問題編
ほの暗い部屋に、シャッターを切る音が、連続して響いた。
被写体は、若い女だ。
十代の終わりくらいだろうか。少女と大人の女の、ちょうど中間といった年齢の娘である。
娘は、全裸だった。
「さあ……そこで足を開いて……父さんに全部見せなさい……」
カメラを構えた肥満した中年男が、声を上ずらせながら言う。
男も、娘同様、その体に何も身に付けていなかった。
その股間で、赤黒いペニスが、勃起している。
「沙耶……素敵だよ……。ああ、たまらん……。指で、そこを広げなさい……」
「恥ずかしい……恥ずかしいです、お父様……」
沙耶と呼ばれた娘が、大きな寝台の上で体をくねらせながら、言う。
「いいから、言われたとおりにするんだ……。さあ、早く……!」
「ああ……」
娘が、溜息をつきながら、大きく足を開き、自らの指で秘唇を割り開く。
「はぁ、はぁ……素晴らしいよ、沙耶……」
男は、陰茎をさらに固くしながら、何度もシャッターを切り、娘の痴態をフィルムに収めた。
「ふふふ……もう濡れてしまっているね……」
娘の秘部が、ランプを模した照明の光をきらりと反射させるのを見て、男が言う。
「いや……言わないで……」
「ああ、もう我慢できん……!」
男は、カメラをサイドテーブルに置き、娘の体に覆い被さった。
「ああ、駄目ぇ……」
娘が、その白い体をよじる。が、男の力には抗いようが無い。
「沙耶……沙耶……」
娘の名を繰り返しながら、男は、仰向けの彼女の首筋に厚い唇を押し付け、舌で乳房を舐め転がした。
美しい曲線を描く乳房の頂点で、桜色の乳首が、唾液にまみれながら勃起していく。
男は、快楽の反応を示す乳首を口に含み、ちゅばちゅばと音をたてながら吸い上げた。
「あん、ああんっ……あくっ……あふ……あああン……」
沙耶と呼ばれた娘が、甘い声を漏らしながら、体をくねらせる。
「お父様……いけません……いけませんわ……あん……ああんっ……!」
娘の言葉を無視するように、男が、その足の間に右手を差し入れる。
薄い恥毛に飾られた秘部を、太い指が、まさぐる。
「あうぅン……あっ、あああン……だめ……こ、こんなこと……だめです……あぁン……」
そう言いながらも、娘の体は、男の愛撫がもたらす快楽を拒み切れない。
男の指は、熱く濡れたクレヴァスに潜り込み、その内側をこすり上げた。
「あうんっ……! あっ、あああっ……! お、お父様っ……!」
娘の手が、男の右腕をつかむ。
それは、男の愛撫を制止しているようでもあり、さらなる快楽をねだっているようでもあった。
男が、さらに激しく指を抽送させる。
「あっ、やぁっ! やん、やぁんっ、やっ……!」
その蜜壷から愛液を溢れさせながら、娘がかぶりを振る。
だが、その声には、隠しようのない情欲の響きがあった。
「いくぞ……」
男が、ゆっくりと指を抜いてから、腰を娘の足の間に割り入れる。
その醜悪な肉棒は、静脈を浮かせながら天を向いていた。
右手で角度を調節し、男が、ペニスの先端を秘唇に食い込ませる。
そして、男は、まるで挿入の感覚をじっくりと楽しもうとするかのように、ゆっくりと腰を進ませた。
「ああああぁぁ……」
丸い亀頭部が娘の膣内を割り広げ、肉襞をこするようにしながら侵入していく。
初々しさを残しながらも成熟を始めた柔らかな膣肉が、男の肉幹を包み込んだ。
「あうううんっ……!」
体の内側を熱い肉塊に満たされる感覚に、娘は、満足げな息を漏らしてしまった。
男は、そのままの姿勢で、動こうとしない。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……ああ……お、お父様……」
突き出た腹に押し潰されそうになりながら、娘が、とまどった声をあげる。
「ふふ……動いて欲しいか?」
男は、その顔に下卑た笑みを浮かべながら、娘に訊いた。
「そ、それは……あん、あうん……はん……あああン……」
娘は、もどかしげに、体を動かした。
肉の楔を打ち込まれた娘の体が、さらなる快楽を求め、疼いている。
「ああ……お父様……お願い……お願いです……」
娘は、恥じらいに頬を染めながら、男に訴えた。
「ん? お願いとは何だね?」
「ああぁン……いじわるっ……」
そう言う娘の声には、まるで、男に媚びているようだった。
「動いて……動いて欲しいんです……ああ……お父様……沙耶をいっぱい愛して……」
「ふふふふふ……もっと下品な言い方で言ってごらん」
男は、たっぷりと唾液を乗せた舌で、娘の整った顔を舐め回しながら、言った。
「あああっ……お父様……沙耶の……沙耶のアソコの中で……お父様のペニスを動かしてください……はぁ、はぁ、はぁ……」
淫らな言葉を言うことでさらに性感と興奮が高まったのか、娘が、熱い息を漏らす。
「もっと、もっといやらしい言葉で言うんだ……!」
男は、狂気に近い情欲で目を血走らせながら、娘の乳首を摘まみ、捻り、限界まで引っ張った。
「あくううっ! ああっ、オマンコを……沙耶のオマンコをっ! お父様のペニスで……オチンポで、ずぼずぼっ! ずぼずぼしてくださいっ! きひいン!」
「ああ、可愛いよ、沙耶……!」
男が、本格的に腰を使いだす。
「あううっ、あんっ、あああんっ! あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ!」
娘は、男の体の下で、弓なりに反り返った。
「おお、いいぞ……お前のマンコが私のに絡み付いてくる……!」
男は、娘の反応に満足しながら、さらに腰の動きを加速させた。
ぐちゅぐちゅという卑猥な音が、広い部屋に響く。
「あああんっ……! お父様……お父様あっ……! す、素敵……!」
すっかり快楽に支配された娘が、男の背中に手を回し、強く抱擁する。
その形のいい長い脚が、男の動きに合わせて揺れ、爪先が宙で舞う。
「あああン、あく、はっ、はふっ、んはぁっ……! 奥に……奥に届いてますうっ! ああン、あひっ、っひいン!」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……くううっ……たまらん……! お前のマンコは最高だっ……!」
男が、歯を食いしばって射精をこらえながら、娘を絶頂に導こうとする。
二人の結合部から白く濁った愛液が垂れ落ち、シーツに卑猥な染みを作った。
「あひいんっ……! イクっ! イきますうっ! あああン……お、お父様ァ……! ああっ、ああああああっ、イ、イ、イクーっ!」
とうとう娘が、絶頂を迎えようとする。
「おおおおおっ、沙耶……沙耶っ……! いくぞっ……!」
そう叫んで、男は、最後のスパートに入った。
激しい摩擦が快楽に変換され、男と娘の神経を灼き、脳髄を痺れさせる。
「ああああああぁーッ! イクっ! イクっ! イクっ! イクっ! イックううううううううう!」
「うおおおおおおおおおおおおおおおお」
男は、成熟しきってない娘の体内に、大量の精液を放った。
「はひいいいいいいい! 熱いッ! 熱いいッ! ひあああああああああああああ〜っ!」
娘が、子宮の入り口に連続して浴びせられる精液の感触に、立て続けに絶頂を極める。
「おおっ、おっ、おおおっ、うおおおお……」
男が、腕立ての姿勢で体を反らし、娘の体内に精を注ぎ続ける。
「あああああ……うああっ、あっ、あああっ……はひいいいいいぃ……」
娘は、絶叫に声をかすれさせながら、ひくひくと体を痙攣させた。
男が、全身を弛緩させ、汗まみれになった体でのしかかる。
「はーっ、はーっ、はーっ、はーっ、はーっ、はーっ……」
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
二人の息の音が、部屋に響く。
「沙耶……お前は、一生、私のものだ……」
男が、娘の汗を舐めとりながら、そんなことを言う。
「ああぁ……」
娘は、父親の精液の温度の余韻をまだ膣内に感じながら、絶望と陶酔の入り混じった声を、その濡れた唇から漏らした。
田上芳恵は、天草の館での仕事が苦手だった。
格別にきつい仕事というわけではない。街からスクーターで1時間かけて、朝の8時に出勤し、家の中の雑用を片付ける。料理をする必要は無く、掃除と、洗濯、そして日用品の買物などが主な仕事内容だった。食事は、家人が作るか、自動車で30分ほどの距離にあるホテルから取り寄せているらしい。
仕事は昼前には終わり、スクーターで帰る。もし、買物について指示されていれば、帰りがけに買っておき、翌朝の出勤時にそれを館に運ぶ。報酬も良く、恵まれた仕事だと言えた。
古い洋風の館は広かったが、住んでいる人間が少ないせいか、掃除も大して苦にならない。
館には、天草久嗣と、その娘である沙耶が住んでいる。
だが、芳恵は、沙耶に会うことはめったに無かった。
沙耶は、一日中、自室にいるという。だが、その部屋の中に入ることを、芳恵は禁じられていた。
どうも、今年19になる沙耶という娘は、情緒に著しく不安定なところがあるらしい。それで、父親である久嗣は、その姿を家政婦に見せたくないのだろうという、専らの噂だった。
ごくまれに、沙耶らしき姿を廊下の端で見かけることもある。
昨日が、まさにそうだった。
白い肌が印象的な、整った顔の二十歳前くらいの娘が、廊下を歩いているのを、ちらりと見たのである。
しかしその時、芳恵は、努めて沙耶を見なかったふりをした。
沙耶の顔に、いかなる表情も浮かんでいないことが、奇妙に恐ろしく思われたのである。大袈裟に言えば、幽霊でも見ているような感じだった。
それ以前に沙耶を見かけたときも、同じように気付かないふりをしてきた。
沙耶の方からも、芳恵に話しかけてくるようなことは、けしてない。そして、それは昨日も例外では無かった。
その時は、久嗣はいなかった。
朝、芳恵が出勤すると、久嗣は既に外出の用意を整えているのが普通だった。久嗣は、山の麓の街でいくつかの会社の役員をしている。そして、毎朝9時前後に迎えにくる新崎という秘書が運転する自動車に乗り込み、街に下りるのだ。芳恵とは入れ違いである。
つまり、芳恵は、沙耶とひとつ屋根の下で二人きりなのだ。
そのことを、わざと意識から締め出しながら、仕事を片付け、昼前に預かった鍵をかけて家を出る。毎日が、その繰り返しだった。
週末などは、久嗣も家にいることが多い。だが、彼の方でも、芳恵の存在など目に入らぬ様子だった。
そういうわけで、芳恵は、天草の館での仕事を苦手に思っていた。いや、苦痛と言ってもよかった。
自分の前に勤めていた家政婦も、そのさらに前の家政婦も、1年ほどで、ここの仕事を辞めている。
自分もそうなるのではないかと、その日出勤しながら、芳恵は思った。いくら報酬が良くても、勤め先の家族と交流が無いのは、正直、つらい。
スクーターを所定の位置に停め、芳恵は、館のドアの前に立った。
「おはようございます」
挨拶をしながら、重いドアを開ける。
館の中は、いつものごとく、静かだった。
いや――静かすぎた。
いつもなら、すでに着替えを終えた久嗣が、リビングで食事をするか、タバコをくゆらせているはずの時間である。その気配さえ、今朝は無い。
家に上がり、一階を探してもみても、天草久嗣の姿は無かった。
芳恵は、奇妙な胸騒ぎを感じた。
今日は、日曜日である。通常なら出勤は無いはずだ。だから、久嗣は寝坊しているのかもしれない。
逆に、早く出る用事があったのかもしれない。すでに、秘書が運転する車でどこかに出掛けたということも、充分に考えられる。
だが、どちらにしても、ドアの鍵が開いていたことが、不審であった。
芳恵は、階段を上って、久嗣の部屋の前に立った。
ノックをしても、返事が無い。
芳恵の胸の中に不安が迫り上がり、心臓の鼓動を速めた。
「……失礼します」
芳恵は、ドアを開けた。
「ひ――」
芳恵が目を見開く。
ベッドのシーツが真っ赤に染まり、その上で、肥満した体に何も身に付けていない天草久嗣が、左側を下にして横臥していた。
喉がぱっくりと裂け、その顔には苦悶の表情が浮かんでいる。
右手に握られた携帯電話が、一定の間隔で液晶画面を点滅させているのが、どこかシュールだ。
芳恵は、ようやく、高い悲鳴をあげた。
「あれ? まひるちゃん?」
瑞穂が、新崎まひるの姿を認めたのは、林堂と連れだって駅前の映画館に入ろうとした時だった。
「瑞穂ちゃん……? うわあ、偶然だねえ」
師走とは思えないような、暖かな日曜日。人が行き交う歩道で、まひるはにこやかな顔を瑞穂に向けた。
「えーっと、その人……彼氏?」
「う、うん。そう」
まひるの言葉に、瑞穂が、少し顔を赤らめる。
「どうも、はじめまして。林堂です」
瑞穂の後を引き継ぐように、林堂は言った。
「へえ〜。カッコイイ人だね」
「そ、そっかな」
まひるの軽口に、瑞穂は、にへ、としまらない笑顔を浮かべた。一方、林堂は涼しげな顔だ。
「ところで、今日は、買い物? それとも、もしかして、映画観るとこかな?」
「え……? ううん、あたし、もう観ちゃった」
まひるは、瑞穂の問いに答えた。
「そっかあ。あ、でももし良かったら、一緒にお昼とかどう?」
「ええ〜、悪いよ。瑞穂、デート中なんでしょ?」
まひるは、その大きな目を見開いた。瑞穂同様、表情が豊かだ。
「ん、あー、そうなんだけどぉ……」
「別に俺は構わないけど? 映画は、次の回もあるし」
林堂は、穏やかな笑みを浮かべ、口ごもる瑞穂に言った。
「でも、遠慮しとくよ。あたし、もう帰らないといけないし」
まひるが、ぱたぱたと手を振りながら言う。
「そっかあ……」
「じゃあね。今度、ゆっくり話しよう」
そう言って、まひるは、大きめのバッグを肩に抱え直し、振り返った。
「あ、まひるちゃん。値札」
瑞穂は、歩きかけたまひるに言った。
「へ?」
「カーディガン、値札ついたままだよ」
「あっ……えへへへへへェ」
まひるは、薄手のカーディガンの襟の後ろ側を手で隠すようにして、照れ笑いを浮かべた。
「もう、そそっかしいなあ。相変わらず」
くすくす笑いながら、瑞穂が言う。
「相変わらずってことないでしょ、もう〜」
まひるは、怒ったふりをしながら、その場から立ち去った。
「…………」
雑踏の中に姿を消したまひるの方に目を向けながら、林堂は、右手で口元を押さえる。
「あ……えーっとねえ、あの子は、小学校のころからの友達」
瑞穂は、林堂に向き直り、聞かれもしないうちから言った。
「小学校がもうすぐ卒業って時に急に引っ越しちゃってね……。まあ、その後も、何度か会ってたんだけど、最近はあまり会ってなかったなあ。学園祭の時には遊びに行ったけど」
「へえ……」
「あの子、あれで聖倫女子なんだよね」
瑞穂が名前を上げた学校は、この一帯でもトップクラスのお嬢様学校だった。
「ふうん」
林堂が、瑞穂にしか分からない程度の素っ気無さで、言った。
「……なあに? もしかして、デートの邪魔されて怒っちゃった?」
むしろ嬉しそうに、瑞穂がそんなことを言う。
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
林堂の口調は、はっきりしない。いつも年齢以上の落ち着きを見せる彼にしては、珍しいことだった。
「……?」
瑞穂が、そんな林堂の様子を察して、小首を傾げる。
「何だか……」
「なに?」
「あ、いや……何だか、瑞穂に雰囲気が似てたな」
「もー、そんなこと無いよう。あたしは、まひるちゃんみたいにソコツ者じゃないもん」
「おいおい、久しぶりに会った知り合いにずいぶんひどいこと言うな」
ようやくいつもの調子を取り戻したかに見える林堂が、そう言って苦笑いする。
「ま、それはともかく……そろそろ入ろうぜ。立ち見になるかもしれない」
「そうだね」
屈託の無い口調でそう言って、瑞穂は、林堂と並んでチケット売り場の列に並んだ。
数日後、帰り支度をしている林堂の元に、瑞穂が近付いてきた。
その顔は、暗い。
「……何かあったのか?」
林堂が、周囲に他の生徒がいないことを確認してから、瑞穂に訊いた。きょう一日、彼女が浮かない顔をしていたことに、林堂は気付いている。
「うん……えっとね……」
声を潜めながら、瑞穂も、周りを見回す。
「ちょっと込み入った話なんだけど……」
「屋上ででも話すか?」
「ん……それが、いいかもしんない」
「コート着ろよ。たぶん冷えるぞ」
「うん」
瑞穂は、こっくりと肯いた。
瑞穂の話は、新崎まひるに関することだった。
尋常の話ではない。まひるが、人を殺した疑いで警察に拘留されているというのである。
それも、ちょうどまひるが瑞穂と偶然に会った日――その日の昼過ぎに、帰宅したまひるが、家にいた同年代の少女を殺してしまったというのだ。
それは、疑いというよりも、それは明らかな事実であった。
情報の出所は、瑞穂の母親だった。瑞穂の母は、小説から雑誌記事まで何でもこなすライターで、警察やマスコミ関係にも顔が利く。
その瑞穂の母がうっかり漏らした話を、瑞穂は、強引に聞き出したのである。
状況に、色々と不自然な点のある事件だった。
その日、まひるの両親は、自宅にいた。そして、まひるが帰宅する直前の、午後1時30分ころ、この両親が“襲撃”を受けたのだという。
二人を襲ったのは、天草沙耶という、19歳の少女であった。
新崎一家と、全く無関係ではない。彼女は、まひるの父である新崎照夫の雇用主、天草久嗣の一人娘だった。
天草久嗣は、いくつかの会社を経営する資産家であり、新崎照夫はその秘書であった。新崎家にとっての天草家は、古くからの主筋の家柄であり、この平成の世の中でも、天草久嗣は、新崎家にとって主君のように振る舞っていたらしい。瑞穂たちが住むこの街は新興都市であるが、少し郊外に出ると、驚くほど旧弊な慣習がまかり通っているのだ。
そんな、言わば新崎家にとっては“お嬢様”である沙耶が、刃物を持ち込んで新崎家に上がり込み、夫妻に切りかかったというのである。にわかには信じ難い話だった。
そして、そこに帰ってきたまひるが、沙耶を止めて、刃物を奪い取ろうと揉み合っているうちに、弾みで彼女の胸を刺してしまったというのである。
以上が、まひると、その両親の証言であった。もしそれが全て真実だとするなら、まひるの行為は、自身や両親を守るための正当防衛だと言える。
だが、警察は、その証言を全面的に信じることをしなかった。
警察が不審を抱いたのは、ひとえに、その状況の異常さゆえだった。
そもそも、なぜ沙耶が新崎家に乗り込み、新崎夫妻に襲いかかったのか。
立場的に言えば、天草沙耶は、新崎夫妻よりもよほど社会的に強者であった。沙耶の不興を被れば、新崎家は天草久嗣によって制裁を受ける。それほどに、新崎家は天草家に従属しており――そして、久嗣は、娘である沙耶に甘かったらしい。
ただ、一方で、沙耶の精神状態が尋常でなかったとの話もある。もともと、彼女は情緒が著しく不安定で、小学校のころから、学校にはほとんど行っていないということなのだ。
とは言え、沙耶は知能や精神に障害があるというわけではなく、普段はごくごくおとなしい少女だったらしい。
何にせよ、沙耶が死んだことで、彼女が新崎一家を襲った理由については、推測の域を出ることは無くなったと言えた。
「しかし……何だか、ずいぶんと常識から外れた話だな」
冷たい冬の風に声を吹き飛ばされながら、林堂は、瑞穂に言った。
「そう思う?」
「不自然だとは思うよ。だからこそ、あの新崎まひるって子も、なかなかその主張が認められないんだろう?」
「うん……。それにね……変なことは、まだあるの」
瑞穂は、そう言って、寒そうにコートの襟を掻き合わせた。
「その、沙耶さんの家ではね、沙耶さんのお父さんが、死んでたんだって」
「…………」
林堂が、一瞬、驚きに目を見開く。
そして、林堂は、手で口元を押さえながら、切れ長の目を細めた。
「……という話だそうですね」
「まったく、どこからそんな話を聞き付けてくるんだか……」
いつも待ち合わせに使われる喫茶店の中で、品川警部補は、林堂の言葉に眉をひそめた。
林堂が、瑞穂の話を着いた翌日の夕方である。もちろん林堂は、品川との話の中で、瑞穂や、その母親の名前は出していない。
「話の方が向こうからこっちに来るんですよ」
「それが、あながち嘘だと思えないのがタチが悪い」
品川が、自らの口ひげを噛むような表情でそんなことを言った。
「で、天草久嗣氏の死に方はどのようだったんですか?」
「今のところ、表向きはただの変死だがな」
「そう言えば、ここ数日の新聞を見返してみたんですけど、扱いがすごく小さかったですね。天草沙耶についてもそうだったですけど」
「天草の家にはまだ本家があってな。そこから圧力がかかったんだ」
「圧力って……そんなに簡単にいくもんなんですか?」
「まあな。それだけ、この県では天草一族の力が強いということさ」
「どうも、世の中ってのは――」
言いかけて、林堂は口をつぐんだ。
「また、何か生意気なことを言おうとしたな」
品川が、苦笑いしながら言った。
「途中で止めたんだから見逃してくださいよ」
林堂が、珍しく照れたような笑みを浮かべる。
「で、状況なんだが……天草久嗣は、寝室のベッドで、首をかき切られていたんだ。凶器は恐らくナイフ……それが、部屋の付近に無かった以上、まあ殺人と断定していいと思う」
品川が、真顔に戻って言った。
「部屋の鍵は?」
「かかってなかった。密室でもなんでもない。それと、奇妙な点と言えば、遺体の周囲には特に争った形跡が無かったこと。そして……天草が全裸だったことだな」
「――殺害後に脱がされた訳ではなく?」
「ああ。何しろ、シーツが真っ赤になるくらい大量の血が出ていたんだが、血痕のついた着衣は発見できなかった。それに、始末された様子も無い」
「……死亡推定時刻は?」
林堂は、特に表情を変える事なく、訊いた。
「天草沙耶が新崎家を襲撃する前の夜――午前2時の少し前だ。これには、確証がある。死ぬ直前に、天草は助けを求める電話をかけていたんだな」
「電話を? 誰にですか?」
「それが分からないんだ。いや、正確には、誰にかけるつもりだったか分からない、と言うべきか」
「どういうことです?」
林堂が、かすかに眉をしかめながら訊く。
「致命傷を負いながらもまだ息のあった天草は、枕元の携帯電話を取ったんだな。それで、朦朧としながらもボタンを操作し、誤ってボイスメモのスイッチを入れてしまったらしい。そして、それと知らずに助けを求めたわけだ」
「なるほど……。それで、時間が特定できるという訳ですね」
「ああ」
「で、その時刻、家にいたのは誰だったんですか?」
「そもそも、天草の家は山の中の一軒家でな。自分の地所の中に、でんと大きな館を構えてたんだ。で、そこで、天草は娘の沙耶と二人暮らしだったらしい」
「使用人とかは?」
「通いの家政婦が1人、出入りしていたらしいが、いつも昼頃には帰宅させてたようなんだな」
「じゃあ、その時間帯、通常であれば、家には殺された天草氏と、あと沙耶という娘しかいないわけですね」
「まあな」
「沙耶の母親――天草久嗣の妻は、どうしたんです?」
「失踪している。6年前のことだ」
「……ますます複雑ですね」
「ああ。それに、どうやら家には久嗣の情婦らしき女が出入りしていたらしい。それこそ、傍若無人にな。名前は、佐井村美津子というんだが」
「その女性は?」
「実は、事件以来、行方をくらましている」
「…………」
「この時点で、誰がやったか、というふうに訊いたら、どう答える?」
品川が、どこか挑戦的な口調で言った。
「確かに、乱暴な質問のような気もしますけど……被害者の状況を考えるなら、そうでもない、と言いたいんでしょう?」
言いながら、林堂が右手で口元を隠す。
「ああ。一人の男が殺され、その妻は6年前に失踪しており、娘は事件の翌日に男の秘書の家を襲い、情婦は足取りがつかめない。そして、それ以外の関係者は、特に不審なところを見せていないんだ。まあ、新崎夫婦やその娘は、また別の意味で特別な立場だがな」
「――鍵になるのは、久嗣が全裸だったということでしょうね」
「ああ。どうやら、直前まで風呂を使っていたらしく、バスローブがベッドの近くの椅子にかけてあった」
「しかし、大人の男がそんな格好をさらしていられる相手は、特定されてくる……」
林堂は、そう言って、目を閉じた。
「でも、やはり、沙耶を容疑者から外すことはできませんね」
「…………」
品川は、小さく、溜息をついた。
「つまり、あれか……親子の間での、そういうことを疑ってるわけか?」
「ええ」
林堂の返事は、短く、そして迷いが無い。
「ちょうど、そういうことをする直前なら、互いに全裸であったとしてもおかしくはない。それならば、殺害者は、自分の服に返り血を浴びる危険を回避することができますしね。少なくとも、体についた血の方が、服に付着したそれよりも始末はしやすいでしょう」
「凶器は、どう隠す?」
「枕の下に忍ばせて、ベッドで男を待っていればいいでしょう」
「つまり……もしそういう関係があったとしたなら、それは、常習化していたということだな」
「常習という言葉が適当かどうかは分かりませんけどね。確か、この国には近親相姦を禁ずる法律は無かったはずですよ」
「しかし、スキャンダルとしては相当なものだ」
「ええ、もちろん」
そう言って、林堂は、閉じていた目を開き、冷めかけのコーヒーに手を伸ばした。
「……警察としては、その結論に簡単には飛びつけない訳ですね」
コーヒーを少し飲んでから、林堂は言った。
「ああ。例によって、天草一族の圧力でな」
自嘲的な口調で、品川が言う。
「それに、今の話だと、久嗣の情婦が失踪する理由が説明できない」
「それを言うなら、そもそもその後の沙耶の行動なんか、まるきり説明できないですよ」
林堂が、皮肉げな口調で言う。
「沙耶が街に現れたのは翌日の昼過ぎですよね。第三者によって天草氏が殺されたのだとしたら、その時に沙耶が家にいてもいなくても、状況はあまりに不自然です」
「確かに、沙耶が久嗣を殺し、その後、血を浴びた体を洗うか何かして、朝を待って家を出たと考える方が、まだ自然かもな」
「まあ、家の外のどこかに潜伏してたかもしれませんけどね。天草の館から街へのアクセスは、どんな感じなんです?」
「自動車で1時間。電車で2時間といったところだな。沙耶は、免許を持っていなかったようだが……そもそも天草の館には車が無かったがな」
「最寄りの駅までの距離と、始発と終電は?」
「確か……歩いて30分ほど。で、始発は5時ちょっと過ぎだったな。終電は11時半ころだ」
品川が、用意していたメモを見ながら、答える。どうやら林堂の質問を予想していたらしい。
「通いの家政婦は、天草氏が殺された前の日、沙耶が家にいたのを見ているんですか?」
「ああ。普段はめったに部屋から出ないそうだが、その日はたまたま見かけたらしい。」
「天草氏の死体を発見したのも、家政婦ですか?」
「その通りだ。朝の8時に出勤したところで、発見した」
「そして、その時には沙耶はいなかったと……。やはり、沙耶以外の人間を犯人として考えるのは不自然ですね。その後で、沙耶がナイフを持って新崎夫妻に襲いかかっているわけですし」
「御説ごもっともだよ。私だってそう思う」
「沙耶の持っていたナイフからは、天草氏の血液は検出されなかったんですか?」
「実は、されているんだ。沙耶以外の血液が……しかも、久嗣の血液型と一致するものがな」
「……なら、もう確定じゃないですか」
林堂は、半ば呆れたように言って、ソファーの背もたれに体を預けた。
「沙耶が、近親相姦の関係にあった父親の首を、枕の下に隠していたナイフで切り、一度浴室で体を洗う。その間、虫の息の久嗣が、携帯電話を手にするが、操作を誤り、助けの電話をボイスメモに残すのみで息絶えてしまう。それから、沙耶は、朝になるのを待ち、電車で街まで出て、父親の秘書をやっている新崎夫妻を襲撃する。そこに、帰宅したばかりの新崎夫婦の娘が現れ、揉み合いの末に沙耶を刺し殺してしまう……」
品川は、まるで何かを暗唱するかのように、すらすらと言った。
「確かに、それと矛盾する証拠は、今のところ上がっていない。だが、やはり引っ掛かる。どうにも不自然だ」
「…………」
林堂は、右手で口元を隠したまま、何も言わない。
だが、その無言は、品川の言葉に同意しているようにも取れた。
「それに……問題のボイスメモに残された久嗣の言葉が、また不可解でな」
そう言って、品川は、ポケットから取り出したメモ帳を開いた。
「こんな感じだったんだ」
そう言って、ボールペンで走り書きされた文字を、林堂に見せる。
畜生――やられた――助けてくれ――沙耶が、殺される――
「…………」
林堂は、しばしメモ帳を睨んだ後、顔を上げた。
「“沙耶が、俺を殺した。俺は、殺される”と言いたかったんだと解釈することもできますよね?」
「言葉の上ではな。だが、実際に聞いてみれば、そうは言えないと思うぞ」
「…………」
「何と言うか……喉に何かが詰まったような、ごぼごぼ言う声でな。真剣に、娘のことを案じているような言葉だった」
「……ダイイングメッセージ、か……」
林堂が、品川に聞こえないように、つぶやく。
「どうにも気になる……。勘とか、そういう感じなんだがな。まあ、それが無くとも、沙耶が新崎夫婦を襲う理由が判明したとしても、この気持ちは消えないだろうな」
品川は、半ば独り言のように、そう言った。
「なるほど……」
林堂は、しばし口を閉ざした。
品川が、すっかり冷めたコーヒーで喉を潤す。
「新崎まひるについては、警察は何かつかんでますか?」
「学校の関係者に聞くと、特に変わった様子の無い、普通の女の子だったようだな。いや、明るく楽しい子だ、と言う評価が多かったな」
「…………」
「ただ、これは新崎の家の近所の噂なんだけどな――たまに、家の中で何か争うような音や、金切り声のようなものが聞こえたらしい」
「……家の中では乱暴者だった、と?」
「断定はできない。何しろ、ほとんど近所付き合いの無い一家だったようでな。まあ、そんなことは今どき当たり前なんだが」
「そうですか……」
林堂は、何かを思い出すような目で、斜め上を見上げた。
「……新崎まひると、天草沙耶の写真、借りることができますか?」
ふと、林堂が、そんなことを言う。
「ああ。新崎まひるの方は、学校のアルバムに使った写真を借りてる。あと、沙耶の方だが……こっちはなかなか写真が見つからなくてな」
品川は、そこで言葉を切ってから、続けた。
「久嗣は、写真が趣味だったようで、自宅の中に暗室を作るほどだったんだ。しかし、見つかったのは風景写真ばかりでな。人物の写真はほとんど無かった。まあ、部屋にこもりきりの娘の写真なんかは撮ろうとは思わなかっただろうがな」
「まあ、そうでしょうね」
「ただ、久嗣が机の奥に仕舞っていたものがある。それをあとで渡そう」
「ありがとうございます」
林堂が、口元から手をどけ、頭を下げた。
さらに、数日後。
林堂は、まひると沙耶の写真を、自室でじっと見比べていた。
まひるの写真は、高校での行事の際に撮られたものらしい。あの表情豊かな顔が、カメラに向かって屈託なく笑いかけている。
一方、沙耶のそれは、写真屋のスタジオか何かで撮られたもののようだ。高そうなドレスを着て、椅子に腰掛けて、レンズの方を無表情な顔で見つめている。
黒いドレスのせいで、その肌の白さが際立っていた。
「……似てる、かな?」
写真を見比べながら、ぽつりと、林堂はつぶやいた。