後編



フロイトの精神分析の用語。
リビドーと呼ばれる無意識的な心的エネルギーの源泉。
快を求め不快を避ける快楽原則に従う。



 火谷陽一郎は、ほとんど無人の図書室の中で、本を探している。
 求めているのは、「イド」という言葉に関する書籍だ。
 とはいえ、火谷には、そもそも「イド」が何であるか分からない。心理学や精神分析に全く興味を持っていなかった彼にとって、辞書的な「イド」の説明は、何ら具体的な知識をもたらさなかった。
「珍しいな、火谷」
 書棚の前で立ち尽くす火谷に、今までカウンターの奥で文庫本を読んでいた当番の生徒が、不意にそう呼びかけてきた。
 火谷を呼び捨てにする生徒はそう多くない。顔を向けると、火谷の予想通り、林堂智視だった。
 火谷は、林堂のことを、不思議な男だと認識している。
 思えば、火谷は林堂のことを殴ったことがない。林堂ほど火谷の思い通りにならない生徒は珍しいのに、である。
 林堂には、火谷が人を殴る理由がわかるらしい。
 そして林堂は、火谷が彼に対して負の感情を抱いたとき、それが臨界に達する前に、姿を消してしまうのだ。
 それゆえ、火谷は常に、このほっそりとした白皙の少年に、ざらつくような不快感を抱いていた。林堂は、それを承知で、火谷に屈託なく話しかけてくる様子なのだ。
「何か用か?」
 棘のある声で、火谷が言う。
「それはこちらの台詞だ。どんな本を探しているんだ?」
 言いながら、林堂は、火谷が眺めている書棚に目を移した。
「心理学か……」
 火谷には、林堂のその声に、かすかな嘲弄が込められているような気がした。
「お前には、関係ない」
「そんなことはないだろう。俺は図書委員だぜ」
 そんな林堂の言葉に、じわりと火谷の敵意が鎌首をもたげる。
「……イドだ」
 が、なぜか火谷は、林堂にそう言っていた。
「イド? ラテン語だな」
 火谷の言葉に、林堂が高校生離れした落ちついた声で応じる。
「ラテン語?」
「ああ。そして、フロイト心理学の用語だ。ドイツ語の“エス”、英語の“イット”、日本語で言うなら、“それ”……」
「……」
「あと、イドと言えば、“イドの怪物”だな」
「怪物?」
 火谷は、鋭い目つきで林堂に振り返った。が、林道は憎らしいくらいに落ちついている。
「ああ。古いSF映画にあったんだ。……『禁断の惑星』、だったか」
「何なんだ、それは」
 “怪物”というありふれた言葉に、胴が震えるような感覚を覚えながら、火谷が訊く。
「要するに、人の無意識が具現化――つまり現実世界に現われたもの、ということだな」
「……そんなことが、あるのか?」
 もし、この火谷の言葉に、微塵でも嘲りの表情を浮かべていたなら、林堂はその場で殴り倒されていただろう。
 しかし、林堂はこう言ったのだ。
「ありえないことじゃないだろう。人の精神の中と外の境界なんて、曖昧なものだからな」
 涼しい顔でそう言う林堂に、心の奥底まで見つめられているような気がして、火谷は思わず目をそらした。が、林堂は構わず話を続ける。
「人が認識できるのは自らの脳が受容できるもののみだし、その点では人は脳の中に棲んでいると言ってもいい。つまり“現実”とは、人々が仮に共有している幻に過ぎないわけだ」
「……?」
 それがどういう意味なのか訊こうと視線を戻した時、いつのまにか、林堂は目の前から姿を消していた。
 訳の分からない悪寒に似たものが、背筋を走る。
 火谷は、手近にあった椅子を思いきり蹴飛ばした。

 図書室から出た火谷を、無表情な顔の担任が待ち受けていた。



 翌日。
 黒い制服姿の火谷が、帰宅途中の繭美を待ち伏せていた。
 住宅街の中に残された雑木林に隣接する道である。薄暗く、人通りは少ない。
 繭美が、来た。
 相変わらず、人と目を合わせる事を最初から拒否するかのように、うつむいて歩いている。
「哀川」
 林の木の陰から現われた火谷の声に、繭美がびくっと身をすくませた。
 そして繭美は、一瞬止めた歩みを速め、無言で火谷の前を通りすぎようとする。
「哀川っ!」
 いつも以上に恫喝的な声で、火谷が叫ぶ。まるで、それが合図であったかのように、繭美は走り出した。
 火谷が、それを追う。
「哀川、俺は……!」
 走りながら、火谷が言った。
「俺は……っ!」
 言いながら、息がつまるのを感じる。
 言わなければならないことが多すぎて、何を言っていいのか分からなかった。
 自分が、繭美に危害を加えるつもりがないこと。
 自分が、繭美とイドとの交わりを目撃してしまったこと。
 自分が、退学になったこと。
 自分が、父親に完全に見捨てられたこと。
 そして、自分が、繭美のことを……
 繭美は、苔むした石段を駆け登っていた。丘の中腹にある、古ぼけた神社に至る石段である。境内への侵入者を睨みつける狛犬の顔が、大きく欠けていた。
「あっ!」
 火谷が石段を登り終えたとき、短い悲鳴が夕闇の中に響いた。
 繭美が、狭い境内の中央でつまずき、倒れたのだ。
「哀川あ!」
 怯えた顔で自分を見つめながら立ちあがろうとする繭美に、火谷が駆け寄ろうとする。
 どん! とその火谷の体に、真横からぶつかるものがあった。
 黒い巨大な甲羅のような体に、肌の透けた爬虫類のような首、肉色の触手。
 「イド!」
 繭美が叫ぶ。
 バランスを大きく崩しながらも、どうにか両の足で立ったままで、火谷は“それ”に向き直った。
 “それ”は、目のない顔で、じっと火谷を見つめていた。薄い黄色の歯が剥き出しになったその口が、にたりと嗤っているかのように見える。
 このような巨体が、どこに隠れていたのか、などというようなことを、火谷は考えていなかった。最早、火谷は、“それ”が脳内の闇から産まれ出た異形の存在であるということを、心の奥深いところで洞察していたのである。
 火谷は、無言でポケットからナイフを抜いた。
「きゃっ!」
 繭美が、細い悲鳴をあげる。
「あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
 繭美の悲鳴に、火谷の獣じみた声が重なった。
 そして、黄昏の中で、二つの影が、一つになる――。



 ドアのブザーが鳴った。
 びくり、と繭美の小さな体が震える。
 繭美は、真っ暗な部屋の中でうずくまっていた。擦り剥いた膝の傷から流れていた血は、すでに止まっている。
 腐りかけた柿のような匂いをまとわりつかせながら、どんよりとした表情の男が、部屋に現われた。
 男は、部屋の隅にうずくまる繭美に、ぎょっと体を強張らせた。
「な、なんだ、父親にあいさつくらいできねえのかよ」
 そして、小心な自分を覆い隠そうとするかのように、ことさらに大きな声をあげ、部屋の電気を点ける。
「可愛げのねえガキだ」
 言いながら、どっかりと日に焼けた畳の上に座り込む男に、繭美は顔もあげようとしない。
 そんな繭美に、不明瞭な声で何か訳の分からないことを言いながら、男は部屋に転がる焼酎の瓶を手に取り、栓を抜いた。そして、卓袱台の上に乗った、薄汚れたコップに中身を注ぎ、一気にあおる。
 血走った男の眼が、ますます濁っていく。
「……お前なんだろ?」
 ぼそり、と男は呟いた。
「犬なんかじゃねえ。お前が、お前があの女を殺したんだろ」
 そんな男の言葉にも、自らの傷ついた膝を抱えた姿勢のまま、繭美は答えない。
「このガキ!」
 身の内に湧き起こった怒りと恐怖に弾かれるように、男は立ち上がった。
「!」
 そして、咄嗟に頭を庇う繭美を、酔漢特有の制御の効いていない力で張り飛ばす。
 繭美の小さく軽い体が、ふすまにぶつかった。
「お前だ! お、お前がやったんだ!」
 そう喚き散らしながら、男は、繭美の制服の襟を乱暴に掴んだ。
 紺色の制服が、抗議の声をあげながら引き裂かれる。
「イヤあっ!」
 たまらず悲鳴をあげる繭美の頬を、男は平手で打った。
「くそ……ッ! ちくしょうッ!」
 声を上ずらせながら、男は繭美のフレアスカートに手をかける。剥き出しになった清楚なブラジャーを両手で隠しながら、繭美は細い脚をばたつかせた。
「お前が殺したんだ! 自分の母親を……! このガキがッ!」
 ホックがはじけ、繭美の下肢に、ただの布切れとなったスカートがまとわりつく。
 男は、涎を滴らせながら、繭美の小さな体にのしかかった。むっとするような体臭が、繭美を包み込む。
「ヤああっ! やめて! やめてえッ!」
「黙れッ!」
 男は、さらに数度、繭美の頬を叩いた。そして、なおももがく繭美の鳩尾を殴りつける。
「ぐっ……!」
 繭美は、苦痛に顔を歪め、動くのをやめた。
「へ……っへえ……思い、知ったかよ……」
 男は、ぐったりと横たわる繭美を膝立ちの姿勢で見下ろしながら、ベルトを緩めた。
「いつまでも子供みてえな面しやがって……」
 そんなことを言いながら、浅ましくいきり立った、グロテスクな牡器官を剥き出しにする。繭美はそれを、いつにない強い視線で睨みつけていた。
 しかし、アルコールに漬かった男の脳は、そんな繭美の表情の変化に気付かない。
「けど、これからお前が――」
 鈍い音とともに、男の声が、不意に途切れた。
 凄まじい力で頭部を横から殴打され、男は棒のように床に倒れていた。
「な……?」
 何が起こったのか分からないまま、下半身剥き出しで起き上がろうともがく男に、何か大きなものが覆い被さる。
 そして、男の喉に、硬く強い力が喰い込んだ。
「んべッ! えげぇッ!」
 男は、血の混じった声をあげながら、自らにのしかかるものを払いのけようとのたうった。
 しかし、男の首に深々と歯を埋める何者かは、びくともしない。
 声が、途切れた。
 ひゅうっ、ひゅうっ、という笛のようなかすかな呼吸音だけが、すすけた六畳間の中で聞こえる唯一の音だ。
 しばらくして、その音は途切れ、替わってごぼごぼという水の流れる管が詰まったような音が響く。
 そして男は、重く硬い体の下で、断末魔の痙攣による奇妙な死のダンスを踊った。
 部屋に、静寂が戻る。
「ありがとう……また、たすけてくれたんだね……いつも、いつも……」
 繭美はそう言いながら、自分の父親だった肉の塊にのしかかったままの“それ”に、そっとよりそった。



 繭美は、ようやく作業を終えた。
 喉の肉をごっそりと失い、全身を血で染めた男の体が、古びた柱にぐったりともたれかかっている。繭美は、その体が倒れないよう、柱に電気コードでくくりつけたのだ。
「きちんと見ててね、お父さん」
 奇妙に邪気のない顔でそう言いながら、繭美は、切り裂かれ、血に濡れた服を脱ぎ捨てた。
「準備、終わったよ」
 繭美は、背後の“それ”にそう呼びかけ、少し血に汚れた顔で振り向こうとした。
 その動きより早く、“それ”は、背後から繭美の体に淡い肉色の触手をまとわりつかせた。
「ん……」
 ぬるぬるとした生温かい粘液に濡れた触手が、自らの肌を撫でる感覚に、繭美は小さく息を漏らす。
 触手は、その先端を次々と分裂させ、繊細な動きで繭美の発達途上の体を責め始めた。
 指ほどの太さの器官に枝分かれしたそれが、繭美の薄い胸を撫でまわし、乳首に妖しげな粘液を塗りたくる。
「うン……うく……んん……んぁ……はァっ……」
 繭美の幼げな唇は半開きとなり、白い歯を覗かせながら、濡れた切ない喘ぎをあげた。
 ピンク色の慎ましやかな乳首が、ぬらつく触手に嬲られ、みるみる尖っていく。
 そして、触手のうち一本は、ふらつく繭美の両脚の間に入り込んだ。
「あくっ!」
 繭美が、小さく短い悲鳴をあげる。
 やはり先端を幾つにも枝分かれさせた触手が、ざわざわと繭美の最も秘めやかな部分を刺激し始めたのだ。
 繭美の指よりもなお細い繊毛のような触手が、繭美の陰唇をなぞり、柔らかな肉襞の合間をこすりあげる。繭美のその部分は、とろとろと透明な粘液を分泌し、触手たちをさらに濡らしていった。
「ンああ……んく……はぁン……ダメ……立ってられないよ……」
 そう言いながら、繭美は、かくんと膝をついてしまった。
 しかし、触手たちは休むことなく繭美を責める。
 なだらかな曲線を描く背中や脇腹、鎖骨のくぼみ、腿の内側、首筋、耳朶……。
 感じる箇所を的確に嬲られ、繭美はくすぐったいような快感に身悶えた。
「あ、す、すごい……すごいの……」
 ぼんやりとそう呟きながら、首をねじって背後に視線を送ろうとする繭美の顔に、“それ”が、爬虫類か両生類を思わせる輪郭の頭部を寄せる。
「んむ……」
 “それ”が繰り出す長い舌を、繭美は恍惚の表情で口に咥えた。
 娘が行う異形のものとの深い口付けを、父親の死体が、牡蠣のように虚ろに濁った両目でぼんやりと眺めている。
 そのことを意識してますます興奮したのか、繭美はふンふンと媚びるように鼻を鳴らし、“それ”の舌に、ピンク色の舌を絡めた。
 ぴちゃぴちゃという唾液の混じる音が、淫靡に響く。
 その間にも、触手は膝立ちの繭美の小さな体を責め続け、いやらしい粘液を塗りたくるようにして、その白い肌を汚していった。
「んぁ……む……んむゥ……んぶ……んぐ……っ!」
 繭美が、くぐもった声をあげる。
 ようやく、“それ”は繭美の口を解放した。
「んはっ」
 大きく息をつく繭美の顔は、息苦しさと快感のために真っ赤である。
「はァ……」
 そのまま、繭美はがっくりとうなだれ、両手を畳の上についてしまう。
「きもちイイ……きもちイイの……」
 幼女のような舌足らずな声で言いながら、繭美はぞくぞくと背筋を震わせた。
 そんな繭美の膣口を、まるでこじあけるようにして、触手たちがいじくる。
「ンはあっ! ヤ……広げちゃ、ダメえ……」
 血の気が引くほどに肉の入口を引き伸ばされながら、しかし、繭美の抗議の声は蕩けるように甘い。
 その声に誘われるように、“それ”が、その巨体に比べると細身の触手で自らの胴体を持ち上げた。
 そして、犬の姿勢の繭美に、背後からのしかかる。
「あうぅ……ン」
 繭美が、期待のこもった声をあげる。
 “それ”の胴体下部から生え出たどす黒い器官が、ぴったりと繭美のクレヴァスに押し当てられた。
「はぅ……」
 その強い圧力に、挿入もされていないのに繭美はうめいた。
 “それ”が、感情を感じさせない動きで、その体を前に進めていく。
「あ、あう……んぐ……ンはァ……ッ!」
 その巨根の節くれだった表面が、ずりずりと膣内粘膜を容赦なくこすりあげる圧倒的な感覚に、繭美はたまらず畳の表面に爪を立てた。
 体の内側から押し広げられているような、息苦しい快美感。
「んくうぅ……ッ」
 ようやく、“それ”の器官の先端が、繭美の最深部まで届いた。
「んぐっ!」
 子宮の入口を小突かれ、繭美が声をあげる。
 “それ”は、ゆっくりと抽送を始めた。
「あ、あいい……っひィ……ひああ……っ」
 どす黒い奇怪な牡器官に犯されながら、繭美は悲鳴のような声をあげる。
 “それ”の剛直は容赦なく繭美の幼い性器をえぐり、力強い動きをその体内に送り込んだ。
 繭美の紅い靡肉が痛々しいほどにめくれあがり、溢れる愛液が濡らす足の内側は、まるで失禁したかのような様相をさらしている。
「あうう……ッ」
 繭美は、すさまじい快感に屈服したかのように、がっくりと両手から力を抜き、頬を畳に押しつける姿勢になった。
「あう、あう、あうっ、ううっ、ンはァ……!」
 その姿勢のまま、苦しげな声で、快感を訴える。
 と、“それ”が、唐突に動きを止めた。
「え……きゃああッ!」
 そして、淫靡な器官で深くつながったまま、“それ”がごろんと体を後に倒す。
「は、ううううううッ!」
 もはやまともに力の入らない繭美の体は、杭のように膣内深くに打ち込まれた“それ”の剛直が導くまま、半ば強制的に起きあがらせられた。
「ああ……」
 だらしなく白い足を広げ、“それ”にまたがる姿勢の繭美が、男の死体に正面から対峙する。
「あはァ……みえてる? おとうさん……」
 どこか痴呆じみた表情で、繭美は物言わぬ肉の塊に話しかけた。
「まゆみ、すっごくいけないことしてるでしょ……でも、おとうさん、なにもできないんだね……」
 切なげに眉を寄せ、耳まで紅く染めながら、繭美はその顔に虚ろな笑みを浮かべている。
 そんな繭美の体を、触手たちが軽々と動かし始めた。
「ンはうッ!」
 抽送を再開され、繭美が歓喜の悲鳴をあげる。
「あ、あう! ん! んわ! はわあッ!」
 力強い触手たちに弄ばれながら、繭美のそこは貪欲に“それ”の男根を貪った。
「あ……ダメえ……! そこ……そこは……ンはああああッ!」
 心持ち体を後に反らすような姿勢をとらされながら、下から貫かれている繭美が、切羽詰った声をあげた。
「イヤ、あ、あっ……もう、あふれちゃううう〜ッ!」
 一際高い繭美の声に、ぷしゃああああ……っ、という陰水のしぶく音が重なる。
 Gスポットを刺激され、潮を吹きながら絶頂を迎えた繭美の体を、“それ”は容赦なく責め続けた。
「あ! ンあああッ! いはッ! もう、もうダメ……ッ!」
 立て続けにより高い絶頂へと押し上げられ、繭美は、かくかくと力なく首を振り、だらしなく涎を口からこぼす。
 そして、“それ”の全身が、ぎゅうっと緊張した。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
 いっそう膨張した“それ”の器官が、次々と大量の白濁した粘液を繭美の胎内に放出する。
 その体液は、“それ”の器官がびくびくと律動するたびに、すさまじい勢いで溢れ飛び、黄色く変色した畳を汚していった。
「はあアアァ……」
 がっくりと、繭美が全身から力を抜いた。
 弛緩したその小さな体は、どこか哀れな人形を思わせる。
 その、粘液に濡れた白い裸体を、肉色の触手たちが、どこか優しさを感じさせる動きで受けとめた。


 そのころ、林堂はじっと立ち尽くしていた。
 神社の境内。かすかな街灯の光だけが、辛うじて、視界を保たせている。
 林堂の足元に、脱ぎ捨てられた黒い制服が、散乱していた。
 まるで、着ていた者がそこで溶けて消えてしまったかのように、人の形を残したまま、火谷のまとっていた制服だけが、そこに残されている。
「……」
 林堂は、何かを祝福するかのような笑みを浮かべ……そして、闇の中に消えた。



 同じ闇に連なる夜の底で、“それ”がうずくまっている。
 いつのころからか乖離していた、純粋で兇暴な二つの情動――
 “それ”が、ようやく融合し、まったき形を取り戻したのだ。
 ――繭美が、シャワーで丹念に体を洗った後、家を出てきた。
 そして、“それ”が待つ闇の中に、身を置く。
「……ずっと一緒にいてね、火谷くん」
 星のない夜空の下、何も見えない暗い闇に向かって、繭美は言った。
 返事はなかったが、“それ”が自分の声を聞いてくれていることを、繭美は確信していた。
あとがき

BACK

MENU




この小説ではこちらのサイトの素材(壁紙)を使用しています→