第五章
太陽が大きく西に傾くころ、俺は、タンデムにミアを乗せたまま、橋を越えた。
殺風景な埋立地に至る、大きな橋である。
人工の陸地によって切り取られた細長い海を越えたとき、ミアが、初めて、俺の服をぎゅっと掴んだ。
なんと言うことのない真っ直ぐの道だ。ミアがバランスを崩すようなことがあるとは思えない。
「どうした?」
橋を渡りきったところでバイクを停め、振り返って訊く。
「ん……もう、大丈夫よ」
ということは、今までは大丈夫でなかったということなのだろうか。
「吸血鬼はね、水を越えるのが苦手なのよ。前にここに来たときは、陸伝いに来たから、何とも思わなかったんだけど」
「へえ……」
「水は――特に、速い流れの水は駄目ね。何でだかは、うまく説明できないけど……もしかしたら、自分が、世界の時間の流れを誤魔化し、抗いながら、それに溺れそうになっていることを思い知らされるからかもしれないわ」
「……」
時間の、流れ。
その言葉に、何かを思い出しかける。
もちろんそれは、あの、燃えるような朱色の山の中での記憶に関することで――
とても大事なことなのに、なぜか忘れている。
いっそミアに訊こうかとも思ったが、どう訊いていいかさえも分からなかった。
「さ、早く行きましょ。あまりたくさんの水は見ていたくないの」
「分かったよ。帰りは、大回りする」
「――ありがと」
「けど、意外と繊細なんだな」
「もう、ひどい言い方」
幼さを残した声で、大人びた口をきくミア。
「じゃあ、行くぞ」
短く言って、バイクを再スタートさせる。
しばらく走っていると、あの、建設途中で廃棄されたビルの廃墟が見えた。
半ばから上が鉄骨剥き出しになった異様な外観が、黒いシルエットになって夕暮れの空に浮かび上がっている。
「ああいうの、この国じゃあ水蛭子って言うのよね?」
「何だそれ?」
「未完成のまま産まれてしまったモノのことよ。あなた、自分の国の創世神話も知らないの?」
呆れたように言ったきり、ミアはそれ以上説明しなかった。
そうこうするうちに、廃ビルの敷地に着く。
立ち入り禁止の表示を無視し、塀の中に入ると、バイクを停めた。
ふわりと降り立ったミアが、両腕の手首にはめられた腕輪のうち、右手のものを外した。
「いいのか? それ、お前の――武器、なんだろう?」
「嫌な言い方ね。まあ、そうには違いないけど」
軽く俺を睨んでから、跪き、ことん、と無造作に腕輪を地面に置く。
そして、細い指先で触れながら、ミアは、しばし目を閉じた。
短いような、長いような、時間。
そして、ゆっくりと、ミアは立ち上がった。
「終わったわ」
「それだけか?」
「これだけよ」
こともなげに、ミアは言う。
「これで、あの腕輪はモロイたちを呼び寄せるし、それから、普通の人間達を近付けないようにするわ。まあ、不吉な予感を抱かせるくらいの力しかないし、効果も一晩くらいしか持続しないけど」
「便利なもんだな」
「そうね。この国の言葉で言うなら結界ってやつよ」
「いや……あまり聞いたことのない言葉だ」
「全く、自分の住んでいる場所の文化をないがしろにするのにも程があるわよ」
ミアが、腰に手を当て、呆れたような顔をする。こうして見ると、人形みたいに整った顔のくせに、意外と表情が豊かだ。
「それに、そもそも思念なんて言われても、ピンと来ないしな」
「鷹斗って唯物論者なの?」
「唯物論でも無神論でもないな。たぶん、懐疑論者だ」
「用心深く何ものも信用しようとしない、賢明なる臆病者ね」
挑戦的に言い、挑発的に笑うミア。
「でも、あたしは、あなた達が手に触れることの出来ない思念――つまり心を、操ることができるわ」
そう言いながら、再び、タンデムに横座りするミア。
「それはきちんと経験したよ」
「――そんな怪物が傍にいて、鷹斗は怖くないの?」
「怖いっていうのが、どういうことなのか、今ひとつピンとこないんだ」
ヘルメットを被り、バイクのエンジンをかける。
「俺にむりやり格闘技を教えた師匠の方が、よっぽど怪物じみてたしな」
「ふうん」
「でも――不思議ではあるな。それって、やっぱり催眠術なのか?」
「たぶん、鷹斗が今イメージしてるのとは、だいぶ違うわね」
ミアは、しばらく黙ってから、続けた。
「そもそも鷹斗は、心って何だと思う?」
「さあ? 学校で哲学は取ってないし」
そもそも、そういう質問は……一番苦手だ。
「いろいろな言い方ができるでしょうけど――あたしに言わせれば、ヒトの心っていうのは、その人だけの“時計”ね」
「時計?」
橋を渡らないルートを選んで道を進みながら、俺は聞き返す。
「ええ。人は、一瞬前の世界を鑑賞し、一瞬後の世界に干渉するため、心を働かせるわ。その流れこそが、心理的な時間の矢――そして、自らの内なる時間を静止させて思索に耽り、内なる時間を飛躍させて直観を得る……」
どこかうっとりとした口調で、ミアは言った。しかし、その言葉の半分も、俺には理解できない。
「明日を予想し、昨日を追想し、未来を夢み、過去を顧み、希望に笑い、記憶に涙する――その、個人的な時間の振幅、時計のリズムこそが、心の本質なのよ」
「哲学って言うより、詩だな、それって」
「それは、褒め言葉?」
「単なる感想だよ」
「まあ、いいわ。でね、あたしたちは、完全に独自の時間を生きているがゆえに、その、あくまで個人的なはずの時間――精神活動に、同調できるの。つまり、比喩的な言い方をするなら、心を重ねることができるわけよ」
「重ねて、乗っ取って、そして、操る――?」
「ええ」
どこか、自嘲を含んだ、ミアの短い答え。
「でも――鷹斗みたいな朴念仁の心は、操りきれなかったけどね」
そして、そう言うミアの声は――なぜか一転して、妙に嬉しそうだった。
同じ、暗い夕暮れの空。
それを背景にして立つ、濃いグリーンのスーツを着た、長身の金髪の男。
彫りの深いその白皙に浮かぶ微笑みは、しかし、どこか作り物めいている。まるで血の通わぬ蝋人形のようだ。
那須野は、病院の屋上で、それを見ていた。
屋上の、安全のためのフェンスの外側だ。充分に広いとは言え、危険な場所であることは分かりすぎるほど分かっている。
自分の意志で来た訳ではない。気が付くと、車椅子に座ったまま、そこにいたのだ。
今すぐにでも、すぐ近くにあるフェンスの扉から、安全な場所に逃げ込みたい。
だが、これまでリハビリを怠っていたために、体は満足に動かなかった。
そんな那須野を、目の前の男は、青い眼で見つめ続けている。首が、きつく固定されているため、那須野は、顔を背けることさえできない。
ジョバンニ・バッティスタ・チボー。
もちろん那須野は知らないが、それが、この白人の名前だった。
「もう一度訊きましょう」
チボーは、滑らかな日本語で言った。
「その場所では、貴方と、貴方の仲間と、貴方が拉致した女性の他には――その若い男しか見なかったのですね?」
「そ、そうだ……」
しゃがれた声で、そう答える。
この異様な状況の中、ただでさえ弱い意志力は萎え、泣きたいような焦燥感だけが、那須野を喋らせている。
早くこの問答を終わらせて、建物の中に入れて欲しい。
もし満足に話すことが出来たなら、恥も外聞もなくそう喚いていたはずだ。
いや、それとも、目の前の男の異様な雰囲気に飲まれ、今と同じ状況に陥っていたろうか。
ただただ、那須野は、チボーに問われるままに、あの夜の情況を話すだけだ。
とても、この乾いた笑みを浮かべる男に逆らおうなどという気にはなれない。
「十代初め位の、髪の長い黒服の少女は見なかった、と」
「あ、ああ……」
「ここで、写真を見せて確認したいところなんですが……その少女は、写真に写らないんですよ」
そう言って、チボーは、耳障りな息を漏らした。もしかするとそれは笑い声だったのかもしれない。
「で、あなたの首をへし折った男の名前は?」
「し、しらない……しらないやつだ……」
「そうですか?」
言いながら、チボーは、その黒い革靴で、車椅子を軽く蹴り飛ばした。
「や……やめ、やめぇ……っ!」
恐怖に目を見開き、出ない声で必死に制止する。
「思い出してください。私は、日本の警察に友好的な知り合いがあまりいないんです。貴方だけが頼りなんですから」
言いながら、さらに車椅子を足で小突く。
片方の車輪が、半分、屋上の端からはみ出た。
「は、はむろ……はむろだ……!」
「ハムロ?」
「おもいだした……はむろだよ……そ、そう言っていたんだ……!」
「なるほど。どうも、珍しい名前のようですね。それを当たってみますか」
考え込むチボーを、那須野が、血走った目で見る。
「――貴方が傷付けた女性に会うのは、正直、私としても気が重いですしね」
その声の響きに、初めて、感情らしきものが混じる。
嫌悪と、非難と、侮蔑が。
「助けてほしいのですか?」
口調を改め、優しげにチボーが訊いた。
肯こうにも首は固定され、傷めた喉はもう声を出すことが出来ない。那須野は、ただ、病んだ犬のように喘ぐだけだ。
「悔い改めなさい」
にこりと、チボーが満面の笑みを浮かべた。
「唯一にして絶対なる神に、全ての罪を告白しなさい。そうすれば、愛と赦しと平安は、いかなる人にも平等に分け与えられます」
その言葉に、那須野が、滂沱の涙を流す。
それが、チボーの言葉に安心したためか――相変わらず作り物めいた笑みに怯えてのものか、那須野自身にも分からない。
「では、さよならです」
軽い調子でそう言って、チボーは、那須野の乗った車椅子を、無造作に足で押した。
「――!」
声にならない声をあげて、地上七階の高さを、那須野が、石のように落下する。
硬く、重い、音――。
その音を聞いても、チボーは、笑みを浮かべたままだ。
「ああいう人は、死を前にしないと、真剣に悔い改めてくれませんからね」
呟き、チボーは、悠々とそこを立ち去った。
「これで、もう帰っていいわよ」
夜中――。
一人だけの夕食を済ませ、例の廃ビルの敷地にミアを送り届けた俺に。彼女はこともなげに言った。
頭上には欠けた月。
その光が、濡らすようにミアの艶やかな黒髪を照らしている。
「え?」
「もうすぐ、モロイたちが来るわ。ここは危険よ」
「……」
俺は、黙ったまま、動かない。
「ねえ、聞いてるの?」
言いながら、優雅な一動作で地面に置きっぱなしだった腕輪を取り、手首にはめる。
「聞こえてるよ」
「だったら……」
「けど、お前の言うことを聞くわけにはいかないな」
俺の言葉に、ミアが、弓型の眉をしかめる。
「まさか好奇心で言ってるんじゃないでしょうね」
「もちろん」
「じゃあ、何? 責任感? だったら、鷹斗が感じる筋合いのものじゃないでしょう? この件は、完全にあたしの不始末だったんだし」
「多分、それも違う」
「じゃあ――もしかして、心配してるの?」
「……それが、一番近いかもな」
俺の答えに、ミアは少し目を見開いた。
「言っておくけど、モロイなんて出来損ない、あたしにとっては敵でもなんでもないのよ」
「でも、お前……病み上がりみたいなものだし」
ミアは、ふぅ、と溜息をつく。
「あのね……あたしの敵じゃないとは言っても、鷹斗にとっては、間違いなく脅威なのよ。少しは体の動かし方を勉強しているみたいだけど、そんなもの、成り損ないとは言え吸血鬼の前には、役に立つとは思えないわ」
「だろうな」
俺は、ミアと、あの綺羅という女の対決を思い出した。あれはまさに人間の戦いではなかったし、ヒトの動きでもなかった。
「理屈としては分かる。けど、俺がここにいたいってのは、理屈じゃないんだ。だから、論理的に説得されても、俺は動かない」
「感情の問題ってこと?」
月明かりなので、よく分からなかったが――ミアの頬が、少し、赤くなってるように、見えた。
「きちんと説明できない」
正直に、俺は答える。
「もう!」
ミアは、なぜか怒った声をあげた。
「知らないわ。全く――本当に変な人」
「もし、無理矢理に帰そうって言うなら……」
「しないわ、そんなこと」
言って、ぷい、と顔を背ける。
「もう――来ちゃったもの」
言われて、俺は、ミアの視線の先に顔を向けた。
近付いてくる、気配。
放棄されたままの錆び付いた建築資材の山の陰から、ひたひたとこちらに近付きつつあるモノが――三つ。
「予定より早いわ。よほどひどい飢えに苛まれてるのね」
そう一人呟きながら、腕輪に仕込まれた涙滴型の錘を引き、銀色の糸を繰り出す。
「下がってて。それから、できれば物陰に隠れて……目を閉じて耳を塞いでてくれると、なおいいんだけど」
「最初の奴だけ、了解だ」
言って、数歩、後に下がる。
そんな俺に、ちら、と非難がましい視線を向けてから、ミアは気配の方向に向き直った。
闇の中に浮かぶ、三対六つの赤い光点。
それが、月明かりの差す領域に、足を踏み出す。
「――」
生理的な嫌悪感から、俺は、思わず息を飲んでしまった。
ぼろきれのような布をまとった、人の形をした何か。
返り血が固まったのか、自ら腐敗し始めているのか、黒に近い色に変色した干からびた肌。ある種の昆虫のようにぎこちなく、予想不可能な動き。
崩れかけた顔には表情はなく、だと言うのに、狂気じみた飢餓感だけは伝わってきた。
半ば開いた口からは、尖った黄色い歯がはみ出ており、枯れ枝のような指の先で爪が不揃いに伸びている。
深くくぼんだ眼窩の奥の目は、腐った血液のような、鈍い赤色。
異臭――いや、明らかな死臭が、俺の鼻孔を刺激する。
「今晩は、あたしの――初めての子供たち」
ミアが、どこか悲しげな声で、それ――ミアが言うところのモロイたちに、言った。
もちろん、背後からなので、彼女がどんな表情をしているのかは分からない。
「望んだわけでもないのに、吸血鬼に成り損なった、血まみれの水蛭子――不思議ね。対面するまで、こんな気持ちになるとは思わなかったわ」
モロイたちは、声もなく、ぎくしゃくとした足運びで、ミアに近付いてくる。
何を思うのか、ミアは、まるで詫びるように――それとも、黙祷するかのように、うつむいた。
その瞬間――モロイたちが、跳躍する。
「ミア!」
知らないうちに、叫んでいた。
そして、俺が叫んだときには、ミアも駆け出していた。
襲来する三体のモロイめがけ、真っ直ぐに。
何かが風を切る音。
かすかに月光を反射する軌跡。
先頭にいたモロイの動きが一瞬止まり、そして、文字通り四分五裂した。
粘液質の赤黒い血液を撒き散らしながら、いくつもの部品に還元される、生きた屍体。
大地に崩れかかるその体に、ミアは――まともにぶつかった。
まるで予想外の動き。
ばらばらになりながら地面に倒れかかるそれをさらに蹴り飛ばし、いくつかに分断された塊を周囲に撒き散らしながら、そのすぐ後にいた第二のモロイに迫る。
「コオオオオオオオオオオオオ!」
信じられないことに、モロイが、吠えた。
いや、それは、急激な動きで肺に残っていた空気が押し出され、腐りかけた喉を通過した音だったのかもしれない。
ほとんど密着するような距離でもって、ミアは、まるで踊るような足取りでくるりと回転した。
ぎぎぎぎゅいいいいッ!
最初は聞こえなかった、肉に糸が食い込み、裂断する音が、幾重にも重なって響く。
ごぱっ、と音をたてて、第二のモロイが、地面に水平な線でもって、十幾つの肉片に輪切りにされた。
二体分のモロイだったものが地面に転がる。
そして、それらは、数秒後に、小さな音をたてて燃え上がり――灰となって、風に舞った。
最後のモロイが、大きく跳躍して距離を開ける。
ミアが、スカートの裾を翻しながら、それに追いすがった。
その体は、返り血すら浴びていない。
俺の動体視力は、その動きを捕捉するだけで精一杯だ。
そしてミアは、モロイのかなり手前で、大きくその細い腕をふるった。
モロイが、獣のように四つん這いになり、飛来する必殺の糸をかわそうとする。
しゅぱ、と鋭い音をたてて、モロイの頭の上半分が吹っ飛んだ。
だが、モロイの動きは止まらない。
それに対し、さらに糸を繰り出そうというのか、ミアは、左手で何やら腕輪を操作しながら、右手を大きく振る。
が、俺にはその動きが、ついさっきよりもひどく精彩を欠いているように見えた。
そして――苦しげに眉を寄せた、ミアの表情。
そんなミアに向かって、第三のモロイが走る。
目を失い、耳も機能しているとは思えないのに、驚くほど正確に。
ミアの様子が、おかしい――。
俺は、考えるより先に、走り出していた。
とうてい間に合うとは思えない――が、そんなことを思うのは、半ばまで走ってからだった。
ミアが右手を引き、モロイの動きが、一瞬止まる。
目に見えない刀で切断されたかのように、空中に吹き飛ぶ、モロイの左腕。
が、肘と肩の中間で腕を飛ばされながらも、モロイは前進を再開した。
がくりと、片膝を付くミア。
その、苦悶の表情。
ミアに迫る右腕の歪曲した爪――
それが、彼女の体に届く寸前に――俺は、モロイ左肩に飛び蹴りを食らわせていた。
モロイが、左腕を切断されたときに、一瞬静止してくれたので、間に合ったのだ。
「鷹斗っ!」
悲鳴のような、ミアの声。
その響きに、ずきりと胸が痛む。
彼女に、そんな声は似合わない――
のろりと起きあがったモロイと対峙しながら、俺は、そんなことを思った。
奴に蹴りを当てた時の、靴の裏越しの嫌な感触が、まだ足の裏に残っている。
くぱぁ――とモロイが口を開いた。
耳まで裂けたようなその口は、見ようによっては笑っているようでもある。
頭の上半分がないだけに、悪意しか伝わってこないような、奇怪な笑み。
背筋を這い登る不快な悪寒は、しかし、俺の脳にまで届かない。
もし、それが、俺の心の欠陥によるものだとしたら――満足に恐怖を感じない自分自身に、今、俺は感謝していた。
頭と左腕の切断面から、粘液質の血をこぼしながら、モロイが動く。
爪が、俺の喉笛を一直線に狙った。
眩惑も擬装もない、単純で高速な一撃。
それを紙一重で右に受け流し、受け流しつつ右手首を取る。
そのまま、右腕の動きを殺し、受身を封じながら、右足で相手の右足を払う。“草薙”という技だ。
モロイの力は、人間のものとは思えないほどに強かったが、葛城流は相手の力を逆に利用するのがその真髄である。
どう、と前のめりに倒れるモロイ。
通常であれば、顔から倒れるだけで相手の戦闘能力はかなり奪えるのだが、それで終る相手とは思えない。
まだ空中にある右足で、素早く歪んだ弧を描き、踵で腰椎を踏み潰す。
柔らかなモノに包まれた固いナニかが足の下で砕ける、吐き気を催すような感覚。
腰を、砕いた。
それが――油断になった。
いや、正確には、自分のした行為の陰惨さに、知らず知らず俺の脳髄は一時的に麻痺してしまったのかもしれない。
凄まじい、と言うも愚かな、起重機のような力で、モロイが起きあがった。
「!」
無様に倒れかかる俺。
そんな俺に、上半身をぐらぐらと揺らしながら、モロイが右手を繰り出す。
地面に自ら身を投げ出し、体を回転させながら、俺は、その攻撃をなんとかかわした。
続いて、二撃、三撃。
激しく動くたびに、背骨を折られたモロイの上半身が、がくん、がくんと大きく振れる。
その光景に、俺は、さすがに叫び声を上げそうになった。
だが、何を叫んでいいのか分からない、といった感じで、実際には声が出ない。
夢を見ることは滅多に無いんだが――もしかしたら、これこそが、悪夢というものなのかもしれない。
転がる俺の肩が、積み上げられた資材に当たった。
俺を追い詰めたモロイの口には、まだ、あの笑みが浮かんでいる。
いや、あれは笑みではなく――肉食獣が、獲物に喰らい付こうと顎を開けているに過ぎないのだ。
そこには、悪意も嘲弄も無く――あるのは、ただ単純な飢えだけ。
飢えた強者が獲物を仕留めようとする、ありきたりな一瞬。
なんてシンプルな死。
それが、俺を引き裂こうとしたとき――銀の軌跡が、いくつも縦横に疾走した。
もともと極めてバランスの悪かったモロイの体が、べちゃちゃっ、と音をたてて、その場に崩れ落ちる。
そして、それも、しばらく後に、熱の無い炎を一瞬だけあげ、そして、灰と塵になってしまった。
「鷹斗……だ、大丈夫?」
舞い散る灰の向こう側に、ミアが立っていた。
蒼白な顔。たわめられた眉。その目は、まるで涙に潤んでいるように見える。
「ああ……傷は無い、と思う」
立ち上がりながら、俺は言った。地面を転がったときに、肘や背中を何箇所か打撲したようだが、そんなのは傷には入らないだろう。
「さすがに、驚いた。やっぱり不死身なんだな」
「吸血鬼は、心臓を停止させないと死なないのよ。そ、そんなことより……」
「?」
かつてないほどにうろたえた声をあげるミア。
「ご……ごめんなさい、あたし……あたし……」
「そうだ、ミアの方こそ、平気か? だいぶ参ってるようだけど」
「ごめんなさい……っ!」
その小さな体が、かたかたと震えている。
「自分が生み出したモロイと戦うことが、まさか……まさか、こんなことだなんて思わなくて……ごめんなさい……ごめんなさい……」
両手で口元を覆い、詫びの言葉を繰り返すミア。
「何言ってるんだ。ミアは、俺を助けてくれたんだろ?」
「でも、でも……あんな大きな口を叩いて……こんな……」
「戦う前に、相手を軽く見ることだってあるさ」
「そうじゃない、そうじゃないのよ……」
ミアの頬に、一筋、涙が伝う。
「これは……この子たちは……あたしにとって、初めてのモロイだったの……だから、こんなことになるなんて……苦痛や恐怖まで共有することになってるだなんて、あたし、知らなかった……だから……」
「共有――? それじゃあ……」
ミアは、確か言っていた。精神的なチャンネルが開いてる、と……。
それが、もし、思念や気配だけでなく、感覚や感情までも伝わるようなものだったとしたら――
ミアの動きが止まったのは、そのためだったのか。
「気が付いて、心を遮断しようとおもった時には……もう遅かったの。……これは、たぶん罰だったんだわ……カラダを切り裂かれ、心臓を停止させられる感覚……それを味わって……でも、そのせいで……そのせいで鷹斗を……」
嗚咽をこらえながら体を震わせるミア。
違う――うまく言えないけど――違う――間違ってる――
ミアが、こんな姿を俺に見せるなんて、それは――そんなコトは――
俺は、ミアの震えを止めたい一心で、その、小さな体を強く抱き締めていた。
「あ、あぁ……」
突然の俺の抱擁に、ミアは、身を委ねかけ――そして、慌てたように身をよじった。
「だ、だめ、だめよ――! あたし、あなたを死なせてしまうとこだったのよ!」
「違う」
「あたしの慢心が、鷹斗を殺すところだった……なのに……」
「違う」
「違わない! 違わないわ! あたしは――」
「お前は、間違ってる。ミアは――俺を助けてくれたんだ」
そう言って、きつく、きつく、細く小さな体を抱き締める。
「痛みを堪えながら、俺を助けてくれたんだ。こんな小さな体で……そうだろ?」
「で、でも……」
「だから……だからさ、その……ありがとう、ミア……」
「鷹斗……」
おずおずと……
ミアの腕が、俺の背中に回された。
「鷹斗……生きてる……生きてるのね……」
「そうだよ……俺も、ミアも、生きているんだ」
「……ええ……そうね……」
ようやく、ミアの震えが、止まった。
そのことに、俺はひとまず安心する。
しかし――なぜか、彼女の涙は、あとからあとから溢れているようだった。
暁光が夜を殺し、黄昏が昼を殺し――その度に空が朱に染まり――そして、その血を糧とするように、月が丸く膨らんでいく。
満月。
地平線近くにあった時は血に濡れたように赤かったその月は、今は白く清楚な姿を中天に晒している。
深夜。
冬条綺羅と、ノインテーターが、青い月光を浴びながら対峙していた。
静寂。
交通の全く絶えた、片側三車線の交差点。
ノインテーターが仮の宿としているマンションの、すぐ前である。
ベージュのコートに、抜き身の宝剣。首からは、勾玉と銅鏡を提げている綺羅。
それに対して、ノインテーターは、その長身を黒いマントに押し包むのみで、いかなる武器も構えていない。
青白い肌。真紅の瞳。白銀の髪。
唇に浮かぶのは、かすかな嘲笑。
そんなノインテーターを、綺羅が、燃えるような瞳で見つめている。
「この気配は……どこかで遭ったな」
まるで緊張した様子のない声で、ノインテーターは言った。
「その顔に見覚えは無いが……しかし、ごくごく最近のことの筈だ」
「……」
ノインテーターの言葉に、綺羅は、沈黙で応える。
「久しぶりに、故国に還り、薔薇十字の騎士どもを狩ってやった時だったな……さて……」
「……」
「思い出したぞ。――冬条計都」
綺羅の柳眉が、きりりと跳ね上がる。
「確か、この国の出だったな。なかなかに面白い男だった」
旧知の友人を語るような、ノインテーターの口調。だが、その底流には、隠しようの無い悪意が仄見える。
「出来れば配下に置きたい程に、強烈な男だったな。それ位の資格は有していた」
「いっそ、そうしてくれたらよかったんですけどね」
綺羅が、抑えた口調で言う。
「そうすれば、あたしが父さんを殺すことができたのに……」
「成る程」
にやりと、ノインテーターが大きく口元を歪ませる。
「骨肉の情というのは、愛憎いずれにしても濃密だな。そういうのは、私は好きだ」
「……」
「しかし、その父親を殺したからといって私を狙うのは、些か逆怨みが過ぎるのではないかな?」
可笑しそうに、と言ってもいいほどに機嫌よく、ノインテーターが言う。
「そんなこと、承知してます」
「開き直りか。それもいい」
ふわりと、ノインテーターがマントをはためかせた。
気が付いたときには、移動が始まっている。
地を滑るような、凄まじい速度。
為す術もなく立ち尽くす綺羅の体を、ノインテーターの爪が引き裂いた。
ふっ――と綺羅の体が消える。
「ぬ――?」
白い人型に折られた呪符が、ふわりとノインテーターの目の前で、舞った。
「小癪――!」
言いながらも、ノインテーターの口元には笑みが浮かんでいる。
その斜め後から、綺羅が宝剣を振り下ろす。
振り返り様に、ノインテーターの爪が綺羅の胴を薙ぐ。
再び、白い人型と化す綺羅。
いや、綺羅は、もともと白い人型の呪符を替玉に仕立て上げていたのだ。
吸血鬼すら惑わす幻術。
「何処だ――?」
ぐるりと、周囲を見回す、白髪の吸血鬼。
その真上――信号機の上から、長い黒髪をなびかせ、綺羅が襲いかかる。
「――ふっ」
宝剣を逆手に構えた綺羅の姿を、刺突の一瞬前に認め、ノインテーターは、声に出して笑った。
そして、残像を残すほどに素早く体をずらし、右の貫手を突き上げる。
ぼずッ!
ノインテーターの右腕が、肘まで、綺羅の腹部を貫いた。
「詰めが、甘かったな」
「あ……がッ……!」
声が、半ばから血反吐となり、綺羅の口から零れ落ちる。
片腕一本で綺羅の体を支えながら、たっぷりと熱い血を浴び、ノインテーターは、喜悦の笑みを浮かべた。
脈動が、急速に弱まっていく。
もはや、綺羅には、満足に動くだけの力すら、残されていない。
「なかなかに楽しめたよ。父親より、三秒ほど長持ちだった」
そんなノインテーターの言葉は、しかし、綺羅の脳には届かない。
その腕が、どうにか手の中の宝剣を動かそうとするが、それは、いつのまにか断末魔の痙攣と化してしまった。
呆気なく――綺羅の心臓が、停止する。
それでも、しばらく、ノインテーターは、彼女の血の味を全身で堪能していた。
死――
静謐――
そして――
どくん、と――
停止したはずの綺羅の心臓が、この世ならぬ鼓動を、刻んだ。
「なに?」
ノインテーターの目が、驚愕に見開かれる。
慌てたように綺羅の体を振り払おうとする右腕を、綺羅の左腕が、掴んだ。
そして、右手には、宝剣。
逆手に構えたそれを、綺羅が、背中からノインテーターの体に突き通す。
「がッ――!」
ノインテーターの悲鳴は、一瞬だった。
ぼッ、と音をたてて、その長身が炎に包まれる。
そして、吸血鬼の体は、瞬く間に塵に還っていった。
時間の狭間で永劫を貪っていた吸血鬼が、時の流れへの負債を強引に支払わされている。
綺羅は、奇妙な笑みを浮かべながら、塵と化していくノインテーターを抱き締めるような姿勢で、地面に崩れ落ちた。
そして、しばらく、動かない。
小山を作っていた灰が、全て消えた。
「さ……さすがに……きつい……ですね……」
口から血を吐き出しながら、そう言う。
その瞳は、流れ出る鮮血と同じ――強烈な赤色。
綺羅は、よろよろと立ち上がり、そして、まるで熱い物を持っていたかのように、宝剣をかなぐり捨てた。
そして、勾玉と銅鏡も、首から外し、放り投げる。
「とうとう……やっちゃいました……これであたしも、吸血鬼の仲間入りですね」
血まみれの右手を見つめながら、綺羅は、そう言って、くすりと微笑んだ。
月が、無関心を装いながら、そんな綺羅を、じっと見下ろしている。
一帯に、静寂が戻った。
そして――
「――驚いた。まさか、クドゥラクだったとはな」
その声に、綺羅は、ぎくりと身を震わせた。
「油断、とは言うまい。賞賛に値する戦い振りだった。――魔女よ」
綺羅は、恐る恐る、顔を上げた。
ノインテーター。
白銀の髪の吸血鬼が、そこにいた。
しかも、一人ではない。八対の紅い瞳が、綺羅の驚愕の表情を見つめている。
「そ、そんな――まさか――」
「この姿を人前に晒すのも、実に一世紀近く振りだ」
「に、偽者……? あたしが……あたしが倒したのは……そ、そんなのって……」
「汝と、私自身の名誉のために言おう。そこで心臓を貫かれ、塵に還ったのは、間違いなく私だ」
「え……?」
目の前の八人のノインテーターが、ふっと――優しいとさえ言えるような笑みを、その口元に浮かべる。
「私達は、一人にして九人――九人にして一人――時間と空間の狭間にて、合わせ鏡の自分自身を見出したる者」
「……」
「一瞬後の自分、一瞬前の自分――それらが時間的に重なりながら、空間的にはなお別個の存在としてある」
「……」
「――否、言葉で説明しても、それはその瞬間に虚言と為るな――汝の目の前にいる私達こそが、私だ。私は、こういう存在なのだ」
「そん、な……」
「本来なら、これは、是が非でも秘すべきことなのだが……自らの呪われた血すらも使った汝の気概に報いるため、この狂った姿を現した次第だ」
言いながら、八人のノインテーターが、ゆっくりと綺羅に近付いていく。
「腹の傷が苦しかろう。今は休むがいい……」
「あ、あ、ぁ、ぁ、ぁ……」
ぎらりと、十六の瞳が赤い光を放ち――
そして綺羅は、全ての糸を切断された操り人形のように、冷たいアスファルトの道路の上に倒れ伏したのだった。