鬼の左手


解答編



 憎い。
 兄が、憎い。
 自分より、明らかに何もかも勝っている兄が、心底、憎い。
 血を分けた兄弟を憎むことしか知らない愚かな自分を、侮蔑と憐憫の目で見る兄が、堪らなく憎い。
 憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。
 殺しても、飽き足らない。
 殺すだけではなく、全てを奪ってしまいたい。
 略奪。
 消したい。
 兄の存在を、消したい。
 兄の存在を消滅させてしまいたい。
 あの日――
 飛び込んで来た自動車から身を挺して自分を護った兄。
 自分を救うために、失われた、兄の左手。
 その醜い傷跡を見るたびに、自分は、罪の意識に苛まされた。
 兄がいる限り、自分は、自分の罪を否応なく自覚させられる。
 自分の為に左手を犠牲にし、そのことによって無言で自分を責める兄が、憎い。
 消してしまいたい。
 奪いたい。
 殺したい。
 殺す。
 奪う。
 消す。
 どうすれば――
 どうすれば兄の存在を亡き者にできるのか――
 嗚呼。
 自分はなぜ、これほどまでに兄を憎んでいるのか。
 兄を憎む赤黒いこの感情だけで、自分の生は染められている。
 兄がいる限り、この恐ろしいどろどろとした気持ちからは逃れられない。
 殺さなくては。
 奪わなくては。
 消さなくては。
 その為には――
 その為には、鬼にならねば。
 人のままでは、駄目だ。
 人という器には、この憎悪と恐怖と焦燥は、収まりきらない。
 鬼だ。
 鬼だ。
 鬼だ。
 自分は、鬼だ。
 鬼の――



 ふと、林堂は、目を開いた。
 そして、今まで自分を支配していた想念を振り払うように、頭を振る。
「そうか――」
 すでに白みつつある空を窓越しに眺めながら、林堂は立ちあがった。
「そういうことか――やはり、鬼だな」
 にいっ、と林堂が唇を歪めた。
 そして、次の瞬間に、自分の浮かべたあまりに禍々しい表情に呆れたように、ぱんぱん、と頬を叩く。
「いかんいかん。俺まで巻き込まれてどうする」
 そう言ったときには、林堂は、普段の彼に戻っていた。
「事件に感情移入しすぎるのも考え物だな。――さて」
 言いながら、林堂は、ドアを開いた。



 瑞穂は、しばらく、ドアが開けられたのに気が付かなかった。
 半覚醒状態の頭は、もはや、きちんと世界を認識していない。
 うねり、おしよせ、全てをさらっていく波のような快楽が、意識を、どろどろに溶かしてしまっている。
 一晩で、何回絶頂を味わったのか分からない。
 凶悪な機械は、瑞穂の敏感な個所を無遠慮に刺激し続け、無機質な快楽によって、体力を根こそぎ持っていくようなエクスタシーに、何度も追い込んだ。
 ギャグボールで塞がれた口からだらだらと涎をこぼし、きつく縄に戒められた体をもだえさせ、びくびくとみじめに痙攣した。
 そして、すうっと意識が遠くなり、つかのまの安らぎのときが訪れる。
 が、しばらくすると、乳首と性器に固定された淫具が震えだし、瑞穂の性感を強制的に掻き立てるのだ。
 そのまま絶頂を迎えるのも辛かったが、イキそこねるのはもっと辛かった。
 単純な仕掛けのタイマーに制御されたローターとバイブは、一定時間がすぎると、呆気なくその働きを中断させてしまう。そうなれば、瑞穂がいかに体をうねらせようとも、充分な快楽を得ることは難しい。
 じりじりと身の内から神経を焦がす疼きに耐えながら、あの忌まわしい振動を待ちわびることになるのだ。
 意思の無い機械に弄ばれ、嬲られる自分が、惨めだった。
 間違いようのない快楽を感じながら、瑞穂は、悔しくて、涙を流した。
 こんな仕掛けに他愛なく屈服する自分の体が情けなかった。
 だが、そんな気持ちも、瑞穂のマゾヒスティックな欲望を煽るものでしかない。
 惨めであればあるほど、ローターとバイブが動き始めたときには、勃起した乳首と、どろどろに濡れたあの部分から、熱い快感がせり上がり、脳が煮えるような錯覚すら覚えた。
 被虐の黒い快楽が、理性を犯しつくし、陵辱する。
 そんな状態でありながら、歓喜の絶叫をあげることすらかなわない。
 ただ、与えられた刺激によって絶頂を繰り返し、壊れかけた自動人形のようにひくひくと震えるだけだ。
 最後には、瑞穂は、自分が人間であるという意識すら無くしかけていた。
 空っぽになった頭に、間欠泉のように強烈な快楽が吹き上がり、そしてすうっと引いていく。
 ただ、それの繰り返しだ。
 そんな瑞穂の膣内から、唐突に、ずるん、とバイブが抜かれた。
「ふうっう……」
 未だギャグのはまったままの口から、息が漏れる。
 乳首に当てられていたローターが外され、ボールギャグも、取り除かれた。
「ふわ……」
 瑞穂は、だらしなく口を開いたままだ。
 そんな瑞穂の体を戒めていた縄が、次々と切断されていく。
 瑞穂は、ぐったりと椅子の背もたれに体重を預けた。
 と、両腋に手を差し込まれ、無理矢理立たされる。
 立つだけの気力は無かったが、逆らう気力も残っていない。瑞穂は、ふらふらと立ちあがり、そして、前に倒れかかった。
「おっと」
 そう、耳元で言われ、ようやく、自分を林堂が抱きとめたのだということに、気付く。
「さとみ、ちゃん……?」
 ようやく、瑞穂の瞳が、焦点を合わせだした。
 すぐ近くに、淡い笑みを浮かべた林堂の整った顔がある。
「瑞穂……」
 名前を呼びながら、林堂は、瑞穂の体を、ぎゅっと抱き締めた。
「あ……」
 あれほど快楽を与えられ続けながら、どうしても得られなかったものを、瑞穂は、感じていた。
 林堂の体のぬくもり――
 それが、痛いほどきつく、自分を抱き締めている。
「あ、ああッ? あ……ンあぅ……っ」
 麻痺していたかと思われた性感が即座に復活し、一気に高まる。
「あンッ……んんン! ンあ、あ、あああああアーっ!」
 瑞穂は、林堂の腕に抱き締められただけで、絶頂を迎え、高い声をあげ続けてしまった。



「智視ちゃんのばか」
 バスタブの中、ゆったりと足を伸ばす瑞穂に覆い被さるような姿勢で、林堂は湯につかっている。
 二人とも、普段は結んでいる髪を解いていた。
「ばか、いじわる、いじわるぅ」
 瑞穂は、林堂に、まるで幼女のような舌足らずな口調で、そう繰り返していた。
「ん……」
 林堂は、憎らしくなるくらい優しい笑みを浮かべながら、そんな瑞穂に、何度もキスをしている。
 頬、額、唇、首筋、胸元――
 ちゃぷちゃぷと音を立てながら、林堂は、快感未満のもどかしいような刺激を、瑞穂に与え続けている。
「いじわる……ばか……ばかばかぁ……」
 林堂のキスを上半身に受けながら、瑞穂は、そう繰り返す。
 繰り返しながら、細く引き締まった林堂の体に、まだうまく力の入らない腕を絡めた。
 ん? と表情だけで訊きながら、林堂が瑞穂の顔を至近距離から見つめる。
「……すき……」
 ぽつん、と瑞穂は、拗ねたような顔で、言った。
 林堂が、瑞穂の唇に、唇を重ねる。
「ン……ふゥ……うん……んんン……」
 ちゅぷっ、ちゅぷっ、と音を立てながら、林堂の舌が、瑞穂の口腔をまさぐる。
 唇を離すと、瑞穂は、先ほどにも増して恍惚とした表情になっていた。
「膝で、立ってみて」
「ウン」
 小さな子供のように素直に返事をして、瑞穂が、バスタブの中で体を動かす。
 何度もよろけそうになる瑞穂の体を、そのたびに林堂が支えてやる。
 二人は、バスタブに膝立ちになって、互いに向かい合った。
 林堂が、瑞穂の両肩に手を置き、再び上半身にキスをする。
「ああン……すき……すき……すき……っ」
 まるで、その言葉しか知らないように、瑞穂が繰り返す。
 林堂の動きと、瑞穂の身じろぎに合わせて、湯気を上げる水面が揺れ、たぷたぷと音を立てた。
 淡いピンク色に染まった瑞穂の肌に、縄の痕が走っている。そこに、濡れた瑞穂の髪がまとわりついてる様が、妖しく、奇妙に艶っぽい。
「痕、残っちゃったな……」
 そう言ってから、林堂は、縄目まで判別できそうなほど鮮やかなその緊縛の痕跡に、舌を這わせる。
「ウン、残っちゃった」
 無邪気な、そして、どこか誇らしげな口調で、瑞穂が言った。
 そんな瑞穂の、明るいといってもいいくらいの声に、林堂は、ちょっと驚いた顔になる。
 そして、林堂は、瑞穂の体を、ぎゅうっ、と抱き締めた。
「あ、あぁン……♪」
 瑞穂が、嬉しげな声を上げて喉を反らす。
 もう、それだけでイってしまうようなことはないが、それでもかなりの快感らしい。瑞穂の華奢な体が、ひくっ、ひくっ、と小さく震えている。
 瑞穂の下腹部に押し当てられた林堂のペニスが、半勃ちの状態から、さらに硬くなった。
「うン……」
 瑞穂は、そんな林堂の部分に、慎ましやかな恥毛に飾られた恥丘を、悪戯っぽくこすりつけた。
 二人の体に挟まれた林堂のペニスが、ますます硬く、熱くなっていく。
「智視ちゃん……ほしいィ……」
 瑞穂が、林堂の腕の中で身もだえするようにしながら、言う。
「でも、だいじょぶか?」
 そういいながら、林堂が、右手を瑞穂の股間に当てる。
「ここ、まだキツいだろ?」
「ン……ッ」
 林堂の言葉通り、触れられると少し痛いのか、瑞穂が眉をたわめる。
「ちょ、ちょっと、ヒリヒリするけど……智視ちゃんと、もっとつながりたいんだもん……」
「分かったよ」
 そう言って、林堂は、バスタブの栓を抜いた。
「このままだと、アソコにお湯が入っちゃうからな」
 そう笑いながら、シャワーのコックをひねり、お湯が自分たちにかかるようにする。
「あは、なんか、雨の中でエッチするみたい」
 瑞穂が、面白そうにそう言う。
 林堂は苦笑いしながら、バスタブの中で足を伸ばした。
 バスタブがかなり大きいので、リクライニングシートに背を預けたような姿勢になる。
「はぁ……」
 そそり立つ林堂のペニスを見て、どこか熱っぽい溜息をつきながら、瑞穂は、林堂の腰を膝でまたいだ。
 バスタブのへりを両手で持って、ふらつく自分の体を支える瑞穂を、林堂が両手で誘導する。
 粘膜と粘膜が、触れ合った。
 瑞穂のそこは、すでに柔らかくほころび、熱い蜜をたたえている。
「あ、はぁン……」
 瑞穂は、自分の体を支え切れなくなったような感じで、腰を落としていった。
 ぬぬぬぬぬっ、とシャフトの表面を靡粘膜が滑り、ペニスをクレヴァスが飲み込んでいく。
「ンう、う、ンはぁ……っ」
 バスタブのへりを持つ瑞穂の手に、力がかかる。
 が、瑞穂の腰の動きは止まらない。
「は、あぁ……あ……あン……っ」
 瑞穂の腰が、林堂の腰と密着した。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
 瑞穂が、小さな口を開け、喘ぐ。その目尻には、涙の珠が浮かんでいた。
「ん、うッ……」
 瑞穂は、その眉をきゅっとたわめたまま、くにくにとお尻を動かし始めた。
 まるで何かに怯えているような、小刻みな動き。
 まだきちんと体に力が入らないからなのか、瑞穂の表情は、何とも切なげだ。
 健気に動く瑞穂の体を、シャワーから落ちる湯滴が、たぱたぱと叩いている。
「痛い、か?」
 林堂が、訊く。
「い……痛いけど、きもちイイの……」
 そう言って、瑞穂は、目尻の涙を指でぬぐい、えへっ、と笑った。
「なんだか、はじめての時みたい……」
「瑞穂は、痛いのが気持ちイイ変態だっけな」
 林堂が、お湯に濡れた瑞穂の肌に指を這わせながら、言う。
「何よォ、智視ちゃんだって、女のコを虐めてコーフンする変態さんじゃない」
 瑞穂がそう言うと、林堂はかすかに笑って、くん、と下から腰を突き上げた。
「ひゃあン」
 声を上げる瑞穂の体を、林堂が責める。
 大きな動きではないが、ペニスで瑞穂の中を確実にかき回すような動きだ。
「んぐ……う……ふっ……ひあ……ああァ……」
 瑞穂も、一時止まっていた腰の動きを再開させた。
 ふるん、ふるん、と、瑞穂の動きに合わせて、綺麗な半球型の乳房が揺れる。
 林堂は、その瑞穂の乳房を、両の手の平でそれぞれ包みこむようにした。
 ちょうどすっぽりおさまる感じの、控えめな膨らみ。
 指で押せば、押した分だけ押し返してくるような、みずみずしい弾力がある。
 林堂は、手の平の表面で乳首を転がすようにしながら、瑞穂の胸を揉んだ。
 林堂の手の中で、瑞穂の乳首が、ぷっくりと勃起していく。
 瑞穂と林堂の腰の動きが、同調し始めた。
「ああン……ひあ……あン……あン、あン、あン、あン、あぁン……」
 林堂のシャフトが、愛液に濡れながら、瑞穂のクレヴァスを大きなストロークで出入りする。
 瑞穂の靡粘膜が、ペニスの動きに伴ってめくれあがり、そして中に巻き込まれる様が、ひどくエロチックだ。
「はぁン、はぁン、はぁン、はぁあああ……っ!」
 瑞穂は、何かに耐えられなくなったように、がっくりと上体を前に倒した。
 そして、林堂の濡れた長髪に指を絡ませるようにしながら、ぎゅうっと抱きつく。
「瑞穂……」
 林堂も、瑞穂の肌に張り付いている彼女の髪の感触を指に感じながら、その体を抱き締めた。
「さ、智視ちゃん、まだ……?」
 はぁ、はぁ、と喘ぎながら、瑞穂が訊く。
「まだ、かな」
 余裕すら感じさせる口調で、林堂が答える。
「くやしい……」
 そう言いながら、瑞穂は、その大きな目を閉じた。
「ん……」
 そして、自分の意思で、膣内の粘膜をざわめかせる。
「あ、う、うっ……」
 瑞穂の“秘技”に、林堂は、うろたえたような声を上げてしまった。
 どうやら、ふらふらになった瑞穂が、このようなことをしてくるとは考えていなかったらしい。
「智視ちゃん……もっと、もっとあたしのアソコ、感じて……」
 甘い声でそう林堂の耳元にささやきながら、くにくにとヒップを林堂の腰に押し付けた。
 瑞穂の膣内は、貪欲な軟体動物のようにうごめき、林堂のペニスを刺激している。
 まるで、ぴったりと吸いついた何百もの微細な舌が、ぞわぞわとペニスを舐め上げているような感触だ。
「く……」
 負けじと腰を動かそうとする林堂の動きを、上になった瑞穂の手足が、ぐっと押し止める。
「ふふ……っ」
 ようやくイニシアチブを手に入れることに成功した瑞穂が、その童顔に、いつになく妖しい笑みを浮かべた。
 そして、ちろりと、自らの唇を舐める。
「智視ちゃん……きもちイイんでしょ……? 智視ちゃんのおちんちん、あたしの中で、ぴくぴくしてるもん……」
 淫らにそう言いながら、瑞穂も、はぁはぁと喘いでいる。
 こうやって林堂を追い詰めることで、精神的にも肉体的にも、性感が高まっているらしい。
「んっ……み、瑞穂……」
「智視ちゃん……」
 二人は、互いの名を呼んでから、唇を重ねた。
「ん、んふ……んちゅ……う、うぅン……」
 ちゅば、ちゅば、と音を立てながら、互いの唇や口腔を、舌でまさぐる。
 そうしながら、林堂は、瑞穂の細い腰を、ぐっ、と両手で持った。
「瑞穂……」
 そして、唇を離し、瑞穂の耳元に口を寄せる。
「好きだ、瑞穂」
「え? あ、あああッ! ンああん!」
 不意をつかれた瑞穂が、思わず力を緩めた隙に、林堂は、ぐん、と腰を突き上げた。
「ず、ずるい……ぃあ! あ! あうンっ! あああああッ!」
 瑞穂が何か言うのにも構わず、林堂は、遮二無二腰を動かす。
「や、あああっ! ま、またイっちゃうっ! もう、瑞穂だけイクの、ヤあ! イヤなのおッ!」
 瑞穂が、林堂の体に爪を立て、濡れた髪を振り乱しながら、叫ぶように言う。
「あ……あぁッ! も、もう、ダメえ! ダメえええ!」
 しかし、無論、林堂は腰の動きを緩めたりはしない。
「あうッ! うン! ふうう! ンううううううッ!」
 自らを翻弄する快楽に耐えられなくなったかのように、瑞穂が、かぷっ! と林堂の左肩に噛みついた。
「く……!」
 林堂が、小さくうめきながら、瑞穂の体をひときわ強く抱き締める。
「うーっ! ンうううッ! ふうううううううううううううううううううううッ!」
 瑞穂が、絶頂を迎えた。
 童女のように涙をこぼしながら、きりきりと林堂の肩に歯を立てる。
「く、う、うッ!」
 そして、一瞬だけ遅れて、林堂は、痛いほどにこみ上げていた熱い粘液を、解放した。
 びゅるうっ! びゅるうっ! と瑞穂の膣内でペニスが激しく脈動し、スペルマを迸らせる。
「あ、あン、あっ、あぁぁ……」
 びくん、びくん、と瑞穂の体が痙攣した。
 そして、林堂の胸にその身を預け、ぐったりと弛緩する。
「……ふーっ」
 林堂が、溜めていた息を吐き出した。
 そして、瑞穂の髪を、愛しげに撫でる。
「――智視ちゃんの、ひきょうものぉ」
 瑞穂が、甘えるような、拗ねるような声で、言った。
「何が?」
「だって、いきなり、あんなふうに言われちゃったら……」
「だから、何がさ」
 ふふっ、と笑いながら、林堂が重ねて訊く。
 むーっ、と瑞穂は、上目遣いで林堂を睨んだ。
「……ああいう時じゃないと、言ってくれないの?」
 そう言う瑞穂の頬に、林堂が、手を添える。
「え?」
「可愛いよ、瑞穂。好きだ」
 そして、照れもせず、そんなことを言う。
 言われた瑞穂の顔の方が、ぼわわん、と耳まで赤くなった。
 林堂が、目を閉じ、まだ何か言いたげな瑞穂の唇に、キスをする。
「ン……っ」
 瑞穂は、ほんの少しだけ身じろぎしてから、林堂のキスにその身を委ねた。
 二人を、温かなお湯がさあさあと叩いている。
 そして、シャワーのお湯を浴びながら重なり合う二つの体を、窓からさしこむ春の朝日が、いつまでもきらきらと照らしていた。



 午後、レストハウスの中で、二人はベンチチェアに座っていた。
 文庫本を読んでいる林堂の左の肩に、こてん、と瑞穂がその頭を乗せて、眠っている。
 あのあと、仮眠を取った二人は、昼前にゲレンデに出た。が、ひとしきり滑ってから遅い昼食を食べた後、瑞穂は居眠りをはじめてしまったのである。
 林堂は、苦笑いしながらそんな瑞穂と一緒にこのベンチチェアに移ったのだ。
 それから、すでに一時間以上が経っている。
 窓の外の空は晴れ、白い雲が、のどかに上空の風に流されていた。
「お邪魔かな?」
 現れた品川は、苦味を含んだ顔で、言った。
「そんなことはないですよ」
 林堂が、本から顔を上げて言う。
「――で、謎は、解けたのか?」
 単刀直入にそう訊く品川に、林堂は、気障な笑みを浮かべて見せた。
「昨日の今日だというのに、警部もせっかちですね」
「警部補だ。……それより、どうなんだ?」
「まあ、それだけ俺のことを買ってくれてるのかもしれませんが……」
 そう言いながら、林堂が、手にしていた文庫本に栞を挟む。
「何分、データが不足していますよ」
「――そうか」
「俺にできるのは、可能性をお示しするくらいですねえ」
「可能性?」
「その時、あの小屋の中で何があったかという、そういう架空のお話です」
 品川が、表情を引き締める。
 一方、林堂は、普段通りの顔で、語り始めた。
「直接見たわけではないので、断言はできませんが――現場は、厳密な意味での密室ではないと思うんですよ」
「……」
「問題の小屋は、ログハウスなんでしょう? どれくらいの精度で作られたものかは分かりませんが、窓枠ごと窓を外して、そのあとではめ込むとか、掛け金に糸や針金を使った細工を施すとか、まあ、昔の推理小説みたいな手はいくらでもありますよね。そう言えば、ジャッキで屋根を持ち上げるとか、死体の周囲に家を作り出すなんて小説もありましたっけ」
「いや、読んだことはないが」
「ま、そのことは本題ではないです。要するに何が言いたいかというと、今回の事件は不可能ではないけど、不可解ではある、ということですよ」
「昨日も、そんなことを言っていたな」
 言われて、林堂がかすかに肯く。
「ええ。どうやって密室を作ったのかではなく、なぜ密室を作ったのか。そっちの疑問の方が気になりますね」
「……」
「状況から考えて、ドアを施錠したのは、死んだ絹川康二だと思われます。無論、左手がまだあった時の絹川です。とりあえずは、この仮定に基づいて演繹してみましょう」
「ああ」
「ドアを閉めたのは絹川。鍵を掛けたのも、掛け金を下ろしたのも絹川。さて、ではその時、小屋には誰かいたでしょうか?」
「いなかったとも、考えられると?」
「ええ。凶器は梃子に備え付けられた電動ノコギリ。自らの左腕を、肘と手首の中間で切断するにはうってつけの状況です」
 林堂は、そう言って、品川の反応を窺うように、一呼吸おいた。
「つまり、自殺だというのか?」
 品川が、訊く。
「自殺、とは考えにくいです。他殺と考えにくいのと同様にね。そもそも、人を殺す――もしくは自殺するにあたって、左手を切断するというのは、手間ばかりかかって確実性がない。もっとうまい方法はあるはずです」
「自殺でも、他殺でもない……」
「いわゆる、自傷行為、というのが一番正確なところではないかと思います。状況からね。そうなると、密室なんていう謎自体が消滅してくれる」
「しかし、なぜそんなことを?」
「もっともな疑問ですが、今は、一時棚上げにしてくれませんか?」
 そう言ってから、林堂は、口元を右手で覆った。
「絹川は自ら左腕を切断した。あらかじめ止血し、もしかすると強力な鎮痛効果のある薬品を服用していたかもしれない。何にせよ、絹川は、意識を失わずに済んだ。問題は……」
「切断された左手の行方だ」
「そうです。家の中でも周囲でも、左手は発見されなかったんですよね?」
「ああ。まあ、屋外に関しては、雪の中に埋もれているという可能性もあるがな」
「しかし、外にあるとすると、密室は破られなかった、という仮定自体を考え直さなければならない。とりあえずは、この路線で説明――と言うか、物語を続けます」
「分かった」
「閉ざされた家。その中には、切断された左手と、わざわざ自らの腕を切断した男……」
「……」
「暖炉で燃やしたり、強力な薬品で分解してしまったとも考えられる。左手を消すことは、不可能ではありません。ただ、なぜわざわざそうするのか、大変に不可解です」
「絹川が狂っていたということか?」
「まあ、おかしくはなっていたのでしょうが、狂気にだって筋道はあるでしょう」
 そう言ってから、林堂は、すっと目を細めた。
 笑ったらしい。が、林堂の口元は右手に隠され、正確にどんな表情を浮かべているのかは、品川には分からない。
「例えば、絹川が、自分の左手を食ってしまったんだとしたら――?」
「な……!」
 林堂の言葉に、品川は息を飲んだ。
「なんだと……?」
「おかしいですか? いや、おかしいですよね。でも、左手を失った状態で、しかもまだ意識があったというのに、外に助けを求めることなく、小屋の中に閉じこもっていたという時点で、すでに充分おかしい。絹川が小屋に一人であったと仮定するなら――状況はそれを肯定しているようですが――彼は、自分の意思で小屋に残ったわけです。では、なぜか?」
「……」
「彼には、やることがあった。左手を自らの体から切り離すのは、その前奏曲に過ぎない。絹川は、自分の左手が食いたくて食いたくて、それで小屋に閉じこもった」
「……」
「今の話を否定する材料が、あの小屋にはありましたか?」
「いや、ない……と思う。しかし、なぜ……」
「絹川には兄がいた。十年以上も前に行方不明になった兄。左手のない兄がね」
「……」
「さらに仮定を重ねます。さて、問題の行方不明になった兄。そして、兄が行方不明になることで、多大な資産を得た弟――」
「……絹川康二が、兄を殺したと?」
「世間では、そう珍しい話ではありませんよね。が、殺人には、いろいろと問題がある。たとえ首尾よく殺したとしても、一番問題になるのは、その残った死体をどうするかという問題です。だからこそ、死体を消滅せしめた殺人を完全犯罪などと呼ぶことすらある」
「……」
「品川さんが、絹川謙一を行方不明者としているのも、死体が発見されていないからでしょう?」
「そうだ」
「しかし、品川さんだって、絹川康二が兄を殺したのだと思っているんじゃないですか?」
 品川は、注意深く、答えない。が、林堂は平気な顔だ。
「例えば、雪深い山の中の小屋で、弟が兄を殺してしまう」
 林堂は、見てきたような口調で、言った。
「それは、計画的な犯罪だったかもしれないし、何かの弾みだったのかもしれない。ともあれ、目の前に横たわる死体をどうにかしなければならない。しかし、外に捨てに行こうにも、周囲は一面の雪原。死体を背負って出ていくのには困難を伴い、死体を隠蔽するのは難しい」
「……」
「閉ざされた山小屋の中。すでに肉の塊となってしまった憎い兄。そして、死体を解体するための道具は、揃っている」
「それで……」
「絹川康二は、兄の死体を食った」
 林堂の話を聞く品川の顔色が、青い。
「人の肉が最高の美味である、という俗説を、俺は信じていません。でも、兄を殺し、その死体を食った男の気持ちになると、どうでしょう? その精神が奇怪な飛躍を遂げてしまったとしても、肯けるんじゃないですかね?」
「何が、言いたいんだ? つまり……」
「人を殺し、その肉の味を覚えてしまった絹川は、奇妙な妄念に囚われる――」
 林堂が目を閉じる。
「自分は兄を食った。だが、まだ食い足りない――」
 品川は、無意識のうちに歯を食いしばりながら、林堂の言葉に聞き入っていた。
「頭も、胸も、肩も、腕も、腹も、腰も、脚も、血液も、内臓も、脳髄も、全てを胃の腑に収めた。だが、まだ、足りない――まだ、左手を食っていない」
 林堂が、目を開いた。
「――っ!」
 ぞくっ、と品川の背に悪寒が走る。
 林堂の瞳に、赤黒い、異様な光を見たように思えたのだ。
「……と、与えられた材料で、いちばん悪趣味なお話をこしらえてみました。ま、あくまで架空の物語です」
 口元から右手を外し、林堂が、あっけらかんとした口調で言った。
 その表情は、いつもの、皮肉げで気障な林堂の顔に戻っている。
「自殺でも、他殺でもない。ただ、一人の狂った男が、自らの左手を料理するために、山小屋に閉じこもって鍵をかけた。そして、念願を果たした後、残る力でその痕跡を全て消し、結局は衰弱死……。妙ちきりんな話ではありますけど、少なくとも俺にとっては、不可解じゃありません」
「……」
「台所のまな板や鍋なんかに、ルミノール反応が現れるかもしれません。おそらく、まだ調べてはいないでしょうが――チェックする価値はあるかもしれませんよ。それに、残った骨なんかは、下水に流されたかもしれませんね」
「そう、だな」
 ゆらりと、品川は立ちあがった。
 そして、ちら、と林堂に目を向ける。
 眠っている可愛い顔の恋人に肩を貸している、気障ったらしい細面の高校生。
 その頭蓋の中には、どんな昏い想念を宿らせているのか――
「ふん」
 品川は、一つ鼻で息をして、自らの感慨を追い払った。彼はリアリストであり、警察官だ。そんな詩的なことを考えるような脳みそは、持ち合わせていない。
「参考になった。じゃあ、私はこれで失礼する」
「真相が判明したら、教えていただけます?」
「ああ」
 曖昧な返事をして、品川は、レストハウスを後にした。
 その背中を見送った後、林堂は、傍らの瑞穂に視線を移した。
 瑞穂の左手の薬指に、蒼い宝石が光っている。
 さあっ、と流れる雲が太陽を隠し、一瞬、レストハウスの中を真っ暗にした。
 林堂の表情は、誰にも見えない。
 そして、太陽が顔を出し、レストハウスの中に明るさが戻ったとき、林堂は、再び文庫本を読みふけっていた。
あとがき

BACK

MENU