解答編
――兄さま、抱いて。
彼女は、いつも通り無邪気な口調で、そう言った。
兄が、妹の求めに応じて、その白い体を抱き、肌に唇を這わせる。
ぞくっ、ぞくっ、と妹の体が震え、乳房が揺れた。
兄が、目を閉じ、妹の乳首を口に咥える。
――あふっ……。
妹は、白いシーツの上で、体をくねらせた。
兄の指が、腋から腰へのラインを、探るように愛撫する。
――んっ、あくっ、ふっ……ふぅん、あぁン。
妹の甘い声が、暗い部屋に響く。
――きもちいい……きもちいいの、兄さま……。
交互に乳首を吸われ、指先で転がされて、妹は、声をあげ続ける。
兄は、滑るように妹の体の上を移動し、白い肌に穿たれた臍の周囲を、舌で円を描くように舐めた。
そして、兄の手が、妹のしなやかな脚を開く。
――やぁん、恥ずかしいよォ。
妹は、そう言いながらも、ほとんど抵抗しなかった。
兄が、焦らすように、脚の付け根や、淫裂の周辺を口で愛撫する。
もどかしげに体をよじる妹のクレヴァスから、透明な蜜がとぷとぷと溢れた。
――あっ、ああん、に、兄さまァ……お願い……お願いよ……。
幼い口振りで、甘えるような、誘うような、そんな声をあげる。
兄は、呼吸をわずかに速くしながら、妹の腰を抱え、その秘部に唇を寄せた。
――ああぁンッ。
潤んだ秘裂を舌が抉った時、妹は、嬌声をあげて体をのけ反らせた。
尖った舌先が陰唇をねぶり、莢の中に隠れた肉の芽を刺激する。
――あんッ、あうッ、あン、あぁン、あううんッ……!
妹が、断続的に甘い悲鳴をあげる。
さらに溢れた愛液に口元を濡らしながら、兄は、妹の快楽に奉仕し続けた。
――あふぅんッ……兄さま、私、もうダメっ……!
びくんっ、と妹の体が、痙攣する。
執拗なクリトリスへの刺激に、達してしまったのだ。
兄は、体を起こし、はぁはぁと息をつく妹を見下ろした。
――あぁ……兄さま……私、欲しいの……。
妹の潤んだ瞳が、兄の顔と、そして隆々と反り返った陰茎を見つめる。
兄のペニスは、自ら漏らしてしまった先汁に濡れ、どこか威嚇的な外観を妹の視線に晒していた。
ひくん、と物欲しげに、妹の靡肉が収縮する。
兄は、妹の白く美しい体にのしかかり、腰を進めた。
――あんっ、熱い……。
赤黒く膨れ上がった亀頭が肉襞に触れた時、妹は思わずといった調子で口走った。
兄は、構わず、さらに腰を突き出す。
――ああんっ……はぁ……は、入ってくるゥ……!
ずりずりと入口の肉襞をこすりながら膣内に男根が入ってくる感触に、妹は、とろけるような声をあげた。
剛直の先端が、膣奥に達する。
兄は、じっくりと妹の膣内の温度を愉しんでから、さらに腰を突き出した。
――あふぅ……!
体の最深部を小突かれ、妹が声をあげる。
が、その顔には苦痛の色は無い。
兄は、歯を食いしばるような表情で、抽送を始めた。
――あんっ! あくっ! あうん! あっ! ああっ! あぁン!
兄の動きに合わせて、妹が、長く美しい黒髪を振り乱して快楽の反応を返す。
――あああんっ! いいっ! いいのっ! 兄さまぁっ! 兄さまの、きもちイイっ!
妹が、慎ましやかな唇を開き、叫ぶように言う。
兄は、さらに激しく、腰を繰り出した。
白い蛇のようにうねる妹の体が、兄の動きに押されるように、シーツの上をずり上がっていく。
――ああんっ! すっ、すごいィ! すごいの……! ス、ステキっ! あっ! ああぁーっ!
妹の体が悶え、その頭がベッドのヘッドボードに当たる。
だが、妹は、さらなる快楽をねだるように腰を浮かせ、兄の動きを体内へと迎え入れた。
ペニスが、泡だった白い愛液を膣内から掻き出すように、激しく前後する。
――あああっ! あっ! あああーっ! イイのっ! オチンポいいっ! 兄さまのオチンポきもちイイーっ!
妹の狂ったような声とともに、がつ、がつ、という堅い音が、部屋に響いている。
兄のペニスが一突きするごとに、妹の頭が、ヘッドボードに連続してぶつかっているのだ。
兄が、妹の乳房に手を重ね、その体をシーツに押し付けるようにする。
――んあああああああっ!
兄の爪が、妹の柔肌に容赦なく食い込んでいる。
その姿勢で、兄は、最後のスパートをかけた。
妹が、恍惚の表情を浮かべ、自らの右手の人差し指を噛む。
――んっ! んんンっ! んぐッ! ンーッ!
白い歯が細い指に食い込み、血が滲む。
その様を視界の隅に見ながら、男は、獣のような声をあげ、大量の精液を女の体内に放った。
――ンンンンンンンーッ!
兄と妹が、陸に揚げられた魚のように、びくびくと痙攣する。
時間が、止まった。
そして……再びゆるゆると流れ始めた時の中で、兄が、妹の体にぐったりと身を預ける。
妹も、その体を弛緩させ、虚ろな目を、天井に向けていた。
白い指から、鮮血が溢れている。
そして、その指には、今のようにして付けられたであろう傷が、いくつも跡を残していた。
「まさか、直接会ってもらえるとは思いませんでした」
林堂は、左ハンドルの深紅の車体から歩道に降り立った女に、そう言った。
週末の昼下がり。場所は、市街の中心地の道路脇だ。青い空では、大きな雲が強い風に運ばれている。
「私も、君にデートに誘われるなんて思わなかったわ」
女――永瀬みのりが、さっぱりと切り揃えられたショートの髪を掻き上げ、黒目がちな猫目を光らせながら、言う。
「誤解を招く表現はやめてくださいよ」
「なに、君、彼女いるの?」
「ええ」
きっぱりと答えた林堂に、みのりはチェシャ猫のような笑みを見せた。
「ま、いいわ。乗ってよ」
「そこらの喫茶店でお話を聞くというのではだめですか?」
「ダメ。私の話を聞きたいんだったら、車の中で。それが条件よ」
「――分かりました」
そう言って、林堂は、シャツの胸ポケットから携帯電話を取り出した。小さな液晶表示は、その電話がずっと通話状態であったことを示している。
「瑞穂、聞こえてたか? そういうことだから」
林堂の言葉に、さすがにみのりは笑みを引っ込める。
林堂は、涼しい顔で、携帯の通話スイッチを切った。
「どういうこと?」
「どうって……あとから説明するよりは、聞いといてもらった方がいいかな、と思いましてね」
「彼女に誤解をされないように、ってこと?」
「ええ。俺の方から誘ったなんて思われたら、たまらないですから」
「いやな奴ね、君って」
そう言いながらも、みのりは、再び唇に笑みを浮かべた。
「あなた、姫園さんの家の事件を解決した子でしょ?」
市街から郊外に車を走らせ、海岸沿いの道路に出てから、みのりは、助手席の林堂に訊いた。
「解決、というのとはちょっと違うと思いますけどね」
「そうなの? でも、そういう噂よ。……私、いつか君と話をしてみたかったんだ」
「光栄ですよ。あんまり面白い話はできないと思いますけどね」
まるで緊張した様子のない林堂の態度に、みのりが、ちらりと妙な視線を寄越す。
「それに、むしろ話を聞きたいのは俺の方ですし」
「事件解決のために協力してって? ――まさか、そんなドラマみたいなセリフ聞けるとは思わなかったわ」
「でしょうね」
林堂が、神妙な顔で言う。
しばらく車を走らせてから、みのりは、口を開いた。
「麻弓は、ヘンな子だったわ。うん、おかしな子だった」
「……」
「私も、彼女の事故と、そのあとの状態について、話は知ってるから、あまりこういうふうに言いたくないけど……すごく奇妙な子だった」
「いろいろ言い争いをしてた、という話ですけど?」
「言い争いというか、口げんかね。私も大人気なかったわ。相手が子供と同じだってこと、つい忘れちゃって」
「子供と同じ、ですか……」
「そう。子供みたいに、ずるくて、甘ったれで、自己中心的だったわ」
前方を睨みながら、みのりが言う。
「手厳しいですね」
「だって、そういう態度を、自分と同い年の女がするのよ。男にとっては可愛いで済むかもしれないけど、同性にしてみればたまったもんじゃないわね」
「正論だと思いますよ」
林堂の口調は、あくまで涼しげだ。
みのりが、むっとした顔をで、乱暴にアクセルをふかす。
「それに、彼女、私が眞吾君に近付くのを、すごく嫌がってたわね」
「そうなんですか?」
「ええ、異常なくらいにね。兄さまを取らないでって、何度も言われたわ」
「なるほど……」
林堂は、その目に奇妙な光を浮かべた。が、みのりがそれに気付いた様子はない。
「彼女にとっては、眞吾君は唯一残された家族だから、そういう気持ちも分かるけど……。でも、私だって、眞吾君のことは嫌いじゃなかったし、ああ言われたら腹も立つわよ。親が決めた縁談だとしてもね」
いささか獰猛なエンジン音をあげながら、流線型のスポーツカーが、海岸に沿って疾走する。
林堂は、右手を口元で隠しながら、みのりに視線を向けた。
「でも、それだけですか?」
「え?」
「永瀬さんは、死んだ玉浦麻弓さんに、もっと別の印象を抱いていたんじゃなかったかと、そう思いましてね」
「……どうして?」
「さっき、永瀬さんは、彼女のことを“ヘン”だと言い、“おかしな子”と言いましたよね?」
「だって、ヘンでしょ。今の話からしても」
「事情を知らない人間にとってはそうかもしれません。でも、永瀬さんは、麻弓さんの特異な事情について知っていたし、理解も示しているじゃないですか」
「……」
「なのに、それでも“ヘン”という言葉を使ったのは、麻弓さんに何かもっと別のことを感じていたんじゃないかと思ったんですよ。例えば――自分と決定的に違う何かをね」
「……」
みのりは、ふーっ、と息を吐いた。
「確かに……それだけじゃ、なかったのよね」
「どういうことです?」
「何て言うか……麻弓は、いつも真剣じゃなかった。まるで遊び半分で生きてるみたいだったわ」
言いながら、みのりが、ちらりと林堂の方を見る。
「そういうとこ、ちょっと君に似てるかもね」
「俺は、これでも真面目に生きてるつもりですよ」
「ん、まあ、今のは言い過ぎかもね。でも、麻弓は――ぜんぜん、現実ってものに向き合おうとしなかった。誘っても、マンションの近所から離れようとしなかったし、自分からは人ともほとんど話そうとしなかった。自分の家の外には何の興味も無いみたいだったわ」
「……」
「それに――麻弓は、リストカットを試したことがあったわ」
「え――?」
「それも、何かに悩んでとか、そういうことじゃないの。何と面白半分で、自分の手首に刃物を当てて、傷を付けてたのよ。幸い、大事には至らなかったみたいだけど」
「……」
「そのくせ、兄さまと一緒に空を飛びたいとか、真顔で言い出すのよ」
みのりの言葉に、ぴくりと、林堂の細い眉が動く。
「そんな子と、どうやって付き合っていけばいいわけ? 私はね、こう見えてもリアリストなの。だから、雲が綿菓子でできてると思ってるような手合いが、どうしても我慢ならないし、理解もできないのよ」
「……何かあったんですか?」
「何もないわよ。失礼ね」
ふん、とみのりが荒い鼻息をつく。
「ただ、ね……自分のやってることが、非科学的だの、疑似科学だの言われることが多くてさ……。それに、心理学にそういうところもある、ってことは、確かだし……」
「フロイト先生の仮説は、未だにそのほとんどが仮説の域を出ていないですからね」
「ええ……。かと言って、迷路にネズミを走らせて、それで人の心が理解できる訳じゃないってことも、分かってるしね」
「……」
林堂は、言葉を探すように、しばし沈黙した。
「でも、世界を語るのは自然科学だけの専売特許じゃないでしょう?」
しばらくして、林堂が口を開いた。
「文学や哲学だって、人の心は計れるし、世界を語ることもできますよ。要は考え方の道筋の問題だと思いますけどね」
「……」
「結局、学問ができるのは、新たな言葉を発明することだけじゃないでしょうか。その言葉を使って世界を解釈するのは、学問体系じゃなくて人間の方でしょうし」
「……言うわね、高坊のクセに」
「すいません。生意気でした」
「全くだわ」
ふふんと、みのりが、どこか嬉しそうな顔で笑う。
「――世界を解釈、って言ったわね」
慣れた手つきでハンドルをさばきながら、みのりは言った。
「ええ」
「君は、どんな言葉で、この世界を解釈してるの?」
「大して珍しい言葉じゃないです。――共同幻想ですよ」
「共同幻想?」
「幻想の共有と言ってもいいし、共感とか、シンパシーって言葉で置き換えてもいいと思います」
「世界は幻だとか、そういうことを言いたいわけ?」
「そんなに詩的なことじゃないですよ。ただ、そうですね……多くの人は、例えば原子論というものを実感はしていないですよね。でも、物が原子からできあがっているということは、多くの人が当たり前のこととして信じています。それは、一種の幻想の共有じゃないでしょうか」
「原子論を知らない人もいっぱいいるわよ」
「ええ。原子論を知らない人もいれば、太陽が核融合であることを知らない人もいる。大地が丸いことを知らない人すらいます。一方で、神の存在や、前世や来世を信じている人も大勢いる。金星がUFOに見える人もいれば、枯尾花を幽霊と信じ込んでしまう人もいる。信じている人にとってはそれは本当のことであり、それを共有する人々の間では世界の一部です」
「でも、科学は迷信を駆逐してきたじゃない」
「自分でも信じていないことを言わないでくださいよ」
林堂は、少しだけ笑った。
「科学は方法でしかない。ある幻想に説得力を与え、より多くの人に共有させるための方法です。昨日までの科学的な定説がたった一つの数式によって引っ繰り返ることさえある。存在すると考えられていた惑星が実は無く、かつていたとされていた古生物が想像の産物となる。でも、かつてはそれは間違いなく世界を構成する一要素だったんです」
「極論ね、それは」
「じゃあ、世界には真実の存在があり、人はただそれに到達していないだけだと言うんですか?」
「客観的な事実ってものは、あるでしょう?」
「本当の客観なんてものは、無いですよ。それこそ幻想です。それに、もしあるとしても、人間がそこに到達することが永遠に不可能なのだったら、客観なんてものは人間にとっての真実じゃないし、少なくとも俺や永瀬さんにとっての真実でもない。そして、世界の本質でもない」
「……」
「それなのに、人は同じ物を見て、しばしば同じ反応を示す。同じリンゴをリンゴとして見て、同じ音楽を音楽として聴き、同じ物語に涙することさえある。人が世界から受ける印象は重なり合い、公約数を作る。いや、そういうふうに教育され、訓練されるんです。そうやって、人は、幻想を――世界を共有していくんです。共有された幻想が世界となり、共有されなかった世界は幻想になって個人の死とともに消えてしまう。――そう思います」
「ふふふっ……意外と饒舌なのね」
「しゃべり過ぎました」
林堂は、珍しく憮然とした顔をした。
「君の彼女は、そういう話にあんまり興味もってくれないわけだ」
「……まあ、そうですね」
意地悪な口調のみのりに、林堂が、不承不承という感じで肯く。
「面白い話を聞いちゃったわ。このままどこかのホテルに連れ込もうかと思ってたけど、かんべんしてあげる」
「笑えない冗談ですよ」
そう言う林堂に艶っぽい流し目を寄越してから、みのりは、いくつかの角を折れ曲がり、市街へと戻る道筋についた。
傾いた日の光が雲に遮られ、淡い灰色の巨大な影が、辺りを飲み込む。
「麻弓は――私とは違う世界にいたのかもしれないわね」
ぽつりと、みのりがつぶやいた。
日没とほぼ時を同じくして降り出した雨が、天地を濡らしていく。
林堂は、どこから入り込んだのか、建築中のマンションの最上階に近い一室で、一人佇んでいた。
足許には、ランプの形を模した電池式の電灯が、淡い光を放っている。
建物は、床も、壁も、天井も、鉄筋コンクリートが剥き出しだ。ドアや窓も無く、間仕切りの壁も一部しか施工されていない。
驚くほどがらんとした空間の中で、林堂は、懐中時計代わりにしている携帯電話のバックライトを点灯し、時刻を確かめた。
不意に、足音が響く。
人影が、廊下に続く通路に現れ、林堂のいる部屋に入ってきた。
「ここからだと、あなたの部屋がよく見えますね」
入ってきた人影にそう言って、林堂は、ちらりと背後に視線をやった。
「誰だ、君は」
まだ若い男の声が、響く。
「事件の目撃者ですよ。玉浦さん」
林堂が、男――玉浦眞吾に視線を戻し、言う。
「どういうつもりで……!」
「――今夜十一時、あなたの妹が死んだ夜に、あなたがいた場所で待ってます」
林堂は、自らの携帯電話の画面を見ながら、淡々とした口調で、続けた。
「あのメールを見て、ここにいらしたってことは、俺は自分の推論の蓋然性に自信をもっていいって事ですよね?」
「……」
玉浦は答えない。
玉浦の携帯電話のメールアドレスは、林堂が、みのりから聞き出したものだ。もちろん、林堂はそんなことを言うつもりはない。
「あの夜、あなたはここにいた」
林堂は、静かな声で、そう断言した。
「麻弓さんは、眠っていたかもしれない。もちろん、それはあなたにも分からない。いや、麻弓さん本人にも、分かっていなかったかもしれない」
林堂の奇妙な言葉に、玉浦が、びくりと体を震わせる。
「たぶん、あなたは、ここから電話をかけた。その、胸ポケットに入っている、俺のメールを受け取った携帯を使って」
「……」
「そして、こう言ったんでしょう? “外の公衆電話からかけてるんだ”と」
「な――」
玉浦は、目を見開いた。
「何者なんだ、君は?」
「麻弓さんは、その言葉を疑わなかった。そもそも、麻弓さんが携帯電話というものをきちんと理解していたのかどうか怪しいものです。何しろ、十年前にはそんなものは今ほど普及してませんでしたからね」
「……」
「ベランダに出ると、下の公衆電話のところにいると思っていたあなたが、目の前にいた。この、明かりの付いていない未完成の建物のベランダにね。もしかしたら、あなたは危険を承知でベランダの柵の外に出ていたかもしれない。自分の言葉をより信じさせるために」
「き……君、は……」
あからさまにうろたえた様子の玉浦を前にして、林堂が、自分の表情を隠すかのように、右手で口元を覆う。
「麻弓さんには、あなたが公衆電話のところからここまで、空を飛んできたように思えたでしょうね」
「……っ!」
「あなたはこう言ったんじゃないですか?」
林堂は、一拍おいて、続けた。
「“今夜なら、お前も飛ぶことができる”とね」
ひゅっ、と音が響いた。
玉浦の喉の奥から漏れた音だ。
その見開かれた目は血走り、頬は固く強ばっている。
「麻弓さんが横を向くと、ベランダにはサンダルと、おあつらえ向きな階段まである」
まるで見てきたことを語るような口調で、林堂は言った。
「そして、麻弓さんは、あなたが作った段差を昇り――」
「や……やめろ……っ!」
「――そして、歩道に落ちた」
林堂は、玉浦の悲鳴にも動じることなく、淡々と言葉を続けた。
玉浦の拳が、ぶるぶると震えている。
暗闇の中、時間だけが、過ぎた。
「――なぜ、試したんです?」
林堂は、再び口を開いた。
「試した……だって?」
「そうでしょう? 今、俺が話したことは、殺人の方法としては、あまりにも確実性が低すぎる」
“殺人”という言葉を、林堂は、ごくごく自然に発音した。
「もし、普段から一緒に暮らして、相手のことをよく知っている家族だとしても、相手の妄想なんかに付け込んで行われる行為は、殺人計画とは言いがたいと思いますよ」
「君は……何が言いたい?」
玉浦は、喉から声を絞り出すように言った。
「僕は――僕は、麻弓が邪魔だった。だから殺そうと思った。麻弓が、空を飛びたいといつも言っていることは知っていた。だから、だから、それを利用した。絶対にばれない、ばれたって罪に問えない方法を選んだ! それだけだ! それだけなんだ!」
唾を飛ばして声をあげる玉浦を、林堂は、じっと見つめていた。
もし、林堂に近しい人間がこの場にいれば、今こそ、林堂がその頭脳の中で推理を展開させているのだということに、気付いたかもしれない。
だが、玉浦には、そんなことは分からない。
この、正体の分からないほっそりとした肢体の少年が何を考えているのか、玉浦は想像する事もできなかった。
脂汗が、玉浦のこめかみから頬を伝う。
「十年前――」
林堂の声に、びくりと玉浦は震えた。
「母親と一緒の車にのっていた妹さんは、事故に遭いましたね」
「そ、それは……」
「あなたは、車に一緒に乗ってなかった」
「あの事故は……違う……あれは……あれは、僕のせいじゃない……」
「あなたに、原因は無かったと?」
「違う、違うんだ! あれは……あれは麻弓の方から誘ってきたんだ。いつもそうだった! 十年前も! 麻弓が目覚めてからも!」
「麻弓さんが……? 妹さんの方から?」
「そうだ……なのに……僕の方が、悪者にされた……」
「だから、引き離された。――そうだったんですね。その時に、あなたの母親と妹は事故に遭った」
「……」
「じゃあ、あなたは麻弓さんを愛していなかったんですか?」
「……」
「本気ではなかった?」
「いや、本気だった……。本気で愛していたさ……」
「本当に?」
「ああ……なのに……」
玉浦は、もう、自分が何に対して答えているのか、分からない。
降りしきる雨に濡れた未完成の建物の中、玉浦は、人の形をした表情の無い闇と問答をしている。
それは、まるで漆黒の鏡に映った自身の影のようでもあった。
「なのに、脳の器質的な障害のために、妹さんはまるで夢の中にいるようだった。いや――まだ自分が夢から覚めていないと思い込んでいた」
林堂の声が、響いた。
「あなたは、結婚するために邪魔な妹さんを排除したんじゃない――愛する対象が、自分と違う世界に居ると思い込んでいることが許せなかったんでしょう? 世界を共有できていないことが我慢ならなかったんじゃないですか?」
「ひ――」
玉浦が、声を引きつらせる。
「妹さんは夢の世界に棲んでいた。そして、あなたは、そうじゃなかった。あなたは、それを否定したくて――どうにかしたくて――賭けに出て――失敗した」
「ひあ、あ、あああ、あああああああ」
がく、と玉浦はその場に膝を付いた。
「僕は、僕は、どうしたら――」
「もう、どうしようもないでしょう。あなたは十年前に妹さんと関係し、妹さんの目が覚めた後もその関係を絶つことができず、あまりにも些細でありながら根本的な差異を埋めようと足掻き、そして、死を実感させることで妹さんの心を取り戻そうとして――結果、死なせた」
「僕は――」
「あなたは殺人を犯したんじゃない。だから法に基づいて罪をあがなうことはできない。それに、自ら死を選んだって、死んだ妹さんに会えるわけではありません」
「そんな――」
玉浦は子供のような声をあげた。
不意に、林堂が、足元の電灯を拾い上げ、歩み始める。
そして、建材剥き出しの床にへたりこみ、ひいひいと泣くような声で喘いでいる玉浦の横を、通り過ぎた。
「僕は、どうしたらいいんだ?」
「――絶望していればいいでしょう」
振り返りもせず、林堂は言った。
「そんな――ひどい――どうして――どうして僕をこんな目に――」
闇に残された玉浦の声を背中で聞きながら、林堂は、廊下に出た。
そして、しばらく、歩く。
「――瑞穂にあんな場面を見せたからですよ」
林堂は、誰にも聞かれないように、ごく小さな声で、呟いた。
数日後。
夕日に照らされた放課後の教室で、机に突っ伏していた瑞穂は、ゆっくりと顔を上げた。
教室には、誰もいない。
「……おはよう」
そう、傍らから声をかけてきた林堂以外は。
「んあ――あふぅ……あたし、寝てた?」
「ああ。ぐっすりと」
「HR、終わっちゃった?」
「とっくにな」
言われて、瑞穂は、壁に架かっている時計の時刻を確かめた。
下校時間になってから、2時間以上が過ぎている
「……ずーっと、あたしが起きるまで待っててくれたの? 2時間も?」
「ああ」
何でもなさそうに、林堂が答える。
瑞穂は、むー、と林堂の顔を見つめた。
「智視ちゃんがこんなに優しいなんて、これって夢かな?」
そう言って、むにー、と自分の頬を子供のようなしぐさでつねる。
「痛いや。夢じゃないみたいね」
「ああ」
笑いをこらえるような顔で、林堂が返事をする。
「最近、ちょっと寝不足でねー」
んー、と伸びをしてから、瑞穂は言った。
「だろうな」
「あのね……夜になると、つい思い出しちゃって……」
「……」
林堂は、痛ましげに、その眉を寄せた。
「でも……分かんないなあ……自殺する人の気持ちって……」
「……だな。俺もそう思う」
林堂が、静かな口調で言う。
「やっぱり、飛び降りた時、痛かったのかな?」
瑞穂は、片腕で自分の体を抱くような仕草をしながら、言った。
「それは無かったんじゃないかな。俺が聞いた話じゃ、彼女は、痛みを感じることは無かったみたいだぜ」
「え?」
瑞穂は、その可愛らしい丸顔に、驚きの表情を浮かべた。
林堂が、言葉を続ける。
「玉浦麻弓は、交通事故の後遺障害で、無痛症だったそうだよ」