第一章
私は、本当に妻を愛しているのだろうか。
時折、そう思うことがある。
客観的に見て、妻は、私にとってもったいないくらいの女だ。
大きな黒い瞳と活動的なショートカットが印象的な顔は、少し生意気そうな印象があるものの、何とも言えない愛嬌がある。
また、本人は、肉がつき過ぎているようなことを言うが、男の目から見れば、バストとヒップがまろやかに膨らみ、ウェストがきゅっと締まったそのプロポーションは、理想的とさえ言えた。
性格は、やや勝気なところはあるものの、明るくさっぱりとしており、よく気が付く。気が付いたことを口に出さないではいられないところは玉に瑕かもしれないが、万事控えめな私にはちょうどいいと言えるだろう。
妻の名前は、香織。私と同い年の29歳だ。子供は――いない。
「あなた、お弁当持った?」
「ああ、もちろん」
これから出勤、という私に、香織が、洗い物で濡れた手をエプロンで拭きながら声をかける。
「お昼食べたら、お弁当箱はちゃんと洗ってよ。とくに、パッキンのところはカビやすいから気を付けてね」
「分かってるって」
「そんなこと言って、この前は洗ってくれなかったじゃない」
もう、と香織が腰に手を当てる。
もちろん、別に本気で怒っているわけではない。単なるポーズだ。
それでも――この、よくできた可愛い妻の言動の端々が、私の心に、ごくかすかなささくれを生じさせているように思えることが、たまにある。
香織は、いわゆる“男を立てる”といった古臭い考え方とは無縁の女だ。いや、そもそも、今時そんな考えを持ってる女性の方が、珍しい部類に入るだろう。
一方、私は、香織に対し、いつも気後れのようなものを感じている。それは、彼女が自分にとって過ぎた妻であることを自覚しているからだ。
特に取り得も無く、ルックスもぱっとしない、平凡なサラリーマン――それが私、宮倉皓一である。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい♪ あ、あなた、玄関にあるゴミ袋、持ってってね」
「ああ」
私は、妻にそう返事をして、市指定のポリ袋を手に取った。
「宮倉さん、お茶です」
「ああ、ありがとう」
私は、机に茶碗を置いてくれた浦部琴音に、礼を言った。
彼女は、我が営業部の事務員である。確か、この春にどこかの名門女子大を卒業したばかりのはずだ。
すらりとした肢体に、ストレートの長い黒髪。そして、目鼻立ちの整った貴族的な顔に浮かぶ、おっとりとした微笑。
あまり観察してはセクハラのそしりを受けると思いつつも、つい、目で追ってしまう。
彼女は、今時珍しい、古風な感じの箱入り娘だ。その言動の端々に、育ちのよさが感じられる。
控えめで清楚で、それでいながら、その美しさによって人目を引かずにはいられない――男にとっては、一つの理想と言えるだろう。妻とは、ある意味で正反対のタイプだ。
もしかすると、私は、妻に彼女のようであってほしいと思っているのかも――
「宮倉さん、聞きましたか?」
噂好きの後輩に声をかけられ、私は、埒も無い思索を中断した。
「浅井のヤツ、昨日、部長に呼ばれたらしいですよ」
「ああ、やっぱりね。こってり絞られたんだろう?」
「そうです。まったく、気の毒ったらないですよ」
後輩が、人の悪い笑みを浮かべる。
浅井というのは、私の属する部署の新入社員だ。
真面目で働き者ではあるのだが、世間知らずの悲しさ、どうにも空気の読めないところがある。それゆえに、彼は、浦部琴音を昼飯に誘うという愚を犯してしまったのだ。
もちろん、浦部琴音は、誘われるままに浅井と昼食を取った。定食をおごられて素直に感謝しただろう。
そして、それが彼女の父親――浦部営業部長の知ることとなった。もしかすると、特に何の悪意も無く、琴音自身が話したのかもしれない。
それで、哀れな浅井は、延々と部長の叱責を受ける羽目になったのである。
浦部部長としては、娘に妙な虫が付くのを恐れてのことなのだろうが、その公私混同ぶりは異常だった。飲み会の席で彼女に卑猥な冗談を言った社員が、いびり抜かれた上にリストラされたとの噂さえある。
ならば、事務員などさせなければいいと思うのだが……恐らく、どこかで働きたいという娘の希望に対し、目の届かないところに行かれるよりはということで、妥協したのだろう。
本人は、そんなことを夢にも思っていないだろうが、琴音は、我が営業部において、いつ爆発するか分からない爆弾のように思われているのだ。
それでも、彼女の魅力に負け、虎の尾を踏んでしまう例は後を絶たない。
「まあ、浅井君の気持ちは分かるんだけどねえ」
「またまたぁ、宮倉さん、あんな美人の奥さんがいるのに、何言ってるんスか」
後輩が、いつもの調子で私をからかう。
美人の奥さんか……半分は世辞だとしても、その評判は私にとっていささか重荷になっている。
それとも、私が、もっと自信に満ちた強い人間だったら、こんな思いは抱かずに済むのだろうか。
「さて、僕は、営業回りに行ってくるよ」
私は、後輩との会話を適当に打ち切り、席を立った。
私の仕事は、建築会社の営業である。肩書きにはいろいろとご大層な横文字が付いているが、やることは普通の平社員と同じだ。すなわち、受注のお願いをするために、方々の取引先を回って顔をつなぐことである。経験年数が増えることで扱う仕事も大きくなったが、労働量にはさして変化は無い。
私は、スケジュール管理のためのホワイトボードに、“行き先:羽黒興産、その他”と書いて、オフィスを出た。
「よう、宮倉。まずは飲めよ」
「先輩、かんべんしてくださいよ。僕は勤務中ですよ」
私は、頭を掻きながら、愛想笑いを浮かべた。
「クソ真面目なこと言いやがって。どうせ、事務所にゃ戻らず直帰なんだろ?」
そう言いながら、目の前の男が、グラスの中の洋酒を立ったままあおる。
男の名は、羽黒玄滋。羽黒興産の社長にして、私の高校時代の先輩だ。
とは言え、私は、未だに羽黒興産なる会社がどのような業務活動を行っているのか把握していない。これまで何度か注文を仲介してもらったりしたことはあるが、いずれも、仕事の内容はどこか胡散臭いものだった。
事務所に出入している人間も、どうも堅気とは思えない。いや、もっとはっきり言えば、裏社会の連中だと思う。
とは言え、私にとって、大事なコネの一つには違いない。
そういうわけで、私は、羽黒に呼び出されるままにここを訪れ、事務所の奥に位置する応接室で、革張りのソファーに尻を沈めているのである。
「で、今日はどんなお話なんです?」
私は、平静を装いながら、羽黒に尋ねた。
いったいどんな無理難題を吹っ掛けられるのか――そんな懸念が、私の中にある。
今日の羽黒興産には、私と、この羽黒しかいないらしい。
羽黒興産は、繁華街のビルの1フロアを使って、事務所や応接室などにしているのだが、その事務所に、全く人がいなかったのである。もしかすると――そんなものがあるとしての話だが――定休日なのかもしれない。
私は、顔には出さなかったが、警戒していた。
羽黒には、服役歴がある。
そもそも羽黒とは、高校時代、同じサッカー部だったというのが縁である。羽黒はレギュラーであり、私は最後まで補欠だった。ちなみに、その時にマネージャーをしていたのが、今の私の妻――香織だ。
私と羽黒の関係は、けして良好なものではなかった。と言うより、私が、1つ先輩であるこの男に、一方的に苛められていたのだ。羽黒はもともと粗暴な性格だったが、ひ弱な性格の私は特に彼のターゲットになりやすかった。
そして、そんな私を事あるごとに庇ってくれたのが、香織だった。ただし、私と彼女が男女として付き合いを始めたのは、偶然同じ大学に進学してからである。
一方、羽黒は、高校を卒業する前に傷害事件を起こし、自主退学ということになっていた。
その後、怪しげな連中と付き合うようになり、複数の罪で検挙されて、数年間、刑務所に入っていたというのだ。
そして、数ヶ月前に出所し――どういうわけか怪しげな会社の社長となっており、私に接近してきたのである。正直、最初にオフィスに電話をかけられた時には、まさか彼だとは思わなかった。
「まあ、そう構えるんじゃねえよ」
その浅黒い顔をニヤつかせながら、羽黒は、私の右隣に座った。
「別に、お前にとって悪い話をしようってんじゃねえんだ」
「は、はあ……あの、この前の注文の件でしたら……」
「馬鹿。仕事の話じゃねえ」
羽黒が、馴れ馴れしく私の肩を左腕で抱きながら、ごつい体を寄せる。
「宮倉に返してほしいモンがあってな」
羽黒は、内緒話をするように、声を潜めた。
「は……?」
「とぼけんじゃねえよ。俺はな、わざわざ話がしやすいように、こうやって二人きりの場をセッティングしてやったんだぜ」
わざわざと言われても、とても感謝する気になれない。
いや、それどころか、私は、今すぐにでもこの場を逃げ出したくなっていた。
まるで、高いところに登って下を見下ろしてしまった時のように、股間がむず痒い。
「宮倉……お前、香織と結婚したんだってな」
「え……ええ」
心臓に、正体不明の圧迫がかかる。
目の前の男が――高校時代、ことあるごとに私をいびり、小突き回していた男が――私の妻を呼び捨てにしている。
「香織はな、俺の女だ」
「な……何ですって?」
自分の口から漏れたその声は、ひどく震えていた。
「ガッコで玉蹴り遊びしてた頃から、アイツは俺の女だったんだよ。知らなかったのか?」
確かに、サッカー部で活躍する羽黒は、その長身と野性的な雰囲気で、女子に人気があった。
マネージャーだった香織が、羽黒と付き合っているという噂も、私は聞いたことがあったのだ。
しかし――しかし――私が事の真偽を軽い調子を装って問い質したとき――香織は否定したのだ。羽黒先輩と付き合ってたことなんて無いわよ、と――
私は、それを信じた。
妻は、当時から気が強く、羽黒のような自己中心的な男の彼女になるような性格ではなかった。それどころか――他のサッカー部員たちの前で自分と付き合うよう言った羽黒を、素っ気なく振ったことさえあったのだ。後輩を苛めるような人と付き合う気はありません、と言って――
だから、私は、香織と羽黒が陰で付き合っているなどということはあり得ないと、ずっと信じていた――いや、自分に言い聞かせていたのだ。
なのに――なのに――
「アイツ、処女じゃなかっただろ? 香織のバージンはな、高坊の時に俺が美味しくいただいたんだよ」
羽黒の苦みばしった顔に、吐き気を催すほどの下劣な笑みが浮かんでいる。
私は、名状しがたい激情に、目の前が赤く染まっていくのを感じていた。
「信じられねえか? だったら、証拠を見せてやってもいいんだぜ。秘蔵のビデオをきちんと取っといてるからな」
ビデオ? どんな内容の?
いやだ。想像したくない。いったいこの男が香織にかつて何をしたというんだ?
「香織は、いい女だ。お前にはもったいねえよ。なあ、俺のものなんだから、俺に返すのが当たり前だろ?」
羽黒の右手が、私のネクタイを掴む。
息が詰まる。苦しい。心臓の拍動に合わせて、こめかみが疼く。
「タダとは言わねえよ。お前には、きちんと代わりを宛がってやる。出血大サービスだぜ」
「う……うぅ……ぅ……」
「だから――香織を渡せ」
「な……何を……そんなことができるわけが……」
「おい、俺は、波風立たないようにわざわざ筋を通してやってるんだぜ? それにな、お前がうんと言おうが言うまいが、俺は香織を取り返してやる――!」
羽黒は、目を血走らせ、歯を剥き出しにしながら、私に迫った。
視界一杯に、獣じみた顔が広がっている。
この男は、私を殺してでも、香織を奪おうと――
「うぉ――おぅわあああああああああああああああああああああああああ!」
私は、叫び声を上げて、羽黒の顔面に向けて、額を突き出した。
チカチカと、白い光が、目の前で待っている。
頭が、ズキズキと痛む。
「う……ああぁ……」
私は、手で顔を覆いながら、声を上げた。
ゆっくりと深呼吸をして、そっと目を開く。
最初に視界に飛び込んできたのは、投げ出された両足だった。
「っ……ま、まさか……」
まさか死んでるのか? と思うほどに、その両足には生気が感じられない。
たかが頭突き一発で人が死ぬとは思えないが、しかし、当たり所ということもある。
それに、さっきのは、全身全霊を込めた、いわば渾身の頭突きだった。
それにしても――あの羽黒を昏倒させてしまうとは――これはやっかいなことに――
「ッ!」
私は、息を飲んだ。
羽黒ではない。目の前に倒れているのは、明らかに別人だ。
別人どころか、ソファーから転げ落ちて無様にひっくり返っているこの男は……
「ぼ、僕だ……」
洗顔のときに、いつも鏡の向こうにある、平凡な顔が、そこにある。
くたびれたスーツに、無難なデザインのネクタイ――それは、私が今朝、出勤する際に身につけたものだ。
「まさか……そんな……」
私は、応接室にある鏡に、自らを映した。
「――――」
絶句する。
鏡の中には、驚愕の表情を浮かべた羽黒の顔があった。
慌てて、まずは、床に転がった自分自身の顔に、手の平を当てる。
息はある。死体ではないようだ。
私は、震える手で、自分の体を揺らした。
次第に、手の力がこもっていく。
起きない。一向に起きる様子がない。
いや、もし起きたとしても、それは、私ではない。宮倉皓一の姿をした、別の何かだ。
そして、私は――羽黒玄滋の格好をしているものの、無論、あの男ではない。
つまり――私の意識だけが、羽黒の体の中に入り込んでしまったのか?
そんなことは有り得ないはずなのに、現に今、私はそれを体験している。
全身から冷や汗が流れ、ガチガチと歯が鳴った。
私は――私は、いったいどうなってしまったんだ――?
「か……香織に……」
家ニ帰ッテ香織ニ知ラセナクテハ。
なぜそう思ったかは分からないが、私は、そんなふうに考えていた。
もちろん、深い思慮の末の結論ではない。ただ、自らの見知った環境の中に身を置いて、日常を取り戻したいと、そう考えただけなのだろう。
ともかく、私は、私自身の体を羽黒興産の応接室に置きっ放しにして、その場を飛び出したのだった。
どうやって自宅に帰ったのかは、覚えていない。
おそらく、持っていた小銭で電車を乗り継ぎ、ここまで来たのだろうが、その時の記憶はすっぽり抜け落ちている。
空には、まだ太陽が高々と上がっている。恐らく、午後2時頃だろう。
両親の援助とローンによってようやく手に入れた、小さな一戸建て……ともかく、自分の家に帰ってきた。
ドアには、鍵がかかっている。
私は、ポケットに手を突っ込み、キーホルダーを取り出した。
――鍵が、合わない。
合うわけがないのだ。このズボンは羽黒のものであり、そのポケットに入っているのはあの男のキーホルダーである。私の鍵は、私のスーツのポケットの中にあるのだ。
私は、玄関脇の植木鉢をどかし、その下に隠している予備の鍵で、ドアを開けた。
家の中から、かすかなシャワー音が聞こえている。
香織が、庭仕事か何かで汗まみれになった体を、流しているのかもしれない。
私が靴を脱いで家の中に上がったとき、そのシャワー音が途絶えた。
足音を忍ばせることなく、バスルームに近付く。
「ね、ねえ……あなたなの?」
怯えた声を上げながら、香織が、脱衣場から顔をのぞかせる。
「キャ……!」
私の顔を見るなり、香織は、悲鳴を上げかけた。
今、人に来られたら、収拾が付かなくなる――
私は、バスタオルを体に巻きつけたままの香織の体を抱きすくめ、その口を手で覆った。
「んんっ! んっ! んうぅーっ!」
腕の中で、香織が暴れる。
「違う、違うんだ! 落ち着いてくれ! 僕だよ! 僕なんだ!」
必死になってもがく香織に、そう呼びかける。
しかし、香織の耳には、私の声は届いていない様子だった。いや、もし聞こえていたとしても、何のことだか分からなかっただろう。
「うあっ!」
香織が、私の手に噛み付いた。
思わず緩んだ私の腕から、香織が、するりと抜け出す。
私は咄嗟に手を伸ばし、バスタオルを掴んだ。
「キャアッ!」
バスタオルが外れ、香織が一糸まとわぬ全裸となる。
見慣れたはずのその裸身を前にして、私は思わず立ちすくんだ。
一方、香織は、その左右の手で胸と股間を隠しながら、廊下にへたり込んでいる。
「は、羽黒さん……」
香織は、どうやら私のこの姿を、きちんと羽黒として認識しているようだった。
しかし――今、妻の目の前にいるのは、外見は羽黒だが、中身は彼女の夫であるこの私なのだ。
その事情を説明しようとするのだが、焦りと、あまりの荒唐無稽さに、言葉が出てこない。
「出てって! 出てってください! もう、あなたとは終わったのよ! 私には夫がいるんです!」
やっぱり――
やっぱり、香織は、羽黒と付き合っていたのか――!
「ああぁっ! イ、イヤあぁーっ!」
香織の悲鳴で、我に返る。
私は、無意識のうちに彼女に襲い掛かり、その体を廊下に組み伏せていた。
「イヤっ! イヤっ! やめて……ああっ、イヤよっ! はなしてっ! このケダモノっ!」
我には返ったが、理性は戻っていない。
いや、私は、羽黒に妻のことを聞かされて以来、おかしくなりっぱなしなのだ。
まるで、赤く粘つくドロドロとした悪夢の中で今も煮詰められているような――
「ヒッ!」
妻が、鋭い悲鳴を上げる。
ズボンの中で堅く強張ったペニスが、彼女の太腿に触れたのだ。
私は、妻の両手首を重ね、左手で押さえつけたまま、右手を使って熱くたぎった肉棒を解放した。
「あ、ああぁ……そんな……いやよ、やめてぇ……」
妻が、凶暴なまでに反り返った剛直を見つめながら、声を震わせる。
私のではない――羽黒のペニスを凝視しながら――
「興奮しているのか、香織っ!」
「あッ……ち、違うわ! そんなわけないでしょっ! はなして! はなしてぇーッ!」
香織が、目尻に涙を浮かべながら、激しく身をよじる。
その声、その表情、その振舞い――いずれを取っても、普段の気丈な彼女からは考えられない。
私は、犬のように息を荒げながら、右手で妻の乳房をまさぐった。
「ああぁっ、い、いや……さわらないでっ! あうっ、うぐぐ……あううっ、いや、いやよ……ああぁっ!」
たっぷりとした乳房の感触を、手の平に感じる。
私は、香織の左右の乳房を、指が食い込むほどに強く揉みしだいた。
「あっ、うくうっ、うぐっ……あうう、い、いや……いやあぁ……やめて……あううっ……いやあぁぁぁ……」
妻の声が、次第に弱々しくなる。
私は、右手を香織の股間に滑り込ませた。
「ひいいっ! だめっ! そこはだめ〜っ!」
香織が、まるで火が付いたように暴れだす。
指先で秘唇に触れると、かすかなヌメリが、そこに感じられた。
「濡らしてるじゃないか、香織……!」
「くっ……そ、そんなことっ……あっ、あくうっ……」
中指を肉の割れ目に食い込ませ、ぐりぐりと刺激する。
「どんどん濡れてくるぞ……」
「そんな……ち、違うわ……あっ、あううっ……濡れたりなんか……濡れたりなんかっ……ううっ、あくうっ……」
妻が、悔しげに歯を食い縛りながら、かぶりを振った。
灼熱した血液が、ペニスを、はちきれんばかりに勃起させる。
私は、香織のクレヴァスから手を離し、白くムッチリとした太腿の間に腰を割り込ませた。
「あううっ……いや、いやあぁ……あっ、あううぅ……いやあぁ〜!」
香織が、上にずり上がって逃れようともがく。
その手が、電話機を乗せたサイドボードの足に引っかかり、大きく揺らした。
電話機の脇に置いてあった一輪差しの花瓶が床に落ち、砕け散る。
「やめて、やめてえっ! あうううぅ……い、いやよ……ああっ、助けてっ! あなた、助けてぇ〜!」
その言葉に、目の眩むような興奮を覚えながら、私は、腰を進ませた。
「はぐううっ!」
まだ充分に濡れていなかった秘唇を、赤黒い亀頭が強引に割り広げる。
「うああっ、うっ、うううっ……いやぁ……ひ、ひどいぃ……抜いてっ! 抜いてぇ〜! ああぁ、やめてぇ〜っ!」
香織の肉の割れ目の中に、羽黒のものだったペニスを侵入させていく。
幾重にも重なった肉襞をズリズリと掻き分ける甘美な感触――
だが、今、妻を犯す快感を享受しているのは、私自身なのだ。
「あ、あううっ……ひ、ひどい……あ、あああぁぁ……」
香織が、絶望に満ちた吐息をつく。
その秘唇は、いきりたった怒張を、根元までぐっぷりと咥え込んでいた。
私は、香織に覆いかぶさりながら、腰を使い始める。
「うっ、うくうっ、あっ、ああぁ……やっ、やぁあっ……あく……ひいいっ……」
膣内の粘膜が肉竿を擦り、たまらない快楽を紡ぎだす。
私は、妻の乳房を捏ね回し、乳首を指先で強く摘まみながら、さらに抽送を続けた。
「あうっ、うっ、うぐうっ……い、いやっ……やめてぇ……あっ、ああぁっ、あく……ンあああぁっ……」
私のより明らかに大きい羽黒の肉棒の先端が、香織の膣奥にまで届いている。
妻の蜜壷が愛液に潤み、ヒクヒクとおののきながら肉幹に絡みついてくる。
「あうっ、あっ、あぁん……ああぁっ……はっ、はくっ、うくっ……んっ、んくうっ、うっ、うくく……」
香織が、声を漏らすまいと、必死に唇を噛み締めている。
「感じてるんだな、香織……」
「うああっ……そ、そんな……そんなことっ……あっ、あぁン……ハァ、ハァ……レイプで感じるわけがないでしょっ……ひうっ、あひいぃン!」
その言葉とは裏腹に、香織の喘ぎには、甘い響きが混じり始めている。
ウネウネと蠢き、絶えず肉棒を刺激する膣肉は、まるでペニスを喜んで迎え入れているようだ。
「ああぁ……やめて……もうやめてぇ……あっ、あぁんっ……あたしには、夫が、夫がぁ……あううっ……ンああぁ〜っ」
「香織……香織っ……!」
肉棒をさらに激しくピストンさせながら、妻の唇を奪おうとする。
「い、いやっ……!」
香織は、体を悶えさせながら、顔を逸らした。
その可愛らしい耳たぶに舌を這わせ、歯を立ててから、首筋を吸い上げる。
「ああぁ〜っ! いや、いや〜っ! ばれちゃうっ! あ、あの人にばれちゃうっ! やめてぇ〜っ!」
妻の悲鳴を聞きながら、何度も何度もキスを繰り返し、赤い痕をつけていく。
興奮に、羽黒のものだった肉棒が、さらに膨張していく。
「うああぁっ……う、うそっ……こ、こんなにぃ……あっ、あううっ、うぐっ……はっ、ああぁっ、あひ……あぁ〜ン!」
香織は、自らを犯す巨根に圧倒されたように、その体をのけぞらせた。
妻の秘苑に腰をぶつけるように、激しい勢いでペニスを前後させる。
「ンああっ! いやっ、いやぁっ! もうダメっ! あっ、あああっ! あひっ、ひぁっ! あン! あぁン! ああぁン!」
妻の呼吸がせわしなくなり、その肌がほんのりとピンク色に染まる。
香織が――羽黒のペニスに犯されて、絶頂を迎えようとしている――!
衝撃が、一瞬にして興奮へと昇華し、射精欲求となって肉棒をビクつかせる。
「ああぁっ! ダメ、ダメ、ダメぇ〜! 中はダメっ! うあああっ! ゆ、許してえぇっ! お、お願いいぃ〜!」
香織が、まだ濡れたままの髪を振り乱しながら、哀願している。
私は、あまりの興奮にほとんど意識を失いかけながら、妻の体内に憎むべき男の精液をぶちまけた。
「あああああああ! イ、イヤあああああああああああぁ〜ッ!」
嫌悪の悲鳴を上げる妻の膣奥に、ビュッ! ビュッ! と勢いよくザーメンを発射し続ける。
香織は、そのしなやかな体をピンと硬直させてから、ビクビクと痙攣した。
「ひっ、ひううっ、うぐ……うあああぁぁ……出てる……な、中に出てるぅ……ああぁ……ひ……ひどいぃ……」
半開きになった唇をおののかせながら、香織が、茫然と呟く。
だが、その熟れた体は、本人の意思に反して、絶頂の快楽を貪り続けているように見えた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
私は、ゆっくりと立ち上がり、まだピクピクと震えている妻の体を見下ろした。
わずかに冷静さが戻り――自分のしでかしてしまったことの重大さに、今さらのように打ちのめされる。
私は――私は、自分の妻を――羽黒の姿で、強姦してしまった――
絶望的な悔恨が頭の中を真っ黒に塗り潰す。
そして、私は――股間からドロリと精液を溢れさせている妻をそのままにして、自らの家から逃げ出してしまったのだった。
私は、結局、羽黒興産の入ってる事務所に戻った。
事務所は、未だに無人だった。置き去りにしてきた私の体が、床にそのまま転がっている。
私は、取り敢えず、私の体をソファーに横たえた。
私の体は、まるで深い眠りの中にあるように、息をする以外に何の反応も示さない。
「どうして……どうしてこんなことに……」
私は、自分の体の置かれたソファーの傍に座り込み、ぶつぶつと呟いた。
どうしてこうなったのか、これからどうすればいいのか、ぐるぐると思考が回転し、それでいながら結論は一向に出てこない。
ただ、何がきっかけかは分かってる。
私が、羽黒の顔面に額を打ちつけたその瞬間――この、不可解な現象が発生したのだ。
霊だの魂だのというものは今まで信じてこなかったが、状況から見るに、私の精神が羽黒の体に乗り移ってるとしか考えられない。
私は、このまま、羽黒玄滋として、生きていかなくてはならないのか?
「冗談じゃない……そんなことは絶対にごめんだ……!」
私には私の人生がある。仕事があり、家庭があり――妻がいる。
しかし、私は――この羽黒の体で、妻を犯してしまった。
「どうすれば……どうすれば……どうすれば……」
――それは、単なる思い付きだった。
こうなってしまった時と同じことをすれば、元に戻るのではないかと、恐ろしく単純にそう考えたのだ。
いや、考えたというよりも、そのことが頭に浮かんだときには、もう実行していた。
私は――羽黒の体を操り、ソファーに横たわった私の体の額に、額を打ち付けたのである。
目を開けると、チカチカと明滅する視界の中に、天井があった。
「あ……」
戻っている!
何という……何ということだ。まさか、こんなあっさりと……!
私は、声を上げそうになりながら、体を起こした。
と、ソファーの傍らで、羽黒の体がぐったりとうずくまっている。
見ると、きちんと胸は上下していた。先ほどの私の体と同様、死んでいるわけではなさそうだ。
おっかなびっくりに体を揺すってみたが、全く起きる気配はない。
「…………」
私の精神……霊魂でも何でもいいが、それは、今、私の体の中にある。
だが、もしかすると――羽黒のそれは、私の精神に押し出されて、どこかに消えてしまったのかもしれない。
つまり……たとえ体が生きていたとしても、私は、羽黒を殺してしまったのか?
自らの考えに、カタカタとみっともなく体が震える。
早く――早くこの場を逃げなくては――
私は、羽黒のズボンのポケットに手を突っ込み、彼のキーホルダーを取り出した。
これさえあれば、この事務所の鍵を閉めることもできる。羽黒の死体――いや、厳密には死体ではないのだが――の発見を遅らせることも――
「すいません、失礼します」
「わっ!」
いきなり応接間のドアが開き、私は、思わず大声を上げた。
「アレ……誰っスか?」
部屋に入ってきた、派手なシャツを着たチンピラ風の若い男が、きょとんとした顔をする。
「いや、その、ぼ、僕は――」
私は、手に持ったキーホルダーをポケットの中に隠しながら、言葉を探した。
「ああ、もしかして社長のお客サンすね。今日は大事な話があるから邪魔するなとは言われてたんスけど、忘れ物しちゃって……ども、失礼しました」
意外なほどの礼儀正しさで、その若い男が頭を下げた。
「えっと……ああ、社長、また眠っちまってるんスね」
若い男が、しょうがねえなあ、と言いながら、羽黒に近付く。
「酒とかクスリとかのせいですかね。たまに、いきなり眠っちまうことがあるんスよ」
「は、はあ……」
「えーっと、申し訳ないスけど、ベッドに運ぶの手伝ってくれませんか? 隣の部屋、社長の寝室なんで」
若い男は、そう言って、羽黒の上半身を抱え起こした。いかにも、こんなことには慣れっこという様子だ。
私は、行きがかり上、羽黒の両足を持って、その体を運ぶのに協力した。
男の言葉どおり、応接室の隣は、寝室になっていた。その隣室は、どうやら浴室のようだ。
もしかすると、羽黒は普段、ここで生活しているのかもしれない。
「ども、ありがとうございました。で、そのう……そちらさんは、社長とはどういう関係で?」
「あ、うん……高校時代の後輩でね、最近では仕事上の付き合いもさせてもらってるんだけど」
「ああ、そうなんスか。ども、これからも宜しくお願いします」
また、若い男が頭を下げる。
「オレ、この事務所のモンで、田辺って言います。何でも申し付けてください」
そう言って、差し出した名刺を、私は、取り敢えず受け取った。
どうやらこの男は、私が、羽黒と昵懇の関係であると勘違いしているらしい。
「ともかく、これじゃあ話はできそうもないから、僕はこれで失礼するよ」
「分かりました。オレももう出るんで、そこまで送ります」
「あ、ああ、ありがとう」
私は、曖昧に肯いてから、田辺に送られるまま、事務所を後にした。
ポケットには、羽黒のキーホルダーが収まったままである。
「おっかえりなさーい」
「あ、ああ、ただいま」
普段と同じ調子の香織に出迎えられ、私は、思わず面食らった。
「どうしたの? ヘンな顔して」
「いや、その、別に何もないけど……」
そう言いながら、まさに今日、妻を犯したはずの廊下にちらりと目をやる。
そこには、彼女を凌辱した痕跡など、一切残っていなかった。
まるで、今日一日のことが、悪夢でしかなかったかのようだ。
しかし――
「あれ? 電話の横に、花瓶なかったっけ?」
「え? ああ、それなら、お掃除してる時におっこどしちゃった」
えへへ、と、香織が、バツが悪そうに笑う。
その首筋には、まるで、何かを隠すように、バンソウコウが貼られていた。
――香織は、今日、ここで何があったのか、全て自らの胸に秘めておくつもりなのだ。
彼女は……いったいどういうつもりで、自らの秘唇から廊下にこぼれた精液を始末したのだろう。
そのことを思うと、胸の中で、赤黒い何かがぐつぐつと煮えるような感覚を覚える。
「ほら、早く着替えて。もう夕飯の準備できてるんだから」
「あ、うん」
私は、内心の動揺を隠しながら、部屋着に着替えて食卓に着いた。
夕飯の献立は、いずれも、料理上手な妻が作ったとは思えないような、ひどい味だった。