出たとこロマンサー



第九章



 目を覚ますと、ベッドの中で、ミスラと抱き合ったままだった。
 昨夜のことを思い出しながら――かすかな違和感を感じる。
 えーっと、俺、こんなふうに毛布かぶってたっけ……?
 確か、そうじゃなかった。俺は、思い切りミスラの中に射精して、そのまま眠りに落ちたはずだ。その時、俺はこんなふうに毛布にくるまってなんかいなかった。
 ということは、俺が眠っちまった後で、誰かが俺とミスラの体に毛布をかけたというわけだ。
 俺は、目の前のミスラの寝顔を思わず見つめた。
 なんとなく、ミスラも俺とほぼ同時に眠ってしまったんだと考えていたんだが、違うのかもしれない。
 つまり、もしかすると俺が寝た後もまだミスラは起きていて、そんでもって――
「ん……」
 ミスラが、目を覚ました。
 オレンジ色の瞳が、至近距離で、俺の顔に視線を注いでいる。
「えっと……ミスラ、おはよう」
「うん、おはよう」
 そう言いながら、ミスラが、ぐい、とさらに顔を近づける。って、おい、どんだけ近眼なんだよ。
「…………」
「…………」
 俺は、ようやく合点がいき――すぐそばに迫っているミスラの唇に、ちゅ、とキスしてやった。
 満足したのか、頬を赤くしたミスラが、するりと毛布の下から抜け出る。
「あ……えーと、ミスラ、この毛布なんだけど」
「知らない」
 質問を完成させる前に、返事をされてしまった。って、そもそもそれじゃ何を知らないと言ってるのか分からないぞ。
 でもまあ……こうなると、あんまり詮索するのはよくないな。
 俺は、そんなふうに思いながら、ベッドの上で半身を起こした。見ると、ミスラは、もうすっかり服を着てしまっている。
「あのさ」
 くる、と俺に背中を見せていたミスラが、こっちを向く。頬は、赤く染まったままだ。
「えっと……僕、言葉遣い、変えた方がいいかな?」
「は?」
 俺は、思わず目を瞬かせた。
「だって、その……僕って、男みたいな口のきき方だし……変でしょ?」
「いや、その……」
「それから、女の子らしく、髪も伸ばして……あ、でも、僕って、癖っ毛で髪質も堅いから、とてもイレーヌ姉上みたいに女らしくは……」
「いや、ミスラ」
 俺は、何とも自信なさげに眉毛をハの字にしているミスラの言葉を、遮った。
「お前は、今のお前でいいって。充分以上にイケてるぞ」
「え――?」
 ミスラが、サイドボードに置きっぱになってたメガネをかけてから、俺の顔をまじまじと見つめる。
「僕、可愛い?」
「ああ」
「嘘」
 素直な気持ちで口にした俺の返事を、ミスラのやつ、即効で否定しやがった。
「嘘じゃないって。お前は、今のままが一番だと思う。だから、変なコンプレックス持つ必要ないって」
「だけど……だけど、僕、まだまだこれから綺麗になってみせるよ。母上や姉上には、今はかなわないけど……でも、いつかは……」
 なかなか負けず嫌いな口調で、ミスラが言う。なるほど、そういうことが言いたかったのか。
「だから――だから、トール、きっと帰ってきてよ」
「え?」
「きっとだよ」
 レンズの奥で、ミスラの不思議なオレンジ色の瞳が、燃えるような光を湛えている。
 俺は、その視線を真正面から受け止め――そして、こくりと、無言で頷いてやった。



 城を出発してからこの方、ニケは、ずっと不機嫌だった。
 こいつの性格からして、ついてきちまったもんはしゃーねえよなあ、とか言ってくれると思ったんだが……甘かったか。
 空は鉛色に曇り、空気は妙に生温かい。そんな中、四列になった、総勢二百騎ほどの騎士とその従者達が、戦場へと竜馬を進ませている。
 俺は、すっかり俺専用ということになっている緑色の竜馬を、ニケが跨がる赤い竜馬に寄せた。
 ちなみに、いつまでも名無しでは不便なので、俺は、この竜馬にサカモトという名前をつけていた。俺の故郷の国の英雄の名前だって言ったら、騎士の人たちに妙に感心されたっけ。
「おーい、ニケ」
 俺は、駆足で進む竜馬たちの蹄――じゃなくて鉤爪の音に負けないように、声を上げた。
 ニケが、その漆黒の瞳を、俺に向ける。
「あのさ、アンタ、昨夜は――」
 俺が言葉を続ける前に、ニケが、何かを言いかける。
「え?」
「いや、何でもない」
 珍しく煮え切らない口調で言って、ニケがそっぽを向いた。
「それより、アンタこそ何だよ」
「いや、何か作戦とかあるのかと思ってさ」
「中央突破して、大将首を取る。それだけさ」
 ニケが、そっけない口調で言う。確かに、以前にもニケが言っていたが、あのリルベリヒさえいなくなれば、あとのゴブリンたちは烏合の衆と化すだろう。そもそも、俺達の乗ってる竜馬からして、ゴブリンなんかより、よほどモンスターとしてのレベルは高そうだ。
 とは言え、あのリルベリヒを、そう簡単に討ち取れるかどうか――
 そんなことを考えていると、褐色の竜馬に乗った騎士が一人、こっちに近付いてきた。
「殿下、斥候からの報告です」
「アタシのことは団長と呼べ!」
 普段よりトゲのある口調で、ニケが、毎度のセリフを叫ぶ。
「それで?」
「はっ。ラデルーの村を占領していた黒騎士リルベリヒの率いるゴブリンどもが、今朝がたから、南のアラリスの町へと移動を始めた模様です」
「新たな獲物に手を出そうとしてるってわけか。舐めやがって!」
 ニケが、左の平手を、右の拳でばちーんと叩く。
「で、町の住人は?」
「ゴブリン進軍の噂を聞いて、避難したそうです。もともと、隣村が占領された時点で、疎開は始まっておりましたから」
「そっか……気の毒だな……」
「いかがいたしましょう?」
「……この先で進路を南西に変更! 可能なら、連中がアラリスの町を完全に占拠する前に追いつきたいが――どうだろうな?」
「厳しいですな。敵の方が遥かにアラリスに近いですから」
「無茶は承知だ。よし、みんな! こっから全速力だ! 目標はアラリス!」
 そう叫んで、ニケが、ぴしりと手綱を振るう。
 ニケの愛馬である赤い竜馬が、ぐっと体をたわめたかと思うと、大きく伸び上がって疾走を始めた。他の騎士も、それに続く。
 俺は、ニケに遅れまいと手綱でサカモトの首を叩き――サカモトは、迷惑そうに首を振ってから、凄まじい速度で走りだした。
 竜馬たちの鉤爪が、ガチャッ、ガチャッ、ガチャッ、ガチャッ――という、どこか金属質な音をたてる。
 俺は、そもそも乗馬をしたことさえないのだが、それでも、竜馬たちが、俺の知っている普通の馬よりもはるかに速く走ることができるのは、分かる。
 ダービー馬の全力疾走を、いつまでも続けられるような、脚力とタフネス。
 その能力を全開にして、騎士たちが、街道を駆ける。
 風を切る感触が、例えば自転車に乗っている時のそれなんかよりも、遥かに激しくなっていく。もしかすると、バイクに乗ったら、こんな感じなのかもしれない。
 俺は、他の騎士たちの見よう見まねで、竜馬の背中に体を伏せ、前方に顔を向けた。
 風景が、びゅんびゅんと後ろにすっ飛んでいく。落馬したらただでは済まない速度だ。しかも、俺ときたらノーヘルである。
 その代わり、鉄板を埋め込んだハチマキをしている。兜を被って防御力を上げるより、視界を広く取って攻撃を避けやすくしようという意図だ。イシュタルの剣はかすっただけでも致命傷になる。これでも、対リルベリヒ戦のことは真剣に考えているのである。
 途中、一度だけ休憩を取り、竜馬に街道脇の小川の水を飲ませ、昼食を取った。ミスラの作ってくれた弁当は、ものすごく美味かった。
 そして、再び出発。
 どどっ、どどっ、どどっ、どどっ……という、サカモトの走るリズムが、体全体に響く。
 それが、心臓の鼓動と重なり、胸郭の中で奇妙な焦燥感を演出した。
 俺は、いったい、どこへ向かっているのか――
 いや、分かってる。俺は、この先にいるはずのリルベリヒを倒すために、竜馬を走らせているんだ。そんなこと、分かってはいるんだが……しかし……
 それでも、やはり思ってしまう。この先で、何が自分を待ち受けているのか、ということを。
 いくら、俺の目的はリルベリヒ一人だと言っても、奴はゴブリンの軍勢を率いてるわけで、そいつと対峙するには、軍勢を乗り越えなくてはいけないわけで――
 ニケは、中央突破すると言った。そして、俺はそれに付いていかなくてはならない。つまり、早い話が、俺も戦争に参加しなくてはならないわけだ。
 えい――今さら何ビビってんんだ? もう、とっくに覚悟を決めたんじゃなかったのかよ!
 自分を叱咤しながら田園を抜け、森林を抜け――そして、日が大きく傾いた頃に、不意に、風景が広がった。
「あ――!」
 思わず、驚きの声を上げる。
 木々の茂みに囲まれた、学校の校庭ほどの、大きな岩がごろごろと転がる平原――その中央に、不吉な褐色の肌の集団がいた。ゴブリンたちだ。
「横陣展開!」
 鋭いニケの号令に応じ、騎士たちが、訓練された動きで、横一列に隊形を取る。
 ニケは、隊のほぼ中央。そして、俺は、その斜め後ろに竜馬を寄せた。
 ニケの燃えるような黒い瞳の先に、視線を向ける。
 ゴブリンの数は、十や二十ではきかない。数だけでいうと、こちらの倍近くはいるんじゃないか?
 平たい頭に、赤い目と、大きく裂けた口と、尖った耳。そいつらが、倒木をデタラメに組んだような感じの臨時の陣地の向こうから、威嚇的な声を上げている。そして、陣地の中央にある大岩には、ボス猿よろしく、やや大きめのゴブリンがへばりついていた。
「アラリスの町へは、まだ距離があるな」
「ここから、竜馬の足で約一時間といったところでしょう」
 ニケの質問に、年かさの騎士が答える。
「リルベリヒの姿は無い――ってことは、こいつら分隊か? 時間稼ぎか、それとも罠なのか――」
 茂みの中に伏兵がいないかと、ニケが、目を凝らしながら周囲に視線を巡らせる。
 俺は、ほとんど無意識のうちに、サタナエルの剣を背中から抜いた。
 ――いませんよ。
 唐突に、頭の中に、あのキザったらしい声が響いた。
 ――あの毒婦、すなわち、性悪女のイシュタルは、この付近にはいません。私が保証します。
 その、サタナエルの言葉を聞きながら、俺は、自分が何を期待してこの剣を手にしたのか、遅れて理解した。
「――ニケ、リルベリヒならここにはいないぞ」
「何だって?」
 ニケが、振り返りながら、胡散臭そうに眉をしかめる。うう、そんな顔するなよう。
「サタナエルの剣が言ってる。近くに、イシュタルの剣は感じないってな」
「分かるのか?」
「俺がじゃない。この魔剣がだ。けど、まあ、信用してやっていいと思うぜ」
 値踏みするような目で俺を見てから、ニケが、前方に視線を戻す。
 不恰好な柵の向こうから、ゴブリンたちが、こっちに石を投げつけている。普通に投げても届くような距離じゃないが、中には、幅広な革の帯みたいなのを使って遠くまで石を放ってるのがいた。あの道具、スリングって言ったっけか?
「ならば、待ち伏せは無しか……指揮者無しで、ゴブリンどもがあんまりシャレたマネするとは思えないしな……となると、逆に、こちらを疑心暗鬼にさせて足止めしようって腹か……?」
「どういたします? 団長」
 傍らの騎士の言葉に、ニケは、にやりと白い歯を見せて笑い、そして、抜刀した。
 騎士たちが、それに倣い、次々と剣を抜いていく。
 いよいよ始まる――
 俺は――深呼吸して、サタナエルの剣を改めて構えた。
 向こうの陣地の中央の、大きな岩の上に乗ったボスゴブリンが、ギィーッ! ギィーッ! と、叫んでいる。
 落ち着け、落ち着け、奴らは生き物の形をマネた土人形だ。首を切ったって、そのまま土くれに戻るだけさ。
 畜生。右手に握ったサタナエルの剣が、俺を嗤ってやがる。
「――突撃っ!」
 ニケの号令に、騎士達が雄叫びを上げ、竜馬を走らせる。
 俺は、右手に剣を構え、左手に手綱を握って、ニケに続いた。サタナエルの剣は、片手で振るうにはいささか重い。だが、それでも、同じ大きさの鉄の塊と比べれば、遥かに軽く扱い易い代物だ。
 どどどどど……っ! という、竜馬の足が大地を蹴る音が全身に響き、そして、俺の乗るサカモトが、柵の向こうのゴブリンの群に、ぐんぐん近付いていく。
 初陣。もはや、覚悟とか、そういうことを考える段階ですらない。とにかく出たとこ勝負。体が動くに任せるだけだ。
 ゴブリン達が、石とともに、手斧や手槍をこちらに投げ付けてきた。
 騎士達は、余裕のある動きでそれを避け、盾で弾き、あるいは剣で叩き落す。
 そして――先頭の騎士達が、柵を回り込み、あるいは飛び越えて、ゴブリンに肉薄した。
 ゴブリンが武器を振り回し、騎士が剣を振り下ろす。
 ばっ! と血煙が舞い――そして、それはすぐに土煙になった。
 ゴブリン達が、あちこちで首を刎ねられ、あるいは頭を叩き潰されて、土くれへと変わっていく。
 数ではゴブリンが勝ってるとはいえ、実力が違いすぎる。はっきり言って、圧倒的だ。
「右翼を軸にして、左翼前進! 敵を取り囲め!」
 ニケの命令を、周囲の騎士達が左右に伝える。
 俺には、全軍の動きなどまるで分からないが、ニケにはそれが見えているらしい。
 怒号と絶叫、そして、武器と武器がぶつかる金属音が、血と土の匂いのする戦場の空気を震わせる。
 と、何匹かのゴブリンが、数に物を言わせて前衛を突破し、こっちに向かってきた。
「ニケ!」
 俺は、反射的にサカモトに拍車をかけ、前に出た。
 ニケが、ゴブリンに気付き、剣を構える。
 ニケが剣を振るう前に、俺は、ゴブリンの肩口にサタナエルの剣を突き刺していた。
「ギああああああ!」
 断末魔の声を上げ、ゴブリンが倒れる。
 そいつが、土の塊に還るのを確認する間もなく、第二のゴブリンが、俺の左足に錆びた小剣を繰り出してきた。
「うわっ!」
 わずかな痛みが太腿に走る。いや、大丈夫。平気だ。かすめただけじゃないか。
 反撃しようとした時には、ニケが、そいつの背中を剣で切り裂いていた。
 さらに、第三のゴブリンを、サカモトが前足で踏み潰す。
 だが、俺やニケの周りには、まだゴブリンがいやがる。
「うおりゃあああっ!」
 俺は、我知らず声を上げながら、サタナエルの剣を振り回した。
 立て続けに二匹、ゴブリンを切り伏せる。
 断末魔の悲鳴を上げながら倒れるゴブリンに、同情や憐憫を抱く余裕などない。やらなければやられる。殺さなければ殺される。それが、戦争なのだと、肌で、体で実感する。
 通算四匹目を倒した後に、ようやく、攻撃が途絶えた。
「団長、ご無事で?」
 騎士の一人が、ニケに訊く。
「当たり前だ。トールは?」
「あ、ああ――こっちも大丈夫だ!」
 俺は、息を整えながら、ニケに返事をした。
 見ると、ゴブリンの本隊はもはや逃げ腰のようだ。こちらの前衛を突破するだけ勢いなどまるでない。赤黒い夕暮れの空の下、包囲を完成した騎士達が、ゴブリンたちを追い立てている。
 このまま勝つのか――?
 そんなふうに思った時、竜馬の異様ないななきが、戦場の空気を震わせた。
「何だ!?」
 潰走寸前のゴブリンの群れの中に、巨大な影が立っていた。
 岩だ。
 ゴブリンの陣地の中央にころがっていた岩が、あろうことか、二本の足で立ち、両腕を振り上げている。
「トロール!」
 ニケが、叫んだ。
 まず最初に愛嬌のあるカバみたいな姿が脳裏をかすめ、その次に、まだたぶん日本にいるはずの毛むくじゃらの変な生き物のことを思い出す。
 だが、そいつは、そんな可愛らしい代物じゃなかった。
 灰色のゴツゴツした体表に、不格好な太い四肢、ばかでかい口には、水晶の結晶を思わせる鋭い歯がずらりと並んでいる。
 あれが、この世界のトロールかよ。しかし、なんつう凶悪な顔だ。まるで岩を粗く削って作った鬼のようだ。
 けど、どうして今になってこいつは動き出したんだ?
 ふと、俺は、あるファンタジー小説の中に、トロールは太陽の光を嫌うという設定があることを思い出した。となると、奴が活動を始めたのは日が落ちたせいかもしれない。
 見ると、トロールの傍らには、ばかでかい木製の台車があった。奴は、おそらく、あれでここまで運ばれてきたのだろう。
 そして、ようやく日の光が弱まった今、動き出したのだ。
 雄叫びが、戦場に響く。ゴブリンを追撃していた騎士のうち一人が、トロールに攻撃を仕掛けたのだ。
 トロールが、傍らに転がっていた倒木を、ぶん、と無造作に振り回す。
「!」
 悲痛な竜馬の声が、ぼぐっ! という異様な音によって、途切れた。
 騎士が、首を折られた竜馬とともに、その場に崩れ落ちる。
 それでも立ち上がり、剣を構えたその騎士に、トロールは、再び倒木を振るった。
 まるで車にでも跳ねられたように、騎士が、声も上げずに吹っ飛ぶ。
 トロールは、喉を反らすようにして夕闇の空を仰ぎ、獣じみた咆哮を上げた。
 低い雲と地平線の間から差し込む夕日が、トロールの顔を血のように赤く照らしている。
「槍だ! 投げ槍を使え!」
 誰かの叫びに応え、騎士達が、剣から槍に武器を持ち替え、トロールを囲んだ。
 トロールが、棍棒代わりの倒木を振り回しながら、周囲の騎士を威嚇する。
 騎士達は、竜馬を巧みに操りながら、慎重に投げ槍を構えた。
「――今だっ!」
 ほぼ一斉に、槍が、トロールに投擲される。
 だが――騎士達が渾身の力で投げた槍は、ほとんどがトロールの岩のような体表に弾かれてしまった。
 痛みだけは感じたのか、怒りの声を上げて、トロールが倒木を振り回し、突進する。
 その先に――俺と、そしてニケがいた。
「殿下をお守りしろ!」
 騎士達が、トロールの歩みを止めようと、その前に立ちはだかる。
 トロールは、走りながら、狙いも定めずに倒木を振り回すだけだ。しかし、その一撃ごとに、騎士は竜馬ごと倒されてしまう。ゴブリン達までが、勢いを盛り返し、はしゃぐような声を上げて武器を振り回していた。
「く、くそっ!」
 目の前で次々と部下が倒れているのを見て頭に血が上ったのか、ニケが前に出ようとする。
「殿下、お待ちを!」
「うるさい! このまま奴に好き勝手させてたまるか!」
 ニケの声に反応するように、あと5メートルという距離にまで迫ったトロールが、名状し難い叫び声を上げる。
 俺は――まるで弾かれるように、サカモトをトロールに突っ込ませていた。
「うぉあああああああああああ!」
 口から迸る叫びは、悲鳴に近い。
 トロールが、俺に、その赤い目を向けた。
 でかい。何てでかさだ。サカモトに乗った俺と、目の高さが同じじゃねえか。
 トロールの右手には、一抱えはありそうな倒木。まともに当たれば確実に死ぬ。まともでなくても、当たれば、たぶん、死ぬ。
 しかし――
 ガッ!
 まるで岩でも叩いたような衝撃に、右手が痺れた。
 そして、同時に、何か大きなものがすさまじい勢いで自分をかすめた気配を、左半身全体で感じる。
 怒号と、歓声。怒号はトロールのもので、歓声は騎士達のものだろう。
 地面に、まるで岩の固まりのような左腕が落ちている。
 トロールの振り回す倒木を右にかわしつつ、左腕を肘のところで切り落とした――かわした動きの中には、あの、瞬間移動能力も入っていただろう。
 まるで、コールタールみたいな真っ黒い血を傷口から撒き散らしながら、トロールが叫び続ける。
 次の一撃を――と、トロールに向き直った時、俺は、度肝を抜かれた。
 トロールが、右手に持っていた倒木を、そのでかい顎でバリバリと貪り食い始めたのだ。
 瞬く間に倒木を喰い終えたトロールの傷口から、ボコボコと左腕が生え出てきた。
 再生しやがった――こんな短時間の間に――こんなムチャクチャな方法で。
「う――わぁああああああああああ!」
 さっきよりますます悲鳴に近くなった声を上げながら、再びトロールに切りかかる。
 今度は、とっさに頭を庇おうとする奴の右手を切り落とした。
 トロールが、さらなる怒りの声を上げながら、傍らで呆気に取られているゴブリンを、再生したばかりの左手で摘まみ上げ――がぶりと、頭からかぶりつく。
「ギギギギギギ!」
 ゴブリンは、数秒の間だけ悲鳴を上げ、バタバタと足を振り回していたが、すぐに、トロールに食い尽くされてしまった。
 そんなことをしている間に、トロールの右手が再生した。
 しかも、それだけでは足りないかというように、右の肩口から、ぼこりと第二の頭が生え出てくる。
「うわ……」
 目の前の光景に、頭がくらくらしてくる。
 こんなの、普通の生き物じゃない。猛獣とも違う。つまり、これこそ、本物の怪物――モンスターだ。
 体の奥から湧き上がる寒気に、胴が震えそうになる。
 と、右手の中で、サタナエルの剣が、もどかしげに身じろぎした。
「くっ……!」
 俺は、意を決してサカモトから飛び降り、剣を両手で構え直して、トロールと対峙した。
 トロールが、二つの口で、まるで壊れた大型機械みたいな不協和音を上げる。
 呼吸を整え、精神を集中した。
 騎士達も、ゴブリンも、向き合う俺とトロールを、遠巻きに見守っている。
 トロールが、まさに岩の塊といった感じの拳を振り上げ、突進してきた。
「サタナエル!」
 俺の叫びに応えるように――黒い刀身から、炎が迸る。
 俺は、そのまま、まっすぐにトロールに突っ込み、燃え盛る剣先をその鳩尾に突き刺した。
 ごわぁああああああああ! といった感じの声を上げながら、トロールが、俺の体につかみかかる。
 俺は、いったん剣を抜き、やつの右腕の下をくぐり抜けた。
 そして、明らかに動きの鈍くなったトロールの背後に回り込み、その左脇腹に、サタナエルの剣をフルスイングする。
 刃が、深々と、トロールの胴体に食い込んだ。
「燃えろおおおおおおおおおおおおおお!」
 呪文でも何でもない。とにかく、ありったけの意志と感情を声に込める。
 サタナエルの剣から吹き出す炎がさらに激しさを増し、トロールの体を内と外から包み込んだ。
 炎による傷は、再生しない。古代の神話から現代のゲームに至るまで共通するルール。それに、望みを賭ける。
 ごおおおおおおお……っ! と叫ぶトロールの口から、炎が溢れ出る。
 逃げ出したい――本当は逃げ出したいんだが、その気持ちを無理やり無視して、剣に、力と念を込め続ける。
 ぶんぶんとデタラメに振り回されるトロールの腕は、背後にいる俺には届かない。
 傷口から漏れ出る黒い血は、ブクブクと泡立って蒸発し、そして、次第に、トロールの体そのものが黒く焼け焦げていく。
 どれだけの時間が経ったのか――それとも、実際はほんの数瞬だったのか――トロールの体が、真ん中辺りでぼろりと崩れ、大量の灰を撒き散らしながら、倒れた。
 おおおおおおおおぉ……ッ! と、騎士が、歓喜の雄叫びを上げる。
 我に返ると、残りのゴブリン達が、武器を投げ捨てて今度こそ潰走を初めていた。
「西の包囲を解きつつ、追撃! この勢いで黒騎士の本陣を攻めるぞ!」
 ニケが、そう命令を下してから、俺に近づく。
「やったな、トール! オマエ、やっぱり大した奴だよ!」
 白い歯を見せて笑いながら、ニケは、ぱーんと俺の頭をひっぱたいた。
 何か言い返したいのだが、舌がもつれて、うまく話せない。
 黄昏の平原では、かつてゴブリンだった土くれがあたりに散らばり、そして、目の前では、さっきまでトロールだった岩の固まりが、じくじくと黒い液体を滲ませながら、炎に包まれて灰になっている。
 そんな有り様だけど――こいつは、やっぱり、死体だ。死体なんだ。
 もはや炎に包まれていない黒い剣を握る手が、かすかに震えている。
「おい、顔色悪いぞ。トロールにどっかやられたのか?」
「……大丈夫だ」
 俺は、吐息混じりに、ようやくそう答えた。
「大丈夫だ。慣れる。人間は、慣れる生き物だから」
「はぁ?」
「慣れるけど――忘れないようにするよ。今起こったことも、この気持ちもな」
「はぁ……」
「ゴブリンやトロールが、もともと土や石だから、殺しても平気だってのは……嘘だ。俺は平気じゃない。だから、こんなんじゃ、人殺しになんてとてもなれない……。それが、分かった。だから、それで、余計に覚悟が決まったぜ」
「…………」
 ニケのやつ、ワケワカラン、って顔してるな。いや、俺だって、自分が何を言ってるのか、はっきりとは分からねーや。
 だけど――自分が生きるために、生あるものを殺した。そのことは、忘れちゃいけないと思う。
 その上で、この、ゴブリンやトロールどもを率いていたあの男と、対決しなくては。
 見ると、騎士達が、隊列を整えながら、西へと竜馬を走らせている。
 手の震えはいつの間にか治まり――そして、サタナエルの剣も、まるでただの剣のように、妙に静かに夕日の残照を反射させていた。
 風が、強くなっている。
 俺は、一つ息をついてから、剣を背中の鞘に収めた。そして、どうかしたのか? とでも言いたげな様子で近づいてきたサカモトの背中に、よっこらせと飛び乗る。
「さあ、行こうぜ。それから、リルベリヒは、俺が相手をするからな」
「あ、ああ……」
 ニケが、俺の顔を、まるで初めて見るかのような目つきで、じっと見つめている。
「何だよ、ヘンな顔して」
「いやその……トール、お前、見かけよりずっと複雑なんだな」
「今更のように言うなよ。まあ、それが、現代日本人のメンタリティーってやつさ」
 俺は、そう言ってから、ニケの返事を待たずに、サカモトを走らせ始めた。



 いつしか西風が雲を吹き飛ばし、丸い月が、東の空から宵闇の底を照らしていた。
 向かい風に逆らいながら、俺達は、竜馬を走らせている。
 逃げ遅れたゴブリン達は全て騎士達に屠られ、そして、逃げ果せたゴブリンのうちの半分は、散り散りになって森の奥へと消え去ってしまっている。
 そして、さらに残りの半分が逃げ込んだであろう、黒騎士リルベリヒ率いる本隊に向かって、騎士達は、竜馬を駆けさせていた。
 ニケへの報告を盗み聞きしたところ、こちらの損害は、重傷者7名、軽傷者12名。死者は無し。今、軽傷者が、重傷者をかばいつつ、撤退しているはずだ。戦力としては、約1割が減じたのみという状態である。
「分隊との戦いで、かなり時間を使っちまった」
 ニケが、竜馬にムチをくれながら、傍らの俺に言った。
「今頃、奴ら、町の中に潜んでるはずだ。ちょっとしくじったな」
 ゴブリンは歩兵、こっちは騎兵だ。敵は、こちらの機動力や突進力を殺ごうとするだろうから、ニケの読みは当然と言える。
 しかし――
「――着いたぞ」
 月明かりの下、前方に、柵と小さな堀で囲まれた町が見えてきた。二階建ての家が、舗装されてない道の両脇に並んでいる。
 町全体が、まるで、ぼおっとしたオレンジ色の光りに包まれているように見える。どうやら、真ん中の広場で篝火が燃やされているらしい。
 かすかに、大勢の気配を感じる。町の真ん中にゴブリンがいるのは間違いないだろう。
「いくぞ!」
 ニケの号令に鬨の声を上げ、騎士達が、町の入り口へと突進した。もちろん、それに続く。
 やや湾曲した大通りを抜け、中央の開けた場所へと竜馬を進ませる。
 全ての大通りが集まる、町の中央広場。おそらく、住民たちの憩いの場であったろうその場所に、乱雑に積み材木が積み上げられ、轟々と音をたてて燃え盛っている。
 そして、その炎を囲むようにして、革の鎧と様々な武器で武装したゴブリン達が、いた。
 ゴブリン達が、現れ出た俺達を目にして、ギイギイとけたたましい声を上げる。
「蹴散らせっ!」
 ニケの振るう剣が、炎の明かりを反射する。
 騎士達は、竜馬に拍車をかけ、ゴブリンに襲いかかった。
 まともにぶつかったら、ゴブリンは騎士の敵ではない。断末魔の叫びがあちこちで上がり、地面に倒れたゴブリン達が、次々と土くれへと還っていく。
 数分と経たず、ゴブリン達は無統制に逃げ出し始めた。
 ――おかしい。
「おい、ニケ!」
 俺は、考えをまとめる間も惜しんで、ニケに叫んだ。
「変だぞ。あんまり呆気無さ過ぎる! こいつは絶対に――」
 罠だ、と言おうとした瞬間、ごうっ! という激しい音が、俺の背中を叩いた。
 見ると、俺達が入ってきた町の入り口で、民家が炎を上げている。
 それも、一軒だけじゃなかった。大通りに面した家が、次々と火の手を上げだしたのだ。
 この世界に火薬があるのかどうかは知らないが、たぶん、それに近い何かが仕掛けられていたのに違いない。
 見る見るうちに、町は、炎に包まれていった。油でも撒いてあったのか、火の回りが異様に早い。
 と、今までただ逃げ惑うだけだったゴブリンたちが、篝火や、燃え盛る民家の中に、何やら草の束のようなものを投げ込んだ。
 凄まじい刺激臭とともに、黄色みがかった灰色の煙が、広場に充満する。
「くっ、こ、こいつは……!」
 ニケの言葉を、狂おしい声が遮った。
 竜馬たちの様子がおかしい。頭を振り、竿立ちになり、騎士達の制御を受け付けなくなっている。サカモトも、口から泡を吹きださんばかりの暴れっぷりだ。
「ええいっ――コマバシリの草だ! 畜生っ! 落ち着け!」
「ギぃーっ!」
 必死になって愛馬の恐慌を抑えようとするニケに、ゴブリンのうち一匹が、手斧を投げ付ける。
「うおおおっ!」
 俺は、サカモトの背中から飛び降り様に、サタナエルの剣で手斧を叩き落としていた。もちろん、こんな芸当、瞬間移動を使ったインチキなしにはできやしない。
 何匹かのゴブリンが、錆びの浮いた武器を振り回しながら、俺に迫る。
 俺が倒れれば、次はニケが危ない――そう考えていたときには、サタナエルの剣を両手で構え、大きく振っていた。
 にやけた笑みを浮かべたゴブリンの頭が、漆黒の刃によって胴体と分断され、地面を転がるうちに土の塊となる。
「うおりゃあああ!」
 慣れるとか慣れないとか、そういうレベルじゃない。
 俺は、まるで熱に浮かされたように思考を散り散りにしながら剣を振るった。
 飛び散った血は泥となり、汗に濡れた肌と髪にへばりついていく。
 そして、ようやく、ゴブリンの攻撃は一段落した。
「トール、すまない!」
 どうにか竜馬を落ち着かせたニケが、俺に言う。
「礼はいいから! それより、早くここから――」
「分かってる! 全軍撤収! 撤収ッ!」
 左右の伝令にそう命じてから、ニケが、まだ火の回りきっていない通りに、竜馬を向かわせる。騎士達が、どうにか竜馬を操り、それに続いた。
 もちろん、ゴブリン達はこの好機を逃したりはしない。嵩にかかったような声を上げながら、武器を振り上げて騎士に追いすがる。
 俺は、さらに何匹かのゴブリンを切り伏せながら、そこらをぐるぐる駆け回ってるサカモトに、何とか飛び乗った。
 そして、先行する騎士を追い抜き、ニケと馬を並べる。
「――ニケ! これも罠だぞ!」
 唯一、火勢の弱い大通りを走り抜けながら、ニケに叫ぶ。
「分かってる! 分かってるけど、このままじゃ――」
 悔しげに言うニケの、ススに汚れた顔は――今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「俺に任せろ!」
 うわ。まさか、こんなセリフを口にする日が来ようとは。
 心の片隅で場違いな感慨に浸りながら、俺は、ニケよりもさらに一馬身、サカモトを進ませた。
 いつものどこか皮肉げな態度が嘘のように、サカモトが大通りを疾駆する。
 両側の民家は窓から炎を吹き出し、背後では、騎士と、竜馬と、そしてゴブリンの声が響いていた。
 前方に、俺達が進入したのとは反対側の、町の出入り口が見えてくる。
 賭けてもいい。あの先に、リルベリヒの野郎が率いる伏兵がいるはずだ。
 それでも、俺達は、半ば狂った竜馬に運ばれるまま、あそこから飛び出さなくてはならない。
 背後に、竜馬を狂わせる煙とゴブリン。両脇に炎。そして、前方の闇の中には、黒騎士リルベリヒ率いる本隊。
 勝算は――ある。
 あるにはあるが、それがどれくらいなのかは、見当もつかない。もしかすると、俺は、マヌケにもニケとその部下達を全滅へと導きつつあるのかもしれない。
 それでも、突破口は前にしかない。
 だから、例によって出たとこ勝負。
「――頼むぜ、相棒」
 俺は、我ながら芝居めいたセリフだと思いながらも、サタナエルの剣を、きつく握り締めた。
 



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