白 狼 伝



第一章



 背後の扉が自動的に閉まり、周囲は闇に包まれた。
「あひゃっ!」
 罠を発動させたのが、不用意に踏み出したステップだったのか、思わず投げ出して壁にぶつけた小刀だったのか、はたまた調子はずれなその悲鳴だったのか、一行に知る術はなかった。
 とにかく、罠は発動したのだ。
 アーチを支えていたキー・ストーンは外れ、圧倒的な重量を支えきれなくなった石組みの天井が崩れるくぐもった響きが、轟音に変わっていく。
「走れ!」
 ラグーンに言われるまでもなく、跳ね飛んだ小石が背中に当たる痛みを感じながら、ファールは走った。
「あひゃあ、わひゃ、ひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
 走りながら、笑い声のような悲鳴を上げ続ける。
 急に、その悲鳴がくぐもったものになった。
 ラグーンがその分厚い手で、ファールの頭を後から抱え込むようにして、その口を塞いだのである。
 次第に、天井が崩れる音が散発的になっていく。
 一行は足を止めた。ラグーンは、厚い胸を上下させ、呼吸を整えた。土埃が喉を刺す。
「……やれやれ、これはまた、賑やかな侵入になりましたねー」
 軽薄な口調でそう言った後、シモンは短く呪文を唱えた。炎のエレメンタルが異界から召喚され、彼の手の中で凝縮する。それは小さな火の玉となり、石組みの通路の中の三人を照らした。『妖火』の呪文である
 シモンの顔は、フードの奥に隠れてあまり判然とはしない。ただ、見事に何の特徴もない顔が、しまりのない表情を浮かべているように見える。年は二十代後半ほどだろうか。瞳も、短い髪も淡い褐色で、造作は大陸のどこの地方の人間と言っても通る。その顔にも、ひょろりとした肢体にも、緊張した様子は全くない。
 しかし、神像と仕掛け扉によって巧妙に隠されていた秘密の入口は、土砂で完全に塞がれてしまっていた。もはや、背後にあった神殿の廃虚に戻る術はない。
 そして前方には、明らかに人工のものである通路が続いていた。
 神殿は、ちょうど小高い丘を背後にして建ててあったから、ここはもはや国境近くの丘陵地の地底であろう。
「へへ……ごめんよぉ、兄貴い」
 ラグーンの手を口から外して、ファールは照れ笑いのような顔で囁いた。その小さな体も、埃で黒く汚れた顔も、まだ幼い。ちょうど成長期を迎えてぐんと手足の伸びる、その直前といった感じである。大きなよく動く目を上目遣いにして、自分のくしゃくしゃの頭髪ごしに、ラグーンの顔をうかがっている。その瞳も髪も鳶色だ。
「まあ、しかたない。俺も不注意だった」
 そう言って、ラグーンは渋い苦笑いをする。シモンより頭一つ以上大きい巨体に見合った、頼もしげな笑みである。
 端正とは言えない無骨な顔だが、どことなく品のようなものを感じさせる容貌だ。目元が涼しげで、背中まで伸ばした癖のない黒髪がよく似合っている。表情も動作も落ち着いているが、その割には若そうであった。シモン同様、二十歳から五つほど年を重ねているように見える。
 ラグーンの肌が浅黒いのは、埃のせいばかりではない。彼は東方草原の遊牧民の出なのだ。
「侵入する前に、ランプくらいは灯しておくべきだったな」
「とは言え、盗賊の技を憶えていながら暗闇を怖がるというのは、どうにかなりませんか」
 皮肉っぽくそういうシモンだが、声には批難するような響きはない。その口調は、あくまで剽軽だ。彼らのような連中は、仲間同士で責め合うようになっては、長生きできないのである。
「そりゃ、おいらだって、治そうとはしてるんだよぉ」
「どんなことをしているんです?」
「あは。目を閉じて、できるだけガマンすっとか……」
 シモンは、大袈裟に天を仰いだ。
「まあ、その代わり、夜盗に落ちぶれることもない」
 ラグーンが、本気とも冗談ともつかないことを、ごく真面目な顔で言う。
 ファールは、なんとも珍妙な顔をした後、とりあえず怒らずに笑うことに決めた。



 この時代、すなわち新数暦が刻まれてから約五百年の今にいたるまで、ここ大陸中原において、専門の警察組織を常備している国はない。せいぜい、農村から徴兵された男たちが、衛兵として都市部の治安を守っているだけだ。
 無論、人々の生活が、その衛兵のみによって保障されるということはなかった。辺境の怪物どもが人間の版図の奥深くにまで侵入することもあったし、怪しげな邪神官や、半ば狂った妖術師が、その神秘の力を以て人々を悩ませることさえ、珍しいことではなかったのである。
 千年近く前、巨大な帝国がここイスカリア大陸全土を支配していた時代、怪物や魔法に対処するのは為政者の傍らの宮廷魔道師達の役割であった。しかし、魔法同士の戦いは、必然的にその技術の暴走を――正確には、その技術の修得者の暴走を招いた。
 巫女や賢者によって予言されたとおりの大災厄の後、魔法はそれ自体、禁忌の技とされた。魔法使いは人々に疎まれ、以後、歴史の裏に潜むこととなる。
 そのような状況の中、必然的な要求から生まれたのが、彼らである。すなわち、怪物との戦い方、魔法の力との相対し方を身につけた、権力と無関係の職能集団だ。
 彼らは放浪者であり異端者であった。怪物同様に荒くれで、魔法と同じくらい奇妙な存在であった。人々を守る戦士でありながら、人々の日々の生活とはけして相容れない世界に住む者たちだったのである。
 そして、いつしか彼らには、半ば皮肉と羨望の込められた、「冒険者」という名が与えられた。



 冒険者は、様々な依頼を受ける。
 ちょうど丸一日前、剣士ラグーンと魔術師のシモン、および盗賊のファールの一行を、巡礼者の一団が訪ねた時、彼らは久しぶりの豪華な食事にありついていた。厄介な仕事を片付け、約束の報酬を受け取った直後だったのである。
 場所は、ラーマンドの村で一番大きな宿屋である、『魚釣り猫』亭。五、六人で囲むのにちょうどいい丸テーブルが八つあり、そのうち六つは塞がっていた。カウンターにも数人の客が肘を乗せ、赤ら顔の主人に麦酒や火酒を注文している。
 そんな賑やかな店の中で、その巡礼者達ははっきりと浮いた存在だった。
「拝月教徒……いや失礼、〈月の神〉の巡礼者のみなさんですね」
 シモンは、丁寧ではあるが真剣さに欠ける口振りで、その一団の代表らしい老人に言った。
「ご明察、恐れ入ります」
「なんのなんの」
 謙遜とは程遠い表情で、シモンがうなずいて見せる。
「そのローブの襟元に隠れた鎖を、拝見致しましたのでね。その鎖につながれた銀の紋章は、明らかに〈月の神〉のもの」
「…………」
 そう言われて、老人は、より注意深く、鎖を粗末な衣服の奥に押し込んだ。
「ご安心下さい。僕たちは、頭の堅い神官達とは無縁の存在です」
「特にこの国では、十二宮神の神殿の勢力が強うございましてな」
「確かに……エールスは、ことのほか十二宮神信仰の篤いお国柄ですからねー」
「……我々、拝月教の信徒は、異端の烙印を押され、この国では何者にも頼ることのできない身ですゆえ」
 そう語る老人の眉間に、さらに深い皺が刻まれた。
 十二宮神、すなわち天の黄道を支配する十二柱の神々は、一年を十二ヵ月に分け、それぞれを司どる。人々は生まれ月によって十二宮神のいずれかを守護神とするのである。そんな、物心つく前から決められてきた守護神を捨て、他の神を信仰する者は、たとえ対象が別の十二宮神でさえ稀である。
 そして、十二宮神に含まれない〈月の神〉を信仰する拝月教徒などは、さらに珍しい存在であった。
 十二宮神殿の発言力の強いここエールスで、〈月の神〉の信仰者として、あらゆる迫害を受けてきたのだろう。老人を始め、後に従う十数人の巡礼者の顔はみな陰鬱だ。
 陽気な性格のファールは、なるべくそちらを見ないようにしていた。実際、夕食時の喧騒の中にあって、この一角だけが、「受難」と題された絵のような重苦しい雰囲気に包まれている。
「へへ……兄貴さあ」
 耐えきれなくなったように、ファールがラグーンに小声で囁いた。
「あっちで、賭けダーツやってきていいかい?」
「だめだ」
「なんでさあ。もうイカサマなしにすっからさあ。いいだろ?」
「だめだ」
「何、じゃ、やっぱイカサマやっていいの?」
 ファールはわざとらしく両手を胸の前で組み、目を輝かせて見せる。
「頼みごとをしてきた者の言うことは、真剣に聞け」
 その言葉通り、自らの立場を切々と、しかし、いささかしつこく語っている老人の顔から、ラグーンは視線を外そうとしない。
「ちぇー」
 こうなったらラグーンの意見を翻させるのは、智恵を司どる双児宮神ゲミニでも難しかろう。ファールは口を尖らせて、すでに見飽きてしまった巡礼団の顔に、再び視線を戻した。
「ところで、お頼みしたい件ですが……」
 どうやら、巡礼団とシモンの話は、ようやく核心に達したらしい。それまで老人とシモンが何を話していたのか、ファールには分からなかったが、聞き返したいとは思わなかった。
「実は、我等のうち大事な娘が、拐かされたのです」
「……〈月の娘〉」
 ぽつりともらしたそのシモンの一言に、老人は目を見開いた。
「なぜその名を……」
「いやー、たまたま、さる文献で目にした言葉を思いだしただけです」
 唇まで震わせている老人を前にして、シモンの口調は変わりない。
「無論、詳細を知っているわけではございませんし、詮索するつもりなど、毛頭ございません」
「…………」
 しばし、老人はおし黙った。これまでにない強い視線で、シモンを見、ラグーン、ファールと順に視線を移していく。ファールは、ひょい、と首をすくめて見せたが、老人は表情を変えようとはしなかった。後に控える巡礼者たちも、一様に唇を堅く引き締めている。
「で、その娘さんを拐かした奴に、心当たりは?」
 涼しげ、と言うにはいささかふやけた声で、シモンが訊いた。再びその顔に視線を移した老人の厳しい表情にも、たじろぐ様子はない。
「西の丘の神殿跡に住む、狂信者ですじゃ。外法の法術に手を染めたかどで、神殿を追放された神官。名はカリヴス」
「ほほー」
「ご存知で?」
「噂だけは。……エールス建国の英雄エール復活の妄執にとりつかれた男とか。追放されはしたものの、もともと巨蟹宮神カンケルの神官長であったがゆえか、討伐隊どころか審問官さえ派遣されてないという話でしたね。これも、お国柄ですなー」
「…………」
 こくり、と老人は無言でうなずいた。目に、先ほどまでとは違う意味での、強い光がある。
「受けよう」
 唐突に、ラグーンが言った。
「は……?」
「娘を、その元神官から奪い返し、お前たちの元に届ける。それが頼みだろう」
「は、それが……」
 老人を含め、巡礼者たちはみな、ラグーンの率直な言葉に、一瞬、気を呑まれてしまったようだった。
「それが、我々は明日の朝から、聖地への巡礼に赴くため、街道を西に向かわなくてはならないのですじゃ」
「待てないか? 遅くとも、明後日には助けだせると思うが」
「次の満月までに、聖地についていなくてはなりません。女や老人もおりますし、男たちをこの村に残しますと、道中がいささか不安になります。かと言って護衛を雇うなど……」
「……分かった。助けた後で、馬なり馬車なりで追いかければいいのだな。そちらの歩みは遅い。半月もあれば、心配なかろう」
 そう言った後、ラグーンはぐい、と杯を干した。大人三人を酔い潰すのに充分な量の蒸留酒が、その喉を灼いたはずである。
 これは、ラグーンにとっては、話は終わった、という合図であった。実際、彼は杯を置いて席を立ち、片時も離さないその長刀を手に、悠々とした足取りで自室に向かっていったのだ。
「あ、ちょっとちょっと!」
 そんなシモンの慌てた声にも、耳を貸そうともしない。
しかし、シモンとファールにとって、話はここから始まるのだ。あっけにとられた様子の巡礼団に、できるだけ多くの報酬を約束させなくてはならない。
「……だいたい、娘さんの名前だって聞いてないってのに」
「娘の」名は、ティティス」
 シモンの、誰に言ったともつかないつぶやきに、老人は律義に答えた。



「しかしまあ、こんな大掛かりな罠とはな」
 床、天井、壁とも全て石組みの通路を歩きながら、口を開いたのはラグーンだった。あれだけ大きな音を響かせてしまった以上、もはや隠密行動はのぞめない。そのせいか、ラグーンの歩き方は大股で、身につけた鎧が音をたてることなど、気にも止めてない様子だ。
「神殿の建設と一緒に作られた仕掛けでしょうね。つまりこの洞窟――と言うより地下通路も、神殿と一緒に作られたはずです」
 せかせかとした足取りで、ラグーンから三歩ほど後を歩きながら、シモンが応える。
「奥には、秘密の儀式のための部屋があるのでしょう。しかし地下通路とは、死と再生の女神である巨蟹宮神カンケルに相応しい場所ですねー」
「……外、出られるかなあ? 地面の下で飢え死になんて、カッコ悪くてやってらんないよ」
 そう言うファールは、ラグーンの隣で、シモン以上に忙しく脚を交差させている。同い年の少年と比べても一回り背の低いファールと他の二人とでは、歩幅がかなり違うのだ。
「当然、奥の部屋には外に通じる出入口があるはずです。わざわざ自分で閉じこめられるための罠なんか作るわけないですから」
「だといいんだけどね、おいら、どーもヤな予感がすんだよね」
「どんな?」
「なんかこう、マタんところがムズムズする感じ……」
 言いかけて、ファールは唐突に足を止めた。
 それにならって二人も足を止める。ファールの訓練された耳が物音をとらえたのを、二人とも理解したのだ。
「歌……あんま上手くねえけど。……じゃねえや。なんか唱えてるみたい」
「呪文の詠唱でしょうね。儀式の真っ最中ってわけですか」
「どちらの方向だ?」
「前の方……この先、分かれ道ないみたいだしね」
「走るぞ。急いだ方がいい」
 言い終わらないうちに、ラグーンは走りだしていた。
 シモンとファールが、慌ててその後を追う。



 普通、闘いは、多く無言のうちに始まり、怒号の応酬となる。
 芝居のような台詞のやり取りはない。先に相手に自らの武器を当てた方が、主導権を得る。そのことを、冒険者も、その相手も知っているのだ。
 しかし、今回ばかりは勝手が違った。
「武器を置きたまえ。ごろつきの諸君」
 鉄製らしい大きな扉を乱暴に開いた三人を出迎えたのは、痩せぎすの、白い儀礼用の法衣をまとった男だった。
 顔に刻まれた皺は深いが、声や動作を見るに、老人というほどの年齢ではなさそうである。四十代半ばといったところだろうか。狂気を潜ませた薄青い目の上で切りそろえられた褐色の髪には、白いものがちらほら混じっている。
「……カリヴスか?」
 ラグーンが訊く。
「いかにも……。我が刃は、一突きでこの〈月の娘〉なる異端の命を、巨蟹宮神に捧げるであろうぞ」
 その言葉通り、男は、右手に不吉にねじれた儀式用の短剣を持ち、それを少女の首に当てていた。一行は、立ち止まらざるをえない。
 一辺十五歩ほどの大きさの、正方形の部屋である。天井は意外なほど高く、部屋の天地四方を、切り出された暗青色の岩が、隙間なく覆っていた。
 カリヴスの両脇には、やはり儀式用の燭台が立ち、それぞれ赤い蝋燭を五本づつ支えている。また、その背後には巨蟹宮を象徴的に表わすタペストリーが掛けられており、手前には黒く磨かれた石の寝台があった。
 少女――〈月の娘〉ティティスは、その寝台の上で、頭をカリヴスの方に向けて横たわっていた。薬か何かで眠らされているように見える。
 足を向けられたラグーン達からは、顔を詳しくうかがうことはできないが、肢体を見るにまだ幼い。成長という街道の、男女を隔てる分岐点を、最近ようやく通過したといった程の年齢に見える。ちょうど、ファールと同じくらいだ。
 シモンが、彼女の胸や腰のあたりを一瞥したあと、なーんだ、とつぶやくのを、ファールは聞いた。
「武器を置くとどうなる?」
 ラグーンが再び訊く。
「偉大なる巨蟹宮神カンケルの御業を目の当たりにする栄誉を与えよう」
「そいつは、願い下げだ」
「賢明でないな」
「よく言われる。頭が悪いとな」
「僕は、そんなこと言われたことないですよ」
 茶化すようにシモンが小声で抗議するが、カリヴスの耳には入らなかったようだ。
 奇妙な沈黙が、しばらく空気を支配する。
 しかし、それは何かが確かに進行している、そういう沈黙であった。着実に、このさして広くない部屋の中の雰囲気が、重くのしかかるようになってきている。
 ファールの耳は、それを音として捉えていた。
 ごくごく低い……聞き取れぬほど低い、それでいて重い音。規則正しい拍動。
(心臓の音に、似てる)
 そう、ファールが思った瞬間に、少女は目を開いた。
「イア、カンケル! 時は満ちたり。門は開かれたり!」
 それに応じるように、カリヴスが叫ぶ。
「贄によりて開く巨蟹宮の門に向かい、我、カバラにて伏して請い願う! 我がエールス建国の英雄エールを復活せしめんことを!」
 知らないはずの言葉によって紡がれる呪文の意味が、まるで、そのまま心に響いてくるかのように伝わってくる。失われた絶対神が、神々や世界を創造する際に用いた完全な言語にして、法術の力の源、カバラだ。
 ファールのみならず、他の二人も、その呪文に圧倒されたかのように動けなかった。
 少女の薄く開いた目から、光が漏れる。
 カリヴスの声は、すでに呪文の詠唱ではなかった。神の力を称え、それを目の当たりにした感動を、体に似合わぬ朗々たる声で歌い上げているのである。
 もはや、光っているのはティティスの目だけではない。彼女の全身が、星のごとく輝いて見える。
 まぶしくはない。柔らかいが、それでいて、どこか冷たい光……。
 星というより、月の光だ。
 そこに居合わせた四人は、ほぼ同時に、そのことに気づいた。
「――これは!」
法悦の極みにあったはずのカリヴスの顔が、疑惑に醜くひき歪んだ。
「カンケル様のものではない! 〈月の神〉の干渉か!」
 そのまま、右手の短剣を水平に走らせる。
 弾かれたように、ラグーンが動く。が、それは一瞬だけ遅かった。
 ぎいん!
 と鋭い音をあげて、愛用の長刀で短剣を払い飛ばしたラグーンの傍らの地面を、さあっと鮮血が叩く。少女の細く白い首からほとばしった血だ。
「く……!」
 さすがにラグーンの注意が、カリヴスから少女へとそれた。
「イア、カンケル!」
 カリヴスの狂気じみた気合が、そのまま力となってラグーンの胸にまともに炸裂する。魔法だ。法術による『衝撃波』の呪文である。
 ラグーンは、よろける足で、それでもどうにか踏みとどまったが、口からは赤い血がこぼれている。
「死ね!」
 さらに強力な法術を放つべく、カリヴスは複雑な印を結んだ。
「兄貴!」
 地面に張り付いたようになった足をようやく動かし、予備の小刀を構えてファールが走りかけた。シモンも、呪文の詠唱の準備をする。しかし、タイミング的に、致命的に出遅れている。ファールの背筋に、悪寒が走った。
 その時、信じられないことが起こった。
 喉を切り裂かれた少女が、起き上がったのである。
 いや、起き上がったというのは正確ではない。まるで、糸に操られるマリオネットのように、宙に浮きながら、足を下にするようにくるりと半回転したのだ。
 ちょうど、石の寝台の上に直立する形になる。しかし、寝台と足の間には、拳ひとつほどの隙間があった。
 見ると、カリヴスによって無残に切り裂かれたはずの喉には、傷一つついていない。ただ、彼女の血が、白と緑を基調としたその服を赤く染めているだけである。
 ファールは、初めて少女の顔をつぶさに見た。
 女らしいという言葉はまだ当たらないが、綺麗に整った顔だ。血を失ったためか、肌は驚くほど白い。そして、淡い色の柔らかそうな金髪。瞳は、未だ光を放ち、その色は分からない。
 ゆっくりと、少女は振り返った。
 印を結んだまま、呆けたようになっているカリヴスが、ティティスの光を放つ目の先にいる。
 何の前触れもなく、カリヴスの足が浮いた。ひきつったような、妙に高い悲鳴が、その口から漏れる。
 そして、その姿が唐突に視界から消えた。
 頭上で、骨が折れ、肉のつぶれる音。
 カリヴスは、見えない力によって天井に叩き付けられたのだ。まるで、上方に向かって急激に落下するかのように。
「な……」
 三人は、まさしく絶句していた。シモンなど、呪文を完成させるどころではない。
 ふうっ、と少女の体を包んでいた光が薄れていく。ファールは、ようやく少女の瞳の色をその目で確かめた。翡翠のような、美しく空ろな緑色だ。その目が次第に閉じていく。
 少女の華奢な体が、地面にゆっくりと降りていった。
 ファールはそれをあわてて抱きとめた。ひどく軽い。
 光が完全になくなると同時に、急に重さが戻ってきた。ファールは、不意をつかれたようによろけてしまう。
 その時、どさり、と表現するにはいささか湿った、なんとも嫌な音がした。
 天井に張りついていたカリヴスの体が、落下してきたのだ。
 体内の何もかもが、傷口からはみ出ている。確かめるまでもなく、即死だった。



 闇に包まれた空間は人の時間の感覚を狂わせる。しかし、三人は経験から、ここに侵入してからだいたい三時間、ちょうど昼頃であろうと推測していた。
 一行は、迷っている。
 迷いながらも、出口を探して進むしかない。
 カリヴスが儀式を行っていた部屋からは、ラグーン達が入ってきたもののほかに、左右に扉があった。双方とも、長く曲がりくねった通路に通じたものだ。
 しかしその二本の通路は、両方とも、同じもう一本の通路にぶつかっていた。今までのような、人工の通路ではない。断面の丸い、妙に壁面や天井がてらてらと光を反射するトンネルである。
 そのトンネルは、本来の通路を崩し、まったく別の通路同士をつなぎ、通路そのものを恐ろしく複雑にしていた。
「カリヴス君は、丘の神殿跡の方から入ってきたのでしょうね。罠を無効化する方法を知ってたんですねぇ」
 シモンが、ティティスを背負ってるラグーンの背中を見ながら、言う。たとえそれが老人や貴族であろうと、人を「君」付けで呼ぶのは、シモンの悪い癖である。
「どうして分かんのさ?」
 そう訊いてきたのはファールだった。
「まともな神経の人が、ワームの掘った穴くぐってきますか?」
「わーむ?」
「まあ、あの可哀相なカリヴス君が、しごくまともな常識人だった、などと言うつもりは、さすがにないですけどねー。しかしまあ、自分が儀式に利用しようっていう迷宮が、先にワームの住処になってるなんて、彼もよくよく不運な人ですねぇ」
「ちょ、ちょっと待った。ワームって……」
「間違いない。しかも、かなり大きいぞ」
 先頭のラグーンが、後ろを振り返りもせずに言い放った。
「壁を触ってみろ」
 言われて、ファールはそろりとトンネルの壁面をなでてみた。溶けたような外観からは意外なほど、堅い。つるりとした表面の感触は、まるで入念に磨かれた石を、油にひたしたもののようだ。
「やーな感じ」
「ワームが、かじった土砂を体液に混ぜて分泌して、通路を固めたんですよ。たぶん、通路をあとで利用するためなんでしょうねー。何しろ、地面を掘り進むってことは、体力使いますから」
 気味悪げに指をこすりあわせているファールに、シモンが説明した。彼らはこうやって、地下道の探究者としての基礎知識を伝授していくのである。
「注意しろ。まだ新しい……」
 そう、ラグーンが言いかけたとき――
 ずるり
 という低い音を、ファールは聞いた。
 あわてて、先頭のラグーンの短マントをつかんで止める。ラグーンは何も言わず、初めて振り返って、目線だけで確認した。ファールが、緊張した面持ちでうなずき、前、と指で示す。
 さらに、音。
 砂礫が地面に落ちる音だ。思いの外近い。シモンの操る炎のエレメンタルが放つ光の、すぐ圏外にいるようだ。前方の闇が、そのまま形をもって動いたかのような印象を与える。
 ゆっくりと三人は後じさり、十分な距離を取って、振り返った。
 その時、どん! という背後からの鈍い衝撃が、一行の足元をすくった。何か巨大な生物が動きはじめた音だ。
 一瞬遅れて、ラグーンたちが今まで来た道を走り出す。
 すぐ後ろから、革のような体表がトンネルの表面をこする音が響いた。
 振り返ると、トンネルの直径とほぼ同じだけの大きさのものが、闇から現われている。
 その円形の頭部は中央に巨大な口があるだけで、その他には何の造作もない。ごつごつした体表は得体の知れない粘液を分泌し、不気味にぬめっている。頭部の奥にあるはずの太く長い胴体は、未だ闇の中だ。
 ワームである。
 地下に棲息し、貪欲に大地を食らい、その住処に迷い込んだ生物を捕食する、巨大な環形動物だ。それが、総身を震わせ、トンネルの内壁をこすりながら、声をあげることなく前進する。
 速い。あれほど大きな生き物が、それも地中を進むスピードとは思えないほどだ。揺れに足を取られないように、それでも必死に逃げる三人の速度に、まったく遅れを取らない。
 いつ終わるとも知れぬ悪夢のような時間を、轟音と荒い呼吸が支配する。
 ――と、何本もの曲がり角を曲がり、いくつもの分かれ道を選んだ一行の前に、唐突に階段が出現した。
 通路の壁に寄り添うようにして築かれた、石組みの階段である。上りだ。
「……ありがたい」
 さすがに、そうラグーンがつぶやく。この階段を上れば、地上のどこかに出られるはずだ。
 そう遠くない場所で、ワームが体をトンネルの壁にこすり付けながら進む音が、はっきりと聞こえている。
 臭線をたどっているのか、その追跡は無気味なほど正確だ。そのせいで、距離はほとんど開いていない。
 ラグーンは、背負っていた少女をシモンに預け、自分は最後尾についた。先頭はファールである。
 敏捷に階段を上る二人に続き、ラグーンが階段に足を乗せかけたとき、それは現われた。
 ついさっき通ったばかりの曲がり角から、数本の、かすかに赤みをおびた白い触手が伸びてきている。太さは人の指ほどだが、驚くほど長い。ワームの舌だ。
 ワームには、目も耳もない。ただ、口からあふれるおびただしい数の触手で、空気中の匂いを察知するのである。
 ひらひらと頼りなく波打っていただけのその触手が、一本、また一本と、ラグーンの方を向く。
「だめだ、兄貴」
 ファールが、悲鳴のような声を上げた。
「天井に扉があんだけど、動かねえよ!」
 全ての触手が、ラグーンの方を向いた。
 そのまま、その細い触手に引っ張られるように、病的な黄灰色の本体が姿を現しかける。体がどこか狭いところに引っかかっているのか、ひどく緩慢な動きになっていた。
「シモン!」
 ラグーンがそう呼びかけたときには、シモンは呪文を唱え始めていた。
 太古の竜たちが、さまざまなエレメンタルと交わした契約の言葉だ。精神を集中させるためか、胸から下げた法具であるメダルを、きつく握っている。
 突如、ワームは巨体を動かした。
 まるで弾かれたような勢いで、ラグーンに飛びかかる。
 シモンの呪文が完成した。
 天井が一瞬にして崩れ去る。大地のエレメンタルに干渉して、頭上をふさぐ土を、砂に分解したのである。扉があるとはいえ、ここがどれほどの地底か判然としないのだから、これは危険な賭けだった。
 しかし、賭けは当たりであった。
 粒子の細かい砂をいやというほど浴びながら、ラグーンはさらに上方に、はっきりと青空を見たのである。予想通り、ちょうど中天に太陽があった。
 ファールと、右腕にティティスを抱えるシモンが、階段を蹴立てるようにして外に出る。
 次の瞬間、おそろしく巨大な力が、ラグーンを上方に放り飛ばした。
 ワームの突き上げるような体当たりである。
 まるで火山の噴火に巻き込まれたかのように、ラグーンは高々と宙に舞った。地上の、さらに上の空中である。
 すぐ足元に、今や触手を仕舞い込み、代わりに、何重にもなった無数の牙を突き出したワームの口があった。その直径は、ラグーンの身長を上回るほどだ。
 ラグーンは、かなり無理な体勢から、盲滅法に長刀を突き立てた。攻撃のためではない。ワームの体に自らを固定して、地面に激突するのを防ぐためである。
 長刀は、深々とワームの体に突き刺さった。すさまじい膂力である。
 さすがにこたえたのか、ワームの動きがしばし止まった。
 そのまま、ラグーンは惜しげもなく長刀を手放した。抱き付くような姿勢で、粘液にまみれたワームの体を伝い降りる。
 ある程度の高さで、地面に飛び降りた。転がりながら受け身をとる。
 ちょうどその時、ラグーンの体のすぐ側に、何か重いものが落ちてきた。ワームが、その体を地面に叩き下ろしたのだ。
 見ると、ワームは突如自分の周囲に出現した流砂の中で、傷から体液を撒き散らしながら、とまどったように体をよじっている。感覚が混乱しているらしい。
 日の光の下でみる長大なその姿は、よく言われるように、たしかに際限なく巨大化させた地虫に似ていた。しかし、むしろ動く大木といった喩えの方が、的を射ているようである。
 ワームを挟んでラグーンの反対側には、シモンとファールがいた。全身砂まみれだが、きちんと両足で立っている。今度は、ファールがあの〈月の娘〉を抱えていた。
 シモンは、次なる呪文を完成させようとしている。右手で複雑な印を切り、左手でメダルを握るという姿勢だ。銅色のメダルの表面にはかすかな光が縦横に走り、太古の契約の言葉を記号化したものを次々と表示している。
 突如、ワームの動きが激しくなった。
 今までは辺りの様子をうかがうためだけに、体を動かしていたようだったのだが、もはや、そのような悠長な動きではない。
 まるで、自分の体を叩き潰そうとしているかのように、大きくのたうち始めたのだ。明らかに苦しみに悶えている。
 ラグーンは、あわててその動きの範囲から逃げた。
 今度こそ本当の間一髪だった。ワームの体が、ラグーンの側を唸りをあげて通り過ぎたのである。触れてないはずなのに、衝撃だけでもんどりうってしまう。
 しかし、いかに悶え、のたうち回ろうとも、ワームの体はそれ以上地上に這い出ることはなかった。いや、むしろ少しずつながら、地中に飲み込まれつつある。
 言うまでもなく、シモンの呪文の力である。シモンが、再び大地のエレメンタルに干渉し、細かい砂にまで分解した地面を凝固させているのだ。今や流砂は固い大地に戻り、ワームを締め上げている。
 シモンは、今も太古の竜の言葉による呪文を唱え続けていた。わずかでも集中をそらしたりすれば、ワームの胴を戒めている力は弱まり、全ては水泡に帰するだろう。ワームは自由になり、ラグーン達はその圧倒的な力の前になす術もないはずだ。
 だが、ワームの動きは、次第に弱々しく、にぶいものになっていく。もはや地面にその体を横たえ、間欠的に痙攣のような動きを見せるだけだ。
「やったか……?」
思わず、ラグーンはそうつぶやいてしまう。
 と、不意にワームは、その体を大きく跳ね上げた。
 そして、まるで自らの苦痛の根本的な原因を探り当てたかのように、シモンに向けて、巨神の棍棒の如く自らの体を地に叩き付ける。
 シモンは集中を解いて、素早く後退した。
 あいかわらず、あまり緊張しているようには見えないその顔をこするようにして、ワームの頭部が落ちる。
 ずん……という衝撃に、シモンはさすがによろけた。
 もはや呪文は中断され、大地による締め付けは解かれている。しかし、ワームはぴくりとも動こうとしなかった。
 見ると、地表からはみ出た長い胴の一部が不気味にくびれ、変色している。
「……ふーっ」
 ラグーンは、大きく息を吐いた。しかし、それでもワームから目をそらしはしない。一方ファールは、ティティスを抱えたまま、へなへなと腰を落としていた。
「これは、けっこう遠くまで来ちゃったみたいですねー」
 シモンが、相変わらずな口調で、二人に語りかけた。呪文の行使は、魔法使いの精神と肉体の双方に、多大な疲労を強いる。しかしシモンの顔にはそのような影はない。
「どこだか分かるか?」
「さーあ?」
 ラグーンの問いに対する答えも、あくまで無責任だ。
「シモンさ〜ん」
 さすがに、ファールが抗議の声をあげる。
「魔法でなんとかならないのか?」
「さすがに、今日のところは打ち止めですねえ。疲れちゃいましたよ」
「そーは見えないけどなあ。いつもとおんなじだよ」
「おやおや」
 不満そうな声をあげるファールに、シモンは肩をすくめて見せた。
「無理して元気そうにふるまってるんですけどねー。……とりあえず、あの丘に上ってみましょう。きっと街道が見つけられますよ」
 そう言いながら、シモンが指差した丘の向こうから、まるで時期を見計らったように、数体の影が現われた。きらびやかだが、いささか機能性にかける鎧に身をかためた人馬である。
「ありゃりゃ?」
「騎士だな」
「多分、領主の手兵じゃないですかねー」
 三人がそう話している間に、その集団の頭らしき男が、馬を進めてた。声が届く距離で歩みを止め、話しかける。
「諸君が……」
 そのとき初めてワームの死体に気づいたのか、一瞬絶句したものの、その男は続けた。
「しょ、諸君が、拝月教徒の依頼を受けた者達か?」
 へたりこんだままのファールが、尋ねるように、ラグーンとシモンの顔を交互に見る。
「そうだ」
 思案顔のシモンをよそに、ラグーンは平然と答えてしまった。自らの行動にいささかの後ろめたさも感じていない様子である。
 無論、いかに宗教国家エールスとは言え、〈月の神〉を崇拝することが、すなわち命にかかわるような重大事というわけではない。また、その活動を助けたり依頼を受けたりするだけで、罪に問われるようなこともありえない。
 とはいえ、国を挙げての差別や偏見とは、時に、どのような処罰よりも重いものである。
「クルペオン男爵閣下がお呼びである」
 男は、ラーマンドの村を中心とするここ一帯の領主の名を出した。ファールはもともと丸い鳶色の目をさらに丸くし、シモンは大袈裟に手で頭を押さえる。しかし、ラグーンは落ち着き払って、こう答えた。
「手短に頼む。仕事中なんでな」



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