Night Walkers

夜行/百鬼



第七章



 日が沈み、辺りは次第に暗くなっていった。
 そんな中、チボーと名乗ったその男が、にこやかな笑みを浮かべている。
 しかし、その雰囲気は、とてもじゃないが友好的と言は言えない。
 背中を向ければ、後ろから強烈な一撃を見舞ってきそうな――
「どうしました?」
 チボーが言う。
 俺は答えない。
「魅入られているようには見えませんが……どうも、理解しかねますね」
 そう言って、チボーが足を踏み出す。
 まだ、俺の間合いではない。
 先に手を出させるか、こちらが先に手を出すか――
 そう、戦いは避けられない。半ば本能的に、俺はそのことを理解していた。
「私の言っている少女は、人類にとって危険な存在なのです。あなたは、気付いていないかもしれませんけどね」
「だから、どうした?」
「あれは貴方の手には負えないモノです。私が処理します。……協力してくれませんか?」
「断る」
「なぜです?」
「人の話を立ち聞きした上に、こっそり尾行してくるような奴は、信用できないからな」
「……」
 チボーが、小さく溜息をつき――流れるような動作で、一気に間合いを詰めてきた。
 それと同時に、左手で俺のジャケットの襟首を掴もうとする。
 右手を半回転させ、それを弾く。
 意外なほどの近距離で、俺とチボーは対峙した。
「分からず屋ですね、貴方は」
「よく言われるよ」
「ならば、腕ずくと行きましょうか――」
 何の予備動作もなく、チボーが俺の腹を目掛け、右の拳を繰り出した。
 速い――が、直線的な動きだ。
 ステップバックしてかわす俺の頭部に、右から、凄まじい速度の何かが襲いかかる。
 チボーの、左フックだ。
 素人のパンチではない。見切るどころか、体に当てないようにするだけで精一杯な速度である。
 大きく跳躍してそれを避けると、きちんと体勢を立て直し、俺の正面を向いたチボーが、今度は右の前蹴りを放ってきた。空手の有段者級の試合でも滅多に見られないような、流れるような連続技である。
 やはり、速い。後ろに下がっていては間に合わない。
「しッ!」
 鋭い呼気とともに、思いきって左斜め前に出る。
 チボーの右脚が、俺の右脇腹を掠める。打撃ポイントをずらしたにもかかわらず、かなりの衝撃だ。
 痛みをこらえ、右手で、チボーの右脚を絡め取る。
 このまま奴の股間を蹴れれば、“蛇蠍”だが、それだけの隙は無い。
 だから、左手を奴の膝に当て、一気に折ろうとする。“蛇蔓(へびかずら)”という技だ。
「ちいッ!」
 俺の意図に気付いたチボーが、俺に右脚を預けたまま、左脚を跳ね上げる。
「くっ!」
 チボーの右脚を放し、大きくのけぞる俺の目の前を、黒い靴が凄い速度で水平に通過した。
 俺とチボーは、ぐるりと体を回転させながら、互いに距離を取り合った。
 互いに、構える。
 俺は、両手を肩よりやや下に構え、突き出した人差し指と中指を鈎状に曲げた。
 一方チボーは、右の拳のみを肩の高さに構えた、半身の姿勢だ。
 恐ろしく変則的な構えである。右手で突きに来ると言葉にして言っているようなものだ。
 まるで、目に見えないフェンシングの刀を構えているようにも見える。
 予備動作が少ない分、攻撃は速いかもしれないが、うまく力が乗るとは思えない。
 黒い手袋を嵌めた、右の拳――
 そこに、どれだけの破壊力が秘められているのか。
 もちろん、フェイントということも考えられるが……。
「行きますよ」
 ご丁寧にもそう言って、チボーが、またも距離を詰める。
 速いことは速いが、やはり動きは直線的だ。
 そのまま、槍でも突き出すように真っ直ぐ、右の正拳を繰り出すチボー。
 それは、正確に俺の心臓を狙っていた。
「しゃっ!」
「ふっ!」
 俺とチボーの呼気が、交差した。
 正確であるがゆえに軌道のあからさまなチボーの右手首を、両手で掴む。
 そのまま、チボーの力を利用するようにしてふわりと浮き――右腕をひねりながら、畳んだ左脚を一気に伸ばして頭を蹴る。
 “天蠍”――。
 俺の足がチボーの頭を捕らえる寸前――
 ぶうん、と大きく体を振り回された。
 チボーの右手首を掴んだまま、上下感覚を失う。
 どっ! という衝撃とともに、俺は、自分が背中から地面に叩き付けられたことを知った。
 違う。叩きつけられたんじゃない。投げ飛ばされたのだ。
「な……?」
 俺は、両手でしっかりと掴んでいたチボーの右手に目をやった。
「――義手?」
「……私の言う少女にやられたのですよ。“カインの花嫁”にね」
 いつか、綺羅が呼んだのと同じ名前で、チボーがミアのことを呼ぶ。
 その服の右袖は、肘と手首の中間辺りで、だらりと垂れ下がっている。
「くそ……!」
 起き上がろうとする俺の胸を、素早く近付いたチボーが、右足で踏みつける。
 肋骨が悲鳴をあげた。罅くらいは入っただろう。
「脆いですね……一般人というのは、こんなにも華奢でしたか」
 まるで、俺の屈辱を煽ろうとするかのように、チボーが言う。
「さあ、あなたの負けです。“花嫁”の場所に案内してくれませんか?」
「ぐ……っ」
「“花嫁”が、他の吸血鬼どもの手に落ちれば……恐ろしいことが起こるのです。その前に、どうしても始末をつけなくてはならないのですよ」
 右足に、徐々に体重をかけながら、チボーが穏やかな声で言う。まるで聞き分けのない子供を諭すような口調だ。
 しかし、そのチボーの体重によって、俺の胸郭は、みしみしと音を立てるようにきしんでいる。
「……」
 俺は――タイミングを計り、そして、一気に仕掛けた。
「!」
 左手に渾身の力を込め、異様に重いチボーの右足をかすかに浮かし、右手でそれを横から叩こうとする。
 チボーの左足首の関節を破壊することを目的とした攻撃だ。
 それに、半ば本能的に、チボーは反応した。
 がッ! という衝撃が、顎から脳天に突き抜ける。
 チボーが、俺の左手を振り払い様に、右足で俺の顎を蹴り飛ばしたのだ。
 意識を弾き飛ばすには、充分な一撃。
「しまった――」
 そんな、チボーの呟きが、聞こえたような気がした。
 そして、俺は、完全に意識を失った。



 もうもうと湯気の立ち込める浴室。
 明るい色調のタイルや、つややかな人工大理石のバスタブも、しかし、綺羅の心を慰めることは無い。
 意識を回復すると、あの姉弟はどこかに消え、そして、手枷は外れていた。
 そして、澱のように体にまとわりつく、甘たるい性交の余韻を拭おうと、ほとんど本能的に風呂に入ったのだった。
 その、あまりにも日常的な場面において――綺羅は、自分が確かに吸血鬼であるということを、嫌と言うほど思い知らされたのである。
「……」
 たっぷりと張られた温かな湯から出て、綺羅は、小さく溜息をついた。
 そして、壁に吊るされたシャワーヘッドを見つめる。
 湯船に入るだけならば、どうということはない。しかし、シャワーから流れ出る温水に我が身を晒すことを想像しただけで、嘔吐しかねないほどの不快感が体内をせり上がる。
 ほんのかすかな水の流れでも、自らの体がそれに押し流され、この世から消えてしまいそうに思えるのだ。
 排水孔に湯が流れ込むのを見るだけでも、目眩がした。
 高めの温度に設定したシャワーに打たれること、ガーリックの利いた食べ物を口にすること、縁側で日向ぼっこをすること……かつて大好きだったそれらのことを思うだけで、今はおぞ気が走る。
 自分は、もはや、忌まわしい生ける死者なのだ。
「……生きてるって……どんなだったっけかな……?」
 人としての生きることをやめ、仮そめながら永遠の命を得た瞬間に、存在の意義を問う。
 そんな自分が、どこか滑稽で、綺羅は、我知らずくすりと失笑した。
 その時――
「!」
 広い浴室の中に立ち込める湯気が、さらに濃くなった。
 まるで、白い闇。
 その中に、ふうっ、と赤い光点が二つ、浮かび上がる。
「ノインテーター?」
「……こんな場所にいたのか」
 まるで面白がるような口調の、あの白銀の髪の吸血鬼の声が、響く。
「我らは別の世界の住人……念じるだけで、この世界の塵芥など、我が身から分離することはできように」
「あたしは、オフロが好きなんです」
 思わず、その形のいい胸と、股間の翳りを手で隠しながら、綺羅は言った。
「そうかな? それにしては、とても楽しんでいるようには見えなかったが」
 嘲弄するその声には、どこか憐憫の色さえある。
「体を洗ったから、もう帰ります。服を返してください」
 強い口調でそう言いながら、柳眉を吊り上げる綺羅。
「……ククククククク」
 ノインテータが、さも可笑しそうに笑った。
「そう言えば、あの娘も最初はそんなことを言っていたな。しかし、退魔師として数多の魂魄を無に還してきた身にしては、なかなか可憐なことを言う」
「……」
「とは言え――汝は、どこに帰るつもりなのだ?」
 その言葉に虚を突かれたように、一瞬、綺羅の表情が緩む。
 まるで、その隙を狙っていたかのように、八本の触手が空中から現れ、綺羅の体にまとわりついた。
「きゃっ!」
 初めて見るそのおぞましい器官に、綺羅が高い悲鳴をあげる。
 強い力でねじ上げられ、綺羅は、体を隠していた両手を広げさせられた。
 その目の前に、のろりと、触手のうちの一本が鎌首をもたげる。
 どこか、目の無い蛇を思わせるそれは、得体の知れない粘液に濡れ、表面には静脈が浮いていた。
 その、さらに向こうの靄の中、赤い光点が、ぎらりと光を増す。
「あう……っ」
 じわりと脳が痺れていく感覚に、綺羅は、声をあげた。
 触手の先端が、男根に酷似していることに今更ながらに気付き――かっと、体の奥底が熱くなる。
 いや、これは、間違いようも無く、ノインテーターその人の牡器官なのだ。
 靄の向こうで、半ば別次元に身を置きながら、炯々とその瞳を赤く光らせている吸血鬼のペニス。
 そう思うだけで、自分の中の最も浅ましい部分が、甘く疼く。
 ゆっくりと、目の前の触手が、綺羅の朱唇に近付いてた。
 鼻孔を刺激する、むっとするような牡の匂い。
 生理的な嫌悪を――圧倒的な欲情が駆逐していく。
「あ……ぁぁ、ぁ……ぁ……」
 わななく柔らかな唇に、触手の先端が触れる、生々しい感触。
 そのまま、ぬるりと口腔に侵入する。
「んぶっ……」
 自らの意思を無視され、性器を咥えさせられるという屈辱が、そのまま、マゾヒスティックな官能に変わっていく。
(だ、だめ……こんな……こんなにあっさり……)
 ずるり、ずるりと口内をこすりあげる、逞しいペニス。
 それが、今、自らを支配しつつあるの者の器官であることに、奇妙な悦びが湧き起こる。
「ん……んぐ……んっ……んうぅ……」
 不自然なまでに敏感になった口蓋や舌を、丸い先端でこすられる。
 それは、誤魔化しようのない、明らかな快感だった。
 まるで膣内をいきり立った剛直が抽送しているような淫楽。
 口を性器に見立てられているということにすら、倒錯した悦びを覚えてしまう。
(そんな……なんで……なんで、こんなに感じるの……?)
(いけない……どうにかしないと……)
(あたし……あたし……)
 しかし綺羅は、唇を犯し、口内を陵辱するその触手に、例えば歯を立てたりすることなど、思いも寄らない。
 それどころか、その舌は、綺羅の意思をあっさりと裏切り、いじましく口内の触手にまとわりつき、からみついていた。
 さらに、唇は触手を締め上げ、喉は触手を吸引している。
(そん、な……)
 自らの体のはしたない反応に、綺羅が、目尻に涙を浮かべる。
 目を閉じた拍子に、それが、滑らかな頬を伝った。
 そして、再び開いたその目の中には――今まで辛うじて残っていた理性の光が、消えうせてしまっている。
(だめ……あたし、もう……)
 絶望が、そのまま心地よい痺れとなり、体の奥の官能の疼きと響き合った。
 次第に、戒められた両腕から力が抜け、ぴったりと閉じていた脚も、しどけなく開いてしまう。
「んっ……ふぅン……んぐ……んっ、んふン……うン……」
 まるで、主人に媚びる犬のような声が、浴室に響く。
 綺羅は、いっそう大胆に舌を使いながら、口内の触手の快楽を高めていった。
 それに報いるように、いっそう激しく触手が蠢き、綺羅の口腔をこすり上げる。
 さらには、他の触手たちも、表面から怪しげな粘液を分泌させながら、綺羅の体をまさぐり始めた。
 赤黒い触手が、半球型の白い乳房をなぶり、その形を変える。
 なだらかな背中には、まるで蛞蝓が這い回った跡のような粘液のぬめりが縦横に走った。
 さらに、長い脚に螺旋状にまとわりついた触手が、その先端で、綺羅の秘めやかな部分の周囲を撫でまわす。
 しかし、触手たちは、じっとりと蜜に濡れた綺羅の牝の中心を、無視し続けた。
「んうッ……んうゥ……んン……んう〜ン」
 口を犯す触手がもたらす快楽に脳を蕩かせながら、綺羅は、もどかしげに腰を揺らした。
 それでも、触手は、ぱっくりと開いた陰唇をなぶるのみで、挿入に至ろうとしない。
「んうっ、んっ、んんんんんんん!」
 頭を振る綺羅の動きに合わせて、水分を含んだ長い髪が揺れ動く。
 いつしか綺羅は、自分から腰を前後に動かしていた。
「んふぅ……んぐ、ふぅぅ……んんんーッ!」
 全身を愛撫され、この世ならぬ快楽に身悶えながら、最も肝心な場所を放置されるもどかしさ。
 溢れ出た蜜に濡れた秘肉までも、剛直を待ちわびるようにひくひくと息づいている。
「ぷあぁ……」
 ずるりと、口内に収まっていた触手が、引き抜かれる。
 唾液と、得体の知れない粘液にまみれた凶暴な外観のそれを、綺羅が、狂おしいほどの瞳で見つめる。
「お、おねがいです……」
 はぁっ、はぁっ、と発情した犬のように喘ぎながら、綺羅は言っていた。
「入れて……入れてください……でないと、あたし、おかしくなっちゃう……!」
 そして、大きく腰を突き出し、形のいい脚を左右に広げる。
 その整った姿態に似合わない、卑猥と言ってもいいような格好だ。
 触手が、ゆっくりと位置を下げ、濡れそぼる綺羅のクレヴァスに狙いを定める。
「あぁン……は、早く……早く入れてェ……!」
 がくがくと体を揺らしながら、はしたなく叫ぶ綺羅。
 その、蕩けそうに柔らかくほぐれた靡肉に、くちゅり、と触手が頭をもぐらせる。
「あ、はぁ……っ」
 綺羅が、期待に満ちた声をあげる。
 それに応えるように、長大な触手が、ずりずりと綺羅の体内へと侵入をはじめた。
「あぐっ……あ、ああン……お、おっきい……っ♪」
 苦しげな歓喜の声をあげながら、綺羅が白い喉を反らす。
 触手の先端が、一番奥にまで到達した。
 と、触手が、ピンク色の肉襞をめくり上げるようにしながら、ずるるる……と後退する。
「や、やぁっ……抜けちゃう……」
 綺羅が、それを追いかけるように、さらに腰を突き出す。
 と、抜ける寸前にまで後退した触手が、再び前進を始めた。
「ひああああああああん!」
 ずずずずっ、ずずずずっ、ずずずずっ、ずずずずっ……。
 次第にペースを速めながら、触手が、抽送を繰り返す。
 ずるるっ、ずるるっ、ずるるっ、ずるるっ……!
 大きな動きで出入りする、笠の張ったペニスに掻き出されるように、愛液が溢れ出、飛び散る。
「あッ! ひあああン! あうっ! あン! ああン! ンあああああッ!」
 限界まで焦らされていた体は、その容赦のない動きに、一気に絶頂にまで舞い上げられた。
「ひッ! ひあぅ! イ、イク! イクぅ! イっちゃううッ!」
 ずうん、ずうん、と子宮口を小突かれ、綺羅はあからさまな言葉を叫んだ。
「も、だめェ……やあッ! ホ、ホントに、もう……あッ! あああッ! ひあああああッ!」
 きゅうううっ、と膣肉が収縮し、逞しい肉棒を締め上げる。
 その動きに誘われるように、触手が、ぐうっと膨張し――そして、一気に大量の精液を迸らせた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
 びゅううッ、びゅううッ、びゅううッ……と、膣奥を、まるでつぶてのように粘度の高い精液で叩かれる感触に、綺羅は、さらなる高みへと押し上げられる。
「ひ、ひあああぁぁ……す、すごい……あうッ……あ、ああぁン……」
 体を鋭く貫くような、硬質の快感。
 その、鮮烈なエクスタシーを断続的に感じながら、綺羅は、ひくひくと体を震わせた。
「あ、ああぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
 吸血鬼には必要ない行為でありながらも、本能的に、綺羅は呼吸を整える。
 と、あれだけ精を放出しながら、全く硬度を失っていないノインテーターのペニスが、不意に、ずるりと抜かれた。
「はぅン……!」
 ごぽり、と白濁した液が溢れ出そうになったその秘裂に、別の触手が素早く頭を潜り込ませた。
「ひあ……」
 そのまま、ずるん、と一気に膣内に侵入する。
「ああああッ!」
 ぶじゅる、ぶじゅる、と中に残っていた精液を掻き出すような動きを見せながら、第二の触手が綺羅の体内を攪拌する。
「あ! ンああああッ! そ、そんな……少し、休ませて……ンひいいいッ!」
 絶頂を迎えたばかりでまだ敏感な体内を容赦なく抉られ、綺羅が苦痛と快楽の入り混じった悲鳴をあげる。
 しかし、触手の動きは止まらない。
「あ、あぐううッ! だ、だめ……またイク……イっちゃう……イクぅ……ッ!」
 ほどなく、ほとんど強制的に絶頂に追い込まれる綺羅。
 それを察したように、第二の触手も、大量の精液を綺羅の体内に注いだ。
「はあああああああッ! す、すごい……また……あ、ああああああッ!」
 余韻に浸る間もなく、次の触手が、綺羅を犯す。
 もはや綺羅は、強烈過ぎる絶頂と絶頂の合間に、辛うじて意識を保つのみだ。
 まるで、暴風や荒海に飲み込まれ、翻弄され続けるような、異形の交わり。
「あーッ! あーッ! あーッ! あああああああーッ!」
 体の内と外の両方に、大量の精を浴びせ掛けられながら、綺羅は、いつまでも絶叫をあげ続けていた。



 固く冷たい床の感触だけが確かな、静かな暗闇。
 その闇の中で意識を取り戻し、自由を奪われていることを知った。
 両手は、体の前で手錠で戒められ、足はロープで縛られている。
 最初に起きた時は、陳腐な言い方だが、頭が割れるように痛かった。顎もずきずきと疼いたが、それでも、歯は折れていないようだ。
 次第に、それらの痛みは治まってきたが、代わって、手足が痺れてきた。
 このまま、血行が妨げられてはまずいことになる。俺は、どうにか身をよじり、手足の先にまで血を巡らせようと努めた。
 その度に、折れた肋骨が、痛みとともに存在を主張する。
 そんなことをしているうちに、いつのまにか眠りに落ち、また目覚める。
 相変わらずの闇の中だ。
 眠りが浅かったせいか、意識がはっきりしない。
 鬱血を避けるために、芋虫のように体を動かしながら、断続的に眠った。
 時間の感覚が、次第に鈍磨していく。
 あれから、一日以上は経過しただろう。もしかすると、二日かもしれない。
 唐突に、鉄がきしむようなドアの開く音が響き、部屋に明かりが灯った。
「……?」
 眩しさをこらえ、周囲を観察する。
 窓のない、小さな部屋だった。
 コンクリート剥き出しの床や壁は薄汚れ、天井からは、裸電球がケーブルで吊るされている。おそらく、何らかの建物の地下室だろう。
 そして、目の前には、チボーの黒い靴があった。
 視線を上に上げると、色ガラスを連想させる青い目が、俺の顔を見下ろしている。
「先ほど、貴方のお宅にお邪魔しました」
 チボーは、その白い顔に、かすかに苦い表情を浮かべながら、言った。おそらく、免許証か何かから、住所を探ったのだろう。
「一足違いだったようで、“花嫁”はいませんでしたよ」
「……別に、俺は家に誰かいるなんて言ってないが」
 そう喋るだけでも、喉が辛い。思えば、ここに入れられてから一滴も水分を取っていないのだ。
「誘導尋問には引っかかりませんか」
 言いながら、チボーは膝を付いて、俺の顔を覗きこんだ。
「しかし、その態度だけでも、彼女をかくまっているということは知れますよ」
「……」
「まあいいです。もう、貴方から、何か聞き出そうという気持ちはありません」
「そいつはどうも」
 そう言う俺の襟首を、ぐい、とチボーが掴む。
 あの、黒い手袋をした右手だ。義手とはいえ、きちんと指は動くらしい。
 それどころか、まるで万力にでも挟まれたような感触がある。
「貴方は人質です。いえ、彼女をおびき出すための餌になってもらいます」
「……」
「それが、どれだけ有効な策かは分かりませんが、できるだけの手は打つ。それが、私の遣り方です」
「ご苦労な事だな」
「神は自ら助くる者を助く、ですよ」
 面白くも無さそうに言って、俺を無造作に床に投げ出す。
 満足に受身が取れない身では、まともに背中から床に落ちるしかない。肋が、ずきりと痛んだ。
「死なれてしまっては色々と厄介ですので、殺しはしません。貴方も、絶望して自殺などしないで下さいね」
「……大きなお世話だ」
 胸の痛みをこらえながら、どうにか言う。
「食事です」
 そう言って、チボーは、左手に下げていたビニール袋を床に置いた。中味は、いくつかのパンと、水の入ったペットボトルのようだ。
「トイレは、部屋の隅にあるあの排水口を使ってください。手錠をされていても、ズボンくらいは下ろせるでしょう?」
「……」
 黙っている俺を、チボーが不思議そうに眺める。どうやら、俺が怒りを顕わにしないのをいぶかしんでいる様子だ。
 だが、胸のうちにくすぶる、このどす黒い何かを“怒り”と呼ぶのなら、俺は、確かに怒りを覚えていた。
 ただ、この状態では反撃のしようがない。それで、無駄な体力を消耗しないように、おとなしくしているのだ。
「奇妙な人ですね、貴方は」
 自分の事を棚に上げるように、チボーが言った。
「もちろん、吸血鬼に協力するような人を理解できるとは思ってませんけどね。しかし――宗教や信仰の無い国というのは、恐怖に値しますね」
 言いながら、チボーが芝居がかった態度で、両手を広げる。
「……」
「彼女が、私の想像以上に、貴方を大事に思っていることを願っていますよ。貴方のためにもね」
 そう言いながら、チボーは振り返り、スチール製のドアを開けた。
「――ところで、貴方は、彼女の何なんですか?」
「……」
 俺は、答えない。
 答えようがなかった。
 そして、自分自身が、そのことを知りたいと思っていることに、今、気付いた。
「まあいいです。では、失礼」
 電球のスイッチを切り、チボーがドアを閉めた。
 鍵のかかる音。
 暗闇の中、俺は、ぼんやりとミアのことを思い出した。
 俺の脳裏に浮かぶその顔は、なぜか、怒ったような、呆れたような顔をしていた。



 ベッドの上――
 馬鹿馬鹿しいほどに広い部屋の中、一人きりだ。
 時さえも淀んでいるような気だるいまどろみの中――綺羅は、かすかにその音を聞いた。
 遮光カーテンの奥にあるガラスが立てる、硬質のわずかな響き。
「……?」
 綺羅は、かつての彼女からは考えられないほどのろのろと上体を起こし、その方向に顔を向けた。
 きぃぃぃぃ……
 日常の中で、滅多に聞ける音ではないが、綺羅は、それが何かを思い出していた。
 専用の器具が、ガラスを切っている音だ。
 その音が、止む。
 そして、かちっ、という、窓のクレセント錠が開けられる音が響いた。
 ベランダに面した、天井にまで達する大きな窓が開けられる気配。
 夜気が、ふわりと分厚いカーテンを動かし――そして、黒ずくめの男が、部屋に入ってきた。
 思わず綺羅は、その裸体にシーツを巻きつける。
 黒いジャケットと、黒いシャツに、黒いスラックス。さらに、頭に黒い目出し帽を被った男が、綺羅の方を見る。その左手に、大きな紙袋を持っているのが、どこか場違いだ。
「誰……?」
 そんな綺羅の問いに、男の鳶色の目が、にっと笑った。
 そして、あまり緊張感を感じさせない動きで、するっ、と目出し帽を脱ぐ。
「綺羅ちゃん、元気してた?」
 額にばさりとかかった、やはり鳶色の髪を撫で付けながら、男は言った。
「ろ、緑郎さん?」
「しーっ」
 呼ばれて、男――緑郎が、わざとらしく人差し指を口元に当てる。
「オレに会えて嬉しいのは分かるけど、歓喜の叫びは控えてくれるかな?」
「ど、どうして……? 助けに、来てくれたんですか?」
「そだよん」
 ひどく軽薄な口調で言いながら、緑郎は、持ってきた紙袋をごそごそと探った。
「えーと、綺羅ちゃんのサイズも好みもイマイチ分からなかったんで、ラフな服でガマンしといてね。あとでスリーサイズなんか教えてくれると、今後こーいうコトはないんだけど」
 そう言いながら、地味なトレーナーとジーンズを取りだし、床に放る。
「……」
 綺羅は、それを、痛ましいと言ってもいいほどの瞳で、見つめた。
 その目の中に、かすかな赤い光が揺らいでいる。
「あたしは……もう、帰れません」
「?」
「だって、あたし……吸血鬼になっちゃったんですよ?」
「みたいだねー」
 こともなげに、緑郎は言った。
「ま、ここから出たくないなら、それでも実はよかったりすんだけどね」
「は?」
 思わぬ緑郎の言葉に、綺羅は目を見開く。
「綺羅ちゃんの好きにすればいいってコトだよん。オレの知らないイロイロな事情が絡んでるみたいだし」
 口調とは裏腹に、ひどく酷薄なことを、緑郎は言ってのける。
 綺羅は、そんな緑郎の、いつもと変わらない顔を、しばし茫然と眺めた。
「どうも、まだ心ここにあらずって感じだねぇ」
「それは……その……」
「ただ、残念ながら、あまり思い悩む時間はなかったりする」
 言いながら、緑郎は腕時計を確認した。
 そして、再び、綺羅の顔に視線を向ける。
「――ホントはね、オレの目的は、ここに囚われてるお姉ちゃんと弟くんだったりするんだわ」
「え……?」
 綺羅が、その形のいい目を丸くした。
「じゃあ……あたしは、ついでなんですか?」
「そゆこと」
 にやっ、と緑郎は綺羅に笑いかけた。
「行方不明になってるその二人を探してほしいって依頼を取りつけてるんでね」
「そう――ですか」
「がっかりした?」
「……」
 綺羅が、どんな表情をして言いか分からないといったような顔で、緑郎の顔を見つめる。
 しかし緑郎は、全くいつも通りの表情で、そんな綺羅の視線を受け止めていた。
「で、どーすんのかにゃ?」
「……どうしちゃいましょうか?」
「もし、オレがこれからすることを綺羅ちゃんが助けてくれるんだったら、すごく助かったりするんだけどね」
「あたしも――助けられるよりは、助ける方がいいですねー」
 ようやく、いつものペースを取り戻したように、綺羅が言った。
「じゃ、そーいうことにしよう。子供たちがいる部屋って、どこか分かる?」
「見当はつきます。あ、それより、あっち向いててください。服着ちゃいますから」
「うーん、今の綺羅ちゃんに背中を向けるのは、ちょっと覚悟が要ったりして」
 そう言いながらも、緑郎はくるりと素直に振り返った。
「覗いたら、彼女さんに言いつけますよ」
「そ、それだけはカンベンして」
「まったく、だらしないですねえ……。はい、もういいですよ」
 再び振り返った緑郎に、トレーナーとジーンズという姿の綺羅が笑いかける。
「……でも、よくここが分かりましたね」
「ま、ね。実は、オレ一人の力でここを探り当てたわけじゃないんだわ」
「さっきから、窓の外で聞き耳立ててる人のことですか?」
 そう言われて、緑郎は、ちらりと窓の方に視線を向ける。
 と、遮光カーテンの向こうから、小さな影が現れ出た。
「いつまでも気付かれなかったらどうしようかと思ったわ」
 姿を現した、大仰なデザインの黒服をまとった幼い顔の少女が、大人びた口調で言う。
「ミアさん……で、いいんでしたっけ?」
「ええ。ぜひそう呼んでほしいわ」
 黒髪の吸血鬼――ミアが、かすかに微笑む。
「緑郎さん、隅に置けませんね。あんな可愛い彼女さんがいるのに、またこんな小さい子に手を出して」
「そ、そりゃ誤解だよ、綺羅ちゃん」
 緑郎が、慌てた声をあげる。
「そもそも、ミアちゃんの方から、オレの事務所に来たんだよ。綺羅ちゃんを探しにね」
「あたしを探しに?」
「ええ。いろいろ訪ね歩いているうちに、行き当たったの」
 ミアが、緑郎に代わって答える。
「まあ、確かに、ミアさんの予備知識と、緑郎さんの情報収集能力があれば、ここを割り出すのは難しくなかったでしょうね」
「そういうことよ」
「でも、どうしてですか?」
「どうしてって……何のことかしら」
「まさか、ミアさんがあたしなんかを助けるために動いてくれるなんて、ちょっと信じられないんですけど」
「それは、まあ、そうね」
「別の目的があるんでしょう?」
「……」
 ミアが、表情を消し、沈黙する。
「あのさあ」
 緑郎が、二人の会話に割って入った。
「お話もいいんだけど、こーしてる間に、ノインテーターの旦那が現れたらどーするのさ?」
「彼なら、今はこの世界に出てこれないわ」
 確信ありげに、ミアが言う。
「同時に幾つもの実体を有するということは、逆に、この次元に全く存在できない時間が生じるということなのよ」
「うーん、そんなコト言われてもねー」
 半信半疑、と言うより、理解する努力を放棄したような顔で、緑郎が頭を掻く。
「緑郎さんは、時間が無い、って言いたいんでしょう」
「そうそう」
 綺羅の言葉に、緑郎が肯く。
「でも、あたしとしては、ミアさんがどういうつもりなのか、訊いておきたいですねー」
 口元に笑みを浮かべながら、綺羅は続けた。
「何となく、想像はつくんですけど」
「分かったわ。どうせ、あとでお願いしようと思っていたことだもの」
 ミアは、そう言って、ひどく真剣な瞳で、綺羅の顔を見つめた。
 そして、しばし間をおいて、口を開く。
「鷹斗を助けるのを、手伝ってほしいのよ」

第八章

目次

MENU