星の嘲笑
【改訂版】


解答編



「ついて来てくれるの?」
 瑞穂は、“作戦会議”の場であるフルーツパーラーのボックス席で、大声を出してしまった。
「ああ。迷惑か?」
「め、迷惑なんかじゃないよ。すっごく心強い……けど、ダイジョブかな?」
「別に、当たり前って顔してればいいのさ」
「智視ちゃんのこと訊かれたら、何て答えよう?」
「彼氏が勝手について来たって言えばいいさ。――何なら婚約者だって紹介してもいいぜ」
「もう、からかわないでよォ」
「……本気なんだけどな」
 瑞穂に聞こえないような小さな声で、林堂は言った。
 数日前、瑞穂の母親――西永瑞江は、次の日曜日の午後に、瑞穂を同席させて今後のことを話し合うことを、別れた夫――佐倉邦雄と約束したのである。
 場所は、東京の牟津美スーパーサイエンス・アカデミーの一室だという。
 そして、牟津美星子は、当然のようにその場に立ち会うと言ってきたという話だった。
 二人が話しているのは、そのことである。
 ライターの仕事で東京に出ずっぱりになっている瑞江とは、その話し合いの場所で落ち合う形になるという。そこで、林堂は、その場に瑞穂とともに行くと言い出したのだった。
「でも……」
「部外者だって言うんだったら、牟津美星子だって部外者だろう」
「それはそうだけど……東京まで、新幹線使っても4時間くらいかかるよ。お金も……」
「こういう時のために貯金してるさ」
 林堂が、涼しい顔で言う。
「だけど……もし、智視ちゃんに何かあったら……」
「俺のことは心配するなよ。ま、いきなり呪い殺されるようなことはないだろうしさ」
「もう、冗談でもそういうこと言わないで!」
 瑞穂が、真剣な口調で言う。
「――牟津美星子に、本当にそういう能力があるって思ってるのか?」
「智視ちゃんは、どうなの?」
 聞き返す瑞穂に、林堂は、しばし答えなかった。
「……なあに、大丈夫さ」
 にやり、と林堂は笑った。
「占術、魔法、呪詛、祈祷の類いってのは、口先とハッタリが全てなんだ。その分野で俺が負けるとでも思うか?」
「そ、そう言われれば、そうかもしんないけど……」
「お待たせしましたー♪」
 口の中でむにゃむにゃ言っている瑞穂の前に、ウェイトレスがチョコレートパフェを置いた。
「今は、それでも食べて鋭気を養おうぜ」
「……うん」
 そう返事をして、瑞穂は、銀色のスプーンを手に取った。



「……どうして、安心させてくれないのかなあ」
 ベッドに横になり、瑞穂は、ぽつんと呟いた。
 もちろん、林堂のことである。
 林堂智視は、少なくともこの件に関して、自分を完全に安心させてくれていない。
 自分と一緒に、父の邦雄や牟津美星子に会ってくれるという話は、とても有り難いと思う。実際、まさかそこまでしてくれるとは思わなかった。
 それでも――不安が、完全に無くなった訳ではない。
 むしろ、新たな不安が、瑞穂の思考に影を落としている。
「ぜいたく……だよね」
 この世に、林堂ほど頼りになる男はいないと、瑞穂は半ば本気でそう思っている。
 確かに、腕っ節が強いわけではないし、誰にでも好かれるという性格でもないが、それでも、今自分が巻き込まれているようなことを解決に導くにあたっては、林堂ほど適任な者はいないだろう。
「でも――」
 林堂は、牟津美星子のカードを使った“予言”について、何も断定的なことを言っていない。
 インチキだとか、トリックだとか、そういった、瑞穂が最も聞きたいと思っている言葉を使ってくれないのだ。
「まさか……智視ちゃんにも、見破れてないのかな」
 牟津美星子がやって見せることは、ごく単純なことだ。
 他人にシャッフルさせ、さらに自らがテーブルの上でシャッフルしたカードを揃えて積み上げ、その一番上にあるカードを言い当てる。
 単純であるがゆえに、トリックの介在は難しいように、瑞穂には思えた。
 母の瑞江は、ライターとして、雑誌の取材のために牟津美スーパーサイエンス・アカデミーを訪れた折、牟津美星子がその“超能力”によってカードをぴたりと当てるのを見たのだという。
 『女教皇』の逆位置――意味するところは、潔癖、冷淡、寡婦、無関心、勉学の不足。
 それを、“自分が独り身となったことが、娘である瑞穂の受験に影響があるのではないか”という瑞江の密かな悩みと不安を暗示するカードなのだと、牟津美星子は言ったらしい。
 瑞江が今回文章を寄稿する雑誌は、けして超能力の類いに無批判に迎合するようなものではない。実際、瑞江自身も、オカルトなどに安易に依存する現代の人々に対して警鐘を鳴らすような記事を書くつもりだったという話だ。
 しかし、牟津美星子の指摘――彼女が予言したカードが占った内容は、瑞江の心を鋭い刃物で抉るようなものだった。
 強い意志と信念を持って文筆家としての仕事をこなし、そして瑞穂を育ててきた母が――今、ぐらついている。それが、瑞穂には痛いほどに伝わってきた。
 そのことに起因する不安は、林堂と話をすることによってかなり軽減したものの、やはり、完全に無くなってはいない。
 ふと――牟津美星子の力は本物なのではないか、とさえ、思ってしまう。
「智視ちゃん……」
 暗い部屋の中、ひそやかに、ため息をつく。
「智視ちゃんが、あんな人に負けるわけないよね……」
 そう言いながら、瑞穂は、そっと、その右手を自らの股間へと移していた。
 左手は、パジャマの上から、乳房をゆるやかに撫でている。
「……」
 不安な時、つい初めてしまうのは、自分だけだろうか、といったことを、ふと瑞穂は考えてしまう。
 そんな疑念を、不安ごと押し流そうとするかのように、瑞穂は、自らの股間に湧き起こりつつある快感に意識を向けた。
 手の動きが、次第に本格的なものになっていく。
「は……ふ……ん……あふ……んんっ……」
 林堂が、優しく、そして時に残酷に自分を弄ぶ時のことを思い出しながら、瑞穂は、自涜の快感に浸っていく。
 瑞穂は、ショーツごとパジャマの下を脱いだ。
「……」
 そして、薄い布地のパジャマのズボンで、自分の足首を、きゅっ、と縛る。
「んっ……」
 その、あまりにもささやかなセルフボンテージに反応して、熱と湿り気を帯びていたクレヴァスが、じわりと新たな蜜を滲ませる。
 瑞穂は、シーツの上に仰臥し、閉じた足の間に右手を潜り込ませた。
 指先が、濡れた秘唇に触れる。
「あぁ……ん……」
 ぬるぬると指を動かし、綻びかけたスリットをまさぐりながら、瑞穂は林堂のことを思った。
 時折、指を激しく動かし、わざとくちゅくちゅという音をたてて、恥ずかしがる瑞穂の唇を奪う、林堂――
「やぁんっ……智視ちゃんの、いじわる……」
 過去と、そして想像の中の林堂にそう言いながら、瑞穂は、キスの代わりに自らの指を唇に押し当てた。
 舌を出して指に絡め、そして、濡れた指先で唇に唾液を塗り延ばす。
 そうしながら、瑞穂は、次第に秘処をまさぐる指の動きを速めていった。
「あん、あうっ、んふ……は、はふ……はん……はぁんっ……」
 指で、柔らかく濡れた秘唇をなぞり、肉の莢から顔を出しかけた淫核をノックする。
 その自らの動きが更なる快感を引き出し、高まった快感に煽られるように指の動きを激しくする。
「あ、んんっ……あく……はん……あはっ……智視ちゃん……ああぁ……智視ちゃんっ……!」
 電流のような快感に体を震わせながら、瑞穂は、頭の中で林堂との行為を反芻した。
 高まり続ける快感に身をよじり、体をくねらせても――いつも、拘束された瑞穂は、逃げることができない。
 そして、いつしか瑞穂は、ただただ林堂の愛撫を受け止めるしかなくなるのだ。
「あ、あっ……! んんっ! んーッ……!」
 瑞穂は、自らの声を抑えるために、横を向き、枕カバーを噛み締めた。
 体を動かそうとするたびに、足首が自由にならないことを思い知らされ、それが、瑞穂の快楽をさらに高める。
「んっ! んんんっ! んふっ……! んく――んんんんんんんンーッ!」
 耐え切れず、瑞穂は、自らの膣内に右手の指を挿入した。
 根元まですんなり入った中指と薬指を緩く曲げ、肉壷の中の快楽の源を探る。
「んんんッ……!」
 最も感じる部分を見つけだし、瑞穂は、激しく指を抽送させた。
 空想の中で、林堂が、かつてないほど激しく自分を犯している。
 泣き、喚き、嫌がる自分を無理やりに凌辱する林堂のイメージが――瑞穂を絶頂へと舞い上げた。
「ん――んんんッ! んんんんんんんンーッ!」
 瑞穂は、シーツの上で、びくん、と大きく痙攣し、そして、ひくひくとおののいた。
「ん……んふぅ……ふぅーっ……ふー……ふー……ふー……ふー……」
 無意識のうちに止めていた呼吸を元に戻し、まだ咥えたままだった枕カバーから口を離す。
 それは、瑞穂の唾液によって、ぐっしょりと濡れてしまっていた。
「はぁ……っ……」
 ぼんやりとした視線を、瑞穂が天井に向ける。
 瑞穂は、まるで果物の甘みを味わっているような顔で、しばらく、絶頂の余韻に浸っていた。



 朝早くに住んでいる街を出発し、4時間近くをかけて都心まで電車で出てから、瑞穂と林堂は、牟津美スーパーサイエンス・アカデミーを目指した。
 空は薄暗く曇り、蒸し暑い空気が、ビルの谷間にわだかまっている。
 夏らしいワンピースを着た瑞穂のうなじには、しっとりと汗が滲んでいるが、サマージャケット姿の林堂は全く平気な様子だ。
 と、二人の目の前に、白い瀟洒なデザインの建物が現れた。
 入り口に、金色のロゴで“Mutsumi Super-science Academy”と金色の飾り文字で書かれている。
 一見すると大規模な予備校のように見えなくもないが、出入りしている人々の年齢層は二十代半ばから四十代と幅広い。
「流行ってるみたいだな」
 林堂は、感心したように言った。
 そして、隣で緊張した顔をしている瑞穂に、視線を向ける。
「俺が瑞穂と一緒に来るってことは、小母さんには話してあるんだよな」
「うん」
 瑞穂が答えると、林堂は、満足げな顔で小さく肯いた。
「……何か、仕掛けがあるの?」
「いや、仕掛けるとしたら向こうの方だろうな」
「?」
 林堂の言葉に、瑞穂が、不思議そうな表情を浮かべる。
「あとで話すさ。それより、行こうぜ」
「う、うん」
 瑞穂は、林堂に促されて、そこだけ黒い大理石で作られた建物の入り口をくぐった。



 そこは、暗い部屋だった。
 明かりを取るための窓はなく、ランプを模した室内灯が、オレンジ色の光で部屋の中を照らしている。
 最上階である十階にある、絨毯の敷かれた部屋だ。
 壁のところどころに、不思議な文様が描かれたタペストリーが架けられている。
 東洋のものとも、西洋のものともつかない、無国籍風の図案だ。黒地に金や銀の糸で、いくつかの円と直線が組み合わされた模様や、アルファベットらしき飾り文字が織り込まれている。
 タペストリーがかかった壁は黒一色で、そして天井も漆黒だ。
 部屋の中央には深紫色のクロスがかけられた丸テーブルがあり、そのテーブルを半ば囲むようにして三人が椅子に座っている。
 正面に牟津美星子、右に佐倉邦雄、左に西永瑞江――。
 瑞江は表情を堅くし、佐倉はうさん臭げに林堂をにらみ、そして、牟津美星子は穏やかな微笑みを浮かべていた。
 その前に、瑞穂と、そして林堂が立った。
 空いている椅子が二つあるところを見ると、そこが瑞穂と林堂の席らしい。
「瑞穂――」
 最初に口を開いたのは、佐倉だった。
「どうして彼を連れて来たんだ? これは家族だけの話し合いのはずだぞ」
「それは……」
「俺が、無理について来たんですよ」
 かすかに震えている瑞穂の声を遮って、林堂が言った。
「君は一体――」
「瑞穂さんと真剣なお付き合いをさせていただいている者ですよ。お父さん」
「き、君にお父さんなどと言われる筋合いは無い!」
「ああ、そうでしたね」
 林堂は、一瞬だけ嘲弄の形に唇を歪めながら、言った。
「あなたとはほとんど初対面ですから、怪しまれるのは無理は無いです。でも、瑞穂のお母さんには、何度か面識がありますよ」
 言外に、これまで佐倉が、瑞江と瑞穂の母娘を全く顧みなかったということを含ませながら、林堂が言う。
「黙りたまえ! 私は君の同席を許可した覚えは無い!」
「だったら、その人はどうなんです?」
 林堂が、ちら、と牟津美星子に視線を向ける。
「む、牟津美先生は我々のアドバイザーだ。的確な助言をいただくべく、私の方からお願いして同席していただいたのだ!」
「俺も、的確な助言をすべく、瑞穂に頼まれてここに同席してるんです。立場としては同じでしょう?」
「それは屁理屈だ!」
「どこがですか? 瑞穂だって、真剣に家族のことを考えてる。あなたと同じようにね。それとも、瑞穂は未成年だからあなたとは同格ではないと言うんですか? だったらそもそもどうしてこの話し合いに同席させるんです?」
「く――」
 林堂の言葉に、佐倉は言葉を挟めない。
「まさか、ただ体裁を整えるためだけに瑞穂を呼んだのではないでしょう? 瑞穂の意見にそれなりに耳を傾けるつもりがあるんだったら、その助言者としての俺の立場を認めてくれてもいいんじゃないかと思いますけどね」
「だから屁理屈はやめろ! だいたい――」
「おやめなさい、佐倉さん」
 牟津美星子が、穏やかな声で、佐倉をたしなめた。
「しかし――」
「彼がここに来ることは分かっていました」
 そう言って、牟津美星子が、林堂に視線を向ける。
「林堂智視くんですね」
「どうして俺の名前を?」
「言ったでしょう。あなたがここに来るのは分かっていたのです」
「……なるほど。椅子が二つあるのはそれでですか」
「ええ。愛しい恋人の行く末が気になる気持ちは分かります。さあ、お座りなさい」
 林堂は肯き、そして、瑞穂にも座るように促した。
 そして、視線を周囲のタペストリーに向ける。
「セフィロトの樹ですか?」
 林堂が、訊いた。
「それをベースにしています。ところどころに曼陀羅の思想を取り入れてますが――これが、私の見る世界の姿です」
 林堂の問いに、牟津美星子が答える。
「なるほど。通常のセフィロトの樹よりもチャンネルが少し多いですね。それに、ホロスコープや八卦図に似ているところもある」
「先人たちの知恵が目指したところは一つです。ここは、いわばそれを集大成させたステージと言えるでしょう」
「なるほど」
 林堂と牟津美星子が穏やかに話をしているのを、他の三人は、不思議そうな面持ちで聞いていた。
「世界は曖昧でありながら、一つのパターンを作っています。マクロコスモスとミクロコスモスの対応は、最新の科学によって証明されているのです」
「カオス理論とフラクタルですか? 部分が全体を模倣するという……」
「その通りです。私は、そのパターンを見ることで、より大きな事象を感じ取ることが可能なのですよ」
 そう言って、牟津美星子は、すっと目を細めた。
 どこか仏像じみた半目で、じっと、林堂の顔を見つめる。
「あなたも、そうなのでしょう?」
「俺が?」
「あなたはこれまで、いくつもの事件を解決してきた。その洞察力は、私の力に通じる者があります。本質的には同じものなのですよ」
「――それは、あなたがその力によって知ったことですか?」
「私には、あなたの数奇な体験が織り成してきた過去がありありと見えるのです。両親に閉じ込められた刃物をもった青年――自らの左手に執着しすぎたがゆえに鬼と化してしまった男――空を飛ぶが如く地に落ちてしまった女性――そんな人々の顔もね」
 瑞穂は、牟津美星子の言葉に息を飲み、視線を林堂の横顔に転じた。
 林堂が、いつになく緊張した様子で、その顔から表情を消している。
「あなたは――私の力を試しに来たのではないですか?」
「それは――」
「答えなくても結構です。私には分かっています」
 そう言って、牟津美星子は、傍らに座る佐倉に顔を向けた。
 佐倉が肯き、立ち上がって、部屋の隅に置かれていたサイドテーブルの上から、小さな箱を持って来る。
 物柔らかな仕草でそれを受け取った牟津美星子が、中身をテーブルの上に置いた。
 それは、一組の、大アルカナのタロットカードだった。
「あなたの悩みを思い描きながら、そのカードをシャッフルなさい」
 牟津美星子が、穏やかな顔のまま、言った。
「悩みを?」
「ええ。カードは、私のパワーによってあなたの悩みと、それにつながる運命を示します。私は、それを、あなたの目にさらされる前に知り、あなたに告げることでしょう」
「……」
 林堂は、無言で、カードの束を手に取った。
 複雑な模様が描いてある裏面には、カードの種類を特定できるような目印は全く見受けられない。
「もちろん、私はトリックなど使いませんよ。ここにいる三人が証人です」
「なるほど」
 ちら、と林堂は、瑞穂に視線を向けた。
 瑞穂が、硬い表情で、こくりと肯く。
 林堂は、指が細いせいで華奢に見えるが、意外と大きな手で、カードを切り始めた。
 素早くはないものの、正確な動きで、カードをシャッフルする。
「しかし、こんなことで、人の悩みなり運命なりを知ることができるなんてことは、どうにも俺には納得できませんよ」
「……疑う心を捨て切れないというのは、可哀想なことですね」
 林堂の言葉に、牟津美星子が言う。
「猜疑は、悪魔に通じる心です。真の幸福は、世界の様相を素直に見ることから始まるのですよ」
「俺は、盲信がもたらす安息より、懐疑によって得られる快楽を優先させることにしてるんです。信ずるべきでないものを信じて破滅する愚者を眺める愉悦は、何物にも替え難いものですからね」
 そう言って、林堂が、カードのシャッフルを続けながら、その切れ長の目を佐倉に向ける。
 露骨に見下すような視線を向けられ、佐倉は顔を赤黒く染めた。
「可哀想に――あなたは悪魔の悦びに捕らわれている」
 牟津美星子は、憐れむような口調で言った。
「かもしれませんね」
 そう言いながら林堂は、切り終わったカードを牟津美星子に渡した。
「……」
 牟津美星子が、目を閉じ、そしてカードをテーブルの上で掻き混ぜる。
 しばらくの間、両手で円を描くようにしてから、牟津美星子は次第にカードを手元に集め始めた。
 そして、カードを、再び山にする。
 牟津美星子は、目を開け、揃えられたカードを林堂の方に差し出した。
「――では、“予言”を聞かせてもらいましょうか」
 牟津美星子が何かを言う前に、カードの山に手を重ねながら、林堂が言った。
 その不敵な態度に、佐倉が、林堂の顔を睨みつける。
「……いいでしょう」
 牟津美星子は、穏やかな顔のまま、口を開いた。
「あなたは、高い知性を持ち、外の世界に鋭い目を向けながらも、強い孤独感をいつも感じていますね」
 牟津美星子の言葉を聞く、林堂の顔には、いかなる表情も浮かんでいない。
「世界を知れば知るほどに、不可知の闇は深まっていく。あなたは、暗い夜の中、自らの知性というランプのみを携えた老人のように、たった一人で孤立している――それが、あなたの悩みなのですね? 林堂君」
「確かに――」
 林堂は、カードの上に右手を乗せたまま、言った。
「確かにそうですね」
 瑞穂が、目を見開き、林堂を見つめる。
「――あなたは、俺の心を読んだのですか?」
「違いますよ。心を読むようなことは、私はしません。私の精神が時間を超越し、過去と未来を垣間見たのです」
「精神が、時間を……?」
「ええ。多くの学術書にも書いてあります。精神はこの三次元に束縛されることなく、時間の流れである四次元すら超越することができる。心は、時間と空間を超えて、現実に大きな影響を与えることができるのですよ」
「ただ、思うだけで?」
「その通りです」
 牟津美星子の言葉を聞きながら、林堂は、動かない。
 佐倉邦雄はにやにやとした笑みを浮かべ、西永瑞江はじっと林堂を見つめ、瑞穂は――その大きな目を、涙で潤ませていた。
「あなたは、運命に導かれて、キリストを試した悪魔の役割を負わされたのですね。でも、気に病むことはありませんよ。私の言葉に素直に耳を傾け、信じる心の貴さを知れば、あなたの悩みは解消されます」
 勝利者の余裕を感じさせる鷹揚な微笑みをその顔に浮かべ、牟津美星子は厳かとも言える声で続けた。
「あなたがこれからめくるカード。すなわち、不安と運命、過去と未来を示すカードは……探求、内省、そして孤独を表す、『隠者』の正位置です」
「――いいえ」
 林堂の言葉に、他の四人が、目を見開く。
 構わず、林堂は言葉を続けた。
「俺も予言をしましょう。今から現れるのは、大アルカナ“17”のカード『星』の、逆位置ですよ」
 そう言いながら、林堂が、静かにカードをめくる。
 そのカードに描かれていたのは――全裸の女が、膝をついて星空を仰ぎ、両手に持った水瓶の中の水を、陸と海に注いでいる姿だった。
「ば、馬鹿な――!」
 牟津美星子が、息を飲む。
「ほら、俺の言ったとおりでしょう?」
 とんとん、と右手の指でカードを叩きながら、林堂は言った。
「そんな……」
 牟津美星子は、驚きを隠しきれない様子で、声を震わせた。
「理想、希望、夢、憧れ……『星』は、“大願成就”のカードとして有名です。でも、実は、このカードの示す意味はけしていいものばかりとは言えない。星は確かに夜を照らしますが、あまりに遠いんです。空を仰いだこの女性は、頭上に輝くポラリス――またはシリウスに限りない希望を抱いているのかもしれませんが、逆位置となると、プラスの意味は全て反転させて考える必要があるでしょう。つまり、高望みや失望、妄想、努力の放棄、現実性の欠如……」
 林堂は、目だけでちらりと西永瑞江の方を向いてから、牟津美星子の顔を見据えた。
 そして、再び、口を開く。
「今回のことで言うなら、このカードが暗示するものは、“幻滅”でしょうね」
「そんな――そんなものはトリックだ! 何か汚い手を使って……!」
 佐倉が顔を赤黒く染めて叫んだ。
「そちらが用意したカードで、俺がどんなトリックができるって言うんです? 負け惜しみはやめてくださいよ」
 林堂は、佐倉の方に視線すら向けず、そう言い放った。
「それに……トリックだと言うなら、証拠を見せてください。例えば、こんなふうにね」
 林堂は、右手でポケットから人差し指ほどの長さの金属棒を取り出した。
 そして、『星』以外はまだ山になったままのカードを崩し、手に持った棒で掻き回す。
「……ほら、釣れましたよ」
「!」
 林堂が持ち上げた金属棒に、カードが一枚、吸い付いていた。
「ご覧のとおり、『隠者』はこっちです。しかし、磁石を使ったトリックとはまた即物的ですね」
「それ……智視ちゃんが持ってるの、磁石なの?」
「ああ、ただの棒磁石さ」
 林堂が、呆気に取られた顔で訊いた瑞穂に、言った。
 そして、目に鋭い光を湛えながら、凍りついたように動かない牟津美星子に向き直る。
「手製のホワイトボードを作るための、市販されてるスチールペーパーの厚さは0.2ミリ。鋏でも切れるような薄さです。一方、一般的なトランプのカードの厚さは0.3ミリ以上。このタロットはそれよりも厚く作ってるようですから、スチールペーパーを仕込むことは充分にできる。そして、牟津美星子さん、あなたがしている、そのいささか品のよくない幅広の指輪に磁石を仕込めば、シャッフルしながら特定のカードを探し出すことなんて簡単だ」
 林堂の言葉に、牟津美星子は、思わず自分のしている指輪を手で覆った。
 その仕草を見て浮かんでしまった表情を隠すように、林堂が、脇にどかしていた『星』のカードで、口元を覆う。
 絵柄は、天地が逆さまで、女の頭上に輝いているはずの星は、下にあった。林堂が意識してそうしたのか、それとも無意識なのか、『星』のカードは、未だ逆位置のままである。
 その姿勢のまま、林堂は、言葉を続けた。
「カードの上下どちらか半分にスチールペーパーを仕込んでいれば、正位置や逆位置を操作することもできます。そして、この大アルカナの一組――デッキは、本来は『隠者』を引くためのものなんでしょう? もしかしたら、カードの種類だけ、22組のデッキを用意しているのかもしれませんね」
「し、しかし、お前は牟津美先生に悩みを言い当てられたじゃないかっ!」
 唾を飛ばすような勢いで、佐倉が割って入る。
「相手の過去の経歴や悩みなんてものは、事前に調べがつくものです」
 林堂は、眉一つ動かさず、言った。
「だいたい、誰だってある程度の年数を生きていれば、群衆の中の孤独を感じるものだ。俺みたいな、読書が趣味なんていう文系の人間ならなおさらですよ。『隠者』のカードの解釈は、いわゆるコールド・リーディング――誰にでも当てはまることをもっともらしく言ったに過ぎません」
「くう……」
 林堂の言葉に、牟津美星子が、呻き声をあげる。
「――そもそも、俺がここに来ることについては、瑞穂のお母さんには言っておいたことです。それに、瑞穂のお母さんがそのことを話さなくとも、誰かが入り口でチェックすれば、瑞穂が連れを伴ってきたことは容易に分かる。ここは牟津美星子さんのビルですし、そこにいるのはあなたの生徒たちなんですからね」
 林堂は、佐倉ではなく、あくまで牟津美星子に向かって言った。
「あなたは、事前に瑞穂が誰かを連れて来ることを予想していたのでしょうね。そして、それが誰なのかは、完全に把握していなくともいいんです。瑞穂が信用を置いている人物――学校の友人や、教師、そして親戚――それらの人々の個人情報の全て手の内に持っていればいいんですよ。そして、連れてきた人数だけ椅子を追加して、事前に入手していた情報のうち、該当する人間の情報を、もっともらしく話す。もし、瑞穂が一人で来たならそんなことはしなければいいだけです。例えば俺についてなら、県警の品川警部あたりがいろいろ言ってくれそうですけどね……。何にせよ、時間と金さえかければ、興信所でも使って充分に演出できることです。要するに今までの“超能力”は、トリックを使えば可能なことばかりですよ」
「ち、違う! トリックではないわ! 磁石の事なんて知らない! 誰かの陰謀よ! 私は本当に――」
 顔を蒼白にし、唇を震わせながら、牟津美星子が喚く。
「まあ、手品にしろ、超能力にしろ――あなたは失敗した」
 林堂のよく通る声が、牟津美星子の声を遮った。
「あなたには、奇跡を起こす能力などない。――『星』を引いたのは――または『星』が出てくることを知ったのは――俺の力によるものですよ」
 林堂が、口元を隠していた『星』のカードを、ゆっくりと外す。
 林堂は――嗤っていた。
 見る者の背中を冷たくするような、酷薄な笑み。
 牟津美星子を蔑み、嘲り、そして憐れんでいるその顔を――幸いにも、瑞穂は見ないで済んだ。
「おぉ……お……」
 牟津美星子の顔が――醜く歪んだ。
「お――お前は、お前は悪魔だ! 私を試すために来た悪魔なんだ! その力で私の力を妨害して――」
「俺の正体がどうあれ、あなたでは俺には敵わない。それは分かりますよね?」
 優しい、とさえ言えるほどの声で、林堂は言った。
「だから、あなたはここで自らの意を通すことはできない。ともかく、もう話を続けるような雰囲気ではなくなりましたね。瑞穂たちは俺が連れて帰りますよ」
「だ――黙れ悪魔ッ!」
 金切り声をあげて叫び、立ち上がったのは、佐倉邦雄だった。
「き、貴様、この神聖な場所をよくも汚したな! 瑞穂も瑞穂だ! こんな悪魔に魂を売って、この場所に引き入れるなど――魔女めッ! 躾け直してやるッ!」
 佐倉が、茫然としたままの瑞穂につかみ掛る。
 ぱん――と鋭い平手打ちの音が、部屋に響いた。
「ひぎゃ……」
 佐倉が、椅子を倒し、情けない声をあげて床に座り込んだ。
 瑞穂の母――瑞江が、林堂より早く反応し、立ち上がって佐倉の頬を叩いたのだ。
「……私の娘を悪く言うのは止めてください」
 瑞江が、佐倉に言う。
「もう、これ以上あなたたちと話を続けるつもりはありません。――瑞穂、帰りましょう」
「う……うん……」
 瑞穂が、一瞬だけ佐倉に同情めいた視線を向けてから、立ち上がる。
「な……なぐられた……おんなに……おんなになぐられた……」
 佐倉は、床にへたりこんだまま、ぶつぶつと呟いている。
「では、失礼します。これまでの経緯は私の名前で記事にすることもありますので、そのつもりで」
 決然と言って、瑞江が、部屋を出て行くべく、背中を見せた。
 そして、並んで歩きだした瑞穂に顔を寄せ、何やら話をしている。どうやら今までのことについて謝っているらしい。
「の――呪われるぞ!」
 瑞穂と瑞江の親子とともに部屋を出ようとした林堂に、牟津美星子は呪詛の言葉を吐いた。
「悪魔め――お前は必ず呪われる。お前こそが――!」
「あなたの暗示など、俺には効きませんよ」
 林堂は振り返って、平然と言った。
「そもそもあなたは、俺が悪魔に騙されてるのか、悪魔に取り付かれてるのか、それとも悪魔そのものなのかさえ、見抜いてないじゃないですか。そんな空疎なことを言う前に、今度は『悪魔』のカードを引けるデッキでも用意したらいかがですか? 少しは説得力が増すかもしれませんよ」
 林堂の秀麗な顔に、再び、ぞくりとするような笑みが浮かぶ。
「それより、あなた自身が用心することだ。――初めに猫が死を運んでくる。危機の数は1と8だ。高い所に注意しなさい。あなたの顔が裂けて醜い物が覗いているのが見える。宝石に気をつけなさい。あなたが捨ててしまったものが天の理によってあなたに仇を成すんだ」
 そう言い捨て、そして、林堂は部屋を出ていった。



 そして、半月ほどが経ったある日のことだった。
「ねえ、智視ちゃん」
 夏空の下、待ち合わせの場所である市内の公園にやって来た瑞穂が、息せききった様子で言った。
「今朝のニュースか新聞、見た?」
「ん、何が?」
 図書館のものらしい文庫本を鞄にしまいながら、林堂が訊く。
「ほら、あの占い師のことだよぉ! 牟津美星子の脱税の話! あの人、逮捕されちゃったんだよ!」
「へえ、そんなことあったのか」
「あ、あったのかって……智視ちゃんが予言した通りじゃない!」
「予言……?」
 そう言ってから、林堂は、くすくすと笑った。
 瑞穂の前でしか見せないような、屈託のない笑みだ。
「そっか、あれ、聞かれちゃってたのか……まいったなあ」
「まいったなって……」
「あれこそ、口から出まかせだよ。予言ていうのは、少し言い方に工夫すれば、出まかせでもあたるようになるんだよ」
「で、でも……あなたの顔が裂けて醜い物が覗いている、って……あれ、脱税で逮捕されちゃったことでしょ? もう、テレビとかには出られなくなっちゃったんだし……。それに、1とか、8とか……今日って8月10日だよ?」
「いや、それは聞く人がそう解釈してくれてるだけなんだよ。まあ、そういうふうに仕掛けはしてるけどね」
 林堂は、笑みを口元に残したまま、言った。
「例えば、猫のことを言ったのだって仕掛けさ。飼い猫がいるってことは知ってたからね。そいつがゴキブリの死骸でも咥えてきてくれればピッタリさ。ほかに、その猫が死んだり、病気になったり、ぜんぜん別の猫の死骸を道端で見つけたり、猫を飼ってる知人が死んだり、何だってあてはまるんだよ」
「……」
「宝石云々だってそうだ。あのオバサン、宝石が大好きだそうじゃないか。だったら、宝石をなくしたり、盗まれたり、傷つけたり、詐欺にあったり、宝石が原因で人といさかいを起こしたり、いくらだってトラブルはありうる。ま、これは本人がそういう目に遭った時、気にしてくれればいいっていうものなんだけどな」
「でも……日にちの方は、ぴったりじゃない」
「あの“1と8”は、年でも月でも日でも時間でもいいのさ。特に、あの話をしたのは7月だ。俺の言葉を気にするのは大体1ヶ月間くらいだろうから、“8”って数字は言っておいた方がいい。1と8と言えば、1なのか、8なのか、足して9なのか、18なのか、81なのか、いろいろバリエーションも出てくるしな」
「でも……」
「“あなたの顔が裂けて醜い物が覗いているのが見える”ってのは、ちょっと年配の女性にはきつかったかな。今回は、脱税騒ぎがあったんでそういうふうに取られたみたいだけど、顔のことは、ああいう人は一番気にするからね」
「じゃあ、その……ホントは、お肌のこととか、そういうこと言いたかったわけ?」
「そういうこと。あと、最後の“あなたが捨ててしまったものが天の理によってあなたに仇を成すんだ”なんてのは、オマケでね。瑞穂の小母さんのこともあったし、そうでなくとも、だいたいトラブルなんてのはその人間が捨てちゃったものが原因なんだよ。今回、もしうっかり廃棄したはずの書類がもとで検挙されたんだとしたら、このことかって思うだろうし……要するに、嫌がらせだよ」
「嫌がらせ……なの?」
「ああ、もちろん」
 すました顔で、林堂が言う。
「懲らしめた、って言った方が人聞きがいいかな。別に、あの人が何を他人に信じさせようとしていたかは興味ないけど、それで身近な人間が色々イヤな目に合うのは見てられないからね。ただトリックを暴くだけじゃ、ちょっとヌルいと思ったんだよ」
「そう……かな?」
「そもそも、あのテの人間のトリックを見破っても、実際はあまりダメージを与えられないんだよ。それでも自分の力は本物だ、って主張されれば、それで水掛け論になるからな。だから、相手の土俵で勝負したわけさ。口から出任せを言っていろいろイヤな気分にさせる。突き詰めれば――呪いって、そういうことだからな」
「でも、でも――じゃあ、どうやって、智視ちゃんはあの人に間違わせたの? それに、カードの予言だってしたじゃない!」
 瑞穂が、林堂に詰め寄るようにして訊く。
「ああ、まだ種明かしをしてなかったっけ?」
 林堂は、いささかわざとらしく言いながら、ポケットにしまいっぱなしになっていたらしい『星』のカードを取り出した。
「実は、シャッフルしたカードを牟津美星子に渡す時、一番下に来た一枚をこっそり左手の中に隠しておいたんだよ」
「え……?」
「で、牟津美星子がテーブルの上でシャッフルしている間に、カードを左手から右手に持ち替えながら、それが何かをこっそり確認したわけ。あとは、カードの山に右手を置く時、手の平に隠していたカードを一番上に積めば完成さ。引いたカードがこの『星』だったのは全くの偶然だし、色々占いじみたことを言ったのは全部でまかせだよ」
「そ……それだけー?」
「ああ、それだけ」
 林堂が、涼しい顔で言う。
「妹を実験台にして何度も何度もカードマジックの練習をしたり、カードを抜いたり積んだりする時に皆の注意を逸らすような工夫もしたけどね。あと、22分の1の確率でトリックが仕込まれたカードを拾っちゃう可能性もあったわけだけど、その時はその時で牟津美星子は『隠者』を見つけられなくて失敗するわけだからね」
「な、何て言うか……ダイタンだね」
 瑞穂が、驚くか呆れるか判断つきかねているような顔で、林堂の顔を見つめる。
 そんな瑞穂に、林堂は、笑みを浮かべたまま言った。
「手品ってのは、そういうふうにやるもんなんだよ」


あとがき

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