紫の蜥蜴


解答編



 ラヴェンダー色のシーツの上で、二つの白い裸体が、淫靡に絡み合っている。
 一人は、二十代半ばの美しい女。そして、もう一人は、まだあどけなさを残す可憐なハイティーンの少女だった。
「あ、あぁ……あうっ……あん、あん……あふ……ああぁ……」
 少女の、白い歯をのぞかせた薄い桃色の唇から、絶え間無く喘ぎ声が漏れている。
 女は、そんな少女の体を、指と、舌と、唇と――そして淫らな器具を使って、一方的に責め続けていた。
「ふふふ……可愛いわ……」
 そう言いながら、女は、いたいけな少女のスリットに、毒々しい紫色をしたローターを押し込んだ。
「ひうううっ! あ、ああぁっ……そこは……そこはっ……あ、あくっ……んぐ……あふうっ……」
 少女が、目尻に涙を浮かべながら悶え、その黒髪を乱す。
 その目許はピンク色に染まり、そして、充血した陰唇の狭間からは、透明な蜜が溢れ出ていた。
「もう、すっかり女の悦びを覚えちゃったのね……ククク……いやらしい子」
 そんなふうに言いながら、女が、少女の秘裂に食い込んだローターを嬲るように動かす。
 それは、まるで、ローターそのものを愛撫しているような指遣いだった。
「あうっ、うっ、うくぅ……あっ、あっ……紫蜥蜴さま……私……私もう……」
「あら、またイってしまうの?」
「ああぁ……ごめんなさい、ごめんなさいっ……はっ、はくっ、う、うああぁン……あぁ……も、もうだめぇ……」
 すでに何度か絶頂を極めた体を痙攣させ、少女が、さらなる高みに昇り詰めようとする。
 紫蜥蜴と呼ばれた女が、脇に置いてあった第二のローターのスイッチを入れ、愛液にまみれながら莢から顔を出している少女のクリトリスに触れさせた。
「ひいぃン!」
 少女の鋭い悲鳴に、振動する二つのローターがぶつかり合う、ガガガ……という音が重なる。
 紫蜥蜴は、口元に笑みを溜めながら、少女のピンク色の乳首に白い歯を立てた。
「ひうっ! あン! ああぁン! あひっ、あひン!」
 少女が、川岸に釣り上げられた若鮎のように、ビクッ、ビクッ、とその体を震わせた。
 そんな少女の肢体を見つめる、紫蜥蜴の熱く潤んだ瞳の奥に、冷徹な光が見え隠れする。
 そして、紫蜥蜴は、その舌先を尖らせ、少女の胸元から首筋までを舐め上げた。
「あ、ああぁ……あひ……ひあ……ああああああぁっ!」
 少女が、そのしなやかな体を弓なりに反らせる。
 紫蜥蜴は、白い貝殻のような少女の右の耳朶に、甘く噛み付いた。
「あっ……イ、イキますっ……イクぅーっ!」
 少女は、一声そう叫び、そして、硬直した体をヒクヒクと震わせた。
 そして、力を失ったその華奢な体が、ぐったりとシーツに横たわる。
 紫蜥蜴は、そんな少女の耳元に唇を寄せ、しばし、耳朶を舐めしゃぶっていた。
「あ……ああぁ……あふ……ああぁン……」
 少女が、全身を弛緩させ、うっとりと吐息をつく。
 まるで、幸せな夢の中にまどろむような、無垢な表情。
 そんな少女の耳元で――紫蜥蜴は、聞き取れないほど小さく、何事かを呟いた。
「…………」
 紫蜥蜴の言葉が続く。
 少女の心の奥底の、さらに深部に至り、刻印される、記憶と、知識と、意思と、そして情念――脱皮を繰り返して生き続ける、紫蜥蜴という存在そのもの。
 未だ忘我の境地にある少女は、紫蜥蜴の言葉に答えることも、また、肯くこともない。
 それでも、紫蜥蜴は、少女に対する囁きをやめることはなかった……。



  ずっとあなたを見てる。
  ずっとあなたの後ろにいる。
  そして今日、私はあなたに会う。
  でも、このことは二人だけの秘密。
  紫蜥蜴と、あなただけの、甘い甘い秘密。

 林堂の下駄箱に入っていた手紙には、そう書いてあった。
「智視ちゃん、どーしたの?」
 昇降口でそう声をかけられ、林堂は振り向いた。
 ポニーテールのよく似合う愛嬌のある丸顔にきょとんとした表情を浮かべた西永瑞穂が、そこに立っている。
「あ、いや……何でもないよ。帰ろうぜ」
 下駄箱から靴を取り出しながら、林堂が言う。
「うん」
 素直にそう返事をして、瑞穂が、林堂に並んだ。
 二人で、他愛のない話をしながら、昇降口から校門まで抜け、道を歩く。
「……なあ、瑞穂」
 しばらく歩き、人通りが少なくなったのを見計らってから、改まった口調で、林堂が言った。
「なーに?」
「お前さ――縛られるの、イヤじゃないのか?」
「え?」
 瑞穂が、数度目をしばたたかせた後、ぼっ、と顔を赤くする。
「な、何いきなり言ってんの?」
「突然ですまん。ただ――確かめておきたくて」
 林堂が、その切れ長の瞳を、瑞穂に向ける。
 瑞穂は、困ったような顔で、むー、と小さく唸った。
「えっと、イヤがってるように、見えたこと、ある?」
「……ないけど、たいてい夢中でやってるんで、自信が持てないんだ」
「ん、もう、ばかぁ」
 瑞穂が、顔をますます赤くする。
「で、どうなんだ?」
 重ねて聞かれて、瑞穂は、周囲を見回した。
 そして、近くに人がいないことを確認してから、立ち止まり、口を開く。
「えっとね……そりゃあ、その……縛られたり、手錠されたりとかして、ちょっと怖くなっちゃうこと、あるよ」
「…………」
「でも、それって、イヤっていうのとちょっと違うかな」
「違う?」
「うん。違う」
 しばし思案してから、瑞穂が、再び口を開く。
「あたし、智視ちゃんみたいにうまくは言えないけど、やっぱ違うよ。そりゃあ、怖くなったり、不安になったりもするけど……何て言えばいいんだろ? お化け屋敷とか、ジェットコースターみたいな感じ?」
「…………」
「あ、ゴメン。こういう言い方って、白けちゃうかな?」
「いや、そんなことないよ」
 林堂は、どこか安堵したような顔で、コートのポケットから両手を出し、瑞穂の左右の肩に重ねた。
「ふぇ、え、え? さ、智視ちゃん?」
「――瑞穂には、いつも救われてる。ありがとう」
 そっとそう呟きながら、林堂が、瑞穂に顔を寄せた。
「あ、あのっ、さ、智視ちゃん……? 人が来ちゃう……」
 息がかかるほどに接近した林堂の顔に、瑞穂が、慌てた声を上げる。
「……悪い。一人で盛り上がっちまった」
 林堂は、そう言って、呆気ないほどあっさりと、体を引いた。
「も〜、智視ちゃん何なの〜? もしかして、あたしのことからかってる?」
「断じてそんなことはない」
 はっきりとした口調で言って、林堂は、口元に微笑みを浮かべた。
「さあ、帰ろうぜ」
「――うん」
 瑞穂は、そう言って、歩きだした林堂の後についていった。



 自宅であるマンションの前に林堂がついた時、その胸元で、携帯電話が鳴った。
 ディスプレイには、番号非通知の表示が示されている。
「…………」
 林堂は、その柳眉をしかめながら、着信ボタンを押した。
「……こんにちは」
 受話器から、若い女の声が響く。
「あなたは――」
「紫蜥蜴よ。お久しぶり」
「久しぶり……?」
 林堂が、珍しく、驚愕の声を上げる。
「やあね。忘れちゃったの?」
 くすくすという笑い声に、林堂が不快げに目を細める。
「薄情な子……まあ、そうしむけたのはこっちなんだけど」
「下駄箱の手紙は、あなたですか?」
「もちろん」
 そう言って、電話の主――紫蜥蜴は、またくすくすと笑った。
 林堂が、その場に立ち止まったまま、周囲に目をやる。
「手紙に書いた通りよ、林堂君。今日は私、あなたのこと、朝からずーっと見ていたのよ。気付いてくれてた?」
「いえ……」
「声も、ずっと聞いてたわ」
「なっ……」
「あなたの服に、盗聴マイクをしかけたの。いつ、どこでかは訊かないでね」
「今日の――学校で、ですね。俺の家に入ったんでなければ、チャンスはその時しかない」
「だから、訊かないでってば」
 紫蜥蜴が、嬲るような口調で言う。
「それにしても、彼女と、ずいぶんきわどい会話をしていたわね」
「大きなお世話です」
「……妬けちゃうわ」
 紫蜥蜴が、本気とも冗談ともつかない口調で言う。
「でも、慌てて警察に連絡したりしない辺りは、さすがよね」
「……気が動転してましてね」
「何言ってるのよ。そんな、冷静そのものの声をして」
「あなたは一体……」
「――港の、シンボルタワーの一番上まで来てちょうだい」
 紫蜥蜴の有無を言わせぬ声が、林堂の言葉を遮る。
 シンボルタワーとは、林堂の住む街の港湾地区にある、展望塔のことだ。
「無視したり、誰かに連絡を取ろうとなんてしないでね。そんなことをしたら――あなたの大事な人を、みんな殺しちゃうから」
「…………」
「待ってるわ」
 一方的にそう言って、紫蜥蜴が、電話を切る。
 林堂は、携帯電話をきつく握り締めた後、そのまま、駅の方角へと歩いていった。
 その後をこっそりと追う、制服の上にハーフコートをまとった少女の存在に、林堂は、全く気付いていないように見えた。



「――紫蜥蜴様」
 ハーフコート姿の少女が、物陰からシンボルタワーを見つめながら、携帯電話で話をしている。
 その白く細い首には、ネックストラップで小さな双眼鏡が吊り下げられていた。
 少女は、この双眼鏡で、先程まで、林堂の行動を監視していたのだ。
「林堂智視が、タワーのエレベーターに乗るのを確認しました」
 そう言ってから、少女は、携帯電話の向こうの声に、耳をすます。
「……はい。おっしゃる通り、警察と接触した気配はありません」
 少女の、携帯電話が当てられたのと反対側の耳からはイヤホンのコードが伸び、ハーフコートのポケットの中にある機械とつながっている。
 その小さなラジオのような機械は、少女が林堂の服に仕込んだ盗聴マイクの音を、今も拾っているのだ。
「はい……はい……分かりました。では、ごゆっくり……」
 少女が、そう言って、携帯電話のスイッチを切る。
 その端正な顔には、わずかな嫉妬の色が、滲んでいた。



 シンボルタワーの最上階は、円形の展望室になっている。
 しかし、エレベーターに乗って林堂がそこまで上がって来た時には、客は一人もいなかった。
 もともと、まだできて新しく、観光スポットとしては定着していない場所だが、それにしても、まるきり誰もいないのは不自然である。
 林堂は、油断なく展望室内で視線を巡らせた。
 窓の外で、夕日が、徐々に地平線に沈んでいる。
 西の空の残照が全て消えれば、街の夜景は、より鮮やかになるだろう。
 林堂が、そんな眼下の風景を見るとはなしに見ていると、チン、とエレベーターが音をたてた。
 エレベーターのドアが開き、そこに、きっちりしたベージュのスーツに身を包み、サングラスをかけた若い女が現れる。
「――あなたが、紫蜥蜴だったんですね」
 林堂が、きつい目で女の顔を睨みながら、言う。
「ええ」
 女は――いや、紫蜥蜴は、笑みを含んだ声で、そう答えた。
 そして、いささか芝居がかった仕草で、サングラスを外す。
 その下から現れたのは――宝飾デザイナー、式部優華の顔だった。
「こんなところに呼び出して、どういうつもりです?」
「ふふ……ありきたりなセリフね。ちょっと失望しちゃうかも」
 かつて、式部優華として話をした時とは全く異なる口調で、紫蜥蜴が言う。
「ううん、でも、そういう王道なセリフこそ、怪盗を前にした探偵には相応しいのかもしれないわね」
 紫蜥蜴は、そう言いながら、濡れた瞳で林堂の視線を受け止めた。
「――もちろん、呼び出したのは、二人きりで話がしたかったからよ。エレベーターには、点検中の札がかかってる。しばらく誰にも邪魔されないわ」
「…………」
「もちろん、あのポニーテールの彼女にもね」
 紫蜥蜴の優美な唇が、わずかに、笑みの形に歪んでいる。
「……俺の通う学校に、あなたの部下がいるんですね」
 林堂は、ペースを乱されまいとするかのように、断定的に言った。
「下駄箱に手紙を入れたり、俺の服に盗聴マイクをしかけたりなんていうことを、あなたがするわけがない。学校では目立ち過ぎますからね。うちの教師か生徒の誰かが、あなたの忠実な手下となって働いているんだ」
「部下や手下がいないとは言わないけど……あなたを見張る大役を、そんな連中に任せたりはしないわ」
 紫蜥蜴が、くすくすと笑ってから、言葉を続ける。
「あなたを見張っていたのは、紫蜥蜴――この私じゃないけど、やっぱり私よ。ふふ、今はそうではないけど、未来の紫蜥蜴と言うべきかしら」
「謎掛けですか、それは」
「ええ。見事解いてほしいわ。……あなたには、私の全てを知ってほしいの」
 紫蜥蜴が、優雅な足取りで林堂に近付く。
「ところで、“妖精の心臓”の謎は解けたかしら?」
「……ええ」
 林堂は、無表情を装いながら、言った。
「簡単なことですよ。あの部屋には、賊は――紫蜥蜴は侵入していない。ただ、致死性のガスが流し込まれ、そして、強力な空気銃か何かで、ショーケースが割られただけなんです。全て、ダクトの中から格子越しにできることですよ」
「あら。部屋に、私の遺留品は何一つ無かったはずよ。その空気銃の弾は?」
「それも簡単なことです。ショーケースと同じ材質のガラスを弾丸にすればいい。鑑識の人には、そのカケラがもとはショーケースなのかガラスの弾丸なのかなんて分からないですからね」
「じゃあ、“妖精の心臓”は? マジックハンドか何かで取ったとでも言うの?」
「ショーケースの中には、宝石なんか無かったんですよ」
 ほとんど目の前にまで迫った紫蜥蜴に、林堂は言った。
「中にあったのは、やはりガラス製のイミテーションだったんだ。そして、あなたは、第二のガラスの弾丸で、そのイミテーションを撃ち砕いたんだ。――そうでしょう?」
「――ご名答、よ」
 紫蜥蜴は、その整った顔で、婉然と微笑んだ。
「そして、宝石をすり替えて展示することができたのは、あなた――式部優華だけだ。本物は、すでに売却されたか……いや、もともと“妖精の心臓”なんてダイヤは無かったのかもしれない。ともかく、あなたは、世間の注目と、そして、少なからぬ保険金を受け取ることになるわけです」
「ふふふ……」
 紫蜥蜴が、林堂の顔に息を吹きかけるように、笑みを漏らす。
「嬉しい……嬉しいわ……やっぱり、あなたは名探偵……私の全てを分かってくれる……」
「…………」
「ねえ、知ってる? 女怪盗はね、名探偵に恋をしてしまうものなのよ」
 紫蜥蜴は、そう言って、林堂の頬に右手を触れさせた。
「願い下げです、そんなことは」
 林堂が、紫蜥蜴の白い手を払いのける。
「あら……どうしてそんなにつれないの?」
「当然でしょう。あなたは犯罪者だ。自分の欲望のために人の命を奪った殺人犯であり、そして、俺にとっては脅迫者ですよ」
「でも、あなたは、私が――式部優華が紫蜥蜴と知っていながら、警察には何も言ってないじゃない」
「…………」
「私が――式部優華が犯人だってことに、あなたは気付いてた。なのに、警察は私のところに来ていない。これは、どうして? まさか、私に同情しているわけじゃないでしょう?」
「…………」
「あなたは、私を自分のものにしたいのよ。あなたも私に惹かれてる……私に恋してるんだわ……私には、分かる……」
 まるで、耳から甘い毒を流し込むように、紫蜥蜴が言う。
「犯人が、式部優華だということには、もちろん、気付いてましたよ」
 林堂は、紫蜥蜴の言葉を振り切るように、そう言った。
「ただ、あなたは――式部優華は、俺の知ってる紫蜥蜴じゃない」
「…………」
 紫蜥蜴が、驚いたように、その瞳を見開いた。
「俺は、紫蜥蜴に会ったことがある。一度は、彼女の犯罪に関わり――そして、無様に捕らわれたことがあるんです。その時に会った女とあなたは、まるで別人だ。俺の知っている紫蜥蜴の本名は――」
「由良峰子、ね」
「…………」
 紫蜥蜴の――式部優華の言葉に、林堂が、沈黙で応える。
「彼女、死んだわ」
 紫蜥蜴が、冷たい声で、言った。
「死んだ……?」
「ええ、死んだの。お葬式にも出たわ。まあ、死の直前には、名前を偽って暮らしていたけど……とにかく、かつて紫蜥蜴であり、そして由良峰子だった女は死んだのよ」
「…………」
 林堂が、どこか沈痛な表情を、その秀麗な顔に浮かべる。
 そんな林堂の様子に、紫蜥蜴は、かすかな苛つきを覚えているようだった。
「だからどうしたの? 彼女があなたにとって何なの? 彼女は死んだ。死んだら、彼女はもう紫蜥蜴じゃないのよ。ただの、由良峰子という女よ。それ以上でもそれ以下でもないわ。紫蜥蜴は不死身なの。そして、今、紫蜥蜴は私。あなたの目の前にいる私が、紫蜥蜴なのよ!」
 徐々に声を大きくする紫蜥蜴を前にして、林堂は――右手で、口元を覆った。
 ただ、それでは隠しきれないほどの驚きが、その表情に現れている。
「まさか……いや、そうか……そういうことか……あなたは……紫蜥蜴とは……」
「…………」
 紫蜥蜴が、冷静さを取り戻したように、口をつぐむ。
 そして、しばらくしてから、紫蜥蜴は、ルージュの引かれた艶やかな唇を開いた。
「由良峰子の暗示は、解けてしまったようね」
「…………」
「まあ、いいわ。もう一度、あなたを支配すればいいだけのことだもの」
 紫蜥蜴が、狂おしいほどの光を、その瞳に宿らせる。
「俺を、催眠術か何かで自由にしようとでもいうんですか? 馬鹿馬鹿しい」
「確かに、会ってすぐの人間の心を操るなんて不可能だけど――あなたには、下地ができてるもの」
 紫蜥蜴が、歪んだ笑みを浮かべながら、スーツの胸元を開く。
 林堂が目を逸らそうとしたその時には、紫蜥蜴は、自らのブラウスの前を乱暴に引きちぎっていた。
「……っ!」
 ブラに半ば覆われた紫蜥蜴の乳房に――鮮やかな紫色で描かれた小さな爬虫類の刺青が刻印されている。
「見なさい……見るのよ、林堂君……」
 紫蜥蜴が、その優美な指先で、自らの刺青を示す。
 林堂は、小さく喘ぎながら、紫蜥蜴の刺青を見詰めてしまっていた。
 後ずさりしかけたまま固まってしまったようなその体が、小さく震えている。
「ふふふふふ……」
 紫蜥蜴が、林堂の頭を両手で抱擁し、自らの胸元に近付ける。
 雪白の乳房にいやらしく張り付いた、毒々しいほど鮮やかな色彩の、小さな爬虫類。
 林堂の視界の中で、その紫色のトカゲが、次第に、次第に、大きくなって――
 その時、無粋な携帯電話の着信音が、展望室に響いた。
「――っ!」
 一瞬の隙をつき、林堂が紫蜥蜴の手を振り払って、身を翻した。
 そんな林堂を目で追いながら、紫蜥蜴が、流れるような動きで携帯電話の着信ボタンを押して、耳元に当てる。
「何があったの!?」
 その呼びかけに対する対話者の答えを聞き、紫蜥蜴はその顔を蒼白にした。
「け……警察……?」
 林堂が、大きく息をつく。
 そして、エレベーターが、チン、というごく日常的な音をたて、扉を開けた。
「動くなっ!」
 よくもエレベーターに収まったと思われるだけの人数の警官たちが、どやどやと展望室に侵入し、紫蜥蜴に対し拳銃を構える。
 そんな警官隊の中から品川警部補が現れ、林堂に並んだ。
「ど……どうして……」
 紫蜥蜴は、呆然と呟いた。
「いつ連絡を取ったの!? ずっと見張っていたのに――」
 声を上げる紫蜥蜴に、林堂は、すぐには答えない。
「あ……あの娘ね! 帰り道で、あなた、あの子に何かメモを……」
「紙は、手元にありましたからね。あなたの手紙が」
 ようやく、林堂は口を開いた。
「歩きながらポケットの中で書いたんで、ちょっと自信は無かったんですが……そもそもあなたの手紙が重要なヒントになったでしょうからね。でも、この件は完全に品川警部のお手柄ですよ」
「警部補だ」
 そう言って、品川は、口ひげの下の唇をにやりと歪めた。
「まあ、それを言うならお前の彼女のお手柄だな。すぐにメモに気付いてこちらに連絡を取ってくれたんだから」
「…………」
 紫蜥蜴が、燃えるような目で、林堂と、そして品川を交互に見詰める。
「林堂に尾行が付いてるのはメモの内容で分かってたし、こっちはプロだ。自宅の前で林堂を待ち、貴様の手下に気付かれないように後をつけることなど造作も無かったさ。まあ、突入隊を揃えるのには、いささか時間がかかったがね」
「フン……刑事の能書きなんて興醒めだわ。怪盗を捕まえることができるのは、探偵だけなのよ」
 紫蜥蜴が、憎々しげに言う。
「完全にいかれてるな……。まあいい。そっちの能書きの方は、取調室でたっぷり聞いてやる。おとなしくしろ」
「冗談じゃないわ」
 そう言って、紫蜥蜴が、スーツの内懐に手を入れる。
「動くな!」
 パン! という、意外と軽い音が、部屋に響いた。警官の一人が紫蜥蜴の足元に拳銃を撃ったのだ。
「今のは威嚇だ! 次は、警告無く容赦なく当てる!」
「そっちこそよく考えなさい。私が、ここに毒薬を入れてたらどうするの?」
 紫蜥蜴が、軽蔑の眼差しで、警官たちをねめ付ける。
「あの地下鉄のテロ事件のこと、忘れたわけじゃないでしょう? 皮膚に付着したり、揮発したガスを吸い込んだだけで死に至るような薬が、この世にはあるのよ。そこのところ覚悟できてるの? 脇役の皆さんは」
 紫蜥蜴の言葉と、そして、傲慢なその態度に、わずかに警官たちが動揺する。
 そんな警官たちをせせら笑ってから、紫蜥蜴は、視線を林堂に転じた。
「まあ、私があなたを巻き添えになんて、するわけないけどね」
 そう言って、紫蜥蜴は、懐から手を抜いた。
 その手に、黒光りする拳銃が握られている。
「銃を捨てろっ!」
 警官の叫びとともに、続けざまに、発砲音が響いた。
 何発かの銃弾が、紫蜥蜴の体に命中する。
 紫蜥蜴は、もんどり打ちながら、手に持った拳銃を発砲した。
 短いような、長いような時間の中、銃声が連続して響く。
 けたたましい音をたてて、展望室のガラスのうちの一枚が、割れた。
 そして、ようやく、紫蜥蜴が拳銃を取り落とし、そして警官たちも、発砲を中止する。
 ベージュのスーツのあちこちを鮮血に染めながら、それでも、紫蜥蜴は自らの両足で立っていた。
「何よ……別に、あなたたちを狙ったわけじゃないのに……自意識過剰ね……」
 警官たちにそう言いながら、よろめく足取りで、紫蜥蜴がすぐ傍の割れた窓に近付く。
 外から吹き込む冷たい風が黒髪をなぶり、血に汚れた服をはためかせた。
「お、おい……! まさか……!」
「まさか、はないでしょ……やっぱり、あなたは、ただの刑事ね……」
 慌てた声を上げる品川にそう言ってから、紫蜥蜴が、再び林堂に視線を向ける。
 林堂は――表情らしい表情をその顔に浮かべる事なく、じっと紫蜥蜴を見詰めていた。
「さようなら……また会いましょう……」
 ふっ、と淡く穏やかな笑みを浮かべ、紫蜥蜴が、割れた窓の外に身を躍らせた。
 夜景の海の中に、一瞬、紫蜥蜴の体が浮かび――落下する。
「な……っ! 何てこったっ!」
 割れた窓に駆け寄り、品川が、大声を上げる。
 品川に続くように窓に近付いていく警官たちの後ろ姿を見ながら、林堂は、誰にも悟られることがないよう、嘆息した。



「式部優華の死亡を確認。遺留品の中に、拳銃一丁が認められたものの、毒物らしきものは発見されず。追加の事実が判明し次第、追って連絡する。以上」
 シンボルタワーの下で回転灯を明滅させているパトカーの窓に、上半身を突っ込んだ状態の品川が、無線のスイッチを切った。
 そして、タワーの前にある広場のベンチに座る林堂に、近付く。
「大変だったな」
「助かりました」
 品川の呼びかけに、林堂は、普段からは考えられないほどに疲労した表情で答えた。
「今にして思えば、あの女――式部優華がお前の関わりをあれほど拒否したのは、最初からお前を名探偵として認めてたからなんだろうなあ。だからこそ、真相に近付きつつあったお前を拉致し――あわよくば自分の側に取り込もうと誘惑したわけだ」
「調書にもそういうふうに書くんですか?」
「ああ。役所言葉に直してな」
「勘弁してくださいよ」
 林堂は、苦笑いしながらがっくりとうなだれた。
「しかし……結局、式部優華は、先代の紫蜥蜴――由良峰子の模倣犯だったってことなのか?」
「まあ……たぶん、そういうことになるんでしょうね。世間的には」
 林堂が、視線を地面に落としたまま、言う。
「おいおい、いつになく歯切れが悪いな」
「いや、いつも俺は断言を避けてますよ」
「それが名探偵の流儀って奴か?」
「だから、やめてくださいよ、からかうのは」
 そう言う林堂の表情には、力が感じられない。
「……お前、だいぶこたえてるようだな」
 品川は、心配そうに言ってから、すぐ近くにあるドリンクの自動販売機で、缶コーヒーを二本買った。
「――飲め」
「いただきます」
 そう言いながらも、林堂は、品川に渡された缶を手に持ったまま、開けようとしない。
「……紫蜥蜴と名乗る怪盗は、戦前のころからいたらしいですね。しかも、ほとんど活動期間が途切れることなく続いているとか」
 ぽつりと、林堂はつぶやいた。
「――そうなのか?」
「最近、知り合いに教えてもらった情報です。警部は知らなかったんですか?」
「ん、まあ……実は、警視庁の方に、そんな噂があるというのは聞いたことがある。ただ、県警の方に流れてくるのは、最近の事件に関するもの以外は断片的な話だけでな。自分は都市伝説のたぐいだと思ってたが」
 品川が、口元を緩めながら言う。
「もし、それが噂や伝説などではなく、本当のことだとしたら――」
「いや、林堂。それだと、何十年もの間にわたって紫蜥蜴は活動していることになるぞ。しかも、次々と代替わりをして……」
 そう言いかけ、品川は、口元に浮かんでいた笑みを引っ込めた。
「まさか、紫蜥蜴ってのは、そういうものだと言いたいのか? 単なる模倣犯ではなく、まるで伝統芸能の後継者みたいに襲名していると?」
「一子相伝の怪盗――探偵小説じみた話ですけど、ね」
「し……しかしだな、そんな簡単に、次の後継者が見つかるものなのか?」
「確かに、怪盗だなんてフィクショナルな存在に憧れるような人間が、そうそう歴代の紫蜥蜴の前に都合よく現れたとは考えにくいでしょうね。それに、もしいたとしても、その人物がおとなしく紫蜥蜴を襲名するかどうかは疑問です」
「そうだな。別の怪盗を名乗るかもしれん。怪盗になりたいなんて人間なんてのは、もしいたとしても、自己顕示欲の塊のようなヤツだろうしな」
「ええ……ですが、もし、紫蜥蜴を襲名させるためのシステムが構築されているのだとしたら……」
「システム? まさか、何かそういう組織が裏にあるとでも?」
「いえ、そこまでは……でも、もしかしたら……」
「智視ちゃん!」
 甲高い声が、林堂の言葉を中断させた。
「あ、瑞穂」
 広場に現れた瑞穂の姿を認め、林堂が声をかける。
「よかった……よかったよぉ! 心配したんだからっ!」
 瑞穂は、まるでぶつかるような勢いで、林堂に駆け寄り、しがみついた。
「あんな……あんなおっかない手紙渡されて……あたし……ホント、どうしようかって思ったんだからね!」
「きちんと品川さんに連絡してくれて助かったよ」
 瑞穂の背中に手を回しながら、林堂が言う。
 瑞穂は、林堂の胸に顔を埋め、子供のようにしゃくり上げながら、よかった、よかった、と繰り返した。
 瑞穂の頭に鼻先を埋めるようにしながら、林堂は、その秀麗な顔にようやく安堵したような表情を浮かべている。
 それは、安心のあまり、そのまま眠り込んでしまいそうなほどの顔だった。
「やれやれ……ご馳走様だ。中年には目の毒だな」
 品川は、苦笑いしながら、その場を後にした。



 式部由華の話題が未だマスコミを賑わしているある日、少女は、路地裏の店を訪れた。
 店と言っても、非合法な場所だ。
 そこは、不良少年少女の依頼のままに、その肌に刺青を彫るのを生業としていたのである。
 無数のピアスやタトゥーで体を飾った店の主人である中年男は、訪れた少女の清楚なたたずまいに、軽い驚きの表情を浮かべていた。
 少女は、男の驚きには無関心に、自らの胸元を指さした。
「ここに、紫色のトカゲを彫ってほしいんです」
 そして、相場の三倍はあろうかという現金を取り出し、男に差し出す。
 ――依頼どおりに刺青を彫った後、自らがこの少女の最初の犠牲者となる運命にあることを、男は知らない。


あとがき

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