問題編
彼女は、暗黒と静寂の中を、浮遊していた。
(あっつい……)
全身を拘束された状態で、西永瑞穂は、そんなふうに思った。
ラバー製のキャットスーツの中に、熱が籠もっている。
体にぴったりとフィットする、ダイビングスーツに似た構造の、上下一体の服だ。あちこちにベルトと金具が取り付けられており、着ている者の姿勢を思いどおりに固定することできるような構造になっている。
それに加え、瑞穂は、やはりラバー製の長手袋とブーツを身に付けていた。
顔は、口枷を噛ませられた上に、全頭マスクを被せられている。アイマスクをされ、目に当たる部分のカバーも閉められているため、瑞穂は、自分が目を開けているのか閉じているのかさえ分からないような状態である。イヤーウィスパーを耳の中に入れられているために、ほとんど音も聞こえない。
瑞穂の体で外に露出しているのは、マスクの後ろから出されたポニーテールの髪の毛のみであった。
瑞穂の体を包む衣装――いや拘束具は、いずれも、瑞穂の彼氏である、林堂智視が用意したものである。
もちろん、今の状態も、林堂の求めに応じたものだ。
今、瑞穂は、両腕をぴったりと体の側面に固定され、脚は体育座りの形に戒められている。
さらには、瑞穂の膣内には、リモコン式のローターが入れられている。サイズが小さく、動いてもいないので、今のところ違和感があるだけだが、林堂はコントローラーでいつでもそれにスイッチを入れられるはずだ。
瑞穂は、ゴロゴロという鈍い震動を、耳でなく、体の骨で聞いている。
林堂の事前の説明によれば、今、瑞穂は、特大のスーツケースの中に入れられて、彼の自宅のあるマンションに運ばれている状態のはずであった。
瑞穂の家から、林堂の家まで、歩いて二十分ほどの距離だ。
しかし、瑞穂は、すでに時間の感覚を失って久しい。
体の下にクッションを敷き、胸と膝の間にも枕を抱いているような格好なので、まだ、それほど体の方はきつくなっていないが、それでも不安感はある。
視覚と聴覚を剥奪され、完全に動きを制限されて、荷物のように運ばれる自分。
まるで、悪人に拉致されているようだ、と考えた瞬間、籠もっていた熱が、きゅうん、と下腹部に集中した。
(あ……ヤダ……)
マゾヒスティックな快楽の予感が、惨めに拘束された肢体をぞくぞくと震わせる。
と、その瞬間を見越していたかのように、膣内に挿入されていたローターが震動を始めた。
「ふぐぅ……!」
びくん、と瑞穂が身じろぎする。
が、拘束され、四角い闇に閉じ込められたその体は、それ以上の動きを許されない。
ジジジジジジジジジジ……。
体内で響く音にならない音が、甘やかな刺激となって瑞穂を攻める。
「んっ、ふ、ふぐ、ん、んん、んぅぅ……」
悲鳴をあげることもできず、瑞穂は、自分の中で急速に育っていく快楽を成す術もなく感じているしかなかった。
震動が、強くなっていく。
スーツケースを運んで入る林堂が、リモコンを操り、電波を介して自分の敏感な部分を攻め立てているのだ。
が、瑞穂には、自分がどれだけ感じているのかを伝えることができない。
苦しさと、惨めさと、悔しさと、それを圧倒する津波のような愉悦が、体のうちで迫り上がり、涙となって溢れる。
自分の秘裂は、はしたなく大量の愛液を滴らせているだろう。
汗と、涙と、唾液と、淫らな蜜が、密閉されたスーツの中で生温かく蒸れ、肌を濡らす。
もう、瑞穂は、自分がどんなカタチをしていたかさえ、忘れそうになっていた。
目も、耳も、口も塞がれ、鼻は呼吸するためだけの穴となり、皮膚感覚はラバーの膜の中で均質化されている。
まるで、サナギの中でドロドロにとけている白い原形質のようだ。
そんな中、膣内だけが、鮮烈な快感を感じ取り、神経を通じて全身をビリビリと震わせている。
スーツケースという疑似的な子宮の中で、瑞穂は、自身の子宮にまで響く快楽の波動のみを、感じていた。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ、ふーっ……!」
マスクに開けられた目立たない呼吸穴を通じて、鼻だけで息をする。
酸素が、足りなかった。
じわあん、と脳が痺れる。
だが、今の瑞穂にとっては、それすらも快感だ。
脳髄がとろけてしまったような快感の中、瑞穂の体が全身で絶頂を貪ろうと準備をする。
と、不意に、震動が止んだ。
たとえようもない喪失感とともに、かすかに、理性が戻る。
「んふー、んふー、んふー、んふー……」
とりあえず、呼吸を整えようとする。
いつ、震動が再開するか分からないのだ。その時にさっきのような酸欠状態のままでは、失神してしまうことも考えられる。
そのまま、しばし時間が過ぎた。
「ふー、ふー、ふー、ふー……」
まだ、ローターは動かない。
そして瑞穂は、自分がローターの震動を待ち侘びているということに、唐突に気付いた。
敗北感を伴った快感が、かすかな痛みとともに温かく胸に広がる。
と、がくんというショックとともに、かすかな浮遊感を感じた。
(着いたのかな……?)
がく、がく、と瑞穂が入っているスーツケースが揺れる。
どうやら、段差のあるところで林堂が苦労しているらしい。
林堂は、あまり力のある方ではない。瑞穂は少しだけおかしくなった。
しばらくの間、そのまま放置される。
不審に思い始めた時に、瑞穂の入ったスーツケースが、動いた。
(あれ――?)
ぐら、と世界が傾く。
(倒れちゃう――!)
瑞穂は焦ったが、衝撃はほとんどなかった。かなり注意して横にしたらしい。
瑞穂にとっての左側――今は上側の圧迫感が、無くなった。林堂がスーツケースの蓋を開けたのだろう。
ぐい、と持ち上げられた。
ラバー越しに、自分を抱き抱えている腕の感触を感じるが、それが本当に林堂の腕なのかどうかは、確証が持てない。
横抱きの、俗に言う“お姫様抱っこ”の形だが、瑞穂は、ときめきの感覚とは程遠いところにいた。
こちらの動きと感覚が制限されてるため、まるで荷物として運ばれているような感じである。
どさ、とベッドの上らしき場所に投げ出された。
(智視ちゃん、乱暴……)
痛くはなかったが、少しだけ腹が立つ。
と、林堂が同じベッドに上がる気配があった。
「ふぐ……」
手が、無遠慮に瑞穂の脚を開き、足首を何かに固定する。
どうやら、スプレッダーバーと呼ばれる拘束用の棒の両端に、足首の金具をそれぞれ固定されたらしい。瑞穂の脚は、はしたなく開いたまま、あっけなく動かなくなってしまった。
(智視ちゃん……もしかして、このまましちゃうのかな?)
瑞穂は、ふと、そんなことを思った。
(あたし、こんなカッコなのに、智視ちゃんってばどうしてコーフンできるんだろう……?)
外見上、今の自分は、人の形をまねた、黒一色のラバーの固まりのように見えるはずだ。ポニーテールにまとめられたまま、マスクの後ろ側の隙間から出されている髪が、わずかに瑞穂の個性を示しているに過ぎない。
キャットスーツの股の部分のジッパーが、開けられた。
瑞穂が着ているキャットスーツには、胸と、股間の部分に、ジッパーがある。胸の部分のジッパーは着脱のためのものであり、股間のそれは、言うまでもなくプレイ用だ。
外気が冷たく感じられ、性感とは別の心地よさを、かすかに感じる。
と、林堂の指が、瑞穂の秘裂に触れた。
「んっ……」
ぬぶっ……。
すでに淫らな蜜で潤っている瑞穂の膣内に、林堂の指が何の抵抗も無く侵入していく。
そして、指は、瑞穂の中に入ったままのローターを、かき出すように外に出した。
「んふぅ……」
触れられ、指を入れられて、瑞穂の女の部分が、甘く疼く。
が、林堂は、瑞穂のそこをそれ以上愛撫しようとはしなかった。
「ふっ……!」
熱い感触が、クレヴァスに押し付けられる。
(これって……智視ちゃんの……?)
すでに何度も体内に迎え入れた牡の器官の感触を、瑞穂は思い出してしまう。
(そ、そんな、いきなりなんて……)
だが、林堂の方に躊躇は無いようだった。
バーによって開かれた脚の間に体を置いた林堂が、ずぶずぶと剛直を瑞穂の膣内に挿入する。
とうとう、根元まで挿入された。
「んふ……!」
ペニスが、膣内を前後に動き始める。
容赦のない快感が、瑞穂の下腹部から全身に広がっていった。
「ふっ、ふうううっ……! んっ、んふっ、ふっ、ふぐう……!」
口枷の隙間から漏れる悲鳴が、全頭マスクの中でくぐもりながら響く。
が、イヤーウィスパーで耳を塞がれた瑞穂には、自分の声さえ、どこか遠いもののように思えた。
ましてや、林堂の息遣いなど、聞き取りようがない。
ずるる、ずるる、ずるる、ずるる……。
林堂のペニスが、瑞穂の体内を容赦なく擦っている。
それによって生み出される快感に体をくねらせながら、瑞穂は、今まで感じたことのないような惨めさに打ちのめされていた。
(やっ……いやあ……こんなの……こんなのってないよぉ……!)
愛撫も、睦言も、接吻もない、ただ性器と性器だけで行われるセックス。
肌を重ねることはおろか、次第に高まる相手の息遣いすら、感じることができない。
それなのに、被虐の快感に慣らされた体は、瑞穂の気持ちを裏切って快楽を貪り続けるのだ。
「ふぐっ! んふうっ! んうっ! ふっ! んふーッ!」
ペニスの先端が、子宮口にまで届いている。
体の奥を突き上げられるような重苦しい感触すら、快感として受け止められるほどに、瑞穂は開発されていた。
だというのに、肝心のその開発した男の顔を見ることができず、声を聞くことすらかなわない。
腰の中で暴れる快楽が激しい分、もどかしさは胸を焼かんばかりだ。
(ひどい、ひどいよぉ……こんなふうに、するなんて……こんなふうに感じさせられちゃうなんて……っ!)
秘部が、まるで失禁でもしたかのように愛液を溢れさせているであろう事を、瑞穂は確信していた。
林堂の肉棒も、かつてないほどに、固くいきり立っている。
間違いなく、これまで与えられてきた中で最高の快楽。
それでも、今の瑞穂は、林堂を恨みさえしていた。
(こんな……こんなことするなんて……ぜったいに許さないんだからっ……!)
その強い気持ちが無ければ、瑞穂は、あっというまに快楽の大波にさらわれ、立て続けに絶頂を極めていただろう。
達することを耐えているために、快楽だけが、ぐんぐん膨れ上がっていく。
今までも、拘束され、どうすることもできない状態で犯されることは何度もあった。
奴隷か牝犬のように扱われることの快感を、二十歳前にして、瑞穂はこの同級生に教え込まれている。
それでも、ここまで徹底されたのは初めてだ。
今の瑞穂は、林堂の命令を聞くことすら、許されていない。
命令を聞くことができないということは、もはや瑞穂は奴隷ですらないということだ。
自分が性欲処理のための道具に成り下がったように感じられ、瑞穂は、危険なほどに高まった被虐の快感に身悶えする。
泣きたいほどの惨めさと悔しさに――瑞穂は、唯一林堂と接している器官を激しく収縮させた。
まるで、その部分で剛直を食い千切らんばかりの締め付け。
林堂の抽送に、かすかなとまどいとおどろきの色が現れる。
瑞穂は、まるでそれによって自分の存在を認めさせようとするかのように、一心に膣肉を蠢かせた。
瑞穂の体内の動きに誘われるように、林堂の動きが早くなる。
そのことに、ようやく、瑞穂の気持ちが和らぐ。
(あっ……!)
一瞬の隙を突いたように、快感が、後戻りできないほどに高まった。
(ダメぇ……まだ、智視ちゃんイってないのに……!)
しかし、瑞穂は、体内の熱いうねりをどうすることもできない。
(イって、イって、イって、イってっ……! 智視ちゃんも、あたしと一緒にイってよおっ……!)
瑞穂は、必死になって、膣肉で林堂の肉茎を搾り上げた。
(あたしだけイかせるなんてことしたら、ぜったいに許さないんだから……ッ!)
拘束された体の中で、熱せられた甘い蜜が溢れそうになるのを、必死にこらえる。
と、膣壁を擦る林堂のペニスが、ぐうっ、と一際大きくなったように感じられた。
苦しいくらいの圧迫感が、限界まで膨らんだ水風船を破裂させる針の役割を果たす。
(イク……イっちゃううううううううううううっ!)
「ふぐ――んっふぅううううううううううううッ!」
絶頂を迎えた瑞穂のその部分に、どばあっ、と熱い精液が溢れた。
激しい勢いで迸るスペルマが、何度も何度も瑞穂の子宮口に浴びせられる。
(イクっ! イクっ! イクっ! イクっ! イクっ! イクーっ!)
まるで神経に電流を流されたような快感。
林堂に対する負の感情は全て吹き飛び、ただ激しい快感の波が瑞穂の体を揺さぶり、悶えさせる。
暗黒と静寂の中、瑞穂は、閃光のような快楽に貫かれ、びくびくと体を痙攣させ続けた。
「んふぅ……」
マスクを脱がされたところで、目が覚めた。
視界が、ぼやけている。汗で濡れた額に前髪が張り付いてる感覚が、妙に鮮明だ。
ゆっくりとイヤーウィスパーが抜かれ、口枷が外された。
ようやく、瞳の焦点が合う。
前を開けたカッターシャツだけをまとい、あとはほとんど裸の林堂が、瑞穂を見下ろしていた。
「痛いとこ、無いか?」
そう訊いてくる林堂に、瑞穂は、こくん、と肯いた。
林堂が、その秀麗な顔に淡い笑みを浮かべ、ちゅ、と軽くキスをしてくる。
どんなに優しくされても許すものか、と思っていたはずの気持ちが、他愛なく溶けてしまっているのを、瑞穂は感じていた。
「……智視ちゃんの、バカ」
精一杯の抵抗として、それだけを言う。
「シャワー、浴びるか?」
憎たらしくなるほど優しい口調で、林堂が言った。
「……あたし、汗くさいかな?」
つい、心配そうな声で、そう訊いてしまう。確かに、今の瑞穂は、汗と、それ以外の体液にまみれている。
「瑞穂、可愛いよ」
林堂が、ちゅっ、ちゅっ、と軽いキスを繰り返しながら、直接は関係ないことを言ってくる。
「バカぁ……」
「シャワー、どうする?」
「オフロの方がいい」
「分かった。湯は沸かしてあるから、すぐ入れるよ」
瑞穂は、林堂の言葉に、再びこくんと肯いていた。
「今夜、泊まってくか?」
「ううん。明日の朝にはお母さん戻ってくるから、それまでに帰らないと」
「分かった。送ってくよ」
「……」
「なんだよ?」
「もう少し残念そうな顔しろー!」
風呂から上がり、冷たい麦茶で喉を潤しながら、瑞穂と林堂はそんな会話を交わしていた。
瑞穂が着ているのは、林堂が彼女の家から持って来たTシャツと無地のスカートだ。
「いや、残念だよ」
「むうう〜」
「あまり、お袋さんに心配かけない方がいいだろ。俺にだってそれくらいの分別はあるってことさ」
瑞穂の母親は、小説家兼フリーライターであり、仕事のために都心の方へ出ずっぱりになっていることが多い。
そうやって、女手一つで瑞穂を育ててきた瑞穂の母親に対して、林堂は素直に尊敬の念を抱いているようだ。
一方、林堂の両親も、この家を空けていることが多い。林堂によると“二人して気ままに生きてる”ということだが、具体的に何をしているのか、瑞穂はまだ聞いたことがなかった。
「――ふん、だ。あんなことしといて、何が分別よ」
「お気に召さなかったかな?」
「……」
テーブルにコップを置いた瑞穂が、林堂を上目使いで見つめる。
林堂は、涼しい顔で、瑞穂の視線を受け止めていた。
「次は、もうちょっと安心してできるかもしれない」
「……瑞穂って、素直だな」
「うるさあい! もう帰るからね!」
「ああ、送ってく」
「ん、もう……」
拗ねるタイミングすら巧みに外されながら、瑞穂は、自らの身なりをもう一度確認し、玄関へと歩いていった。
初夏の夜の中を、瑞穂と林堂は、手をつないで歩いていた。
瑞穂のリクエストにより、二人は、大きく遠回りをしている。
「へえー、ここらへん、けっこういろいろ建ってるんだね」
普段は利用しない駅の近辺が大規模に開発されているのを見て、瑞穂が声をあげた。
子供のころは空き地や雑木林だった場所が切り開かれ、真新しい建物がそびえ立ち、あるいは建築中であったりする。
時の流れを、否が応でも感じさせられる風景だ。
「どうも、ここらの地主の家で、ちょっと前に相続が発生したみたいだな」
「相続が発生……?」
聞き慣れない言い回しに、瑞穂が不思議そうな顔をする。
「つまり、死んだってことさ」
「それと、スーパーやマンションが建つのと、どう関係あるの?」
「死ぬと、遺族が相続税を払わなくちゃいけないだろ? けど、地方とは言え駅前の土地は評価額が高いから、税金も莫大になるんだよ」
「どれくらい?」
「いや、もちろん正確には分からないけど、たぶん何千万って単位だろ?」
「ふええ〜、そんなの払えるの?」
「払える人もいるだろうけど、土地だけ持ってて現金はそれなりって場合は、無理だろうな。だから、持ってる土地を売って、現金を作って相続税を払うんだよ」
「ふうん……」
「で、土地を買った方は、ただ持っててもしょうがないから、利益を生むように開発するんだ。マンションを建てて売ったり、スーパーにしたり、分譲してさらに売ったりな」
そんな会話を交わしながら、二人は、真新しいマンションと、やはりマンションらしき未完成の建物に挟まれた広い歩道に、さしかかった。
「智視ちゃん、よく知ってるねー」
「一般常識の範囲だけどな」
「いいもーん。受験に、そんな科目無いし」
瑞穂が気楽な声をあげる。
と、林堂が立ち止まった。
「どうしたの?」
林堂は、答えない。ただ、建てられたばかりらしいマンションを、じっと見上げている。
終電が終わってしまったせいか、近くの道路からの車通りの音はほとんどなく、人影も見えない。
薄着の肌に、夜気の肌寒さを、感じる。
「ねえ――」
瑞穂は、声をかけながら林堂の視線の先を目で追いかけた。
「見るな!」
「え?」
林堂が、自らの体で、瑞穂の視界を遮ろうとする。
が、遅かった。
十階建て以上のマンションの最上階。ベランダ。
そこに――白い服を着た若い女が、いる。
女は、何か踏み台のようなものを上り、ちょうどベランダの手摺りに足をかけたところだった。
その足取りには、恐怖も、不安も、躊躇も無い。
まるで、これから公園にでも散歩に出るような軽い足取りで、次の一歩を、虚空に踏み出す。
そこまで、わずか数秒。
そして――女は、長い黒髪をなびかせて――
「……きゃあああああああああああああああああああああああ!」
悲鳴をあげたのは、瑞穂だった。
女が、スカートの裾をはためかせ、空中でゆるゆると頭を下にしながら、石のように落下する。
――ゴッ。
想像もしなかった、重く、鈍く、硬く、そして大きな音が、耳に届く。
瑞穂は、そのままへなへなとその場にしゃがみこんだ。
「……ずほ……瑞穂!」
林堂の声が、遠い。
「さ……智視ちゃん……ひとが……女のひとが……」
「しっかりしろ。あれ、見えるか?」
林堂が、瑞穂の体を落ちてきた女とは反対方向に強引に向かせる。
「え……なに……?」
「あれだ。電話ボックス、あるだろ? あれで警察と救急車を呼ぶんだ」
「でも……でも……あの人、もう……」
「いいから呼ぶんだ! まだ助かるかもしれない!」
「う、うん……!」
瑞穂は、まだ危なっかしい足取りで、その場を離れ、今は珍しくなった電話ボックスへと歩いていった。
「……」
瑞穂がこの場所から充分に離れたのを見届けてから、林堂は、歩道に倒れている女へと近付いた。
レンガを真似たブロックが敷き詰められた歩道に、驚くほど大量の血が溢れている。
林堂は、その形のいい眉をほんのかすかに寄せ――女を観察した。
女は、靴を履いていた。ヒールが高めの上品なサンダルと、きゅっとウェストが絞られたワンピース。乱れた髪は長く、ウェーブがかかっている。
四肢がてんでばらばらに投げ出され、首がぞっとするような角度で折れている様は、デッサンの狂った幼い子供の絵を思わせる。
頭の鉢が割れ、傷口からは、ピンク色のものが覗いていた。
そして、二十歳前後と思われるその整った白い顔には――あどけない驚きの表情が浮かんでいる。
あれ――?
女の唇が、そんなふうに動くのを見て、林堂は、片手で口元を覆った。
お、か、し、い、な……。
声に出さず、そう呟いて、そして、女は死んだ。
数日後の日曜日、林堂は、駅前の喫茶店で、人を待っていた。
「……すまん、遅れた」
「いえ、俺も今来たばかりですよ」
声をかけられ、文庫本に栞を挟みながら、言う。
声の主は、県警捜査一課警部補の品川南馬だ。
「ところで、品川さんが引っ張り出されるなんて、穏やかじゃないですね」
ウェイトレスにブレンドコーヒーを頼んだ品川に、林堂が普段どおりの口調で言う。
「正式に捜査に加わってるわけじゃないんだ。ただ、同期が頭を抱えててな」
品川の口振りは、どこか苦い。
「それで、非公式に動いてるってわけですか。でも、あれは自殺ってことで片が付いたんだと思ってましたけど」
「お前と、お前の彼女も、そう証言したらしいな」
「何しろ飛び降りる瞬間を見ましたから」
そう言う林堂は、眉一筋動かしていない。
「少なくとも、誰かに突き落とされたようには見えませんでしたね。まあ、距離がかなり離れていましたんで、絶対にあの場に他の誰もいなかったとは言い切れませんけど」
「で……お前自身は、自殺って線で納得してるのか?」
「いや、納得も何も、俺は一介の高校生ですよ?」
「……ただの高校生に、捜査情報を漏らしてまで意見を聞いたりするものか」
品川の言葉に、林堂が、いささか気障な仕草で肩をすくめる。
「死んだのは、確かあの一帯の地主の一族でしたね」
「ああ。玉浦麻弓、年齢は二十二歳だった。独身だ。兄の眞吾と二人暮らしだったが、当時、奴はマンションには居なかった」
「その口ぶりだと、その玉浦眞吾って人を疑ってるみたいですね」
品川は、返事をする代わりに、運ばれて来たブレンドコーヒーを口に含み、渋面を作って見せた。
「二人は、最近あのへんの土地を相続したんですよね?」
「ああ。二年前だな。父親が死んで、母親は早くに死んでいた。ほかに目ぼしい親戚もいなかったらしい」
「で、妹が死ねば、兄が遺産を独り占めということですね」
「そういうことだな。動機としてはありきたりだが」
「ありきたり、結構じゃないですか」
「お前は、ありきたりでない事件の方が専門だろう」
「俺は、どんな事件の専門家でもないですよ」
林堂が、そう言って淡い笑みを浮かべる。
「しかし、そういうヤマに縁があるのは確かだ」
「……どういうわけか、ね」
「話を戻そう。その兄の眞吾には、結婚話も持ち上がっていたらしいんだ。ただ、その結婚相手が、死んだ麻弓を嫌っていたらしいという証言があるんだな」
「どうしてです?」
「理由は、分からん。ただ、玉浦麻弓が自殺したという前提でその動機を探ってるうちに、そういう情報が得られたわけだ」
「誰からです?」
「眞吾と、その結婚相手の永瀬みのりという女の、共通の友人さ。麻弓とみのりが激しく言い争いをしている場面も、複数の人間に目撃されている」
「何で言い争ってたんでしょうね?」
「後で話すが、麻弓って女はちょっと訳有りでな。かなり常識はずれなところがあったらしいんだ。一方、みのりの方は、頭が良すぎるというか、はっきり物を言い過ぎるというか、ともかく、麻弓のような性格の人間とは真っ向からぶつかるようなタイプだったらしい」
「だからって、殺人の動機になりますかね?」
「結婚相手である眞吾の財産が絡んでくるとなれば、考えられなくはないだろう」
「……」
林堂は、品川の話を頭の中で整理するようにしばし黙ってから、口を開いた。
「で、問題の玉浦麻弓って女性には、自殺をするような動機は無かったと?」
「そこが、微妙でな」
品川が、コーヒーで舌を湿らせてから、続ける。
「麻弓は、十一歳の頃、母親と一緒に大きな交通事故に巻き込まれたんだ。その事故で母親は死に、麻弓も頭部を強打して、ずっと意識が戻らなかった。……それも、十年近くな」
「それじゃあ……」
「麻弓が昏睡から覚めたのは、今から一年ちょっと前の話だ」
林堂は、ひゅう、といささか不謹慎に口笛を吹いた。
「麻弓が常識はずれだと言ったのは、そういうことだ。彼女にとってみれば、ある日目覚めたら、父親も母親も死んでいて、しかも自分はいきなり大人になっていたんだからな。変わった性格にもなるさ」
「なるほど」
「詳しくカルテを見た訳じゃ無いが、いろいろ体に後遺症も残っていたらしい。外見上はごく普通の娘さんだが、精神的には極めて不安定だったと予想されるわけだ」
「その不安定さが、自殺に結び付いたとしても、不思議は無いと? なんだ、しっくりくる話じゃないですか」
「表向きは、そうだな」
品川は、口ひげをいじりながら、言った。
「が、周囲の人間に突っ込んで聞いてみると、意外とそうでもないようなんだ」
「周囲の人間と言っても、彼女は言わば一年前に復活したばかりなんでしょう? 友人や知人がいるんですか?」
「ああ、確かに、麻弓本人の友人ではないな。家事をやってる通いの家政婦や、眞吾の知人の証言だ。それによると、麻弓っていう女は……何と言うか、子供がそのまま精神的には成長せずに、大人になってしまった感じだったらしいんだな。無邪気で、明るくて、とても自殺なんかしそうに見えなかったという話だ」
「それは、ちょっと“子供”ってものを誤解しているような意見ですね」
林堂が、皮肉げに言う。
「小学生だって条件が整えば自殺はしますよ」
「もちろん、麻弓が人知れず何かに悩んでいたということも考えられる」
むっとしたように、品川が言う。
「しかし、不自然なことは確かだ。自殺と断定せずに捜査を進める必要があると、少なくとも私は考えている」
「で、主な容疑者は、玉浦眞吾と永瀬みのりの二人、ってことですか」
「共犯ということも考えられるがな」
「殺人と決めてかかってるように聞こえますね……。で、あの夜の玉浦眞吾と永瀬みのりのアリバイは、どうなんです?」
「実は、二人ともアリバイが無い」
「そうですか」
「玉浦眞吾はバーに酒を呑みに出かけ、永瀬みのりは深夜のドライブに行っていたという話だ。状況から矛盾点は無いが、それを裏付ける直接的な証拠や証人は、無い」
「……間接的には、ある、と?」
林堂が、品川の台詞を先回りする。
「眞吾が家を出たのは、その日の午後六時。それ以降、マンションの部屋に戻って来た様子は無い。これには間接的な証拠がある」
「どんな?」
「あのマンションのセキュリティーはかなりのものでな。各階の廊下に監視カメラがあるんだ。で、午後六時の映像に、部屋を出る眞吾が映っていた。で、それ以降、カメラに眞吾は映っていないんだな。監視カメラに映らずに部屋に戻ることは、空を飛びでもしないと不可能な状況だ」
「……」
「これは、永瀬みのりに関しても同じだ。問題の階のカメラに映っていたのは、他の部屋の住人たちだけだったんだな。そして、玉浦兄妹の部屋に入っていった人影は全く映っていなかったわけだ」
林堂は、自らの表情を隠すかのように、右手で口元を覆った。
その目に、どこか異様な色が現れている。
「つまり、玉浦麻弓がベランダから飛び降りた時、マンションの部屋には彼女しか居なかったというわけですね?」
「カメラの映像を見る限り、その通りだ」
「玉浦眞吾は、自分の住んでるマンションのオーナーなんですよね? 監視カメラの記録を改竄したり、死角を知っていたりってことはありませんかね?」
「まず、無いな。いくら何でも、それは警備会社の信用に関わる」
「……で、永瀬みのりというのはどういう女性なんです?」
「資産家の娘だよ。大学四年生だ。卒業を待って式を挙げるつもりらしい」
そう言って、品川は、誰でも名前の聞いたことのある有名私立大学の名を言った。
「学科は?」
「行動科学科、とかいう名前らしいな。つまり何だ、心理学って奴か?」
「心理学は、今や世間じゃ占いと同義ですからね。違う名前を考えたくもなるんでしょう」
「手厳しいな」
「そういうつもりはありませんよ。占いは占いで馬鹿にしたもんじゃない」
そう言いながらも、林堂の目は、嗤うかのように細められている。
「で、その永瀬みのりは東京に住んでるんですか?」
「東京にも部屋は借りているが、最近は実家――つまりこちらにいることの方が多いようだな。大学生も、四年生になるとほとんど学校に出ないで済むらしい」
「文系で就職活動もしなくていいというなら、そうでしょうね」
「……ん? 心理学ってのは文系なのか?」
「人文学部に入れてるところが多いみたいですよ」
そう言う林堂に、品川は、奇妙な表情をして見せた。まるで、これから嫌いな食べ物を口に入れなくてはいけないと言ったような顔だ。
「どうしました?」
「私は、そういうことはよく分からないんだが……いわゆる催眠術で、人を飛び降りさせるってことはできるのか?」
「催眠術?」
「“目を覚ましたら、箱で段差を作ってベランダから飛び降りろ”というような命令を与えることは可能か、ということさ。例えば、その心理学を応用するとかしてだな」
「……」
「いや、そもそも、テレビとかでやっているアレは、本物なのか? それともやっぱりインチキなのか?」
「テレビの催眠術を検証したことは無いですけど、催眠術っていう現象があることは確かですよ。で、品川さんは、玉浦麻弓が催眠術にかかっていたって言うんですか? それなら、部屋に一人きりだった玉浦麻弓が誰かに殺された、と言い得ると」
「ん、まあ、そう言うつもりはないんだが」
品川の口調は、ひどく歯切れが悪い。
「――俺も、催眠術で殺人という話には賛成しかねますね。ビルから飛び降りろとか、そういった生命にかかわるような暗示には、人間は相当の抵抗を示すはずです。それを上手いことやってのけるなんて、催眠術にかかわることを本職にしてる人間が薬物の力を借りない限りは、まず無理でしょう」
「なるほど……」
「玉浦麻弓の体からは、幻覚剤や、その他の向精神薬の類いは検出されなかったんですよね?」
「ああ」
「だとすると、警察の皆さんが自殺だと断定するのも、時間の問題でしょうね」
「そうだな」
そう返事をして、品川は冷めたコーヒーを飲み干した。
そして、林堂の白皙に視線を戻す。
「ただ、お前の証言や、死体の様子を見ると、どうも自殺に思えなくてな」
「そうですね……」
林堂は、口元を手で隠したまま、言った。
「何しろ、彼女、靴を履いてましたからね――」