第八章
夜明け近くになって、森に雨が降り始めた。
ねぐらに使っている別荘の窓を、細かな雨滴が叩く。
春が終わりかけているのを告げるような、鬱々とした雨。
朝日は灰色の雲に遮られ、地上をぼんやりと照らすのみだ。
この別荘は、半ば放棄されたものを、所有者に無断で使っている。
と言っても、そもそも所有者からして、近年の不景気の煽りで莫大な借金を抱え姿をくらませているらしい。ここの権利も宙に浮いている状態のようなのだ。
そういう物件を、萌木氏が見つけ出し、手配してくれたのである。
大きな部屋に、テーブルとベッドが一つずつ。他の調度としては、流し台と、粗末なソファーがあるくらいだ。
萌木氏が手を回してくれたせいか、水も電気もガスも使える。
ここに来てから、もう一月ほどになるだろうか。
すでに、二体、モロイを倒している。通算三体だ。
先日、灰に還したモロイは、体中が腐敗し、膨れ上がって、もとの性別すら判然としないようなモノだった。
その心臓をえぐり、存在を消した。
生死の狭間に身を置き、相手を斃すことに――慣れ始めている。
窓から差し込む曖昧な朝日の中、俺は、フローリングの床に座り込んで、銀の篭手を分解し、稼動部分に油を差していた。
目の前に、携帯電話がある。電波が辛うじて届く距離なのだ。
玄関のドアが、開いた。
「ただいま」
やや青い顔のミアが、そこに立っていた。
「雨、だいじょうぶか?」
「ちょっと濡れちゃったわ。嫌な気分」
吸血鬼は流れる水を嫌うという話は、以前にミアに聞いたことがあるが、雨も苦手らしい。
「この国って、雨季があるのよね。忘れてたわ」
「そう言えば、そろそろ梅雨だな」
「憂鬱」
ぽつん、とつぶやいて、ミアは、部屋の隅のベッドに身を横たえた。
夜中から今まで、この近辺を巡回していたのだ。かなり疲れているのだろう。
唯一、この別荘の中に残っていたベッドはミアが使い、俺はソファーで寝る。ここに来た時、そう決めたのだ。
「ねえ――鷹斗」
ミアが、甘えるような――と言うより、ひどく寂しそうがってるような声で、言った。
俺は、ミアに歩み寄る。
ミアが、その大きな目を閉ざした。
白磁の人形のような、整った顔。薔薇色の唇。
頬に触れると、ぞくりとするほど、冷たい。
だが、俺は、ミアがこの冷たく滑らかな肌の下に何を隠しているのか、知っている。
「……」
ちゅ、とかすかな音を立てながら、俺は、ミアに口付けた。
ひんやりとした、唇の感触を、感じる。
と、ミアの舌が、俺の舌に絡みついてきた。
驚くほど熱い舌が、淫らなほどに動き、俺の口腔をまさぐる。
頭が痺れるほど、官能的なキス。
俺は、しばらくそれに身を委ね――そして、名残を惜しみながら、ゆっくりと唇を離した。
「鷹斗……」
ミアが、開いた瞳を潤ませながら、びっくりするくらい幼い声で、俺を誘う。
俺は、このままミアを抱き締めたいという衝動をどうにかこらえ、ミアの髪を撫でた。
「ごめん、ミア」
「……ううん、いいの。我慢するわ」
そう言って、ミアが再び目を閉じる。
「眠れよ。俺も、もう少ししたら寝るから」
「……ええ」
素直にそう返事をするミア。
俺は、ゆっくりと、ベッドから遠ざかった。
そして、床に座り込み、分解していた篭手を組み立て始める。
しばらくすると、かすかなミアの呼吸音が、部屋に響いた。
その可愛らしい寝息を聞いているだけで、無理矢理に押さえつけた浅ましい欲望が暴発しそうになる。
俺は、無意識のうちに歯を食い縛り、そして――組み上がった篭手を、右手に嵌めた。
そして、ミアを起こさないように気配を絶って、玄関のドアを開ける。
雨の影響か、ミアは気付く様子もない。
俺は、ちらりと床に置きっぱなしの携帯電話に目をやった。
ミアが帰ってくる少し前、萌木氏から、連絡があった。
奴が、来たのだ。
俺は、奴が来るであろう場所めざし、細かい雨の中を無言で歩き始めた。
「雨――」
別荘から出てきた羽室鷹斗を遠くに認めながら、千坂静夜は歯噛みをした。
今、あの別荘に“カインの花嫁”らしき少女がいる。
しかし今、静夜の主人であるノインテーターは、彼の“巣”を完成させる、最後の仕上げに入っており、うかつには動けない状態だ。
そもそも、静夜一人で、“花嫁”に対抗できるはずがない。
それに、昼の雨の中、あの得体の知れない人間と戦うのも、避けたかった。
静夜が配置したモロイを、三体も仕留めたその腕前。
二十歳前後という年齢からは考えられないほどの、冷徹な態度。
“花嫁”と行動をともにしている以上、ハンターではありえない。かと言って、“花嫁”の従僕というわけでもなさそうだ。
まして、吸血鬼ではない。
単車のナンバーから住所と名前を割り出しているが、その正体に関しては一切が謎だ。
雨足が、強まっている。
「今は、泳がせておいてあげるわ」
悔しげに言って、静夜は、漆黒のマントを翻し、森の奥へと消えていった。
森の中、獣道のような山道を歩くうちに、開けた場所に出た。
膝の丈ほどの草が生えた広場だ。端に廃屋のようなものが幾つかあるところを見ると、かつては小さな村落だったのかもしれない。
先日、モロイを倒した場所だ。
そこに、灰色の薄手のコートを着た男が、佇んでいた。
――ユーリー・グロボフ!
俺は、歓喜に近いほどの強烈な衝動に駆られ、物も言わずに地を蹴っていた。
一直線に、迫る。
距離を半分に詰めた時点で、奴が俺に気付いた。
痩せた青白い顔に、驚愕と、そして怒りの色が浮かぶ。
「貴様か!」
叫びながら、ユーリーは、左腕に装着したクロスボウを構えた。
互いに、相手が視界に入ったその時には、攻撃に移る。それが、俺と奴との間に横たわる無言の取り決めだ。
奴までの距離は、俺の足であと九歩ほど。
間合に入る前に、確実にあの銀の矢が発射される――。
ひゅっ!
銀の矢を目視するより前に、ぞくん、という奇妙な寒気が俺の背筋を走った。
ぎん!
考えるより先に、篭手を嵌めた右手を動かしていた。
鈍い衝撃。
俺は、銀の篭手の甲で、矢を弾いていた。
あと四歩――。
ユーリーは、すでに右手のクロスボウを構えている。どうやら右腕はもう回復しているらしい。
構わず、走る。
まだ奴の動きを見切っていない以上、回り込んでも避けることは、まだ難しい。
ひゅっ!
再び迫る、必殺の矢。
それを、わずかに体を右にずらし、かわす。
左の腋を擦り抜けるように、銀の矢が通過したその時には、俺は、左手の指を繰り出し、ユーリーの喉笛に掴みかかっていた。
「しゅッ!」
「ちいッ!」
無意識のうちに漏れた呼気に応える様に、ユーリーが短く声をあげる。
のけぞったユーリーの喉仏を、俺は、砕き損ねていた。
かすかな指先の感触で、ユーリーの喉の皮一枚を抉ったことを知るが――それだけだ。
のけぞった動きのまま、ユーリーが、距離をとるべくくるりと宙返りをする。
地に手をつき、後ろ向きの宙返りを繰り返して退くユーリー。
が、モーションが大きい分、隙だらけだ。
一見派手なその動きに眩惑されることなく、冷静に距離を詰める。
ひゅっ!
つい先刻聞いたその音に、俺は思わず大きく右に跳んでいた。
左の太腿を、矢がかすめる。
ユーリーが、後方宙返りの最中に矢を放ったのだ。
さすがに無理な体勢からの射撃だけあって、狙いは甘かったが、不意を突かれてしまった。
充分に退いてから、ユーリーが、両足で地面に立つ。
俺も、草を踏みながら体勢を整え、両手を構えた。
篭手を嵌めた右手がやや前。左手がやや後。
距離が――致命的に、開いていた。
飛び道具を持っているユーリーに、圧倒的に有利だ。
が、ユーリーは、動かない。その薄青い瞳で、俺をじっと見ている。
奴の左腕のクロスボウが、俺を狙っていた。
今までどうにか矢をかわし続けた俺を警戒しているのか、それとも――
「貴様……まだ、人間だな」
ユーリーが、流暢な言葉で、言った。
その痩せた顔には、いかなる表情も浮かんでいない。
「俺が滅ぼした吸血鬼の身内か?」
ユーリーの言葉に、俺は答えない。
答えないまま、少しずつ、右へ、右へと回り込む。
「荒削りだが見所のある動きだ。ここで殺すのは、正直、惜しい」
右に回り込む俺に、常に正面を向けるように動きながら、ユーリーが言う。
「お前――ハンターにならないか?」
「……っ」
不覚にも、呼吸が乱れた。
きりきりと奥歯を噛みながら、俺は、体内のリズムを整える。
「冷静に考えれば、お前にも分かるはずだ。滅ぼすべき相手が誰なのか」
「――」
「お前が憎むべき相手は、お前の身内を吸血鬼にした者だ。吸血鬼こそが、お前の本来の敵なのだ」
反論しかけ、俺は押し黙った。
ただ、奴の薄青色の瞳を、睨み続ける。
奴の言葉に少しでも心を奪われ、気力が萎えれば――俺は、おしまいだ。
「目を覚ませ。感情に惑わされることなく、お前が為すべきことを知れ」
しとしとと、雨が、俺とユーリーを濡らしていく。
濡れた服が肌にへばりつき、靴の中にじくじくと水が入り込んだ。
「俺の言葉に、偽りや誤りがあるか?」
ユーリーが、右手を添えた左腕を構えたまま、言った。
確かに、奴の言う事は正しいようだ。
しかし――
「っ!」
俺は、大きく左に跳躍した。
今までとは逆の動きに、一瞬、ユーリーが戸惑う。
思ったとおりだ。ユーリーの右腕は、完治していない。
まだ治りきっていない右腕と、逆腕である左腕。どちらで俺を狙うか、一瞬の躊躇があった。
その貴重な一瞬のうちに、距離を詰める。
が、走り出した俺は容易に軌道を変更できない。即ち、ユーリーにとっては狙いやすくなったということだ。
ひゅっ!
左腕の弓から発射された矢を、どうにかよける。
が、ほとんど同時に発射された右腕のクロスボウからの矢が、俺の左胸を狙っていた。
俺の動きを読んでいたのだ。
ずッ!
心臓をかばった俺の左腕に、銀の太矢が突き刺さった。
まだ、痛みは脳に届かない。
そのまま、ユーリ目掛け、走る。
次は、左腕の弓――
それが、矢を発射しかけたその時に、俺は、思い切り前方に身を投げ出していた。
ほとんど四つん這いで、獣のように疾走する。
ユーリーにとっては、一瞬、俺が視界から消えたように見えただろう。
顔を、雨に濡れた草が叩き――その先に、無防備なユーリーの両足があった。
クロスボウを連続して放つため、体のぶれを無くすべく、その両足は全く動きを殺している。
そのユーリーの右脚に、俺は飛びついていた。
「くうっ!」
叫ぶユーリーを押し倒し、倒しながら、左腕でロックした奴の右脚を捻り――
ごッ! という衝撃が、右手にあった。
倒れた時の動きを利用し、奴と俺の二人分の体重を乗せて、ユーリーの右膝を砕いたのだ。
タックルで捕えた右膝に両腕を絡め、倒し様に、折る――。
葛城流柔拳術、“八雷 の相”のうち“伏雷 ”。
「ぐあああああああッ!」
仰向けのまま、動きの取れないユーリーの胴に、俺はまたがった。
傷ついた左手で相手の右腕を封じ、右の拳で、奴の左腕のクロスボウを叩き壊す。
「うおおおおおおおおお!」
「くあああああああああ!」
俺の体の下で、ユーリーの長身が暴れた。
ユーリーが、すでに残骸と化したクロスボウを、俺の側頭部に叩き付ける。
顔の右側がざっくりと裂けたのを感じながら、俺は、左腕に刺さったままだった銀の矢を引き抜いた。
「っ!」
衝撃に似た激痛に、一瞬、気が遠くなる。
その隙に、俺の下から脱出しようと、ユーリーが一層激しく動いた。
そんなユーリーの左の胸に――右手に持った弓矢を突き刺す。
「がわああッ!」
俺の下で、ユーリーが吠えた。
“返文 ”――自らを犠牲に敵の武器を奪い、それを使用する、葛城流の技だ。
だが、狙いは、わずかに逸れ、矢は奴の肺を貫いている。
「ぐぐぐぐぐうぅぅ……」
ユーリーの動きが、止まった。下手に動けば、心臓や太い動脈に傷が届き、命に関わると覚ったのだろう。
俺の体も、限界を迎えようとしている。
腕からの出血が激しい。今まで血の流れをせき止めていた矢を抜いたのだから、当然だ。
歯の根が合わないような寒気が、全身を包んでいく。
「なぜ……」
俺は、食い縛った歯の間から絞り出すように、言っていた。
「なぜ、夕子を殺した?」
自分が、どうしてそのようなことを訊くのか、分からない。
分からないが、どうしても訊かなければならないような気が、俺にはした。
蒼白になった奴の顔が、俺の顔を睨んでいる。
「こ……殺したのではない……あるべき姿に戻したのだ」
ユーリーが、口の端から血を溢れさせながら、言った。
「吸血鬼は、所詮、生きている振りをした死者だ……お前は、惑わされているだけなのだ」
「……」
しばし黙り、ユーリーは、再び口を開いた。
「明るい表の世界で、のうのうと暮らしているお前には分からない世界が、この世にはある。――俺の母親は、吸血鬼に犯され、そして生まれたのが俺だ」
「ダンピール、か」
「そうだ……。よく知っているな」
奴は、薄い唇を笑みの形に口を歪めながら、言った。
「迫害され、村を追われた俺達の前に、またあいつが現れた……。母親は、あいつに誘われて、俺を捨て、そして……今度は、本物の吸血鬼になったんだ……」
ユーリーの薄青い瞳が、俺から逸れる。
眼球の表面を細かい雨が叩いていることを気にする風もなく、奴は、俺には見えない何かを見ているようだった。
「俺が最初に葬ったのは、棺の中で眠る、俺の母親だったのさ……まだ、十歳のときだ」
「――」
「母親のような……そして俺のような人間を生み出さないためにも、吸血鬼は根絶やしにしなくてはならないんだ!」
燃えるような、ユーリーの青い瞳。
それが、再び俺を真正面から見る。
その目には、純粋な――あまりにも純粋な怒りだけが、あった。
そう、この男は正しいのだろう。反論の余地もないほどに。
「――分かった」
俺は、ぽつりと呟いた。
「なに……?」
俺の答えが意外だったのか、ユーリーが聞き返す。
「お前の事情は分かった、と言ってるんだ」
そう言いながら、俺は、奴の胸に食い込んだ銀の矢に――次第に、体重をかけていった。
「ぎ――ああああああああああ!」
奴の口から、耳を覆いたくなるような悲鳴が迸る。
「お前は、何も聞かずに、後ろから夕子を撃った。俺は、お前の話を聞き、お前の顔を見ながら、お前を殺してやる」
「げげげげげげげげげげげげげ!」
俺の言葉が届いているのかいないのか、ごぼごぼと血を吐きながら、ユーリーが身悶える。
俺の体は、きちんと力が入らない状態だ。ユーリーの苦痛を長引かせるつもりはないのだが、結果的に、そうなってしまっている。
厭だ。
自分の手に持つ道具が、肉に食い込み、内臓を傷つけ、人の命を奪っていく感触は、本当に厭だ。
俺は、それでも、奴の断末魔の声を聞き、その引き歪んだ顔を睨み続けた。
「がッ――!」
長い、永遠とも思えるような時間が過ぎた後で、ユーリーは、ようやく痙攣するのを止めた。
見開いた目の目尻が切れ、その顔は、血の涙を流しているように見える。
その赤い涙を、雨が、優しく洗い流していった。
――。
死んだ。
ユーリー・グロボフを、殺した。
正義は、多分、奴にあった。そして、ユーリーを殺したことで、ユーリーに救われるはずだった誰かの未来を、俺は、不当にも剥奪してしまったのかもしれない。
しかし――
夕子を殺すことが正しかったのだと言うのなら、俺はそんな正義を信じることができない。
正義とか、そういうことは、つまり――他人に語り、共有するようなものではなくて――
いや、そんなことはどうでもいい。
もう、どうでも、いいのだ。
雨が、ユーリーの灰色のコートを叩いている。
俺は、ゆっくりと立ちあがり――そして、自分の体が細かく震えていることに、気付いた。
「鷹斗!」
ミアが、鷹斗を見付けたときには、全てが終わっていた。
雨の中、抜け殻のように立ち尽くす、羽室鷹斗。
そして、その足元に横たわる、灰色のコートをまとった、男の死骸――。
ミアは、差していた傘を放り投げるようにして、鷹斗に走り寄った。
その左腕から流れ出る血に、どくん、と妖しい衝動を感じながらも、必死にそれを押さえつけ、止血処理をする。
不快なはずの雨が全身を濡らしている事も、今は気にならない。
鷹斗がいないことに気付き、気配をたどってここに来てはみたが――間に合わなかった。
いや、もし、鷹斗とユーリー・グロボフが対峙する場にたどりつけたとしても、自分に何ができただろうか。
これまでの永い永い時間の中でも、かつて経験したことのなかったような痛切な悔しさが、この世ならぬ鼓動を刻む心臓を苛む。
「鷹斗……」
その声に、鷹斗が、ミアの方を向く。
鷹斗の瞳は、月も星もない夜空のように、ただ、虚ろだった。
雨が止むのを待ち、バイクの後にミアを乗せて、部屋に戻ってきた。
もう、真夜中だ。
夕子が死んだ場所。
明日の朝、俺は、ここを引き払わなくてはならない。
ミアを狙う何者かが、この部屋の場所を嗅ぎつけたという連絡を、先ほど萌木氏が寄越したのだ。
もともと、大した物があるわけではない。手続きも、萌木氏がしてくれるという話だ。
高校時代から世話になったこの部屋を出て行くということも、今の俺には、特に何の感慨も呼び起こさなかった。
必要なものを鞄に詰めてから、電気を消した。
月明かりが、窓から差し込んでいる。
ミアは、何かを思案しながら、その窓の脇に立ち、右手でカーテンをいじくっていた。
「終わったの?」
暗い部屋をぼんやりと眺めている俺に、ミアが、言った。
こくりと、俺は肯く。
あとは、一寝入りして、明日の早朝、ここを出るだけだ。
「……ね、鷹斗」
ミアが、囁くような声で、言う。
「夕子さんに、会いたい?」
「え……?」
「会いたいわよね……。って言うより、今の鷹斗、夕子さんと、ちゃんとお別れしないと、駄目みたい」
俺が、きちんとその言葉を理解する前に、ミアが話し続ける。
「えっとね……夕子さんの残留思念を、あたしに宿らせることができるわ。たぶん、一度だけ、だけど」
そう言って、ミアは、カーテンから手を離し、窓の手前に立った。
夕子が、灰になった場所――。
「ミア……?」
「こっちに来て、鷹斗」
言われて、ミアの前に立つ。
ミアは、ゆっくりと、身につけている黒い服を、脱ぎ始めた。
「え、えっと……服を着てると、降霊の妨げになることがあるから」
かすかに頬を染めながら、ミアはそう言い、そして、すっかり全裸になった。
控え目な曲線で構成された、小さな裸体。
思わずその姿を見つめてしまった俺の頬を、ミアの小さな手が挟んだ。
ミアと、目が合う。
その漆黒の瞳が――次第に、血の色に染まっていった。
「力を抜いて――あたしの目を、見て――」
言われるまま、魅入られたように、ミアの赤い瞳を見つめる。
どくん――どくん――どくん――どくん――
心臓の、鼓動。
それが、何かのリズムと重なっていく。
まるで、地に足がついていないような、不安定感。
起きたまま、夢を見始めているような、奇妙な感覚――
ふっ、と視界が闇に包まれた。
慌てて、目を開く。
「あ……」
俺は、目をしばたかせた。
場所は、元のままの、電気の消された俺の部屋の中だ。
なのに、けしてありえない光景が、俺の目の前にあった。
「ごめん……来ちゃった……」
懐かしい、いつも俺の隣にあった、その声。
初めて見る、その白い肌。
すらりとした体に、豊かな胸。
はにかんだような笑みを浮かべる顔が、眼鏡をかけている。
「夕……子……」
「久しぶり、だね」
えへへっ、と声に出して笑ってから、夕子は、右手の指先で、自分の眼鏡に触れた。
「やだ、あたし、裸なのにメガネかけてる」
「……」
「つまり、これが……ミアちゃんや、鷹斗にとっての、あたしのイメージなんだね」
俺には訳の分からない事を、一人で納得してから、夕子は、俺の顔を間近から覗き込んだ。
「鷹斗さあ、だいじょぶ?」
「え?」
「何か、すごい顔してるからさ」
「そう、か……?」
「あんた、色々あたしの知らないムチャしてるんでしょ?」
俺は、思わずユーリーのことを言いかけ、やめた。
言ってどうなることでもない。
言葉を探している俺に、夕子は身を寄せ、そして、その細い腕を、首に絡めてきた。
「ね、鷹斗」
俺の左の耳に唇を寄せ、夕子が囁く。
「セックス、しよ」
その――夕子らしいと言えば、あまりに夕子らしい直接的な物言いに――どくん、と甘い疼きが、体中に走る。
「鷹斗、こういう時、ぜんぜん気のきいたこと言ってくれないだろうしさ……だから、ね?」
耳元から唇を離し、正面から、俺に顔を寄せる夕子。
布越しに感じる、柔らかな感触。
眼鏡の奥の、瞳。
誘うように半開きになった、その唇――
「ん……っ」
最後の距離を縮めたのは、俺の方からだった。
夕子の体に腕を回し、その唇を貪る。
舌を激しく絡めあう、情熱的な口付け。
夕子が、俺の服に、その肌を擦りつけるように、身を寄せる。
「ん……んちゅ……ちゅ……ちゅ……んんんんんン……」
長い長い口付けのあと、俺たちは、ようやく唇を離した。
そして、見つめ合い、再び、キスをする。
ちゅっ、ちゅっ、という、ついばむようなキスの応酬。
それを繰り返しているうちに、俺のペニスは、スラックスの中で痛みを覚えるくらいに立ちあがっていた。
「んふふー……」
悪戯っぽい顔で笑って、夕子が、身を離した。
そして、俺の足元に跪き、ベルトに手をかける。
「お、おい、夕子」
「いいから任せて」
うろたえている間に、夕子は、俺のスラックスの前をくつろげてしまっていた。
夕子がトランクスを下にずらすと、恥ずかしさを覚えるほどに勃起したペニスが、露わになる。
「んー……ちゅっ」
亀頭の裏側に、夕子がキスをする。
「お、お前……」
「なに、あんた、フェラされるの初めて?」
「……」
黙っている俺に、夕子は、嬉しげに微笑んだ。
そして、目を閉じ、いきり立った俺のペニスを口内に迎え入れる。
唾液に濡れた、生温かく柔らかな口腔粘膜が、俺の肉棒を包み込んだ。
罪悪感と、それを圧倒的に上回る快感が、俺の全身を貫く。
「んっ、んぐっ……んちゅ……んっ、んっ、んぅンっ……」
静脈の浮いた肉茎に唇を滑らせながら、夕子が、悩ましい声をあげた。
その口の中で舌が踊り、ペニスの裏側や先端をてろてろと嬲るように舐める。
「あ……ぅ……っ」
俺は、夕子の頭に手を置きながら、そのたまらない快感に身を委ねた。
無意識のうちに、艶やかなショートカットの髪を撫でる。
「んちゅ、ちゅむっ……んむ……ぷはっ」
夕子が、呼吸を整えるためか、唇を離した。
亀頭の先端と、夕子の口元を、唾液と腺液の混じった透明な液体が、糸となってつなぐ。
「気持ちいいでしょ、鷹斗」
「あ、あぁ……」
「出したくなったら、いつでも出していいからね」
そう言って、夕子は、再び俺のペニスに舌を這わせた。
舌の裏と表を駆使し、静脈の浮いた肉茎はおろか、その下の陰嚢まで、唾液でべとべとにする。
さらには、赤黒く膨れ上がった亀頭の表面を唇で吸引し、鈴口を舌で抉るようにする。
溢れ出る腺液を、夕子は躊躇いもなく舐め取り、そして、淫らに音を立てながら嚥下した。
「夕子……夕子……」
俺は、まるでその言葉しか知らないように、夕子の名前を繰り返し、その髪を撫で続ける。
夕子が、俺のペニスを咥えこみ、喉の奥にまで迎え入れた。
口内にたまった唾液ごと俺のペニスを吸引する、ぢゅぢゅぢゅっ、という音が、たまらなく卑猥だ。
そして夕子は、俺の腰を両腕で抱えるようにして、激しく頭を前後させ始めた。
「んッ……んぐ……んぢゅっ……じゅるる……ンううゥン……んちゅっ……」
顔を捻るようにしながら口腔に亀頭を擦りつけ、陰茎に舌を絡ませる。
そんな夕子のもたらす快感に、俺は、いつしか小さく腰を動かしてしまっていた。
「んうッ、んぐ……んふぅ……ふうぅン……」
苦しげな、それでいながら官能に濡れた声をあげながら、夕子が、俺を追い詰めていく。
凄まじい射精欲求が、内側から俺のペニスを膨張させる。
「だ、だめだ、夕子……このままじゃ……」
今更のように、夕子の口の中に射精してしまう事への罪悪感が、俺の中で湧き起こる。
しかし夕子は、むきになったように、俺の腰を離さない。
「ん……くうっ……あぁっ!」
俺は、かすかに残っていた理性を総動員して、強引に夕子の口からペニスを引き抜いた。
その衝撃で、そのまま、夕子の顔に大量の精を迸らせてしまう。
ぶびゅッ!
「ああン♪」
嬉しげな声をあげて、夕子は、俺のスペルマをその上気した顔で受け止めた。
びゅううッ! びゅううッ! びゅううッ! びゅううう……ッ!
何度も何度も俺のペニスは律動し、新たな精液を、夕子の顔にぶちまけた。
恍惚とした表情の夕子の髪を、額を、眼鏡を、頬を、口元を、白濁した液が汚す。
俺は、それを、茫然と見つめていた。
腰が、がくがくと震える。
そして、ようやく、射精が収まった。
「すっごい……鷹斗ってば、いっぱい出したね」
夕子は、くすくすと笑いながら、指先で顔に付着したスペルマを拭った。
そして、それを唇に運び、さも美味しそうに啜る。
「んふっ……すごく濃い……」
そう言って、汚れた眼鏡越しに俺を見る夕子に、奇妙な感動のようなものを、覚えてしまう。
俺は、膝をつき、夕子を抱き締めた。
「あン……」
夕子が、俺を抱き締め返す。
服の布越しの感触であることすら、もどかしい。
俺は、服を脱ぎ捨て、そして夕子を再び抱き締めた。
その背中に手を這わせ、乳房を手の平で包み込む。
柔らかく豊かな感触の頂点で、乳首が、ぷっくりと勃起した。
夕子が、甘えるように身をよじる。
肌と肌が触れ合い、擦れ合う感触。
俺と夕子の体に挟まれる形になった、まだ濡れたままのペニスが、再び固くなっていく。
「鷹斗……」
囁きかける夕子の唇に、唇を重ねた。
自分自身の精の匂いが、ひどく淫蕩な感じを受ける。
「ね、鷹斗。あぐらかくみたいにしてみて」
「……こうか?」
「うん」
言われるままに、胡座をかいた俺の腰を、夕子が大胆にまたぐ。
俺は、夕子の意図を理解し、その腰を引き寄せた。
「これ、対面座位って言うんだよ。あんた知ってた?」
「いや……」
「ま、いいよね。名前なんてどうでも……あン」
俺のペニスの先端が、夕子のその部分に触れた。
熱く潤んだ肉の割れ目が、俺のものを飲み込もうとするかのように息づいている。
俺は、夕子の丸いヒップを半ば抱えあげるようにしてから、ゆっくりと、ペニスを挿入させていった。
「あ……あぁッ……ああン!」
肉茎と膣道がこすれあう、ひりつくような快感。
それを、溢れ出る愛液が溶かし、そしてさらに熱くしていく。
夕子と、俺の腰が、密着した。
「すごい……鷹斗の……奥まで、届いてる……」
夕子が、俺の頭を掻き抱くようにしながら、甘い声で訴えた。
その声を聞いただけで、ぞくぞくとした快感が、背中に走る。
もし、一度夕子の顔に放っていなかったら、それだけで射精してしまっていたかもしれない。
「夕子……」
「鷹斗……」
互いにその名前を呼び、唇を寄せ、抱き締めあう。
そうしながら、俺たちの腰はうねうねと蠢き、快感を貪り始めていた。
俺のペニスを包み込み、柔らかく締め付ける、夕子の中。
肉襞が微細な舌のように俺の肉茎を刺激し、さらに奥へ導こうとするかのようにざわめく。
そんな動きに逆らうように、俺は、抱えた夕子のヒップをぐいぐいと動かした。
熱く濡れた夕子のその部分を、ペニスで掻き回すようにして、刺激する。
「んうッ……あっ、あぁン……す、すごいよ、鷹斗……」
俺の髪の間に爪を立てるようにしながら、夕子が快感を訴えた。
「鷹斗のが、あ、あたしの中、かき回して……あぁン……ぐりぐりって、動いてるよォ……」
喘ぎ、仰け反る夕子の白い喉に舌を這わせ、唇で吸う。
夕子は、尖った乳首を俺の胸に擦りつけるようにしながら、そのしなやかな体を大胆に動かした。
夕子の膣内を擦りあげる、俺のペニス。
摩擦によってもたらされる熱はそのまま快感となり、高まる快感が更に激しい抽送を求める。
ますます激しくなる、卑猥に湿った音。
脳が、快感のために、熱く疼いているように感じられる。
「鷹斗……鷹斗……っ!」
夕子が、泣きそうな声で、俺に言った。
「好き……大好き……大好きだよ……っ!」
その言葉に、俺の中で、快感とは違う、別の何かが溢れた。
まるで湧き水のようにこんこんと溢れ出る、正体不明の感覚。
「夕子……俺も、夕子のことが……」
思わず、夕子の体を更にきつく抱き締めながら、言う。
が、その続きの言葉を恐れるかのように、夕子が、俺の口を唇で塞いだ。
狂ったように、舌を絡ませ合い、唾液を交換する。
今は――腕の中の夕子のことしか、考えられない。
いつまでも、いつまでも、この時間が続けば――
しかし、互いに高め合った快感が、皮肉にも、俺と夕子の時の終わりを告げる。
「鷹斗……あたし、あたしもう、イっちゃう……」
夕子が、目尻に涙を浮かべながら、言った。
「お願い……いっしょに、いっしょに……」
俺は、肯き、無茶苦茶に夕子の体を動かした。
「ああッ! ああン! きゃうッ! ひぁあああああああッ!」
乱暴に秘肉を抉り、攪拌する俺のペニスの動きに、夕子が高い声をあげる。
閉じた目蓋の裏でちらつく、白い星。
そして、俺の中で、何かが決壊した。
びゅうううううううううううううッ!
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああァーッ!」
凄まじい勢いで、大量の精液を膣奥に注ぎこむ。
「イくっ! イくぅ! イく! イっちゃううううううううッ!」
びくびくとペニスが射精を繰り返すたびに、夕子は、その体を痙攣させた。
互いに、互いを抱き締め合いながら、互いの体がひくひくと震えているのを、感じる。
ぴったりと重なり合い、一つになっている、俺と夕子の体。
かつてないほどに、夕子を感じる。
そして――俺と夕子は、ほとんど同時に、ぐったりと体を弛緩させた。
「ふにゃああぁぁ……」
まるで、猫のような声をあげながら、夕子が俺の胸に体重を預けてきた。
そんな夕子の体を、いうことを聞かない体で、どうにか支えてやる。
「……えへへ、鷹斗と、やっちゃった」
夕子が、照れ隠しのように笑いながら、俺の腕の中で言った。
「鷹斗、初めてじゃなかったよね?」
「ああ」
俺の答えに、一瞬だけ、夕子は寂しげな表情になった。
が、すぐに、その顔に微笑みを浮かべ、言う。
「あたしも、ぜんぜん初めてじゃなかったから、ま、おあいこだね」
「ああ」
「でもね、ああいうふうに、鷹斗とつながることができて、すごく……すごく、すごく、嬉しかったよ」
「ああ……」
「ミアちゃんのこと、ちょっと妬けるけど――今は、ミアちゃんがあたしのことヤキモチ妬いてるはずだから、これも、おあいこだよね」
「?」
夕子の言葉に、俺は少し目を見開く。
「あのね、これって、ミアちゃんの夢の中みたいなものなの。ミアちゃんの心の中に、鷹斗とあたしが入り込んでるようなものらしいんだよね」
「え……?」
「ん、まあ、あたしもよく分かんないんだけどさ。要するに、ミアちゃん、あたしと鷹斗がしちゃってるとこ、きっと見てたよ」
夕子は、悪戯っぽく目を光らせ、言った。
俺は、何を言っていいか分からない。
「たぶん、ミアちゃんは全部承知だと思うんだけど……えっと、だからね、ミアちゃんには、とても感謝してる。ありがとうって、伝えておいてね」
「ああ、分かった……」
肯く俺に肯き返し、夕子が立ちあがった。
俺も、立ちあがる。
いつのまにか、俺も夕子も、服を着ていた。なるほど、確かに夢の中だ。
お互い見慣れた普段着のまま、向かい合う。
俺が知っていた夕子と、夕子が知っていた俺。
だけど、その心の中に隠していた何かに、少しだけ、触れることができた。
「鷹斗、これからもいろいろあるんだろうけど……気を付けてね」
「もう、会えないのか?」
俺の無意味な問いに、夕子は寂しそうに笑ったまま、答えない。
「――悪い」
謝る俺の額を、背伸びした夕子が、つん、と人差し指で突ついた。
「あんたって、本当に、デリカシーないよね」
「そう……だな」
「でもね、鷹斗のそういうところも――本当は、憎らしいくらいに大好きだったよ」
言って、夕子は、部屋の窓を開けた。
今なお暗い夜の中に、夕子が帰っていこうとする。
じっとその背中を見つめる俺に、夕子が、振り返った。
「じゃあ、さよなら、だね」
「さよ……なら……」
やっと、俺はそれだけ言う。
俺は、泣いていた。
熱い涙が、あとからあとから、頬を流れ落ちる。
今まで行き場のなかった何かが、ようやく出口を見つけたような、そんな感じで、溢れ出ているのだ。
視界がぼやけ、何も見えなくなる。
そして――
夕子は、終わりのない、暗く長い夜に――
残された俺は、そこに立ち、いつまでもいつまでも、涙を流し続けていた。