出たとこロマンサー



第十七章



 北の国境にあるライアラスという街を目指し、俺は、サカモトに乗って街道を進んだ。
 単独行である。何しろ、王都の防衛に最低限必要な兵力を残して、騎士達は、皆、ニケに同行してしまっている。お供と言えば、背中に担いだ魔剣ベリアルことサタナエルの剣くらいのものだ。
「なあ、サタナエル」
 王都を出発してから三日目。俺は、サカモトを駆けさせつつ、つい自らの剣に向かって呼びかけてしまった。
 人に見られたらかなりアブない風景かもしれないが、丘陵地帯を抜ける街道上には、見渡す限り、人っ子一人いない。
「レレムの話、どう思う」
 ――どう、とは、かなり曖昧な問いかけですが、どのような種類の回答を期待しているのでしょうか。
 背中から伝わるテレパシーが、脳内で、クソ丁寧な音声となって響く。うう、幻聴ってこんな感じなんだろうか。
「だからさ、お前、魔物の類いなんだろ? 死巨人ってのがどんなモンスターなのか、レレムの話から見当つかないか?」
 ――確かに私は多元宇宙の中で多くの世界に同時に存在するモノではありますが、例の猫人間の話に関連して思い当たるものは、何もありませんね。
 相変わらず持って回った言い方だが、要するに、知らない、ってことか。
 ――おそらく、死巨人なるものは、この世界固有の存在なのでしょう。そのような存在に対しては、私は、恥ずかしながら無知であることを認めざるを得ません。そういう意味では、あなたと同列ですね。
「オルニウスの記憶とか、そういうの、受け継いだりしていないのかよ」
 ――確かに、私の前所有者は、今現在の私の人格の核ではありますが、記憶情報の継承はほとんど行われていません。人格の形成に深く関わっている場合は別ですけどね。ですから、それゆえ、ルル・ガルドなるものとオルニウスの間には、特別な因縁は無かったものと帰納的に類推できます。
「スウは、お前がルル・ガルドに通用しないって予言してるぞ」
 ――それが具体的にどのような状況を警告しているのかは分かりませんが、そういうことも有り得るでしょうね。魔王や天使長でさえ万能の存在ではありません。況んや私ごとき、この刃の通じない対象など、それこそ、浜の砂の数ほどあると思われますよ。
 やれやれ……結局は、出たとこ勝負か。
 まあいい。ともかく、ルル・ガルドをこの目で見ないと、どうやって戦うなんてこと、考えられやしない。
 ゼルナさんは、俺を信じると言ってくれた。だから、俺も、イレーヌさんが俺を召喚したことに意味があるんだと信じよう。
 考えてもしょうがない件については、ともかく、信じるしかない。あとは、考えるべきタイミングを見出して、頭を働かせればいい。
 そんなふうに覚悟を決めてサカモトを進ませていると――前方に、ぽつんと、何かの影が現れた。
 影は、街道の上をこちらに進んでいるらしく、どんどん大きくなっていく。
 緊張しつつも目をこらすと、それが、どうやら竜馬に乗った騎士らしいことが、分かった。
 向こうもこちらに気付いたのか、竜馬を駆りながら、大きく手を振ってくる。
「勇者様ぁー!」
 未だ完全に慣れていないその呼びかけに面映ゆいものを感じながら、こっちからも手を振る。声の感じからすると、だいぶ若いみたいだ。まだ騎士見習いかもしれない。
 そして、俺とその騎士は、街道の上で互いに竜馬の速度を緩め、言葉の交わせる距離まで近付いた。思った通り、俺とほぼ同年代だ。
「アイアケス騎士団親衛隊所属、騎士見習いのフェルノと申します! ニケ王女殿下より伝令の命を賜り王都に向かっているところです!」
 体育会系部活の後輩っぽく、その騎士見習いが言う。
「ニケは、もう戦場に着いてるんだよな。どんな状況なのか教えてくれ」
「苦戦してます!」
 まず、簡潔に、フェルノが表現する。
「敵陣は、ライアラスを包囲するも、それは依然として不完全です。敵勢力のほとんどはゴブリンであるため、ニケ殿下率いる騎士団はもちろん、民兵、傭兵、義勇兵等から成る我が方の脅威ではありません。ですが、その――」
 フェルノの顔が強ばり、言葉が途切れる。
「死巨人、か?」
「は――はい。敵陣中央に、真っ黒い巨人が――おそらく、あれは、死巨人ルル・ガルドと思われます」
「どんな奴なんだ、そいつは」
「怪物です」
 またも、簡潔に、フェルノが言う。
「その……僕、あ、いえ、私も、最初は死巨人などと呼ばれていても、単に極端に背の高いだけの野人か何かであろうと思ってました。たとえ、人ならぬ巨人であったとしても、西方のゲゲネイスや北方のフリムスルスでさえ、人の二倍以上の大きさのものは稀であると聞いています。ですが、あれは――」
 よほど衝撃が大きかったのか、フェルノは、妙に早口で饒舌だ。が、少しでも情報の欲しい俺としては、その一言一言が聞き逃せない。
「あれは、王宮の塔ほどの大きさなのです。いや、それより大きい。おそらく、立ち上がれば城壁越しにライアラスの町並みを見下ろせるでしょう」
「そりゃあ……ずいぶんと極端なサイズだな」
 俺は、思わず苦笑いした。
「それだけではないのです。ルル・ガルドには、剣も槍も通じません。相手の動きは鈍いので、我が方の精鋭が果敢に突撃を試みたのですが、刃が、全て擦り抜けてしまうのです」
「擦り抜ける?」
「は、はい。攻城用の投石器も試みたのですが、確かに命中したはずの石は、ルル・ガルドの背後に落下しました」
「そりゃあ、まるで幽霊だな……でも、そんな体で、そいつの方はどうやって攻撃してくるんだ?」
「睨みます」
「睨む?」
「はい。ルル・ガルドには、鼻も口もないのですが、顔らしき場所に目が一つあって、それで睨むのです。それで睨まれると、体から力が抜けて、ものの数秒で倒れてしまいます」
「…………」
「そして、倒れた者は、人でも、馬でも、全て塩の塊になってしまうのです」
 塩の――塊に。
 レレムの言葉と、そして、かつてニケに見せられたあの荒野を、思い出す。
 あれは、ロギの仕業だっていう話だったが、ルル・ガルドは、その力を武器として使ってるってことなんだな。
「それじゃあ、ニケも苦労してるだろうな」
「は、その――苦戦、してます」
 先程の表現を、フェルノが繰り返す。
「ルル・ガルドはのろのろとしか動くことなく、戦意があるかどうかさえも定かではないのですが……しかし、その能力と不死身の体ゆえに、手が出せない状態です」
「――分かった。じゃあ、この話を王都に伝えてくれ。俺も、戦場に急ぐから」
「はい! その――勇者様。ニケ殿下を、お願い致します」
 深々と礼をしてから、フェルノが、俺が今来た道に駆け出す。
 ――なかなかに不気味な相手のようですね。
 心なしか、サタナエルのテレパシーまでが、緊張しているように思える。いや、これは、俺自身の精神状態によるものか?
「……ま、何とかなるさ」
 俺は、自分自身に言い聞かせるようなつもりでそう言ってから、サカモトを走らせ始めた。



 丘の上から、ライアラスの街とその周囲の戦場が、一望できた。
 ライアラスの城壁を中途半端に囲んでいるのは、ロギ配下のゴブリン軍団だろう。数は多いが、その配置は無秩序で、きちんとした陣形になっていない。一方、騎士団を中心に整然とした陣を組んでいるのが、アイアケス軍だ。
 たぶん、普通にぶつかれば、ロギの軍はアイアケス軍に分断され、各個に包囲されて敗北するだろう。素人の俺から見ても、それくらいは分かる。
 だが、問題は――ゴブリン達の背後にいる、漆黒の巨人だった。
「あれが、ルル・ガルド……」
 でかい。とにかくでかい。フェルノの話を聞いてなかったら、腰を抜かしてたかもしれない。それくらいに、でかい。
 CGバリバリの映画なんかで、人込みの中に巨大な何かがいる、なんてシーンはよく目にした記憶があるが、生で見ると、それは、あまりに異様な光景だった。
 ルル・ガルドは、ゴブリン達の中央で、うずくまるような格好をとっている。
 まるで、黒く染まった雲を無理やり人型に固めたみたいに、その輪郭はあやふやだ。剣や槍が通じないというのも、感覚的に分かる気がする。
 うつむいたその顔は、ここからだと角度の関係でよく見えない。
 そこにある一つ目に睨まれると、とたんに力が抜け、数秒で塩の塊にされるという。
 見られるだけでダメージを受ける、というのは厄介だ。しかも、顔が高い位置にある分、物陰に隠れるてやり過ごすのも容易じゃないだろう。
 そんなふうに状況を分析していると、背中のサタナエルの剣が、異様な唸り声を上げた。
「おい、何だよ」
 ――この戦場に、あの毒蛇女がいますよ。
 俺の問いかけに、サタナエルの剣が、テレパシーで答える。
「毒蛇女って……イシュタルの剣のことか?」
 イシュタルの剣。別名、魔剣アスタロト。サタナエルの剣と同じ、漆黒の刀身に不気味な文字が刻まれた、72本の魔剣の一つ。そして、黒騎士リルベリヒの佩剣。
「つまり……あいつもいるのか。ここに」
 だとすると、ちょっと厄介だ。
 俺は、今回の敵の軍勢の中心は、ルル・ガルドだけだと思っていた。
 だから、ルル・ガルドさえ倒せば、どれほどの大勢力だとしても、ゴブリンを中心とした敵軍は一気に潰走すると踏んでいたのである。
 しかし、ルル・ガルドの他に、リルベリヒまでいるとなると――
「――死巨人退治の後に、黒騎士と決着をつけないといけないってことか」
 そうしなければ、アイアケス軍の勝利は、確実にならない。
 もちろん、順番としては、リルベリヒが先で、ルル・ガルドが後でもいいんだが……あれだけの軍勢の中からリルベリヒを見つけるのは、ちょっと事だ。それに、リルベリヒと戦っている間に、ルル・ガルドに睨まれて塩にされてはかなわない。まずは、より危険な奴から倒さないと。
 と、眼下の光景に、大きな変化が生じだした。
 アイアケス軍が、動きだしたのである。
「お――おいおいおい」
 騎士が、そして兵士が、槍を構えつつ、整然と隊列を作り、前進を始めている。
 そして、ゴブリンを中心としたロギの軍勢も、それに応じるように、移動を開始していた。
 ゴブリン達の方には、隊列も陣形も無い。ただ、とにかく前に出て、手近な敵に攻撃を行うだけのつもりなのだろう。
 鬨の声と、竜馬や蛇馬の嘶きと、大勢の足音と、鎧のがちゃつく響き――それらが、混然一体となり、異様な音のうねりとなって、大気を震わせている。
 って、こうなったら、ここでボサっとしてるわけにはいかねえぞ!
 俺は、戦場を見回し、ニケの旗印を探した。
「いた!」
 見つけた。
 翼を広げた鳥を思わせる、アイアケス側の陣。その中央に、ニケと、ニケが率いる騎士達の旗が翻っている。
 あそこまで一気に瞬間移動するのは、さすがに無理だ。
 俺は、何回かに分けて、ニケのいる場所までテレポートすることに決めた。
「行くぞっ!」
 声に出して気合を入れ、まずは、丘の麓の平地に――止まった時間の中で自らの背中を見る。
 次の瞬間、俺は移動を果たし、そして、次の目標地点を視認した。
 さらに、跳躍。もはや、ここは戦場。アイアケスの陣地の中だ。
 喧噪と、号令。武具と武具のぶつかる音。そして、土煙の匂い。
 その向こうに、ストレートの黒髪を翻しながら進むニケの姿があった。
 その横顔に浮かぶ表情は、堅い。
 それも当然か。何しろ、目の前の軍勢の真ん中に、あんな規格外のデカブツがいるんだもんな。
 今のところ、ルル・ガルドは、動こうとはしていない。しかし、それだけに、不気味さを感じる。
 俺は、臍の下に力を込め、ニケの傍らにテレポートした。
「ト、トール!」
 いきなり現れた俺に、ニケが、叫び声を上げる。
「悪い、遅れちまった!」
「あ、ああ――悪いけど、もうアンタ抜きで始めちまったよ。でも、きっと来てくれるって信じてたぜ!」
 いつものように、ニヤリとニケが笑った。
 だが、その男前な笑みが、普段よりもちょっとぎこちない。
「伝令に、話は聞いてるよ。妖術師レレムをぶっ倒したんだってな」
 ああ、そっか。さっきのフェルノとは逆に、王都からも伝令は出てたんだな。
「手傷を負ったって聞いてたけど……大丈夫なんだな?」
「ああ。少なくとも、死巨人とやらの相手をするだけの元気はあるぜ」
 俺の言葉――無理してるように聞こえてなければいいんだが。
 何しろ、俺は、どうやってルル・ガルドと戦うかすら、まだ、考えがつかないでいるのだ。
 しかし――
「トール」
 いきなり、ニケが、竜馬を並べる俺の肩に手をかけてきた。
 そして、ぐい、と自分の方へ引き寄せ、自らも体を乗り出して――唇を、重ねてくる。
 キス、しちまった。ニケと。しかも、こんな大勢の前で。
 かーっと、顔から上が熱くなる。まるで強い酒を一息に飲んだみたいだ。
「へへ、勇気出たろ?」
 ニケが、照れくさそうな笑顔を、その口元に浮かべている。
「あ――ああ」
「アタシも、勇気出た。これで戦える」
 俺だけに聞こえるように、ニケが呟く。
「この戦いが終わったら、アンタに大事な話があるんだ」
 ニケが、真顔になって、俺を正面から見つめた。
「だから、死なないでくれよ。頼むから」
「ああ。当然」
 俺は、ニケに頷きかけた。
「――じゃあ、行ってくる」
「頼むぜ、トール」
「ああ」
 ニケに再び頷いて、俺は、前方へと視線を投じた。
 ちょうどその時、ざあっ! という音ともに、両軍から放たれた弓矢が宙で交差する。
 ここまでは、相手の矢は届かない。だが、前線では、すでに戦いが始まっている。
 俺は、ひとつ深呼吸をしてから、サカモトを走らせた。
 目の前に陣を広げる騎士達が、槍を構えてゴブリンの集団へと突撃をしている。
 俺は――もうもうと上がる土煙の先に、竜馬を駆る自分自身の背中を発見し――次の瞬間には、全軍の先頭に瞬間移動で躍り出ていた。
 前にいるのは、ただ、敵だけ。緑の草の生えた平原の向こうから、ゴブリンたちが、武器を振り回しながらこちらに走っている。
「サタナエルっ!」
 声を上げながら抜いた漆黒の魔剣が、炎をまとう。
 と、無数の矢が、俺を狙って飛んできた。
 それを認識した時には、前方に大きく剣を突き出している。
 燃え盛る炎が剣先に集まり、放射状に展開して、巨大な車輪の形を取った。
 それが、唸りを上げて回転し、飛来する矢を弾き飛ばす。
「うおりゃあああああああああああああ!」
 そのまま、俺は敵陣に突っ込んだ。
 振り下ろしたサタナエルの剣が、そして、サカモトの足が、瞬時に数体のゴブリンを屠り、土くれへと変える。
 その時には、俺からわずかに遅れて突撃をしていた騎士達が、ロギの軍と接触していた。
 周囲に血の霧が舞い上がり、断末魔の声が響く。
 今、視界の端を吹っ飛んでいったのは――たぶん、剣を握ったままの、右手。
 それが、人間のものなのか、それともゴブリンのそれなのかということにすら、思いを馳せている余裕はない。
 ここは、戦場。剥き出しの生と剥き出しの死が、火花を散らしてぶつかり合うところ。
 異様な高揚感と不思議な悪寒が全身の血管を駆け巡り、熱く火照った体をぞくぞくとおののかせる。
 敏感になった五感はオーバーフロー。常に注意していないと、視野は、極端に狭くなる。ただ、目の前の倒すべき相手しか見えなくなるくらいに。
 そして、俺が、何体目とも知れないゴブリンを悪魔の剣で刺し殺したその時――
 前方で、ルル・ガルドが、動いた。
 アイアケス軍の騎士も、そしてロギの側のゴブリン達も、動きを止めた。
 無数の驚きの声が重なり合い、おおおおおおっ……という、地鳴りを思わせる異様な響きとなる。
 そんな中、ルル・ガルドは、ゆっくりと立ち上がって、うつむかせていた顔を、上げた。
 頭部には、目も、鼻も、口も、耳も、髪も無い。ごつごつとした表面の、真っ黒いのっぺらぼうだ。
 その中心の一点が、いきなり、くわっと上下に開く。
 まばゆい金色に光るそれこそが、ルル・ガルドの一つしかない目だった。
 巨大な単眼が、何かを探すように、ぎょろぎょろと動く。
 そして――俺は、ルル・ガルドと、目を合わせてしまった。
「う……あ……!」
 がくん、と体から力が抜ける。
 まるで、体内の血液を一気に奪われてしまったような感覚。
 体が、動かない。目を逸らすのに必要なほんのわずかな活力さえ、今の俺の体は、都合できないでいる。
 いや、それどころか、今にも、脳だの内臓だの真に致命的な部分に必要な生命力が――
 声を出すことも、息をすることも、心臓を動かすことすら――
 あまりにも突然に死の影を捕らえ、俺の心は、瞬時に絶望に塗り潰された。
 これで――ここで――こんなことで――終わっちまうのか――?
 背骨を引っこ抜かれたような恐怖におののく俺の体が――突然、地面に投げ出された。
「わぷっ!」
 顔面を、青臭い草むらが覆う。
 た……助かった……?
 見ると、すぐ傍らで、俺同様に地面に倒れたサカモトが、喘いでいる。
 サカモトの緑色の鱗には、うっすらと白い結晶が浮いていた。
 そうか。俺同様に力を奪われたサカモトがぶっ倒れたおかげで、こっちは強制的に視線を逸らすことができたんだ。
「にっ……逃げろ! サカモトっ!」
 俺は、そう叫びながら、半ば這うようによたよたとその場を離れた。
 足が、重い。まるで鉛の靴をはいてるみたいだ。
 しかも、今この瞬間にさえ、体内のエネルギーを剥奪されているという、不気味な実感がある。
 目を合わせた時ほどではないにしろ、ただ見られてるだけで、確実に命を削られちまうってことか?
 死ぬ。このままだと、死ぬ。本当に、死んじまう。
 敵に、一太刀も浴びせることなく――
「ち――ちっくしょうっ!」
 俺は、胸郭を満たすどす黒い恐怖をねじ伏せ――ルル・ガルドの気配のする方に、視線を向けた。
 そして、うっかり上を見ないようにしながら、前方を睨み付ける。
 み――見えた。
 静止した時間の中の、まるで、今にも倒れそうな俺自身の姿。その、背中。
 それを、ルル・ガルドの足元に見たとき、俺は、テレポートしていた。
「くっ……はあああああああああ!」
 俺は、忘れていた呼吸の仕方を思い出したように、大きく息をついた。
 まるで、今の今まで首を締めていた縄を解くことに成功したみたいな気分だ。
 心なしか、少しずつ、力が戻ってきているようにも感じる。少なくとも、地面に両足で立つことは可能だ。
 目の前で、乗用車くらいはゆうにあるルル・ガルドの左足が、大地を踏んでいる。
 ルル・ガルドの、踵のすぐ後ろ。ここは、完全に奴の死角のはずだ。
「このおおっ!」
 俺は、ルル・ガルドのアキレス腱に、サタナエルの剣を叩き付けた。
 ぬるん――
 粘液質な感触を剣を持つ両手に感じ、そして、刃が、ルル・ガルドの体を擦り抜けるのを、視認した。
 ルル・ガルドの、踵の上辺りがぱっくりと裂け、そして、あっというまに塞がる。
 まるで、水飴か蜂蜜にハサミを入れたみたい、手応えがなかった。あの伝令の言った通りだ。たとえ魔剣であっても、こいつに普通の攻撃は効かないのだろう。
 俺は、サタナエルの剣の刀身を炎で包み、そのままルル・ガルドの足に突き刺した。
 ごおおおおおおおお……という音とともに、黒色の煙が辺りに広がる。
 見ると、その黒煙は、まるで口を広げて泣く無数の骸骨のような形をしていた。
 ルル・ガルドの左足に、傷――というより、穴が空く。
 これが、少しでもダメージになっていればいいんだが。
 と、いきなり、それまでじっと動かなかったルル・ガルドの左足が、動いた。
「うわっ!」
 ただ、足の位置を変えただけなのに、ものすごい迫力だ。
 動きが鈍いから、ぶつかるようなことはない。が、もしぶつかったとしたら、ただでは済まないだろう。ルル・ガルドの体は、こっちの剣が擦り抜けるほど柔らかいが、それなりの密度と質量はあるのだ。水飴や蜂蜜だって、何トンもあれば人間なんて押し潰されちまう。
「うお!?」
 今度は、ルル・ガルドの巨大な手の平が、俺の体のすぐ横を通過した。
 近過ぎてよく分からないが、たぶん、今、ルル・ガルドは、足を蟻に噛まれた人間のように、手足を動かして俺を捕捉しようとしているのだろう。
 だが、こんなもっさりした動きであるかぎり、注意していれば攻撃を食らうことはない。
 あとは、何時間かかっても、こいつの体を焼き尽くして――
「ギギギギギギギ!」
 俺の思索を、もはや耳慣れた軋むような声が、中断させた。
 手斧や手槍を振り回しながら、何体かのゴブリンが、こちらに向かってくる。
「邪魔すんなっ!」
 俺は、思わずそんな声を上げながら、一番先頭のゴブリンの頭を、刎ねた。
 どしゃっ、と地面に倒れ、そのまま土くれに戻っていくそいつに、同情するだけの余裕は無い。こっちは、ルル・ガルドの攻略だけで手一杯なのだ。
 残ったゴブリン達は、明らかに腰を引かせながら、それでも、俺に武器を突き付けてくる。
 サタナエルの剣や自分自身の瞬間移動能力の使い方を覚えた俺にとってみれば、こいつらなんて、もはや敵ではない。とは言え、その攻撃を無視するわけにいかないのも事実だ。
 どうにか、追い散らすことはできないか――
 と、いきなり、俺の目の前に、大きく腰を曲げたルル・ガルドの右の手の平が現れ、その表面が、ぱっくりと裂けた。
 その奥から――あの、金色の瞳が――!
「ギィーッ!」
 絶叫を上げながら、俺の周囲ゴブリン達が、たちまち、塩の柱になる。
「うわぁあああああああああああああッ!」
 俺は、掛け値なしの恐怖の悲鳴を上げて、そこからテレポートした。
 ルル・ガルドから遠く離れた平原の一角で、四つん這いになり、ぜいぜいと喘ぐ。
 今の一瞬で、回復しかけていた体力の半分を持ってかれた。体が、思うように動かない。
 咄嗟のテレポートだったが、幸い、ここは味方の陣地の後方のようだ。これが、もし、ゴブリン達のど真ん中だったら――今頃、滅多切りにされてたかもしれない。
 見ると、俺を見失ったルル・ガルドが、右手の表面の瞼を閉ざし――そして、再び、顔の真ん中にその単眼を開いていた。
「あいつ――体のどこにでも目を移動できるのか?」
 いや、もしかすると、その位置は限られているのかもしれない。ただ、顔と手の平だけだとしても、充分な脅威だ。
「死角は、無しか――」
 ――苦戦なさってますね。
 サタナエルが、剣の柄を握った俺の右手越しに、テレパシーで話しかけてくる。
「ああ。どうにも、今までの奴らとは勝手が違い過ぎるな」
 ――この状況でお聞きになるのは不快かもしれませんが、私の助言を聞いていただけますか?
「ああ」
 ――あの巨人の体を私の炎で焼いてしまおうという作戦。これは、おやめになった方がいいですよ。
「自慢の炎も、あの黒い水飴には歯が立たないか?」
 ――そういうことではありません。しかし、こんな時なのに、あなたは愉快な比喩を使いますね。
 サタナエルの剣が、俺の手の中で、笑うように震える。こういうとこ、相変わらず気色悪いんだよなぁ。
 ――私の本質は多元宇宙的な意味で言うところの次元断層であり、炎のように見えるのも、異なる世界同士が衝突し、摩擦した結果の、発光発熱現象です。
「例によって、何が言いたいのかさっぱりだ」
 ――それは、あなたの脳内に形而上的語彙が不足しているからですよ。ともかく、あの程度の多層存在であれば、実際のところ、切ったり燃やしたりできないということはありません。
「じゃあ、どうしてだ?」
 ――表面に触れた時に感じました。あの巨人の、体のように見える部分は、彼の本質ではありません。彼が、その邪眼によって剥奪した他の生物の存在可能性の集積、すなわち吸収した生命力が原形質になるまで凝り固まっただけのモノです。
「よく分からないんだが、つまり、本体じゃないから攻撃しても無駄ってことか?」
 ――そういうことです。彼が邪眼で他の生物を殺すたびに、彼の体を形作る材料は補充されます。彼の体は、彼の目を支えるだけのもの。言わば、望遠鏡に対する、いくらでも予備のある三脚程度の存在なのです。
「なるほどね……」
 ――あの巨人の本質は、目です。
 短く、サタナエルの奴が、断言する。
 本質――と言われるとちょっと分からなくなるが、要するに、ルル・ガルドの本体が、あの、金色に光る眼球だというのは、感覚的に非常に納得のいく話だった。
 スウの言ってた、奴の体にサタナエルの剣が通じないという予言とも、合致する。
 ということは、だ――俺は、あの、ただ見られているだけで生命力そのものを奪い取る邪眼とやらと攻撃しなくちゃならないってことか。
 ああ、なんとなく分かってたさ。自分が、奴の攻撃手段に、真正面から向き合わなくちゃいけないってことはな。
 俺は、改めて、サタナエルの剣を握り直し、俺を捜すように辺りを見回しているルル・ガルドを睨み付けた。
「しっかりと手伝ってもらうぜ、サタナエル」
 俺の言葉にテレパシーで答える代わりに、魔剣が、うめき声のような不気味な音をたてる。
「あいつの――ルル・ガルドの目を、潰す」
 それは、自分の死と真正面から向き合うということと同義。
 俺は、体奥から湧き起こる震えを噛み殺すように、きつく歯を食いしばった。
 



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