二学期の終業式が午前中で終わり、生徒たちは、コートの前をかき合わせながらも、どこか解放されたような顔で家路についていた。
空は、冴え冴えと蒼く、低く南の空にある太陽は、精いっぱいに地面を照らしている。
そんな太陽の光から隠れるように、体育館の裏で、二人の生徒が対峙していた。
月読舞と、姫園克哉だ。
舞は、どうにか会話ができるぎりぎりの距離を開け、警戒心を露わにしながら、姫園と向かい合っている。
「キミの方から呼んでくれるなんて、光栄だね。場所がこんな所だとしてもさ」
秀麗な顔を巡らせながら、姫園は、やや皮肉げな口調で言った。
「どういう、つもりなの……?」
舞が、その形のいい眉をきつくたわめながら、言う。
「何が?」
「郁原のことよ」
「ああ、カレのことね」
ふっ、と姫園は、笑みの形に口元を歪めて見せた。
「どうもカレは、美術部の後輩には、本気じゃないようだね」
「……」
「でも、神聖なる学び舎であんなことをしていたのは事実さ。写真、見せたろ?」
「……」
舞が、ぎゅっ、と唇を噛む。
「だから、どうだって言うのよ……。姫園くん――あんたには関係ないでしょ」
「それが、そうでもないんだよね」
そう言いながら、姫園は、ゆっくりと舞に向かって歩を進めた。
舞が、じりじりと後ろに下がる。その背中に、体育館の冷たい壁が触れた。
「カレとボクとは、近いうち、勝負をつけることになってるんだよ。キミを賭けてね」
「え――!」
舞が、目を見開く。
「なかなか青春な話だろ?」
「そ、そんなの、無意味よ! 誰が勝とうが負けようが、あたしは知ったこっちゃないんだから!」
「そりゃそうだ。それは、カレだって承知の上だと思うよ。ただ、負けた方はキミに会わせる顔がなくなる。それで充分だろ?」
「そん、な……」
「それにね、実を言うと、最近、キミよりカレをからかってる方が面白いんだ」
「な……っ!」
絶句する舞の顔を見つめる姫園の色素の薄い瞳が、いつになく輝いているように見える。
「だから、ずいぶん時間をかけちゃったよ。まあ、カレも、何やら秘密の特訓でもしてるみたいだからね。ちょうどいいって言えばちょうどよかったんだけど……でも、カレの真剣で悲愴な顔を見るのは、楽しかったなあ。これから休みになるのが残念だよ」
鼠をなぶる猫が笑みを浮かべたらこんな顔になるのではないか、というような微笑みを浮かべながら、姫園は、舞に迫った。
「分かる? 分かるよね。キミだって、さんざカレをオモチャにしてきた口だろ」
「ち、違う……あたしは……」
「それとも、本気だったのか? ――だったらますます、面白いね」
はっと気付いたときには、微笑みを浮かべた姫園の顔が、間近に迫っていた。
舞の足は、まるで凍り付いてしまったかのように動かない。
「最後の夜のこと――覚えてる?」
そう、姫園が言ったとき、舞は、おぞましさのあまり嘔吐感すら覚えていた。
眉をたわめ、両手で口元を押さえる舞の顔を、姫園が、奇妙に光る目で見つめている。
「おや?」
と、やや緊張感を欠く声が、その場で張り詰めた空気を一気に弛緩させた。
「ヨリを戻した――って雰囲気じゃないな」
そう言いながら、体育館の影から現れたのは、林堂智視だった。
と、舞が、まるで呪縛を解かれたかのように走り出す。
舞が横をすりぬける勢いで、林堂の、後で結ばれた髪が、ふわりと揺れた。
「おやおや……お邪魔だったかな?」
「まあね」
そう言いながら、姫園が、穏やかな微笑のまま、林堂に向き直る。
「男は引き際が肝心だぜ」
本気なのか冗談なのか、林堂が真顔で言う。
「林堂くん――キミ、5年前の事件のこと、調べてるんだって?」
林堂の言葉には答えず、姫園がそう言った。
「ちょっとした好奇心でね。……そう言えば、何か知ってることがあるって、瑞穂に言ってなかったっけか?」
「それって、西永さんのことかい? そんなこともあったかなあ」
姫園が、とぼけたように言った。
「確か、夏休みの直前だ」
「そうだっけか? ……ま、かなり込み入った話なんだけどね」
そう言って姫園は、ちょっと考えこんでから、続けた。
「じゃあ、こうしよう。イブの夜に、ボクの家でパーティーがあるんだ。招待するから、来てくれない? そこで話をするよ」
「あのお屋敷にかよ。一庶民としては、気が引ける話だな」
「そんなご大層なものじゃないよ。ボクの友人だって言えば、大丈夫なはずだから」
「ふうん……じゃあ、せいぜい正装してお邪魔するか」
そう言いながら、林堂がその場を去ろうとする。
「西永さんも連れて来てくれるかな?」
「ああ。あいつの分も、礼を言っておくよ」
そう言って右手を上げた後、ふと、林堂は振り返った。
「そのパーティーだけど……」
「何?」
「姫園の兄貴も、出席するのかな?」
一瞬、姫園の顔から表情が消える。
「さあ、どうだろうね。あの人とは、音信不通だから」
姫園が、微笑みを取り戻しながら、奇妙に静かな口調で言う。
「そっか」
そう言って、林堂は、校門へと歩き出した。
学校が、冬休みに入って3日目。すなわち、クリスマス・イブ。
昼ごろ、電話は突然かかってきた。
「もしもし」
「ああ、ボクだけど。……って言っても分からないかな? 姫園だよ」
その声を聞き、郁原竜児は、薄暗い玄関口で、ぎゅっ、と受話器を握り締めた。
「――今日、かい?」
そして、短くそう問いかける。
「話が早いね」
電話口の向こうで、姫園がくすくすと笑った。
「急で申し訳ないんだけど、大丈夫かな」
「うん」
さすがに硬い声で、郁原が応じる。その額には、未だ包帯が巻かれており、目尻や口元には痣が残っている。
「場所は……そうだなあ、学校なんてどうかな」
「学校?」
「ああ。午後5時から、管理会社の人が帰って機械警備になるんだ。だから、その後だったら、邪魔は入らないと思うよ」
「……」
「北側のフェンスに、破れ目があるのは知ってるだろ? そこから入れるから」
「分かった。じゃあ、午後の5時に?」
「うん。ちょっと天気が心配だけど……」
そんな姫園の言葉に、郁原は、ふと窓の外を見た。低い雲が空を覆い、今にも雪になりそうだ。
「これ以上引き延ばすと、叱られそうだからね」
「ネガ、忘れないで」
「分かってるよ。じゃあ、そういうことで」
電話が、切れた。
郁原は、何度か深呼吸をし、そしてゆっくりと受話器を置いた。
一方、林堂も、同じころ自宅で電話を受けていた。
電話をかけてきたのは、西永瑞穂だ。
「だからさあ、どんな服着てけばいいと思う?」
「いや、女の服には知識ないから……」
困ったようにそう林堂が答える。
「だって、パーティーだよ、パーティー! それも、なんか本格的なさあ」
「だな」
「昨日、姫園くんち見てみたら、なんかお城みたいな家だったし」
「お城かどうかはともかく、でかい屋敷だよな。個人の家のくせに駐車場があるんだから」
「あーもう、どうしようかな〜」
そう言いながらも、瑞穂の声は、どこは弾んでいる。
「智視ちゃんは、どうするの?」
「まあ、ジャケットにネクタイして……。あと、ジーパンはいてかなきゃ大丈夫だろ」
「男のコはいいなあ……あたし、きちんとしたドレスもスーツも持ってないし」
「んな気合い入れなくていいんじゃないの?」
林堂が、どこか無責任な口調で言う。
「高校生が友達の家に遊びに行くだけなんだしさ」
「そうだけどさあ……」
「あ、そうそう」
林堂は、ふと思いついたように、受話器の向こうの瑞穂に言った。
「なに?」
「靴だけど、ハイヒールとかはやめとけよ」
「なんで?」
「いや、何となく。きちんと走れるようなヤツにしといたほうがいいかもしれない」
「どういうこと……?」
瑞穂が、不思議そうな声をあげる。
「ま、念の為だよ」
冗談めかしてそう言う林堂の目は、しかし、笑っていなかった。
約束の時間になった。
雪が、降っている。
白い結晶の集積が、この街を覆っていく。豪雪地帯ではないが、それでも日本海側だ。この時期、必ずと言っていいほど、街は雪の洗礼を受ける。
赤と緑に装飾された街に雪が降る様は、いささかステレオタイプとは言え、それなりに心和む風景だ。
そんな街を無言で通り抜け、やや街外れにある、私立星晃学園へと、郁原は歩いていく。
途中、体を温めるために、ジョギングに切り替えた。
合成樹脂の軽いジャケットにジーンズという格好だが、走れば、それなりに暖かくなる。
汗をかいてしまわないようにペースを調整しながら、郁原は、学校の敷地の裏側にたどり着いた。
姫園の言っていたフェンスの破れ目を抜け、往来から死角になっている校舎裏へと歩を進める。
姫園は、すでにそこにいた。
「やあ」
そう言って、にこやかに右手を上げる。
黒いセミフォーマルのジャケットにスラックスという姿だが、特に寒そうではない。黒いロングコートと白いマフラーが、傍らの木の下においてあった。
ウォーミングアップをしていたのか、足もとの地面に乱れた足跡がついている。
「ネガは?」
郁原が短く訊くと、姫園は小さく肩をすくめた。
「まったく、キミはそればっかりだなあ……きちんと、持ってきているよ」
そう言って、姫園が、ジャケットの懐から封筒を出して見せる。
「じゃあ、始めようか?」
そう言って、姫園が、構えを取る。
と言っても、両手は下げられたままだ。足をゆるく開き、左足が、心持ち前に出てる。
このまま、自然と前に歩き出してしまいそうな、そんな姿勢。
郁原が、鋭い眼光を、姫園に注ぐ。
空は真っ暗だが、うっすらと積もった雪に街灯の光が反射し、辺りは思いのほか明るい。
ゆっくりと、郁原が前に出た。
姫園の制空権を探るように、じりじりと近付いていく。
姫園の顔には、ひどく嬉しげな笑みが浮かんでいた。その表情で、郁原の視線を受け止めている。
ぴたり、と郁原の体が止まった。構えは、とっていない。
姫園の間合いの、足先半分ほど手前だ。
長身の姫園に対し、体格で劣る郁原の間合いは、さらに奥にある。
姫園なら、郁原があと一歩を踏みこむ前に、致命的な蹴りを繰り出すことが可能だろう。
が、姫園の方から距離を詰めるとなると、その動きの中に、郁原が針の穴のような隙を見出しかねない。
静寂――。
二人の間の張り詰めた空気など知らぬげに、雪が、静かに舞い降り続けた。
と、姫園が口を開きかける。
「無駄だよ」
姫園が何か言う前に、郁原は言った。姫園が、郁原の動揺を誘うようなことを言おうとしていると見て取ったのだろう。姫園は、微笑みを浮かべたまま口をつぐんだ。
再び、痛いほどの静寂。
そして――
姫園の右足が、一閃した。が、郁原の体に届く距離ではない。
ぱっ、と足元の雪が舞い上がる。
打撃ではなく、眩惑を目的とした蹴りだ。
そのまま、姫園は右足を踏みこみ、左のローキックを放つ。
相手のスネではなく、膝関節を狙った下段蹴りだ。関節を破壊するための一撃である。速い。
が、郁原は、その時には大きく前に踏みこんでいた。
泥混じりの雪が顔を叩くのも構わず、目を開いたまま、姫園に迫る。
姫園の蹴りを、郁原は、右脚の外側で受けた。鋭い蹴りだったが、郁原が踏みこんでいる分、打撃ポイントがずれ、ダメージは少ない。
距離が詰まった。
郁原が、右の肘を姫園の顔に繰り出す。
「!」
その肘を、姫園が左の腕で受ける。
と、その時には、郁原はもう後方に跳んで距離を取っていた。
「……」
「……」
両者がにらみ合う。
姫園の顔からは、笑みが消えていた。
郁原の顔にも、何かに耐えるような、苦しげな表情が浮かんでいる。
自らの内にある枷を噛み砕こうとでもするように、郁原は、じっとりと汗をにじませながら、強く歯を食いしばっていた。
と、郁原が、両腕を上げた。
手の位置が高い。空手の構えとしては変則的である。ボクシング――いや、やや脇が空いているところは、ムエタイの構えに近い。
「キミは……」
姫園が、何か言いかける。
「肘は、反則?」
郁原が、静かな声で訊く。普通、空手の試合では、肘による打撃は危険過ぎるということで反則になる。
「まさか」
姫園が、再び笑みを浮かべながら、答える。
が、先程よりも、その微笑みには固さがあるようにも見えた。
また、二人の距離が縮まっていく。
と、先ほどの距離の取り合いが嘘のように、郁原はあっさりと姫園の攻撃圏内に侵入していた。
肘の間合いは、蹴りの間合いよりはるかに短い。姫園は、ほとんど反射のように、空いた郁原の左脇に鋭い中段蹴りを放っていた。
郁原が、慌てたように、左腕のガードを下げる。
「ッ!」
姫園は、大きく後に跳んでいた。
その額に、じっとりと汗が浮かんでいる。
郁原が、蹴りに来た姫園の右脚を、左の膝と肘で挟みこむようにしたのだ。
まともに食らえば、この勝負の間、右足が使えなくなるほどの一撃である。咄嗟に脚を引くことができたのは、姫園の格闘センスのなせる技だろう。
が、肘がかすめただけでも、姫園の右足には重い痛みが残っている。
「やるね……」
そう言いながら、姫園は、左側――郁原から見て右側に動いた。
郁原は、その姫園に相対するように体を回していく。
姫園は、少しだけ、右足を引きずって見せた。
顔は、微笑みを浮かべたままだ。
ただ、注意深く見れば分かる程度に、右足の動きを鈍くする。
郁原でなければ気付かないほどの、微妙な動きだ。
あまりにもかすかな、郁原相手でなければ通じないような誘いである。
そして――
郁原は、一気に距離を詰めた。
一呼吸で肘の間合いまで近付こうとする。
が、姫園の踏みこみも素早かった。
一瞬の距離の取り合いでは、モーションの大きな蹴りは使えない。
姫園は、郁原の顎の先端めがけ、一撃必殺の精神を体現するような、凄まじい正拳を繰り出していた。
我知らず、強烈な笑みが、姫園の顔に浮かんでいる。
ごッ――
鈍い音とともに、姫園は、確かな手応えを拳に感じていた。
そのころ――
林堂と瑞穂は、姫園家の邸宅を、密かに歩き回っていた。
家人や、招待された客、それに使用人たちは、ほとんどが食堂ホールにいる。二人が進む二階の廊下には、まったく人の気配はない。
「姫園くん、どこ行ってるんだろうね?」
「さあな」
林堂の返事は、そっけない。瑞穂に予告した通り、カラーシャツにやや派手目なネクタイ、そして濃いグレーのジャケットとスラックスといういでたちだ。
「何か、事件のカギになるようなこと、聞けたかもしれないのに……」
「まず、そんなことはなかったと思うけど」
林堂の言葉に、空色のワンピースを着た瑞穂は、その大きな目をちょっと見開いた。
「えーっと、姫園くんが、ウソをついたってこと?」
「もう、ついてるだろ。招待するとかいったくせに、いなかったんだから」
「それは……何か急用かもしれないじゃない」
そんな瑞穂の無邪気な言葉に、林堂がくすりと笑う。
「あー、バカにしたなあ!」
「あんま大きな声出すなよ」
むくれた瑞穂に、林堂が言う。
「せっかく、現場を確かめるチャンスなんだぜ」
林堂は、姫園の不在を幸いに、早々にパーティー会場を離れ、姫園の兄、克己が幽閉されていたという部屋を探しているのだ。
「でも……見つかったら、どうするの?」
瑞穂が、心配そうに訊く。
「あんまり広いお屋敷なんで迷っちまったって言うよ」
涼しい顔で、林堂は答えた。林堂の言葉通り、姫園の屋敷は、馬鹿馬鹿しくなるほどに広い。靴のままで歩き回るようになっているその内部の様子は、まるで映画に出てくるヨーロッパのホテルのようだ。
と、林堂が、足を止めた。
「ここだな……」
ごつい木製のドアの前で、そうつぶやく。
「ここ?」
「ああ。姫園克己が監禁されていた部屋さ」
そう言いながら、林堂は、丹念にドアを観察する。
いかにも頑丈そうな、濃褐色のドアだ。ドアノブの下には鍵穴がある。
「ああ、ここが覗き窓になってるのか。いわゆる“ユダの窓”だな」
そう言って、林堂は、ちょうど目の高さにある細い覗き窓のしきりになっている板をスライドさせた。
「見える?」
そう訊きながら、瑞穂が、林堂の顔に頬を寄せた。
中は真っ暗だが、外でこうこうと光っている外灯の明かりが、鉄格子のはまった窓から差し込み、辛うじて様子をうかがうことができる。
部屋は、十二畳ほどの広さの洋間で、中はがらんどうだった。ただ、ベッドだけが、覗き窓の正面にあるのが分かる。
「あのベッドに、克己は眠っていたらしい。犯行時間もな。使用人が何人も目撃している」
「アリバイ、ね……」
「そうだ。まあ、ここからだと顔を覗き込むことはできないから、誰か身代わりをたてていた可能性もあるけど……幽閉の身で、身代わりなんて準備できたとは、ちょっと考えにくいな」
そう言いながら、林堂は、再びドアを眺める。
「蝶番は、こっちがわだな。中から細工して外すことはできない」
「えっと、この下の小さなドア、何かな?」
瑞穂が、扉の下のほうを指し示しながら、言う。それは、板の下の方に設けられた、もう一つの扉だった。板の彫刻に紛れて目立たないようになっているが、開閉させるための取っ手がついている。
「ああ、食事を差し入れするための扉だな」
「うあー、本格的だねー。本当に閉じこめてたんだねえ」
妙なことに、瑞穂が感心する。
「どうも克己は、両親に監禁されてからも、何度も脱走騒ぎを起こしたらしいんだな。その度に、警戒は厳重になってったって話だ。でも、これはまあ、ちょっと常軌を逸してるけどな」
そう言いながら、林堂は片膝をつき、差し入れのためのドアを開けた。ぽっかりと空いた四角い穴の幅は、林堂は勿論、瑞穂の肩幅よりも狭い。それに、高さもないから、腕を通すのはともかく、ここから出入りするのは不可能だろう。
「このドアだって、息子を幽閉するために特注したんだろうし……そもそもこの部屋自体、そのために改造したんだろうな」
「お金持ちって、やることが違うねー」
「異常なのは、そこまでして、気の狂いかけた息子を手元に置いておいた、ってことだ」
瑞穂の言葉に、林堂が、右手で口元を隠しながら言う。考えこんでいるときの癖だ。
「普通、いくら外聞があるとはいえ……いや、外聞があるからこそ、自宅に閉じこめなんかはしない。しかるべき施設に入れるのが普通だろ?」
「うーん……そう、かもねえ……」
瑞穂は、どうにも実感がわかない様子でそう言った。
「なのに今、姫園克己は、行方不明ってことになっている」
「やっぱり、逃げ出しちゃったのかな?」
「さあな。それから、あの5年前の事件を境に、この家が使用人を総入れ替えした、って事実もある」
「……だから?」
「だから俺は、やっぱり、犯人は姫園克己だと思うんだよ。状況は、すべてそうだと言っている」
「その、克己さんが、この部屋を脱走して、久遠寺かずみさんを殺して――で、お父さんとお母さんが、それをかばってる、っていうわけ」
「そうだ」
立ち上がりながら、林堂は断言する。
「ネックは、アリバイと、あと密室からの脱出だ。この謎を解かないと……」
「――智視ちゃん!」
物思いにふける林堂に、瑞穂が呼びかける。
「何か、聞こえるよ!」
「え?」
林堂も、耳をすます。
階下の、パーティー会場から聞こえる、奇妙などよめき。
何かがけたたましく割れ、砕ける音。そして、高い悲鳴。
「まさか――いや、やっぱりいたのか?」
林堂が、硬い声でつぶやいた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
凄まじい激痛。
人体のひしゃげる音。
折れた骨が、肉と皮と突き破り、鮮血を散らす。
姫園の拳は、その瞬間に、完全に破壊されていた。
軽く体を沈めた郁原が、額で、姫園の拳をカウンターで打ち据えたのである。
郁原が浩之助との組手で体得しようとしていたのは、このタイミングだったのだ。
額は、頭部の中でも最も頭蓋骨の厚さがある部位だ。一方で、いくら鍛えても、拳の中にある骨は細く、構造的にも脆弱である。
「――うあああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
姫園は、悲鳴をあげながら、半ば無意識に、左のフックを放っていた。
それを、郁原が、右の肘で受ける。
再び、拳の骨の折れる、耳を覆いたくなるような音が響いた。
そして、静寂――
雪の中で、一瞬、郁原と姫園の影が重なる。
どっ、と姫園が両膝を突いた。
そのまま、低いうめき声をあげながら、背中を丸めるようにしてうずくまる。
「……これで、終わり?」
郁原が、奇妙に抑揚のない声で訊いた。
そして、姫園の返事を待たず、その傍らに片膝をつき、ジャケットの懐から封筒を取り出す。郁原の額と肘で両の拳を砕かれた姫園は、なされるがままだ。
ぽた、ぽた、とその封筒の上に、血が滴った。
郁原の額の、包帯の下の傷が大きく割れ、鮮血がそこから流れている。
郁原は、ゆっくりと立ちあがり、封筒の中身を確認した。
「月読さんに、あれだけのことをしていながら、君自身はそれでおしまいなの?」
封筒をポケットに収めながら、郁原が、重ねて訊く。
姫園は、答えない。
ただ、手負いの獣のようにうめくだけだ。
郁原は、そんな姫園の震える背中を見つめ、そして、ニ、三度まばたきした。
その顔に、いつもの、穏やかで優しげな表情が戻る。
「救急車、呼ぼうか?」
「……いら……ない……」
ようやくそれだけを、姫園が言う。
むしろその一言に救われたような様子で、郁原は、溜めていた息を吐いた。
「――じゃあね」
そう言って、雪の上に、点々と血の跡を残しながら、郁原が校舎裏を去っていく。
うずくまる姫園の背中の上に、しんしんと雪が積もっていった。
パーティー会場の様子は、凄惨の一語に尽きた。
白を基調に、上品な金色や、赤や緑で飾り付けられたホールの中、テーブルクロスをかけられた丸テーブルがひっくりかえり、料理や食器を散乱させている。
が、それ以上に、食堂を不気味に汚しているものがあった。
赤い、血の跡である。
おびただしい量の血が飛び散った跡が、床といわず壁といわず、あちこちに見受けられた。
ようやく、その血を撒き散らしたもの――負傷者と、そして死体とが、収容されたところである。
部屋の中には、何人もの警察官や鑑識が動きまわっている。
瑞穂と林堂は、そんな食堂の端で、椅子に座りこんでいた。
瑞穂は、ぐったりと背もたれにもたれかかっている。現場を目撃してから、半ば気を失った状態だ。
一方林堂は、右手で口元を隠し、じっと床の一点を凝視している。
「ああ、君たちが通報者の高校生か。大変だったね」
そう言いながら、コートに身を包んだ恰幅のいい中年男が、二人に近付く。
「……県警の品川さんじゃないですか」
林堂が、男の方を向きながら言った。
「お前は――!」
品川と呼ばれた男が、林堂の顔を見て絶句する。
「一別以来ですね、品川さん……確か、警部でしたっけ?」
「警部補だ」
苦い顔で、男――県警捜査一課、品川警部補が言う。どうやら、林堂とは知り合いらしい。
「まさかこんなところで会うとはな」
「奇遇ですね。ところで、姫園克己は捕まったんですか?」
「そんなこと部外者に教えられるか!」
林堂の問いに、品川は大きく口を開けて怒鳴った。
「やっぱり、あいつは姫園克己だったんですね」
まんまと林堂の誘導尋問に引っかかってしまった品川が、ぐう、と唸る。
「5年前の写真しか見たことなかったんで、不安だったんですよ。俺、人の顔を覚えるの、得意じゃないし」
「……」
「ずいぶんと死んだんですか?」
「ああ」
品川が、口髭を生やした顔を歪め、言う。
「ほとんどが、急所に一撃を受けている。まだ、解剖結果が出てるわけじゃないが……姫園夫妻は、ほぼ即死だ。しかしあれは、普通のナイフでつけた傷じゃないな」
「いいんですか? そんなこと俺に言って」
「いいものか」
どすん、と品川は手近な椅子に乱暴に座った。
「しかし、こうでも言わんと、お前はきちんと証言してくれないからな」
「誤解されてるなあ」
キザな態度で肩をすくめながら、林堂が言う。品川のこめかみが、ぴくぴくと動いた。
「あいつの武器は、グルカナイフでしたよ」
「なに?」
「ほら、刃が“く”の字型に曲がったでっかいナイフですよ。刃渡りは三十センチくらい。ナタみたいなやつですね」
「何でヤツはそんなものを……」
「もともとそういうののマニアだったみたいですよ」
「……どうしてお前、そんなことを知ってるんだ?」
品川が、不審げな表情で訊く。
「俺も、俺なりに色々と調べてたんですよ。5年前の、女子高生殺人事件と関連してね」
「お前、また……!」
品川の顔が、赤黒く染まる。
「あのなあ、一度や二度こっちを助けたからって、図に乗るなよ! 犯罪捜査は遊びじゃないんだぞ!」
品川の剣幕に、周囲の警官が数人、こちらを振り向いた。
「別に、俺だって、遊びのつもりはないですけどね」
「今回は、まだ犯人が捕まってないんだ。しかも、凶悪犯なんだぞ……お前も見たろ? 危険過ぎる! マンガとは違うんだ!」
「……でも、マンガのキャラクターも、たまにそんなこと言いますよね」
林堂が、面白くもなさそうな口調で、そう言った。
ようやく、姫園は立ちあがった。
両の拳が、ひどく疼いている。
姫園は、骨が砕けた右の手で、内ポケットの携帯電話を取り出そうとして、つるりと取り落とした。
ぽそ、と小さな音をたてて足元の雪にめり込んだメタリックブルーの携帯電話を、ぼんやりと眺める。
「どの道、今ごろ通報しても、もう遅いか……」
自嘲じみた歪んだ笑みを浮かべながら、姫園が言った。吐く息が白い。
「負けたなあ……」
そして、どこか晴れ晴れとした顔でそう言って、姫園は天を仰いだ。
雪が、自分めがけて空から舞い降りてくる様が、街灯の光に照らされている。
姫園と郁原がこぼした血は、すでに新しい雪に覆い隠されていた。
景色は、空虚なまでに白と灰色、そして黒い闇で満たされている。
「兄さん、どうしているかなあ……」
そんな姫園のつぶやきが、暗い夜空に吸いこまれる。
その闇の底に広がる雪野原に佇みながら、姫園は、いつまでも上を向いていた。