Night Walkers

長夜/無明



第七章

 目が、覚めた。
 頭が、ぼんやりと重く、かすかに痛む。
 腹に包帯が巻かれていた。
 ゆっくりと体を起こすと、右の脇腹に、鋭い痛みが走る。
 その傷の痛みで、一瞬にして、昨夜の記憶が甦った。
 思わず、部屋の窓に目をやる。
 昼前の明るい陽光が、閉められたカーテンの隙間から、床を照らしていた。
 あの場所で、夕子は――
「鷹斗」
 声をかけられ、振り返った。
 ゆるやかに波打つ漆黒の髪に、薄暗い部屋の中に浮かび上がるような、白い、貴族的な顔。
 黒い大きな瞳が、俺を見つめている。
「……ミア」
 薄暗い部屋の中、畳の上に、ちょこん、とミアが座っている。
 不思議なことに、その事を、俺は、ひどく穏やかに受け入れてしまっていた。
 まるで、自分自身の方が、戻るべき場所に帰ってきたような――
「お医者さんは、もう帰ったわ。少なくとも今日一日は、安静にしてなさいって」
「……」
 そんなミアの言葉に、奇妙な既視感を覚える。
 いや、これは……あの冬の日に、ホテルで目覚めた時と同じだ。
「また、助けられたのか」
「そうね」
「ありがとう」
 そう言って、俺は立ちあがった。まだ、少し脚がふらつく。
「ちょ、ちょっと、鷹斗! 無理したら駄目よ!」
 ミアが、オレのそばに駆け寄った。
「かなりの出血だったのよ。無茶したら駄目」
「……」
「だいたい、どうしてあんなところでハンターと……」
「あれは、ハンターなのか? 吸血鬼専門の?」
「え……ええ。十字弓の使い手で、確か、ダンピールのユーリー・グロボフ……」
「知ってるのか?」
 そう訊きながら顔を向けると、ミアが、驚いたように目を見開いて、俺を見つめる。
「鷹斗……どうしたの?」
「……」
「あなたが、そんな目をするなんて……ねえ、何があったの? 教えて」
「夕子が……」
 頭の中で、血液がぐるぐると旋回する。
 吐き気すら覚える、ひどい頭痛。
 目の前が赤黒く染まる。
「夕子が……吸血鬼になって……それで……」
「……!」
 ミアの体に、緊張が走る。
「それで……俺の目の前で……灰になったんだ……」
「……」
「俺は……どうすることも……」
 気が付くと、俺は、再び布団に座り込み、俯いていた。
 胸郭に響く、激しい動悸。
 強烈な頭痛を、シーツを握り締めながら、耐える。
 食い縛った歯の間から、獣のような声が漏れた。
「鷹斗……」
 ミアが、膝をつき、俺の顔をその大きな瞳で覗き込む。
「涙が……」
 自分でも思ってもみなかったようなことを、俺は言っていた。
「涙が、出ないんだ……」
 そんなことを言う俺を、ミアが、じっと見つめる。
 漆黒の瞳に映る、俺の顔。
「ね、鷹斗」
「……?」
「お茶、淹れてあげるね」
 優しい声でそう言われて、俺は、こっくりと肯いた。

「なあ、ミア」
 俺は、布団の上に座り、ミアが淹れてくれた紅茶を啜りながら、言った。
「なぁに?」
 俺の横で、畳の上に正座したミアが、答える。
「どうして、帰って来てくれたんだ?」
「……」
 困ったように、口をつぐむミア。
「ええっと……言わなきゃ、駄目?」
 しばらくしてから、珍しく歯切れの悪い口調で、ミアが訊いてきた。
「言いたくないなら、訊かない」
「……」
 むっ、としたミアの気配が、伝わってくる。
 明らかに怒りを覚えてるらしいミアの態度に、俺は――理不尽にも、少しだけ、ほっとしてしまった。
「訊かないけど……俺は、すごく嬉しいよ」
「え……?」
「夕子のことがあるから、言うのは今だけだけど、帰って来てくれたこと、感謝してる」
「ちょ、ちょっと……」
 なぜかうろたえてるミアの様子に、また少しほっとしながら、俺は、カップに残った紅茶を一息に飲み干した。
 熱い感触が、喉の中を通過し、胃に沁みる。
 しばし目を閉じ、そして訊いた。
「ユーリー・グロボフ、って言ったな」
「え……ええ」
「――そいつを、殺す」
 そう言った俺に、ミアは、何も言わなかった。



 古く暗い聖堂の中、少年は、祭壇の陰に隠れ、息を潜めていた。
 外は夜。夜気すらも凍るほどの寒さの中、細かい雪が静かに降っている。
 冷たい外気がじわじわと染み入ってくるような聖堂の中を、蝋燭のオレンジ色の光が、淡く照らしていた。
 男と、女が、その聖堂の中で向かい合っている。
 白銀の髪を長く伸ばした、紅の瞳の男。
 褐色の髪と薄青色の瞳の、肉感的な女。
 その粗末な服では隠しきれない豊かな肉の曲線を、男が、無遠慮な視線で舐め回している。
 圧力すら感じるほどの視線を浴びながら、女は、その整った白い顔に、怯えと、それ以外の表情を浮かべていた。
 何かをこらえるように、女が服の胸元を掴む。
 その手は、細かく震えていた。
 恐怖や寒さとは違う何かに、女の体がおののいている。
 それは、体の奥底から湧き上がるような戦慄だった。
 無理矢理に記憶の彼方に封印していた強烈な感覚が、今、男の視線に誘われるように、女の体内で甦っている。
 女の、まだ少女の面影の残る頬が、かすかに赤く染まっていた。
 その頬に、男が、青白い手を伸ばす。
 男の指先の冷たさゆえか、女の体が、びくんと震えた。
「再び私を迎え入れる覚悟は出来たか?」
 男が、重々しい口調で、言う。
 女は、それに答えることもできず、ただ、息を漏らすだけだ。
「我が許より逃れた汝に、帰る場所は残されていたか?」
 男の問いに、女は答えることができない。
「愚かなる者共の好奇と嘲弄の声を聞きながら、心安らぐ季節を送る事が出来たか?」
 答えることのできない女に、男が更に問い掛ける。
「最も深き場所に私の精を注がれ、旧き血の果実を孕んだその躰が、熱く疼かぬ夜はあったか?」
 問いを発しながら、男は、一瞬、祭壇に視線を向け――そして、女に視線を戻した。
 柔らな朱唇から漏れる女の息が、荒くなっている。
 その大きな瞳は、何かの熱情に潤んでいるようだ。
 わずかな笑みを湛えた男の青白い顔が、女の視線を受け止めている。
「服を脱げ」
 短く、男が命じた。
 女と――祭壇の蔭の少年が、息を飲む。
 しかし、男は、命令を繰り返すこともなく、じっと女の顔に紅い視線を注いでいるのみだ。
 震える女の指が、服の留め紐をまさぐる。
 触れては離れ、離れては触れる、女の白い指先。
 何か強力な力で、男が自分を屈服させることを望んでいるような、女の顔。
 すがるような女の視線に、しかし、男は応えようとしない。
 女を組み敷き、その意思を痺れさせ、蕩けさせる術を持っていながら、男は、じっと黙っている。
 そんな二人を、少年は、何か叫び声をあげそうになるのを堪えながら、闇に潜みながら凝視していた。
 女が、大きな目を閉じ、口の中で、何かに許しを乞う。
 そして、その指先が――するりと留め紐をほどいた。
 目を閉ざしたまま、一枚一枚、その柔らかな体を包む衣服を脱ぎ捨てていく。
 女の体が、露わになった。
 少女の瑞々しさを保ちながらも、たっぷりと肉の付いたその白い体は、優美さと淫靡さを奇跡のようなバランスで両立させている。
 触れば、しっとりと手の平に吸い付きそうな白い肌。
 長く伸びた、やや癖のある褐色の髪が、その肌の上で映える。
 柔らかな、それでいながら張りを感じさせる輪郭は、まるで男の愛撫を誘っているかのようだ。
 絶妙な曲線を描いた乳房の頂点で、ダークローズの乳首が、形良く上を向いている。
 女が、目を開いた。
 青色の瞳が、隠しようのない欲情の色に染まっている。
 女が、震える声で、何かを呟いた。
 それは――男の名前だったのかもしれない。
「後ろを向け」
 男が、また女に命じた。
 今度は、ほとんど躊躇う色を見せず、女が背中を男に向ける。
 そして、何も言われないうちから、質素な木の机に上体を預け、両手を後ろに伸ばした。
 まろやかな曲線を描く豊かなヒップを、自らの手で割り開く。
 肌に粟を立てさせるほどの寒さの中、女のその部分から、温かな牝の匂いが立ち昇った。
 男が、その指先で、熱いうるみの中心に、触れる。
 何の抵抗もなく、男の指が、女の中へと飲み込まれていった。
 女は、それだけの刺激で、机の上でその豊満な体をうねうねとくねらせてしまう。
 無造作に見えながら、その実繊細な動きで、男が、女の秘部をまさぐり、性感を煽った。
 まるで体を炙られているかのように、女が身悶える。
 男の瞳の赤色が強まり、その口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。
 薄い唇の端から覗く、白い牙。
 男が、女から指を抜いた。
 透明なぬめりが男の指を濡らし、その指先と女の秘裂とを、粘液の糸がつなぐ。
 男が、羽織っていた黒いマントの前をくつろげた。
 人のそれに酷似しながらも、明らかに異なる形状をした長大な陰茎が、鎌首をもたげ、姿を現す。
 それに、肩越しに視線を向けた女の背中が、僅かな恐怖と、圧倒的な期待に、おののいた。
 得体の知れない粘液にまみれたそれが、すっかり綻んだ女のその部分に、先端を触れさせた。
 女が、小さく声をあげながら、ヒップを突き出し、男のそれを飲み込もうとする。
 その動きを、男は、両手で制した。
 淫らな水音を立てながら、異形のペニスが、女の入口をまさぐる。
 女は、切なげに声をあげながら、男に挿入をねだった。
 目尻に涙を滲ませ、髪を振り乱しながら、あからさまな言葉で快楽を求める。
 しかし、男は彫像のように動かなかった。
 女の靡肉から熱い愛液が滴り、床を汚していく。
 女は、叫ぶような声で哀願し、かつて男の許から逃げたことを詫びた。
 泣きながら許しを乞い、そして、これからの隷従を誓う。
 焦らされ、体をうねらせながら、女は、勃起した乳首を浅ましく机に擦りつけ、わずかばかりの快楽を貪ろうとした。
 そんな女の様子を、少年は、血走った目で見つめている。
 少年の股間で、幼いペニスが、本人の意思とは無関係に堅く勃起してしまっていた。
 少年の狂おしい気配に気付きつつ、それを明らかに無視しながら、男は、そのペニスで女をじりじりと嬲った。
 無言のまま、ただ薄い笑みを浮かべるだけの男に、女が、その整った顔立ちからは考えられないような卑猥な言葉で訴えかける。
 そんな、女の狂気じみた声に誘われるように、周囲の空間が歪み、のろり、のろりと、顔のない蛇の如き人外の牡器官が現れ出た。
 赤くわだかまった靄の中からこの次元に出現した、肉色の触手。
 それが、それぞれ女の体に狙いを定めながら、汚穢な粘液を滴らせ、聖堂を忌まわしい性臭で充満させる。
 そんな中、女は、白い喉を反らし、絶叫した。
 ――いっそ、いっそ殺してぇ! 貴方の爪で、私を殺してくださいっ!
 そのまま、本当に狂死しかねないほどに追い詰められた、女の声。
 血を吐くようなその叫びに満足したかのように――九本の触手が、汗にぬらぬらと濡れた女の白い体に殺到した。
 あらゆる肉の穴と狭間にその身を潜り込ませ、抽送を始める異界のペニス。
 それがもたらす、快感と苦痛に、女が狂気と歓喜と叫びをあげつづける。
 まともな神経の持ち主であれば、見ただけで精神の平衡を失いかねないほどの狂態。
 それを、少年は、自らの唇を血が溢れるほどに噛み締めながら、じっと見ていた。
 もはや、女の心には、祭壇に蔭に隠れる自分のことなど、微塵も残っているまい。
 圧倒的な敗北感とともに、少年は、そう確信した。
 その時――
 この世ならぬ快楽に激しく身をくねらせながら、女が、祭壇に顔を向けた。
 女と少年の視線が、絡み合う。
 そのことで、さらなる背徳の愉悦を淫欲に爛れた脳に注がれたかのように――女は、一際高い声をあげて、人の身には許されぬほどの絶頂を迎えた。
「――母さんっ!」
 その時、あげることのできなかった絶叫を迸らせながら――
 ユーリー・グロボフは、宛がわれたホテルのベッドの上で跳ね起きたのだった。



 約束の時間の少し前に、指定された喫茶店に着いた。
 ボックス席にミアと並んで座り、コーヒーを注文する。
 何故かはよく分からないが、ウェイトレスは、けして俺とは目を合わせようとしなかった。
 他の客たちも、どうも俺から意識的に視線を逸らしているようだ。
 そんな俺の横顔に、ミアが、何やら非難がましい目を向けている。
「鷹斗、顔」
「?」
「すごく恐い顔、してるわよ」
「……そうか」
 そうは言っても、俺には、どうやって表情を作ればいいのか分からない。
 いや、そもそも、表情を穏やかなものに変えようとか、そんなことに思いが至らない状態だ。
「相手が、恐くなって逃げちゃっても知らないわよ」
「大丈夫――だと思う。師匠の知り合いだからな」
「ずいぶんと凄い人みたいね。鷹斗のお師匠さんって」
「ああ」
「で、そのお師匠さんご推薦の探偵が――萌木緑郎なわけ?」
 ミアは、俺が渡した名刺を指先で弄びながら、小さく眉をしかめた。
 驚いたことに、ミアと、その萌木なる人物は、知り合いらしい。
 いや、そもそも、ミアが俺をチボーから助けた時に、その萌木という情報屋に協力を依頼したというのだ。
 世の中狭い――と言うよりも、その萌木という男が、師匠やミアがいるような世界に、それだけ精通しているということなのだろう。
 だが、師匠とミアは、言わば狩る側と狩られる側だ。その双方にパイプを持っている萌木緑郎という人物は、どうも、一筋縄では行かないようだ。
 だいたい、偶然にしては出来過ぎている。そこに何らかの意思が働いていたと考える方が自然だ。
 誰の、どのような意思かは分からないが――
 そんなことを、コーヒーカップの中の黒い水面を睨みながら、俺は考えていた。
 と、そんな俺の袖を、ミアがつんつんと引っ張る。
「来たわよ」
 言われて、俺はミアが示す方向に視線を向けた。
 ひょろりとした男が、笑みを浮かべながらこちらに近付いて来る。
 師匠と同い年くらいの人物を想像していたのだが、かなり若い。俺よりは年上だろうが、それでも三十歳は行っていないように見える。
 伸びた前髪が額にばさりとかかり、よく動く鳶色の瞳は、どこか子供っぽい光を湛えていた。
 ミアに言われなければ、とてもこの人が、師匠でさえ一目置く探偵にして情報屋とは思わなかっただろう。
「どもども。萌木探偵事務所の所長、萌木緑郎っす」
 軽い口調で言いながら、萌木氏が俺とミアに向かい合う形で、席に付いた。
「一応、はじめまして。あ、それから、ミアちゃんはお久しぶり」
「そうね」
 ミアが、そっけなく返事をする。
「さて――“破壊屋”葛城さんの紹介って、ウチの子に言ってたそうだけどさ」
 ウェイトレスにカフェオレを頼んでから、萌木氏はいきなりそう切り出した。
「一体、オレに何を頼むつもりだったのかな?」
 俺は、思わず黙ってしまう。
 どうやって切り出したらいいか……。
「てっきり、ここに来て鷹斗ちゃんの隣に座ってる可愛い彼女の件だと思ってたんだけどねー」
「減らず口を叩くのはやめた方がいいわよ」
 ぴしりと、ミアが言う。どうやら、ミアと萌木氏の関係というのは、あまり友好的なものではないようだ。
「いやまあ、オレだって、鷹斗ちゃんが普通の状態じゃないってことは、何となく分かるんだけどさ」
「だから、あっちの席に、あの男を待機させているわけ?」
 ミアが、ちらりと、店の奥の方の席へと視線を寄越す。
 そこで、長身の若い男が、ただならぬ気配を身にまといながら、こちらに注意を向けていることに、俺はようやく気付いた。
 どうやら、萌木氏のボディーガードか何からしい。
 しかし、あれだけの気配の主を見落としてしまうとは――どうやら俺は、相当自分を追い詰めてしまってるらしい。
 ぬるくなったコーヒーを胃に流し込み、一息ついた。
 そんな俺を、萌木氏が、興味深そうに見つめている。
 外見や態度はどうあれ、この男が海千山千の探偵にして情報屋だということは確からしい。
 だとしたら、俺が小細工をしても意味が無い。
「ユーリー・グロボフという男を探してほしいんですよ」
「ユーリー・グロボフ?」
 俺の言葉に、萌木氏が面白そうに目を見開く。
「吸血鬼のハンターです。そいつと、人気の無い場所で会いたいんです」
「ちょ、ちょっと、鷹斗」
 俺の、あまりにもあからさまな言い方に、ミアが慌てたような声をあげる。
 だが、萌木氏は、あの軽薄といっていいくらいの笑顔を崩さない。
 これは――ひょっとすると、この人なりのポーカーフェイスなのかもしれない。
「ハンターと、二人っきりに、ねえ」
 萌木氏は、ゆっくりとした口調で繰り返してから、カフェオレの入ったカップを口に運んだ。
 カップから口を離した萌木氏の口元には、先ほどと同じ笑みが浮かんでいる。
「まさかデートってわけでもないだろうし。となると、何をしたいのかは容易に想像できちゃったりなんだったり」
 妙な言い回しで話す萌木氏を、ミアがじろりと睨みつける。
 だが、俺は何も言わない。どうせ、この俺の気持は隠しきれるものではないのだ。
「いいの? 一応、世間では吸血鬼が悪役で、ハンターは善玉ってことになってるんだけどねー」
「あなた、よくもまあそんなことが言えるわね」
「おっとととー、今のはあくまで世間一般の話だってば」
 萌木氏は、大袈裟に手を振って言った。
「もちろんオレはいつでもミアちゃんの味方だよん」
「初耳だわ」
「うーん、言葉にしなくてもオレの熱い想いは届いてると思ったんだけどにゃ〜」
 ミアは、そんなことを言う萌木氏に何か怒鳴りかけ、そのまま、盛大に溜息をついた。自分が萌木氏のペースに乗せられつつあるのに気付いたらしい。
「で、鷹斗ちゃんの方は?」
「何が、ですか?」
「正義の味方であるところの吸血鬼ハンターを相手にする心構えは、できちゃったりしてるわけ?」
「はい」
 短い俺の返事に、萌木氏は小さく肩をすくめた。
「鷹斗ちゃんって、あんまりいぢり甲斐のない人だね」
「?」
「ま、いーやいーやそんなことは」
 そう言って、萌木氏は再びカフェオレを啜ってから、続けた。
「オレは、まだそのユーリーちゃんって人とは面識ないんだよね。ただ、第八機密機関に所属する吸血鬼ハンターだって知ってるだけでさ」
「それだけでも大したものだわ」
「ありがとー♪」
 うっかり、といった感じで言ったミアに、萌木氏が満面の笑みを浮かべる。
「さて、その問題の第八機密機関なんだけどね。実はオレ、あんまりあそこの連中とはお付き合いがなかったりすんだわ」
「……」
「そもそも、第八機密機関ってのは、吸血鬼だけを目的にした殲滅集団でね。その実力もさることながら、すんごい排他的で秘密主義なんだよ。だから、問題のユーリーちゃんが住んでる場所とか、行きつけのお店とか、そういうコトを調べ上げるのはちこっとホネだったりするんだよねー」
「でしょうね」
 ミアが同意すると、萌木氏は、大袈裟に肩を落として見せた。
「まあ、時間をかけて調べれば、どうにかなるとは思うんだけど、何しろこっちは不信心で無神論者の日本人でしょ? 関係者の信用を得るだけでも一苦労だったりするんだよー」
「なるほど……」
 そう言った俺に、萌木氏が視線を向けた。
 そして、わざとらしいにやにや笑いを浮かべながら、言う。
「ところでさ、鷹斗ちゃん、お金あるの?」
「――少しなら、貯金があります」
 俺は、両親が残した遺産と、自分で貯めた貯金の合計額を、言った。
 ひゅう、と萌木氏が口笛を吹く。
「それ、全部この件につぎ込んじゃうつもり?」
「ええ」
 迷い無く、言う。そもそも金の問題ではない。
 萌木氏は、困ったように頭を掻いた。
「うーん、困ったなあ。お金、けっこうあるんだねえ」
「……?」
「いやね。鷹斗ちゃんが持ってるお金がどれくらいか分からなかったから、あんまりお金のかからない、リーズナブルなプランを提示しちゃおうかと思ったんだけどさ」
「――それ、話してみて」
 ミアが、静かな口調で言うと、萌木氏は再び話し始めた。
「今急に考えたことなんで、細部はこれから煮詰めなきゃなんだけどね。ただまあ、話すだけだったらタダだからねー。それに、鷹斗ちゃんも、覚悟は分かるけど、あんまり若いうちからほいほい大金使うのはよくないし」
「もったいぶらないで」
「はいはいさー」
 萌木氏は、残っていたカフェオレを飲み干してから、続けた。
「鷹斗ちゃんは反対しちゃうかもしれないけど――」
「……」
「ミアちゃんをおとりにするってのは、どうかな?」
「――!」
 考える前に、体が動いていた。
 テーブル越しに、萌木氏の襟首を、掴む。
「鷹斗!」
 その俺の右腕を、横から、ミアの細い腕が制止していた。
 鉤状に曲げた指先が、萌木氏の襟首にひっかかったまま、止まっている。
 見ると、あの奥の席にいた長身の男が、半分以上距離を詰め、床に立って俺を凝視していた。
「鷹斗、落ち着いて」
「――ああ」
 言って、俺は手を引っ込める。
 確かに、今の俺は正常ではないようだ。過剰反応にも程がある。
 が、萌木氏は、少しも気にした様子はない。ボディーガードらしき男も、ゆっくりと自席に戻っている。
 店員や客たちは、そもそも何が起こったのかさえ、理解してない様子だ。
「続けて、いいかな?」
「はい――すいません。かっとなってしまいました」
「気にしない気にしない」
 萌木氏が、軽い口調で俺に言う。
「言ったでしょ? 鷹斗ちゃんが普通の状態じゃないってことは、分かってるんだから」
「……」
「とは言え、ミアちゃんをおとりにしちゃうという作戦は、けっこう悪くないと思うんだよねー」
 そう言う萌木氏を、ミアは、興味深げな表情で見つめていた。
「実はね、ある山ん中の一帯で、鷹斗ちゃんが相手にしたようなのが他にも現れてるって情報、けっこう寄せられてるんだわ」
「俺が、相手にした――?」
「モロイだよ。葛城さんに連れてかれちゃったあの件だよん」
「知ってるんですか?」
 思わず、声をあげてしまう。
「何しろ、葛城さんにあの件を紹介したのオレだから」
 自分で自分の顔を指差しながら、萌木氏は言った。
「だからさ、第八機密機関の人たちに、ミアちゃんがその山の中で、モロイ退治をしてるらしい、って情報をリークするわけ。そしたら、少なくともモロイはほっとけないし、もしミアちゃんに会えるんなら、って、ハンターであるユーリーちゃんは飛んでくと思うよ?」
「せっかくですけど――」
「待って」
 俺の言葉を、ミアが遮った。
「もし、あたしの心配をしてくれるなら嬉しいけど……力にならせてくれない?」
「ミア……」
「前のときは、鷹斗に随分ひどいことしちゃったし、それに……」
 ミアが、俺にしか聞こえないくらい小さな声で、言う。
「それに、夕子さんのためにも、協力させてほしいの」
「……」
 俺は、拳を握り、唇を噛んだ。
 俺一人では、何もできない。
 だが、今の俺には、それを悔しく思う資格だって無いのだ。
「えっと、いーかな?」
「ええ」
 ミアの返事に、萌木氏が再び口を開く。
「この作戦のネックは、ミアちゃんのとこに他のハンターさんが行っちゃうかもしれないってことだと思う。ただ、今のところ、第八機密機関のハンターで日本に来てるのは、そのユーリーちゃんともう一人だけのはずだから、確率は二分の一だよね」
「もし、もう一人が来たら?」
「その時は事前にオレから連絡するよん」
 俺の質問に、萌木氏が答える。
「でも、第八機密機関について、ずいぶんと色々と知ってるわね」
 ミアが、その大きな目を細めながら、言った。
「鷹斗がユーリー・グロボフの話をするなんて、今この時まで知らなかったんでしょう? なのに、ちょっと詳しすぎない?」
「え、えーっと、それはねぇ……」
「あなた――もともと第八機密機関にモロイ退治をさせるつもりだったのね?」
 ミアの言葉に、萌木氏は、両手を上げた。
「ばんざーい。こーさぁん。そのとーりー」
「それに、うまいこと言って、あたしたちにもモロイ退治をさせようとしてるし……」
「えへへへへー」
 指摘するミアに、萌木氏が、悪戯のばれた子供のような声で笑う。
 なるほど、そういうことか。
 萌木氏は、別口から、そのモロイ退治の依頼を受けているのだろう。
 そして、それを、ハンターや、師匠のような稼業の人間に仲介してるというわけだ。
 俺やミアも、第八機密機関も、師匠でさえ、萌木氏にとっては、本来の自分の仕事を片付けるための駒のようなものなのかもしれない。
 全く――油断のならない人だ。
「ま、いいわ」
 にっこりと、ミアが笑った。
「鷹斗も、いいでしょう? この人の茶番に乗ってあげましょうよ」
「――ああ、そうだな」
 俺は、胸中にわだかまりを抱きながらも、肯いた。
 吸血鬼と化した夕子の仇を討つために、モロイと化した人間を斃す。
 そんな矛盾を、今は飲み込むしかない。
 あの男を――ユーリー・グロボフを、殺すまでは。
 そんなことを考えている俺の顔を、萌木氏が見ている。
 その萌木氏の口元の笑みが、さっきより少しだけ堅くなっているように、俺には思えた。

第八章

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