第九章
。
それは、強烈な夢だった。
夢とは思えないほどに鮮烈で、夢でしかありえないほどに支離滅裂な、そんな夢。
幾千もの場面が連なり、圧縮され、そのまま高速で融け流れていくのを、半ば茫然としながら見つめ続ける。
たまに現れる、赤い色彩。
そして、刺すような血の匂い。
火傷しそうなほどに熱い、温度。
怒涛の如く襲い来るそれらのイメージに押し流され、そして、ようやく終着へと辿りつく。
そこは、俺の見知った場所だった。
赤い――紅い――朱い――赫い――赭い――原風景。
そして、目の前に流れる、速い川。
それが、甘い死への誘惑となって、圧倒的な恍惚と陶酔をもたらす。
そして――
。
そして――俺は、長い夢から覚めたのだった。
目の前に、ミアの白い顔があった。
その瞳が、赤い。まるで血のような鮮やかな赤だ。
それこそが、ミアの本当の姿なのだと思う。
そんなことを考えながら、俺は、ベッドに横たわったまま、ミアの頬に右手を伸ばした。
まるで、陶器のように冷たく滑らかなミアの肌。
その感触を手の平で味わいながら、ミアの体を引き寄せた。
「ん……」
唇を重ねる。
このまま融けてくっついてしまいそうな口付けだ。
唇を離すと、何とも言えない喪失感が、口元に残った。
「……困ったわ」
ぽつん、とミアが呟いた。
「どうしたんだ?」
「何て言ったらいいのかな……うまく、いきすぎたみたい」
「は?」
「何も覚えてない? 眠ってからのこと」
「……夢を、見たよ」
「どんな?」
「ちょっと、説明できないような……変な夢だった。きちんとは思い出せない」
「そう……」
ほっとしたような、がっかりしたような、そんな複雑な声音で、ミアが言う。
外は、もう真夜中だ。いや、明け方に近い。
どうも、生活のリズムがすっかり狂っている。
ここにしばらくいれば、どうにかなるかもしれないが……しかし、いつまでもこのままでいられるとは思えない。
あの、チボーという男。あいつをどうにかしない限り、状況を打開することはできないだろう。
あいつを――殺すのか?
もしくは、ミアがあいつを殺すのを、黙って見ているか?
再び会えばその場で戦いが始まるだろう。それも、命を懸けた、文字通りの死闘が、だ。
それとも、逃げるか?
ミアを追って、この国にまで来た男から、逃げ切れることができるのか……そもそも、どこまで逃げれば、逃げ切ったことになるのか。
例えば、師匠なら――こんな時、どうするだろうか。
「鷹斗」
俺の物思いを、ミアの声が遮った。
すでに、服を着終わっている。
いつまでも裸でいるわけにもいかない。俺も、服に袖を通した。
「……ごめんなさい、鷹斗」
「何のことだ?」
「何って……色々よ」
「俺が、もう、元の生活に戻れないことか?」
口に出して、ようやく気付いた。
そうだ。俺は、もう元の日常には戻れない。チボーとの決着をどうつけたとしても、それだけは確かだ。
何しろ、ミアは吸血鬼なのだし、俺は、そんなミアに間違いなく惹かれているのだから。
「俺は、別に、後悔してないし、不安も感じてないぞ」
「それは――鷹斗が鈍感だからだわ」
ミアが、苦笑に似た表情を浮かべながら、言う。
「だったらなおさら安心だ。俺の鈍感は、一生治らないだろうからな」
「……そういうふうに、夕子さんが言ったの?」
その言葉に、思わず絶句する。
「まだ、彼女のことが気になってるんでしょう?」
「それは……」
「無理に答えなくていいわ。そう簡単に割り切ったり切り捨てたりできることじゃないでしょう?」
意地が悪い、と言うにはちょっと悲愴な表情で、ミアが言う。
「鷹斗――あなたには、まだ、帰る所があるのよ」
「……」
「確かに、あたしはあなたの助けが必要だわ。でも、あたしと一緒にいることで、鷹斗が不幸になるところは見たくないの」
「何だって……?」
「だから、あなたが去っていくなら、あたしはあなたを追わないし――あの異端審問官だって、あなたに危害を加えることはないはずよ」
「――本気か?」
自分でも想像しなかったほど低い声で、俺は言った。
「え?」
「本気でそんなこと言ってるのか?」
「鷹斗――あなた、怒ってるの?」
ミアが、驚いたような顔で聞き返す。
「そんなことはどうだっていい。ミアは、俺が、そんなことするような奴だと思ってるのか?」
「だって――人に、“絶対”は無いもの」
忘れていた絶望を思い出したような、ミアの声。
「あたしは、これまで、色々な人に会ってきたわ」
ミアの顔から、表情が消えている。
「鷹斗の百倍もの時間を生きて、色々な事があって、色々な目にあってきたわ。ひどい裏切りを受けた事だって、一度や二度じゃないのよ」
その整った白い顔の内側に、炎のように熱い何かを秘めたまま、冷たく乾いた口調で、ミアが言った。
「それなら――俺の血を吸えよ」
まるで自分の声ではないような、低く抑えた声で言いながら、ミアに一歩近付く。
「何を、言うの……?」
「俺の血を吸って、モロイにでも何でもすればいいだろ? それで、お前の役に立つのならな」
「や……やめてよ! そんなふうに言わないで!」
「――お前が先に言い出したことだぜ」
さらに近付く俺に、ミアが後ずさりする。
「やめて、よ……」
ひどく弱々しい、ミアの声。
そんなミアの声は、聞きたくない。
なのに俺は、どう言っていいか分からず――次第に、ミアを、部屋の端の壁際へと追い詰めていった。
「俺を信じられないのなら、そうすればいいだろう?」
違う、俺が言いたいのはこんなことじゃない。
「そんなこと、言っているわけじゃないのよ」
「じゃあ、どういうことだ?」
「あたしは、鷹斗を利用しているのよ」
「……」
「吸血鬼は、自分が生き延びるために、人間を犠牲にするわ。そして、あたしも、鷹斗を自分自身のための犠牲にしている……そんな自分が嫌なのよ」
「そんなこと、構わない」
「あたしは、構わなくなんかないわ」
「……」
俺は、何も言わず、うつむくミアの体に手をかけ、抱き寄せた。
「ちょ、ちょっと、やめて……!」
力なく抗う、華奢な体。小さな背中で揺れる、少し癖のある黒い髪。
「お願い、今は、だめ……お願いだから……」
かすかなおののきと、かすかなぬくもり。それを、両の腕に感じた。
「だめだってば……本当に、我慢、できなくなる……」
そんな言葉に構わず、まるでその細い体を壊そうとでもするかのように、きつく、抱き締める。
「こんなふうに……あたしを誘惑するのは、やめて……!」
そして――俺を押しのけようとするミアの頬に手を当て、強引に唇を重ねた。
「だ、め……」
ミアの熱く甘い吐息を感じながら、舌を入れる。
尖った歯が、舌先に、触れた。
ぞくり、と得体の知れない鮮烈な快感が、股間から脳天へと駆け上る。
その時――
「……っ!」
信じられないような力で、ミアが俺を突き飛ばした。
どっ! と背中を強く壁に打ちつける。
が、その時には、強烈な破砕音をあげて、部屋の頑丈そうなドアが粉々に吹き飛んでいた。
樹脂と金属の破片が、今まで俺がいた場所を通り抜ける。
もうもうと立ちこめる白い埃の中、ミアは、舞うように跳躍していた。
「滅びなさい、吸血鬼!」
叫び声を上げながら、赤い十字架が描かれた白い長衣をまとった男が、部屋に押し入る。
ぎいぃん!
高い金属質な音。白銀の軌跡。
しばし、事態の把握ができなかった。
二つの影が暴風のように部屋中を駆け巡り、凄まじい攻撃の煽りで家具や調度が破壊されていく。
長短二本の剣。
幾条かの銀色の細い糸。
それらを操りながら、ミアと、男が、何度が激突し、そして、離れた。
とても肉眼では捉えきれないほどの攻防の合間に現れた――奇妙な静寂。
「チボー!」
俺が叫んだ時には、二人は、再び動き始めていた。
金属の篭手をはめた右手が、長剣を握り締め、一直線にミアを貫こうとする。
右手――?
「ミア! 右手は罠だ!」
そう、思わず言ったときには、ミアの腕輪から繰り出された糸が、チボーの右手首に絡み付いていた。
ばしゅッ! と奇妙な音を立てて、チボーの右手が腕から射出される。
火薬か、圧縮空気か、スプリングか――剣を構えた右手は、いまや飛来する槍となって、ミアの体を狙っていた。
ミアが、激しい勢いで跳躍する。
その残像を、チボーの左手の短剣が縦横に切り裂いた。
チボーの攻撃をかわせたのは――俺の言葉に反応して、か?
がしゃあぁン!
ミアのぶつかった大きな分厚い窓ガラスが、音を立てて砕け散る。
外は、首都の夜景だ。
この時間でも消えずに灯っている人工の星屑を背景に、ミアの体が宙に浮かぶ。
部屋の明かりをきらきらと反射させながら、地面に落ちるガラス片――。
「ミアっ!」
落ちかかるミアが、右手を振り上げた。
がくん、とミアの体が空中で止まる。
そのまま、ミアの体は、重力に逆らうかのように、ぐうん、と上空めがけ舞い上がった。
「くっ!」
割れた窓から身を乗り出したチボーが、声をあげる。
どうやらミアは、屋上の構造物に糸を絡めつけ、それを高速で腕輪に収納することで、上へと逃げたらしい。
ちら、とチボーが俺を見た。
そして、そのまま身を翻し、窓から外に出る。
「何?」
慌てて窓に近付くと、チボーが、頭上の壁面を、左手と両足で這い登っていた。
ぱらぱらと、砕けた建材のカケラが降りかかる。
指や爪先を小さな突起や隙間に引っ掛け、それが無い時は壁面に穴を穿っている。まるで地上を水平に走っているかのようなスピードだ。
それは、もはや人の動きではない。どこか昆虫じみた動きだ。
この階は、最上階に近い。屋上でミアとチボーが対峙するまで、あとわずかだろう。
「くそッ!」
俺は、思わず叫んでいた。
チボーに無視されたことや、屋上まで上がる算段のつかないことが、じりじりと胸の内を焦がす。
しかし、考えてる暇はない。
ミアは、俺の助けが必要だと言ったのだ。
たとえ、俺自身が、どうやって助けることができるのか、分からなくても――
ミアの傍に、いなくては。
と、走りかける俺の爪先が、何か、硬い物を蹴飛ばした。
上空の冬の風が、ミアとチボーの髪を引き千切らんばかりに吹いている。
ヘリポートのある広い屋上で、二人は向かい合っていた。
頭上に星は無く、ただ、眼下に広がる街の灯が、喪われた星空を模している。
チボーの彫りの深い顔には、隠しようのない喜悦の色が浮かんでいた。
半月型に歪んだ唇から、白い歯が覗く。
「あの青年を、盾にするつもりではなかったのですか?」
チボーの言葉に、ミアが、形のいい眉をしかめた。
「あなた、発想がとことん下衆ね」
「そうかもしれません」
すまし顔でそう答え、チボーは、短剣を構えた。
「まあ、そんなことで私が止められると思われては心外ですがね」
「どうせ、人の命なんて、あなたの無邪気な信念の前には、何の価値も無いんでしょう?」
「勿論です。私の命も含めてね」
そう言うチボーの唇の端から、鮮やかな色の血が一筋、零れ落ちた。
その目尻からも、血の涙が溢れ、その白皙を伝って白い長衣を汚している。
「時間です」
「そのようね」
そう、ミアが言い終わらないうちに、チボーは一気に距離を詰めた。
左手による、激しい一撃。
ミアは、黒い服の裾をひらめかせながら、体をかわした。
短剣が、執拗にミアの体を追う。
まるでチボーには、ミアのこれから動く先が見えているかのようだ。
とっくにヒトの限界を超えた、チボーの動き。
強化筋肉と金属骨格による激しい動きに、まだ生身のままの臓器が付いていけず、傷つき、体内に血を溢れさせる。
「があああッ!」
血反吐を吐き散らしながら、チボーが左手の短剣を振るう。
ミアは、防戦一方だ。
時折繰り出される糸は、全てチボーに見切られている。
「くっ――!」
ミアが、大きく左に回りこんだ。チボーの右側だ。
チボーの右手は、肘と手首の中間辺りで、無くなっている。
その、攻撃面での死角から、ミアは、必殺の糸を放った。
幾つもの螺旋を描きながら、糸が、チボーに絡みつく。
「甘い!」
ミアが糸を引くより一瞬早く、チボーが右に飛んでいた。
そして、右腕の先をミアに向ける。
しゅッ!
短針銃 ――
右腕内部に仕込まれていそれが神経信号によって作動し、物理的な限界近くまで圧縮されていたガスが無数の針を打ち出した。
「ッ――!」
危険を感じ、身をよじるミアの頭部を、聖別された銀の針の奔流が襲う。
そしてミアは、自分の視界が、かつてない闇に覆われるのを自覚した。
目の前の、鉄製の扉。
無愛想な、そして飛び切り頑丈そうなその扉には、鍵がかかっている。
最上階から従業員専用の階段を昇って、ようやくたどりついた屋上室である。
この先に、ミアがいる――
だが、この扉を開けなければ、あいつの所に行くことはできない。戻って何か道具を探す時間もなかった。
「やっぱり、持って来てよかったな」
俺は、左腕に抱えていた銀の篭手を、右手にはめた。
チボーの、外れた右手の義手がしていた篭手だ。
中にあった機械仕掛けの義手を取り出すと、サイズは俺にぴったりだった。
「……」
腰を落とし、右手を大きく引いた。
葛城流の構えのまま、手首を垂直に曲げ、掌底による打撃の形にする。
呼吸を、整えた。
「――しッ!」
ごッ!
無心で、扉のドアノブを叩く。
衝撃が、右腕の骨を伝わり、まだ完治していない肋骨にまで響いた。
再び右手を引き、打撃。
ごッ!
ごッ!
ごッ!
ごッ!
なかなか頑丈な篭手だ。ほとんど傷ついているように見えない。
が、その中身である俺の右手は、この銀の篭手ほど頑丈ではないようだった。
もちろん、そんなことはどうでもいい。
叩く。
さらに叩く。
もう一度、叩く。
スチールのドアノブは、もはや原型を止めていない。
ごぎ――!
「く――ッ」
これまでとは違う衝撃が腕を痺れさせた。千切れたノブが、乾いた音を立てて床に落ちる。
どん! とドアに体当たりをした。
二度、三度、四度――ようやく、扉が開く。
「ミアっ!」
叫びながら、屋上に出た。
困ったことに、ここに来るだけで、かなりダメージを負ってしまったようだ。が、そんなこと、構うことはない。
「ッ――!」
声にならない、悲鳴。
その方向を見ると――ミアが、チボーの足元に、倒れ伏したところだった。
「ミアぁっ!」
俺は、無意識のうちにミアに駆け寄り、その小さな体を抱き起こしていた。
「う……!」
思わず、目を背けそうになる。
ミアの左眼が、大きな、赤い穴になっていた。
眼窩と同じくらいの穴から、鮮やかな血が溢れ、ミアの顔と髪をどっぷりと濡らしている。
ミアは、ぴくりとも動かない。
何か、凄まじい一撃が、ミアの左眼から脳髄を貫いたらしい。
「ぐ……っ!」
熱く、どす黒い何かが、俺の喉を塞いでいる。
それは――目の眩むような、激しい怒りだ。
「脳を、殺しました。しばらく、動けません」
俺の頭上から、ぜいぜいと喘ぎながら、チボーが言った。
かなり疲れているような、それでいて、ひどく満足げな声だ。
ミアの脳が再生するまで、どれほどの時間がかかるのか、俺には分からない。
しかし、それまで、ミアの体が動きを再開する事はないのだろう。
「さあ、どきなさい。これでようやく、私はそれをこの世界から追放することができるのですよ」
俺は、片膝を付き、ミアを胸に抱くようにしながら、視線を上に向けた。
チボーの血まみれの白い顔の中で、青い瞳が、ぎらぎらと輝いている。
「どくのです。……それとも、私のことを侮っているのですか?」
「……」
「確かに殺人は、十戒で禁じられた、犯すべからざる罪です。しかし、神が造り、愛し給うた人類という種にあだなす個人であるなら、私は、容赦しませんよ」
「……」
チボーが、俺の喉笛に、短剣を突きつける。
鋭い切っ先が、かすかに、食い込んだ。
ミアを抱えた状態で、この距離のチボーの一撃から逃れることは不可能だろう。
チボーと、自分自身の無力さに、視界が真っ赤になるほどの怒りを覚える。
ああ、これが――激怒という感情だったのか――。
「安心なさい。貴方や私が死んだ後も、人類は、神の愛のもとに、永遠に繁栄し続けます」
「――知ったことか!」
俺は、ミアを左腕に抱えたまま、右の一撃を放った。
銀の篭手をはめたまま、拳を一本拳の形にする。
短剣の刃が、俺の首筋を滑った。
構わず、突き上げるように、鎖帷子を着たチボーの腹部に拳を当て――
「がッ!」
インパクトの直前に、チボーの右足が、俺を蹴り飛ばしていた。
ミアをかばいながら、コンクリートで固められた屋上に転がるように倒れる。
ずきん、と刺すような痛みが、胸の内部で跳ねた。
「死になさい!」
迫り来る、チボーの短剣。
俺の次は、ミアの心臓か――?
くわあああああっ、と頭に熱い血が昇る。
そして――
――どくん――
俺は、声にならない、短い絶叫をあげた。
わずか、数秒。
その短い間に、悠久とも思えるような長い長い時間の記憶が、甦る。
砂漠/灰褐色/炎/祭壇/男/真紅/激痛/絶叫/快楽/停滞/闇/殺戮/血/温度/彷徨/別離/森/人狼/濃緑色/流転/北/氷雪/黒小人/腕輪/糸/棺/霜巨人/追放/眷属/街/狂気/菫/疾駆/鉤爪/獣/黒檀/暴風/乱舞/投石器/破壊/黒死病/燐/仮死/月/肉片/混沌/鏡/魔女/地下牢/拷問/鉛/流星雨/歯車/藍色/仮面/蒸気/対決/炸薬/飛行船/戦乱/孤独/絶望/憤怒/哀憐/愉悦/狂喜/覚醒/夢/夜行――
これ、は――
ミアの――記憶――か――
「な……!」
誰かが、驚きの声をあげている。
それが誰なのか、限界を超えて酷使された俺の脳は、思い出すことができない。
ただ、紅い奔流のように俺の脳からどこかへと流れる何百年分もの記憶を、茫然と眺め続けるだけだ。
それが、わずか、数秒。
三秒にも満たない時間の後、俺は、激しい頭痛に呻き声をあげた。
力を失った俺の腕の中から――ミアが、ゆっくりと、立ち上がる。
その長い髪に隠された頭部からは、今も血が溢れていた。
まだ、再生が終わっているわけではないのは、俺にだって分かった。しかし――
「結局、巻き込んじゃったわね」
滑らかな口調で、ミアが俺に言った。
血まみれの顔で、すまなそうに微笑む。
「馬鹿な――脳は、破壊したはず――」
チボーが、短剣を逆手に構えながら、じりじりと後退する。
「ええ、あたしの脳はね」
ミアが、壮絶な笑みで答える。
思い出した。
俺は、ようやく、思い出した。
体を重ねたその後に、自分がされたことを。
他人の記憶が、無理矢理に、自分の中に流れ込む、その感覚。
脳髄を、精神を、存在を、激しく陵辱される感じ。
強烈な痛みと――快感が、あった。
何世紀もわたる、昏く、寂しく、美しくて、そして冷たい、孤立した時間の堆積。
それを、俺は、この頭の中に流し込まれたのだ。
記憶――
ミアは、自分の記憶を――脳の機能を、俺の脳に退避させていたのだ。
この、目の前の吸血鬼は、今、俺の脳を使って動いている――。
一瞬――激しい嘔吐感が、俺の喉もとにこみ上げた。
「あたしの味わった苦痛と屈辱を、そっくり返してあげる」
ミアの右の瞳が、赤く輝いた。
今、ミアが何をしているのか、俺にも分かる。
ミアの視線が、チボーの絶望的な未来を選択し、視ているのだ。
「――ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいーッ!」
邪眼に睨まれ、奴が鳥のような悲鳴をあげる。
その声が、ふっつりと途絶えた。
顔は、痴呆のよう。
「記憶を、全て、消したわ」
赤い血と、白い脳漿にまみれた、壮絶に美しい笑みを浮かべて、彼女は、言った。
「あ、あ、あ、あああ……」
ぽっかりと口を開け、チボーが視線をさ迷わせる。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああー!」
そして、子供のような声をあげ、ミアに背を向けて走り出した。
軽がると、屋上のフェンスを跳び越える。
悲鳴が、尾を引いて響き、そして、聞こえなくなった。
地上一五〇メートル近く……そこから落下した物体がどうなるか、俺には想像もつかない。
奇妙な余韻を残した、静寂。
ただ、冷たい風だけが、吹きすさぶ。
「……ごめんね、鷹斗」
そう言いながら、ミアが、俺に振り向いた。
「自分勝手な言い分だけど……本当は、気付かれたくなかったわ」
俺は、両膝を付いたまま、立ち上がることすらできない。
少しでも体を動かせば、脳が破裂し、ぐずぐずに崩れてしまいそうだ。
「分かったでしょう? あたしは、鷹斗を利用していたの。あなたの存在そのものを、自分自身のバックアップにしたのよ」
「……」
「あなたに抱かれたのだって、そのための事だった……。ね、吸血鬼って、ひどいでしょう?」
「ミア……」
「まだ、頭の中に針が残ってる」
左眼を押さえながら、ミアが言う。
「今は、鷹斗とのチャンネルが開いてるからいいけど……」
「だ……だったら、治るまで、俺の傍にいればいいんだろ?」
「そうね……そうしたいわ」
冷たい風が、ミアの黒い髪と黒い服をなぶる。
「でも、それじゃあ、鷹斗がもたないもの」
「……」
「今だって、ひどい頭痛がしているでしょう?」
「それは……」
「圧縮を解かれたあたしの記憶の情報圧が、あなたの脳を破壊しかけているのよ。そのまま死んだり、発狂してしまっても、おかしくなかったわ」
確かに俺は、今、動くこともままならないほどの頭痛に苛まれている。
少しでも気を抜けば、痛みのあまり失神してしまいそうだ。
「大丈夫よ」
ミアが、自らの左眼から手を離し、言った。
ちゃりん、と軽い音を立てて、その手から何本もの針がこぼれ落ちる。
左眼は、再生していた。
「どうにか、必要最低限の部分だけは再生したわ。あなたの頭の中も、元通りにできる」
「……」
「あとは――あたしだけで、平気」
「ちょ、ちょっと待て……どこに行くつもりだ?」
「……内緒よ」
くすりと、ミアが笑う。
「傍にいると、また、鷹斗を頼っちゃうから……」
「おい……」
立ち上がりかけ、無様に膝を付く。それでも俺は、もがくように、立ち上がろうとした。
そんな俺を、ミアの赤い瞳が見つめている。
「これ以上……あなたに迷惑をかけたくないのよ」
ああ、また、その言葉だ。
「だから、さよなら。……それから、ありがとう」
「ま、待ってくれ、俺は――」
「もう、チャンネルを切るわよ」
ぷつん、と――
呆気なく、俺とミアを結んでいた何かが、切れた。
嘘のように痛みが収まり、そのことに安堵したかのように、体が眠りへと落ちていく。
口を動かすが、言葉を紡ぐことができない。
せっかく――
せっかく、お前に何て言えばいいか分かったのに――
暗転する視界。
そこから、ミアの姿が、消え去る。
そして俺は、がくりと、糸の切れた操り人形のように、屋上の上に崩れ落ちたのだった。