出たとこロマンサー



第十九章



 九月の日々は、妙に穏やかに過ぎていった。
 俺と芙美子は、週末を中心に、何度かデートらしものを重ねている。
 ただし、それは、ドキドキだのウキウキだのトキメキだの、そういった浮ついた雰囲気とは無縁の、やたらまったりとした代物だった。
 何となく物足りないような気がしないでもないが、精神や神経を擦り減らすような付き合いよりは、よっぽどいい。少なくとも、俺はそう思っている。
 そして、芙美子も、俺と一緒に映画館だの水族館だの美術館だのに行くことに、多少は面白味を見出しているように見えた。
 そもそも芙美子は、つまらないと思ったら、こちらに遠慮することなくズバリと言ってのける。その点、幼馴染という存在は、気が置けなくていい。
 驚いたのは、クラスの連中が、俺達が付き合いだしたということに、いつの間にか気付いていたということだった。どうやら、我が級友どもは、人の色恋沙汰というものに並々ならぬ嗅覚を働かせることができるらしい。
 ただし、それを原因とする人間関係のトラブルは、今のところ皆無に等しい。何人かの悪友には、多少、冷やかしめいたことを言われたが、特に気にするほどではなかった。密かに芙美子に思いを寄せていた男子が現れて俺に決闘を申し込むような超展開も、今のところは、無い。
 そんなわけで、俺は、非常に平穏かつ充実した高校生活を送っているわけだ。
 そう――表向きは。
 そして、その日の放課後、俺達は、いつものように連れだって家路についていた。
 並んで歩きながら、他愛のない会話を交わす。
 そうしながら……俺は、別のことに思いを馳せていた。
 夕暮れ前の空の色が、何だか眩しい。
 一学期のころは、こんなふうに毎日まっすぐ家に帰ることは、ほとんどなかった。
 もちろん、それは、芙美子が印刷室兼漫画研究会部室で漫画を描きまくり、それに俺が付き合って残っていたためである。
 だが、今は、芙美子は漫画を描いていない。少なくとも、俺の前では、そうだ。
 何だか、心の一部にぽっかりと穴が開いてしまったように感じる。
 まるで、風に飛ばされた瞬間、手に持っていた風船の色を忘れてしまったような、そんな喪失感。
 気が付くと――芙美子との会話が、途切れていた。
「……どうしたの? 最近、やたらぼーっとしてない?」
 横を歩く芙美子が、俺の顔を覗き込む。
「ん……何だろな。確かに、俺、ぼーっとしてるな」
 そうやって口に出して、自分が、寝不足に似た症状に悩まされていることを、再確認した。
 芙美子が漫画を描いていないことが心に引っ掛かっているのとは別に、最近の俺は、物事に対する集中力を欠いている。
 授業中も、ぜんぜん勉強の内容が頭に入ってこないし、常に生あくびを噛み殺している感じだ。
 芙美子が彼女――と呼ぶには、まだ微妙な状況だが――になってくれたことに浮かれているわけでは、ないと思う。
 または、こいつのと関係が俺の望む方向に進展しつつあることに安堵し、気が抜けてしまった、というのも、ちょっと違うような気がする。
「何て言うか、うん、単純に、眠気が抜けないんだよ」
「夏バテが残ってるの?」
「そういうのと違うな。うーんと……どうも、眠りが浅いって言うか、何時間寝ても中途半端な感じで……きちんと8時間以上は眠ってるんだけどなあ」
「透、眠り過ぎ。睡眠時間なんて5時間あれば充分よ」
「5時間? そりゃ極端だろ」
 俺は、驚きに目を見開いた。が、その目も、すぐにとろんと半分に閉じてしまう。
「そういや、お前、ちょっと前まで、やたら徹夜してたなあ」
「ん、ま、まあね」
 芙美子が、どこかバツの悪そうな表情をする。
「えーっと、ところであんた、前に変な夢見るとか言ってなかったっけ?」
 やや強引に、芙美子が話題を変える。
「ああ、そんなこともあったな……」
「それが原因なんじゃない? 夢見が悪くてよく眠れないとか……」
「……いや、それはないな」
「どうして断言できるわけ?」
「だって、最近、夢自体、あんま見てないんだよ」
「そうなの?」
「ああ」
 そう、俺は、このごろ、ほとんど夢を見ていない。
 二学期が始まる直前まで、妙に連続性のある生々しい夢を見ていたような記憶はある。
 だが、その夢もいつの間にか途切れ、そして、最近では夢の中身すら、きちんとは思い出せないような状態が続いていた。
 あの、芙美子が置き忘れたノート――それを見れば、何か思い出すような気もするんだが、なぜか、そういう気持ちになれない。
 そもそも、あれは、芙美子の忘れ物だ。だから、俺が何度も読み返すようなことは、エチケットに反する。
 今更のようにそう思いながらも、実際は、もっと別の理由で、あのノートを広げるのを避けているような、そんな気もする。
 しかし、それ以前に、ここのところの俺は、何かを深く考えることが難しいぐらいに、始終、ぼーっとしているのだった。
「逆に、夢を見ないのが原因かもなあ」
「どうして?」
「いや、夢って、起きている間に蓄えた記憶を脳みそが整理している時に見るらしいぜ。それがうまくいかなくなって、脳みそがジャンク情報でいっぱいいっぱいなのかもしれない」
「聞いたことないわね、そんな症状」
 俺の、自分でも信じていないような与太話を、芙美子が一刀の元に切り捨てる。
「だいたい、夢を見ないってのは、普通、深い眠りを表現する慣用句じゃなかった? よく、夢も見ないでぐっすり眠った、なんて言うじゃない」
「でも、そういう時でも、夢は見てるらしいぞ。人間には、レム睡眠とノンレム睡眠があって……えーと、えーと、詳しいことは忘れた」
「つまり、あんまり眠りが深くて、夢を見たことも忘れてるってこと?」
「そういうことだろうな。まあ、今の俺はちょっとそういう感じじゃないんだが……」
「要するに、夏休みボケで睡眠リズムが崩れてるんでしょ」
 遠慮や斟酌の無い口調で、芙美子が言う。
「んー、そうなのかな……」
「そうよ」
 どんな根拠があるのか、芙美子が断言する。
「だからさ……あんた、夢は見てはいるけど、忘れてるだけなんじゃない?」
 その言葉を口にした瞬間――
 そう、一瞬だけ、芙美子は、何やら印象的な表情をしているような気がしたんだが――
 だが、俺は、ぼーっとしていたため、その顔を見逃し、それゆえに、その表情の意味に考えが及ぶはずもなかったのだった。



 俺は、アイアケス王国からはるかに北にある山を、サカモトに乗って登った。
 道らしい道はほとんど無かった。ただ、サタナエルの剣に導かれるまま、リルベリヒの――いや、イシュタルの剣のある方向へと、進み易い場所を通っていくだけの旅だ。
 サカモトは、その鉤爪でがっしりと岩を掴み、急な斜面を登っていった。
 麓の針葉樹林を抜け、黄色く枯れた草に覆われた山腹の斜面を進むうちに、いつしか、周囲は雪に覆われていた。
 怖いくらいに蒼い空と、ギラギラとした白い太陽の下を進むうちに、俺は、ますます視力を落としてしまった。
 雪の反射光で、目をやられたらしい。
 そして、俺は、ほとんど何も見えない状態で、その日の夜を迎えたのだった。
 恐らく、月や星が出ているのだろうが、俺には見えない。
 ただ、暗黒の空の下、山頂に向かって斜めに傾いだ雪原が、白くぼおっと光っている。
 身にまとった防寒着の上から、冷気が、少しずつ、だが着実に体温を奪いつつあった。
 寝る場所を見付けなくてはならない。
 この山を登る前は、たとえ国境の外とは言え、街道の要所要所に宿屋があり、俺はそこに泊まっていた。一方、山に入ってからは、適当な岩陰や大木の下なんかを選んでキャンプの真似事なんかをしていたのだが――もはや、この暗がりの中でそういった場所を見付けることが不可能なくらいに、視力は落ちてしまっている。
 どうやって夜を明かそうか途方に暮れかけた時、サカモトが、小さな洞窟を見つけてくれた。
 さして広くはないし、天井も低い。が、俺とサカモトが休むには充分なスペースだ。少なくとも、吹きさらしの場所でテントを広げるよりはよほどいい。
 荷物を下ろし、暖を取るためにサタナエルの剣で起こした火を薪に移した時には――洞窟の外で、風が、不気味な唸りを上げ始めていた。
 天気が荒れ出した。よく見えないが、吹雪になるかもしれない。あのまま外にいたら、確実に死んでいただろう。
「助かったぜ、サカモト」
 そう言って、鱗に覆われた逞しい首を撫でると、サカモトは、世話が焼ける、とでも言いたげに、フンと大きく鼻を鳴らした。
 火に当たりながら一息つき、そして、ほとんど手探りで、お湯を沸かす準備をする。
 あれから――騎士達に見送られて北の国境を出発してから、どれくらいの日数が経ったのだろうか。
 このところ、日にちの感覚がマヒしつつあるが、おそらく、一ヵ月近くは旅を続けているはずだ。
 この山の麓に至るまでは、街道上や旅の宿屋で、人と会うこともあった。
 しかし、山に入ってからは、誰にも会っていない。
 目も、次第に光を失いつつある。この洞窟の中で見えるものと言えば、焚き火のオレンジ色の炎くらいだ。しかも、その輪郭は、水に滲んだ絵の具のように曖昧である。
 まるで、錨を失った船みたいに、頼りない気分。
 それでも――俺は、リルベリヒの元にたどり着かなくてはならない。
 サタナエルの剣が、イシュタルの剣の反応をキャッチできる以上、奴がいる場所は、直線距離にしてみればそう遠くないはずだ。
 しかし、そこに至るまでのルートを見つけるのは、並大抵ではない。
 何しろ、奴は空を飛んでいた。一方、こっちは、目がほとんど見えないのだ。
 俺のテレポートは、視界の範囲内に限定されるらしい。だから、この状態では、移動能力も大きく制限されている。
 こんな所でまごまごしているうちにも、ニケは――
 俺の焦りを、びょうびょうという風の音が、煽る。
 やはり、吹雪になっているらしい。洞窟の入り口が、だんだんと雪で閉ざされつつある。
 俺は、無意識のうちにキリキリを歯を食い縛り――そして、ニケが俺に託した星型のペンダントを、強く握り締めた。
 俺は、いつ、リルベリヒのいる場所に着くことができるのか。
 そして、今の俺で、リルベリヒを倒すことができるのか。
 つまり――俺は、ニケを救うことができるのか。
 今、それを悩んでも仕方がない。
 作戦を練るのはいい。気合を入れ、覚悟を新たにするのもいいだろう。だが、悩み、焦るのは、何のプラスにもならない。
 だと言うのに、今の俺は――
 と、その時、地面に座り込んでいたサカモトが、ビクリと体を震わせる気配があった。
 半ば盲いた目を、洞窟の入り口に向ける。
「…………」
 何かが、いる。
 生き物の気配だ。何者かが、洞窟のすぐ近くにまで、近付いている。
 俺は、すでに鞘に収めてしまっていたサタナエルの剣を、そっと握った。
 呼吸を、ひとつ、ふたつ、みっつ――
「――入るぞ」
 女性の声が聞こえた。落ち着いた、ややハスキーな声だ。
 何と返事をしたものか、と考えているうちに、入り口を塞ぎかけていた雪をかき分け、人影が、洞窟の中に入ってくる。
 すぐそばなのに、顔も、姿態も判然としない。ただ、赤い服を着ている女性らしい、ということが分かるのみだ。
「邪魔をする」
 そう言って、女性は、焚き火を挟んだ向こう側に、座った。
 声の感じからすると、俺よりも年上――大人の女性らしい。
 視界がぼやけている上に、光量も不足しているので、細かい顔の造作とかは分からない。ただ、黒い髪を長く伸ばしていることだけは、何となく分かる。
 俺と同じく登山者だろうか。いや、時間や天候を考えても、遭難者と言った方がいいかもしれない。
 それなのに、目の前の女の人は、落ち着き払っていた。
「私は魔女だ。ちなみに一児の母でもある」
 その人は、前置きもなしに、いきなりそんなことを言ってきた。
「ま……魔女?」
「ここはこういう世界だ。だから、私のこの呼び名はぴったりだろう。錬金術師と名乗ってもいいんだが、この場面においては、いささか場違いな観もある。ゆえに、私のことは魔女と思えば結構だ」
 何だか、どこかで聞いたことのある声だ。
「――少年とは、実は初対面ではない。まあ、君は忘れているようだがな」
 まるで、俺の思考を読んだかのように、魔女のお姉さんが言う。
「ということは……俺が召喚される前の世界の人、ですか?」
 そう言いながら、自分が、“召喚される前の世界”のことについてまるで覚えていないことを、改めて意識する。
「まあ、そういうことになるかな」
「でも、俺のいた世界には、魔女なんていなかった――と思うんですけどね」
 俺の言葉に、その人は、少し笑ったようだった。
「そうかもしれんが、私は、やはり魔女なのだな」
 魔女のお姉さんが、笑みを含んだ声で、言う。
「不思議な、すなわち原理の判然としない、そして誰にも使えるというわけではない力――すなわち魔術とか魔法とか言われるものを使う女だから、魔女だ。まあ、そういう意味では、少年、君もこの世界では魔法使いだと言えるな」
「は、はあ……俺も、ですか?」
「瞬間移動など、魔術・魔法の類いでなく何だと言うのだ」
「…………」
 確かに、この人の言うとおりかもしれない。
 って、俺、いつの間にか魔女のお姉さんの会話ペースに巻き込まれてるぞ。
 この人が、自称どおり魔女だとして、ロギの手下でないという保証はまったく無い。いや、むしろ、ロギの部下としてはぴったりな存在だと言えるだろう。ロギの四天王はもう出揃ったはずだが、この人がランズマールやルル・ガルド――もしくは骨抜きになったレレムの欠員を埋めた新メンバーだという可能性もある。
 俺は、サタナエルの剣を握ったままの右手に、そっと、力を込めた。
「物騒なことを考えるなよ、少年」
 魔女のお姉さんが、やや、堅い声で言った。
「私は、君の敵ではない。少なくとも、今のところはな。ただし、君がその忌まわしい剣で私に切りかかったりしたら、その前提は崩れてしまう」
「じゃあ……あなたは何者なんです?」
「だから魔女だと言っている。さらに言うなら、おとぎ話によく登場する、旅の主人公に助言を与える役割を負った存在だと思えばいい。ユング言うところのオールド・ワイズマンの変型だな」
「はあ……」
「私はな、少年、君と少し話をしに来たのだ」
「…………」
「少年、君がここにいるのは、少し困った事態なのだ。何となれば、君は、本来、この世界の住人ではない」
 断言口調で、魔女のお姉さんが言う。
「まあ、この世界の住人でないというのは、私も同じだがな。だが、私は、そのことを自覚し、節度のある行動を取ることができる。しかし、君には、それは少し難しかろう。いや、そもそも、別の世界に来ているということ自体が、君の精神や生命に、悪い影響を及ぼし始めている」
「それは……俺が、ルル・ガルドやリルベリヒなんかと戦うたびに、死にかけてることを言ってるんですか?」
「それで全てというわけではないが……まあ、正確に説明することは困難だな」
 そう言って、魔女のお姉さんは、一呼吸おいてから、言葉を続けた。
「私の立場を説明するとだな、君がここにいるのは困るが、君がここで死んでしまうのはもっと困る。まあ、私の同僚には、君が死んでもいっこうに構わないと考えている者もいるのだが……君くらいの息子のいる一児の母である身としては、それは看過できることではない」
 俺と同じくらいの息子って……この人、声の感じよりも、もうちょっと年上ってことか?
 あ、いや、そんなことは、今はどうでもいいな。
「あなたが困るかどうかとは関係なく、俺は、今の自分の役割から降りるつもりはありませんよ」
 この会話がどういう方向に向かっているのか分からないまま、俺は、自らの決意を口にした。
「ああ……君は、この世界を救う英雄であり、勇者だったな」
 魔女さんの言葉には、嘲るような響きは微塵も無いのだが――そう真正面から言われると、少し恥ずかしい。
「うむ、実はな、私も、同じような役割を負わされたことが、何度かある」
 真面目くさった口調で、魔女さんは、そんなことを言ってきた。
「ここに来たのも、本来なら、私の力でこの世界をあるべき姿に戻そうという意図によるものだ」
「あるべき姿?」
「そうだ。ただ……私の目指すものと、君の目指すものは、どうやら微妙に違うようだがな」
 どうも、この魔女さんの言うことは、抽象的すぎてよく分からない。
 だが、魔女のお姉さん――おばさんとも、ましてお婆さんとも思えないので、やっぱりお姉さんだ――は、俺の理解度とは無関係に、話を続けた。
「まあ、目指すところが違うとは言え、私と君は本質的に似ている。言うなれば、渡来神のようなものだ」
「トライシン?」
「そうだ」
 魔女のお姉さんが、短く答えて、さらに言葉を続ける。
「世界というものは、常に、綻びを内包している。異なる主観の持ち主が共有する幻想こそが世界である以上、これは必然だ。そして、その綻びは、滅びに繋がる。つまり、大きな綻びは、滅亡――すなわち終末の運命とも言える」
「…………」
「そして、それを打ち破るのは、渡来せし者――外から来るモノだ。聖ゲオルギウスがドラゴンからシレナの国とその王女を救ったように。もしくは、スサノヲがヤマタノヲロチからイヅモの国とクシナダヒメを救ったように。あるいは、ペルセウスがケトゥスからエチオピア国とアンドロメダを救ったように」
 魔女さんの言うたとえの半分も、俺には分からない。
 だが、俺のような存在が、世界とお姫様を救う運命にあるのだ、ということを言いたいのは、何となく伝わってくる。
 しかし、このもって回った言い方――サタナエルの奴に似てるな。
「かくのごとく、世界が内包する滅びは、外から来るモノによって無効化される。だが――外から来るモノが世界の均衡を崩し、新たなる滅びの種子を持ち込まないとも限らない」
 魔女のお姉さんが、そう言って、俺を見つめた。
 いや、俺の目は、今だ魔女さんの顔をはっきりと捕らえていないのだが、それでも、顔の真ん中あたりにビリビリと視線を感じたのである。
「君は、どちらだ? 少年」
 魔女のお姉さんが、どうしてこんなことを訊くのか――はっきり言って、よく分からない。
 いや、そもそも、この人がどういう意図で俺に話をしているのかさえ、不明だ。
 さらに言うなら、今までの魔女さんの話の内容についても、俺は、きちんと理解しているとは言いがたい。
 だけど、俺が、世界を救済するのか、それとも破滅をもたらすのかという質問ならば、回答は一つしか持ち合わせてない。
「俺は、アイアケス王国を――この世界を救済するために、最大限の努力をしてきました。そして、これからも、そうするつもりです」
「……そうか」
 魔女のお姉さんは、どうやら、俺の答えに満足したようだ。
 いや、これは、俺の単なる思い込みかもしれないけど……。
「君は、この世界を救うつもりなんだな」
「そうです」
「ならば……その真っ黒い悪魔の剣は、いずれ、捨てなければならないぞ」
「え?」
 唐突な話の流れに、俺は、思わず声を上げた。
「捨てるって……この、サタナエルの剣を、ですか?」
「呼び名のことは知らない。だがな、少年、その剣は、君以上に、この世界に存在してはいけないモノなのだ」
 魔女のお姉さんの言葉に、サタナエルの剣が、鞘の中で、カタカタと震える。
 それは――魔女さんを、まるで冷笑しているかのようだった。
「そんな話は、聞けませんね」
 俺は、再び、サタナエルの剣の柄をきつく握り、臍の下に力を込めた。
 レレムの時の例もある。何か不用意なことを言うだけで、呪いだのが発動しないとも限らない。
 何しろ、目の前の魔女のお姉さんは、正体不明の存在だ。何者で、どんな目的を持っているのか、さっぱり分からないのである。
 それこそ、やっぱり熾皇帝ロギの部下でした、なんてオチだって考えられる。いろいろもっともらしいことを言って俺を動揺させ、最大の武器であるこの魔剣を奪おうという作戦かもしれないのだ。
「やれやれ……警戒させてしまったか。確かに、今の段階でこのような話をするのは早計だったかもしれないな」
 魔女のお姉さんは、洞窟の天井を仰いで、嘆息したようだった。
「まあいい。今は、私のことをどう思っていただいても結構だ。しかし、少年、君も、そしてその魔剣も、この世界の存在ではないということだけは、心しておいてくれよ」
「…………」
「ここは、君ではない誰かの■なのだ。いや、君の■が、別人の■とつながり、重なってしまったと言った方がいいかな」
「■……?」
「ふむ、この世界では言語化できないか。ともかく、私は、人の■に潜り込んで、そこに巣くう魔物を退治することを生業としている。そして、その魔剣とやらは、私が退治する対象に極めて近い存在なのだ――が、この■の中では、取り敢えず、君に任せておいた方がよさそうだな」
 そう言って、魔女のお姉さんは、すっくと立ち上がった。
「帰る。見送りは無用だ」
「――って、今までの問答は何だったんです?」
 俺は、魔女さんの唐突さに、つい、そんなふうに訊いてしまった。
「全てに説明を求めるのはいきすぎた貪欲だ。いくつかの謎は謎のままに留めておくのが節度というものだぞ」
 くすりと、魔女のお姉さんが、笑う。
 嘲笑ではない。まるで、精一杯に気張ってる子供に、つい苦笑いをこぼしたような、そんな感じだ。
「ではな」
 そう言って、魔女のお姉さんが、吹雪の荒れ狂う洞窟の外へと、出て行く。
 俺は、しばらくの間、茫然としてしまった。
「……おい、サタナエル」
 だいぶ時間が経ってから、そう、サタナエルの剣に語りかけてみる。
「あの人、お前の知り合いか?」
 ――古い友人、と言いたいところですが、先方はこちらに対して微塵も友情を感じていないようですね。
「知り合いなんだな……。で、そもそも、あの人はいったい何なんだ?」
 ――魔女なんでしょう? 自分でそう言っていたではないですか。
「ロギの手下じゃないんだな」
 ――私自身が、熾皇帝ロギなる人物の詳しい知識を持ち合わせてないので、その質問には確信を持ってお答えすることはできません。ただ、おそらく、彼女はそういう立場にいないと思いますよ。
「じゃあ、どういう立場なんだよ」
 ――部外者でしょう。
 あっさりと、サタナエルの剣が、そうテレパシーで答える。
 ――彼女は、あなたのことも、この世界のことも、まるで分かっていないのだと思いますよ。この段階になっての登場も、何を今更といった印象を受けますし……あまり真剣に取り合わない方がよろしいかと思いますね。
 声を用いない言葉が、淀みなく、俺の心の中に流れ込んでくる。
 ――ですから、彼女の口車に乗せられて、私を捨てるようなことは、おやめいただきたいですね。
「…………」
 俺は、答えられない。
 サタナエルの剣には、何度も助けられてきた。いや、そもそも、この魔剣がなかったら、俺は、幾度となく戦いの中でこの命を落としていただろう。
 その口調や言葉遣いが何だか引っ掛かるところもあるが、そんなことは些細な問題だ。こいつは、俺の剣であり、そして、相棒でもあるのだ。今や俺は、こいつに、奇妙な友情のようなものすら感じている。
 それなのに――
「…………」
 もし、あの魔女のお姉さんがロギの部下で、俺とサタナエルの間に、不信感を植え付けることが目的だったんだとするなら、それは成功だったかもしれない。
 結局、俺は、薄暗い洞窟の中で眠りに落ちるまで、サタナエルの剣に、お前を捨てたりはしない、と言うことはできなかったのである。



 相変わらず、夢は見ない。
 いや、実際は、あの時に芙美子が言ったように、見てても覚えていないのかもしれない。
 その両者の間に差があるのかどうかは、微妙なところだ。
 ただ、俺は、自分が最近、夢を見ていないことに、違和感を感じている。
 そして、忘れていたものは、何かの拍子に思い出すかもしれない。
 だから、やっぱり、夢を見ていないことと、夢を見てても忘れていることには、何か差があるのだろう。
 その差は、今は自覚できないかもしれないが、いつか、状況を大きく左右するくらいに、重大なこととなるかもしれない。
 たかが夢にどうしてそんな思い入れを抱くのかはよく分からないが、それでも、そういうふうに考えてしまう。
 それだけ、かつて連続して見ていた夢が、印象的だったのだろう。
 しかし、今や、その夢の内容を思い出そうとしても、うまくいかない。
 とんでもなくエロエロな夢だったような気もするのだが、大まかな粗筋さえも思い出せないのである。
 考えてみれば、夢の内容なんて、徹底的に個人的なことで、世間や社会とはまるきり無関係なものだ。だから、夢は、根のない草が風に吹かれてしまうように、すぐに生活の記憶の中から消えてしまう。
 それにしたって、こんなにも跡形なく忘れてしまうなんて、ちょっと寂し過ぎだ。
 まるで、夢の世界と現実を結ぶ精神的なチャンネルを遮断されたような気分。
 こんなことなら、夢日記でもつけておけばよかった。
 あ、でも、毎晩欠かさず夢日記をつけて頭がおかしくなった小説家だか漫画家だかがいた、って話を聞いたことがあるな。
「漫画、か……」
 俺は、思考を中断させ、斜め前の席の芙美子の様子を、ぼんやりと眺めた。ちなみに、今は、英語の授業の真っ最中である。
 芙美子は――ノートに、何やら熱心に書き込んでいた。
 俺ときたら、居眠りしかけながら夢のことを考えていたってのに、全く、熱心なことだ。
 いや、しかし、勉強に熱をいれるのはいいことだよな。芙美子は一学期あんまり成績よくなかったから、ここで挽回するのが吉だろう。
 自分のことを棚に上げてお節介にもそんなことを考えている俺だったが、ふと、あることに気付いた。
 芙美子が熱心に何か書いてるあそこ――あれ、ノートの上側の余白だぞ?
 あんなところに文法だの訳文だのについて書くなんて、ちょっと不自然だ。
「……って、なんだ、落描きかよ」
 思わず、口の中で小さく呟く。
 芙美子がノートに落描き――うん、最近はあんまりなかったが、夏休み前まではまさに日常の風景だった。
 だが、ここから先が、ちょっと違ったのである。
「んっ――」
 不意に、芙美子が、何とも悩ましい感じに眉を寄せ、ゴシゴシと消しゴムを使う。
 どうやら、ノートにしていた落描きを消したようだ。
「はぁ……」
 切なげな、芙美子の溜め息。
 俺は、少し動悸を早くしながら、そんな芙美子の様子を、斜め後ろからじっと見つめてしまった。
 まるで、俺の視線を察知したように、芙美子が振り向く。
「…………」
「…………」
 しばし、視線を絡ませ合う、俺と芙美子。
 そして、芙美子は、どういうわけか顔を真っ赤にしながら、意味不明の板書がされた前方の黒板に、視線を転じたのだった。




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