出たとこロマンサー



第十五章



「わあっ!」
 悲鳴を上げたのは、人込みの中に立っていたレレムだった。
 ちなみに、なぜ悲鳴を上げたかと言うと、俺がテレポーテーションで目の前に出現し、その小さな体を思い切り抱き締めたからだ。
「バ、バカですかお師匠様はぁ! わざわざボクの陣地に飛び込んでくるなんて――」
 レレムが、驚いた顔に無理に笑みを浮かべようとする。
 まあ、確かに、このままじっとしていたら、例の煙と音でアーパーになっちまう。
 しかし――
「バカはお前だ。もうこれでお前の負けだよ」
 俺は、息を吸わないように注意しつつそう言ってから、視線を真上の夕空に移した。
「え――?」
 一瞬で――はるか上空に跳躍。
 ふわりと体が宙に浮き――そして、石ころのように落下する。
 もちろん、俺は、レレムを抱えたままだ。
「わあああああああああああああああああぁ! お、落ちるううううううううううううぅ!」
「当たり前だ」
 王都上空、夕日に照らされながら真逆様。
 落下速度はぐんぐん上がり、見る見る地面が近付いていく。
「はなせ! はなせっ! はーなーせぇー!」
 俺の腕の中でジタバタと暴れるレレムの膝が、偶然、俺の急所にヒットする。
「ぐは!」
 予期せぬローブローに手の力が緩み、レレムが、俺の戒めから抜け出る。
「風よ――疾風よ――我が足となり翼となれ――!」
 落下する俺はそのままに、レレムが、印を結んで空中飛行の呪文を完成させる。
 って、このまま俺だけ地面に激突したんじゃ話にならない。
 俺は、レレムよりやや高い位置に瞬間移動した。
 一瞬の無重力の後、再び落下を始める俺に、レレムが、別の印を結んだ手を突き付ける。
「風よ――旋風よ――不可視の刃にて我が敵を切り刻め!」
 うわ、どう聞いても攻撃呪文じゃねえか!
 なんて思った瞬間、ばっ! と目の前に血煙が舞った。
 これ、いわゆるカマイタチ現象ってやつか。真空波攻撃は、風を操る敵の定番だな。
 切れ味があまりに鋭いせいか、意外なことに、ほとんど痛みを感じない。こっちが落下運動をしているせいで、狙いが定まらなかった、ということも考えられる。
 だが、体中いたるところに傷を負ったことは確かである。
 こりゃあ、貧血で意識を持ってかれる前に、勝負をつけないと――と思いつつ、今のところ、俺はただ落下するだけだ。
 そんな俺を、風の翼に乗ったレレムが、急降下して追いかけてくる。
「風よ! 颶風よ!」
 あ、レレムの奴、何か大技出そうとしてるな。
 最初、あんまりうまくいったせいで油断しちまったか――まあ、これから挽回すりゃあいいさ!
「大気の精霊たちよ! その大いなる力にて、我が敵を――」
「こん畜生っ!」
 俺は、レレムが呪文を完成させる前に――奴の背後に瞬間移動した。
 そのまま、後ろから両腕ごと体を抱え込む。
「ひゃっ!」
「うおりゃあああああ!」
 気合を入れるために大声を上げながら、もういっちょ瞬間移動。
 レレムの体にしがみついたまま、俺は、さらなる高空へとテレポートする。
「ああっ……!」
 レレムが、何かに気付いたように、驚きの表情を浮かべる。
「お前が操ってた風は、だいぶ下の方に置いてけぼりだぜ」
 そんなふうに俺が言ってやった時には、もう、俺とレレムは相当の速さで落下をしていた。
 何物にも妨げられない、まさに自由落下。二人の体は物理法則に従い、重力加速度ずつ速度を増していく。
 落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。
 気圧が急激に変化したせいか、それとも出血のせいか、頭がガンガンと痛む。
 だが、俺は、レレムに印を結ばせないよう、とにかくその体を抱き締め続けた。
 まるで台風にでも抗っているような凄まじい風圧が、俺とレレムの体を嬲る。
 もし、仮に、例の煙や音を使っても、この状況じゃあ効果は発揮できないだろう。
「わあああああああああああ! はーなーしーてぇええええええええええええええええええええ!」
「バカ! ここで離したら俺の負けだ! 離すわけねえだろ!」
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 恐らく、生涯で初めて体験するであろう超スピードに、レレムが掛け値なしの悲鳴を上げている。
「おい、レレム!」
 俺は、びょうびょうという風切り音に負けないよう、レレムのネコミミに大声で叫んだ。
「今度はお前が誓う番だ! 降伏して、俺に逆らわないって約束しろ!」
「な、な、何言ってんですかぁ! このままじゃ二人とも死んじゃう! 死んじゃいますよぉ!」
「俺は、地面に激突する前に瞬間移動で逃げるから平気だ。そうすれば、この速度もキャンセルされるからな」
「そんなのズルイですぅううううううううううわああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 いよいよ近付いてきた地面に、レレムが絶叫する。
 そろそろ時間切れ――やっぱ、一回目じゃ無理か。
 俺は、もう一度、レレムを抱えたまま、上空へとテレポートした。
「ふぇ? う――わわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわ!」
 一瞬の静止の後、重力に引かれて、またも落下を始める。
「時間はそんなにねえぞ! 早いとこ降伏しろ!」
 悲鳴を上げ続けるレレムの耳元で、怒鳴る。
「み、みみみ、見損なわないでくださいっ! ボクだって四天王の一人なんですからあああああああ!」
 そうは言っているが、レレムの声ははっきりと上ずっている。
 その間も、俺とレレムの体は落ち続け、もうあと少しというところに地面が――
「次で、終わりだぞ!」
 俺は、そう言って、もう一度、瞬間移動した。
 夕日に染まる朱色の雲と同じ高さにまで一瞬で上昇し、そして、頭を下にして落下する。
「ニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
 ジェットコースターじみた連続急降下に、レレムが絶叫する。
「もう、これが最後のチャンスだ」
 俺は、声のトーンを落とし、言った。
「たぶん、あと1回しか、瞬間移動は使えない」
「そんにゃ、そんにゃ、そんにゃにょ無責任ですぅうううううううううううううううううううううううう!」
「だったら決断しろ。降伏するか、地面に激突してトマトみたいにぶっ潰れるか。どっちにしろ、俺は助かるけどな」
 と言いつつも、そろそろ俺も体力の限界だ。異様な悪寒に、背筋がゾクゾクと震えている。もしかすると、次の瞬間にも失神しちまうかもしれない。
 だとしても、この腕は絶対に解かない。そんな決意を込めて、ひときわ強くレレムの体を抱き締める。
 そんな俺の覚悟が伝わったのかどうか――
「分かりましたぁ! 誓います! 誓いますからぁ! お師匠様ぁあああああああああああああああああ!」
 とうとう、レレムの奴は音を上げた。
「って、ちょっとぉ! お師匠様ぁ! 聞こえてるんですかぁ! 早く、早く、早くぅううううううぅ〜!」
「うっせえな。安全な場所が分からなきゃ移動しようがないんだよ」
 そう言って、霞む目を見開き、地上を見据える。
 王都の街並が迫る。あともうちょい。人の姿が見えるくらいまで近付いてから――
 そして、俺は、最後の瞬間移動を行った。
 ……すとん、と、さっきまでの速度が嘘のような軽い衝撃を、地面に降り立った両足に感じる。
 レレムは、俺の腕の中で、精根尽き果てたように、ぐったりとうなだれていた。
「トール!」
 目の前で、メガネの奥の瞳を真ん丸にしているミスラが、声を上げる。
 俺の思惑どおり、そこは、例の市場の通りだった。つまり、あれだけ大騒ぎしながら、同じ位置で上下に動いてただけというわけである。
「い……今、帰ったぜ……えっと、あの、いつかサタナエルの剣を縛り付けた鎖、あるか?」
「う、うん……持ってきたけど……」
 それを使った時のことを思い出したのか、頬をかすかに赤らめながら、ミスラが答える。
「じゃあ、それでコイツをふんじばっとこうぜ。降伏したとは言え、油断はできないもんな」
「こ、降伏って……倒したの、そいつを!?」
「ああ、どっからどう見ても俺の勝ちだろうが。それより、早くしてくれ」
「う、うん……」
 ミスラが、懐からじゃらりと鎖を取り出し、それでレレムの体を拘束する。最後に猿ぐつわみたいにしたのは、呪文対策だろう。
 レレムは、もう、完全に成されるがままだ。
「さて……」
 よく見ると、レレムの奴、服が血だらけじゃねえか――と思ったら、それは全部、俺の血だった。
 見ると、俺の服も、血で真っ赤に染まっている。
「ありゃりゃあ……」
 こりゃあ、我ながらひどいナリだな、なんて暢気なことを考えながら、覚束無い足で歩きだす。
「ちょ、ちょっと、どこ行くつもり?」
「いや、王宮だよ。サカモトに乗って、ニケを、追わないと……」
「何言ってんだよ! そんな血まみれの格好で――」
「んなこと言ったって、着替えてる暇なんか、ないぞ」
 うう、これだけ喋るのも億劫だ。早いとこサカモトの背中に跨がってうたた寝したいところだな。サカモトの奴は嫌がるかもしれないけど。
 って、何だ? だんだん視界が暗くなって――それに、地面が揺れてるぞ? その上、耳元で何か虫の羽音が――
「トールっ!」
 ミスラの声が、妙に遠い。
 なのに――その顔は、意外なほど近くにあった。しかも、何だよ、泣きそうな顔だ。
 って……俺、いつの間にへたり込んで……ミスラに体を支えられてるのか……? みっともないなあ……
 まあ、みっともなくたって、いい……とにかく……早く……厩舎に行って……サカモトに……乗らなく……ちゃ……
 そんなことを考えているうちに、視界はどんどん暗くなり、音はどんどん遠のいて――
 そして――俺は、自分が貧血で気を失ってしまったのだということを、認めざるを得なかった。



「うー、頭いてぇ……」
 俺は、自室のベッドで半身を起こし、うめき声を上げた。
 夢の中での大立ち回りが影響しているのか、それとも、単なる夜更かしによる寝不足なのか――とにかく、ひどい頭痛だ。
 窓の外を見ると、もう昼である。完全に寝過ごした。
 夏休みも残り少ない。これから心を入れ替えて、有意義に過ごさないと――
 そんなことを思いながら、寝汗でぐっしょりと濡れた寝間着代わりの下着を脱衣場で脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。
 どうにか頭痛が収まったと思ったら、今度は腹が減ってきた。
「そう言や、親父とお袋は旅行だっけか」
 何でも、ようやく親父がまとまった休みを取ることができたとのことで、二人は連れだって北海道まで行ってしまっている。
 だから、食事は、自分で何とかしなくてはならないのだが、はっきり言って俺は自炊などからきしだ。チャーハンを作ろうとして消し炭を作ってしまうような人間である。しかも、その時、台所は、飛び散った油と卵と米粒で、惨憺たる有り様になったものだ。
 そういうわけで、俺は、駅前に出て食事する場所を物色することにした。
「……暑いな」
 頭上で太陽は燃え盛り、駅までの路上に濃い影を落としている。
 そして、俺は、あのお台場の国際展示場での暑い暑い一日のことを思い出し――その最悪の幕切れを回想して、軽く鬱になった。
 あれから一週間が経つが、芙美子は、俺の部屋に来ていない。
 芙美子が漫画を描くのに使っていた道具類は、俺の部屋にそのままになっている。だから、芙美子がそれを取りに来た時に、改めて釈明しようと思ったんだが――
「はぁ……」
 一つ、溜め息をつく。
 それにしても、あいつ、確か、家じゃろくに漫画描けなかったはずだよな。いったいどうしてるんだ?
 まあ、あれだけの修羅場をくぐり抜けた後だから、少しは休みたいってのもあるかもしれないけど……しかし、漫画を描いていない芙美子の姿なんて、まるきり想像できない。
 そんなことを思いながら駅前に着き、さて、ファーストフード店にでも入ろうかと思ったその時、本屋から出てきた人影に、やっほー、と手を振られた。
「こんちはー、透くん。偶然なのだー」
 車輪付のバッグをガラガラと引きずりながら近付いてきたのは、芙美子のお姉さんである紗絵子さんだった。
「えーと、実家から帰るところですか?」
 紗絵子さんの服装などから予想し、尋ねてみる。
「うん。何だか気詰まりでねー。もう帰ることにしたのだー。ところで、透くんはこれからお昼?」
「そうですけど……」
「だったら、一緒に食べよう。お姉さんがおごってあげますのだ」
 ぽーんと、紗絵子さんが自らの胸を叩き、その巨乳が、ふるん、と揺れる。
 しかし……一緒に、ってことは、紗絵子さん、昼飯を食わずに出てきたってことか。ということは、さっき、実家が気詰まり、と言ってたのは、偽らざる本音なんだろうな。
 何しろ、紗絵子さんは、家出同然に単身都心にまで出て、そのまま漫画家のタマゴになってしまったという来歴の持ち主である。さすがに親御さんとは和解してるんだろうが、未だに関係がぎくしゃくしていてもおかしくない。
「どうしたのー? ハンバーガーがいやなら、別のお店にするけど」
「あ、えっと、俺はどこでもいいです」
「じゃあここにするのだー」
 紗絵子さんが、自ら率先して小洒落た内装の店の中に入る。
 そして……俺は、一度は遠慮しつつも結局おごってもらった朝食兼昼食をトレイで運び、席に着いた。
 すぐに、紗絵子さんが、俺の向かいに腰掛ける。紗絵子さんのトレイの上には、俺が頼んだ量の軽く三倍のハンバーガー類が乗っていた。
「夏は食欲がなくてねー」
 紗絵子さんが、小さく吐息をつきながらそんなことを言う。一瞬、聞き間違いかと思ったが、さすがに聞き返す気にはなれなかった。
「えーと……芙美子、どうしてます?」
 できるだけさりげない風を装って、そう訊いてみる。
「ん? どうって、特に何もしてないみたい」
 そう言いながら、紗絵子さんが、慣れた手つきでハンバーガーの包装を剥き、豪快にかぶりつく。
「何もって……描いてないんですか? 漫画」
「描いてないですのだ」
「そうですか……。まさか、体壊したわけじゃないですよね」
「そんなことないよー。どうして?」
「いや……芙美子みたいな漫画バカが、何も漫画描いてないなんて、珍しくて」
「ふむー。あたしは、普段あの子と一緒じゃないから、それが珍しいかどうかわからんですのだ」
 相変わらずの妙ちきりんな口調でそう言った時には、紗絵子さんは、一個目のハンバーガーを平らげていた。
「芙美ちゃん、そんなに漫画ばっかり描いてるのー?」
 二個目のハンバーガーを準備しながら、紗絵子さんが訊く。
「え、ええ。もう、毎日が漫画漬けって感じですよ」
「ふーん、でも、それじゃ、お父さんが黙ってないだろうなー」
「だから、芙美子の奴、漫研部室に入り浸りなんですよ」
「なるほどねえ。だから、夏休み中の今は漫画描いてないんだー」
「いや、そうじゃなくて、休み中は俺の部屋で描いてたんです」
「透くんの部屋でー?」
 紗絵子さんが、驚いた顔をする。って、何だ、紗絵子さん、芙美子の日常について、何にも知らないんだな。
 まあ、紗絵子さん本人がさっき言ってた通り、普段、別々に生活してるんだから当然か。
「はあー、せっかく彼氏の部屋に上がり込んでんだから、他のことすればいーのに」
「べ、別に、俺はそういうんじゃ……」
「どっからどう見ても彼氏ですのだ」
 紗絵子さん、そう宣言してから、ハンバーガー三個目。
「にしてもねー、芙美ちゃんらしいハンパっぷりだなー」
「へ?」
 やっぱり聞き間違いかと思い、俺は、今度こそ聞き返すことにした。
「えーと、ハンパって、芙美子がハンパ者だ、ってことですか?」
「そうだよー」
 そう言って、紗絵子さんが、一呼吸置くように、じゅるる、とバニラシェイクを啜る。
「……芙美ちゃんがそんなふうに漫画を描き続けるのはね、たぶん、描き続けないと、気持ちが切れちゃうからなんじゃないかなー。そのことに無意識のうちに気付いてるから、ムキになって描き続けてるんだと思うよー」
「気持ちが切れるって、それ、どういうことです?」
「漫画を描くってことはね、根っこのところで、すごく不毛なわけ」
「不毛って……」
「漫画に限らず、創作活動ってたいていそうだよ。だって、全部が絵空事なんだもんねー。それも、自分の頭の中で作り出した、自分は既に知っている諸々を再構成したもの。漫画でも、小説でも、彫刻とか絵画でも、いわゆる創作物は、もともと、作者の頭の中に入ってたものなんだよー」
「…………」
「作ることに熱中しているうちは、そんなことには気付かない。でもね、気持ちが切れて、冷静になって考えると、自分が生み出したものは、けして、自分自身にとっては目新しいものじゃないってことに気付いちゃう。それに気付くのが恐いうちは、ただひたすら描き続けちゃうのだ」
「で、でも、ものを作るってそれだけじゃないですよね? 頭の中のものをカタチにして、それで、感想とかもらえれば、それがモチベーションになるんじゃないですか?」
 俺は、即売会の日の芙美子の笑顔を思い出しながら、言った。
「そうだねー。それが、創作ってものの不毛さを、帳消しにしてくれるのは確かだと思うよ。でもね、それこそが罠なんだなー」
「……罠?」
「感想や賞賛が欲しくて創作をするって人はね、いつか感想や賞賛がもらえなくなるんじゃっていう不安を抱くようになるの。でね、感想や賞賛をもらうために、ひたすら描き続けるようになっちゃうんだ。新作を描けば、新しい感想はもらえるからね。芙美ちゃんが漫画をムキになって描き続ける理由の二番目は、これだろうねー」
「それが、いけないんですか?」
 俺は、我ながらやや堅い声でそう訊いた。
「いけなくはないのだー。人に読んでもらうために描くってのは、漫画の基本だもんね。でもね、人に褒められることだけをモチベーションにしてると、感想が途切れたり、批判的な感想をもらっちゃったりすると、ぱたっと描けなくなっちゃったりするんだよね」
「…………」
「芙美ちゃんはね、ちっちゃい子供のころから、褒められるのに弱かったんだ」
 紗絵子さんが、食事を続けながら、遠い目をする。
「次女で、両親を独占できた時期が無かったし、あたしが手のかかる子供だったせいで、放任気味だったこともあったしね。だから、ちょっと褒められると、すっごくやる気になっちゃうわけ」
 表向き、とてもそうは見えないんだが、とりあえず、俺は口を挟まないことにする。
「でね、うちのお父さん、厳しいけど、褒めどころを心得ててね。芙美ちゃんがきちんと勉強して今のガッコに受かったのも、そんなお父さんのお陰なんだと思うよ。そう言えば、お父さんにコーヒーを褒められて、やたら淹れ方にこだわりだしちゃったこともあったなー」
 懐かしそうに言いながら、紗絵子さんが、新たなハンバーガーにかぶりつく。それが四個目か五個目かなんてことは、今や、どうでもいいことだ。
「そういう子だから、自分を褒めてくれるお父さんに嫌われないように、その前で漫画を描いたりしない。ファッションセンスを褒められたことないから、服やお化粧にも気を使わない。んでもって、褒めてもらえてるうちは漫画を描き続ける。じゃあ、気持ちが切れて、漫画を描くのを中断しちゃって、感想が途絶えちゃった時、どうなっちゃうのか――」
 そこまで言って、紗絵子さんは、ぐい、と俺の方に顔を突き出した。
「芙美ちゃん、今、漫画描いてないねえ」
「――描いて、ないですね」
「何があったのかなー?」
 じっと、真正面から、紗絵子さんが俺の目を見つめる。
 芙美子によく似ているが、やはり違う、紗絵子さんの顔――
 俺は、軽く目を閉じ、一つ深呼吸をしてから、全てを話す決心を固めた。



「……というわけなんです」
 即売会の打ち上げの後、ラブホテルで狼藉を働きそうになり、その後、告白したことを、話し終える。
 紗絵子さんは、終始、真剣な表情で、俺の話を聞いてくれた。 
「俺……どうしたらいいんですかね」
 嘆息混じりに、そう言う。
「知らんですのだ」
 無責任、と評することすら耐えられないほどに軽い調子で、紗絵子さんは即答した。
「ちょ、知らないって」
「三次元の恋愛話に役立つ助言なんて持ち合わせてないのだー」
 そう言う紗絵子さんの表情は、普段と微塵も変わりがない。少なくとも、妹に不埒を働いた俺をとっちめようと考えているわけではなさそうだ。
「じゃ、じゃあ、どうして俺にここまで話をさせたんですか?」
「漫画のネタになるかもしれないと思ったの」
 あっけらかんと紗絵子さんが答え、そして、俺は絶句する。
「あたしにとっては、この世の全てが漫画のネタなの。あらゆる存在は受け攻めに二分されてカップリング妄想の対象になるし、あらゆる事象はエロシチュを思いつくためのキッカケになるんだよ。要するに、天上天下、森羅万象、有象無象、全部が全部、おハナシのコヤシ。それが、モノガタリに魂を売るってことなのだー」
 相変わらずふわふわした口調で、紗絵子さんがすごいことを宣言する。
 俺は、怒ったり呆れたりするよりも、何かうそ寒いような感覚にとらわれてしまった。
 物語に、魂を売る。創作行為の本質的不毛にも、他者の批評への依存にも耐える生き方。ただひたすら、現実を虚構の供物とすること。幻想至上主義。
 それを、紗絵子さんは、実践しているということだろうか。
 いや、それは、意識してそうしているとか、そういうことじゃなくて――持って生まれた“業”みたいなものかもしれない。
 そんな俺の考えを読み取ったかのように、紗絵子さんが、ニヒヒ、と笑う。
「こういう生き方はねぇ、ちょーっと覚悟がいるのだ。だからこそ、芙美ちゃんみたいなハンパ者は、描き続けていないとダメなんだよー」
「ダメって……」
「あー、ダメって言うより、パンピーな真人間に戻るチャンスって言った方がいいかな。つまり、すっぱり漫画を諦めて、ふつーに青春送るって選択肢が浮上してきたってこと。透くんにとっては、長い目で見て、その方がいいんじゃない?」
「…………」
 芙美子が、漫画を諦める?
 そんなことは、天地が引っ繰り返ってもあり得ないと思っていたんだが、目の前の芙美子のお姉さんは、充分に有り得ることだと言っている。
 実際、芙美子が、今、漫画を描いていないことは、事実なのだ。
 俺は――芙美子に、“普通の女の子”になることを求めているのか?
 そんなことはない、と思うんだが、芙美子と、あいつの漫画を読んでる人達との関係に、胸の奥を焦がされるような感情を抱いたことも事実だ。
 俺は、いったい――
 下がっていた視線を上げると、紗絵子さんが、幾つ目か分からない最後のハンバーガーをかじりながら、興味深そうな目で、俺を見ている。
 俺は、紗絵子さんみたいな人を好きになることはないだろうと、ふと、そんなことを考えてしまった。



 俺は、誰もいない自宅に戻り、長々と嘆息した。
 ――結局、紗絵子さんと話をしても、俺が抱いてる悩みを解決することについて、何の進展もなかった。
 そもそも、紗絵子さんとの会話は、相談ですらなかったわけだから、当然のことだ。
 この、俺の中のもやもやを晴らすためには、芙美子と直接話すしかない。それは、分かっている。
 だが、“ちょっと一人で考えたい”という芙美子の言葉が、俺を呪縛しているのだ。
 一人で考えている芙美子に下手に接触して、よくない結論を導き出してしまったら、という、不安。それが、俺を躊躇させている。
 一方で、話をする機を逃して、よくない結果に至ってしまうのではないかという、不安もある。
 相反する不安が胸郭の中で心臓を圧迫しているかのような感覚に、俺は、再び溜め息をついた。
 まさか、芙美子のことを想って、こんなふうに吐息をつく日が来ようとは、考えもしなかった。
 それだけ、俺にとっての芙美子は、身近で、そばにいるのが当然、といった存在だったわけだ。
 そして、その考えが誤りであったことを、かつて芙美子が漫画を描いていた折り畳み式の小さなテーブルを見ながら、思い知る。
 俺、こんなに芙美子のことが、好きだったのか。
 しかし――芙美子は、俺のことをどう思っているんだろう。
 幾多の男女を悩ませてきた、あまりに陳腐な疑問。それが、いざ自分のものとなると、こんなにも重く感じるようになるなんて――
「――ん?」
 ふと、テーブルの下にあるクリアケースが目に止まった。
 資料の本だの原稿用紙だのを運ぶための、固めのプラスチックで作られた、透明なケース。もちろん、芙美子の忘れ物だ。
 その中に、やや薄汚れた感じのノートが、入っている。
 正体不明の胸騒ぎに、呼吸が乱れた。
 芙美子は、漫画を描く前に、ノートに荒っぽい下書きを描いたりする。また、他に、練習用や落書き用に、幾つものノートを使っていた。まがりなりにもアシスタントの真似事をしていた以上、それくらいは知っている。
 だが、今、クリアケースの中に入っているそれは、そんな俺にとっても見覚えのないノートだった。
 そして、その使い込まれた様子からして、学校とかで使うための勉強用のノートでないことも確かだ。
 いったい、何のノートだ? と、疑問に思った時には、俺は、クリアケースを開けて、ノートを手に取っていた。
 人の書いたものを、その人の許可なしに見るべきではない、という基本的な道徳観念は、俺の頭の中からすっ飛んでしまっている。
 とにかく、芙美子が何を考えているのか、少しでも手掛かりになれば、という思いがあった。
 さらに言うなら、俺に関して何か書いてやしないか、という、あまりに虫の良い期待も――
「――――」
 無意識のうちに、生唾を飲み込む。
 そして、俺は、外見上は何の変哲も無いそのノートを、期待と不安に指をおののかせながら、開いた。
「え……?」
 俺は、絶句した。
 自分が目を見開いていることにすらしばらく気付かないまま、俺は、ページをめくった。
 そして、そのたびに、小さな驚きの声を上げてしまう。
 勘違い。思い違い。見間違い。そんな常識的な結論が、新たなページを開くたびに、打ち砕かれる。
 俺は、鉛筆書きのイラストの描かれたノートのページを半ばまで見てから、一番最初のページを、再び開いた。
 勘違いじゃない。思い違いなんかじゃない。見間違いなんてことは絶対に有り得ない。
 視覚情報と記憶情報がぴったりと重なり、彩色されていないはずのその絵の表面に、脳が自動的に色彩を再構成する。
 艶やかな金色の髪。翡翠のような緑の瞳。卵形の輪郭に、整った目鼻立ち。落ち着いた意匠の服装。すらりと伸びた四肢。右手に握られた、何やら抽象的な形の金属で飾られた杖。そして、豊かな胸の膨らみ。
 俺の、初めての、人。
「これは……」
 イレーヌさんだ。
 俺は、再び、ノートのページを繰った。
 こっちは、ニケ。隣に描いてあるのはミスラ。スウの顔もある。
 それだけではない。ゼルナさん。ランズマール。リルベリヒ。メレル改めレレム。真っ黒い人型のラフ画は、まだ見ぬルル・ガルドだろう。それどころか、竜馬や魔剣サタナエル、騎士や衛兵の鎧姿まで、描かれている。地図のように見えるのは、最近、はるか上空から目にした、王都の町並みだ。
 俺の夢の中に登場する人物。
 俺の夢の中に出現する風景。
 俺の夢の中に存在する世界。
 それが、この、年期もののノートのページに、写し取られている。
「あ……」
 誰かに、頭の中に直接手を突っ込まれ、ぐにゃりと脳の皮質を裏返しにさせられたような、錯覚。
 全身が麻痺したようになり、一方で、世界がとろけ始めたように、感じる。
 そんな中、視覚だけはますます鮮明で――
 そして、俺は、芙美子が残したそのノートを、最初のページからたんねんに読み返し始めたのだった。

 



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