白 狼 伝



第三章



 彼女は、道に迷っていることを認めざるを得なかった。
 森の中の、獣道のような道である。いや、それどころか、何本かの本物の獣道とも交差していたはずだ。実際、彼女が迷い込んだこの道は、ほぼ間違いなく獣道であろう。
 雲が空を覆っているため、日没の後は真の闇だった。彼女は慌てることなく、野営の準備を始めた。
 革製のザックを下し、弓矢を手近な木に立てかける。火をおこし、道すがら仕留めた野兎を、腰に差した山刀のようにごついナイフで、器用にさばいた。毛皮と内臓を取り除き、肉をいくつかに切り分けて木の枝に差す。その間も、鎧は着たままだ。
 炎に照らされて浮かび上がる彼女の顔は浅黒く、瞳と、肩の辺りで切り揃えられたくせのない髪は漆黒だ。二十歳前後と思われる若々しいその顔は、整ってはいるのだが、愛嬌の代わりに野生的な雰囲気が表情を支配している。草原出身の蛮族特有の雰囲気である。
 長い四肢と引き締まった体は、その豊かな胸さえなければ、むしろ精悍な騎馬民族の青年を思わせる。
 彼女が身につけている、服も、弓も、ナイフも、薬で固くした革の鎧も、飾り紐にいたるまで、草原独特の色と形をしている。矢だけが、草原からエールス辺境の森までの旅のさなかにたびたび補充したのか、この周辺で一般に使われている品だ。
 彼女は、充分に火が通ったのを確認すると、まず木の枝にさした兎の頭部にかぶりついた。



 彼女がこの土地を訪れたのは、三日ほど前である。
 ラーマンドの村に入り、幾つかの装備を雑貨屋で買い求めた後、ラグーンやファール、シモンがねぐらとしていた『魚釣り猫』亭の扉を開けたのが、その日の夜のことであった。
 ラーマンドの村は、辺境の村とは言え規模は小さくなく、女の冒険者なども珍しくはないが、一人旅となると話は別であった。草原の民であることもあって、好奇の視線が、賑やかな室内のあちこちから彼女に向けられる。
 特にいくつかの視線は、彼女の豊かな胸の辺りにとどまり、なかなか動かなかった。無論、そのような視線を向けるような輩は、彼女の顔に表れている野生の相になど、気付こうはずもない。
「ラグーンという、男を、探している」
 そんな不潔な視線を完全に黙殺し、彼女は凛とした声で言い放った。
「あたしと同じ、草原の民だ。大きい男で、多分、髪を、長く伸ばしてる」
 流暢ではないが、奇麗な発音の中原語である。草原を出てから憶えたのであれば、よほど長い間、放浪してきたのであろう。
「なんでえ姐ちゃん。男を探してんのかい」
 無遠慮な視線の持ち主のうち、特に礼儀知らずな男が、そう言いながら彼女に近づいてきた。だらしない笑みを浮かべた顔は赤黒く、下卑た声は酒の匂いを振り撒いている。
「男ならここにもいるぜえ。姐ちゃんの言うとおり、なりもあそこも大きいのがなぁ」
 男がもといた丸テーブルに座る連中が、下品な笑いをあげた。全員が冒険者、それも、質のよくないタイプである。
 しかし、彼女はそれを無視した。先ほどの言葉通りみっしりと肉のついた男の巨体に、その鋭い視線を向けさえしない。
「澄ましてんじゃねえよ、このアマぁ!」
 言いながら男は、無理矢理こちらを向かせるべく、彼女の顎を、そのごつごつした指でつかもうとする。
 音は、酒場の喧騒に負け、誰の耳にも届かなかった。
 そのため、男は鼻を押さえ、無様に尻を床につきながらきょとんとしていた。赤い二本の筋が、するすると分厚い掌の下から滑り落ちてくる。
 彼女が、まだ右手に持っていた弓で、男の顔面をしたたかに打ったのである。
 数秒して、酒で鈍った頭でようやく事態を認識したのか、男の顔がどす黒く染まった。
「るあああっ!」
 意味不明の声を上げ、鼻血をしぶかせながら、両腕で彼女につかみかかる。
 初めて彼女は男に視線を向けた。向けたと見えた時には矢をつがえており、つがえたと見えた時にはそれを射ていた。
「ぎ!」
 男が不自然な格好で倒れた。
 ブーツを履いたままの右足を、床まで射抜かれたのだ。
 よほど深々と床に突き刺さったのか、男は身動きができない様子だ。たまらず声をあげ、床をのたうつようにうずくまりながら、矢を引き抜こうとする。
 彼女は立て続けに矢をつがえ、その両の掌を、正確に二本の矢で射抜いた。
 子供の泣き声のような悲鳴を上げ続ける男から視線を外し、彼女は再び、ラグーンについて訊いた。
 あまりのことに、しわぶき一つたてていなかった客達のうち、ラグーン達に馬車を貸した男が、おずおずと前に出て話を始める。
 彼らの行き先を聞いた後、彼女はくるりと振り返り、まだ悲鳴を上げている大男の方を見向きもせず、扉を開けた。
「ありがとう。あたしの名は、エスカ。お前達に、祖先の霊の守りが、ありますように」
 言いながら、何か小石ようなものを投げ捨て、去っていく。
 人々が呪縛から解き放たれたように動きを取り戻し、床に縫いとめられた男を助けた後で調べてみると、彼女――エスカが残したそれは、傷に付ける軟膏を収めた骨製の容器であった。



 そしてエスカは、ラグーンを追って森に入り、道に迷ってしまったのである。
 しかし、エスカの表情には焦りの色はない。ただ、尋常でない決意が、その黒い瞳にきつい光となって現われているのみだ。
 不意に、エスカは顔を上げた。
 肉を焼いている火の向こうに、気配を感じたのである。
 茂みの奥で、黄色い目が、炎の明りをわずかに反射させている。
(―狼か?)
 しかし、エスカはその考えを即座に打ち消した。狼にしては、目の位置が高すぎる。
(熊か? それとも、噂に聞く、大猿の化け物だろうか?)
 そう思ったとき、茂みの向こうの何かは、わずかにうなり声をあげた。明らかに獣の声だ。
 エスカはかじっていた兎の肉を放り捨て、素早く弓を構えた。
 一方、その何かは、両手で茂みをかき分けるようにして、姿を現そうとする。
 エスカは、弓を引き絞るのを止めた。それは、人間の手だったのだ。
 いや、正確には、間違いなく人間の手というわけではない。あまりにも体毛が濃すぎるし、爪が、鉤のように伸びている。
 どうやら深手を負っているらしく、右手からは血が滴っており、その動きはぎこちない。そのため、それはなかなか茂みから抜けられず、難渋しているようにも見えた。
(人型の怪物のたぐいか……)
 そう結論したとき、それはとうとう全身を現した。
 ひどく前かがみになってはいるが、その姿は、やはり人間のものだった。泥と、おそらくは血で黒く汚れ、あちこちが破けてはいるものの、きちんと服も着ている。
 そして、その首から上――
 一見、人間のように見える。だが、目を光らせ、歯を剥き出しにしたその顔は、あまりにも獣じみていた。
 唇からはみ出た舌は驚くほど長く、犬歯は、牙と呼ぶのが妥当なほどに発達している。光の加減か、顎全体が、前に迫り出しているようにさえ見えた。
 しかし、内側からの恐ろしい力によって歪んだその頭部にもかかわらず、エスカはそれが人間であることを、ほぼ直感で理解していた。警戒を緩めようとはしないが、すぐに矢を射ようともしない。
 が、しかしそれは数瞬の間であった。
 突然、それは地を蹴ったのだ。
 鋭い牙を生やした口が、エスカの喉を捕らえるべく、噛み合わされる――



「今、何か聞こえなかったか?」
 たき火の向こうのシモンとファールに、不意にラグーンはそう問いかけた。
「……いえ、別に何も」
 分厚い本のページをめくり、この地方のエレメンタルと新たに契約を結ぶための太古の竜の言葉を調べていたシモンは、わざとらしく耳に手を当て、言った。
「気のせいじゃないですかあ。ねえ、ファール君」
「ん。おいらにも、特に何も聞こえないけど」
「そうか」
 盗賊であるファールは、聞き耳を立てることに関してもかなりの修行を積んでいる。ラグーンはそんなファールを信用することにしたのか、それ以上何か言うのをやめた。
「ところでファール君、ティティス君とは仲直りしましたか?」
「おっ、おいら別に、ケンカしてなんか……」
 突然の言葉にうろたえるファールに、シモンはにんまりとした顔で続ける。
「ちょっと前まではあんなに仲が良かったのに、今じゃほとんど口もきいてないじゃないですかあ」
「そりゃだって……向こうが話してくんねえんだもん」
「それなら、こちらから話しかけるんですよ。今夜だって彼女、夕食が終わったら早々に馬車の中に退散してしまってる」
 一行は道中、車止めをかました馬車の幌の中で寝泊まりしていた。すでに、森の奥にまで入り込んでいる。
 ティティスはシモンの言葉どおり、すでにその中で毛布にくるまっていた。
「それは……それは、魔法の使いすぎで、疲れたんじゃねえの?」
「そう、その魔法のことですよ」
「え?」
「彼女は魔法を使うことができる。限定的な力ですけどね。これはつまり、僕たちは彼女に協力をあおぐべき立場だってことです」
 二人の言葉どおり、ティティスはこの日の昼、魔法を使った。
 木の根に脚を取られ、転倒した馬の怪我を、手をかざすだけで癒してしまったのである。『治癒』の呪文である。
 法術、すなわちカバラの力だった。カバラによって、ティティスが信仰する〈月の神〉の力を導いたのだと、シモンは理解した。
「ちょっと傷を治しただけで、あんなにフラフラしちゃうのは、ちょっと心もとないですけどねー。でも、法術使いが仲間にいるといないとでは大違いなんですよ」
「そりゃ、分かってるよ」
 地水火風のエレメンタルを力の源にする魔術に比べ、神の力をカバラによって導く法術は、より細かに事物に干渉できる。大規模で破壊的な一方、制御の難しい魔術に対し、補助・回復・誘導と、法術の効果は地味だが便利この上ない。
 そのため、冒険者は法術の使い手を仲間に欲しがる。また、法術使いも、自らと神との距離を少しでも縮めるべく、修行の旅をしている者も多い。そのため、冒険者に積極的に協力することもよくある話である。それどころか、法術師にして冒険者という者も珍しくはない。
「でもさあ、ティティスってば、自分は法術師じゃなくて〈月の娘〉だって言ってきかないじゃん」
「まあ、本人が言うからには、何か違いがあるんでしょうねー。ただ、我々にとって重要なのは、ティティス君が法術師かどうかじゃなくて、現に法術を使うことができるかどうか、なんですねぇ」
「…………」
「それはそれとして、早く仲直りしてくださいな。まあ、ラグーン君も、こと女性に関してはからきしなんですけどねえ」
 これは、冒険者としてのファールの教育役を自認しているらしいラグーンに対する、シモンの軽い皮肉だった。ラグーンは、珍しくいささか憮然とした表情で、火に薪を投げ入れようとする。
 不意に、その手を止めた。
「やはり何かいる」
 ゆっくりと薪を地面に置き、代わって愛剣をすらりと抜いた。
「え? でも、やっぱ何も……」
「音じゃない。匂いだ」
 言われて、ファールはすんすんと空中の匂いを嗅ごうとする。しかし、やはり何も分からない。
「見てくる」
 一挙動で立ち上がり、ラグーンは自らの嗅覚が示す方を向いた。森を貫くこの道の、聖地方向に向かって右側である。
「お供しましょうかあ?」
 そうシモンが言う。いつもどおり緊張感のない響きだが、さすがに小声である。
「いや、馬を襲われるとまずい。ここで待っててくれ。すぐ戻るつもりだ」
「じゃあ、代わりにこいつを連れてってください」
 そう言って、シモンは複雑な印を空中に結んだ後、目に見えない何者かにラグーンを指し示した。どうやら、大気のエレメンタルであるシルフのうち、未だ契約中の者を使わしたらしい。
「緊急の伝言はこいつに」
「分かった」
 そう言いながら茂みに分け入っていくラグーンの長髪が、不自然な風になびく。どうやら、シルフが悪戯しているらしい。光の加減で、うすものをまとった少女のようなその姿が現われ、そして消える。
「さ、こうしちゃいられませんねえ」
 シモンは、膝に抱えたままの呪文書を閉じ、荷物をまとめだした。
「ファール君、馬を馬車につないどいてください」
「ありゃ、もう逃げる準備い?」
「逃げると決めてから始めるんじゃ、遅すぎるでしょ」
「心配性だよなー」
 ぶつぶつ言いながらも、ファールは手早く馬具を用意し、できるだけ刺激しないようにしながら馬を馬車につなぐ。
 その作業が、ちょうど終わりかけた頃である。
 寝ているところを起こされ、不機嫌そうな馬の胴を撫でていたファールの肩に、シモンが手を置いた。
「ん?」
「準備、いいですね?」
 真顔、と言うよりひどく無表情な顔のシモンが、そうささやいた。ファールは、シモンがこういう顔をする時は、彼が恐ろしく緊張している時だということを知っている。
「出ますよ」
「え、だって兄貴は?」
「そのラグーン君からの伝言です。僕たちは今、囲まれつつあります。彼を待ってる暇は……」
 不意に、すぐ傍の茂みが爆発した。
 いや、そうではない。そこに潜んでいた何かが、凄まじい勢いで馬に襲いかかったのだ。
「!」
 シモンが何かを叫んだ。たき火で未だ燃え盛っていた炎が、一直線に黒い影に向かって跳ねる。
 馬のいななきと奇怪な絶叫が重なった。
 炎のエレメンタルであるサラマンダーが、シモンの呼び掛けに応えたのだ。
 影が、地面に落下し、そのまま転がるように反対側の茂みに消える。
「い、今の……」
「さあ、早くしてください!」
 目を丸くし、きょろきょろと首を巡らしているファールに、いつのまに乗ったのか、シモンが馬車の中から叫んだ。
「あれしきで倒れるような奴じゃないんです!」
 ファールは、考えるのをやめ、車止めを蹴り飛ばして御者台に飛び乗った。飛び乗ったのと同時に、馬に鞭を入れる。
 馬車は弾かれたような勢いで走り出した。
「シモンさん、明かり明かり明かりぃ!」
 悲鳴のような声で、ファールは後方に向かって言った。前方は完全な闇。とても前を直視できない。
 素早く、シモンはランプを差し出した。
 それによって確保できた視界は、絶望的に狭い。あとは、できるだけこの道が直進していることを期待するしかなかった。
「もっと、スピードをあげて下さい」
 ファールの後ろでランプを支え、その肩越しに前方を睨みながら、シモンが言う。
「だって兄貴が……」
「ラグーン君なら大丈夫。そうでなくても、待ってられる状況じゃないんです」
「シモンさん!」
「彼を信じなさい! それに、こっちにはティティス君が……」
「ひ!」
 突然、前方に例の影が現われた。今度は三つだ。
 馬が悲鳴のようないななきをあげる。
「このまま真っ直ぐ!」
 言われるままにファールは馬を煽る。
 鉄で補強された車輪が、次々と影を跳ね飛ばした。
 獣じみた怒りと苦痛の叫びが、背後に遠ざかっていく。
「……どうにか、突破しましたか」
 ふう、とシモンが息をついた。
 ファールには、未だもって、あの影が何だか分からなかった。
 人間のようにも見えたが、けして人間ではありえない。悪意ある神が、人の姿を愚弄するために作ったかのような、ひどく歪んだ肢体と、獣じみた頭―。
「ワー・ウルフ……」
 ぽつり、とつぶやいたのは、ティティスだった。
 顔を蒼白にし、褐色がかった緑色の目で、宙をひたと見詰めている。
「起きちゃったか。ま、ムリないな」
「―しっ」
 いつになく真剣な口調で、シモンがファールをたしなめる。
 ティティスは、まるで何かに憑かれたように、何事かをつぶやいている。
「ついてくる、あの子達……。可哀相な子。本当は〈月の神〉にあやまりたいのに、心を伝える術もなくしちゃったのね」
「……シ、シモン、さん?」
「静かに。……今は、彼女を刺激しないほうがいいでしょう」
「だ、だってさぁ〜」
 ファールが、ちらちらと後ろを向きながら、情けない声を出した。
「どうすんのさ、これからあ。兄貴はいないし、ティティスは変になっちゃうしぃ」
 ファールの言葉どおり、ティティスは尋常ではない様子で、今は幌の間から後方をじっと見つめ、やはり何事かつぶやいている。無論、その視線の先にあるのは完全な闇なのだが、彼女には何かの存在をはっきりと意識しているかのようだ。
「とにかく、どこかで体勢を立て直す必要がありますねえ」
 その時、不意に木々が途切れた。
「ええっ?」
 森はまだまだ続くはずだ。不審の声をあげながら、ファールが馬車を停止させる。シモンとティティスは、馬車の中で大きくよろけた。
 ファールは、シモンの手からランプを取り、かざしてみた。そして、森が途切れたのではなく、周囲が森の中の広場になっているだけだということに気付く。
 道を挟んでうっそうと茂っていた木々がわずかに後退して、歪んだ円形の空間を作っていたのだ。
 前方に、いくつかの丸太小屋があるのを、星明かりが照らしている。
 どうやら廃棄された狩人の村らしい。よく見ると、小屋はそのほとんどが倒壊寸前で、苔と蔓草に覆われている。
「……よし、ここで待つことにしましょう」
「って、兄貴を?」
「こっちはそのつもりなんですが……どうなるでしょうねえ」
 よっこらせ、などと妙に年寄りくさい掛け声をあげて馬車から降りつつ、シモンは言った。
 その間も、周囲への警戒は緩めてはいない。
 しかし、先に反応したのは、訓練されたファールの耳であった。
「シモン、さん……」
 注意を喚起され、シモンもその音に気付く。
 ふっ、ふっ、ふっ、ふっ……。
 それは、飢えた獣の、せわしない呼吸音だった。
 一つではない。あちこちから、この広場を囲むようにして近付いてくる。
 聞こえてくるのは、呼吸音だけではない。茂みをかき分け、下生えを踏むかすかな音が、恐ろしい包囲の輪となって彼らに迫っていた。
「ファール君、できるだけまともな小屋を選んで、そこに隠れてて下さい」
「え?」
「ここは、僕に任せてください。傍に人がいると、かえって危ないですから」
「うん。わ、分かった」
「道具は持ってますね」
 シモンが確認したのは、盗賊が鍵を開けたり罠をはずしたりするのに使う、先の曲がった針金や金てこなどの道具のことである。もし、この村を最後に出ていった時、住民たちが少しでも未練を持っていたなら、扉が施錠されている可能性もないではない。
「もちろん」
「じゃあ、気を付けて……。ティティス君も」
 そう言われても、ティティスは相変わらず無反応だ。
「まだ、月も細いっていうのに、困った子達……」
 馬車の中で膝を抱えて座りながら、未だにそんなことをつぶやいているティティスの横顔を見て、ファールはぞっと体を震わせてしまう。
 が、そんなことでいつまでもすくみ上がってしまうほど、ファールはやわではない。ランプを片手に持ち、もう片方の手で抱えるようにして、ティティスを馬車から引き出した。ティティスは、なされるがままである。
「シモンさんも、気を付けてよ」
 そう言い残して、ファールは村の廃虚の中へと入っていった。シモンは、無言でうなずきかける。
 そしてシモンは、次第に近付いてくるワー・ウルフ達の気配を感じながら、戦いのための準備を始めた。
 地面にありったけの松明を積み上げ、油を撒いて火を点ける。
 シモンには、炎の中に踊るサラマンダーがありありと見えた。トカゲとも虫ともつかない、何対もの足をそなえた爬虫類のような、奇怪な姿である。その炎のエレメンタルと、太古の竜の言葉によって契約の言葉を交わす。
 無論、とっさの契約であるから、たいしたことを行わせることはできない。ワー・ウルフに体当たりをかませることはできるが、それが致命傷にならないことは確認済みだ。
「せめてあと一日でもあれば……」
 そうすれば、大地や大気のエレメンタル達と、より強力な契約を結べたかもしれない。充分な時間さえあれば、地割れや竜巻を味方にすることも不可能ではなかったはずだ。
 だが、フードの奥のシモンの表情には、後悔の色もなければ、覚悟を決めた様子もない。ただ、圧倒的な無表情があるだけだ。
「……ここは任せて、とは、大きく出たな」
 不意に、シモンのフードの奥から、しわがれた声が漏れ出した。
 老人の声である。乾いた口調の中に、どこか揶揄するような響きがある。
 シモンは、胸から下げたメダルを、きつく握り締めた。
「今のお前の力では、この窮地を脱することはできん。そのことさえ分からぬほど、愚かとは思えぬが」
「では……」
 シモンの声がそう言いかけた時、最初のワー・ウルフが、廃村の前に現われた。
 続いて、二体、三体―十体以上のワー・ウルフが、炎の前でひざまずいているシモンを、歪んだ円形に包囲する。
 しかし、シモンは構わず会話を続けていた。
「では、どうしろと言うのです?」
「何もしろとは言わぬさ。黙って見ていればよい。支配が不完全な個体を、ここで間引かなくてはならん」
「……まさか……これはあなたの仕業ですか?」
「相変わらず、甘いな。いつまでも私が闇に封じられたままだと思うたか」
 シモンは、拳が白くなるほど力を込めて、メダルを握った。メダルの中央の宝石が、わななくように赤い光を明滅させる。しかしワー・ウルフ達は、そんな怪異にひるむ様子もなく、無造作に包囲の輪を縮めていた。
「あ……!」
 そんな、シモンの絶望に満ちた声をきっかけに、いっせいにワー・ウルフは地を蹴る。
 次の瞬間、不吉な鳥の鳴き声のような詠唱が、夜の空を長々と切り裂いた。



 彼が、その場を逃げ出した時、ほとんど四つんばいに近い格好であった。
 連中―かつての同族であり、今や、血の宿命によって恐るべき不死の怪物と化してしまったものからの逃亡だ。
 神聖な巡礼の目的も、長老の忠告も、一族としての矜持も、全てを忘れ、ただ闇雲に逃げた。背後で展開されているであろう虐殺さえも、圧倒的な恐怖によって心から押しやられ、女子供の悲鳴もその耳には入らなかった。
 襲撃の開始直後には、彼ら〈月の民〉の巡礼で、自らの足で立っている者の数は、半分にまで減っていた。彼自身、剣を抜こうとした右腕に鋭い一撃を受け、深手を負ったのだ。
 しかし、彼を不名誉な逃亡へと駆り立てた恐怖を与えたのは、襲撃それ自体ではなかった。
(あれは……確かに、兄貴だった)
 数年前、ちょうど彼自身の成人の儀式の直前、連中に殺されたものと考えられていた彼の兄が、襲撃者の中にあったのである。
 一族の誇り高い戦士であり、あらゆることが自分よりうまくできた、憧憬と、ほんのわずかの嫉妬の対象だった兄。
 無論、目の前に現われたのは、背中は歪み、体には獣毛を生やし、顔は狼そのものの連中である。その姿に、記憶の中の兄の面影はない。
 しかし、鋭い爪を備えた手――その手首には、確かに兄の祈り紐の腕輪が、しっかりと巻き付けられていたのだ。いかに汚れていても、手ずから編んだその腕輪を見間違えるはずがなかった。
 その爪が、彼の右腕に、骨に達するほどの傷を負わせたのである。
 わずかに面影を残しているかに見える兄の獣じみた顔は、笑っているようだった。
 彼は恐怖の絶叫を上げ、そして、逃げた。
 黄昏時を過ぎ、森がすっかり闇に支配されてからも、彼は逃亡を続けた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、足元もおぼつかなくなり、走るどころか、茂みに足を取られないように歩を進めるだけで精いっぱいであった。
 それでも彼は、逃げるのをやめようとはしなかった。
 夢中で逃げている間だけは、自らが何から逃げているのかを忘れられたのだ。
 体力とともに、記憶をも尽きさせようとするかのように、足を引き摺るようにしながら、彼は歩き続けた。
 そして、不意に、彼は人の気配を感じた。
 連中ではない。まっとうな人間の気配である。火が肉をあぶる香ばしい匂いまでする。
 彼は、ほとんど自分で意識することなく、そちらに足を向けた。
 助けてもらおう、などという打算はなかった。ただ、疲労が極限にまで達し、安心して休める場所がほしかったのだ。
 少なくとも、その時はそうだった。
 しかし、その人間のいるはずの場所に近づくにつれ、ほとんど空っぽになっていた彼の心に、別の欲求が高まってきたのである。
 それは、名状し難い衝動だった。
 喩えるなら、それは飢餓の感覚に似ていた。何による、何に対するものかも分からない、強烈な餓えである。
 体の、最も深い場所から湧き出してくるかのような欲求。
 我知らず、彼は前かがみになっていた。
 呼吸の邪魔になるので、舌をだらりと垂らす。その時、おそろしく長い犬歯に、その舌が触れた。
 彼が、自らの体の変化に気付いた時には、もはや手遅れだった。
 彼もまた、連中と同じく、血に潜んだ闇に心も体も占領されようとしていたのである。
 そんな状態のまま、のろのろと彼は茂みをかき分け、ひたすら人間の気配に向かって進んでいく。
(――見つけた)
 茂みのすぐ先、火の向こう側に、人間がいる。
 そう意識した時には、例の衝動が、体を突き動かしていた。
 一瞬で苦痛が消え、新たな活力が全身に満ちる。
 それはすべて、目の前の獲物をなぶり殺しにするための力であった。
 獲物は、まだ若い女であった。弓を構えているようであるが、彼には気にならない。
 地を蹴った。
 そのまま、獲物の喉を捕らえるべく、口を噛み合わせる。
 牙は―空を切った。
 失意の唸りをあげながら、消えたその姿を求め、周囲を探す。
「お前、名前は?」
 意外なほど近くから、その声は響いた。彼自身の右斜め後ろだ。
 女は、彼の横をすれ違うように飛びのいたのだ。
「あたしの名はエスカ! お前は、何という名前なんだ?」
 女は、再び声をあげた。凛とした、強い意志を感じさせる声である。
 彼はつんのめるように立ち止まった。そのまま、両手で自分の顔を覆う。
(ナマエ、ナマエ、ナマエ……名前……)
 そう、自分には名前があった。
 自分の名は……。
「オ……俺の、名は」
 立ち眩みのような、熱くたぎった血液が頭から引いていく感覚。
「……俺の名は……ダイロン」
 顔が、戻っていた。灰色のくしゃくしゃの髪と、鉄色の目。二十歳を少し過ぎたくらいの若者の顔である。爪も毛も、人間のものだ。
 ダイロンはへたへたと座り込んでいた。全身が、鉛の塊のようである。女―エスカに飛びかかった時の力が嘘のようであった。
「俺はダイロン。そう、ダイロンだ……。礼を、言わなくてはならないな」
 自らに確認するように、再び名乗りながら、ダイロンはエスカに視線を向けた。
「礼?」
 エスカは、右手に弓を持ったままだが、構えは解いている。
「ああ。危うく自分を見失っていた。あのままでは、俺も、兄貴と同じになるところだった……」
「怪物にか?」
「まあ、そう思われても仕方ない。事実そうだしな」
 ダイロンは観念したようにそう言った。ワー・ウルフに変身しかかったところを目撃されている以上、隠しだてはできない。
 エスカはそれを聞いて、整った眉をしかめたが、それだけだった。恐れる様子もなければ、気味悪く思っているようでもない。ダイロンは、感心するより、少し呆れてしまった。
「まあ、怪物のことはいい。今は違うようだしな。……それよりも、あたしは人を探している。この森に入ったはずなんだ」
「この森に?」
「ああ。名前はラグーン。背の大きい、草原の民で、多分、髪を長く伸ばしたままだ」
「ああ、それなら……」
「知っているのか!」
 エスカの瞳が、嬉しそうに輝いた。しかし、すぐさま、そのような感情を表に出してしまったことを恥じるように、努めて厳しい表情になろうとする。
「多分、知っている。俺達が仕事を依頼した冒険者の一人だと思う」
「仕事……そうか」
「恋人か?」
 何とはなしにそう訊いたダイロンの顔を、エスカは凄まじい目で睨んだ。男であるダイロンが思わずたじろいでしまうほどの、強烈な視線である。
「父の仇だ!」
 エスカは叩き付けるようにそう言った。



 ティティスは、夢の中にいた。
 怪我をした馬に癒しのカバラを施してから、奇妙なほどの疲労が、ティティスを捕らえていた。実際、術をかけ終わって幌の中に戻ってからは、ほとんど意識はなかった。
 こんなはずはなかった。癒しのカバラは、ティティスが習得した呪文の中でも、かなり下層の術のはずなのだ。それなのに、まるで最高位のカバラを扱ったか時のように、ティティスは疲れきっていた。
 法術、魔術、呪術……いかなる魔法の使い手であれ、呪文の行使には、それに見合った精神的な疲労がついてまわる。この疲労は呪文のレベルが上昇するにつれて重いものになっていく一方で、修行によって幾分か押さえることができる。
 ティティスは、言葉を憶え始めた頃から〈月の娘〉としての教育を施されてきた身である。無論、カバラによって生死や時空の秘密に手を届かせるにまで至ったような、歴史に残るような大法術師には及ばないものの、それなりの実力は備えているはずだった。
 そんな自分が、まるで最初のカバラを憶えたばかりの、駆け出し法術使いのように昏睡している。
 夢の中で、ティティスは強い不安を感じていた。
 何か、取り返しのつかないことになっているのではないか。自分には分からないが、何かが手遅れになってしまったのではないだろうか。
 そういった、名状し難い不安である。
 不安を抱いたまま、気がつくと、ティティスは波打ち際に立っていた。
 夜である。空には満天の星が散りばめられ、月が、地平線近くにその姿をさらしている
 ティティスから見て、右手に海、左手に白い砂浜が広がっていた。月はティティスの正面、すなわち、陸と海と天空の境で、青白く輝いている。
 エールスは内陸の山国であり、聖地への巡礼以外にそこを一歩も出たことのないティティスは、実際に海を見たことはない。しかし、それが海であることは自明だった。
 この世界において、夢はしばしば単なる経験の反映ではない。特に彼女のように、月や星々の姿をした神々を通じて、世界と交信している者達にとって、夢は世界そのものからのメッセージなのである。
 そんな夢の中で、ティティスは、未だ胸に不安を抱いたまま、ゆっくりと月に向かって歩き始めていた。
 静かな波が、あるかないかの音をたてながら打ち寄せ、裸足の足を洗う。夢の中だということは分かっているのに、その水の冷たさはひどく現実的だ。
 自分がつい先ほどまで、右側に広がる青黒い海に沈んでいたような気もするが、よく分からない。服も髪の毛も乾いてはいるが、海から這い出て、何ヶ月も、何年もの間、この波打ち際に立ちすくんでいたような憶えもある。そもそも、この夢の中においては、記憶そのものにぽっかりと穴のあいたような奇妙な欠落感があった。
 ティティスは、半ば無意識のうちに、歩を進める。
 夢の中の月は、近づくにつれ、その大きさを増していった。
 そしてティティスは、とうとう地平線まで歩いてしまった。いや、知らぬ間に空に浮かび上がっていたのかもしれない。しかし前だけを凝視しながら歩いてきた彼女には、その判別はつかなかった。
 ただ目の前に、自分の身長の二倍ほどの大きさの月が浮かんでいる。
 手を伸ばせば届きそうな距離だ。
 夢の中の月は、自ら光を放つ、磨き上げられた鏡に似ていた。
 実際、ティティスは自らの像を月の中に見た。
 もはや、足元には砂浜も海も無く、ティティスは宙に浮かんだ形で、月に映る自分と対峙していた。
 緑色の目の、無表情な少女。
 自分の鏡像だ。
 胸にわだかまっていた不安が、突然、訳もなく強まった。心臓が次第に重みを増していくかのような感じがする。
 と、何の前触れもなく、月の中の少女が、口を開いた。
 声として耳に届かない声が、頭に直接響く。
(あなたは誰?)
「え……?」
 驚愕の表情を浮かべているはずの自分とは違う、ひどく無表情な顔で、目の前の少女は言葉を続けた。
(あなたは〈月の娘〉ではないのに、なぜここにいるの?)
「あ、あたしは……」
 ティティスは、頭から血の気が引いていくのを感じた。
 もし宙に浮いているのでなかったら、そのまましゃがみこんでしまいそうであった。目の前が、ゆっくりと暗くなっていくかのような感覚だ。
 いや、それは錯覚ではなかった。
 目の前の銀色の月が歪んでいる。次第に欠けつつあるのだ。
 そして、それにしたがって、この夢の中を満たしている白い光が、徐々に薄れているのである。夜空を埋めていたはずの神の姿―星も、今や消えてしまっている。
(ここにあなたがいるのなら、あたしはここにはいられないわ)
「なんで? あなた、あたしなのに……」
(違うわ。あたしは〈月の娘〉)
「あたしも〈月の娘〉よ! あなたと同じじゃない!」
(あなたは、何か別のものよ。自分で分からない?)
「な、何よそれ……」
 ティティスは、とっさに何かにすがりつきたくなった。しかし、目の前にあるはずの月の鏡には、もう少しというところで手が届かない。仕方なく、ティティスは自分で自分の肩を抱いた。
 細い肩が、自分でもかわいそうになるくらい、小刻みに震えている。
 月は、ますます細くなっていた。
 ふと、月の中の少女は、ティティスとは別の方向を向いた。
 何かの声を聞いているような顔で、じっとそちらを見つめている。
(ワー・ウルフ……。ついてくる、あの子達……。可哀相な子。本当は〈月の神〉にあやまりたいのに、心を伝える術もなくしちゃったのね)
「何の、こと……?」
(外よ。外の話。あなたにも、じきに分かると思うわ。それにしても、まだ、月も細いっていうのに、困った子達……)
少女は、不意にティティスに向き直り、口を開いた。
(そろそろ、お別れね)
「おわかれ?」
(そう)
夢の中はますます暗くなり、月は、もはや閉じかけた門のように、少女の顔をのぞかせているだけである。
「ねえ、待ってよ!」
(ここに二人いてはいけないのよ)
「イヤ! ヤだあ! 一人にしないで!」
(おかしなことを言うのね)
 鎌のように鋭くなった月の鏡の向こうで、少女は冷たい笑みを浮かべたように見えた。
(もしあなたの言うとおり、あたしがあなたなら、やっぱりあなたは一人なんじゃない)
「一人にしないで!」
(ダメよ)
「イヤあ!」
(さようなら……)
 そして―一筋の光の残像を残し、月は消えてしまった。
 闇が、夢を支配する。
 その闇の中に、ティティスは一人、浮かんでいた。
 自らの肩を抱き、脚を縮め、背を丸めたまま、ティティスは泣きだしてしまう。
「……いや、いや、いや、いや」
 すすり泣きの声は、いつしか呪文のように、その言葉の繰り返しになっていた。



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