出たとこロマンサー



第二十四章



 六個の弾丸を、俺は、ショートレンジのテレポートで、何とかかわした。
 が、俺が再び透明な階段に降り立ったその時には、必要最小限の動きを終え、拳銃が照準を修正している。
 再び、銃声。
「うあああああああああ!」
 限りなく悲鳴に近い雄叫びを上げ、俺は、はるか上方へとテレポートした。
 当然――と言うべきかどうなのか、次の瞬間、俺は落下する。
 ――上は過去の方向でもあるので、これは、重力ではなく元の時間に戻ろうとする多元宇宙の自己修復力です。
「知るか!」
 サタナエルのテレパシーに大声を返しながら、眼下の階段にいるはずの紅葉さんを探す。
 見つけたとしてどうするか――サタナエルの刃で切りつけるのか、それとも炎で焼くのか――この期に及んで、迷いに捕らわれる。
 くそ! 殺されそうだっていうのに、俺は呑気すぎるぞ!
 と、その時、六つの拳銃がこちらに向かって一直線に飛んで来るのが見えた。
 星空をバックに始まる空中戦――男のロマンではあるが、浮かれてる余裕は俺には無い。
「サタナエル! 車軸の盾!」
 ――承知です。
 真下に突き出したサタナエルの剣の先端から、放射状に炎が広がり、回転して盾となる。
 パンパンパンパン!
 遠くから響く銃声はどこかおもちゃじみているな、などと思ったその瞬間、左の二の腕を、灼熱した何かがかすめた。
 弾が速すぎて車軸を擦り抜けてる――?
 ぞくりと背筋に悪寒が走るのと同時に、俺は、落ちて行くさらに先に瞬間移動した。
 ガンガンガンガン!
 先程よりはるかに近い銃声を、真後ろに聞く。
 間一髪だ。どうにか、思惑どおり、瞬間移動中に拳銃とすれ違うことができたらしい。
 再び落下を始めながら、俺は、空中で身を捻って、仰向けになった。
 背中から落ちるのは階段が見えなくて危険だとは思うが、拳銃から目を離すわけにはいかない。
 見ると、六つの拳銃は、空中で反転して、今度は俺を追撃し始めていた。
 ダンダンダンダン!
「迎撃!」
 中距離の銃声と同時に、命令。
 かつて幾百もの弓矢を空中で焼き尽くした火弾が、六つの銃弾を迎え撃つ。
「がっ!」
 右の太腿に走る激痛に、俺は、獣じみた悲鳴を上げてしまう。
 焼き尽くすのが間に合わなかったんだ。拳銃弾の速度は、弓矢なんかとは桁が違い過ぎるってわけか。
「こんちくしょおおおおおお!」
 首を捻り、視界の端に映った階段の縁に、そのままテレポートする。
「ぐううっ!」
 凄まじいまでの衝撃が、複数、俺の体を通過した感覚。
 階段にへたり込みながら、俺は、げほげほと咳き込んだ。
「く、くそ……!」
 口元を拭うと、唾液に血が混じっていた。
 もちろん、完全に命中したわけじゃない。もしそうだったら死んでたはずだ。
 たぶん、テレポートで消えかかっていた俺の体を、弾丸が通過したんだ。
 内臓にダメージを負ったようだが、それがどれほどかは分からない。無理して足に力を込めると、何とか、立てた。
「まだやれるみたいだな」
 そう呟いて、階段の下の方に目を向けると、首を巡らせて俺を探していたらしい紅葉さんと、バッチリ視線が合ってしまった。
 すっ、と紅葉さんが右腕を伸ばし、人差し指を俺に向ける。
 空中をひゅんひゅんと飛び回っていた拳銃が、俺に向かって移動を始めた。
「サイコミュ兵器のオールレンジ攻撃かよ」
 ――何ですか? それは。
 その疑問には答えず、俺は、サタナエルの剣を上段に構えて、テレポートした。
 目測どおり、俺の目の前に、拳銃が現れる。いや、俺自身が、飛来する拳銃の真っ正面の空中に移動したのだ。
「おりゃあああああああ!」
 そのまま、漆黒の魔剣を拳銃に振り下ろす。
 ガン! という手応え――にもかかわらず、刃は、拳銃に届いていない。
 ――念力による壁です!
「くそっ!」
 俺は、失意に歯噛みしながら、再び階段へとテレポートした。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
 立て続けに瞬間移動したせいで、息が切れる。感覚的には、全力疾走を何度も繰り返しているのと同じだ。
 空中で、拳銃たちが俺を襲うために針路を修正する。
「サタナエルっ!」
 一番手近な拳銃に、俺は、サタナエルの剣を突き出した。
 漆黒の刀身から迸る炎が、まるで火竜のように、拳銃を飲み込む。
 が、紅葉さんの念力にくるまれた拳銃は、魔界の炎に焼かれることなく、火竜のあぎとを突破した。
 囲まれる――
 がぁン!
 重なり合った銃声を、中心ではなく、包囲の輪の外側で、聞く。
 何とか、今回もテレポートで逃れることができた。
 そして、六つの拳銃が新たな包囲を完成させようとした時、さらにテレポートする。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……!」
 犬のように喘ぎながら、上を見上げる。今度は、俺が階段の下。紅葉さんが階段の上だ。
 俺の気配を察して振り返った紅葉さんの背後に、まるで忠実な猟犬たちのごとく、六つの拳銃が集まる。
 さて――このまま、俺の体力が切れるのが先か、それとも、拳銃の弾が無くなるのが先か――
 ――なるほど、敵の補給切れを狙う作戦ですか。
「籠城戦ってほど気長な戦いじゃないけどな――って、何ぃ!?」
 俺は、目を疑った。
 空中を飛んでいるのは拳銃だけじゃない。
 自動拳銃のためのカートリッジや、リボルバーに装填するためのクリップに留められた拳銃弾。それが、紅葉さんの服のポケットから次々と現れている。
「補給も万全てわけかよ……!」
 紅葉さんは、戦いに慣れている。こっちが考えるような隙については、すでに、全て対策済みなのだ。
 だが、なぜか、弾丸の装填を済ませた拳銃は、動かない。
「…………」
 紅葉さんが、じっと俺を観察している。
 おそらく、俺の疲労度を量っているんだ。
 あとどれだけ、俺がテレポーテーションを行えるのか――テレポートを終えた段階で、どれほど体力を消耗し、隙を作るか。
 それを、今までの俺の動きや顔色などから判断し――頭の中で、必殺の作戦を練り上げている。
 一方、こっちは、例によって行き当たりばったりの出たとこ勝負だ。
 まるで、名人の詰め将棋に対して、その都度、駒の動きを教わりながら指しているようなものである。
 だが――だからと言って、負けと決まったわけじゃない。
 俺は、敵である紅葉さんがくれたこのインターバルの間に、どうにか呼吸を整えた。
 喉の奥に迫り上がってきたのは、胃液か、それとも血なのか――吐き気を誘う体液を飲み込んで、紅葉さんを睨み続ける。
 ――意見をお伺いしたいのですが。
「何だよ」
 ある決意を固めながら、俺は、サタナエルに答えた。
 ――あなたが空中で拳銃に斬りつけ、そして失敗した時のことです。あの際、どうしてあの拳銃は発砲しなかったのでしょう?
「――――」
 俺の動きに反応できなかったのか? たぶん違う。何かの機械的なトラブルか? きっと違う。俺に情けをかけたのか? これは絶対に違う。
 だとしたら――
「念力の壁にくるまれてる間は、銃口も塞がれてるんじゃないのか?」
 ――なるほど。説得力のある答えです。おそらく、それが唯一の勝機になります。
 だが、サタナエルのその台詞を分析し、考えを巡らせる時間までは、もらえなかった。
「……来た!」
 六つの拳銃が、解き放たれた猛禽のように、俺に殺到する。
 俺は、最後の力を振り絞り――紅葉さんの目の前にテレポートした。
 歯を食い縛り、最後の力を振り絞って、サタナエルの剣を振り上げる。
 斬る――!
 この戦いを終わらせるために斬る。その結果は全て受け入れる。自暴自棄じゃない。ある目的を以てそれを成す。
 俺は、前に進み――あいつに会わなくちゃならないから――
 がン!
 堅い、ついさっき感じたのと、同じ衝撃。
 奇怪な文字の刻まれた魔神の剣の刀身は、紅葉さんの左肩の、その寸前で止まっていた。
 俺は、馬鹿か――拳銃を念力の壁で囲める人が、自身を守る手段を講じないわけがないじゃないか。
 俺の覚悟など一片の価値も無い。相対した時に既に必敗――俺がこの人相手に勝ちを拾う可能性は、奇跡よりもさらに桁がひとつ下――もはや、夢物語。
 念力に阻まれたサタナエルの剣は、不可視の万力に挟み込まれたように、ぴくりとも動かず――空中で反転した拳銃は、俺を取り囲む六角形の陣を完成させる。
 もう、テレポートするだけの体力は、残っていない。
 そして――タバコを咥えたままの紅葉さんの、レンズの向こうの目は、まるで剃刀のように冷たく乾いた光を湛えていた。
 紅葉さんの念力が、拳銃を固定したまま、引き金を――
 ――諦めては駄目です!
 思いがけないほどに強い心の声が、俺の全身を貫く。
 ――勝てます! 勝てるはずです! そのイメージを私にください!
 イメージを――幻想を――夢物語を、カタチにする。
 そうだ、その方法を、俺はあいつに教わったんだ。
 がイィン!
 そんな音が、俺の周囲で、幾つも同時に響いた。
「え……?」
 自分自身が咄嗟に何を願ったのかきちんと把握できず、俺は、マヌケな声を上げて、周囲を見回した。
 俺の周囲に、刃を上に向けた漆黒の剣が六本、宙に浮いている。
 それは、まるで剣の垣根だ。
 そして、細かな文字がびっしりと書き込まれたその刀身に、それぞれ、深い亀裂が入っている。
 これは――いきなり周囲に出現した魔剣が、弾丸から俺を守ってくれたのか?
 確か、魔剣は七十二本あるって話だった。あのイシュタルの剣だって、その一つだって話だ。
 つまり、サタナエルの剣以外の魔剣が六本、味方になってくれたという――
 ――それは、正しくもあり間違いでもあります。
 サタナエルのテレパシーが、俺の頭の中に響く。
 ――魔剣は……いえ、私の千の化身の全ては、輝く偏四角多面体(トラペゾヘドロン)のそれぞれの面に象徴されるように、全て、ある存在の一側面です。ただし、今回の分身は、サタナエルの剣そのものの多重存在とお考えください。
 例によって、サタナエルの言うことはよく分からなかったが――こいつが、身を張って俺を助けてくれたのだということだけは、分かった。
「無駄だ! 撃ち砕く!」
 紅葉さんが、驚きによって中断していた攻撃を、再開した。
 がぅン! がぅン! がぅン! がぅン! がぅン! がぅン!
 銃声が至近距離で連続して響き、その度に、漂う硝煙の中で六本の魔剣のカケラが宙を舞う。
 そして――
 ぐゎン!
 一際大きな音が轟き、鼓膜が痛いほどに痺れる。
 銃声が、止んだ。
「これは……!」
 紅葉さんが声を上げる。
 もうもうと立ち込める白い煙の向こうで――六つの拳銃は、全て、無残に破壊されていた。
 俺には、何が起こったのか、分かっている。
 いずれも、砕けた魔剣の破片が銃口に入り込み、そのせいで暴発したのである。
 弾丸を撃つ時は、その方向は、念力の壁を開かなくてはならない。そここそが、この拳銃を攻略する、唯一の突破口だったのだ。
 だが……これは、本当に俺が願ったことなのか?
 サタナエルを犠牲にして拳銃を破壊する――これは、俺のイメージによるものなのか、それとも、サタナエル自身の考えによるものなのか――
 ――気に病まれる必要はありませんよ……。あなたの願望と、私の思惑が一致したということです……。まさに、一心同体……は、言い過ぎかもしれませんが……。
 まるで、俺の気持ちを思いやるような、笑みを含んだ声。それが、頭の中に響く。
 ――しかし……弾丸は……全て、架空金属でしたか……。さすがは、魔女にして錬金術師……効きますね……。
 そんな、右手に送り込まれるサタナエルのテレパシーは、かつてないほどに弱々しかった。
「お、おい、サタナエル!」
 六本の魔剣――いや、俺が右手に握っているそれも含め、七本の魔剣が、次第に集まり、一本にまとまっていく。
 それは、まるでプリズム越しの映像が重なっていくような光景。
 だが、それぞれの剣に入った亀裂は別々で――それゆえに、一つに戻ったサタナエルの剣は、無数の傷を負ってしまうことになる。
 ――どうやら……これが、限界のようですね……。ぜひとも最後までお付き合いして……あなたと、熾皇帝ロギを……我々の側に、迎え入れたかったのですが……今回は……こちらの負けです……。
「って、おい! やっぱ何か企んでやがったんだな! せめてお前のやろうとしてた悪事を分かりやすく説明してから――」
 ――かつて、宇宙は一つの卵でした……。
 サタナエルの声が、頭の中に響く。
 ――その宇宙卵……私の本体でもあるもの……そこから全ては産まれ……そして、時間の始まる場所で……宇宙卵――盲目にして蒙昧なる“魔王”は……永劫の孤独に打ち震えてます……。
 紅葉さんが“A−Z”とか呼んだ、あの訳の分からないものから、宇宙の全ての始まりである大爆発――ビッグバンが起こるイメージ。それが、なぜか、脳裏に広がった。
 ――“魔王”は……分裂した全ての自我を……つまり、この世界を……再び回収しようとしています……。あらゆる生命を……“千匹の仔を孕みし森の黒山羊”が産み……“門にして鍵”が多元宇宙全域にばら撒いたのも……全ては……大いなる収穫の時のための……布石……。そして……今回のことも……“魔物の使者”である私の……この世のあらゆる魂を、全て……一つにする……試み……。
「駄目だ。それじゃ分からねえ! きちんと俺にも理解できるように話せって!」
 ――それは……次に、お会いするまでの……楽しみに……。いや……なかなか……楽しい……冒険……でし……た……よ……。
 何やら、しゃくに障るくらい満足げなテレパシーを残し――
 そして、サタナエルの声が、途切れた。
 まるで、金属というよりガラス細工のように呆気なく――ぱぁン、と魔剣が砕け散る。
 俺は、茫然と、右手の中に残った剣の柄を見つめた。
 それすらも、さらさらと砂が崩れるように分解し――あとには、まるで夢のように、何も残らない。
 魔剣ベリアル――サタナエルの剣は、俺の手の中から消えてしまった。
「こいつは驚きだ――」
 ぽつりと、紅葉さんが呟いた。
「“黒い男”の顕現が、憑依の対象である人間を庇って、計画半ばで退散するとは――こんなケースは有史以来記録されてないぞ」
「…………」
 俺は、階段の上方に立つ紅葉さんに、視線を向けた。
 紅葉さんが、不思議なくらいに静かな表情で、俺を見ている。あのタバコは、今は紅葉さんの右手の中にあった。
「――私と戦うか? その魔剣の仇討ちに」
「いいえ」
 俺は、そう返事をする。
「ならば、私の頬の一つでも張り飛ばすか?」
 そう言いながら、紅葉さんが、タバコの火を指で揉み潰した。
「しませんよ、そんなこと」
「いいのか? 私は君を殺そうとしたんだぞ、少年」
 そうは言っているが、もはや、紅葉さんからは、微塵も殺気が感じられない。
 ならば、俺の方には戦う理由は無い。そもそも、さっきの様子じゃあ、サタナエルの剣も完全に消滅してしまったわけじゃなさそうだ。あくまで、今回の話からは退場した、って感じだ。
 それに、サタナエルの奴が何か企んでたのは事実みたいだし……その点では、結局、紅葉さんの方が正しかったってことになる。
「ただ……訂正してください」
「訂正?」
 俺の呟きにそう聞き返してから、紅葉さんは、何か合点がいったような顔をした。
「そうだな……私の不見識だった。悪魔との間にも、友情を交わすことはできる」
 俺は、紅葉さんの言葉に、静かに頷いた。
 紅葉さんが、その双眸に、優しい光を浮かべる。
「君とあの魔剣は――友達だったのだな」
 俺は、もう一度頷いてから、無言で紅葉さんに背を向けた。
「……70段下りると、案内役がいる」
 紅葉さんが、そう、俺に言う。
「そこから先の行き方については、そいつらに尋ねるといい……。達者でな」
「心配いりませんよ」
 俺は、つい、そんなふうに答えてしまう。
「そうだな……君は、この後、一人でも大丈夫だ」
 そう言ってから、紅葉さんは、くすりと笑ったようだった。
「なるほど、こう言えばよかったんだな」
 その言葉を最後に、紅葉さんの気配が、背後から消える。
 あんな美人の笑顔を拝まずに別れるのは惜しいな、と思って振り返ったものの、そこには、すでに紅葉さんの姿は無かった。



 透明な階段を70段下りると、そこで階段は終わっていた。
 そして、最後の段の左右には、高さ2メートルほどの彫像が浮かんでいる。
 両方とも、黒曜石らしき黒い石で作られた男性の像だ。その造形は、エジプトにある石造りの神像にそっくりである。
「――汝、何処に行くつもりか」
 いきなり、石像の片方が、声を出した。
 なるほど、これが案内役か……。しかし、俺、もう大概のことじゃ驚かなくなってるな。
「ロギがいる場所に」
「熾皇帝ロギは大いなる魔力を秘めし危険極まりなき存在。其れでも汝は行くのか」
 もう片方の石像が、ご親切にもそう言ってくる。
「はい」
「成る程――決意は堅い様だな」
 動かないはずの石の像が、かすかに頷いたように、俺には見えた。
 そして――前触れも無く、階段の先に、床が現れる。
 床だけじゃない。壁と天井を備えた通路が、空中に出現したのだ。
 しかも、その床や壁、そして天井は、まるで、炎のようにゆらめくオレンジ色の光を発している。
「此の炎の洞窟神殿を抜けた所に再び階段が有る。其れを七百段下った場所に、汝の求める場所に通じる門が現れよう」
「分かりました。――ありがとうございます」
 俺は、一礼して、階段から伸びる通路に、足を踏み出した。
 床の感触は、硬く、しっかりしている。まるで石そのものだ。
 幅、高さとも3メートルの、熱を持たない炎の回廊を――2体の石像の言うところの“洞窟神殿”を、俺は歩く。
 歩きながら……ふと、もし今サタナエルがいたら、あの石像の名前や由来を教えてくれたかもしれない、などと考えてしまった。



 一本道の通路を抜けた所で、また、透明な下りの階段が始まっていた。
 周囲の様子は、炎の洞窟神殿に入る前とほとんど変わらない。相変わらず天体写真のように派手な星空だ。
 階段がどこに通じているのかは、ここからだと判然としない。
 だが、この先に俺の最終目標が有ることは、確かなはずだ。
 俺は、小さく深呼吸してから、階段を下り始めた。
 一段下りるのに1秒かかるとして、70段下りるのに、1分と10秒。その10倍の700段を下りるのに必要な時間は、単純計算で11分と40秒。
 これまで夢の中で経験してきた諸々に比べれば、何ということはない時間のはずなのに、それが、妙に長く感じる。
 気が付けば、背後にあったはずの炎の通路は消え去っており、前方には、未だに何も見えない。
 まるで、広大な宇宙空間の中で、たった一人、あてもなく漂っているような、不安に彩られた孤独感。
 ふと頭上を見上げれば、例の巨大な何モノか――“盲目にして蒙昧なる魔王”A−Zとやらが、かすかに脈動しているのが、うっすらと見える。
 そんな非現実的な風景の中、俺は、交互に左右の足を一段ずつ下に運んでいった。
 そして――
 唐突に、階段が、四角い広場のような場所に続いているのを、視認した。
 広場と言っても、階段と同じく、透明な材質で造られた、巨大な正方形の板に過ぎない。それが、何の支えもなしに、空中に浮かんでいる。
 広場の中央には建物も無いのに、ただ、両開きの巨大な扉だけがそびえ立ち、その傍らには、鎧姿の人間が一人、佇んでいた。
 どこにも身を隠す物が無い以上、階段を下りる俺の姿は丸見えのはずなのだが、鎧を着たその長身の人間は、こちらに気付いた様子を示さない。
 俺は、少し警戒しながら、階段を下り続け、どこか見覚えのある漆黒の甲冑をまとったそいつに近付いていった。
 広場に下り立ち、鎧の前に立つ。
「…………」
 兜の中を見ると、鎧の中身は、ミイラだった。
 もはや、その顔の生前の様子など分かりようがない状態だが、それでも、かすかに残った面影と、その巨躯、そして何よりも左目を隠す眼帯が、ある男のことを想起させる。
「黒騎士、リルベリヒ……」
 どれだけの間、世界と世界の狭間をさ迷い、どういう経緯でここに至って、そして、どれだけの時間を過ごしたのか――
 それは、もちろん、いっさい分からなかったが、そのミイラ化した顔には、どこか満足げな表情が浮かんでいるように、俺には思えた。
「死に場所を得たってやつか……」
 ここで、この門を、死ぬまで守っていたリルベリヒ――
 その気持ちのすべてが理解できるわけではないが、それでも、奴への敬意を抱きつつ、俺は、両開きの扉の取っ手に、左右の手をかけた。
 もちろん、扉の向こうには何もないように見えるのだが、そんなものを、リルベリヒが守り続けてきたわけがない。
 つまり――熾皇帝ロギは、この奥にいる。
 俺は、ほとんど予知に近い確信を抱きながら、扉を開いた。
「――――」
 やっぱり、と言うべきか……広場にぽつんと立っていただけの扉の奥に、明らかに別の空間が広がっていた。
 まさに、青い猫型ロボットが使う未来道具のような感じだな――そんなふうに思いながら、扉をくぐる。
 そこは、体育館くらいの広さの、巨大な長方形の部屋だった。
 床は、氷だ。うっすらと雪を被った氷が、部屋の中の空気を凍てつかせながらひしめいている。まるで、南極の氷山の表面のようだ。
 壁は、塗り潰されたかのように漆黒。
 そして、天井は、一面に渡って炎に包まれ、不吉な明かりで床を照らしていた。
 こここそが、真の“炎と氷の玉座”――相反する二つの要素によって形成された矛盾の空間。熾皇帝ロギの謁見の間。
 部屋の奥には、かつてニケが座っていたのを見たことがある、巨大な水晶で形作られたかのような椅子があり、そして、そこには――
「芙美子……」
 ジャージ姿の若葉芙美子が、仏頂面で座ってやがった。



第二十五章へ

目次へ