出たとこロマンサー



第十八章



 たぶん、そうチャンスは多くない。
 ルル・ガルドの視界から外れれば、体力は、ゆっくりとだが戻る。とは言え、完全に戻りきるわけじゃない。体の奥底に、ちょっとやそっとでは回復できない疲労感が、累積する。
 この疲労が、一定の量を越えたら――もう俺は戦うどころじゃないだろう。
 それに、ルル・ガルドの奴がいる限り、戦闘はロギ側の有利に進む。たった今だって、ルル・ガルドの視線が、アイアケス側の兵士を塩の塊にしているかもしれないのだ。このままだと、アイアケス軍は士気を保ち続けることすら、難しくなるはずだ。
 だから、もう、出たとこ勝負で速攻を決めるしかない。
「いくぞ――!」
 俺は、自分自身に発破をかけ――ルル・ガルドの頭上すれすれに自らの背中を見て、そして、跳躍した。
 どこかぬめっとした感触の、漆黒の巨大な風船じみたルル・ガルドの頭を、両足で踏む。
 ぎゃん!
 そんな音すら聞こえそうなほど鋭い視線を、その頭頂部に開いた瞼の奥から、ルル・ガルドが、放つ。
 俺は、その金色の瞳にサタナエルの剣を突き立てるべく、柄を両の手で逆手に構え、大きく腕を振り上げた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 死への本能的な恐怖をねじ伏せるべく、獣のような声を喉の奥から絞り出す。
 俺の足元の巨大な目が、目映い光を下から浴びせかけ――力が、どっと体の外に漏れ出ていく。
 まだだ――まだ倒れるな――この魔剣を奴の目に突き刺すまでは――
 ギィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイィィィィィ!
 その時、この世のものとも思えぬ金属質な悲鳴が、俺の耳を貫いた。
 ルル・ガルドの声では、ない。
「――なに!?」
 まさに今振り下ろそうとしている漆黒の魔剣の刀身に、びっしりと塩の結晶が浮いている。
 さっきのは、この剣の悲鳴か?
「くそっ!」
 俺は、萎えそうになる気力を振り絞り、ルル・ガルドの頭の上から、テレポーテーションでいったん退散した。
 足の裏に、堅い地面を感じつつ、サタナエルの剣の様子を確かめる。
 ――す、すいません……不覚を、取りました……。
 かつてないほど弱々しい調子のテレパシーに、俺は、背筋を寒くした。
「お、おい、しっかりしろ!」
 ――そんなにも、心配していただけるとは……私は果報者ですね……。
「し、心配するさ! だいたい、お前抜きでどうやって戦えばいいんだよ!」
 ――大丈夫です……あなたは、一人で戦うだけの勇気と力がある……まあ、今はその時ではないようですが。
 ゆっくりとだが、サタナエルのテレパシーに、いつもの調子が戻ってくる。
 ――さて……ご心配をおかけしました。どうやら、この次元世界から消滅せずに済んだ模様です。
 俺は、思わず安堵の吐息をつきそうになり――ちょっとしゃくだったので、それを慌てて飲み込んだ。
 ――しかし、魔剣である私の生命力――と言ってよろしければ――を奪うことができるとは、なかなかに厄介な相手ですね。
「全くだ」
 俺は、サタナエルの剣の表面に浮いた塩を払い落としながら、ルル・ガルドに視線を転じた。
 ルル・ガルドは、俺を捜そうと周囲に視線を巡らせている。
 さて、どうするか。
 あいつの瞳に剣を突き立てようとすれば、その剣が、塩のカタマリになっちまう。
 だとしたら――やっぱり、この方法しかない。
「……いくぜ」
 俺は、新たな作戦を胸に、再び、ルル・ガルドの頭上に目を凝らした。
 時間の静止。そして、跳躍。何度も繰り返した過程の後に――漆黒の巨人の頭頂部に、もう一度、立つ。
 俺は、全身に力を込めながら、自らの足元を凝視した。剣は、構えない。
 十数秒にも感じられる一瞬。その後に――
 くわっ、と、ルル・ガルドの頭に出現した瞼が開き、真上の俺を睨んだ。
「くっ……!」
 萎えそうになる気力を振り絞り、金色に光る死の邪眼に、真っ向から視線をぶつける。
 別に、睨めっこしようって訳じゃない。俺は、ルル・ガルドの瞳孔の――さらに奥を、見ようとしていた。
 そう、まさに、ルル・ガルドの本体であるこの巨大な眼球の中――そこで、胎児のように体を丸めている、俺自身を――
 み――見えた!
「うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 イメージどおり、サタナエルの剣が放つ炎を、体にまとう。
 そして、俺は、ルル・ガルドの目の中に、テレポートしていた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 全身を包む灼熱の炎。その異界の火焔が、ルル・ガルドの眼球を、内側から灼く。
 だが――奴の邪眼は、その体内でも、有効だった。
「うあ! うあああああああああ! わぁあああああああああああああああああああああああああ!」
 あの金色の光が、俺の周囲で渦巻いている。
 まるで、激流に翻弄される木の葉のように、俺は、ルル・ガルドの邪眼の力そのものにさらされ続けていた。
「あ! あああああああ! あ! あああ! あああああ! ああああああああああああああああああ! あ! あ! あ! あ! あ!」
 力が、命が、魂が、容赦なく削られる、ぞっとするような感触。
 痛みとも、熱とも違う。ただ、自分という存在そのものが浸蝕され、剥奪され、変換されるという事実。
 それは、手で触れることができるほどに明確な形を得た絶望であり――具現化された死、そのものだった。
 あと数秒で、俺の体は純白の塩の結晶に変化し、心は、ルル・ガルドの体を構成する黒い粘液状の幽霊になっちまう。
「いやだ! いやだ! いやだ! いやだいやだいやだ! いやだあああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 死を拒絶する念の強さこそが、迫りつつある死を遠ざける――そのことを根拠なくただひたすら信じ、祈る代わりに絶叫する。
 死にたくない。
 死にたくない。死にたくない。
 死にたくない。死にたくない。死にたくない。
 死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
 死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
 まだ――生きていたい。
 死を目前にして、俺は、ようやく、心の底から真剣にそのことを願った。
 そして――
「はっ!」
 唐突に、俺は、全てから解放された。
 あの、金色の光――ルル・ガルドの邪眼の力が、消えている。
 その代わりに、今までルル・ガルドの体を構成していた黒い霊体達が、吹きすさぶ風のような声を上げながら、天に昇っていた。
 おおおおおおおおおおおおおおォォォォォォォォォォォ……!
 存在が消滅することへの怨嗟と、邪悪な束縛から解き放たれたことへの歓喜。それが、歌となって、大気を震わせている。
 そして――俺は、地面へと落下していた。
「あ――」
 地表にテレポートするだけの余力なんてない。俺は、まるで石のように単純に墜落している。
 どっ! と全身を、強いショックが襲った。
「う……あ……」
 痛い。
 痛いってことは……つまり、まだ生きてるんだな。
 思ったほどの高度じゃなかった。ちょうど、1階建の建物の屋根くらいの高さくらいか。
 きっと、ルル・ガルドは、眼球を内側から焼かれて、地面にうずくまるか何かして苦しんでいたのだろう。もし、立った姿勢のルル・ガルドの頭の高さから落っこちたんだったら、確実に死んでいたはずだ。
 とは言え、気力体力ともに枯渇している状態で、受け身もなしに地面に落ちたことは間違いない。
「う……うぅ……」
 何とか、体は動く。どこも骨は折れてないみたいだ。これは、ちょっとした奇跡と言ってもいいかもしれない。
 もちろん、油断はならない。ここはまだ戦場、しかも敵陣のど真ん中のはずだ。
 俺は、あちこちが痛む体に鞭打って、ゆっくりと立ち上がった。
「あ……」
 敵が、総崩れになっている。
 ゴブリン達が、我先にと戦場から逃げ出しているのだ。もはや、戦争どころじゃない。
 そうか……ルル・ガルドがやられたのは、戦場のどこからでも見えたもんな。
 そう納得しかけて、俺は、奇妙な違和感を覚えた。
「……おかしい」
 思わず、口に出して呟く。
 そうだ。ここにはリルベリヒの野郎がいるはずなんだ。なのに、ルル・ガルドがやられただけで、どうしてこんなふうになってるんだ?
 あいつ――指揮をほっぽいといて、何をしてるんだよ。
 俺は、嫌な予感に襲われて、ニケの旗を探した。
「あっ!」
 アイアケス軍の中央。ニケが指揮する騎士達の頭上に、翼のある金色の牛が舞っている。
 その背中に跨がっている長髪の大男は――間違えようがない。黒騎士リルベリヒだ。
「くっ……!」
 テレポートしかけて、一瞬だけ躊躇する。
 手足は未だ痛んでいて、心臓の鼓動は不規則。視界は霞み、耳鳴りまでしている。
 こんな状態で瞬間移動なんかして、俺、リルベリヒと戦えるのか?
 だが、その一瞬のうちに、リルベリヒの操る有翼の牛は、騎士達に襲いかかっていた。
「畜生っ!」
 何やってんだ、俺は! こういう時は出たとこ勝負なのが俺の信条だろうに!
 なのに、一手遅れた。この遅れは、もしかして致命傷――!
 俺は、サタナエルの剣を握り締め、リルベリヒのもとへとテレポートした。
「うわあああああ!」
 その場は、一言で表現して、大混乱になっていた。
 土煙が舞い、騎士達の怒号と竜馬のいななきが交錯し、金属と金属のぶつかる音が耳を聾する。
 そして、半ばで折れた漆黒の剣を、リルベリヒが右手一本で振るごとに、刀身の形をした猛毒の光が、確実に一つの命を奪っていた。
 リルベリヒの左腕には――長い黒髪を乱した一人の女騎士が、抱えられている。
「ニケっ!」
「ト、トール……っ!」
 ニケが、リルベリヒの腕の中で、顔を上げた。
 イシュタルの剣の毒に侵されているのか、その顔には、苦しげな表情が浮かんでいる。
「この野郎ッ!」
 怒りに全身の体毛が逆立つのを感じながら、俺は、リルベリヒの跨がる牛の背中へとテレポートしようとした。
「イシュタル!」
 リルベリヒが、その血走った独眼を俺に向け、折れた魔剣を振るう。
 刃の形に凝り固まっていた光が、黄土色をした一匹の大蛇となり、そして、俺の顔に何かを吐きかけた。
「ぐわああああああ!」
 自分の口から出たとは信じられないような獣じみた悲鳴を上げながら、サタナエルの剣を取り落とし、両手で顔を覆う。
 毒液だ――あの蛇の吐いた毒が、目に入った。
 目の前が真っ赤な闇に覆われる。燃えるような激痛が、両目の神経を支配する。
 それでも、俺は、無理やりに、瞼を開いた。
 ほとんど何も見えない。リルベリヒのところにテレポートするなんて、完全に不可能だ。
「トール……これを……!」
 ぼやける視界の中で、ニケが、俺に何かを投げる。
 それ――細い鎖のついた小さな金属片を、俺は、どうにか両手を使って受け止めた。
 ばさっ、ばさっ、という羽ばたきの音が頭上に響き――そして、次第に遠くなっていく。
「あ……あぁ……」
 リルベリヒが……ニケをさらって……行っちまった……。
 周りで、騎士達が、絶望の声を上げている。
 俺が――俺が、もっとうまくやっていれば――こんな、ことには――
「う、うっ……うううっ……うおおおお……うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 俺は、ほとんど見えない目で天を仰ぎ、絶叫した。



 夏休みが終わり、新学期になった。
 爽やかな朝日が、俺の気分とは無関係に、まぶしい光を地上に投げかけている。
「はぁ……」
 俺は、小学校、中学校と通い続けたお馴染みのルートをたどりながら、幾度目かの溜め息をついた。
 芙美子の家へと向かう道――それを、いつもよりもゆっくりなペースで、歩く。
 頭の中は、様々な考えで飽和状態である。しかも、今朝は夢見も悪かった。
 あの一連の夢と、芙美子のノートの関係については、もちろん、何の結論も出ていない。
 いっそ、芙美子自身に問いただす方が近道かとは思うのだが、そもそも、どんなふうに訊けばいいのかが分からない。
 だいたい、芙美子は、俺と会話してくれるのかどうか――
 あの、ラブホでの一件以来、俺は、芙美子と話をしていない。
 半月も芙美子と言葉を交わさなかったなんて、実は、今までの人生で、初めての体験だった。
 改めて、自分にとっての芙美子という存在の大きさを実感しながら――俺は、芙美子の家に向かう。
「おはよう、少年」
 不意に、前方から声をかけられた。
 ちょうど、四つ辻を折れ曲がり、芙美子の家が見えるようになる場所。そこに、独りの背の高い女の人が立っている。
 年は、二十代半ばか、もしかすると三十いってるかもしれない。長い黒髪に、白い卵形の顔。鼻筋の通ったその顔にメガネをかけ、口には火のついていないタバコを咥えている。プロポーションのいい体にまとっているのは、ワインレッドのスーツだ。
「お、おはようございます」
 近所に住む顔見知りのOLさんか何かかと思って、俺は、つい反射的に挨拶を返してしまった。
 えーと、この人、誰だろう……?
「言っておくが、君と言葉を交わすのは初めてだ。少年」
 俺の思考を読んだかのように、その女の人が言う。落ち着いた、ややハスキーな声だ。
 と、その人は――ぎゅっと眉をしかめ、力の籠もった目で、俺を真正面から見つめた。
「え? え? え?」
「……体に異変を感じていないか?」
「は?」
「息災にしているか、ということだ」
「え、ええ、まあ……」
「ならば結構」
 ちっとも結構と思っていないような険しい表情のまま、女の人が、俺に向かって歩きだす。
 この人、どこか見覚えがあるような気がするぞ。
 えーと――そうだ、いつだったか、俺の家の前にいて、こっちを凄い目で睨み付けてた人だ。
 って、どうしてこの人が、ここにいるんだ? 芙美子の家でも見張ってたのか? そもそもの疑問として、一体全体この人は――
「私のことはひとまず忘れろ、少年――」
 すれ違いざまに、その人が、俺の耳元で言う。



 …………。



 えっと……俺……いったい……何してたんだっけ?
 ああ……そうだ、芙美子を迎えに来たんじゃないか。
 気が重いが、しかし、いつまでも逃げているわけには行かない。
 俺は、芙美子の家の前に立ち、深呼吸してから、チャイムを押した。
 待つこと、しばし――かつての二倍か三倍かの時間が過ぎたような、そんな感じがする。
 それは、錯覚なのか、それとも実際にそれだけの時間が経過してるのか。
 もしかして、芙美子の奴、先に学校に行ったんじゃないだろうな。
 そんなことを考えた時、ようやく、ドアが開いた。
「おはよ」
 短く挨拶する芙美子の姿に――俺は、思わず目を見張った。
「芙美子、お前、その格好……」
 白いブラウスに、赤のリボンタイに、チェックのスカート。
 それは、俺達の通う私立星倫高校の制服だった。
「何よ。おかしい?」
「い、いや、おかしかない……よな」
 俺は、ぱちぱちと目を瞬かせながら、つぶやいた。
「うん、おかしくない。似合ってる」
「何言ってんのよ。バカ」
「しかし、いったいどういう風の吹き回しだよ。体操服とジャージはどうした? 洗濯中か?」
「そういうわけじゃないけど……こういう気分だったのよ」
 何だそりゃ。理由になってないぞ。
 しかし、まあ、考えてみれば、高校生が制服を着るのに、特段の理由は必要ないか。
 とは言え、芙美子の制服姿なんて、入学式以来だ。そして、夏服を着ているのを見るのは、これが初めてである。
 俺は、物珍しさも手伝って、まじまじと芙美子の姿態を見詰めてしまった。
「何ジロジロ見てんのよ。スケベ」
「う、あ、すまん」
「それより、行かないの? 今日の始業時間、普段どおりだったと思ったけど?」
「そ、そうだな」
 駅までの道を、芙美子と並んで、歩きだす。
 そして、俺達は、会話なしのまま、電車に乗り込んだ。
「…………」
「…………」
 互いに無言のまま、目的の駅につき、同じ学校の生徒たちでごったがえすホームから、改札を抜ける。
 校門前で、気まずい沈黙を破ってきたのは、芙美子の方だった。
「あのさ、透」
「ん、な、何だ?」
「デートしよっか」
「何い?」
 俺は、思わず大声を出してしまった。
 登校中の他の生徒たちが、何事かとこっちに注目する。
「って、デ、デ、デートって、お前……」
「あんた、うろたえすぎ。もうちょっと大きく構えなさいよ」
 フン、と芙美子は鼻を鳴らした。
「あの一件以来、いろいろ考えたんだけどね、付き合うとか付き合わないとか考えるには、あんたと私、腐れ縁が続き過ぎてるとおもうわけよ」
「あ……ああ……そのとおりだな」
「でも、当たり前だけど、デートはしたことないでしょ。だから、何回かデートを試してみて、それでうまくいくようなら、女と男の付き合いってのを考えてみてもいいと思うの」
「…………」
「あたしの言ってること、変?」
「い、いや……変じゃない。すごく理路整然としていると思う。あえて言うなら、芙美子の方からこんなふうに言ってくれたってことが、予想外ではあるが」
「あの時、あたし、考えたいって言ったでしょ。これでもいろいろ考えたわけよ。あたしなりにね」
 芙美子が、口をへの字に曲げる。相変わらずの仏頂面だ。
 だが、俺には、その頬が、ほんのりと赤く染まっているように思えた。



 そして、週末。
 俺と芙美子は、連れ立って映画を観に出掛けた。
 実は、これまでも、一緒に映画を観に行ったことがないわけではない。だが、これは――改めて言葉にすると恥ずかしいが――デートである。
 それを意識し過ぎて、よせばいいのに、巷で評判の小洒落た恋愛映画なんぞをチョイスしてしまったのが、間違いだったのだろう。
 映画を撮ったスタッフには申し訳ないんだが、俺は、途中で寝てしまった。
 なお、芙美子は、終始、仏頂面だったようである。少なくとも、俺が居眠りする直前と、目を覚ました直後に、同じように眉間に深い縦ジワを刻んでいたことは確かだ。
 そういうわけで、映画を観た後、手近な喫茶店に入るまで、俺と芙美子の間には、ろくに会話がなかった。
「あんまり楽しくないのね、デートって」
 喫茶店で、一番安いブレンドコーヒーを二つ頼んでから、ズバリと芙美子は言った。
「う……面目ない」
「え? 何を謝ってるのよ」
 芙美子が、きょとんとした顔になる。
「デートってのは、二人でするものでしょ。それが楽しくなかったからって、一方的に相手のせいにするほど、あたし、人間腐ってないわよ」
 ああ……俺、こいつのこういうところ、すげえ好きだ。
 そんな俺の気持ちに気付いた様子もなく、芙美子は、その豊かな胸の前で腕を組んだ。
「まあ、一回くらいじゃ結論を出すのは早いわよね。もう少しいろいろ試してみればいいんじゃない?」
「そう言ってもらえると助かる」
「とは言え、次は、行く場所を二人で決めた方がよさそうね」
「う……」
「何よ」
「いや、デートってもんは、男の方が何かとリードすべきもんだって固定観念が、俺の中にあってさ」
「そんな思い込み、早いとこ捨てなさいよね」
 容赦なく、芙美子が言う。
「別に、男女差別だなんて言うつもりないけど、透自身、あんまり場数をこなしてるわけじゃないでしょ?」
「そりゃ、まあ、女と付き合ったことなんて一度もないからなあ」
「……あ、あのさ」
 見ると、芙美子は、一転して、まるでこれからバンジージャンプでもするかのような、切羽詰まった顔になっていた。
「んー……この際だから、言っておくんだけど……あんたね、その――実はけっこうもてんのよ」
「はあ?」
 あまりにも予想外な芙美子の言葉に、俺は、素っ頓狂な声を上げてしまう。
「だからね、その……中学時代、あ、えっと、小学校の時もかな? あんたに告白したいとか言ってくる女子、けっこういたの」
「はあ……何でまた……」
「それは、その……あんた、顔も、えっと……まあまあ、だし、背も低い方じゃないし……それに、えっとさ、お節介焼きだから、それを、親切で優しいとか、そんなふうに勘違いしたんじゃない?」
「なるほど、勘違いね」
 俺は、ちょっと安心した。そういうことだったら納得いく。
「そ、それでね、そういう女子たちって、あたしに、あんたとあたしが付き合ってんのかどうか、聞きに来るわけよ」
「ん、まあ、お前とはいつも一緒にツルんでたしなあ」
「もちろんあたしは、別に、あんたのことなんか何とも思ってなかったんだけど、でも、でも、あんたのことで私に許可をもらうような態度が気に食わなくて、それで、透本人に聞いたら、って、いつも答えてたわけ」
「どうせ、いつもの仏頂面だったんだろ」
「知らないわよっ! その時のあたしの顔のことなんてっ!」
 芙美子が、顔中を口にするような勢いで叫ぶ。
 そして、芙美子は、自分がいささか周囲の注目を集め過ぎたことに気付き、頬を赤くした。
「そ、その……残念だったわね。あたしがもうちょっとうまくやってれば、あんた、今頃モテモテだったのかもしれないわよ」
「ん〜、モテモテねぇ……」
 俺は、何とも複雑な気持ちになった。
 自分にはハーレム願望なんて無いと思うんだが、例の夢のことがあるので、断言はできない。もしかすると、俺の無意識の中では、そういう潜在的な欲求が人並み以上に渦巻いているのかもしれないとも思う。
 だが……俺としては、この目の前の幼馴染以外の子を好きになる自分というのが、想像できないんだよな。
 じゃあ、あの恥ずかしい夢の中身は何なんだって話になりそうだが……深く考えるのはやめにしよう。
「一つ言えることは、モテモテでない今の自分について、特に残念だとは思わないってことだな」
「確かに、透、そういうガラじゃないわよね」
 そんなことを言いながら、芙美子が、いつものニヒヒ笑いを浮かべる。
「ともかく、これからは、あんまり背伸びしないことね。透がお節介焼きなのは知ってるから、いろいろセッティングしたがる気持ちも分かるけどさ」
「でもなあ……やっぱ、俺の方から付き合ってくれって言ったわけだし……」
「いいわよ。デートしてみようって言ったのはあたしなんだから」
 うーん、初デートの会話にしては、俺も芙美子も、ちっとも初々しくないぞ。まあ、芙美子の指摘どおり、幼稚園の頃からの腐れ縁である以上、これは当然だが。
 けど、気を使わないで話ができるってのは、恋愛経験値が皆無に等しい俺にとってみると、かえって助かるよな……。
 そんなことを考えていると、ウェイトレスさんが、二人分のコーヒーを持ってきた。
「ここのコーヒー、値段の割に美味しいのよ」
 そう言って、芙美子が、シュガーポットの中の角砂糖を、行儀悪く指で摘まむ。
「あ」
 俺は、思わず声を上げた。
 芙美子の奴、角砂糖を、ぽんと口の中に入れ、ガリガリとかじりやがったのだ。
 それから、平気な顔で、カップの中のコーヒーを啜る。
「お、おい、お前、今の何だよ」
「こうするのが、あたしにとっては、いちばん美味しいコーヒーの飲み方なの」
「…………」
 こいつ、あれだけコーヒーの淹れ方に講釈垂れてたくせに、これかよ。
 けど、こうやって、変なところで自分流を貫くところが、いかにも芙美子らしい。
「……あんた、なに笑ってんのよ」
 俺は、そう言われて初めて、自分が笑っていることに気付いた。
「い、いや、その……何て言うか……」
 くつくつという笑いの合間に、言うべき言葉を探す。
「お前、可愛いな」
「ほあっ? な、ななな何それ? バカにしてんの!?」
 そんな芙美子の反応がやっぱり可愛くて、俺は、なおも笑ってしまったのだった。



 てなわけで、俺は、けっこう楽しく初デートをこなした。 
 芙美子の方がどうだったのかは分からないが、しかし、以前と同じように会話をしてくれてたわけだし、丸っきり嫌になってたってことはないだろう。
 実際、次のデートの日程とか、どんなところに行くかとかについても、二人で話をした。
 芙美子に好きだと言われたわけでも、付き合おうと言われたわけでもないわけだが、少なくとも、以前に心配したように、完全に関係が破綻してしまうようなことにはなっていない。
 まったく、もうこれでハッピーエンドでいいんじゃないかって感じだ。
 ただ――たった一つの疑問が、浮かれつつある俺の心に、不安の影を落としている。
 芙美子は――
 芙美子の奴は、漫画を描くのを、やめてしまったんだろうか?



「勇者様!」
 サカモトの背中に荷物を積み上げていると、不意に、声をかけられた。
 騎士の中でも、一番の年かさの、ニケの側近をやってた人だ。声で、分かる。
 どうやら、その人の背後には、何人もの騎士が集まっているようだが、今の俺には、よく分からない。
「無茶ですぞ。そんな状態で黒騎士を追跡されるのですか?」
「今なら、サタナエルの剣が、イシュタルの剣の反応を追えるんです」
 俺は、出発の準備を続けながら、老騎士に言った。
「イシュタルの剣は、半分折れている。だから、あの魔剣の力で呼び出されている例の牛も、そうそう長時間、ニケとリルベリヒを乗せて飛べるわけじゃない。だから、今から出発すれば、充分に追いつけるんです」
 これは、俺の希望的観測ではない。サタナエルの剣からの意見である。
「し、しかし……勇者様は、目が……」
「…………」
「一度、王都に戻るべきです」
 老騎士は、きっぱりと、言った。
「黒騎士は、強い。いかな勇者様とは言え、お目が不自由なまま黒騎士と対峙すれば、万一のことが有り得ますぞ。ですが、イレーヌ様の癒しの力と、ミスラ様の錬金術の技を以てすれば、勇者様の目も必ず治りましょう」
「……それでは、遅いんです」
 俺は、細い鎖で首から下げた、星型のペンダントを、ぎゅっと握った。
 あの時、ニケが俺に投げてよこしたものだ。
 この、おそらく鉄製の、シンプルな装身具が、どういう曰くのあるものなのか、ここにいる誰にも分からなかった。
 だが、俺には、それが、ニケからの助けを求めるメッセージであるように思われたのだ。
 いや、もし、これがなくとも――俺は、今日、出発したろう。
 ニケがリルベリヒにさらわれた日の、翌日。未だ戦場跡では、完全に事態が収拾されているわけではないが、俺がここでできることは、何も無い。
 だから、俺は、ニケを助けるために、リルベリヒを追う。単純なことだ。
 そして――きっと、この選択肢は正しい。
「では、せめて私を――いや、腕の立つ騎士を何名か供にお連れください」
「それも、遠慮します」
「何ゆえですか?」
「もし、この先に川や谷――もしくは岩場とか、竜馬で越えられない地形があれば、俺は、瞬間移動を使います。けど、皆さんは、それについてこれない」
 それに、これは口に出して言うべきことではないが――騎士では、魔剣を操るリルベリヒには対抗できない。これは、すでに二度ほど実証されている。
「だから、俺は、一人で行きます」
「勇者様っ……」
 老騎士が、声をつまらせる。
 俺は、馬具の位置を手で確かめてから、サカモトの背に跨がった。
 前方――アイアケス王国の北の国境のさらに先に、雪を被った峰々が連なっている。
 だが、その景色は、ひどく輪郭が曖昧だ。
 視力は、未だ回復していない。視界全体がぼやけ、かすみ、まるで常に濃い霧の中にいるようだ。手を伸ばして自分の指を見ても、指の数が正確に数えられないくらいである。
 それでも、俺は行かなくてはならない。
 水を入れるための革袋と、充分な量の保存食。毛布や雨具の代わりにもなる厚手のマント。山地に入った時のための防寒具。ロープとナイフとコンパス。一人用のテント。その他、必要と思われるものは全て揃えた。
「――お待ちください」
 老騎士は、静かに、俺に何かを差し出した。
「ゼルナ女王陛下より直々に賜った、私の盾です。これでニケ様を狙う矢を阻んだこともあります。せめて、これをお持ちください」
「……ありがとうございます」
 俺は、老騎士の差し出した、縦に長い菱形の盾を受け取った。
 いかにも頑丈そうで、かなりの大きさである。だが、持ち手の部分に工夫があるのか、取り回しはよさそうだ。
「もう、お止めはしません。ただ――ニケ様のこと、くれぐれも――」
「はい」
 俺は、短く返事をして、サカモトに拍車を当てた。
 あの老騎士をはじめ、たくさんの騎士達が、俺の背中を見送っているのを、感じる。
 だが、振り返っても、その人達の姿をこの目ではっきりと認めることは、できない。
「…………」
 一人、手入れのされていない寂れた街道を、進む。
 もう、ここは、国境の外だ。
 ただ、ずしりとした盾の重さだけが、自分とアイアケス王国との唯一のつながりであるかのように、俺には感じられた。




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