第二十章
今日も、俺は、雪山の中を歩いている。
視力はさらに下がり、まともに戦うどころか、歩くのにも不自由するほどだ。
幸い、今日は空が雲に覆われているため、雪に反射した陽光に目がさらに痛め付けられることは、ない。
だが、こんな状態でリルベリヒとやり合うことができるかは、正直言って、大いに不安だ。
あまり無策でいるのは、出たとこ勝負が信条であるとしても、度が過ぎる。
何か、作戦を立てなければ……。例えば、リルベリヒと、完全な闇の中で戦うとか。
もし、そうすれば、視覚以外の感覚が鋭敏になっている分、俺の方が有利かもしれない。
いや――そんな、剣豪小説みたいにうまくいくか?
そもそも、こんな目でリルベリヒのもとにたどり着けるかどうか――
「――――!」
思案にくれる俺の目の前に、巨大な壁が立ちはだかった。
サカモトの背から降りて歩み寄り、目の前のそれを検分する。
こいつは、岩肌が剥き出しになった絶壁だ。角度が垂直に近いため、冠雪していない。
こんな近くに来るまで、その存在に気付かなかったなんて……俺は、改めて暗澹たる気分になった。
絶壁の頂上は、ぼやけて、とても見えない。だから、頂上までの瞬間移動は不可能だ。
かと言って、この絶壁を登るのは、訓練を積んだロッククライマーか何かじゃないと無理だろう。
そして――リルベリヒの持つイシュタルの剣の反応は、この、すぐ真上にあった。
「どこか、迂回路か何か無いのか……?」
頭を巡らせて、絶望を新たにする。この目では、複雑な地形を遠目に確認することなんて、とてもできやしない。
とは言っても、見えるところまで目を近付けて迂回路を探すなんて、これまた不可能だ。
「ちくしょう、手詰まりか……っ!」
俺は、腹立ちまぎれに、足元の凍りかけた雪を蹴り飛ばした。
それが、きっかけだったのだろう。
「うわっ!」
いきなり、目の前が真っ白い闇に覆われた。
足元の雪が爆発するような勢いで大量に舞い上がり、視界を塞いだのだ。
一瞬、地雷でも踏んだのかと思ったが、そんなわけはない。雪中に隠れていた何者かが、凄まじい力で雪を撒き散らしながら出現したのだ。
衝撃に煽られながらも、何とか倒れることなく踏みとどまり、サタナエルの剣を背中から抜く。
「グォオオオオオオオオオオオ!」
真っ白な固まりが、獰猛な咆哮を上げながら、肉薄してきた。
輪郭は曖昧だが、どうやら、二本の足で動いていることだけは見て取れた。それから、腕も二本。プロポーションだけなら、人間に近いみたいだ。
だが、その大きさは、俺の背丈の2倍はあった。
そんなデカブツが、雪上を滑らかに移動し、低い姿勢で俺に拳を繰り出してくる。
「サタナエルっ!」
俺は、そいつの方向に見当をつけ、瞬時に炎に包まれた剣を振り下ろした。
手応えが――ない。
避けられた、と思った時には、俺は、凄まじく重い一撃を右の肩に感じた。
「ぐあっ!」
肩当てが千切れ飛び、そして俺は、その場に仰向けにぶっ倒れた。
慌てて立ち上がり、ほとんど見えない目で、敵を探す。
「グァアアアアアアアアアアア!」
その威嚇の叫び声が、逆に、俺を救った。
攻撃が来そうな方向に体を向けながら、とにかく、後方に下がる。
ハンマーのように振り下ろされたそいつの拳が、俺の爪先の少し先の雪を、ばっ! と散らした。
敵は目の前だった。ようやく、その造作が見て取れる。
純白の長い体毛に覆われたその体は、巨大な類人猿といった感じだ。雪男という単語が、俺の脳裏の片隅で明滅する。
「りゃああっ!」
気合を上げながら、剣の柄を両手で握り、跳ね上げる。
俺の攻撃を、巨体に似合わぬ身ごなしで避け、そいつは、こっちに向かって四つ足で地を蹴った。
体当たり――!
「ぐっ!」
まるで、車に跳ねられたような、衝撃。
俺は、数メートルほど後方に吹っ飛ばされて、地面に叩きつけられた。
「く……かはっ……」
肺が潰れてしまったかのように、呼吸ができない。
やつが、充分な助走距離を稼いでいたら――あるいは、下に雪が積もっていなかったら――たぶん、俺は、全身の骨を砕かれていただろう。
単純な苦痛に、ぼやけた視界をさらに涙で滲ませながら、俺は、何とか立ち上がった。
あの雪男が、なおも迫ってくる。
その攻撃が命中する瞬間、ショートレンジのテレポーテーションで体を逃がす――はずだった。
どっ! という衝撃とともに、またも、地面に倒される。
駄目だ。視力が落ちているせいか、瞬間移動のコントロールがうまくいかない。
雪男が、何とか立ち上がろうと試みる俺に、のしかかろうとする。
俺は、右手一本で、サタナエルの剣を突き出した。
「がッ!」
悲鳴は、俺の口から迸った。
どちらの手で殴られたのか、判然としない。ともかく、俺は、腕にバットをぶち当てられたような衝撃を感じていた。
俺の手から弾き飛ばされたサタナエルの剣が宙を飛び、半ば盲いた俺の目の届かないどこかに、落ちる。
武器を、失った。
掛け値なしの恐怖に、無様に悲鳴を上げそうになる。
自分が、どれだけあの魔剣に依存していたのかを思い知った。
レレムと戦った時は、それでも、瞬間移動の力があった。しかし、今の俺には――
「ガァアアアアアアアアアアアアアア!」
泣きたくなるほど近くに奴の咆哮を聞き、俺は、自分でも驚くほどの身ごなしで立ち上がった。
そのまま、敵に背を向けて走りだす。
そう――俺は逃げ出していた。
どこかに落ちているだろうサタナエルの剣を探すとか、サカモトの背に乗ったままの盾を手に取るとか、そんなことにすら、思いが至らない。
とにかく、俺は、あの雪男の攻撃圏内から逃れようと、必死に足を動かした。
しかし――雪の上で自由に動き回れる相手から、ほとんど見えない目で逃げるという行為は、あまりにも無謀だった。
「グオッ! グオッ! グオッ! グオッ! グオッ!」
奇怪な声が、俺のすぐ背後で、聞こえた。
近い。
けど、どれだけ近いのかを、振り返って確かめることができない。
膝までの雪に足を取られながら、とにかく逃げ続ける。
だが――結局、俺が逃走できた時間も、距離も、ほんのわずかなものでしかなかった。
「ぐっ!」
がくん、というショックとともに、足が止まる。後ろからマントを掴まれたのだ。
そして、俺は、マントを引っ張られ、そのまま仰向けに倒されてしまった。
ぐるりと体を半回転させ、雪男が、俺の体に跨がる。
両腕は、左右とも、でかい手に押さえ付けられ、ぴくりとも動かない。いや、それどころか、奴の巨体が胴の上にあるだけで、肋骨が軋み、呼吸さえままならない状態だ。
「ガハァアアアアアアアアアアア……」
そいつは、俺にのしかかったまま、獣臭い息を吐きかけるように、顔を近付けてきた。
獣毛に包まれたその顔は――不気味なことに、掘りの深い人間のそれを思わせた。
青い目はギラギラと飢えに光り、高い鷲鼻からは荒く息が漏れている。
そして、純白の髭に覆われた口が、白い歯を剥き出しにして、笑うような形に開かれた。
こいつに――ここで食い殺されるのか?
自称魔女にあれだけ大口を叩いたくせに、熾皇帝ロギの四天王でもなんでもない、この、単なる野生の半獣人に――殺されるのか、俺は。
世界どころか――ニケを、救うこともできずに。
「っざっけんなああああああああッ!」
俺は、今まさに俺の喉笛に食らいつこうとしていたそいつの鼻先に、逆に思い切り噛み付いた。
「ガッ!?」
もはや狩りは終わり、食事の時間だと思っていたらしい雪男が、体を起こし、両手で鼻を押さえた。
ぺっ、と、口の中に残った血まみれの肉片を吐き出す。
両手が自由になった。あとは、テレポートでこいつの下から逃れないと――
くそ! 駄目だ! どこにも、移動先の俺の姿が見えない!
「グガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
怒りに、長々と咆哮を上げ、顔の下半分を血まみれにした雪男が、両腕を高々と上げる。
避けるか、受けるか――どちらにせよ、こいつのパウンドは強烈そうだ。
だが、諦めない。
意識が途切れても、死後の世界で死を自覚したって、俺は諦めねえぞ。
世界の運命なんて知らない。自分が勇者や英雄だなんて考えた事すらない。
けど、俺は、ニケを助ける事を絶対に諦めない!
「グガアッ!」
どすっ!
一発目は、俺の顔のすぐ横に、炸裂した。
奴が怒りに目を眩ませていたことと、俺がとっさに首をひねってよけたことが、功を奏したらしい
次に来るであろう二発目に、俺は、全神経を集中する。
二発目を避ければ三発目が、三発目を食らわなくても四発目が、四発目まで生き長らえたとしても五発目があるだろう。
だけど、一瞬後にあるかもしれないチャンスを掴むために、俺は絶対に諦めたりなんか――
「――風よ! 颶風よ!」
不意に、聞き覚えのある声が、響いた。
「大気の精霊たちよ! その大いなる力にて、我が敵を玩弄せよ!」
ごぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!
凄まじいまでの轟音が、一瞬にして一帯を支配する。
そして、音の中心は――ここだった。
強烈な風が、四方八方から、この場所へと吹き込んでくる。
舞い上がる雪は高速で渦を描き、そして、それは、いつしか竜巻となっていた。
「グオオオオオオオオオオ?」
雪男が、突然の怪異を目の当たりにして、声を上げる。
その長い体毛が千切れそうなほどにたなびき――そして、雪男の巨体が、ふわりと宙に浮いた。
「ゴアアアアアアアアアア!」
叫び声を上げる雪男を、竜巻がぐんぐんと持ち上げていく。
なのに、吹きすさぶ風は、俺にはほとんど影響を与えない。
まさに、魔風――
そんなことを思った時には、雪男の姿は、俺の目では捉えられなくなっていた。
ただ、哀れな叫び声だけが、びょうびょうという風の音の向こうから、聞こえる。
その声が、いきなり、真横に吹っ飛んだ。
ぐしゃり! という、何かの潰れるような音が、例の絶壁の方から、する。
そして――まるで嘘のように、風が収まった。
「お師匠様っ! 無事ですかぁ?」
「あ、ああ……」
俺は、返事をしながら立ち上がり、声の方を見上げた。
その身にまとった風にスカートの裾をたなびかせながら、空中に浮かんでいた小さな影が、俺の目の前に降り立つ。
「助かったぜ、レレム……だよな?」
俺は、かすれた声で言った。
この距離だと、相手の顔まではきちんと判別できないのだが、状況からして、レレム以外にありえない。
「そうですぅ……あ、あの、お師匠様、やっぱり目が……」
俺の瞳の焦点がしっかり合っていないのを見て取ったのか、レレムが、言う。
「ああ。もし、お前にリターンマッチをしかけられたら、勝負はどう転ぶかちょっと分からないな」
レレムの首に、あの魔法封じの鎖が無いことを確認して、俺は言った。
「そ、そんなことしませんよぅ!」
「冗談さ。少なくとも、お前がゼルナさんに逆らえない状態だってことは、その服装を見れば分かるぜ」
「ううぅ……」
明らかに女物の服を着たレレムが、恥ずかしげに声を上げる。どうやら、図星のようだ。
「ま、ともかく、助かった……でも、どうしてここに?」
「その……前線から、伝令があったんですぅ。お師匠様が、目が見えなくなってるのに、ニケ様を助けに一人で出発したって……」
「まさか、それで、助太刀に来てくれたのか?」
「その……ちょっと違うんですけど……」
ごにょごにょと言いつつ、レレムが、肩から提げたポシェットから何かを取り出す。
それは、レレムの小さな手に収まってしまいそうな、小さな薬瓶だった。
「これは、イレーヌ様の力を、ミスラ様が液体の中に閉じ込めた、魔法の目薬ですぅ」
「イレーヌさんと、ミスラの……」
「はい。ボク、ゼルナさんの言い付けで、これを届けに来たんですぅ」
「それにしたって、よくここが分かったな」
「それは、スウ様が、予言で方向を教えてくれましたからぁ」
「…………」
俺は、レレムから薬瓶を受け取りながら、はるか南の王宮に、しばし思いを馳せた。
いつのまにか、アイアケス王国のために、自分一人で戦ってるような気持ちになっていたけど……俺は、たくさんの人に見守られ、助けられているんだ。
と、まるで俺のこの気持ちを察知したかのように、サカモトが、あの老騎士から預かった盾を背に追い、姿を現した。
「え、えっと、お師匠様?」
レレムが、不安そうな声で、言う。
「もしかして、警戒しているんですかぁ? えっと、えっと、ボク、ウソなんかついてないですよぅ? それ、正真正銘、イレーヌ様とミスラ様の――」
どうやらレレムは、俺がなかなか目薬を使おうとしないんで、自分が疑われてるんじゃないかと思ったらしい。
「いや、別に毒だなんて思ってないさ」
俺は、そう言って、薬瓶の蓋を開け、中の液体を両目に数滴ずつ垂らした。
「ん……」
俺の知っている目薬とはだいぶ違う、優しく、温かく、そして柔らかな刺激が、じんわりと眼球にしみわたる。
まるで、イレーヌさんの手が、両目に当てられているような――
「ん――んん――」
あまりの気持ち良さに閉じていた瞼を、ゆっくりと開く。
「あ……」
俺は、思わず声を上げていた。
どうしようもなくぼやけていた視界が、劇的に回復している。
まだ、完全に本調子というわけではないが、少なくとも、雪で目をやられる以前の状態には、完全に戻っていた。
「たった一回さしただけなのに、すげえな……なるほど、魔法の目薬だ」
「目、治ったんですかぁ?」
「ああ。完全にじゃないけどな」
俺は、そう言いながら、周囲を見回した。
幾重にも重なる雪を被った峰々の中腹――なだらかに傾斜している広大な雪原の中央に、俺は立っている。
そんなことさえ、さっきまでの俺は、きちんと把握できていなかったのだ。
「しかし――広いな。スウに方向を教えてもらったとはいえ、よくこの中で俺を見つけられたな」
俺は、嬉しげな表情を浮かべているレレムに向き直り、言った。
「実は、なかなか見つけられなくて焦ってたんですけどぉ――急に、フリムスルスのおっきな声が聞こえてきたんですぅ」
フリムスルスというのは、どうやら、あの雪男の種族名のようだ。
「なるほどね……俺が苦し紛れに奴の鼻に齧りついたのは、無駄じゃなかったんだな」
「は、鼻、ですかぁ? それ、何かのたとえなんですかぁ?」
「いや、文字通りの意味だよ」
そう言って、俺は、あの岩壁の方に、視線を転じた。
雪男――いや、フリムスルスとやらが、岩壁のすぐ手前で血まみれになって倒れている。たぶん、レレムの魔法で、あの絶壁に叩きつけられたのだろう。
視線を、ゆっくりと上げる――まだ、この絶壁の頂上までは、見ることができない。
しかし、この目薬をさし続ければ、近いうちに――もしかすると、明日の朝には、完全に視力が回復しているかもしれない。
ニケのことを考えると、焦る気持ちもあるが、ともかく、今の俺には、休息が必要なようだ。
「よし、今日はここでキャンプだ……っと、その前に……と」
俺は、周囲を見回し、サタナエルの剣を探した。
ほどなくして見つけたそれを手に取り、雪の厚く降り積もった場所に向かう。
「えっと、どうするんですかぁ?」
「雪に洞穴を掘るのさ」
俺は、レレムの問いに答えながら、真っ黒い刀身に炎をまとわりつかせ、それで、いい具合に降り積もっている雪を溶かし始めた。
たちまち、一晩明かすにはおあつらえむきのかまくらができあがる。
「魔剣をそんなふうに使う人なんて、世界広しと言えどお師匠様くらいでしょうねぇ」
レレムは、どこか呆れたような口振りで、そんなことを言った。
目覚めは、最近では珍しく、すっきりしていた。
何か、夢を見ていたような気がする。雪山の中で、毛むくじゃらの怪物と大立ち回りを演ずる夢だ。
途中までは恐ろしい悪夢だったんだが、最後には思わぬ仲間の助けがあり、どうにか生き延びることができた――という展開だったと思う。そのせいか、今の夢の続きを見てみたいなんて気分になっている。
まあ、そんなに簡単に夢の続きを見ることができたら楽しいだろうが――って、あれ?
俺……夏休み前まで、そんなふうな夢を見てなかったっけ?
そんなことを考えながら、朝の支度を整え、俺は、芙美子の家へと向かった……。
ここのところ、芙美子は、何となくそわそわしている。
これまでは、いくら寝ても寝足りない、という謎の症状のため、きちんと気に止めてなかったんだが――改めて観察すると、目に余るほどの落ち着きの無さだ。
仮にも“お付き合い”をしている男として、そんな芙美子の様子に気付かなかったことに、忸怩たる思いを抱く。
いや、俺は、気付いていたのだ。
芙美子が、心ここにあらずといった調子で日々を過ごしていたこと。
そして――その理由。
もちろん、気付いていたさ。まだ、彼氏と呼ばれるほどの関係では無いにしろ、俺はこいつの幼馴染だ。
気付いていながら――俺は、ぬるま湯のように心地いい芙美子との新たな関係を失いたくなくて、気付かない振りをしていたのだ。
でも、それも終わりだ。
俺は、弱い人間だし、厄介事はできるだけ先送りにしたいと人並以上に考えるタチだ。それでも、この件については、これ以上、放置し続けることはできない。
なぜなら、これは、芙美子という存在の根幹に関わることのはずだからだ。
だから、俺は、他の連中の邪魔が入らないよう、放課後、芙美子を印刷室に連れ込んだ。
「――何? 話って」
芙美子は、俺が何を言おうとしているのか、予感していたに違いない。何しろ、場所が場所だ。
「来週のデートのことだったら、もうちょっと雰囲気あるところで話した方がいいんじゃないの?」
予感しているはずなのに、芙美子は、そんなことを言う。
つまり、これから俺が言おうとしていることは、芙美子にとって、少なからぬ痛みを伴うことなのかもしれない。
だから、このことに触れずに、これからの日々を生ぬるく過ごすという選択肢だってあったはずだ。
今、俺が抱いているモヤモヤも、時間が解決してくれる類いのものかもしれないのだから。
それでも、俺は――
「なあ、芙美子」
「何よ?」
「お前――もう、漫画描かないのか?」
俺は、そんなわけないでしょ、と即答されるのを、期待していた。
だが、芙美子は、これまで俺が見たこともないような、煮え切らない表情を、その顔に浮かべている。
「ん……どうなのかな……」
「…………」
「何だかさ、最近、ちょっと分かんなくなってきたのよね」
そんな芙美子の返答を、想定していなかったわけではないんだが、それでも、俺は、表情を堅くしてしまった。
「分からないって、どういうことだよ」
つい、ちょっと険のある言い方で、そう訊いてしまう。
「だからね……自分が、どうしてあんながむしゃらに漫画を描いてたか、ってこと」
「…………」
「別に、描き続けても、プロになれるかどうか分からないし……デビューできたとしても、それで食べていけるかどうか分かんないしね。お姉ちゃんは、うまいことやって、自分の稼ぎで食べていけるようになったけど、あたしは、お姉ちゃんみたいなバイタリティー無いし……そもそも、お姉ちゃんより、絵もストーリーもまだまだ下手だし……」
「お前さ――そんな、言い訳みたいなこと言うの、やめろよ」
俺は、つい、芙美子を追い詰めるような口調になっていたのかもしれない。
「い、言い訳って……透、どうして――どうしてそういうこと、言うの?」
質問に質問を返しながら――芙美子は、そのメガネの奥の瞳に、涙を溜めていた。
「あたしのこと、好きって――好きって言ったくせに、今になってどうしてそんなこと言うのよ!」
「どうしてって、それは――」
「あんた、あたしのこと好きなんでしょ! あたしが何をしても! しなくても! ぜんぶ肯定してくれるんじゃないの!? 好きってそういうことじゃないの!?」
およそ芙美子らしくない言葉――その内容と勢いに、俺は、少しの間、茫然としてしまう。
不意に、紗絵子さんが訳知り顔に芙美子を評していた諸々の言葉が、脳裏に蘇った。
褒められることが好きで、ハンパ者で、未だ物語に魂を売り渡していないと言われた芙美子が――涙目で俺を睨みつけている。
その顔が赤くなっているのは、知ったふうな口を利く俺への怒りのせいか、それとも、自らの言葉を恥じてのことだろうか。
どちらにしても、俺は、言葉を続けざるを得ない。
「……だって、お前、漫画描きたがってるだろ。それくらい、見てりゃ分かる。十年以上の腐れ縁を舐めんな」
「――――」
芙美子の悔しげな沈黙が、俺のセリフを雄弁に肯定する。
しばらくして、芙美子は、ようやく、口を開いた。
「な……何が……何が腐れ縁よ……透に――透なんかに、何が分かるのよっ!」
大きく口を開けて、芙美子が叫ぶ。
「本当は――本当は、あんたが思ってる何倍も! 何十倍も! 何百倍も描きたいわよっ!」
「じゃあ、どうして――」
「だって、あたしは――あたしも――あたしだって――あんたのことが――」
そこまで言いかけて、芙美子は、口をつぐんだ。
気まずい沈黙に、俺は、耐える。
「――帰る」
そう言って、芙美子は、俺に背を向けた。
「芙美子――」
「ついて来ないで!」
俺の方を見ることなく、芙美子が声を上げる。
「もう――もう知らない! 透のお節介焼きっ!」
芙美子を追いかけようとした俺の目の前で、扉が、ピシャァン! と派手な音をたてて閉まる。
「あーあ……」
俺は、盛大に溜め息をついてから、一学期の間、芙美子が漫画を描きまくった印刷室の中を、見回した。
果たして、俺は正しかったのだろうか?
少なくとも、これで、来週のデートの予定は完全に無くなったと考えていいだろう。
それでも――何て言うか、正直、ちょっとスッキリした。
ずっと背負っていた荷物を、ようやく下ろしたような気分だ。
いや、荷物を下ろしたというより、落っことしたと言った方が正確か?
「やれやれ――」
俺は、もう一度息を吐き……そして、一人、家路についたのだった。
翌朝には、視力は、もう完全に回復していた。
まるで、磨かれた窓ガラス越しの風景のように、視界がクリアになっている。
俺は、視線を、ゆっくりと上げた。
岩壁の頂上。あそこに、ニケと、あと、黒騎士リルベリヒがいる。
「もう行くんですかぁ? お師匠様」
一晩を俺とともに雪の洞窟の中で過ごしたレレムが、背中から訊いてくる。昨夜は、こいつの“温風の魔法”で、ずいぶんと快適に過ごさせてもらった。
「もちろん、行くさ……。だから、いっとき、お前とはお別れだな」
「…………」
振り向くと、例によって女物の服を着たままのレレムは、済まなそうな顔をした。
「申し訳ないですぅ……ボクは、ゼルナさんに逆らえないですけど……でも、まだ、ロギ様の部下でもあるんですぅ……」
「ああ、分かってる。そう簡単には割り切れないよな」
もし、レレムが完全にアイアケス側についてくれるんだったら、こんなに頼もしいことはない。しかし、そうはならないだろうことは、何となく分かっていた。
そもそも、レレムが俺と共に戦ってくれるつもりだったら、俺の目が完治するのを待つ事なく、その風の魔法で俺を崖の上まで連れてってくれただろう。
つまり、レレムは、ロギやリルベリヒの目の届かない場所で俺を助ける事はできても、俺と一緒になって昔の主に刃を向けるまでの覚悟は決めていないのだ。
それならそれでいい……。それに、シビアなことを言えば、レレムが、リルベリヒやロギを前にして、もう一度寝返る可能性だって、ゼロじゃない。
「これまでのことで充分すぎるくらいさ。ただ……できたら、一つだけ教えてくれ」
「な、何ですかぁ?」
「この岩壁の上――あそこには、リルベリヒだけじゃなくて、ロギも、いるんだろ?」
「それは……その、陛下がいらっしゃるかどうかは分かりません。でも、あそこが、ロギ様の“炎と氷の玉座”であることは、確かですぅ」
「つまり、ロギ一党の本拠地なんだな。まあ、リルベリヒの奴が、俺のサタナエルの剣を感知してるはずなのに、一向に動かないところを見ると、そうだろうとは思ってたんだけどな」
「…………」
「じゃあ、またな。あ、それから、ゼルナさん達のこと、よろしく頼むぜ」
「はい」
迷いの無い口調で、レレムが返事をする。
俺は、レレムに頷きかけ、再び、崖の頂上に視線を転じた。
あそこに、ニケと、リルベリヒと――もしかしたら、熾皇帝ロギその人が、いるのか。
どうやら、崖の上の地形は険しそうだ。たぶん、サカモトに乗ったままだと、かえって身動きが取れなくなるだろう。だから、ここからは本当の単独行になる。
俺は、魔剣を背負い、あの老騎士から預かった盾を左手に持った。
そして――断崖の頂きにある岩の上に立つ自分の背中を、幻視する。
次の瞬間、俺は、はるかな距離を越え、跳躍を果たしていた。
静止していた時間が、動き出す。
テレポートした先は、頂上に程近い、ゴツゴツとした岩場だった。岩は雪に覆われ、そして、それは半ば凍りついている。
そして――目の前に、ぽかりと、洞窟の入り口があった。
でかい。岩壁の麓からは見えなかったけど、家一軒を丸ごと飲み込んでしまいそうなくらいの大きさだ。
覗いてみると、洞窟は、かすかに下りつつ、どこまでも伸びて、果てが見えない。どうやら、かなりの奥行きのようだ。
俺は、背中からサタナエルの剣を抜き、刀身を炎で包んでタイマツ代わりにしながら、洞窟へと踏み入った。
見上げると、入り口の縁に、ツララとも鍾乳石ともつかないスパイク状の何かが並んでいる。どうにも、ずらりと牙の並んだ、巨大な怪物の口の中に入るような気分だ。
中の岩壁は黄色がかった灰色をしており、奇妙に滑らかで、どこか内臓を思わせた。やっぱり、鍾乳洞なのかもしれない。
こんな高い山の中腹に鍾乳洞ができるものなのかどうかは分からないが、この世界の自然の法則は、俺の知っているそれとは異なっているのだろう。だから、考えるだけ無駄だ。
洞窟は、ゆるやかに下ったまま、行けども行けども続いている。
まるで、連なる山脈が際限なく巨大な竜の体で、この洞窟はその体内の消化管のようだと、そんな連想をしてしまう。
「…………」
もう、どれくらい歩いただろうか。時間の感覚が、おかしくなってきた。
「ん……?」
洞窟の奥に、光源がある。
赤みの強い、オレンジ色の光だ。
その、オレンジ色の光の強弱がゆらぐせいで、内臓めいた洞窟の内側が、脈動しているかのように錯覚する。
空気が、次第に生温く、そして、生臭くなっていく。俺は、たまらず、防寒具を脱いだ。
光源に近付くにしたがって、辺りが、他の照明が必要ないくらいに、明るくなっていく。
俺は、用心のため、サタナエルの剣の炎をいったん消し、盾を構え直して、だらだらとした下り坂をさらに進んだ。
と――目の前が、急に開けた。
「うわ……」
思わず、声を上げる。
そこは、室内競技場を思わせる、巨大な空洞だった。
はるか下方では、オレンジ色のマグマが泡立ち、不吉な朱色の光を放っている。
一方、頭上は、ドーム状になっており、ぽたぽたと滴を滴らせる無数のツララが、その表面を覆っていた。
ここは、まさに、巨竜の胃袋だ。
その、竜の胃液とも言える溶岩溜まりを左右に割るようにして、幅3メートルほどの岩の壁が、空洞の端から端まで伸び、ちょうど橋のようになっている。
下りの洞窟を抜けた俺は、その橋のたもとに、立っていた。
岩の橋は、俺から見て、ゆるやかな上り坂になっており、そして、つきあたりの岩壁あたりで、ちょっとした広場のようになっている。
そこに、水晶を思わせる透明な結晶でできた、巨大な構造物があった。
あれこそが――レレムの言うところの、“炎と氷の玉座”なのだろう。
「――っ!」
俺は、驚愕の叫びを飲み込んだ。
水晶のカタマリの中央――まさに、玉座のようになっているその場所に、顔をうつむかせて、誰かが座っている。
女性だ。純白の、ウェディングドレスを思わせる衣装をまとっている。
あれが、熾皇帝ロギ?
いや、違う、あそこに座っているのは――
「ニケ!」
遠目にも間違いようがない。あれは、ニケだ。
何だって、あんな場所に、あんなふざけた格好で――
いや、そんなことはどうでもいい。ともかく、あそこに行かなくては――!
「止まれ!」
空洞に、殷々と、声が響いた。
「魔道の力は使うな。その二本の足で、橋の中央まで、進め」
「リルベリヒ!」
玉座の影から現れたのは、まさしく、あの、黒騎士リルベリヒだった。
その堂々たる体躯がまとう鎧と、右手に握られた半ばで折れた魔剣とが、下方で渦巻くマグマの光を、反射させている。
距離があるので、その表情の詳細までは分からない。だが、巨大な空洞に反響するその声は――何か強烈な感情を押し殺しているように、聞こえた。
「もう一度、言うぞ。魔道の力は使うな。さもなくば――」
リルベリヒが、その手に持つイシュタルの剣を、ニケに突き付ける。
「!」
刀身から現れ出た黄土色に光る大蛇が、玉座に座るニケに絡み付いた。
「てめえっ!」
「動くなっ!」
反射的にテレポートしそうになった俺に、リルベリヒが叫ぶ。
だが、俺の動きを止めたのは、リルベリヒの声ではなく、ニケの喉元にその菱形の頭を寄せた蛇の姿だった。
「私の命令に従え。さもなくば、イシュタルの蛇が、我が姫の首筋に牙を立てる!」
リルベリヒの言葉に、俺は、無意識のうちに、奥歯をギリギリと食い縛る。
「繰り返すぞ……魔道の力は使うな。その二本の足で、橋の中央まで進み――そして、貴様の魔剣を、私に渡せ」
そう言い放ち――黒騎士は、その端正で精悍だった顔に、遠目にも分かるほどに醜く歪んだ笑みを浮かべた。