白 狼 伝



第四章



 ティティスは、何者かに肩をゆすぶられ、やっと目を覚ました。
「頼むから、静かにしてくれよぉ」
 涙で濡れた目で見る風景はぼやけていたが、肩をゆすっていたのが誰なのかは、すぐに分かる。
「ファール、くん?」
「いったい、何がイヤなんだか知らないけどさ……」
 そういうファールの声が、凄まじい風の音にかき消された。
 崩れかけた丸太小屋の土間だった。ぎりぎりまで明かりを絞ったランプが、闇をわずかに切り取って、うち捨てられた家の内装を黄色く照らしている。窓にはめられていたよろい戸は外れかけ、そこから笛のように鋭い音をたてる風が吹き込んでいた。
 ひいいいいいいいいぃ……という、まるで悲鳴のような風である。
「ここ、どこ? いったい何が起こったの?」
「どこから話したら、いいのかなあ……」
 とりあえずファールは、野営の準備をしているところで、突然、怪物の襲撃を受けたところから、手短に語った。
「それから、シモンさんに言われて、この村ん中でも、一番マシそうな家を見つけてさ。つまりここのことだけど、んで、鍵こじ開けてティティスを連れてお邪魔したわけ。そしたら急に、おっそろしい叫び声がして……」
「それ、まさかシモンさんの……?」
「違う……と思う。ぜんぜん、シモンさんの声に似てなかったからね。とにかく、それからだよ。いきなり風が強くなって、しかもそれに混じって、狼の声みたいなのまでが、聞こえてくるようになったんだ」
「狼……」
「ああ……今は、聞こえなくなっているけど、すごかったんだぜ、さっきまで。ティティス、自分で言ってたろ。ワー・ウルフさ。」
「…………」
 知っている。
 知っているし、思い出そうとすれば、様々なことを思い出せる。
 そういった意識はあるのに、ティティスには、それはひどく馴染みの無い言葉だった。昨日までは知らなかったことを、一晩で無理矢理に憶え込まされたかのような感覚である。ちょうど聖地について訊かれた時と同じ感じだ。
 言葉を度忘れしたのと、全く逆の状態――言葉は出てくるのに、自分が憶えていたことのようには思えない。
 お腹の中が、じんわりと冷えていくような不安感。
 見ると、ファールも不安そうな様子で、外をうかがっている。あの大きな目を半ば閉ざし、両耳に手を当てながら、腰を浮かせているのだ。
 風の音が、変わっていた。
 それは微妙な変化だった。しかし、注意して聞けば、間違いようのない変わり方である。
 鋭い、笛の音のような、と言うよりはっきりと悲鳴のようだった風の音。それが、違う性質のものになっているのだ。
 より低く、より小さく、それでいながら、今まで以上に不吉な音である。
 今までが悲鳴であったなら、それはまるで歓喜の声のようだった。それも、暗く禍々しい、満ち足りた亡霊のひそやかなささやきのような風である。
 こおおおおおおおぉ……。
 そして――その音が止んだ。
 中腰のまま、ひどく厳しい顔で、ファールがランプの方へ移動する。
 しばしためらった後、思い切ったように、明りを絞るためのシャッターを下ろした。
 光が金属板に遮られ、廃屋の中は闇に近い状態になる。
 月や星の光が、外れかけのよろい戸から差し込んでいるはずであったが、暗さに慣れてない二人の目は、何も見ることはできない。
 ふと、ティティスは、その闇の中で奇妙な音が響いているのに気付いた。
 堅い、かすかな音である。
 ファールが歯を鳴らしているのだ。
「はは、みっともないな、これは……」
 そういう声も、わずかに震えている。
「あの……どうしたの?」
「平気へいき、って言いたいんだけどね……。やっぱ、ダメだわ」
「ダメって?」
「暗いのが、恐いんだよ」
 ひどく深刻な口調で、ファールは言った。
「どうしてもダメなんだ。慣れることができなくて……。何も見えないと、体が勝手に震えちまうんだよね」
「じゃ、どうして?」
「そりゃあ、ランプの光ですぐ見つかんないようにするためだよ。……でも、この音、聞かれちゃうかもな」
「…………」
 ティティスは、何も言うことがでいなかった。それほどファールのおびえかたが真剣だったのだ。必死になって歯を食いしばり、震えを押し殺そうとしているのが、気配で伝わってくるほどである。
 ひどく重苦しい沈黙。
 それに耐えられなくなったかのように、ティティスは口を開いた。
「きっと、だいじょうぶよ。……シモンさんもラグーンさんも、無事にここまで来てくれるわよ」
「……同じなんだ、あの時と」
 ファールは、ティティスの声が聞こえているのかいないのか、ひどく見当外れなことを言った。
「同じ?」
「うん……」
 強い不安のせいなのか、ファールの口調が、心なしか幼くなっている。
「……おいらさ、ラーマンドなんかからずっと離れた、山賊の村の生まれなんだ」
「…………」
 ティティスは、ファールがそう語り出すのをあえて止めなかった。
 このままおびえたままでいられると、自分まで恐くなってしまう、という心配があったからでもある。しかし、ファールの過去に対する興味の方が、より強かった。何しろファールは、えらく話し好きのように振る舞いながら、けしてラグーンやシモンと出会う前の自分の話をしようとしなかったのだ。
 そんなティティスの興味に応えるように、ファールは半ば震えたままの声で、話を続けた。
「ひどい連中でさ。親父もおいらのこと、ぜんぜん自分の子供だなんて思ってないみたいで……朝から晩までこき使われてたよ。お袋なんかいやしなくて、ろくに物も食わせてもらえなくってさ。生のイモをつまみ食いして、親父に死ぬほどなぐられたこともあった」
「そう……」
「で、その山賊の村なんだけど、領主の野郎の討伐にあって……。ざま見ろってなもんだった。親父はもちろん、誰にも優しくしてもらったことなんかなかったからさ。でも……」
 恐怖を忘れようとしているのか、ファールは次第に声を落としながらも、話すのを止めようとはしない。
「おいら、領主の兵隊たちを、見つけてたんだ」
 しばらく押し黙った後に、さらに小さな声で続ける。
「納屋の中で片づけさせられてて……屋根裏の窓から、谷間の街道を通ってこっちに来る兵隊たちが、見えてね。でも、おいら、それを黙ってた。兵隊たちの持ってる槍が、夕日で赤く光ってて……。殺されるんだ、って思った。そう思ったら、ものすごく恐くなって、それで納屋の中で震えてて……しばらくして、外が騒がしくなってさ。村の連中は皆殺しにされて、おいらだけは、真っ暗な納屋の中で、ただ震えてた……。おいらだけ……」
「ファールくん……」
 一瞬、ティティスはファールが泣いているのかと思った。
 しかし、そうではなかった。ファールの声は、依然として震えを押し殺しているようだが、泣いてはいない。泣くのを耐えているというより、何かを諦めているような口調だった。
「おいらが、父さん達を殺したんだ。納屋を出てって、みんなに知らせなくちゃいけなかったんだ。おいら……今と同じだ……」
「――違うよ」
 ティティスは、静かだがはっきりとした声で言った。
「今は、ファールくん、あたしを守るために、ここにいてくれてるのよ。あたしが、その……寝ぼけてたから」
 他にいい言い回しが思い付かず、ティティスはやむなくそう言った。
「……ん」
 しばしの沈黙の後、ファールがうなずく。
 その時だった。
「おおおおおおおおおおお!」
 凄まじい叫び声に、木の砕け散る音が重なる。
 狼そのものの咆哮とともに、ワー・ウルフが、窓のよろい戸を突き破ったのだ。
 全身が黒い獣毛に覆われ、黄色い牙をむき出しにしたその姿が、唐突に闇の中に浮かび上がる。
 ファールが、ランプのシャッターを開けたのだ。
 油断だった。ファールは、ワー・ウルフが侵入してくるとしたら扉からだと考えていたのである。そう思い、糸と小枝で作った、近付いた者があれば音を立てさせる罠も仕掛けておいたのだ。そして、扉から離れた窓を脱出口にすべく、そのすぐそばに潜んでいたのである。
 全てが裏目に出た。
 さすがに、幾つもの修羅場をくぐって来たファールの反応は素早かった。それでも、ランプのシャッターを開ける一動作だけ、遅れをとっている。
 しかし、ティティスを抱えるようにして飛びのいたファールを、ワー・ウルフは、すぐには攻撃しようとしなかった。
 長い舌をだらりと下げ、目を爛々と光らせながら、ファールと、その後ろのティティスを値踏みするように見つめている。まるで、二人がここにいることに、いささか戸惑っているかのような様子であった。
 しかし、無論のこと、ファールにはワー・ウルフの表情など分からない。
(おいら達を狙って入ってきたわけじゃないのか?)
 ファールはそんなことを考えながら、愛用の小剣ではなく、もっと小振りのナイフを、ベルトの鞘からゆっくりと抜き放った。
「気を付けて、ワー・ウルフには、鉄の武器は利かないわ」
 後ろからそう囁きかけているティティスの方を向かずに、ファールは小さくうなずいた。今、ファールがきつく握っているナイフは、そういった怪物を相手にするために、銀製で、その上いくつかのカバラが刻まれている。言わば、怪物相手に戦う冒険者たちの必需品だ。
 しかし、しょせんはナイフである。その刃渡りは、ファールの伸ばした掌の長さほどでしかない。ファールの体力で勝つには、急所を一撃で突かなくてはならない。
 ワー・ウルフは、攻撃の意志を固めたかのように、ファールたちに向けて、右足を一歩踏み出した。
 その爪先が、床に置きっぱなしのランプに当たる。
 ティティスをかばって退いたファールは、そのシャッターを開けるだけで精いっぱいだったし、そもそもランプに片手を塞がれていては、満足な動きができない。それにティティスは、突然現われたワー・ウルフに驚愕し、ファールになされるがままだったのだ。
 結果として、ランプは床に置かれたままであった。
 その熱が右脚の毛を焦がしているのだろうが、ワー・ウルフは気にしている様子もない。
 さらに、両者が間合いを計るための、数瞬のにらみ合い。
 ワー・ウルフが、動いた。
 威嚇の唸り声を上げ、左脚を踏み出し、そして、右脚でランプを蹴り飛ばす。
(火が消える!)
 ファールは、動いた。
 声にならない悲鳴を上げながら、真正面からワー・ウルフにぶつかっていく。
 ティティスは一瞬、ファールがワー・ウルフと闇に対する恐怖心から自暴自棄になったのかと思った。
 しかしそうではなかった。ファールは、確実に急所を捕らえるべく、あえて一直線に攻撃したのだ。
 くぐもった声に、ランプが床に落ちる音が重なった。その明りは奇跡のように消えてはいない。
 ファールは、ナイフを握った右手を、真っ直ぐに突き出していた。右手が、前かがみになっているワー・ウルフの口の中に突き込まれている。
 ナイフはわずかにワー・ウルフの後頭部からその刃をのぞかせていた。
 ワー・ウルフは、ファールを抱擁するように、歪んだ両腕を前に突き出していた。その爪が、深々とファールの革鎧の肩当てに食い込んでいる。
 その姿勢のままで、ワー・ウルフはがくがくと痙攣し、驚くほど大量の血を吐き出した。
 そして、自らの血で足を滑らせ、ファールに覆い被さるように倒れ込む。
 そのまま、両者ともぴくりとも動かない。
 しばらくして、ファールは荒い息をつきながら、ワー・ウルフの体の下から這い出てきた。全身血まみれである。
「ファールくん、すごい」
「まあね……って言いたいところだけど、そうじゃなさそうだなあ」
「そう、って?」
「おいらが一撃で倒したって訳じゃなさそうだ、ってことさ。こいつの背中、見てみなよ」
 ティティスは、思わず小さな悲鳴をあげた。今まで気付かなかったが、ワー・ウルフの背中に、ぞっとするような真新しい傷が、縦横に走っているのだ。
「もともと、けっこうな傷を負ってたんだ。やっぱり、おいら達を狙ってたんじゃなくて、逃げ込んできたみたいだな」
「それって……シモンさんね!」
「だと、いいんだけどね」
 妙な顔をしながら、ファールは立ち上がった。その足取りはひどく頼りない。全身を赤く染めている血は、全てがワー・ウルフの返り血というわけではなさそうである。特にワー・ウルフの顎に突き入れた右手からは、未だに血が滴っている。
「でも、この背中の傷、まるで何かに噛まれたみたいだ。ほら、これなんか……」
「歯形?」
 ティティスの言葉通り、ワー・ウルフの背中の傷のほとんどは、獰猛な獣にかじりとられたかのような歯形である。
「シモンさん、こんな魔法使ったかなあ?」
 そう言いながら、ファールは壁によりかかった。足元が、傍目に分かるほどふらついてる。顔も真っ青だ。
 ファールはそのまま、精根尽きたかのように倒れ込んでしまった。



 時を、しばし溯る。
 暗い森の中、ラグーンは独り、愛用の長刀を構え、ワー・ウルフ達と対峙していた。
 そのラグーンを、十体近いワー・ウルフが囲んでいた。いずれも、牙と鉤爪を剥き出しにし、威嚇的な呼吸音をあげている。
 むっとするような獣の匂い。
 そして、忌まわしい欲望に濡れた目が、松明の炎を反射し、緑色に光る。
 ラグーンは、そんな中でも落ち着いているように見える。足を肩幅よりやや広く開け、長刀を持った左手を前方に伸ばし、逆に右手は背後に隠すような姿勢だ。目は、半ば閉じているようである。
 ラグーンは、馬車の傍を離れてすぐ、自らが囲まれていることを確信していた。それでいながら、わざわざ茂みの中に入り、自らを囮にしたのである。
 案の定、馬車を囲んでいる気配の内の少なくない数が、ラグーンを追って来た。
 ラグーンは、すぐに決心した。シモンの使役するシルフに、できるだけ早く馬車を出すよう伝言し、自らはここで戦うことにしたのだ。
 包囲しているものの意図がどうあれ、襲うつもりなら、とっくに襲っている。それをしていないということは、少なくとも主目的は襲撃ではない。むしろ、包囲することそのものが目的と考えられる。
 つまり、包囲の輪が完成してしまえば、それで終りである。何をされるかは無論のこと分からないが、好ましくない結果になることは明らかだ。
 だから、包囲の輪を崩す。
 そのための囮である。
 包囲している側は、迷うはずである。少なくとも、ラグーンが戻るまで、馬車が動くようなことはないと考えるのが普通だ。その隙に、馬車を準備させ、脱出させる。敵が何者であれ、包囲の目的は、十中十まで、ティティスのはずだからだ。
 カリヴスの例もある。拝月教徒が言うところの〈月の娘〉には、何らかの魔法的な利用価値があるのだろう。である以上、彼女を敵の手に渡してはならない。自分一人なら、ぎりぎりまで持ちこたえ、その後に逃げることも出来るはずだ。
 ラグーンはそう判断し、馬車のところに戻るとも戻らぬともつかぬ曖昧な仕種の後、唐突に片手で抜刀したのだ。
 そのまま、最も手近な気配に向けて迫ると――気配は、茂みから押し出されるように素早く這い出た。 ワー・ウルフだった。
 驚く間もなく、次々とワー・ウルフが周囲の闇から姿を現す。
 囲まれた。
 ラグーンは手に持っていた松明を地面に落とした。そして、愛用の長刀を構え直した。
 そして……暗い森の中、ラグーンは独り、愛用の長刀を構え、ワー・ウルフ達と対峙することとなったのである。
 遠くで、物音があった。
 続いて馬のいななきと、馬車の車輪が回転する響き。
 ここで、わざとラグーンは隙を見せた。その馬車の音に気を取られた振りをしたのだ。案の定、真正面と真後ろの二体が、ほぼ同時に地を蹴る。
 ラグーンは、長刀で正面の攻撃を受けると見せ、強引に途中で体を右に半回転させた。一気に後ろから迫っていたワー・ウルフの懐に入り込み、鉤爪を浅く歪曲した長刀で左に受け流す。
 そして、右手でベルトから銀のナイフを抜き、横に薙いだ。
 例の、カバラが刻まれた銀のナイフである。
 ワー・ウルフは、開いたあぎとからどす黒い血をしぶかせ、つんのめるように倒れた。首が半ばちぎれかかっている。ラグーンの膂力のなせる技だ。
 しかし、ラグーンは倒れたワー・ウルフにはちらりとも視線を向けない。すでに、残りほとんどのワー・ウルフが彼への攻撃を始めていたのだ。
 ラグーンは、その巨体からは考えられないような身のこなしで、けして足場がいいとは言えない森の中、縦横に攻撃を避けた。時に樹の影に身を隠し、時に左手の長刀を、文字どおり風車のごとく振り回す。
 無論、ラグーンもワー・ウルフが鉄では傷つかないことを知っている。たとえその体に食い込んでも、血は流れず、傷も残らない。左手の長刀は、攻撃を受け止め、受け流すための、言わば盾代わりだった。
 そして、その盾代わりの長刀で攻撃を跳ね上げ、思わぬ速度で真正面の攻撃者に肉薄する。
 毛先の数が数えられるほどに体を近づけて、喉元にナイフを突き立てた。
 血と獣の匂い、そして熱い返り血が、まともに顔を叩く。
 さらにラグーンは振り返りざまに、後ろから迫っていたワー・ウルフに向かい合った。
 そのワー・ウルフに、大きな重い塊を投げつける。
 ワー・ウルフは、思わずそれを抱き止めてしまった。
 ラグーンが、とっさにナイフを口にくわえ、今しがた倒したワー・ウルフの体の頭部を掴み、右腕一本で投げつけたのだ。
 一瞬、何が起こったのか分からない様子の、死体を抱き止めたワー・ウルフの頭の鉢を、信じられないほど高く跳躍したラグーンが、逆手に持ち換えたナイフで叩き割る。
 折り重なるように二体のワー・ウルフの体が倒れた時には、すでにそこにラグーンはいなかった。
 まさに、視界から消えたのだ。
 いや、そうではなかった。ラグーンはそのまま地面に転がり、別のワー・ウルフの足元にその身を横たえていたのである。
 うつぶせの姿勢のまま、目の前の両脚を長刀で払う。
 傷は負わなくとも衝撃は受ける。ワー・ウルフは無様にも仰向けに倒れた。ラグーンはとっさに跳ね起き、その逞しい両膝で相手の胸と股間を押さえ、逆手に持ったままのナイフでその腹を裂いた。
 絶叫。
 甲高い悲鳴にも似たその声は、すぐに断続的な喘ぎに変わった。
 そして、ラグーンは体を半回転させながら立ち上がり、大木を背にしてナイフと長刀を構え直していた。
 さすがに息が荒くなっている。
 しかし、無言であった。悲鳴は言うに及ばず、己を鼓舞するための叫びさえ、彼には不要なようだ。ただ、何かに耐えるかのように、その白い歯をきつく食いしばっている。
 その顔は、まるで笑っているかのようにも見えた。
 一方、ほんの数十秒にしてその数を半減させてしまったワー・ウルフ達も、まるで仕切り直すかのように、ラグーンを囲む位置に戻っていた。牙をむき出しにした彼等の口からは、低く不吉な唸り声がもれている。
 地面に倒れているワー・ウルフが、四体。
 立って、ラグーンを包囲しているワー・ウルフが、やはり四体。
 しかし、倒れている全てのワー・ウルフが絶命しているとは限らない。彼らは、信じられないほど生命力が強いのだ。
 ラグーンは、血と脂、そして脳漿にまみれたナイフをきつく握り直す。
 四体同時に襲いかかられては、逃げ場が無くなる。どうにかして、タイミングを外させなくてはならない。
 ラグーンは、右側の二体にしか分からない角度で、右脚を踏み出しかけた。
 右側二体が、誘われたように地を蹴る。
 その一瞬後、左側の二体が攻撃を始める前に、ラグーンは右に向かって跳んでいた。
 左手のに持つ長刀の柄で、右の二体のうち手前の一体の顎をしたたかに跳ね上げ、そのまま右手のナイフで喉を掻き切った。
 さらに、その体を蹴り飛ばし、後方の一体にぶつけて、動きを封じる。
 仲間の体に足元をとられたそのワー・ウルフの眉間に、ラグーンはナイフを突き立てた。
 技も、ナイフの切れ味も関係無い。鍛え上げた腕力に任せた、粗暴な一撃である。銀のナイフの刃が、根元でひどく歪んでしまったのを、ラグーンは感触で知った。
 左から、残る二体が襲い掛かる。
 ラグーンはワー・ウルフの額に銀のナイフを残し、飛びすさりながら長刀を放り捨て、両手で次々と何かを投擲した。一体に三つずつ、合計六つの金属が、消えかけの松明の光を反射しながら、暗い空間に六本の軌跡を描く。
 ずどっ、という意外なほど鈍い音をたて、それらはワー・ウルフの胴体に突き刺さった。
 最後の二体のワー・ウルフが、もんどりうつように倒れ、そのまま地面に顔をめりこませる。
 金属は、いずれもカバラの刻まれた銀のナイフであった。ラグーンがとっさにベルトから引き抜き、投げつけたのだ。
 森に、静寂が戻った。
(終わった……か……?)
 しばらくの間、ラグーンは片膝をつき、ナイフを投げた姿勢のまま動かなかった。
 用心深く体を起こし、放り投げた長刀を拾い上げ、右手に持つ。そして、地面に落としたまま松明にも左手を伸ばしかける。
 その刹那、一体のワー・ウルフが何の予備動作も無く、跳んだ。
 ナイフで腹を裂かれたワー・ウルフであった。血と咆哮を撒き散らし、傷口から腸をはみ出させながら、凶々しい鉤爪でラグーンに襲いかかっってくる。
(浅かったか――!)
 ラグーンは懸命に回避しようとする。が、致命的に体勢が崩れていた。
 しかし、鉤爪は、ラグーンに触れる寸前で、大きく空を切っていた。
 ワー・ウルフはそのまま見当違いな方向に走り、木の幹に激突し、ようやく止まった。
 見ると、その頭蓋を、一本の矢が真横に貫いている。
 ワー・ウルフに止めを差した以上、銀の矢尻を使った弓矢だろう。となると、戦や狩猟で使われるものではない。冒険者のそれだ。
 ラグーンが、顔を向けると、その方向の茂みから、男女二人が姿を現した。革鎧を身につけ、長弓を携えた若い女と、ぼろのようになった衣服を纏った、灰色の髪の若者である。
 エスカとダイロンだ。
 エスカの燃えるような視線が、ラグーンの顔に注がれている。
 ラグーンは、正面からその目を受け止めた。そして、エスカの後ろのダイロンを見て、またエスカに視線を戻す。
「…………」
「…………」
 両者とも、無言であった。ダイロンも、その雰囲気に飲み込まれてしまったように、口を開けようとしない。ただ、地面に倒れているワー・ウルフと、ラグーンの血まみれの巨体を、驚きに満ちた顔で眺めているだけだ。
 不意に、エスカが沈黙を破った。
「掟により、決闘を申し込む。この男が、立会人だ」
 故郷の草原の言葉ではなく、中原語で、エスカはそう言った。ダイロンは、ぎょっとしたようにエスカの顔を見る。
「おいおい、そんな話は一言も……」
 しかし、ダイロンの声はエスカには届いていないようだった。
「武器は自由。場所はここ。時は今。理由は、あたしの父を、お前が殺したこと。以上だ」
「……確かに、俺は叔父貴を殺した」
 ラグーンの言葉も中原語である。二人とも、ダイロンに聞かせるために、あえてそうしているようだ。
「しかし、それは叔父貴が陰謀を以って酋長を亡き者にしたからだ。まあ、激情にかられ、告発を怠ったのが愚かだったのは認めるがな」
 そう言いながら、ワー・ウルフの死体に深々と刺さったままの銀のナイフを、一本ずつ回収していく。その間、ラグーンはエスカの顔から注意深く目を反らさない。
「では、なぜ、そのまま、逃げたのだ」
「…………」
「答えろ!」
「……恐くて逃げたのさ」
「部族の、裁きがか?」
「お前さんがだよ」
 エスカは、虚をつかれたように目を見開いた。そうすると、ずっと幼く、そして女らしく見える。
 しかしすぐさまエスカの顔は険しさを取り戻した。
「イア・サギタリウス!」
 エスカはそう唱え、故郷の言葉で、狩人と遊牧民の守護者たる人馬宮神サギタリウスにかけて正義の裁きが敗者に下るであろう、という意味の宣言を行った。
 それと同時に弓矢を構える。
 その時であった。
 鳥の声に似た高い絶叫が、遠く、森の奥から響いてきたのである。
 それは、ラグーン達の進行方向であり、そして、恐らくはファールたちの逃亡した方向のはずだ。聖地へと至る道の先である。
 ワー・ウルフの声ではなかった。それよりももっとおぞましく、神経に障る響きである。そして、より危険な声であるということを、ラグーンの直感が告げていた。
「――悪いな」
 呆然となっているエスカに、ラグーンは右脚を跳ね上げた。
 エスカは我に返ったように弓矢を構え直す。しかし、もとより蹴りが届く距離ではないのが、油断を生んだ。
 その鳩尾に重い痛みが走った。
 ラグーンが、足元の拳ほどの石を蹴り飛ばしたのだ。革鎧の上とは言え、急所である。数瞬、呼吸が止まった。
「ラグーン!」
 エスカの悲鳴のような声を背中に感じながら、ラグーンは、茂みの中に消えていた。



 風が、哭いていた。
 悲鳴のような、すすり泣きのような、陰々とした響きである。
 ラグーンは、この声を、かつて聞いたことがあった。
 精霊の声だ。
 南の砂漠で、狂った呪術師が使役していた、おぞましい死霊の声だった。
 ――エレメンタルが魔術、カバラが法術の力の源であるように、精霊は呪術の力の源になっています。呪術師は精霊を使役し、時には人の心さえも操るんですねえ。
 死霊を相手とした、そのおぞましい戦いの後に、シモンはラグーンとファールに語ったものだ。
 ――精霊というものは、人や獣に宿っている時は「心」や「精神」と呼ばれ、死によって肉体から遊離したばかりであれば「死霊」や「幽霊」などと呼ばれます。しかし、それは本質的に同じ物なんです。
 ――精霊使い、すなわち呪術師達は、この世界を、精霊の海に浮かんだあぶくのようなものに過ぎない、と言います。精霊はあらゆる場所に遍在しているというわけですね。一方、僕ら魔術師は、エレメントすなわち元素こそが世界の基盤だと主張し、法術師たちは、神がカバラにて世界を創造したのだととなえています。いずれも、世界の本質を自由にしているのだと考えているようです……。
 放っておいたら、いくらでもしゃべり続けそうであったシモンに、それがどうした、とラグーンは答えたはずであった。
 あの悪夢のような砂漠での戦いも、ラグーンの長刀が呪術師の首を飛ばすことで終止符を打った。何が世界の本質か、などということは、自分には関係無い。
 しかし、今やラグーンは思い知らされていた。
 一口に魔法と言っても、それは、魔術、法術、呪術と三系統に分類され、それぞれ独特の体系を有しており、呪文の唱えかた一つをとっても違う。
 そして、例の叫び声。あの怪鳥のような絶叫は、たしかに呪術師特有の呪文の詠唱だ。あれは、砂漠で幾度となく聞かされた、呪術師が精霊に服従を強いる呪文に他ならない。
 その呪文に応え、森中がざわめき、ひずんでいるようであった。
 砂漠での体験とは、規模からしてまるで違う。あの呪術師が操っていた死霊と同じものが、際限なく巨大化し、この森を一飲みにしてしまったかのようだ。
(精霊の海に浮かんだあぶく、か……)
 ラグーンは、その言葉の意味をようやく理解させられたような気がしていた。周囲に存在していたもの、それら全てが、今や精霊としての姿をあらわにし、呪文に応え、忌まわしい泣き声をあげている。
 ラグーンは、そんな悲鳴の中を走っていた。
 周囲のその声が、しきりに自らの体にまとわりついてくるように思える。それはまるで、細い髪の毛のようにラグーンの肌をくすぐり、粟立たせた。
 気の弱い者であれば、しゃがみこみ、頭を抱えて一歩も歩けなかったかもしれない。それほどの、言わば実体を備えた不気味さだった。
 ひいいいいいいぃ……。
 泣き声のような、苦痛のうめきのような、狂気に満ちた忍び笑いのような……。
(しかし、これが呪術だとして……)
(いったいいかなる効果を顕そうとしてるのか)
(それに……誰が、その呪術を使っているというんだ?)
(……まさか、シモンが?)
 ラグーンは、様々な疑念を浮かべながら、聖地に至る道に出、松明をかざして、乱れた馬のひづめ蹄の跡と、馬車の轍を確認した。
 そして、それらが示す方向、つまり、あの呪文の詠唱の聞こえた方向へと走り出す。
 すでに、呪文を唱える声は聞こえない。
 代わって、狼の唸りにもにた声が、前方から聞こえてくる。
 威嚇や攻撃のための声ではない。むしろ遠吠えに近いだろうか。
 それに混じって、やはり狼に似た、悲鳴のような声も聞こえる。これは、精霊の声ではない。きちんと実体を持った肉体から放たれた声だ。
 少なくとも、ラグーンはそのように声を聞き分けていた。
(何が起こっているんだ?)
 ここで考えていても、何も分からない。早くその場に行き、自らの目で確かめなくては。
 しかし――ようやくラグーンが廃村に着いた時には、全ての声が止んでしまっていたのである。
 目の前に、広場が広がっていた。馬車もある。シモンが、ワー・ウルフを迎えるべく焚いた火が、未だにくすぶっていた。
 しかし、シモンはいない。馬もどこかに消えている。
 ただ、何体ものワー・ウルフの死体が転がっているのみである。
 ひどく無残な死体であった。
 多くの死体が、そのあちこちを引き裂かれている。まるで、狂暴な獣達に、いっぺんに襲われたかのような様相だ。四肢を失った死体。腰のところで分断された死体。腹腔を深く抉られ、内臓のほとんどを地面に撒き散らしている死体もある。
 なまじ異形のものだけに、酸鼻を極める光景と言えた。むっとするような血の匂いが、辺りにただよっている。
 しかし、ラグーンはかすかに顔をしかめただけで、冷静にその場を検分し始めた。何といっても、彼はこういう風景を作り出す側の人間なのだ。
 まずは死体の数の確認をする。それは、思いの外に少なかった。遠くから聞いたワー・ウルフ達の咆哮や悲鳴などとは、まるで数が合わない。
 さらにラグーンは各々の死体の傷口に松明を近づけ、観察した。
 もとより、ラグーンが倒したワー・ウルフ達とは、まるで状態が違っている。つぶさに見ると、その獣毛に覆われた体には、無数の爪や牙のあとがあった。
 シモンの魔術は、エレメンタルに干渉し、地水火風の四大元素の力を利用するものである。それゆえ、その犠牲者は、地割れに押し潰され、あるいは陸上で溺死し、炎に焼かれ、真空の刃に切り刻まれたりもする。
 しかし、エレメンタルが爪や牙の跡を残すような攻撃を行うとは、ラグーンは聞いたことがなかった。また、シモンが獣を使役したところも見たことがない。
 かと言って、ティティスの法術によるとは思えないし、ファールは無論、魔法など使えないはずだ。
 そして、あの呪術の詠唱。――精霊を使役し、魂や心を弄ぶとして、三系統の魔法の中でも、最も忌み嫌われている呪術。
(こいつは、仲間割れか?)
 ワー・ウルフ同士の同士討ちと考えれば、死体の様子や、その数についても、説明がつく。しかし、ラグーンにはなぜワー・ウルフここで仲間割れをするのか、理由が分からない。
(もしや……)
 ふと、ラグーンの頭の中で、この状況を説明する答えが、明確な形を取りかけた時であった。
「ラグーンさん!」
 ティティスの声だ。
 見ると、広場の奥にある廃村の方から、ティティスが誰かを背負うようにして歩いてくる。どうやら、ラグーンの気配を察して現われたらしい。背中に負われているのは、ファールである。
「ファール君の様子が、ヘンなんです。すごい熱で、うわごとも言ってて、それから……」
 ラグーンは最後まで聞かずにティティスに駆け寄り、その背中からファールを軽々と抱え上げた。
 思わず、ラグーンは唸った。ティティスの言葉通り、すごい熱である。悪寒に身を震わせ、歯を鳴らしながら、びっしょりと汗をかいている。
 ラグーンはゆっくりとファールを地面に降ろし、革鎧の留め金を外して、服の襟を緩めてやった。
 一方ティティスは、ようやく地面に散らばるワー・ウルフの死骸に気付いたらしい。小さく悲鳴を上げ、口に手を当てた姿勢で硬直している。
「水だ」
 そうラグーンに声をかけられ、ティティスはびくっと小さく体を震わせた。まるで、呪縛から解かれたように、ゆっくりとラグーンの方を向く。
「ここが村の跡なら、どこかに井戸か、小川があると思う。見なかったか?」
 ティティスは、ふるふるとかぶりを振った。まだ、思い通りに声が出せるような状態ではないらしい。
「探そう。あと、火を焚いて暖められる場所が要るな。お前達がいた場所は?」
「ワ……ワー・ウルフが来て、その家に……それで、ファール君はあたしをかばって……」
「そうか、分かった」
 ぽん、とラグーンはティティスの頭を優しく叩いた。
 それをきっかけにして、ティティスはぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「……あたし……あたし、魔法が使えない……使えなくなっちゃったんです……病気を治すなんて……前は、きちんと、使えたのに……どうして……どうして……」
 あとは、言葉にならない。
「――そういうわけでな、エスカ」
 ラグーンは、誰もいないはずの空間に向かって、そう呼びかけた。
「決闘だの勝負だのは、お預けということにしてほしい」
「勝手なことを……」
 そう言いながら、エスカが森の中から現われた。弓を左手に持っているが、構えてはいない。
 エスカは、今まで闇にまぎれてラグーン達の様子をうかがっていたのだった。その気配を、逆にラグーンが察したのだ。
「身内が病に倒れた時に決闘を延期するのは、掟にも則っているだろうが」
「…………」
 エスカは、無言であった。しかし、ラグーンとファールの顔を交互に見詰めた後、不承不承うなずく。
「ティティス、無事だったのか!」
 その時、エスカの背後から現われた灰色の髪の若者が叫ぶように言った。
「あ……ダイロンさん?」
 ティティスは、涙をぬぐいながらその声の主を見る。
 しかし、その顔に、部族の者に再会したという安堵は微塵もなかった。
 実際その時、ティティスは例によって、あの奇妙な違和感に襲われていたのである。



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