第三章
太陽が昇り、天を通過し、沈む。
晩春の太陽に照らされる、表向きの平穏な学園生活。
それは、まだ偽りの顔とまでは言えないものの、けして真実の姿ではなくなっている。
夜の管理棟に現れ、消える黒い人影。
時に寄宿舎まで響く、高く細い喘ぎ。
学園全体に漂う、甘く官能的な芳香。
転校し、姿を消していく女生徒たち。
まるで、可聴領域ぎりぎりの、不協和音――。
だが、見えない檻に閉じ込められ、飼われている可憐な獲物たちは、自分が今いる場所の異変に気付きかけながらも、日常を演じつづけていた。
生きることは演技。この世界は舞台。
そのように教え込まれてきた少女たちが、危うい足取りで舞い踊り、明るい声でさんざめく。
そんな中、吸血鬼は、その支配力を、不自然に社会から隔絶されたこの集団の中枢から末端にまで、徐々に張り巡らせていったのだった。
そして、夜。
ノインテーターは、理事長室と呼ばれていたその部屋に、実体化した。
いまや、そこは、ノインテーターの『巣』であるところのこの学園の中枢である。
赤い瞳で、ノインテーターが窓越しに夜空を見上げる。
その青白い貴族的な風貌には、しかし、いかなる表情も浮かんでいない。
と、控え目なノックの音が、部屋に響いた。
「入れ」
鷹揚にノインテーターが言うと、熱い木製のドアが、開いた。
青紫色のスーツに身を包んだ、切れ長の瞳と長い黒髪が印象的な女教師が、部屋に入ってきた。
その理知的な白い顔の中、ふっくらとした朱唇が、ともすれば冷たく見えがちなその美貌を、艶めいたものに変えている。
「ご主人様」
女教師が、ノインテーターに声をかけた。
「ご命令どおり、素質なしと見なされたモロイを四人ほど、周囲に配置しました」
「そうか」
ノインテーターが、女教師の方を向く。
禍々しい真紅の眼光に見つめられ、女教師は、ぞくりとその豊満な体を震わせた。
「ほ――保護者や、警察の注意は引かないよう、細心の注意を払ってはいます。しかし……」
「そうそう長いこと誤魔化し切れるものではない、ということだな」
滑るような足取りで女教師に身を寄せながら、ノインテーターは言った。
「はい」
「――モロイたちは、餌だ」
冷たい、と言うより乾いた口調で、ノインテーターは言った。
「執拗な猟犬どもを誘い出す撒き餌だ。連中を殲滅させるまで時間を稼げれば、其れで良い」
「はい……」
「不安か?」
はっとするほど近い距離から、ノインテーターが、女教師の顔を見つめた。
「そ、そんなことは……」
「案ずるな。もし、不審に思うものが居れば、汝がその口を塞げば良い」
「え……?」
「其の為の力を、汝に与えよう」
「それは、もしかして……あうっ!」
びくッ、と女教師の体に、震えが走る。
いつの間にか現れ出ていた触手が、彼女のスカートの中に潜り込んでいた。
「千坂静夜……今宵、汝を、我が眷族に加えよう」
「ああッ……う、嬉しい……光栄です……ひゃうッ!」
触手が、得体の知れない透明な粘液を滲ませながら、彼女――静夜のスカートを捲り上げ、白い太腿に絡みついた。
高級そうなガーターベルトと、鮮やかな真紅のショーツが、ちらちらと見え隠れする。
そんな静夜の秘部を、触手の先端が、焦らすように撫で回す。
「あぁ……っ、ご、ご主人様……ああぁン……っ!」
無様に倒れることだけは避けようというのか、必死にその形のいい両脚を踏ん張りながら、静夜はその体をくねらせた。
シンプルなデザインのスーツでは隠しきれない熟れた体が、淫靡にうねる。
その、高級そうな布地に無残な染みを付けながら、ノインテーターの触手は、静夜の四肢に絡みついていった。
さらに、布地の間に潜り込み、太い蛇のようにうねうねと蠢く。
立ち昇る性臭に応えるように、静夜は、大量の愛液を溢れさせ、レースのショーツをじっとりと濡らした。
そのシルクの布地の上から、亀頭に酷似した触手の先端が、熱い靡肉をぐりぐりと嬲る。
「あうッ! はぁぁ……ああン……ひゃうッ! ああン……!」
アランを手玉にとって見せた静夜が、今は、九本の触手に弄ばれ、小娘のように高い声で喘いでいた。
煽られ、昂められた性感が、熱い吐息となって、半開きの唇から漏れる。
「ああ……きゃうっ……! あひ、ひいぃン……ご主人様ぁ……早く、早くください……ああああああッ!」
ブラウスの内側にまで潜り込んだ触手に、ぐにぐにとそのたわわな乳房を捏ね回され、固く勃起した乳首を擦られながら、静夜は哀願した。
「お、お願いです……もう、焦らさないでください……そんなにされたら、静夜は、静夜はおかしくなります……あううううッ!」
上気した頬には透明な涙がこぼれ、綺麗な曲線を描く顎には浅ましい涎が伝う。
しかし、触手たちは、静夜の動きを封じ、その体をいいように弄びながら、下着を脱がせようとさえしない。
ただ、もどかしい布越しの愛撫を続けるのみだ。
ぐっしょりと愛液と粘液に濡れたショーツはぴったりと彼女の恥丘に貼り付き、上品に生え揃った陰毛を透かしている。
「ひああああッ! 狂うゥ……ホ、ホントに、ホントに気が狂っちゃう……きゃうううううッ!」
かくかくと腰を動かし、背中を仰け反らせながら、静夜が身悶えた。
その柳眉は悩ましくたわめられ、アップにまとめられていた長い黒髪は、ほどけ、背中で乱れている。
もはや、自分の力では立っていられないほどに追い詰められた静夜の体を、強靭な九本の触手が、半ば宙に浮かせるようにして支えていた。
教壇に立った時と同じ服装のまま、この世ならぬ快楽に喘ぎ、悶える女教師。
すでにその脳裏からは、かつて、自分が潔癖な聖職者であったことに関する記憶など、カケラも残っていない。
ただ、現在、自分を蹂躙し、支配する淫楽のみが、全て。
性感のみが脳を満たし、そして、世界と隔絶される。
凍りそうなほど冷たい孤独の中、体が融けそうなほどに熱い快感が、彼女の神経を灼いていた。
そして――
「あああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁーッ!」
まるで、処女を散らされた生娘のように、静夜は喉を反らせて絶叫した。
熱く膨れ上がった触手が、ショーツの隙間から潜り込み、しとどに濡れた女陰を貫いたのだ。
節くれだった触手の表面が、刺激を待ちわびていた膣内粘膜をずりずりと擦り上げる。
その、驚くほどに鮮烈な快感に、静夜は、呆気なく絶頂を迎えていた。
びくん、びくん、びくん……と、床から浮いた爪先が、頼りなげに震える。
しかし、魔淫の夜は、始まったばかりだ。
容赦のない動きで、触手が、抽送を繰り返す。
「あうううッ! あうン! あくっ! ンあああッ! ああうッ!」
逞しい触手に体内を陵辱され、静夜は、断続的に叫び声を上げた。
強すぎる快楽信号に脳が飽和し、ただただ、体を震わせ、声を上げることしかできない。
そんな静夜の菊門に、触手がその先端部分を押し付ける。
「ひ、ひいいいッ……今は、今は許して……お許しくださいィ……」
苦痛の予感よりも、これ以上の快楽を味わわされることへの恐怖を覚え、静夜は細い声で訴えた。
そんな声を無視して、触手が、直腸の中へと自らを捻じ込ませる。
「あおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
体を下から貫かれ、静夜は、大量の唾液を吹きこぼしながら、再び絶叫した。
二本の触手が、異なるリズムで、静夜の膣道と腸内を犯す。
溢れ出た愛液と腸液が、千切れかけたショーツをぐずぐずに濡らし、静夜の脚を伝った。
「ひいいッ! ひぎッ! ひああああッ! あああッ! ああああああああッ!」
クレヴァスとアヌスからもたらされる快楽は静夜を終わりない絶頂に舞い上げ、快楽の無間地獄へと堕としていく。
びゅるっ、びゅるっ、と抽送に合わせるように失禁する静夜。
苦痛と紙一重の快楽に理性の最後の一片までも儚く蒸発させられた静夜の体を、他の触手たちが嬲り、翻弄し、捏ね繰り回す。
涙と涎にまみれた、白痴じみた顔は、美麗であるがゆえに、いっそうに無残だ。
そんな、踏みにじられた花にも似た静夜の頬に、ノインテーターが、その冷たい手を添えた。
すでに仰け反り、露わになった首筋に、その薄い唇を寄せる。
ぱくり、と開いたその口元に、鋭い牙の先端がのぞいていた。
ヒトとしての存在の危機を本能的に悟ったのか、静夜の体が、無意識のうちに弱々しく拘束から逃れようとする。
ノインテーターは、この夜、初めてその口元に笑みを浮かべ、そして、その牙を、ゆっくりと白い喉に埋めた。
「ひッ――」
静夜の朱い唇から、声が漏れる。
「ひあああああああああああああああああああああああああああああああああぁーッ!」
その時、千坂静夜の“時間”が、反転した。
ぷしゃああああああ……っ、と大量の愛液が、静夜の秘裂からしぶき、床を濡らす。
「ああ……ああぁ……あ……あああぁぁぁ……」
限りない絶望と快楽を滲ませた声を、静夜が漏らす。
漆黒だった瞳は、次第に血の色に染まり、白い肌は急速に冷えていった。
それでいながら、触手に犯されている靡肉や腸内は、燃えるように熱い。
「ご、ごしゅじん、さまァ……」
かすかに理性を取り戻したのか、静夜が、切れ切れに言った。
「おねがい、ですゥ……もう……もう、おなさけを……おなさけを、くださいィ……」
溢れ出る愛液。首筋から胸元に伝う鮮血。
透明な粘液にまみれた触手が、ぐううっ、と一際膨張する。
「あ、あああ、あ……あァ……っ!」
触手たちの射精の兆候に、静夜が、喜悦の声を上げる。
そして――
ぶびゅううるるるるるるるるるるるるるる!
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああぁーッ!」
大量の精液が、静夜の体の内と外に迸った。
静夜の体内よりもなお熱い精液が、子宮と腸内に注ぎ込まれる。
服の中に潜り込んだ触手が吐き出した精液により、静夜の体はどろどろになった。
触手たちは、断末魔の蛇のようにびくびくとのたうちながら、スーツや下着、ストッキングの中にまで、粘つく白濁液を放ち続けている。
「ああああァ……っ! あああッ! あううう……ン! ひあああぁぁぁ……!」
ゲル状の汚穢な粘液そのものに全身を犯され、生まれたばかりの吸血鬼は、いつまでも、歓喜の産声を上げ続けた。
いつもの待ち合わせ場所である市民公園の駐車場で体を温めていると、師匠が、日本の公道を走るのには不適当なくらい馬鹿でかいRV車で現れた。太いタイヤを履いた、車高の高いピックアップ4WDだ。
「どうしたんです?」
普段は徒歩で現れる師匠に、俺は訊いた。
「いや、今日は少し目先を変えようかと思ってな」
車から降りた師匠が、答える。
「お前さんに付きあってられるのも、取りあえずは今夜が最後だしな」
「そうなんですか?」
「ああ。明日には、女房子供の待つ家に帰らせてもらう」
「そう、ですか……」
「事情を話してくれりゃあ、気が変わるかもしれねえぞ?」
俺は、じっと黙っている。
師匠に再び稽古をつけてもらってから、半月近く。自分が、どれだけ上達したのか、自分ではよく分からない。
少なくとも、未だに師匠には軽くあしらわれている。
しかし――
「まあ、今更になって何か言うとは思ってないけどな」
そう言いながら、師匠が、俺のバイクに近付いた。
「これ、お前さんのか?」
「はい」
「でかいバイクに乗ってやがんなァ」
そう言いながら、師匠は、無造作にバイクを持ち上げた。
「重いなこりゃあ」
ぼやきながらも、呼吸を乱しもせずに、目の高さより上に持ち上げ、そのまま4WDの荷台に載せてしまう。
大概のことでは驚きはしないのだが、さすがに、俺は絶句してしまった。
「ほれ、乗れよ」
「乗れって、どういうことです?」
「稽古場に連れてってやるのさ。言っておくけど、終わったら俺は真っ直ぐ家に向かうから、帰りは一人で帰れよ。そのために、バイクを積んでやったんだからな」
「はい……」
「早くしろ。時間がもったいねえや」
俺は、促されるまま、鞄代わりの小さなリュックサックを背負って、助手席に乗り込んだ。
師匠が、巨体に似合わぬ身軽な動きで、運転席に付く。
「どこへ向かうんですか?」
「西だ。ずっと西の、山の中」
恐ろしく大雑把なことを言いながら、師匠は、4WDをスタートさせた。
「なあ、鷹斗」
「なんです?」
「葛城流の真髄は、何だと思う?」
高速道路に入ってから、師匠が、危なげなくハンドルをさばきつつ、まるで謎かけのように言った。
俺は、しばし考えてから、答えた。
「勝つこと、ですか?」
葛城流は、相手を倒すためには、あらゆる意味で手段を選ばない。
その方が有利であるなら、不意を討つことも、相手の持ってる武器を奪うことも、ためらわない。
開始合図もなし。制限時間もなし。判定勝利もなし。敵が戦闘不能になったとき、初めて葛城流の立会いは終わる。
だから、俺はそう答えたのだ。
「違うな」
しかし、師匠は、あっさりとそう言ってのけた。
「じゃあ、何なんですか?」
「生き延びることさ」
ちら、と俺に視線を寄越してから、師匠は続けた。
「葛城流は、もともと、この日本に住んでた連中が、大陸から渡来してきた奴らに対抗するために編み出したもんだ」
「ええ。前に聞きました」
「と言っても、その当時は『葛城流』なんて名前じゃなかったろうがな」
でかいRVを器用に動かし、滑らかに車線変更を繰り返しながら、師匠が言う。
「先住民族、って言うのか? そいつらの目的は、突き詰めて言うなら、侵略者に勝つことじゃなかった。そりゃまあ、戦って勝てるなら勝てた方がいいが、どう考えたって勝てない時もあるわなあ」
「……でしょうね」
「ふふん」
俺の返事に、師匠はなぜか満足げに鼻を鳴らした。
「そういう時は、どうする?」
「……逃げるしかないんじゃないですか?」
「そうだ」
言いながら、師匠は、ごうごうとRVのエンジンを吠え猛らせ、他の自動車を次々と追い抜いていく。
溶け流れていく外灯のオレンジ色の明かりが、笑みを含んだその顔を照らしていた。
「逃げた方が生き延びる公算が高いなら、迷いなく逃げる。意地だの恥だのっていうのァ、あれは生活に余裕が出てきてからのたわ言さ」
「……そうかもしれませんね」
「葛城流には、逃げるための技もきちんとある。教えてやったことがあるよな?」
「はい」
「俺も、その技に何度も助けられてる」
「師匠が?」
「ああ。最初に使った相手は女房だったけどな」
本気なのか冗談なのか、そんなことを言いながら、師匠はRVを走らせている。
しばらく、ごつい車体が乱暴に風を切る音だけが、車内に響いた。
「俺は……」
「ん?」
口を開いた俺に、師匠が、再び視線を向けた。
「俺は、そう言う意味では、葛城流の本当の後継者には、なれないかもしれません」
「何故だ?」
「うまく、言えないんですけど……逃げるべき時にも、逃げることができないような気がするんです」
腹に抱えたリュックサックを、思わず強く握り締めながら、俺は言った。
「ふうん、なるほどなァ」
師匠の口調は、妙に軽い。
「それはそれでいいやな。一応、葛城流の正統後継者は、俺の息子ってことになってるし」
「知巳君、ですか?」
「ああ。そもそも、葛城流を他の家の奴に教えたってことが知れたら、女房に折檻されちまうんだぜ」
「……」
「ま、いいってことさ。お前さんは、お前さんの葛城流で行け。その方が――」
「はい?」
「その方が、よっぽど面白い」
そして師匠は、何がおかしいのか、まるで虎が吠えるような声で笑った。
アラン・ラクロワは、その夜も、あてもなく街をさ迷っていた。
月が、住宅街の中途半端に細い道を照らしている。
深夜である。駅前や大通りであれば人の交通はあるだろうが、この時間、外を出歩いている姿は見かけない。
故郷のそれとはあまりに違う街並みを、アランは、ぼんやりとその緑褐色の瞳で眺めていた。
不規則に曲がりくねった道。不意に出現する広葉樹の狭い林。ひどく小さな公園。
高い湿度と相俟って、ここが、異国であることを思い知らされる。
夕方から、空はどんよりと曇っていた。雨に打たれるのは、できれば避けたい。
自分は、どうしてここにいるのか。
“カインの花嫁”がいたと言われる街に、独りで来てみたものの、今のところ、何の収穫もない。
――私の手伝いをしようと言うなら、自らの力だけで女を犯せ――。
ノインテーターの言葉が、脳裏に甦る。
――汝にとって、凡てはそれからだ。
屈辱の思いと、困惑の念と、そして言いようのない焦燥感が、胸のうちにある。
この世のものとも思われぬ美しい貴婦人に誘われるまま、恍惚と陶酔の中で、何も分からぬ間に吸血鬼となってから、未だ一年足らず――。
その貴婦人は、アランの目の前でハンターに滅ぼされ、そしてアランは、つい先月、彼女の復讐を果たしたばかりだった。
それまで、無我夢中だった。
いや、『舞踏会』に参加を認められた今でも、夢の中を歩いているような気持ちがする。
風が、その細い肢体に、生温かくまとわりついた。
「……!」
その風の中に、不吉な匂いをかすかに感じ取り、アランは風上に視線を向けた。
暗い、雑木林。
その中から、灰色のコートをまとった痩せた影が、ゆらりと現れた。
「ユーリー・グロボフ……」
「見付けたぞ。アラン・ラクロワ」
アランの視線を薄青色の瞳で受け止めながら、ユーリー・グロボフは言った。
その両腕には、すでに武器が構えられている。
両の手首に装着された、小型の特殊クロスボウ――。
弓と垂直に交わった射出機構にはギアと強力なスプリングが組み込まれており、手首の内側にあるレバーを操ることで、驚異的な連射性能を保証している。
そこから打ち出されるクォレルと呼ばれる矢は銀製で、銃弾よりも深刻なダメージを吸血鬼に与える、という話を、アランは耳にしていた。
「ここなら、人通りも無い」
「……確かにそうですね」
「滅びよ――!」
びゅっ! と風を切って、ユーリーの右腕から銀の矢が射出された。
真っ直ぐにアランの心臓を狙っている。
アランが、右に跳躍し、その一撃をかわした。
が、その動きを予測したかのように、ユーリーが次々と矢を放つ。
正確無比な、ユーリーの射撃。
それよりもなお速くアランが動き、ことごとくその攻撃をかわしていく。
常人の目には止まらない、ただ外灯にきらめく銀の矢の軌跡のみが辛うじて見て取れるような、そんな両者の動きだ。
アランの体に命中しない銀の矢が、しかし、次第に彼を追い詰めていく。
どう逃げても、いずれ体のどこかには命中する。そんな連続攻撃だ。
一瞬、アランの動きが止まる。
「ぬっ?」
ぶん、とアランの周囲の空間が、歪んだ。
瞬時に紅く染まった瞳ごと、アランの姿が、残像と化す。
何本かの銀の矢が、その残像を貫通し、コンクリートの塀やアスファルトの道に鋭い音を立てて突き刺さった。
そして――希薄だったアランの姿が、再び確かなものになり、驚愕するユーリーへと襲い掛かる。
「非実体化――?」
瞬間的にこの次元から存在を消すという、伝承の中にのみ現れる吸血鬼の特殊能力――
それを目の当たりにしたユーリーは、致命的に次の動作への移行を遅らせてしまっていた。
繰り出されたアランの右手の爪を、左腕のクロスボウで受け止める。
がッ――!
特殊鋼と炭素繊維を組み合わせて作られたクロスボウが脆くも四散し、無意味な部品へと還元される。
ユーリーは、右手首のクロスボウを構え直し、至近距離のアラン目掛け、右の中指に装着されたトリガーを引いた。
アランの真紅の瞳が、光る。
その目は、すでにユーリーを見ておらず、この世界と重なった別の次元を見つめていた。
ぶん――
奇妙な唸り声を残し、再び、残像を残してアランの姿が消える。
「くっ!」
空しく宙を飛んだ矢が、彼のはるか背後の電信柱に突き刺さった時、アランはこの次元へと舞い戻った。
無意識に笑みを浮かべたその口元から、尖った歯が剥き出しになる。
あどけない顔に、悪鬼さながらの表情を浮かべ、アランは左手でユーリーの右腕を取った。
「ぐ――ああああああああッ!」
万力のような力で、ユーリーの右腕が、アランの左手によって捻られる。
技も何も無い。単純な腕力によって、人体に限界以上の負荷をかけ、破壊しようとしているのだ。
それは、子供が人形を壊そうとする様に似ていた。
ユーリーの右腕が奇妙な方向を向き、肘関節の中で靭帯が音を立てて軋む。
ユーリーの左腕に、もはやクロスボウは無い。
止めを刺すべく、アランは、右手でユーリーの喉笛を掴んだ。
ユーリーの白皙が、鬱血し、赤黒く染まった。
きりきりと音を立てて、ユーリーが奥歯を噛み締める。
ずッ――
「あ……」
アランの顔から、笑みが消えた。
幼い驚きの表情で、自分の胸元を見つめる。
そこに、太い銀の矢が、突き立っていた。
ユーリーが、左手で、懐に収めていた予備の矢を突き刺したのだ。
「ぬあああッ!」
ユーリーが、全身をひねるようにして、アランの両手から逃れた。
アランは、それを追うことができない。
矢は、わずかに心臓を外れている。しかし、喩えようも無い苦痛が、アランを苛んでいた。
が、それはユーリーも同じだ。完全に右腕を殺され、すでに武器も無い。
「今日は、ここまでだ――吸血鬼」
潰れかけた喉で言って、ユーリーは、左手で右腕をかばいながら、林の中に消えた。
「く……」
まるで憑きものが落ちたように優しげな顔に戻ったアランが、よろよろと歩き始めた。
コンクリートブロックの塀に背を預け、天を仰ぐ。
そして、歯を食いしばり、胸の矢を抜いた。
「あうッ……!」
鮮血を吹きこぼす傷口を手で押さえ、アランは、はぁはぁと喘いだ。
いかなる理由によるものか、銀による傷は、吸血鬼の再生能力を著しく阻害する。
銀という元素固有の次元震動が、吸血鬼の“時間”を侵すせいだとも言われているが、ハンター、吸血鬼とも、未だ真の理由を掴んではいない。
「くぅっ……あ……ああぁ……っ……」
もし別の次元へ逃れようとも逃れることのできない苦痛に涙を滲ませながら、アランは、歩き始めた。
いつまでもこの場所に留まっていては、ユーリーの仲間に襲われないとも限らない。
せめて一晩、光の届かない場所で体を休ませなくてはならなかった。
霞む視界の中、適当な場所を探しながら、アランが歩く。
その時、アランの鼻先を、ぽつん、と水滴が叩いた。
「あ、雨――?」
アランが、絶望的な声を上げた。
流れる水に対する、吸血鬼特有の強迫観念的な嫌悪感が、アランの血液循環を致命的に乱れさせる。
ぽっ、ぽっ、ぽっ、ぽっ、ぽっ、ぽっ……
まるで、世界の“時間”に背いたその罪に裁きを下すかのように、天が、無慈悲に雨滴を降らせる。
「そんな……もう……」
雨をよける場所を探す暇さえない。
さあああぁぁぁ……
晩春の雨に打たれながら、それでもアランは、ふらふらと歩みを進め――そして、濡れた路上に倒れたのだった。
師匠が運転するRV車は、高速から一般道に下り、そのまま山道に入った。
さらに道を外れ、工事中と思われる、未舗装の道路に侵入する。
そして、その道も、途中で途切れた。立ち入り禁止の表示が、道を塞いでいる。
路面が、濡れていた。
先ほどまで、車体を雨が叩いていたのだが、今はもう止んでいる。
「雨雲とすれ違ったみたいだな。都心の方は、まだ降ってるだろう」
RV車を止め、地面に降り立ちながら、師匠が言った。俺も、車から降りる。
師匠の言葉通り、晴れた夜空の中、東の空にだけ、まだ雲がわだかまっている。それが、明るい月光の下で、やけにはっきりと見えた。空気が澄んでいるのだろう。
標高はそれほどでもないのだろうが、雨上がりの夜風が肌寒い。
「この道の先に、プレハブの飯場がある」
師匠が、濡れた砂利道の奥を示して、言った。
「工事の作業員が寝泊りしてた場所だ。そこに、三日前の夜、何かが現れた」
「何か?」
「生き残りの証言じゃあ、バケモノだって話だ」
「――生き残り?」
「六人いたうちの、二人が死んだ」
こともなげに、師匠が言った。
「一瞬で、二人とも殺されたって話だ。後から警察が見に行ったところじゃあ、死体はひどい有様だったとさ」
「……」
「腹を掻っ捌かれて、首が千切れかけてたっていうぜ」
「……そうですか」
「ちっとはビビれよ。張り合いがねえなァ」
師匠が、そんなことを言って、鼻を鳴らす。
「ちなみに、犯人は上がってねえ。と言うか、人間の仕業とは思われてないようだな。猟友会が、いるかどうか分からねえ熊を探してるって話だ」
「熊じゃ、ないんですね?」
「飯場に入り込んで人間を襲う熊なんて、いやしねえよ」
そう言ってから、師匠は、白い歯を剥き出しにして、にやりと笑った。
「つまり、俺のような人間の仕事だってことさ」
「……」
「表向き、役所や警察は、そういう事件があることを隠してる。だが、バケモノに食われちまう人間は、現代にもまだまだたくさんいるのさ」
「で、師匠は、その“バケモノ”を退治してるって言うんですか?」
「そういうことさ。いろいろな方面から金をもらってな」
「……」
「で、これからは肝試しだ」
車の中に入っていた懐中電灯を俺に寄越しながら、師匠が言った。
「肝試し?」
「ここから歩いていって、飯場で朝まで過ごせ」
「朝まで?」
「ああ。……それから、事件が起こってから、あそこで夜を過ごすのは、お前さんが初めてだから、気を付けてな」
「それが、最終試験ですか?」
「まあな。これまで、お前さんにつきあってみっちりとやってきたんで、ちっと疲れちまってなァ」
わざとらしく首をごきごきと鳴らしてから、師匠は続けた。
「だから、俺は車ン中で寝ながら待ってる。もしどうしてもヤバイと思ったら、走ってここまで逃げて来いや」
「逃げることができなかったら?」
「大抵の奴から逃げることができるくらいには、鍛えてやったつもりだぜ?」
そう言ってから、師匠は、荷台のバイクを無造作に持ち上げてから、地面に下ろした。
「単車は、ここに置いとく。もし、一晩経って俺がいなくなってったら、一人で帰れ」
「分かりました」
俺が返事をすると、師匠は、またも鼻を鳴らした。
「あのなァ、少しは抗議したらどうだ? そういうところが可愛くねえって言ってるんだぜ」
「はあ……」
「たまには、無理だとか無茶だとか、弱音を吐いてみろよ」
「そう言ったら、聞いてくれるんですか?」
「聞くわけねえだろうが」
さも当然そうに、師匠が言い放つ。
「じゃあ、行ってきます」
俺は、そう言って、頭を下げた。師匠が、片手を上げてそれに応える。
そして俺は、リュックサックを右肩だけで背負い、師匠から受け取った懐中電灯を持って、砂利道を歩き始めた。
道の先は、深い闇に閉ざされているようだった。