出たとこロマンサー



第七章



 状況を整理しよう。
 俺のいる場所は、王宮と市街を隔てる城壁の上だ。城壁の幅は2メートルくらいあって、両脇には胸ぐらいの高さの石の塀がある。とは言え、無茶して暴れれば塀を乗り越えて下へと落下するかもしれず、そんなことになったら命にかかわる。そして、城壁は宮殿の建物そのものに接続しているため、ここを突破されると国家の中枢――具体的に言うなら女王であるゼルナさんまで危うくなる。
 俺の足元には、この王国のお姫様が二人ほど倒れている。第二王女のニケと、第三王女のミスラだ。ニケには普段からいろいろと世話になっており、個人的には性別を超えた友情を感じている。一方、ミスラとは、つい先程に急接近し、肉体関係まで結んでしまった仲だ。俺が守るべき対象であることは疑いようがなく、しかもニケは失神し、ミスラは、そんな姉に悲痛な声で呼びかけを繰り返してる。あと、ついでと言っては何だが、この国の騎士団の皆さんもあちこちに転がっている。
 俺の両手にはサタナエルの剣が握られている。両手持ちの剣のくせにやたらと軽く、それでいながら、謎の文字の刻まれた漆黒の刀身は、鋭い切れ味を秘めた刃物特有の、凄みというか迫力というか、そういうものがある。しかも、この剣は、火を吹き出したこともあった。俺には過ぎたマジックアイテムである。
 俺には、瞬間移動の能力があるらしい。その発動条件は今もってよく分からないが、必要と思われる時にきちんと発揮されていることは確かだ。ランズマールの触手に捕らわれた時。ミスラの所有する魔法の椅子に戒められた時。そして、ついさっき、塔からここへと移動した時。いずれもそうである。
 俺の目の前には敵がいる。黒騎士リルベリヒといって、この王国をおびやかす熾皇帝ロギの配下で、四天王と呼ばれる実力者の一人だ。身長2メートルはあろうかという巨漢で、その肢体は逞しく、精悍な顔は鼻筋がすーっと通っていて、ある種の理想の男を体現したような人物である。しかも、こんにゃろは、俺が持っている魔剣と同じような禍々しい大剣を、片手で悠々と構えていた。
 さて、ここまでお膳立てを整えられていながら――俺は、行き当たりばったりでこの場に臨んでいる。
 自分は、目の前の男と戦わなくてはならない。この、両手に構えた剣でもって、だ。そして、そのための稽古を、俺は、ニケに散々してもらっている。
 だというのに、俺と来たら、自分の覚悟が決まってるのかどうかさえも曖昧だ。
 そもそも、どんな覚悟を決めればいいのか。
 それでも、とにかく、出たとこ勝負で行くしかない――とかなりテンパってる俺を前にして、リルベリヒは、ゆっくりと、剣を構えた。
 サタナエルの剣と同じような、真っ黒な剣。細かなデザインは違うが、何と言うか、コンセプトは同じだ。
 とにかく、まともな剣じゃない。
「ゆくぞ、少年」
 そう言って、リルベリヒが、右手一本で剣を高々と掲げ――ぶん、と振り下ろした。
「うわあっ!」
 まさか届くと思わなかった距離から、剣先が、弧を描いて俺の頭部を狙う。
 一瞬後――まだ、俺の意識はしっかりしていた。つまり、生きてる。
 自分が、どうやってその一撃をかわしたのか、まるきり分からなかったが、とにかく、まだ俺の頭は無事だったのだ。
「ふんっ!」
 二撃目は、俺から見て左下から。
 そして、三撃目は、また真上から。
 俺は、いつの間にか始まっていた戦闘に、アドレナリンをだばだば溢れさせながら、とにかく、攻撃を避け続けた。
 奇跡のように、リルベリヒの剣は、俺の体に触れないでいる。
「やるな!」
 勝手に感心しながら、リルベリヒが、剣の回転速度を上げていく。
 やばい、やばい、やばい、やばい――!
 自分の体すれすれのところを高速で重い刀身が通過する。かすめただけで、髪の毛や皮膚の一部を持っていかれそうだ。
 一撃、一撃が、俺をずんずん追い詰めていく。
 城壁の、ちょうど角になったところ。要するにコーナー脇。そこに、俺は追い込まれた。
「とうっ!」
 斜め上からの、袈裟懸けの一撃――
 ギイン!
 俺は、リルベリヒの剣を、両手に構えた剣で、受け止めていた。飛び散る火花が、俺の網膜を灼く。
「少年、許せよ」
 リルベリヒが奇妙なことを言った瞬間――ぶわっ、と奴の剣が、黄色い粘液質の光を放った。
「え――?」
 コンマ数秒後、新たな光が、一瞬、俺の目を眩ませる。
 まるで、捕食活動を行う原生生物のように俺に迫るその金色のオーラを――サタナエルの剣から迸った炎が阻んだのだ。
「むっ……!」
 リルベリヒが、剣を引いて後退する。
 リルベリヒの剣は病的な黄金色の光をまとったままで、そして、俺のサタナエルの剣も、炎に包まれたままだ。
「アスタロト――いや、イシュタルの剣!」
 リルベリヒの後方で、ニケの介抱をしていたミスラが、声を上げた。
「気を付けて、トール! そいつが放ってるのは、毒の光だよ――!」
 毒の光――触れたらどうにかなっちまうってことか?
 しかし、気を付けろと言われても、何にどうやって注意すればいいのか――
 そんなことを思い悩む暇すら与えるつもりが無いのか、リルベリヒは、構え直した自らの剣――ミスラ言うところのイシュタルの剣を、大上段から俺の頭蓋目掛けて振り下ろす。
「うわっ!」
 俺は――自分でも信じられないような動き方で、その剣を避けた。
 リルベリヒの左脇を通り抜け、その背後に回りこんだのだ。
 左右も背後も塞がれている以上、そこしか道は無かったわけだが、どうしてリルベリヒの巨体にぶつからずに済んだかは、ちょっと不思議である。
 いや、そうではなくて、もしかすると俺は――
「ぬうっ!」
 ぶうん! と、イシュタルの剣が大きな円を描いて、背後にいる俺の首を薙ごうとする。
「うわ――」
 その一方――俺は、リルベリヒの方に向き直ろうとして失敗し、無様にも足をもつれさせていた。
 濁った金色の光に包まれた剣が、迫る。
 しかし、体勢を大きく崩していた俺は、その崩れた姿勢のまま、さらに後方――リルベリヒの間合いの外に逃れていた。
 大きく息をつきながら、何とか、剣を構えなおす。
「少年――貴様、魔術師か?」
 リルベリヒが、俺を見つめる鉄色の目を、すっと細める。
 そう、確かに、今の移動は、足によるものじゃない。後ろ向きに走ったわけでも、まして、跳躍したわけでもない。
 俺は、また、あの力――瞬間移動能力を発揮していたのだ。
 いや、今だけじゃない。リルベリヒと立ち会った最初から――もしかしたら、ニケと剣の練習をしていたその時ですら――俺は、ショートレンジの瞬間移動を繰り返していたのかもしれない。
「厄介な術だな。しかし、逃げるだけでは私に勝てぬぞ」
 リルベリヒが、黒い大剣を片手で構えたまま、じりじりと俺に迫る。
 悔しいが、奴の言うとおりだ。こんなことを繰り返していても、リルベリヒを倒すことはできない。
 それでも、こうやって時間を稼いでいるうちに、どこからか援軍が――
 って、俺は馬鹿か! 足元に転がってるのは、この国で最強といわれた騎士団の人たちなんだぞ!
 いや、それでも、俺がこうやって持ちこたえている間に、弓兵の人たちか何かが、やつを矢ぶすまにしてくれれば、それで――
「とぉおおうッ!」
 鋭い気合とともに、リルベリヒが俺に向かって大きく踏み込んだ。
 俺は、バックステップとともに瞬間移動も駆使して、大きく後方に下がる。
 そんな俺に、剣から迸った無数の光線が、毒蛇のように襲い掛かった。
「う――わぁああああああああああ!」
 恐怖の悲鳴。理屈ではなく本能で、この光に触れるとそれだけで自分が倒れてしまうことを、確信する。
 いや、倒れるとかそういう曖昧な言葉で誤魔化すんじゃなくて――だから、要するに、まさに致命的な結果に――
 つまり、死ぬ。
 瞬間、無意識のうちに目の前に突き出したサタナエルの剣から、放射状に炎が広がった。
 まるで、紅蓮の炎で作られた巨大な車輪の車軸。それが、盾となって、イシュタルの剣の毒光線を阻む。
 死なずに済んだ――そんな安心感が、俺の緊張をかすかに緩ませる。
 だが――真の致命的一撃は、毒の光の次に来た。
「りゃあぁああああああああああああああああああああああ!」
 先程とは比べ物にならない、まさに必殺の突き――それが、金色の光に一瞬遅れて、俺に迫る。
 あれほど軽がると振れたサタナエルの剣が、まるで、毒の光を遮断することに全能力を傾けているかのように、動かない。
 まっすぐ喉を狙うリルベリヒの剣先に、否応も無く、絶対の死を意識する。
 それが――ありうべからざることに、大きく横に逸れた。
「うわぁあああああ!」
 喉から迸る悲鳴。首筋を滑る、鋭い刃物の感触。傷は、熱く、冷たく、そして、目が眩むほどに痛い。
 激痛に全身の力を萎えさせながら、その場に不恰好な尻餅をつく。
 だが、イシュタルの剣は、俺を追撃したりはしなかった。
「み――見事だ――王女よ」
 リルベリヒが、右手で剣を握ったまま、左手で顔を押さえている。
 その、左目があるはずの場所から、小さな短剣の柄が、突き出ていた。
 かつてないほどの痛みすら忘れ、リルベリヒの、残った右目の視線の先を見る。
 そこでは、ミスラに上半身を支えられたニケが、短剣を投擲した姿勢のまま、肩で息をしていた。
「くく……ふふふふふ……」
 リルベリヒが、喜悦に唇を歪めている。
 な――何だ――こいつ、片目を潰されて、血まみれの顔で――何でそんなふうに笑ってるんだ?
「私の左目――しかし、けして惜しくはないぞ。我が妻となるべき女性を見出した代償なのだからな」
 リルベリヒが、姿勢を正し、右目だけでしっかりとニケの顔を見つめている。
「アイアケス王国第二王女ニケよ。私はお前に求婚する」
「ばッ……馬鹿かお前ッ!」
 叫んだのは、俺ではなく、ミスラだった。
 俺はと言うと――もう、全身が痺れてしまって、声を出すどころか、呼吸すらままならなくなっている。
 毒だ。イシュタルの剣の毒。それが、俺の体を侵している。
「返事は必要ない。お前の意思がどうあれ、いずれ、私はお前を妻とする」
 そう言いながら、リルベリヒが、毒々しい金色に輝く黒い剣を、頭上に掲げる。
 こいつは、幻覚か……? 奴の足元から……ばかでかい金色の牛が……真っ青に光る角が、妙にサイケデリックで……しかも、羽根まで生えてるじゃねーか。
 リルベリヒは、左目に突き刺さった短剣を引き抜き、そして、その有翼の牛に悠々と跨った。
 そうか、つまり、あいつは、あの牛に乗って、単身この城壁に現れたわけか。
「今日のところは、持参金の代わりに、この短剣だけ受け取っておこう。左目の傷が癒えた時、ニケよ、お前を貰い受けるぞ」
 リルベリヒの自分勝手な宣言が、わんわんわんわん……と俺の頭の中で反響する。
 ばさあっ、と、牛が、その背中の巨大な翼を、一振りした。
 そして、リルベリヒの乗った金色の牛が、城壁から、空へと飛び立つ。
 その頃には、俺は、全身から大量の汗を噴き出しながら――意識を失ってしまっていた。



 その朝は、全身、汗だくになりながら、目が覚めた。
 初夏とは言え、まだそんなに朝から暑いってわけでもない、これは、完全に夢見のせいだと思う。
 つまり、俺は悪夢を見ていたというわけなのだが、わざわざその内容を思い出してイヤな気持ちをリピートするのも業腹だ。
 そういうわけで……俺は、その日、冴えない気分のまま、一日を過ごした。



 夢見の悪い日々が、続く。
 混沌とした意識の中、思考は混線し、感覚は混乱したまま。
 ぐるぐるぐるぐると溶け崩れた風景が視界の中で回転し、ここがどこで今がいつなのか見当もつかない。
 夢と現実の境目が曖昧で、そしてそれは、生と死の境界すら不明瞭だというのと同意義ということで。
 生きているやら、死んでいるやら――生まれる前とか、死んだ後とかは、こんな感じに違いない。
 そんな中、やけにはっきりと焦点を結ぶ像があると思いきや――それは、あまり会いたくない顔だった。
「だいぶ、してやられましたね」
 逆さまのハンサム面。自称、魔剣サタナエルの精霊にして、イレーヌさんの“元”恋人オルニウスの魂。こんな時だけど、“元”ってとこは強調させてもらうぞ。
「さて……あえて辛辣な言い方をさせていただくなら、手も足も出なかった、といったとこでしょうか?」
 ――うるせえ。攻撃はお前の専門だろうが。俺にできるのは避けるだけだ。
「確かに、あなたの回避能力は、目を見張る物があります。私の歴代の所有者の中でも五本の指に入りますよ」
 俺の、声になる前の毒づきに、サタナエルが涼しい顔で答える。
 ――だったら、あとはお前が炎を吹き出すなり何なりでカタをつければいいじゃねえか。
「そういうわけにはいきませんよ。まず、あの黒騎士は、私とほぼ同等の魔剣を所有しています。サタナエルとイシュタル、もしくはベリアルとアスタロト。個々の次元世界における実力は単純には比較できませんが、悪魔学的解釈の中には、あちらの方が格上であるとはっきり主張するものもあるのです。いや、それよりも――」
 ――うわ、顔を近づけるな。あと、わけ分かんないこと言って煙に巻くんじゃねえ。
「私は、魔ではあるが、その前に剣に過ぎない。剣とは、すなわち道具です」
 ――道具のわりにペチャクチャ喋るってのはどうなんだよ。
「あなたの国には、こういう諺があるでしょう? 馬鹿と鋏は使いよう、と――愚者とされるよりは鋏に喩えられる方が同じ刃物である分だけ心穏やかでいられますが、ともかく、私は、使い手であるあなたの心身の延長でしかない」
 ――あのな、少しは分かりやすく言えっての!
「要するに――あなた、人を殺す覚悟ができてますか?」
 こいつ……笑った。一瞬だけど、ニヤリと、まるで悪魔みたいに口を三日月型にして……。
 あ、いや、こいつは……魔剣、つまり、悪魔の剣だったっけな。
「あなたの覚悟の量が、私の働きを決めるのです。なるほど、確かに私は攻撃に関してまだまだ露わになっていない力がある。しかし、それを引き出すためには、あなたの相応の覚悟――言い換えるなら意志の力が必要なのですよ」
 ――つまり、相手を殺すつもりで剣を振るえ、ってことか?
「はい」
 あっさりと、サタナエルのやつが返事をする。
「剣とは、そのための道具です。斧は木を切るために、鎌は草を刈るために、弓や槍は獣を狩るために発明されました。ただ、剣のみが、人を殺すことを目的に作られた道具なのです。そのことを、お忘れなきようお願いします」
 俺は――返事ができない。
 夢の中だろうが異世界の中だろうが、俺は俺であり、そして、俺は、これまで人を殺すなんてことを考えることなく生きてきた。
 なのに――
「あなたは、殺されかけたんですよ。そして、今も死にかけている。もし、次があるとしても、その時は、かなりの高確率で、殺さなければ、殺されます」
 サタナエルが、真面目くさった顔で、そんなことを言ってくる。
 俺は、意地になったように何も答えず――そして、次第に、俺の意識そのものが、混濁していった。



 ……ここのところ、毎日、正体不明のモヤモヤが、胸の中にわだかまっている。
 その日の放課後、そんなモヤモヤを晴らすために漫画でも読もうと印刷室に赴いたところ、先客がいた。
 先客はメガネをかけた神経質そうな顔の男子生徒で、印刷室のドアを背にして仁王立ちになっている芙美子と睨み合っている。何だか尋常な雰囲気じゃない。
「何度も言うけど」
 芙美子が、頭一つ分は身長の高いその男子生徒に、キツい声で言った。
「あたしは、一度だってあんたら生徒会が印刷室を使うのを邪魔したことはないし、これからだって邪魔するつもりはないわ。なのに、一方的に立ち退けってのは聞けないわね」
「だからさっきから説明してるだろう」
 男子生徒が、苛立ちに声が大きくなりそうになるのをぐっと堪えている、といった感じで、セリフを続ける。
「邪魔してるしてないの問題じゃない。この時期に、まだ名簿が出ていない漫画研究会を、正式な部活として認めることはできない」
 ――何とまあ。
 いつかはそういうことになるんじゃないかと思っていたイベントが、目の前で展開されてやがる。
 どっかで見覚えあると思ってたけど、あの男子生徒、生徒会長だ。それも、学校内で評判――というより名物になるほどの堅物。去年の予算委員会で文科系部長の何人かをマジ泣きさせて、しかも眉一つ動かさなかったなんて逸話がある。ホントかウソかは知らんけど。
 で、その会長サンも3年生。そろそろ引退して受験に専念する頃合いだ。そういうわけで、次の生徒会選挙までに、積み残しの懸案を片付けちゃおうってことなんだろう。まったく、頭の下がるこった。
「そもそも、名簿の提出期限はとっくに過ぎてるんだ。なのに、これまでこっちが何もアクションをしなかったからっといって、印刷室の使用許可を既得権限みたいに主張されても困る」
「名簿名簿って何よ! あんた官僚? 書類だけで物事を動かそーとすんなっ!」
 芙美子が激高の上で絶叫する。あのな、そりゃ逆切れってもんだ。
 こう言っちゃ何だが、部活の体裁を整えていない団体に、学校の施設を使用させるな、という理屈は、正しい。そういうルールを守るからこそ、漫画研究会だの、オカルト同好会だの、テーブルトーク・ロールプレイング・ゲーム・サークルだの、そういう趣味的部活も存続が許されているんだ。だから、そのルールを守れという会長は、正義だ。
 そして、俺は、こう見えてもどちらかというとやや正義の味方よりである。
「あー、もしもし」
「何よ! 今取り込み中っ!」
 芙美子が、がー! と俺に牙を剥く。
「その取り込んでる件で話がある。つーか、悪い。漫研の名簿、あれ、俺が預かりっぱなしだったわ」
「ほあっ?」
 芙美子が、マヌケな声をあげながら、メガネの奥の目を見開く。うん、この表情もなかなか――じゃなくて。
「すんませんね。今、ひとっ走りして取ってきますんで、そこらで待っててくれませんか?」
「ここで待とう」
 会長が、腕組みなんかしながら、言う。どうも、俺の言葉をその場しのぎか何かと思ってるらしい。
 まあ、そう来ると思ったけどさ。こいつは、心肺機能を酷使しなくちゃならない予感がする。
「じゃあ、ちょっと時間をください」
「ちょ、ちょっと、透――!」
 俺は、呼びかける芙美子にウィンク――はやりすぎだと思ったので、小さく片手だけ上げて、急ぎ足でその場を後にした。
 廊下の角を曲がってから、一気にダッシュ。
 さて、まずは――柳か葛城だな。あいつら、どこにいるやら――



「枕井透、葛城知巳、時任覚、柳直太……」
「そっ、それとっ、わ、若葉、芙美子、で、ご、5人、でしょ……」
 ぜはっ、ぜはっ、ぜはっ……と、苦しい息をつきながら、何とか声を言葉にする。
「顧問は……烏丸先生か」
 生真面目な生徒会長は、名簿に書かれた署名を、胡乱げな目で見た。ったく、疑り深いぜ。きちんと全部、筆跡が違うだろーに。
「後で、それぞれ本人たちに確認する。本来ならそんなことはしないんだが、名簿提出が遅れたペナルティーだと思ってくれ」
「ど、ぞ……ご自由、に……」
「じゃあ、若葉君。君の名前、ここに書いてくれ」
「あ……うん……」
 さっきから毒気の抜かれたような顔をしっぱなしの芙美子が、名簿の空いてる名前欄に、会長の差し出したボールペンで名前を書く。
「じゃあ、これは預かっておく。今後、名簿等の提出期限は守るように」
 生徒会長が、小役人的な捨て台詞を残して、退場する。
 俺は、安堵からではなく、純粋な疲労ゆえに、へたへたとそこに座り込んでしまった。
「ちょっと、透!」
 芙美子が、上体をかがめて俺の顔を覗き込む――っつうか、睨み付けてる。
 俺は、視界に飛び込んできた芙美子の胸元の魅惑的な曲線から、さりげなく視線を逸らした。
「何だよ」
「何だよはこっちのセリフよ。何よ、あの名簿」
「ああ、用紙は、職員室で烏丸先生に言ったら、探してくれた」
 どうにか呼吸を整え終え、俺は、説明を続ける。
「それから、まあ、貸しのある奴とか性格いい奴とかあちこち探して、どうにか名前を借りたってだけさ」
 そいつらを探して、校舎の中はもとよりグラウンドや体育館までトップスピードで駆け回ったことは、まあ、言わないでおく。とは言え、俺の今の状態でバレてるかもしれないが。
「別に、あの会長も漫研を潰すつもりは無かったんだろ? だったら、たかが書類の一枚、用意してやっても……」
「そりゃあ……そりゃあ、そうかもしんないけど、どうしてあんたが駆けずり回んのよ!」
「んな、迷惑みたいに言うなよ」
「め、迷惑とか、その、そういうつもりじゃないけど……その……別に、頼んでないのに……」
「ああ、俺が勝手にやったことだよ。それから、名簿上は漫研の部長って俺なんで、今日から俺のことは部長と呼ぶように」
「あんたがあ?」
「勢いで一番上に名前書いたら、そこ、部長の名前を書くとこだったんだよな」
 そう言って、俺は、よっこらせ、と立ち上がった。うん、太腿が完全に筋肉痛。
「というわけだから、部長命令。いろいろ瑣末な事務手続きは俺に任せて、お前は漫画描くのに専念してなさい」
「ん、な、何よ、何よ何よ偉そうにっ! 透のお節介っ!」
 芙美子が、顔を真っ赤にしながら両手を振り回す。むきー、という声が聞こえそうな感じだ。
「だいたい、あんな会長の言うことなんか聞くことなかったのよ! シカトして今までどおりに印刷室使えばよかったんだわ! なのに、もう、余計なことしてっ!」
「まあ、それも一つの方法だとは思うけどな」
 というか、芙美子なら、そんな方法しかとれないだろう。こいつは、コミュニケーション能力のほとんど全てを漫画表現方面に割り振ってるんだから。
「でもな、どんなことだって、何か別の方法があるってもんさ」
 そう。たかが書類を出す出さないで意地を張ってもつまらない。
 芙美子は芙美子としてしか生きられないかもしれんが、俺には俺のやり方がある。別に、常に支え合い、助け合って生きていこうなどとは口が裂けても言えないが、たまたま近くにいた時にお節介を焼くくらいは、気持ち良く受け入れてほしいもんだ。
「ほれ、それより、さっさと中に入れ。廊下じゃ漫画を描くどころじゃないだろ」
「分かってるわよっ!」
 憤然とドアを開け、印刷室に入る芙美子に、俺は、まだちょっと覚束無い足取りで、続く。
 久しぶりに思い切り走ったせいか、ここ数日、胸の中に居座っていたモヤモヤが、一気に晴れたような気がした。



「う……うーん」
「トール! 気が付いたの!?」
 目を覚ますと、そこはお馴染みの天蓋つきのベッドの中で、んでもって――すぐ目の前に、ミスラの顔があった。
「よかった……もし、もう目を覚まさなかったら……どうしようかと思ったよ……」
 何とまあ、こんなしおらしい台詞を聞かせてくれるとはね。
 そんな、皮肉の一つでも言おうかと思ったが、思い直す。
 腹が、減っていた。空腹で、皮肉や冗談の応酬をするだけの気力すら無い。
「あのさ……いきなりこんなこと頼むのも何なんだけど……」
「もしかして、食事?」
「ああ」
「今、準備する。恩に着てよ」
 そう言いながら、ミスラが、ベッドの傍らのサイドボードの上に、携帯コンロみたいな物を置き、火を点けてから、小さな片手鍋みたいなものを載せる。って、何か、ずいぶんと準備がよくないか?
「もしかして、わざわざ用意してくれていたのか?」
「た、たまたまだよ!」
 ミスラが、必要以上に大きな声で言う。んでもって、そのセリフにはさっぱり説得力が無い。
 温められた片手鍋の中身から、食欲をそそるいい匂いが漂いだす。
「えーと、それは、何番?」
「ん……分類9の、1番の1号……」
「1番の1号? つーことは、初めて作ったカテゴリーってわけか?」
「そ、そうだよ。病人食なんて作ったことないもの……。イヤなら、食べなくてもいいよ」
 って、ここまでしておいて料理を引っ込めるなんて、あまりに殺生じゃないか。
「食べるよ、食べるって。ミスラだったら、料理で失敗するってことはないだろ」
「ま、まあね……」
 ミスラが、仏頂面を作りながら、レンゲともスプーンともつかない食器で鍋の中身を深皿に移し、俺に差し出す。
 俺は、どこかおかゆを思わせる外見のそれを、ミスラから受け取ったスプーンもどきですくって、口に入れた。
「うわちゃっ!」
「あ……な、何? まずかった?」
「い、いや、そうひゃらくて……ひ、ひたをやけろひた……」
「熱すぎたってこと? まったく……そんな慌てて食べるから……」
 ミスラが、やれやれ、と溜め息をついて、俺から皿とスプーンもどきを取り上げる。おいおい、あれだけのことで食事没収かよ。
「ふー、ふー、ふー……はい」
「え?」
「えじゃないよ。冷ましてあげたんだから、食べなよ」
「あ、う、うん……さんきゅ……」
 俺は、ミスラが差し出したスプーンもどきの中身を、口に含んだ。
 ほんのり甘い、優しい味……米かどうかは分からないが、牛乳で作った柔らかめのおかゆのような感じだ。
「どうかな……まずい?」
「いや、悪くないよ。って言うか、美味い。さすがミスラだな」
「そう……」
 俺は――その時、驚愕のあまり、声を上げそうになった。
 ミスラが、笑ったのだ。ニッコリと。
 いや、だって……こんなに間近で、こいつのこういう笑顔を見たのは初めてだし……。
「――どうしたの? 僕の顔に何か付いてる?」
「う、ああ、メガネが一つほど」
「何バカなこと言ってるのさ。それより、冷めないうちに食べてよ」
 そう言って、ミスラが、再び俺にスプーンもどきを差し出す。
 そして、十数分後――俺は、最後まで、ミスラに、分類9の1番の1号を食べさせてもらったのであった。
「あー、ようやく腹が落ち着いた……」
「どう? 胃にもたれるとか、ないかな?」
「ああ、大丈夫だ。何だか、もう完全に体の調子が戻った気がするぜ」
「気のせいでしょ」
 冷たい口調で、ミスラが言う。
「体の調子と言えば……その、ニケはどうした?」
「もう、何日か前にベッドから起きれるようになったよ。ほかの騎士たちもね」
「そっか……」
 俺は、安堵の溜め息をついた。
「結局、最後まで寝てたのは俺だけか。情けない話だ」
「そんなふうに自分を卑下してもしょうがないよ。イシュタルの剣に傷付けられて、命が助かっただけでも感謝しなきゃ」
「感謝ねえ……」
 俺は、天に祈る代わりに渋面を作った。何しろ俺は無神論者だ。
「――ああ、感謝と言えば、まだお礼を言ってなかったな。介抱と、あと食事、ありがとう」
「ど……どう、いたしまして」
 ミスラが、顔を赤くする。うーん、やっぱりこいつ、ちょっとからかいがいがあるぞ。普段とのギャップが面白い。
「本当に美味かったよ。ミスラ、いい嫁さんになれるぜ」
 俺は、悪ノリして、ついそんなことを言ってしまった。
「それは……君の、ってこと?」
 予想外の方向から、思わぬ反撃。
 いや、反撃とかじゃなくて……えーと、この、ミスラの真剣そうな表情は何だ?
「いや、その……それは……何て言うか、一般論としてさ……」
「一般論て何さ? つまり、他の人のお嫁さんがふさわしいってこと?」
 ってどうして? なにゆえ、そんなに怖い目をしてるわけ?
「で、でも、あれだ……ミスラは、俺の嫁さんなんて、やだろ?」
 俺は、思わず、しどろもどろな口調で、そんなことを言ってしまった。うは、カッコ悪ぅ。
「あ――ああ、やだよ! 君の結婚相手なんて絶対にゴメンだね!」
 ミスラが、椅子を蹴飛ばすような勢いで立ち上がる。
 そして、こっちを見る事なく、携帯コンロだの食器だのを、例の銀色のワゴンの中に片付ける。
「じゃあね」
 そう言い捨てて――ミスラは、部屋から出て行った。
「…………」
 一人、部屋の中に残され、何とも言えない居心地の悪さを感じる。
 今……もしかして、ミスラのやつ、ベソかいてなかったか?
 いくら何でも、と思うが、ミスラが、あれで意外と表情豊か――と言うか、感情的なのは、事実だ。
「やれやれ……」
 どうやら俺は、ミスラのことを傷付けてしまったらしい。まったくもって、口は災いの門だ。
 一つ溜め息をついて、ベッドに横になる。
 瞼の上に眠りが訪れるまで、俺は、後悔の念に悶々としてしまった。



「――女の子の気持ちって、分かんないよなぁ」
「ほあっ?」
 俺の独り言めいた呟きに、カリカリとペンを走らせていた芙美子が、手を止めた。
 場所は、例によって漫研部室。そして、時は放課後である。
「い――いきなり、何言ってんのよ、あんた」
「あ、俺、何か言った?」
「言ったわよ。すごく意味深なこと。何? 恋愛方面でフラグでも立て損ねたの?」
 身を乗りださん勢いで芙美子が聞いてくる。
 俺は、自分が口に出してしまった言葉と、その時の精神状態について内省し――大いに呆れ返った。まったく、夢の中での男女関係の悩みを無意識のうちに口にするなんて、焼きが回るってのはこういうこと言うんだろうな。
「ねえ、何かあったの? 幼馴染にコクってふられたとか、血のつながらない妹に急に冷たくされたとか」
「お前以外の女の幼馴染もいないし、血のつながらない妹もいねえっての。冗談にしてもつまんねーぞ」
「じゃあ、さっきの発言は何よ」
「だから、いや、その、えーっと……それは……何て言うか、一般論としてさ……」
「はン!」
 芙美子が、嘲笑にしてはやや元気な声を上げる。
「なーにが一般論よ。あんた、一般論語れるほど恋愛経験あるわけ? 幼稚園時代に先生に婚約を申し出たとか、そういうんじゃなくてさ」
「大きなお世話だ。そういう芙美子こそどうなんだよ」
「そんなプライベートなこと、言えるわけないでしょ」
 お前は今さっき俺に訊いたじゃねーか。
「だいたいねえ、異性どころか、他人の気持ちなんて分かるわけないでしょ。テレパスじゃないんだから」
「じゃあ、どうすんだよ。お前、男キャラも漫画に登場させてるじゃないか。そいつの気持ちが分からないまま漫画描いてるのか?」
「だから、そんなの想像するのよ」
 芙美子が、何でもなさそうに言う。
「想像?」
「そーよ」
 ずびし、と芙美子が俺の顔に右手の人差し指を向ける。
「想像力ってのは、別に、レーザーガンの形をデザインしたり、サラマンダーの足の数を決めたりするためだけにあるんじゃないんだから。それ以前に、自分以外の全てを頭の中に再構成させるために使うもんなの。綿密な観察を土台にしてね」
「ずいぶんとご大層なお言葉だな。つまり、お前はよほど想像力に自信があるってわけだ」
「まあ、想像力をどうやって使うかってことについては、あんたよりは自覚的よ」
「そのわりには、人の気持ちを思いやるって方向に発揮されてない気がするぞ」
「何? あんた、私に失恋の痛手を思いやってほしい気分なわけ?」
「それこそ想像力の回し過ぎだ」
 俺は、そう言ってそっぽを向いた。今日はどうも芙美子を相手にするのに不利な感じだ。
 ったく、何が失恋だよ。俺は別に――
 脳裏に、眼鏡のレンズの奥で潤む、不思議なオレンジ色の瞳が、浮かぶ。
 俺は、小さく溜め息をつき、芙美子の方に視線を戻した。
「う――」
 芙美子は、それが綿密な観察とやらのつもりなのか、未だ俺のことをじっと見つめ続けている。
 俺は、何か言おうとしてそれをやめ、手に持ったままの、すでに何度も読んだヌルいギャグマンガに視線を落とした。



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