第4章
その夜は、初めて僕のほうから、姉さんの部屋に行った。
結婚披露宴の前夜。
姉さんの結婚が決まって以来、僕たちは、体を重ねてはいなかった。
「――姉さん、入るよ」
ドアをノックしてから、中に向かって言う。
「うん」
姉さんから、返事があった。
胸の鼓動が高まるのを感じながら、部屋に入る。
姉さんは、お気に入りのパジャマを着て、ちょこん、とベッドに座っていた。
「来ると、思ってた」
そして、僕の顔を見ながら、そんなことを言う。
その物言いに、ちょっとだけ、腹が立った。
でも、あきらめに似た気持ちの方が大きい。
今の姉さんの顔には、かつてあった危うさのようなものがなかった。
元に戻った、というわけじゃないんだけど、その表情はまろやかで、落ち着きを取り戻したように見える。
あの人と付き合い始めてからだ。
僕では癒せなかった姉さんの心の傷を、あの人は癒すことができたのだ。
喜ぶべきことなのに、辛くて、悔しい。
そんな気持ちに急き立てられるようにして、僕は、この部屋に来たのだ。
父さんと母さんは、もう寝ている。明日は早いのだ。
「こっち来て、座りなよ」
そう言って、姉さんは、すこし横にずれて、スペースを空けた。
僕は、姉さんの隣に座る。
何を言ったらいいのか分からない。
いや、そんなことはなかった。いろいろあったけど、おめでとう――って言えばいいんだ。あの人とお幸せに、って。
だってそれは、僕の偽りのない気持ちだ。あの人は本当にいい人だ。落ち着いていて、包容力のある、大人の男の人。どこかちょっと危なっかしいところのある姉さんにふさわしい人だってことは、すごく分かる。
姉さんには、幸せになってほしい。心の底から、そう思っている。
でも、それより大きな感情が、胸の中にあった。
それは、キレイごとを言うなら、姉さんに対する絶ち切れぬ想いだ。
が、もっと言うなら、それは、姉さんを幸せにすることのできない自分自身に対する苛立ちの裏返しだった。
どろどろと渦巻く暗い粘着質な何かが、出口を探して暴れている。
大声を上げて、このまま姉さんを押し倒してしまいたい。
「数くん……」
僕の目から、そんな思いつめたものを感じたのか、姉さんが口を開いた。
優しく、澄んだ、柔らかな声。
僕は、いつのまにかうつむいていた顔を上げて、姉さんの顔を見つめた。
姉さんの大きな瞳に、僕の姿が写っている。
「姉さん、僕……」
そこまで言って、黙ってしまう。
ふっ、と姉さんが淡く笑った。
春の雪のように、とけて消えてしまいそうな、はかない微笑み。
「今夜で、最後だよ」
そう言う姉さんに、僕はうなずいた。
そして僕と姉さんは、互いの肩に手を置き、ベッドに横たわったのである。
服を脱ぎ、互いの体を、口と指先でまさぐりあう、じゃれあうような愛撫。
本当のことを言うと、こうしている時が一番ほっとできた。
できることなら、永遠に、この時間が続けばいいと思う。
でも、そうしているうちに、自然と股間のソレが熱くなり、僕の理性を奪っていくのだ。
それは、姉さんも同じらしい。
この1年あまりで知った互いの感じるところを刺激しあっているうちに、別の何かに、思考を乗っ取られるのだ。
ふだん、ひかえめでおとなしい姉さんからは考えられないくらい淫らな姉さんが、熱くたぎる僕のソレを、挑発するように撫でさする。
その時、姉さんは、口元に何とも言えない妖しい笑みを浮かべているのだ。
時折、ちろりと、ピンク色の舌が、くちびるをなめる。
その表情を見るだけで、僕のソレは、ますますカタくなってしまうのだった。
その、カタくなったペニスを、姉さんが口に入れる。
そして、いとおしむように舌でなめ、なぶるようにくちびるで吸う。
僕は、ひりつくような快感にあえぎながら、目の前で揺れる姉さんのお尻に手をかけるのだ。
そして、すでにじっとりと湿り気を帯びているその部分に口付けする。
シックスナインのかたち――
互いを慰めあうように始めたこの行為が、いつしか、僕と姉さんのお決まりの体位になっていた。
この夜も、そうだった。
湧き起こる快感にくぐもった声をあげながら、舌をうごめかせ、反撃する。
「ん……んんっ……うン……ふぅン……んんーン……」
姉さんの鼻声が、僕の股間の方から聞こえる。
甘えるような、可愛らしい声。
敏感になった僕のその部分は、荒くなった姉さんの呼吸すら感じてしまう。
僕は、ぴちゃぴちゃと音を立てるくらいに激しく舌を使った。
あとからあとから溢れる愛液が、僕の口元をぬらす。
そのいやらしい匂いが、ガマンできないほどに僕を興奮させた。
「姉さん、もう……」
そう言いながら、姉さんの体から抜け出る。
そして、姉さんをベッドに仰向けに寝かせた。
姉さんは、その顔に、なんだかぽーっとした表情を浮かべている。
「ん……」
そんな姉さんにキスをすると、自分が分泌した体液でぬれた僕の顔を、おいしそうになめてくる。
この最中の姉さんは、本当に別人のようだ。
舌を突き出し、からめ合いながらの、淫らなキス。
ぴちゃぴちゃと音を立てて唾液がはじけ、僕たちの口元をぬらす。
そんなキスの感触にうっとりとなりながら、僕は、姉さんの形のいい脚の間に、身を置いた。
そして、ゆるくひらいた姉さんの脚を、膝に手をかけてぐっと開く。
「あン……」
姉さんは、軽く僕をにらんだが、それでも逆らわなかった。
Mの字になった姉さんの脚の付け根にある肉ひだが、ぬれて光っている。
僕の股間のモノは、それを前にして、ぐん、と力をみなぎらせた。
ゆっくりと、腰を進めさせる。
「あ……」
と、そこで姉さんは、小さく声をあげて、僕の剥き出しのペニスを見つめた。
僕も、動きを止める。
そうだ、避妊具は、姉さんが結婚を決めたときに、全て処分してしまったのだ。
その、当たり前といえば当たり前のコトが、ここに来て、仇になった。
僕と姉さんは、互いを見つめあう。
「数くん……」
先に口を開いたのは、姉さんだった。
「どうしても、したい?」
まるで、小さな子どもに話しかけるような口調だ。
小学生の頃、わがままを言っていた僕をなだめるとき口振りである。
その言葉に、僕は、こくりとうなずいていた。
姉さんが、ふわっと笑う。
「じゃあ、いいよ、数くん……来て……」
「姉さん……」
僕は、思わず生唾を飲み込んでしまった。
情けないことに、体がきちんと動かない。指先なんか、細かく震えてしまっていた。
そんな僕の体を、姉さんが、そっと引き寄せる。
「大丈夫よ、数くん……」
そして、耳元で、そうささやいた。
「安心して……」
姉さんの温かい声に、ようやく、震えが治まる。
そして僕は、限界近くまでカタくなったそれを、姉さんのアソコに押し付けた。
初めて直接ペニスで感じる、姉さんのその部分――。
今までゴム越しにしか感じたことのなかったそこは、何だか吸いつくようで、すごく魅惑的だった。
まるで誘われるように、腰を突き出していく。
「あ、んんン……っ」
姉さんが、切なそうに眉を寄せながら、声を漏らす。
シャフトの表面を滑る姉さんの中の感触に、僕は、腰が抜けてしまいそうだ。
その快感を味わいながら、ゆっくりと時間をかけて、根元までペニスを挿入する。
ペニス全体で、直に、姉さんの中の熱い体温を感じた。
このまま、ペニスが融かされてしまいそうな感じである。
姉さんも、感じてくれているのだろうか?
ただ挿入しただけだというのに、早くも、姉さんはせわしない息をついている。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……という短い喘ぎが耳元をくすぐり、腕の中の体は、ひくん、ひくん、と震えていた。
「気持ちいい? 姉さん……」
思わず、そう訊いてしまう。
「うん、いいよ、数くん……」
僕の背中に回した腕に力を込めながら、姉さんが言う。
僕は、そんな姉さんの首筋にくちびるをはわせながら、ゆっくりと、腰を動かし始めた。
本当は、メチャクチャに腰を動かしたい衝動があるのだが、そんなことをしては、すぐに終わってしまう。
少しでも長く、姉さんの中を感じていたい。
そう思いながら、僕は、用心深く、抽送を続けた。
「あぁ……あン……あン……あン……あぁ……うぅン……んン……」
僕の動きに合わせて、姉さんが、鼻にかかったような声をあげる。
脳をしびれさせるような、いやらしくて可愛い声。
次第に、僕の越しの動きが、速くなっていく。
「あ……あう、ん……うン、あン、あぁン……アン、アン、アン……」
愛液にぬれながら、からみついてくるような、姉さんの中の感触。
それが、僕を、確実に追い詰めていく。
摩擦によって起こった熱は、ますます僕と姉さんのソコを熱くしていき、それはそのまま熱い快感に変換されていった。
ぐううっ、と僕の中で、何かがこみ上げてくる。
「く……!」
僕は、必死の思いで腰の動きを止め、それをやり過ごした。
「はぁ、はぁ、はぁ、あぁぁン……」
姉さんも、一息つく。
僕と姉さんは、顔を見合わせた。
そして、くちびるを重ね、ぴちゃぴちゃと舌をからませる。
僕は、姉さんの舌を吸い、そして姉さんの口の中に唾液を流し込んだ。
姉さんが、のどを鳴らして、僕の唾液を飲み込んでいく。
姉さんへの愛しさで、神経が焼き切れそうだ。
もっともっと深く、姉さんとつながりたい。
僕は、姉さんの体に腕を回したまま、ぐっと上半身を起こした。
「あ、きゃん!」
姉さんが、悲鳴のような声をあげる。
ベッドの上にあぐらをかくようにした僕の体に、姉さんがしがみついてくる。
対面座位の形だ。
僕の腰に、姉さんの脚がからみつく。
僕と姉さんは、ぴったりと体を重ねあった。
互いの体に回した腕に、いっそう力を込める。
このまま、くっついてしまえばいいと思うくらいに、強く。
僕の胸に触れた姉さんの柔らかな乳房が、形を変える。
尖った乳首の感触が、妙に鮮明だ。
と、姉さんが、ガマンできなくなったように、くいっ、くいっ、とお尻を動かし始めた。
僕のアレが、姉さんの中で、小刻みにしごかれる。
「あぁ……ね、姉さん……」
姉さんの右の頬に右の頬を寄せるような姿勢で、僕は、喘ぐような声を出してしまった。
「うふ……どぉ? 数くん……」
「す、すごいよ……姉さんのが、すごく、しめ付けてくる……」
思わず、そんなあからさまなことを言ってしまう。
「そんなふうに言っちゃ、イヤ……」
ちょっとすねるような声で言いながら、姉さんは、腰を動かし続ける。
僕も、姉さんの体に回していた腕をほどき、シーツの上について、腰を突き上げ始めた。
二人の動きが、同調していく。
「あ、あン! す、すごい……すごいよ、数くん……っ!」
姉さんが、白い喉を反らして、言った。
僕は、歯を食いしばりながら、腰を使う。
ぐっちゅ、ぐっちゅ、ぐっちゅ、ぐっちゅ、というはげしい水音が、耳に届いた。
自分は今、取り返しのつかないことをしている、という思いが、かすかにある。
でも、生きていくことって、そういう取り返しのつかないことの連続かもしれない。
男に騙されて、妊娠して、捨てられて、赤ちゃんを堕ろして、そして――
深く傷ついた姉さんを、僕は、救いたいと思った。これは、本当だ。
だけど結局、僕が姉さんにしたことは、救いにも何にもならなかったような気がする。
そして今、僕は、ただただ姉さんのもたらしてくれるカイラクに溺れている。
気持ちよければ気持ちいい分だけ、何だかつらい。
けど、そんなつらい気持ちすら、圧倒的な快感の前に薄れていく。
「ねえ――さん――ッ!」
ひときわきつく、姉さんのそこが、僕のをしぼりあげた。
まるで、射精をねだるような動き。
理性も、自制心も、罪悪感も、どこかに消え去ってしまう。
残るのは、動物的な欲望だけ。
その欲望に突き動かされて、後ろに回した両腕で体重を支え、激しく腰を使った。
暴れる僕の腰の上で、姉さんの白いお尻が跳ねるように動く。
快感とともに、切迫した何かが、僕のその部分をぐうっと膨張させた。
「あああッ!」
僕の変化を感じたのか、姉さんが、高い声をあげる。
その声を聞きながら、僕は、再び姉さんの体にしがみついた。
ペニスを、熱くぬれたアソコの、奥の奥にまで差し入れる。
「あッ! ンあああッ! ああああぁぁぁーッ!」
子宮の入り口を強く突かれ、姉さんが、僕の腕の中で身もだえする。
泣くような可愛い声をあげながら、僕の腕の中でうねる、白い、ほんとうに白い、姉さんの、からだ。
「あ……っ!」
僕は、声にならない声をあげながら、その姉さんのカラダの奥に、熱いセイエキをぶちまけた。
タマシイを根こそぎもっていかれそうな、強烈なシャセイ。
自らの体液を、血を分けた姉に注ぎ込む、背徳と倒錯のカイラク。
このまま、死んでしまうんじゃないかと思うくらいに、頭の中が真っ白になった。
そして僕は、一瞬、意識を失ってしまったのだ。
これで、終わりだ。
本当の本当に最後なのだ。
未練がましく姉さんのやわらかな体を抱きしめながら、そう思う。
「あのう……」
と、僕の耳元で、姉さんがささやいた。
いつもと違う、何だかあっけらかんとした声。
「え――?」
僕は、慌てて身を引いた。
「……次は、いつ、しましょっか?」
汗の浮いたおでこに前髪を数本貼りつかせた鳴川が、にっこりと笑いながら、訊いてくる。
「――わあああああああああああああああああッ!」
僕は、叫び声とともにタオルケットを蹴り飛ばし――そして、ようやく長い夢から覚めたのだった。
「なんて夢だ……」
僕は、がしゃがしゃと歯を磨きながら、一人つぶやいた。すでに、昼近くになっている。
父さんと母さんは、前から計画していた温泉旅行に、すでに出かけてしまっていた。話を聞いたときは、こんな時期に、とも思ったのだが、父さんの休みがこの時期にしか取れなかったらしい。
でも、窓の外はまぶしいくらいの青空だ。
あと一雨か二雨降れば、梅雨も終わりかもしれない。
ただよう白い雲を見つめながら、小さく、ため息をつく。
そして僕は、姉さんの新居に行くことに決めたのだった。
姉さんとあの人の住まいは、二つほど駅の離れた町の中にある。自転車では1時間弱くらいの距離だ。
いかにも新婚家庭に相応しいような、新築のアパートの一室。
自転車を立てかけてから、ドアの前に立って、スラックスで手の平の汗をぬぐった。
そして、大きく深呼吸をする。
土曜日も、教師という仕事柄、あの人は出勤しているはずだ。中にいるのは、姉さん一人。
無論、姉さんを困らせに来たわけじゃない。事実を確認するために来たわけだけど、姉さんが話したがらないなら、それでもいい。
そう、自分自身に確認しながら、チャイムを押した。
「はーい」
明るい返事とともに、ドアが、開けられた。
「――数くん?」
僕が何か言う前に、姉さんがびっくりした声をあげる。
シンプルなデザインのTシャツとパンツ。その上に、ブルーのエプロンをしている。髪を、無造作に後で束ねている姿が、なんだか新鮮だった。
お腹は、当たり前かもしれないけど、特に目立っていない。
「……久しぶりね」
そう言って、姉さんは、ふわっと微笑んだ。
その笑顔に、やっぱり、あのことは思い過ごしなんじゃないかと思う。
「姉さん、あのさ……」
僕は、少し口ごもりながら、話し始めた。
「お腹の、赤ちゃんのことなんだけど」
「……」
「あの人の、子どもなの?」
姉さんは、じっと、僕の顔を見つめた。
そして、小さく息を吐く。
「数くんは、気にしなくていいよ――って言っても、気にしちゃうよね」
「……うん」
「実はね……お姉ちゃんにも、分からないの」
姉さんは、淡い笑みを浮かべたまま、そう言った。
「そんな……」
足元が、ぐらりと揺れる。
一瞬、地震かと思ったけど、単に僕がよろめいただけだった。
「――あの人と数くんは、同じ血液型だし、生まれてきても、本格的に検査しないと、分からないと思うよ」
「そんな……そんなことって……」
「でも、心配しなくてもだいじょうぶよ」
姉さんは、不思議とさばさばした口調で、言った。
「あの人は、もう知ってるから」
「え――!」
今度こそ、僕は本当に絶句してしまう。けど、姉さんは平気な顔だ。
「もちろん、数くんの名前は出してないわ。ただ、前に付き合ってた人の子どもかもしれない、って言っただけ。けど、あの人は、それでもいいって言ってくれたの。それでも、あたしの子どもなら、大事な家族だから、生んでほしいって」
「ど、どうして……」
僕は、喉をつまらせながら、ようやくそれだけ言った。
「あの人は……あたしが、前に、赤ちゃんを堕ろしたこと、知ってるし……それに、やっぱり、いい人、だから」
違う。僕が訊きたかったのは、そんなことじゃない。
「そうじゃなくて……その……」
「どうしてお姉ちゃんがあの人に言ったかってこと?」
「うん」
「だって、夫婦だもの」
そう、姉さんは、当たり前のように、言った。
「隠し事はしたくなかったし、それに、そういう気持ちで、この子を生みたくなかったから」
「……」
流れる雲に、日差しがさえぎられる。
薄暗くなった世界の中、僕は、姉さんの言葉を聞き続けた。
「だから……だからね、うまく言えないけど、数くんは心配しなくてだいじょうぶなのよ」
姉さんの声や顔に、今までなかったような強さがあることに、僕は気付いていた。
たぶん、あの人が許してくれなかったとしても――この件が原因で別れるようなことになってしまったとしても、姉さんはこういう表情を僕に見せたような気がする。
それが、母親になるっていうことなんだろうかと、ぼんやりと思った。
「この子は……あたしと、あの人の、赤ちゃんなの……」
なんて優しくて――残酷な言葉だろう。
僕には、出る幕がない。
姉さんがお腹に子どもを宿し、あの人は、その子の父親になると決めた。
認めたくないけど、僕には、そんなことはできない。
そんな資格も、能力も、覚悟もない。
姉さんを救うことができなかった僕は、姉さんの子どもの父親になんてなれるわけないのだ。
姉さんが、限りない優しさをたたえた目で、僕を見ている。
僕は、たまらず目をそらした。
視界がにじむ。
僕は、ここに来ては行けなかったんだ。
ようやく、僕はそのことに気付いた。
「……じゃあ、その……姉さん、気をつけて……」
「あ、うん。ありがと」
「それじゃあ」
僕は、目をそらしたまま、自転車にまたがった。
姉さんは、何も言わない。ただ、気配で、僕の背中をじっと見つめたままだろうということが分かる。
僕は、急速に雲に覆われていく空を仰いでから、猛然と自転車を走らせだした。
ほどなくして、雨が降ってきた。
大粒の、痛いくらいに激しい雨。
雨宿りするような場所はない。僕は、構わず自転車をこぎ続けた。
雨粒が、びしびしと顔を叩き、目にまで入りこむ。
だから僕は、自分が涙をこぼしているのかどうかも分からない。
なんておあつらえ向きな天気。
自暴自棄な爽快さを感じながら、ただただペダルを踏む両足に力を込める。
思いきり大声をあげたい気分だ。
なんてことを考えながら、坂道を下り、そして左に曲がろうとしたときに、僕は、派手にすっ転んでしまった。
僕は、道路に投げ出される。
「……っ!」
一瞬だけ、何も分からなくなった。
そして、衝撃で止まっていた呼吸が、ようやく、元に戻る。
「くぅ……はぁぁぁぁ……」
ゆっくりと、半身を起こす。
自転車が、視界の先でひっくり返っていた。
「う……」
体中が痛くて、しばらく立ち上がれない。
「うぅ……うう……っ」
うずくまり、雨に叩かれながら、僕は、自分が嗚咽を漏らしていることに気付いてしまった。
「ぐっ……ううっ……ううううう……」
うめくような声が、喉の奥から勝手に出てくる。
止めようと思っても、止めることができない。
そのまま僕は、しばらく、うずくまったまま、泣き続けた。
どれくらい、そうしていたんだろう……。
「――黒須センパイ?」
いきなり、背後から声をかけられた。
「どうしたんですか? こんなところで」
振り向くと、未だ振り続ける雨の中、普段着姿の鳴川が立っている。
よく見れば、ここは、僕と鳴川が学校から帰ったとき、ちょうど別れ別れになる場所だった。
「……自転車で、ころんじゃったんですね?」
転がってる自転車と僕を見比べて、鳴川が言う。僕は、素直にうなずいた。
泣いていたことには、気付かれていないだろうか。だったら、いいんだけど。
「だいじょうぶですか? 骨とか、折れてません?」
「ん……平気、だと思う」
そう言いながら、ゆっくりと立ちあがる。もう、どこも痛くなかった。
「……なんか、心配だなあ」
自転車を起こす僕に、鳴川は、そんなことを言った。
「センパイの家、近くだって話でしたよね。あたし、送ってあげます」
「い、いいよ、別に」
「遠慮しなくてもいいですよう」
そう言って、鳴川は、手に持った赤い傘を差し出した。
「もう、あんまり意味ないですけど、相合傘しましょ♪」
そう言って、にっこりと微笑む。
結局僕は、いつものことながら、鳴川のペースに飲みこまれ、うなずいてしまうのだった。
「親御さん、お留守なんですか?」
家のドアのカギを開ける僕の背中に、鳴川はそう訊いてきた。
「うん、そうだけど」
そう言って、鳴川の方を向くと、彼女は、何だか物欲しげな目で、じーっとこっちを見ていた。
「上がって、お茶でも飲んでく?」
「はーい♪」
少しも遠慮する様子を見せず、鳴川が言う。そんなところが、いかにも彼女らしい。
「着替えて、シャワー浴びるから、そこでテレビでも見てて」
居間の方を指差しながら、僕は、廊下を水浸しにしつつ、バスルームに向かった。
ぐっしょりとぬれたワイシャツとスラックスを脱ぎ、洗濯機に入れて、バスルームに入る。
お湯を浴びると、左の二の腕が、ひりひりした。
見ると、すり傷になっている。でも、ああいう転び方で、ケガがこれだけなら、かなりの幸運だと言えるだろう。
温かいお湯を浴びながら、ほう、とため息をついた。
その時――
「あのぅ……」
脱衣場から、鳴川の声がした。
「な、何?」
僕は、慌てた声をあげた。まったく、姉さんとの思い出に浸る間もありはしない。
けど、何となく予想の範囲だったような気もしていた。
「あたし、テレビって、あんまり見ないから……」
「間がもたないって?」
「そうそう、それです」
セリフを先取りすると、鳴川が妙に嬉しそうな声で言った。
鳴川のいつものマイペースっぷりに、僕は、思わず苦笑してしまう。
「センパイ……」
と、鳴川は、バスルームのドア越しに、そう話しかけてきた。
「違ってたらごめんなさい。あの、さっき……」
「……」
僕は、ちょっと身構える。
「泣いて、ませんでした?」
やっぱり、ばれてたか。
僕は、嘆息して、それから覚悟を決めた。
もともと、僕一人の胸に仕舞っておくには、重すぎる話だ.
誰かに――いや、鳴川に、聞いてほしかった。
結果として、鳴川が、僕にどんな感情をいだこうが、それはもちろん構わない。
「ちょっと長い話だけど、付き合ってくれるかな」
「は、はい……」
僕の言葉に、ドアの向こうの鳴川が、そう返事をする。
そして僕は、話し始めた。
本気で好きになった相手が、僕の子どもを宿したかもしれないまま、結婚してしまった、という話を。
無論、その相手が実の姉であることは伏せたままだ。
鳴川は、僕の話を、じっと黙って聞いていた。
くもりガラスの向こうの顔が、どんな表情を浮かべているのかは分からない。
まるで、教会で懺悔をするような気分。
そして、僕はようやく、話し終えた。
出しっぱなしだったシャワーの音だけが、バスルームに響く。
「センパイって……」
しばらくして、鳴川が口を開いた。
「センパイって、強いんですね」
「え?」
思わぬ言葉に、僕は思わず聞き返した。本気で、何かの聞き間違いかと思ったのだ。
だって、今の話で、どこをどう押せば、そんな結論になるのか、さっぱり分からない。
「センパイは、強い人だと、思います」
鳴川が、そう繰り返す。
「そう、かな……?」
「そうです」
鳴川は、きっぱりと、断言した。
「それから、その……」
そう言って、鳴川が、脱衣場でごそごそとやりだした。
ドア越しでも、彼女がどんな行動をとりだしたのかは、何となく分かる。
「ね、ねえ、ちょっと?」
「失礼しますっ」
そう言って、鳴川は、ドアを開けた。ドアのすぐそばに立っていた僕は、思わず後ずさる。
「な、鳴川……?」
鳴川は、予想通り、全裸だった。
その、ほっそりとした白い体を、隠そうともしない。
小さめだけど形のいい胸や、繊細でひかえめなヘアに、どうしても目がいってしまう。
「センパイ」
「う、うん……」
いつになく真剣な顔の鳴川に、僕はちょっと圧倒されてしまう。
「……」
言葉が続かないのか、鳴川は黙り込んでしまった。
その頬が、かあーっと赤くなってく。
僕は、例によって、そんな鳴川についていけないでいる。
「鳴川……?」
そう呼びかけると、鳴川は、意を決したように、バスルームに入ってきた。
そして、僕に何か言わせる間もなく、ぎゅっ、と抱きついてくる。細い腕で、それでも精一杯に。
その感触が、そして体温が、じわじわと僕の傷ついた胸に沁み込んでくるようだ。
「センパイ……その……」
鳴川が、僕の胸に額を押し付けながら、途切れ途切れに、言う。
「えっと……うまく言えないけど……元気、だしてください……」
鳴川は、僕を、慰めようとしてくれてるらしい。
それで、どうしていいか分からずに、こんなふうにしているようだ。
何て言うか……本当に、このコには、驚かされる。
そして、僕は、間違いなく、鳴川のこの行動に癒されていた。
「ありがとう、鳴川……」
素直な気持ちで、そう言った。
そして、鳴川の顔を、上に向ける。
それから僕は、その小さな可愛い口に、そっと口付けしたのだった。