じていなかった。むしろ、これから起こる何ごとかを恐れる気持ちだけが、次第に痩せこけた体の中で膨張していく。彼の動きを縛っているのは、その恐怖であった。
 呪縛は、絶叫によって破られた。
 一人のものではない。いくつもの獣じみた悲鳴が、夕闇に包まれつつあるこの館の空気を震わせている。
 執事は、もつれそうになる足を必死に動かし、まるで火に誘われる虫のようにその声のあがる場所に向かって駆けた。いや、駆けたつもりになっているだけで、その老いた体の動きは、ひどくのろのろとしたものでしかなかったが。
 何故、そちらに向かうのかは分からない。去り際に男爵が言っていたように、動かないでいるのが一番安全であることは、彼にも分かりすぎるほど分かっていたのだ。それでも、足を止めることはできなかった。
 これまで、何度となく通ってきた回廊が、ひどく長々と感じられる。
 ホールに出た。
 そこは、殺戮の場だった。
 薄暗いランプの灯かりの下、何とも知れない赤黒い塊が、幾つも床に転がっている。その塊は、あるいは鎧をまとい、または剣を握り、盾を構え、兜を被っている。銀色に輝き、神の威光を映していたはずのそれらは、例外なく赤く汚されていた。
 思わずよろめき、壁に付いた手が、ぬるりと何か生臭い液体で濡れる。
 見ると、床や壁はおろか、天井の一部にまで、悪戯小僧がバケツでぶちまけたかのように、暗がりの中でも目に鮮やかな赤い液体が飛び散っていた。
 どれほどの力が、胴体から首を切り離し、天井から下がる燭台まで飛ばすことができるのか。
 再び、外の声が執事の体を動かす。
 いや、それは、哀れな聖堂騎士団達が放った悲鳴とは、全く別のものであった。
 咆哮。
 孤独と、威厳と、そして限りない狂気を感じさせる、狼の咆哮である。
 ふらふらと玄関を通って中庭に出た執事を迎えたものは、やはり、虐殺の跡であった。しかし、涙に濡れた老人の目は、もはや、地面に血を吸われるだけと成り果てた幾多の死骸など、見てはいなかった。
 白銀の獣が、館の中庭から伸びる道を駆け、丘の蔭に消えていく。
 西の森を目指して走り去る、馬ほどの大きさはあろうかというその狼の姿を、老執事は、魂のない人形のように茫然と眺めていた。
「〈白狼王〉……」
 思わず漏らした自らの言葉さえ、その耳には届かない。
 頭上に、歪んだ月が浮かんでいた。



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