白 狼 伝



序章



 彼の勇者
 輝く長き腕の持ち主
 銀の戦士
 月の人
 建国の英雄たるエールは
 魔剣〈月霊剣〉アシュモダイにて
 全ての人狼の王
 暗き森の不死なる支配者
 赤き目の悪魔
 夜の公子
 〈白狼王〉リカオニウスを制したり
 かくしてエールは
 王国の礎を築きし後
 何者にもその真の名と姿を悟られることなく
 その頭に戴くべき宝冠に背を向け
 何処へともなく立ち去りぬ
 去りつつも曰く
 再び悪しき白狼の王の
 甦る日が来ようとも
 その時は我もまた必ず姿を顕さん
『月霊剣碑文』より



 そしてエールは、誰にも知られることなく、その場所に足を踏み入れた。
 〈月の民〉達の聖域にして、〈完全なる満月〉の昇る場所。その、地下の闇の中である。
 いや、そこは全くの闇ではなかった。あるかなしかの青い燐光が、まるで月のように、周囲を照らしているのだ。
 活性化された魔力が大気の中の精霊に力を与え、それが光となって現われているのである。
 エールの彫りの深い精悍な顔に、濃い陰影が浮かんでいる。その表情は堅く、唇は強く引き結ばれている。剣を握る右手が細かく震えているのは、緊張のためだろうか。
 彼が持つのは、かつて〈白狼王〉リカオニウスを闇の奥深くに封印した、〈月霊剣〉アシュモダイと呼ばれる魔剣である。その刀身は漆黒で、表面には、この世界の何者もかつて使用したことがない、禍々しい文字が刻まれている。
 エールは、青い闇の中で、老人と相対していた。
 その老人は、この空間の中央に描かれた魔法陣の中央に、無言で佇んでいる。
 この地に大いなる不幸と災いを招き入れた、強い魔力を自在に操る、伝説的な宮廷魔道師。
 その老人の目的は、ここであった。〈月の民〉の聖地、すなわちこの場所に溢れ、渦巻く大いなる力が、老人の望みを果たすためには必要だったのである。
 魔法陣の中にあって、魔力は特殊な言葉によって変成させられ、ある奇態な作用となって老人の肉体と精神を再構成していた。その姿はかつてエールが見知っていた姿ではなく、今や、青い光に包まれた幽鬼じみたものだ。
 かつて目のあったはずの場所が、青白く燃える炎のように、ひときわ明るく輝いている。
 それはもはや老人の姿ではなく、それどころか常の意味の人の姿ですらなかった。その周りで、実体を有するまで密度を上げた精霊達が、まるで祝福するかのように、断末魔の女の声に似た歌を唄っている。
 エールは、魔剣を構えた。
 それに応じるように、青白い人影が、両手を前に差し出す。
 次第に、この空間を照らす青い光は薄れつつあった。この光が完全に消えた時、老人の儀式は完成し、その望みが果たされるはずである。
 定命の者が抱く、最初にして最後の望み。
 その、不死への野望を打ち砕くべく、獣のような雄叫びをあげながら、エールは前方に大きく踏み込んだ。
 魔法陣がそれ自体強烈な光を放ち、魔力が無形の刃となって四方からエールの体に襲いかかる。
 しかし、それらはまるで〈月霊剣〉の力場に偏向させられたかのように空しく宙を薙ぎ、いたずらに地面に深い穴をうがった。
 魔剣の漆黒の刀身が真っ直ぐに突き出される。
 その切っ先に、場を占める全ての魔力が集約し、一瞬後、凄まじい波動となって二人の心と体を叩いた。
 声ならぬ声が隣接する次元を震わせ、精霊達を文字どおり雲散霧消させる。
 そして――
 あまりに多くの者を裏切り、かつての敵達に心ならずも建国の英雄ともてはやされた男は、深い深い奈落の底へと落下していった。
 闇が、再びこの空間を支配する。
 その闇の中を、長い年月が流れた。



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