終章
夕刻――
ある地方都市の空港の、国際線ロビーに、一人の男が佇んでいた。
平凡な顔立ちの中で、その目だけが、どこか異様な光を湛えている。
平日であるせいか、ロビーにはほとんど人気が無かった。
「巳洞くん」
と、男の背後から、よく通る女の声が響く。
男――巳洞が振り返ると、そこに、艶やかな黒髪が特徴的な、整った顔の女が立っていた。
「村藤先生か」
「ええ」
巳洞に村藤と呼ばれた女が、能面のように無表情な顔のまま、巳洞に近付く。
女の名は、村藤霧子。まともな医者にかかることのできない裏稼業の人間の相手を専門にする、凄腕の無免許医だ。
「傷の具合はどう?」
「まだ、少し突っ張る感じが残ってるけど、問題ない」
「なら、いいんだけど……」
そう言って、霧子は、巳洞の顔をじっと見つめた。
年齢不詳のその顔にも、切れ長の瞳にも、表情らしきものは浮かんでいない。
「何だよ。俺の顔に何か付いてるか?」
「そういう訳じゃないけど……琴乃さんがあなたに執心するのがどうしてか、今一つ分からなくてね」
そう言ってから、霧子は、やや挑発的な笑みを、その唇に浮かべた。
「やっぱり、兄妹ってのは通じ合うものがあるのかしら?」
「――何で知ってる?」
巳洞が、落ち着いた口調で、訊く。
「琴乃さんに聞いたのよ。少しも意外じゃなかったけどね。……だってそうでしょう? 自分の兄を刺して、その上、義理とは言え妹を強姦した男を助けてくれなんて、普通は言えるものじゃないわ」
「……」
「たとえその男が初めての相手だったとしてもね」
「ずいぶんズケズケと物を言うんだな。イメージと違うぜ」
「巳洞くんの反応を楽しんでるのよ」
霧子が、あるかなしかの微笑みを浮かべたまま、言う。
「あいつは、親父の――奥住滋臣の犯した罪を一人で背負おうって気持ちなんだろうよ。大きなお世話だぜ」
「巳洞くんは、奥住氏を恨んでいないの?」
「恨む価値も無いさ。あんな男に騙されて俺を産んだお袋の方が馬鹿だったんだろうよ。……兄だ妹だってこだわって琴乃が俺から逃げ出しちまったのには、少々こたえたけどな」
「あら、ずいぶん素直なことを言うのね」
からかうようにそう言う霧子に、巳洞は顔をしかめた。
「じゃあ、あなたがもう一人の妹――姫乃さんを犯したのは、琴乃さんに対する復讐なの?」
霧子が、静かではあるが、まるで巳洞を追い詰めるような口調で、訊く。
「――ああ、そうさ」
「嘘ですっ!」
いきなり、自動販売機の陰から、声が響いた。
「な……!」
驚きの声を上げる巳洞の体に、どん、と小さな影がぶつかった。
「姫乃……!」
「嘘……嘘です……! 巳洞さんは……ご主人様は、私を助けてくれたんです……!」
巳洞のジャケットにしがみつきながら、姫乃が、涙声で言う。
「あーあ、もうちょっと話を聞いてからの方がよかったのに」
そんなことを言いながら、続いて自動販売機の陰から現れたのは、夏希だった。その顔には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
巳洞は、小さく溜め息をついてから、霧子を睨んだ。
「先生が連れてきたのか?」
「そんなところよ。琴乃さんのたってのお願いでね」
「余計なことを……」
「余計なんかじゃありません!」
姫乃が、巳洞の言葉を遮る。
その、涙に濡れた黒い瞳には、巳洞が見たことも無かったような強い光が宿っていた。
「お姉ちゃんに聞きました。お母さんとお兄ちゃんが、私のこと、どう思っていたか……」
「……」
「お母さんは、お兄ちゃんと恋人同士だったんですね。でも、お母さんは、お父さんにむりやりに犯されて、私が産まれて……それ以来、ずっと、お母さんとお兄ちゃんは、私のことを恨んでいた……そうなんでしょう?」
「……まあな」
巳洞は、言葉を探すように沈黙してから、口を開いた。
「だが、俺は、あいつらに金で雇われて、お前を痛めつける計画の片棒を担いだんだぜ。お前を助けるつもりだったなんて話がどこから出てくるのか、俺には分からないね」
「だったら――どうしてお兄ちゃんを刺したんですか?」
姫乃は、巳洞の目を真っ直ぐに見つめて、言った。
巳洞は、黙ったまま答えない。
「琴乃さん、言ってたよ。姫ちゃんのお母さんとお兄ちゃんは、ご主人様が言うことを聞かないから、すごく焦ってたんだろうってね」
夏希が、ゆっくりとした口調で、言った。
「あの二人は、姫ちゃんのことを、どこかに売るつもりだったんでしょう? ご主人様は、その準備のために雇われたんだ。でも、ご主人様は、二人の思うとおりの人間じゃなかった……」
「……」
「あの時、君貴さんは、ご主人様に最後の話を付けに行ったんでしょう? 貞操帯の鍵を渡すようにね」
そう言って夏希は、こんこん、と服の上から自らの貞操帯を叩いた。
「こんなもの付けっぱなしじゃ、売り物にならないもんね」
「……」
夏希は、ポケットから鍵を取り出し、黙っている巳洞に差し出した。
「おい……」
「これ、返すよ。これを持ってていいのはご主人様だけでしょ?」
「わ、私も……私も返します!」
そう言いながらも、姫乃は、巳洞のジャケットから手を離そうとしない。
もし手を離せば、そのまま巳洞が逃げ出してしまうのではないかと、そう思っているかのようだ。
「お前ら、自分が何を言ってるのか分かってるのか?」
「分かってます。私……巳洞さんと……ご主人様と一緒に行きます。どこへでも……」
「何?」
姫乃の言葉に、巳洞が声をあげる。
「ご主人様……私のこと、独り占めにしたかったんでしょう? だから、お兄ちゃんのこと刺したんでしょう?」
「……」
巳洞は、何も言わない。だが、その沈黙が、姫乃の言葉を雄弁に肯定していた。
「だったら、途中で捨てるなんてあんまりです! 私――私、絶対に、ご主人様から離れません!」
「もちろん、ボクも付いてくよ。姫ちゃんの行くところには、どこにだって付いていくって決めたんだからね」
「……」
二人の少女の言葉に、巳洞は、覚悟を決めたように目を閉じた。
そして、スラックスのポケットから両手を出し、ゆっくりと姫乃を引き剥がす。
その手を、夏希が驚いた顔で見つめる。
姫乃も、そのことに気付いた。
「切っちゃったんですね……」
「ん? ああ、逃亡生活を送るのに、あんまり目立つ外見だと困るんでな」
そう言って、巳洞は、小さく笑った。
巳洞の両手の外側――そこに、目立たない小さな傷跡を残し、第六指が無くなっていた。
「……」
「……」
姫乃と夏希は、まるで、そうすると最初から決めていたかのように、それぞれ巳洞の片手を取った。
そして、その手に、貞操帯の鍵を握らせる。
ふと巳洞が気付いた時、霧子は、いつのまにか姿を消していた。
「やれやれ……」
巳洞は小さく肩をすくめ、両腕で姫乃と夏希の肩を抱き、出国ゲートへと歩いていった。
「どうでした?」
空港ビルから出てきた霧子を、そう言って出迎えたのは、琴乃だった。
「概ね、琴乃さんの予想通りよ。今頃三人は飛行機の中ね」
霧子がそう言って、琴乃の顔を見つめる。
「いいの? 巳洞くんとお話しなくて」
「……残酷なこと、訊きますね」
「だって、あたしは医者だもの」
答えになっているのかどうか分からない霧子の言葉に、琴乃は、くすりと笑った。
「しょうがないですよ。私は、兄さんから逃げ出した立場なんですから……」
「生真面目ね、あなたって」
「自分でも損かな、と思うんですけど……しょうがないですよね。性分ですから」
「じゃあ、今までのことも、別れた男に対する義理ってわけ?」
そう言われて、琴乃は、寂しそうに視線を落とした。
「私……本当に、巳洞さんのこと、好きだったんですよ」
しばらく時間をおいてから、ぽつん、と琴乃は言った。
「あの人が、父のことを調べるために私に近付いたんだとしてもかまわないって思いました。たとえそうでも、私のことだけを考えるようにしてみせるって……。自信過剰だったんですね」
「……」
「だけど、実は兄妹なんだってことを知って……私の方から全部捨てて無かったことにしようとしたんです」
琴乃は、まるで懺悔するような口調で、言葉を続けた。
「でも、姫乃ちゃんは違ったんですよね。……それが、すごく羨ましかった」
「姫乃さんのため、ってこと?」
「ええ……。私、姫乃ちゃんのことを考えたつもりで、とんでもないことしたのかもしれません。でも、佳織さんや、君貴兄さんと暮らすよりは……至兄さんや夏希ちゃんと一緒の方がいいって……」
「……」
「私、姫乃ちゃんに、自分のできなかったことを押しつけちゃっただけなのかもしれませんね」
「……姫乃さんがそのことに納得してるなら、あまり気に病むことじゃないわ」
霧子が、意外なほどに優しい声で、言った。
「出発点がどうあれ、自分の道を歩いてるなら、それはそれでいいはずだもの。だから――これで気持ちを精算して、あなたはあなたの道を歩きなさい」
「……」
琴乃は、少し驚いたような顔で、霧子の顔を見つめた。
「何?」
「ごめんなさい……霧子さんがそういうこと言うなんて、意外で……」
「あたしの患者は、ややこしい事情を抱えた人が多いの。だから、ついお説教臭くなっちゃうのよ」
やーね、と小さく呟いて、霧子は空を仰いだ。
琴乃が、霧子の視線を追う。
夕闇の迫る空に、白と青に塗り分けられた飛行機が、高いエンジン音を轟かせながら飛翔していた。