Night Walkers

夜行/百鬼



序章



「ね、鷹斗」
 夕暮れの朱い日差しの差し込む喫茶店で、矢神夕子が、訊いた。
「あんたの初恋って、いつなの?」



 あの日。
 小学校六年生の夏休み。俺は、母親に連れられて、いつものように伯母の家に泊まりに来ていた。
 伯母の家は田舎の農家で、少し歩くと、そこはもう木々の茂る山の中だった。
 むせ返るような緑の匂いの中、夢中でそこら中を駆け回り、時を過ごす――。そんな日々。

 そして、いつしか響き渡る、ヒグラシの声。
 夕暮れの蝉時雨に我に返ると、空は朱色に染まっていた。
 山と山の間に沈もうとする赤い太陽に照らされて、俺は、自分が見知らぬ場所にいることに気付いた。
 だが、俺は、不思議と不安には思わなかった。
 景色が、普通の感情を抱かせるには、あまりにも圧倒的にキレイすぎたからかもしれない。
 それはともかく、俺は、ヘンに落ち着きながら、ぶらぶらと腰の辺りまで伸びた草の間を歩き続けた。
 雑木林と雑木林の間にある、ささやかな草原。
 それすらも、朱く染まっている。
 すぐ近くで、せせらぎの音。
 俺は、流れる川の気配に引き寄せられて、茂みをかき分けた。
 そして、俺はそこで、彼女に出会ったのだ。

 驚いた。
 驚いたのは、彼女が外人だったからじゃない。
 確かに、彼女は日本人じゃなかった。高い鼻梁に、二重の大きな目。つややかな髪はかすかにウェーブがかかっており、漆黒でありながらも、自分たちと同じ人種のものとは思われなかった。
 今思えば、あの当時の自分より、二、三歳だけ年上、といったところだったろう。
 夕日に赤く染まった、たぶん白いワンピース。そこからのぞく手足は華奢で、顔も、貴族的な鋭角さがあるのに、どこか幼い。
 だけど、俺には、彼女が、とても大人に見えた。
 そして、彼女は、とても、キレイだった。
 いや、想い出を美化してはいけない。俺が思ったのは、キレイだとか、美しいだとか、そういうことじゃなかったのだ。
 俺は――子供のくせに――彼女に、はっきりと欲情していた。
 無論、その時は自分の中にあるその気持ちの正体が何だかは分からなかった。ただ、潔癖な禁忌感とともに、腰の辺りに、甘たるい疼きのようなものを、感じてしまったのである。
 それで、俺は驚いたのだ。
 自分が、こんな感情を抱くなんて――
 そして、彼女が、こんな感情を抱かせるなんて――
 川の向こう岸に立つ彼女の濡れたような瞳を見つめながら、俺は、そう思う。
 その一瞬――黒いはずのその瞳が、光の加減か、なぜか、燃えるように赤く輝いて見えた。

 彼女の唇が、動いた。
 朱色の風景の中、鮮やかに紅いその唇が、俺を誘う。
 声が聞こえたわけではないし、彼女が俺の知ってる言葉を使ったかどうかも分からない。それでも、俺は、彼女が自分を呼んでいるのだと知った。
 目の前には、流れる川。
 一跳びに飛び越えることはできないくらいの幅。深さは、分からない。
 水の流れは早く、暮れなずむ空の下、水底は見えない。俺の立っている大岩のすぐ手前で、深い流れになっているような感じだ。
 彼女が呼んでいる。
 朱色の川。緋色の山。茜色の雲。紅色の唇。あか色の――瞳。
 泳げばすぐのところにいる、年上の少女。
 躰のうちの甘い疼き。
 俺は――
 魅入られたように、川に飛び込み――
 そして、半ばまで流れを掻き分けて進んだところで、水に流されてしまったのだった。

 目を醒ますと、漆黒に近い藍色の空に、月が浮かんでいた。
 官能的なまでに生白い満月。
 夜もだいぶ更けている。
 暗い、昏い、冥い、くらい――空の下で、岩の上に横たわる、冷え切った体。
 そして、目蓋の裏に刻まれた、ある種の陶器を思わせる、あの白いかお
 まるで幻のように、淡く、妖しい――笑顔。
 それが――



 それこそが、俺こと羽室鷹斗の、初恋だったのだろう。
「ふぅーん」
 俺の話が終わったとき、夕子は、どうとでもとれる表情で、そう言った。

第一章

目次

MENU