第六章
凍る寸前の水銀が、静脈を流れ、動脈を溯るような、カンカク。
体の芯は氷のように冷たいのに、肌はひりつく様に熱い。
それは、全身を苛む、耐えがたい飢えと渇きだった。
目蓋を閉ざしているはずの視界を覆う――緋色の、幻視。
赤い闇――。
そして夕子は、ようやく、自分が目を閉じているのだということに気付いた。
ゆっくりと、目を開ける。
暗いはずの室内で、見慣れた天井が、くっきりと浮かび上がった。
半身を起こすと、凄まじい眩暈に襲われ、思わずシーツに手をつく。
「夕子さん……!」
声の方に目を向けると、そこに、アランがいた。
アランは、すでに身なりを整えている。意識を失ってから、意外と時間が経っているらしい。
(時間……)
その言葉を頭に浮かべた瞬間、かつて経験したことのなかったような非現実感を、感じた。
眠りにつくことなく、そのまま悪夢の中に踏み込んでしまったかのようだ。
もし、他人の夢に入ってしまったら、このような感じを受けるのだろうか。
そんなことを思いながら、夕子は、自分の部屋を見回し、そして、改めてアランの顔を見た。
泣きそうな表情を浮かべているアランの両の瞳が、紅く輝いているように見える。
その時、夕子は、自分が何者になってしまったのか、直感的に理解していた。
無意識に、首筋に手をやる。
アランに牙を立てられた傷はすでに塞がりかけていた。
「夕子さん、僕は……」
涙声で、アランが何か言いかける。
「――いいよ」
ぽつん、と夕子が言った。
「え……?」
「あたしが悪いんだよ。アランくんは、何も気にしないで」
「で、でも……」
夕子の言葉に、アランは、むしろ傷ついたような顔になる。
夕子は、そんなアランから目を逸らし、下を向いて――くすくすと静かに笑っていた。
ひそやかな、しかし、どこか壊れたような、笑い声。
それが、暗い部屋の中に、響く。
「そっかぁ……こんななんだね、吸血鬼って……」
「ゆ……夕子さん?」
「吸血鬼で、いいんだよね? それ以外の何物でもないよね、コレって」
「……」
「すごく――すっごく、喉が渇くね」
ゆっくりと、夕子は立ちあがった。
そして、乱雑に脱ぎ散らした服を、物憂げな動きで身に付ける。
「寒い……体は、燃えるみたいなのに……なんだか、寒い……」
服を着終わった夕子は、赤黒く淀んだような瞳を、アランに向けた。
「アランくんも、こんなふうに感じてるの?」
「それは……」
「だったら、仕方ないよね……分かるよ……あたしも……あたしも、今すぐ、したい……あったかい血が、欲しい……」
囁くような声で言いながら、夕子は、自らの手の平を見つめた。
指先で、わずかに、爪が尖っている。
「誰でもいい……誰でもいいから……血が……温かい、真っ赤な血が……」
はぁっ、はぁっ、と、夕子の息遣いが荒くなる。
その瞳の赤色は次第に鮮やかになり、左右に吊りあがった唇の端からは、白い牙が見え隠れする。
「夕子さん……?」
アランの声も、夕子の耳には、届いている様子はない。
血の色をした瞳は、何も見ていないようだ。
まとわりつくような、不快な静寂。
――ぱぁん!
「夕子さん!」
アランが、夕子の頬を叩く音が、響いた。
「なっ……何すんのよっ!」
「ご、ごめんなさい」
夕子の剣幕に、思わずアランは謝ってしまった。
「でも……夕子さん、落ち着いて、冷静になってください」
「……」
アランの言葉に、片手で頬を押さえた夕子が、深呼吸する。
「いいですか? 僕の話、分かりますか?」
「……う、うん」
幾分か元の調子を戻した夕子の声に、アランは、小さく息をついた。
「とにかく……まずは、謝ります。すいませんでした」
「……」
「その……僕のせいで、夕子さんは、ヴァンピール――この国の言葉で言うなら、吸血鬼になってしまいました。それは、確かです」
「みたい、ね」
「これは、すごく幸運なことでした。普通の人が、ただ、僕たちに血を吸われるだけで、吸血鬼になるなんてことは、すごく珍しいんです。そのまま死んじゃったり、もっと下等な怪物になっちゃったり……。夕子さんに、何て言うか――素質が、あったからじゃないかと思います」
「やな素質ね、それって」
夕子は、そう言って、力なく笑った。
「でも、そのう……夕子さんは、まだ、吸血鬼になったばかりで、その力や性質を、完全にコントロールできない状態なんです」
「うん。それは、よく分かる」
夕子は素直に肯いた。
実際、今も、胸の内に、正体不明の感情が渦巻いているのを感じる。
静止した心臓の中で脈動し、熱く、冷たい血液を循環させている、根源的な欲望だ。
その飢えと渇きを癒すためであれば、自分の一番大事なものすら破壊してしまいかねない。そんな、狂気じみた衝動――。
「でも、僕達は、見境なしに人を襲うわけにはいかないんです」
「……」
「人間は僕達を滅ぼそうとしますが、僕達は人間なしでは生きられない。だから――」
言いかけて、アランは、口をつぐんだ。
「……アランくん?」
「しっ……」
人差し指を立て、アランが、目を閉じた。
そのまま、彫像のように動かない。
一秒――二秒――三秒――。
すっ、とアランが目を開いた。
その真紅の瞳に、真剣な――そして、悲壮な光が、灯っている。
「夕子さん」
「何?」
「この家、裏口がありますよね?」
「う、うん……あるけど……」
「そこから逃げてください。できるだけ遠くに」
「え、それって……?」
何事かと訊こうとする夕子に、アランは、その少女のような顔を向けた。
花びらのような唇に、淡い笑みが、浮かんでいる。
「とにかく、逃げてください。“敵”が来るんです」
「敵って……まさか、アランくん……」
「僕は大丈夫です。でも、夕子さんがいると、思い切り戦えないから」
アランのその言葉に、夕子は、真実と――わずかばかりの偽りを、嗅ぎ取った。
だが、今は、この少年の言葉を聞くしかない。それくらいは分かる。
「うん……分かった。気を付けて」
「はい。あの、それから――」
「なに?」
「また、あとで、ゆっくりお話したいんですけど、いいですか?」
「――うん」
夕子は、こっくりと肯いた。
目の前に流れる、オレンジ色の川。
茜色の風景。
そこに、俺は立っていた。
何度、この夢を見ただろう。
夢だと分かっていながら、奇妙な胸の痛みを、俺は感じている。
川の向こうに、あの少女――ミアが、立っていた。
夕日に照らされた白い肌と、艶やかな黒い髪。
かつて俺は、それに触れたことがあった。
大きな黒い瞳が、じっと、俺を見つめている。
その顔は、なんだか哀しそうだった。
「ミア――」
呼びかけ、俺は、一歩前に踏み出した。
「鷹斗」
まるで、その俺を拒むように、ミアが言う。
「どうしたんだよ……今、そっちに行くから」
「駄目よ」
いつもの、大人びた口調で、ミアは言った。
「こっちに来ては、駄目……」
「どうして?」
俺は、まっすぐにミアを見つめながら、言った。
もう、俺は、あの頃の子供じゃない。川の流れは速く、幅も、一跳びというわけにはいかないが、それにしても、流されてしまうようなことは万に一つもない。
俺は――ミアの隣に居なければならないのだ。
いや、そうではなく――俺自身、ミアの側に居たいと思っているのだ。
だから――
「駄目」
聞き分けのない年下の子供に言い聞かせるように、ミアは言った。
「ミア……」
「夕子さんは、どうするの?」
一瞬――ひどく幼い表情を見せて、ミアが、言った。
俺は、虚を突かれたように、黙り込んでしまう。
「どうしてあたしがあなたにお別れを言ったのか、まだ分からないのかしら」
「それは……お前、俺に迷惑をかけたくないからって……」
「あなたなら、そう言うと思ったわ」
くすっ、とミアが、笑った。
「本当に……ぜんぜん、女のこと、知らないのね」
俺は、そのミアの言葉に、しばらく黙ってから、言った。
「もしかして、お前が行っちまったのは――夕子のことで、なのか?」
「もしかしなくても、そうよ」
そう言って、ミアは、両手を腰に当てた。
「隠したって駄目よ。あたし、あの時、あなたの心に触れたんだから」
「でも、あいつは……俺を、そういうふうに見てはいないんだ」
じっ、とミアが、俺の顔を見つめる。
「本当にそう思ってるの?」
ミアが、訊く。
「……ああ」
なぜか、一瞬、答えが遅れた。
ミアが、ふっと微笑む。
「鷹斗ってば、可愛いわ」
「え?」
「あたしはね、あなたのそういうところ――好きよ」
その言葉が、この、短い夢の終焉を、告げた。
「アラン・ラクロワですね」
「あなたが、フォン・ヴァルヴァゾル――?」
一戸建ての住宅の屋根の上、二メートル近い巨体の肥満漢と、少女じみた容姿の少年が、互いに向かい合っていた。
正教会第八機密機関執行人“男爵”フォン・ヴァルヴァゾル。
灰色をした薄手のコートをまとったその姿を前に、アランは、きりきりと歯を食い縛っていた。
吸血鬼を狩る者の中でも、最も高い実力を有するといわれる男と、今、この極東の島国で、対峙している。
気配を感じ、高所を取ろうと屋根に跳躍した時には、その巨体が、すでにそこにいた。
黒に近い褐色の髪と髭が長く伸び、その表情のほとんどを隠してしまっている。
針のように鋭い眼光を放つ、小さな鉄色の瞳。
まるで、その視線に射止められてしまったかのように、アランは動けない。
弟子であるユーリーとは桁違いの圧力を、その体躯から感じる。
フォン・ヴァルヴァゾルは、両手をポケットに入れ、左足を上げるようにして、傾斜した屋根の上でバランスを取っていた。
全く危なげがない上に、次の瞬間にどのように動くのか、予想がつかない。
格の違いを、アランは感じていた。
相手が、右腕を傷めたままのユーリーであったなら、まず遅れは取らなかっただろう。だが、この男では、相手が悪すぎる。
しかし、退くわけにも、逃げるわけにもいかない。
まして、滅ぼされるわけにも――
「時間を稼いでいるのですか?」
フォン・ヴァルヴァゾルが、宿敵であるはずの吸血鬼に、丁寧な口調で、訊いた。
アランは、答えない。
今、夕子がどこに逃げているのか、アランは知らなかった。
ノインテーターが潜伏する女子高の住所を告げはしたが、そこに向かうかどうかは疑問だろう。
そもそも、吸血鬼である自分たちに、安住の地は、無い。
ただ、闇に潜み、夜を歩くのみだ。
それでも――
「ではこちらから行きます」
すっ、とフォン・ヴァルヴァゾルが、動いた。
真っ直ぐ、前――アランの立つ方向へ。
手はポケットに入れたまま、速くはないが滑らかな動きで、アランに迫る。
一瞬だけ動きを躊躇させたアランが、スレート葺きの屋根を蹴った。
それに誘われるように、フォン・ヴァルヴァゾルの巨体も、加速する。
その肥満した体からは考えられないような動き。
屋根の中央辺りで激突するかに見えた二つの影が、そのまますれ違う。
ふわり、とフォン・ヴァルヴァゾルのコートの裾が大きく舞った。
フォン・ヴァルヴァゾルが、インパクトの一瞬前に、体をかわしたのだ。
アランが、急激に方向転換をする。
剥がれたスレート板が地面に落ちる前に、アランは、すでに第二撃を放っていた。
鋭く伸びた爪が、フォン・ヴァルヴァゾルの喉笛を狙う。
流れるような動きで、フォン・ヴァルヴァゾルがその一撃を避けた。
まるで巨大なゴム鞠のように素早く動きながら、アランの攻撃を避け続けるフォン・ヴァルヴァゾル。
だが、その両手は、未だポケットの中だ。
アランのあどけない顔に、焦燥の表情が浮かぶ。
フォン・ヴァルヴァゾルは、ユーリーから、アランの非実体化能力について聞いてるのだろう。
その能力ゆえ、アランの戦いは、“後の先”を取ることにある。相手の攻撃を無効化し、その隙を突くことこそが彼の勝機なのだ。
が、一番最初に歩みを始めた他は、フォン・ヴァルヴァゾルは、積極的な動きを見せようとはしない。
もちろん、これが並の相手であるなら、アランの爪の前に、一分でも無事ではいられないだろう。体の急所という急所を切断され、血飛沫を上げながら幾つもの肉塊に引き裂かれていたはずだ。
だが、フォン・ヴァルヴァゾルは、アランの攻撃をことごとくよけている。
受け流したり、受け止めたりする様子さえ見せない。
アランの、外見に似合わぬ怪力を知り、それに触れることで姿勢が乱れることを避けているのだ。
「くううううッ!」
アランが、気合とともに、右の爪をフォン・ヴァルヴァゾルの顔面へと繰り出す。
フォン・ヴァルヴァゾルが、大きく仰け反る。
そのまま、フォン・ヴァルヴァゾルは跳躍し、空中で後ろ向きに回転した。
隣の家の屋根にフォン・ヴァルヴァゾルが着地する。
それを追うべく、アランは大きく跳躍した。
獲物を見付けた猛禽よりもなお速い、アランの動き。
「しゃっ!」
初めて、フォン・ヴァルヴァゾルが、声をあげた。
両手をポケットから出し、何か投擲する。
鋭く削られた、純白の杭――。
空中に居るため、軌道を変える事のできないアランの体に、二本の杭が襲い掛かる。
ぶん、とアランの周囲の空間が、揺れた。
別の次元へと逃れたアランの体を、杭が、空しく通り抜ける――はずだった。
「――っあああああああッ!」
鮮血が、舞った。
空中で大きくバランスを崩したアランが、どっ、とフォン・ヴァルヴァゾルの足元に落下した。
そのまま、ずるずると屋根を滑り落ちそうになるアランの華奢な体を、フォン・ヴァルヴァゾルの巨大な足が踏み付ける。
「ぐ……っ」
背中を容赦のない力で踏まれ、声を漏らすアランの胸に、二本の杭が、深々と突き刺さっている。
それは、古い物語に出てくるような、白木の杭ではなかった。
白木よりもなお白く、そして、表面に奇妙な文様が描かれている。
非実体化したはずのアランを傷つけたそれは、無音の軋みで夜気を震わせながら、アランの体を冒し続けていた。
「これは……骨……?」
「はい。吸血鬼の骨です」
みしみしと音を立てるほどに強くアランの背中を踏みしめながら、フォン・ヴァルヴァゾルは、教壇に立つ教師のように、穏やかな口調で言った。
「特殊な技術により、まだ生かしています。――いや、すでに死んでいる吸血鬼に、この言葉は適当ではないかもしれませんね」
「う……」
「吸血鬼は、この次元と重なる複数の次元に干渉する存在です。ゆえに、あなたが別の次元に逃げようとも、この杭をかわすことはできません」
同胞の骨でできた杭が、アランの血を吸い、そのこの世ならぬ命を削る。
だが、吸血鬼の血によって吸血鬼が満たされることはない。杭は、不満げな唸りを低くあげながら、より一層深く、アランの肉に食い込んでいった。
「うあぁ……っ!」
アランは、ただ、苦痛の声をあげることしかできない。
そんなアランを、フォン・ヴァルヴァゾルが、研究者が実験動物を見るような冷静な目で、見つめている。
「なかなか、素晴らしい力ですね。まだ活動をやめないとは」
「くぅ……っ」
秀麗なアランの顔が歪み、爪が、屋根に食い込む。
フォン・ヴァルヴァゾルは、懐から、さらに二本、骨でできた杭を取り出した。
「あなたは――良い杭になりそうだ」
そう言って、フォン・ヴァルヴァゾルは、アランを踏みつけにしたまま膝をついた。
そして、両手に持った新たな杭を、心臓を注意深く避けながら、ゆっくりとアランの背中に突き立てる。
「う……わあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーッ!」
アランの絶叫にも、フォン・ヴァルヴァゾルは、微塵も表情を動かすことはなかった。
闇の中で、目が覚めた。
窓の外は真っ暗だ。まだ真夜中らしい。
俺の部屋はアパートの一階にある。窓のすぐ外の地面が、青白い月明かりに濡れていた。
部屋の空気が淀んでいる。
俺は、空気を入れ替えようと、大きく窓を開けた。
「……?」
外に、夕子が立っていた。
一瞬だけ人違いかと思ったが、紛れも無く夕子だ。
普段付けているカチューシャは無く、髪が妙に乱れている。
その唇は細かく震え、眼鏡の奥の瞳は――
「夕子……」
「鷹斗……」
――かすかに、赤く光っていた。
「ごめん……来ちゃった……」
夕子が、自分の肩を抱くようにしながら、小さな声で、言った。
ひどく、弱々しい声。
サンダル履きで道路のアスファルトの上に立っていた夕子が、アパートの住人のための駐車スペースを歩き、窓の前に立った。
「鷹斗……あたしさ、ちょっと困ったことになっちゃった」
「お前、まさか……」
「でもね、これで、もしかしたら……もしかしたら、だけど……あの、ミアちゃんと同じなのかな、なんて、ね……」
笑おうとして、それに失敗したような、夕子の顔。
瞳が、少しずつ、赤色に染まっていく。
なんて鮮烈で、純粋な赤だろう。
それは、とても――危険なくらいに、綺麗に見えた。
その紅の瞳が、じわっ、と涙で潤む。
「鷹斗……」
夕子が、サンダルを脱ぎ、俺の部屋に入った。
夕子を迎え入れるように後ずさり、開け放たれた窓の前で、向かい合う。
手を伸ばせば、肩に触れるくらいの距離。
目の前で――夕子は、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
俺の歯が、かたかたと、鳴っている。
脚が、まるで他人の脚のように頼りない。
どうして自分の体がこんな反応を示しているのか、分からなかった。
ただ、はっきりしてるのは――目の前の夕子が、もはや俺の知っていた夕子ではなくなってしまったという事だけだ。
喉に、何かがつかえている。
このつかえが取れたら、俺は、何かを大声で叫んでいただろう。
しかし、俺は、叫ぶどころか、息をすることもできずに、夕子と向かい合っている。
「鷹斗……」
夕子が、俺の名を呼んだ。
「さむいよ、鷹斗……」
俺の知っている夕子の声。
俺の知らない夕子の口調。
俺は――夕子の何を知っていたというんだろう。
あんなにずっと、夕子と一緒にいたのに……。
「さむいよ……さむい……すごく、さむい……」
夕子が、俺の肩に手を置く。
俺は、動けない。
俺の中で、最も原始的な何かが、激しい勢いで警報を鳴らしているような気がする。
だが、それだって、目の前で夕子が泣いていることに比べれば、どうということはない。
「ごめん、鷹斗……あたし……もう、がまんできない……」
夕子が、俺の肩口に、唇を寄せた。
爪が、俺の肩に強く食い込んでいる。
そんな中、夕子の切迫した呼吸が首筋をくすぐるのが、少し、くすぐったかった。
「鷹斗って……あったかいね」
「そう、か?」
「うん……」
「……」
俺は――
俺は、夕子の肩に手を置き、その細い体を、精一杯の力で引き剥がした。
「え……?」
夕子が、不思議そうな、そして悲しそうな顔で、俺を見る。
「待ってくれ、夕子。頼む」
「……」
「お前が、どういう状態なのか、俺には分かる。いや、分かるつもりだ」
「……」
「お前は、きちんと意識が残ってる。それは、お前がモロイじゃないってことだ。だから、血を吸わなくても、どうにか我慢できるはずなんだ」
「そんなの、無理だよ……」
夕子は、涙をこぼしながら、ふるふるとかぶりを振った。
肩に食い込んだ爪が皮膚を破り、血が流れ出ているのを、感じる。
だが、俺は、話を続けた。
「俺の知ってる吸血鬼は――ミアは、薔薇の花で、どうにかしのいでいた」
「ばら……?」
「ああ、そうだ。だから、お前も大丈夫だ。――大丈夫だと、思う」
「でも、でも、こんなに寒いんだよ……?」
弱々しく駄々をこねる子供のような声音で、夕子が言う。
「あたし、鷹斗のが欲しい……鷹斗の、あったかい血がほしいよ……」
「頼む。少しだけ我慢してくれ。もし、薔薇が駄目だったら――俺の血を、やるから」
そう言って、俺は、夕子の顔を見つめた。
まるで、難しい問題を一生懸命に解こうとしている子供のような、夕子の表情。
しかし、少しずつ、俺の肩に食い込む夕子の指から、力が抜けていっている。
「ほんと?」
「……ああ、本当だよ」
もし薔薇が駄目だったら、その時はしょうがない。
そう、俺が言いかけたとき――
どん、と夕子が、まるで後から誰かに押されたように、つんのめった。
「あれ……?」
夕子の胸の中央から、銀色の鋭い金属の先端が、突き出ている。
それを不思議そうに見て、そして、俺に視線を戻そうとしたところで――
「夕子ッ!」
ごおおおおおおおおお……!
熱の無い炎が夕子の体を一瞬にして包み、そして――
そして――
「怪我は無いか?」
呆気なく、灰に――
「おい、どうした? 暗示にかけられたか?」
消えて、無くなって――
「……まあ、いい。今夜のことは、悪い夢だと思って忘れろ。いいな?」
さっきから、窓の外で、誰かが何かを言っている。
その方向に目を投じると、左腕に、奇妙な弓のような機械を装着した痩せた白人の男が、立っていた。
弓――?
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
気が付くと、俺は裸足で走り出て、そいつの青い両目を目掛け、右手の人差し指と中指を突き出していた。
「何をする!」
男が、何か喚きながら、跳びすさる。
が、俺は、男が後退する速度と同じ速度で、男を追っていた。
「貴様、奴等の仲間か?」
右手で、左手の弓のレバーを操作しながら、男が言う。
何を言ってるんだ、こいつは。
こいつが――こいつが――こいつが――!
どっ! と鈍いショックがあった。
至近距離から放たれた矢が、俺の右の脇腹を掠めたのだ。
これで――こいつは、夕子を撃ったのか?
痛みが無いせいで、どれほどの傷なのか、自分でも分からない。
分からないまま、俺は、次々と両手の攻撃を男に放っていた。
指先が服のどこかを捕えさえすれば、そのまま、引き寄せてやる。
そして――眼球でも、喉笛でも、股間でも、この指で抉って――殺してやる。
初めて感じる強烈な殺意が、俺の目を眩ませた。
男の動きは素早く、なかなか捕まえられない。
だが、それでも、右手の動きだけが、妙に甘かった。
――殺す!
鉤状に曲げた左手の指を避けられない角度と速度で男の痩せた顔に――
「っ!」
右足が、滑った。
脇腹から流れていた血で、足を取られたのだ。
不覚――!
男が、すでに次の矢を装填した弓を、体勢を崩した俺の顔に向ける。
外しようの無い距離だ。
男の指が、動き――
ばきッ!
鋭い音ともに、男の左腕に装着されていた弓が、弾けた。
銀色の軌跡が、弧を描いて宙を走る。
「鷹斗っ!」
聞き覚えのある声が、俺を呼んでいた。
急激に暗くなる視界の中、男が、灰色のコートを翻し、背中を向ける。
「待て……」
言いながら、俺は、ばったりと道路に倒れていた。
頭が奇妙に痺れ、手足が冷たい。
「鷹斗! しっかりして! 鷹斗っ!」
誰かが、俺のことを呼んでいる。
大丈夫だ、ちょっと、血が多く出て、貧血になっただけだから。
これくらいは、なんともない。
なんともないよ……ミア。
でも――
ああ、夕子の言っていたとおりだ。
今夜は……何だか……すごく寒い……な……。