プロローグ



 僕は、その夜、盛り場から駅への細い道を歩いていた。
 最悪の気分だった。飲めないお酒を無理に飲まされ、胃が悲鳴をあげている。
 そのことよりも、親しさを装った職場の人たちの下品なからかいが、僕の気分を暗澹とさせていた。
 職場の親睦を深めるのは結構なことだが、あの人たちは、なぜ人の私生活や性経験をねちねちと訊いてくるのだろう。それも、職場で最も立場の弱い、一番の新人であることの僕を、執拗に狙って。
 それとも、そういう話を軽く受け流すことのできない僕が悪いのだろうか?
 アルコールのためにふらつく頭の中で、なぜか意識は冴えている。ただ、不快な頭痛が、動悸とともに疼き、僕を悩ませた。
(向いてないんだな、勤めに……)
 その気分を、僕は、胃液とともにたまらず吐き出した。何度も何度も胃が痙攣し、涙がこぼれ、メガネのレンズに落ちる。
 細かな冬の雨が、冷たく体を濡らしていた。傘はない。
 でも、店であの人たちと一緒に口にした全てを吐き出して、僕はとてもすっきりしていた。
(仕事、やめよっかな……)
 そう、思ったときだった。
「……」
 声が、聞こえたのだ。
 細い、かすかな、弱々しい声。
 後で冷静に考えれば、聞こえるはずのない声だった。あの時、彼女は完全に機能を停止していたんだから。
 でも、僕は聞いたのだ。
「……た・す・け・て……」
 胃の中の物を吐き出すために入ったビルとビルの合間の汚い路地裏。空き箱やゴミが散乱するその場所の奥の方から、その声は聞こえた。
「……たす、けて……」
 僕は、まだちょっとしっかりしない足取りで、路地の奥に入っていった。
 毒々しいネオンの光は、ここまではほとんど届いていない。暗さに目が慣れるまで、僕はそこに立ち尽くした。
 あまり、気持ちのいい場所ではない。最近、この近辺で暴力団同士の抗争があって、人死にが出たって噂も聞いている。
「!」
 思わず、声が出そうになった。
 積み重なったダンボールの隙間から、足がのぞいている。汚れた、クツをはいてない細い足。
 僕は、あまり持ち合わせの無い勇気を振り絞って、そこまで歩みより、そして濡れて汚れたダンボールを取り除いた。
「あ……」
 吐息が、出た。
 そこにあったのは、ひどく無残な代物だったのだ。
 膝を抱えて、胎児の姿勢で横たわる、少女タイプのアンドロイド。
 ――アンドロイド。燃料電池で動く人造人間。人の形をした、チタンやカーボン・ファイバーやシリコンなどの塊。車も空を飛ばず、月より遠くに宇宙飛行士が行ったわけでもない現代において、最も“未来っぽさ”を感じさせるもの。
 僕が、夢を託そうとしたものだ。
 そのアンドロイドは、ひどく汚れ、裸同然の姿だった。いや、服どころか、人工皮膚までがところどころ破れ、脱落し、フレームや繊細な内蔵機器が剥き出しになっている。
 彼女は、あらゆるアンドロイドの規格通り、耳に当たる部分に丸いメンテナンス・ハッチがあった。その代わり、ネコの耳を模した聴覚センサが頭の両脇にあるタイプだ。それに合わせて、剥き出しの小さなお尻からは、長い尻尾が生えている。
 年齢設定は、ミドルティーンくらいだろうか。ただ、その年齢にしては、ちょっと体は小さめだ。だけど、胸部の燃料電池ジェネレーターを保護する高分子ジェル――つまり、そのう、胸の膨らみは、意外と豊かだった。
 小さな可愛い顔は汚れ、おっきな目は閉じられている。肩の上あたりで揃えられていたはずの、青みがかった黒色の髪は、雨と汚水に濡れてくしゃくしゃだ。
 胸が詰まるような感じがあった。
 誰が、彼女をこんなところに打ち捨てたのか。
 怒りと悲しみが、空っぽだった僕の心を満たしていく。
 僕は、コートが汚れるのも構わず、彼女の体をそっと抱きかかえた。最近の飛躍的な技術進歩を反映してか、その体は驚くほど軽い。
 僕は、工業専門高校を入学するときに抱き、そして卒業するときに失っていた気持を、取り戻していた。
「このコを、直さなきゃ……」
 そう呟いて、僕は、彼女を抱えて路地裏から出る。
 ちらちらとこちらを見る視線も気にならなかった。そもそも、都会の人々は無関心で、半ば壊れたアンドロイドを大事そうに持っている若い男なんかに、係わり合いを持とうなどとしない。
 僕は、久しぶりに顔をまっすぐ上げて、家への道を歩き出していた。



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