第三章
「はじめまして。わたくしが、ゼルナ・ナフィリス・アイアケアです」
シャンデリアに照らされた豪奢な広間に入ると、品のいいドレスに身を包んだその人が、俺に挨拶してきた。
緩くウェーブのかかった金髪に、紫色の瞳。おだやかな微笑みを浮かべた美貌。品のいい真珠色のドレスは胸元が大きく開き、そこから、規格外に大きな乳房がこぼれ落ちそうに見える。
イレーヌさんのお母さんというより、お姉さんといった雰囲気のその人こそ、このアイアケス王国の支配者であるゼルナ女王陛下その人だった。
「では、席についてくださいね」
促されて、俺は、給仕のお兄さんにサタナエルの剣を預け、大きなテーブルの一席に腰を下ろした。
正面がゼルナさん。向かって左がイレーヌさんとミスラ、右がニケとスウ、という席順だ。
「まずは、お礼を言わせてください。イレーヌをあの闇司祭から救ってくれて、本当にありがとう」
「あ、は、はい」
周囲の絢爛たる雰囲気に圧倒されている俺は、つい、マヌケな返事をしてしまう。
見ると、イレーヌさんは、頬を染めながら、どことなく気まずそうに俺から視線を逸らしていた。
一方、ニケは友好的な笑みをたたえつつ俺に視線を向け、ミスラは仏頂面で、スウは好奇心一杯の表情で俺を見ている。
「イレーヌから聞いていると思いますが、わたくし達の王国は、現在、大いなる危機に見舞われてます。ですが、わたくし達だけの力では、それに対抗することができない。だから、あなたに――異世界に住む伝説の勇者に、助力を求めたのですね」
「それなんですけど――」
目の前にスープが置かれたのにも構わず、俺は言葉を続けた。
「俺自身は、この世界について、何も知りません。それどころか、俺自身がどんな人間なのか――果たして本当に伝説の勇者なんていうふうに呼ばれるような人間なのか、それすらも分かってないんですよ」
本当だったら、自分が単なる凡人で、勇者だの英雄だのと言われるような器じゃない、と断言したかったんだが、さすがに、それではイレーヌさんの面目が丸つぶれだ。
とは言え、この段階であまりにも安請け合いするのも、誠実じゃない。
うーん、しかし、こんなことをうじうじ考えるような伝説の勇者なんているもんだろうか?
「その点は、信じるしかありませんね」
穏やかな声で、ゼルナさんが言う。
「神ならぬ身に、世界の全てを見通すことはできない。人にできるのは信じることだけです。だから、わたくしはあなたを――あなたがわたくし達を救ってくれるであろうことを信じ、そして祈ります」
「それは……えっと、まあ、お願いします」
俺は、ぺこりとその場で頭を下げると、ゼルナさんがくすくすと女の子みたいに笑った。
「魔剣に選ばれた戦士と聞いて、どんな豪傑かと思ったら――どこにでもいそうな男の子なのね」
「そう言ってもらえると、かえって助かります」
俺は、一気に砕けた口調になったゼルナさんに、正直な気持ちで言った。
「とても気に入ったわ、トール君……あえて、こう呼ばせてもらうけど、かまわないかしら?」
「はい」
「それじゃあ、トール君に説明するわね。食べながら聞いてちょうだい」
俺は、肯いて、とりあえずスプーンを手に取った。
「ここ、アイアケス王国は、実り多い土と穏やかな海に恵まれた、とても豊かな国なの。そして、国民たちも、働き者で、信心深くて――これほど神に愛された国は無いと、わたくしは常々思ってるわ」
その王国を統治する者としての誇りが、ゼルナさんの顔を、ますます輝かせている。
「けど……豊かであるがゆえに、常に外敵の侵入におびやかされているという面もあるの。ここのニケが率いる騎士団や、勇敢な民兵たちが、そんな侵略者を追い返してくれているんだけど……7年前に、ある皇帝が、バラバラだった敵を一つにまとめることに成功したの」
「それが……えーっと、熾皇帝とかいいましたっけ?」
「そう、熾皇帝ロギ。その正体はいっさい不明だけど、間違いなく、強力な魔道の力を有しているわ。そして、ロギには、やはり魔道によって超常の力を得た四人の配下がいるの。闇司祭ランズマールと、黒騎士リルベリヒ、死巨人ルル・ガルド、妖術師レレム――彼らは、熾皇帝ロギの四天王と言われているわ」
「ま、そのうち一人は、アンタがぶっちめたんだがね」
ニケが、スープの次に出た魚料理をフォークとナイフで無残に分解しながら、言った。
「闇司祭の敗因は、我が王家の遺跡に単身乗り込んだことでしょうね」
ミスラが、こっちを見ようともせず、口を開いた。
「そもそも、我が王国の懐まで侵入するには、単身行動をするしかなかったわけですが――彼はあえてその冒険に賭け、そして失敗した。遺跡の結界によってその力が削がれようとも、姉上の儀式を阻止することは可能だという自信――いや、慢心が、命取りになったのでしょう」
うーむ、ミスラは、暗に俺の実力ではなかったということを言いたいんだろうか。それとも、これは俺のひがみか?
「ミスラの言いたいことは分かるわ。残る三人との戦い、そして熾皇帝その人との対決――それは、激しく、そしてこちらにとって厳しいものになるでしょうね」
そう言いながらも、ゼルナさんの顔に、暗い影は無い。人の上に立つ人は、こういう時に、陰気な顔をしてはいけないのだろう。
「熾皇帝の力は強大だわ。それは、辺境諸国を瞬く間に束ねたその事跡を見ても明らかなこと……。賢者の中には、熾皇帝が、この世界の外からやってきた半神ではないかと疑う者もいるの」
「お兄ちゃんと同じだね」
スウが、訳知り顔でまぜっ返す。
「だけど、わたくし達は、熾皇帝に屈する訳にはいかない。熾皇帝の目的は、この豊かな国土を奪うだけではなく、滅ぼすこと――いえ、消すことにあるの」
「消す?」
思わず、俺は聞き返した。
「ええ、熾皇帝は、このアイアケス王国を――いえ、この世界に存在する全ての国を、消そうとしているのよ」
「それは、えーっと、どういう意味です?」
つまり、無政府状態にするとか、そういうことだろうか?
「わたくしでは、うまく説明できないわ。実際に見てもらうのが一番ね」
「…………」
「このことだけじゃないわ。この王国がどのような場所で、そして、熾皇帝とその配下たちがどれほど残酷だったか――それは、トール君の目で見て判断して。あなたも、それを望んでいるんでしょう?」
にっこりと、ゼルナさんが微笑む。一方、俺は、図星を突かれて絶句してしまった。
「ニケ」
「んあ?」
ちょうど、肉料理にかぶりついていたニケが、母親に対し、くぐもった返事をする。
「明日から、トール君に周りを案内してあげて」
「ん、ん、ん」
ニケは、口の中のものをむぐむぐと咀嚼しながら、肯いた。うーむ、彼女、これでもお姫様なんだよな。
まあ、じっと静かにしてれば充分以上に美人なんだけど……だが、むしろ、こういう仕草の方が彼女の魅力を引き立たせるようにも思える。
「そのように悠長なことでいいのですか?」
ミスラが、相変わらずこっちを見ることなく、ゼルナさんに言う。
「母さんはね、暢気なのが取り柄なの」
本気とも冗談とも着かない口調で、ゼルナさんが言った。
「あの闇司祭ランズマールがいなくなったんだもの、熾皇帝たちが態勢を整えるのに、けっこう時間がかかるはずよ。それに、トール君の力を借りるなら、彼にこの国を好きになってもらわないと」
「……確かに、母上は暢気です」
皮肉な、というにはいささか冷たい口調で、ミスラが言う。
「だいじょうぶ。さっきも言ったでしょう? 信じてる、って。トール君は、きっとやってくれるわ」
気にするふうもなく、ゼルナさんは明るい声で言った。
「トール君なら、この国を救ってくれる――その暁には、お礼に、この子たちをお嫁さんに差し上げちゃうわね」
「え?」
「ハァ?」
「今、何と?」
「えええーっ?」
イレーヌさんが、ニケが、ミスラが、スウが、ゼルナさんの言葉に驚きの声を上げる。
「好きなのを選んで持っていって。二人でも三人でも、もちろん、四人いっぺんにでもいいわよ」
平気な顔で、ゼルナさんが言葉を続けた。
「お母様! い、いきなり、何てことを……」
今まで黙っていたイレーヌさんが、姉妹を代表するように、声を上げる。
「あら、イレーヌ、年下の子は嫌い?」
「そ、それは……私、そういうことを言ってるんじゃ……ただ、トール様にご迷惑じゃないかと……」
「母さん、あなたのことが心配なのよ。いつまでも過去を引きずっていたり、神殿に閉じ篭ったり……これまで、気持ちの整理をつけるだけの時間は、充分にあったはずよ」
「…………」
ゼルナさんの何やら意味深な言葉に、イレーヌさんが押し黙る。
「母上の言っていることは無茶苦茶です!」
はたしてイレーヌさんにどんな過去があったのか、という俺の思いを、ミスラの悲鳴みたいな声が吹き飛ばした。
「どうして僕が今日初めて会ったばかりの男と結婚しなくちゃならないんですか!」
「まあ、確かに、唐突な話ではあるよなあ。コイツがどんなヤツなのか、アタシらは何も知らないわけだし」
ニケが、意外と落ち着いた態度で、ミスラに同調する。
「だ、だいたい、僕はまだ結婚なんてするつもりはありません! 相手がどこの馬の骨とも知れない男となればなおさらです!」
とうとう馬の骨呼ばわりかよ。って言うか、ミスラ、余裕なくしすぎだ。
「相手を決めるのはトール君よ。まだ指名されたわけでもないのに、ミスラはせっかちさんね」
ゼルナさんの言葉に、ミスラが顔を真っ赤にする。
「だいたい、あなたたちもいずれは嫁いで王国の礎を固める身でしょう。その相手が、王国の危機を救った伝説の英雄だなんて、願ってもない話じゃない」
「アタシは、自分より弱い男の嫁になんてなるつもりはないけどね」
そう言って、ニケが、黒曜石のような瞳で、ちら、とこちらを見た。その表情は、微妙な笑みを含んでいる。
「だいたい、肝心のトールの気持ちはどうなるのさ」
「わたくしの娘は、四人とも可愛い子ばかりだもの。いずれは、きっとトール君もその気になるわよ」
ぬけぬけと、といった感じで、ゼルナさんがニケに言う。
「あ、あのですね、ゼルナさん――」
「ねえねえ、そのお話って、スウも入ってるの? スウもお兄ちゃんのお嫁さんになれるの?」
邪気のない笑顔を浮かべて、スウが俺のセリフに割り込む。
「もちろんよ、スウ。殿方の中には、お嫁さんは若ければ若いほどいい、という人もいるの。トール君がそうだといいわね」
って、そういうことをどうして笑顔で言うんですか、ゼルナさん。
「あの、えーと、ちょっと待ってください」
「なあに?」
ゼルナさんが、小首をかしげながら、俺に視線を向ける。
「いや……今のお話ですけど、これ、俺にとっちゃ、ものすごくびっくりするような話で……そもそも、四人いっぺんに結婚相手とかは、その……」
「何が四人いっぺんだ! 僕まで勘定に入れるな!」
ようやく俺の方を向いたミスラが、大声を上げる。ええい、セリフを遮られたせいで、考えがますますまとまらなくなったじゃないか!
「繰り返しになりますが、わたくしの娘たちは、みな、とてもいい子よ。ご褒美としては申し分ないと、そう自負しているのだけど」
「そ……それは、そうかもしれませんけど……」
「もちろん、トール君は、四人のいずれを選ばなくてもいい。その時は、縁がなかったと諦めます。でも、そういうことにはならないだろうと、わたくしは思ってるわ」
まるで女神様のような微笑みを浮かべながら、ゼルナさんが言葉を続ける。
「ともかく、今のお話は、この国に本当の平和が戻ってからのこと……。それまでに、四人とも、トール君に選んでもらえるよう、女を磨いておきなさいね」
「はぁーい!」
元気よく返事をしたのは、スウだけだった。
「お姉ちゃんたち、お嫁さんになりたくないのかなあ」
俺と並んで歩くスウが、無邪気そうな声で、そんなことを言った。
「それはどうか分からないけど、いきなりな話でびっくりしたのは確かだろうな。俺もそうだったし」
一度通ったくらいではとても全体を把握しきれない王宮の中を行きながら、俺は答えた。
まったく、スウがまた案内役を申し出てくれて助かった。たぶん、一人だと迷子になってたぞ。
「だって、スウたちはお姫様だし、お兄ちゃんは伝説の勇者さんでしょ? 結婚するのは当然じゃない」
「それは、おとぎ話の中ならな」
「そう――」
スウが、声音を変え、どこか大人びた口調で言った。
「――オトギバナシなら、ね」
俺は、思わず立ち止まり、隣を歩くスウの表情を窺った。
素直そうな微笑みの中、青い瞳が、どこか不思議な光を宿している。
まるで、俺の心の奥底どころか、存在の本質さえ見透かしてしまいそうな――
「だ――だいたい、四人いっぺんにお嫁さんってのはどうなんだ? ここだと、そういうの普通なのか?」
俺は、スウの顔に張り付いていた自らの視線を逸らし、再び歩きだしながら訊いた。
「うん、王家だと、けっこうあることだよ」
けろっとした顔で、スウが言う。
「お兄ちゃんの世界だと、そういうの珍しいの?」
「俺の世界……ってか国だと、一対一が基本だな」
そう言ってから、ふと、俺はかねてからの疑問を口にすることにした。
「そう言えば、君ら四人、あんまり似てないなって思ったんだけど、もしかして……」
「お母さんのお相手が、そのたんびに違ってたんだって」
「なるほど、納得だ」
俺は、思わずうんうんと肯いてしまった。
もしかすると、“お嫁さん”の件についてゼルナさんがあんなにオープンなのは、そういう結婚歴と無関係じゃないのかもしれない。
「で、そのお相手ってのは……」
「あちこちの離宮にいるわ。ふだん、めったに会わないの」
「ふーん」
つまり、この国の元首はあくまでゼルナ女王ただ一人ってことか。まあ、確かに、国政にかかわる最高権力者が複数いたら、いろいろと問題も起きるんだろう。
そんなことを考えているうちに、俺にあてがわれた部屋にまでたどり着いた。
「あ、えーっと……」
「どうしたの?」
分厚いドアを前に逡巡している俺に、スウが、小鳥みたいに首をかしげる。
「えっとさ……ゼルナさんの言ってた、イレーヌさんの過去っていうのは何なんだ?」
俺は、意を決して、その質問をスウにぶつけてみた。
「ひみつー♪」
スウが、両手の人差し指で、自分の口の前にばってんを作る。
「さっきは口を滑らせたけど、もう言わないもーん。そういうこと、イレーヌお姉ちゃんに直に訊くべきじゃないかな?」
もっともなことを言って、スウが、くるりと身を翻し、ててて、と小走りに去っていく。
俺は、小さく溜め息をついて、部屋に入った。
そして、サタナエルの剣を適当に壁に吊るして、ふかふかのベッドに横たわる。
暗がりの中、あの四姉妹の顔を順々に思い浮かべているうちに……俺は、眠りについた。
「…………!」
ぱちりと、目が開いた。
朝。俺の部屋だ。念のために言うと、王宮でもなんでもなく、おやじがローンで購入した一戸建ての二階にある自室である。
上半身を起こすと、さっきまで鮮明だった夢の記憶が、手の中の砂のようにこぼれ落ち、曖昧になっていく。
だが、それでも、自分が二日連続して全く同じ舞台の夢を見たのだということは、忘れなかった。
「な、な、な、なんだ? なんなんだ?」
生まれて初めての経験に、思わず、声を上げる。
いや、考えてみれば、別に不思議なことなんて何も無いのかもしれないが、それでも、やっぱり何か変だと思う。俺と同じ体験をすれば、みんながみんな、そう思うはずだ。けど、この奇妙な感覚が、どうにも言葉にできない。
俺は、まず何をどう考えればいいのかということに悩みながら、のろのろと着替えを始めた。
「夢の続き?」
放課後の印刷室。何やらガシガシと落書きをしていた芙美子が、顔を上げた。
「つまり、何? 前に見た夢の続編を見たことがあるかってこと?」
「無いか?」
俺は、重ねて尋ねた。
「無いわね。前も言ったけど、あたし、あんまり面白い夢は見ないの」
「面白い夢だったとは言ってないぞ」
「面白い夢じゃなきゃ、そういつまでも中身を覚えてたりはしないでしょ。ともかく、あんたは前に見た夢の続きを見たってわけね」
「ああ」
「それで?」
芙美子は、辛うじて会話を続けながらも、ほとんど興味を失った様子だ。
「いや、それでって、不思議じゃないか?」
「どうしてよ」
自分の落書きを紙の裏から透かし見て、デッサンを確かめながら、芙美子が続ける。
「あたしの夢の続きをあんたが見たってんなら不思議だけど、あんたの夢の続きをあんたが見たんでしょ。どってことないじゃない」
「そりゃそーなんだけどよ」
「しかしまあ、あんた最近、夢の話ばっかりね」
新たな紙を用意しながら、芙美子が言う。
「それより、漫画の小ネタになるような面白い経験とか無いの?」
いや、だから、それが俺の夢の話だったんだけどな。
でもまあ、確かに他人の夢の中身なんて、大した話題じゃないか。
「そうだなあ……」
俺は、ソファーに座ったまま、わざとらしく腕なぞ組んでみた。
「俺のクラスメイトで、英語の授業の時間、デストロイの名詞形は、って質問に、自信満々でデストロンって答えた奴がいたってくらいかな」
「それってあたしのことじゃない!」
芙美子が、顔を真っ赤にして大声を上げる。
「あんたねえ、いつまでも人の昔の失敗を覚えてるんじゃないわよ!」
「そういうネタが欲しいって言ったのはお前だろ。ところで、今は分かってるよな?」
「ほあっ? えーっと……で、ででで、ですとろいど?」
「――デストラクション」
笑いをこらえ、あえて真顔で答えを言う。
「知るかー! あたしは日本人だーっ!」
声と同時に消しゴムが飛んできて、俺の額に見事に命中した。
そして夜。
ほとんど確信に近い予感を抱きながら、寝所に入る。
眠りは速やかに訪れ……そして……夢は、だいぶ遅れてやってきた……。
目を覚ますと、王宮の豪奢なベッドの中にいた。
窓から差し込む明るく暖かな日の光が、部屋の豪華さを強調している。
やはり、一晩きりでは、この雰囲気には慣れることができない。自分がつくづく庶民であることを実感する。
相変わらず、元の世界でどんな生活を送っていたのかは思い出せないんだが、ともかく、つつましく生活していたことだけは確かだ。
俺は、頭を掻きながらベッドから降り、部屋に備え付けの洗面所へと向かった。
ふわ、と大きくあくびをしてから、鏡を覗く。
見慣れた俺の顔だ。いくら断片的に記憶を失っていると言っても、自分の顔くらいは覚えてる。
と、その時のことだった。
自分のものとは似ても似つかない顔が、いきなり、鏡の奥に現れたのだ。
「なっ……!」
「おはようございます」
そいつは、鏡の中から、涼しい声で挨拶なんぞしてきやがった。
どう見たって俺の顔じゃない。年は二十歳過ぎだろう。色が白く細面で、しかも、ぞっとするような美形だ。黒いストレートの髪を肩の辺りまで伸ばしている。
何よりも奇怪だったのは、その顔が、まるでレンズの向こう側の風景のように、上下逆さまだったことだった。
「お、お、お前は――」
見覚えがある。つーか、忘れようがない。俺が最初に召喚された時に、例の黒い魔剣に重なって見えたあの顔だ。
「どうも、サタナエルです」
そいつは、理想的な形の唇ににっこりと笑みを浮かべ、言った。
「最近では、ベリアルと呼ばれることの方が多いんですけどね。ともかく、ようやく落ち着いてお話できます」
「は、話って、何を――いや、お前はそもそも――」
「ですから、サタナエルです。まあ、あなたの手にする魔剣の別の顕現――という言い方が難しければ、正体とでも思ってください。いや、いっそ魔剣に宿る精霊だと申し上げた方が理解しやすいですか?」
「…………」
俺は、絶句した。何をどういう言い方をされたって、こんなこと、理解しようがない。
「とりあえずは、あの愉快な司祭を倒した腕前、お見事でした。今後の活躍を期待してます」
ぜんぜん厭味でない口調が、かえって厭味に聞こえる。
「ああ、えーと……その……お前が、俺をこの世界に呼んだのか?」
俺は、とりあえず、胸の奥にわだかまる疑問を口にした。しかし、鏡に向かって話しかけるなんて、傍から見たら何とも電波な状況だ。
「あなたを召喚したのは、イレーヌ王女でしょう? 私は、触媒に過ぎませんよ」
「いや、そういうことじゃなくて……イレーヌさんが、お前を使って伝説の勇者を召喚したってことは分かってる。ただ、呼び出されたのが、勇者でも英雄でもなく俺だってことについて訊いてるんだ」
「つまり?」
「つまりだな、その、要するに――何で、俺だったんだ?」
「…………」
俺の質問に、数秒、そいつ――サタナエルは考え込んだ。
「……確かに、あなたに私の名前を教え、所有者としたのは、外ならぬこの私自身です。私の名前を知る者でないと、私を使うことはできないですしね。私には、この世界、この次元、この時空で、なすべきことがあります。ですから、実際は誰でもよかったんですよ。ただ、たまたまあなたが近くにいたんです」
「近くに、だって?」
「なぜ近くにいたかは……こればかりは、私にも分かりません。それと、ここで言うところの距離とは、多元宇宙的な意味でのそれ、ということにしておきます」
サタナエルの言葉に、俺は、煙に巻かれかかる。
「よ、要するに……その、行き当たりばったりの出たとこ勝負だったんだな?」
「私にとってみればそうですが、しかし、それが単なる偶然だとは、私は思いません。私はこう見えても精神的存在なので、何者の意志も介在しない純粋な偶然というものを信じていないのです」
――降参だ。こいつが何を言ってるのか、さっぱり分からん。
「ともあれ、私は、あなたをここに導き、そしてこの世界を閉ざした――まあ、鍵のようなものです。そのため、私とあなたは強固な形而上的関係を結んでいます。一心同体と言ってもいい」
「だから、鏡の中になんか現れたりすんのか?」
「お気に召さなかったようですね」
ふー、とサタナエルはわざとらしく溜め息をついた。
「大いに気にくわん! だいたい、顔を洗うのに邪魔だ!」
「分かりました。今回は、単なる挨拶だけです。ここで退散しますよ」
現れた時と同じように唐突に、サタナエルの逆さ顔が鏡から消える。
俺が、大きく息をついた時、ノックの音が響いた。
「――どうぞ」
洗面所から顔を出し、返事をする。
「失礼します」
そう言って、パンとサラダと卵料理をお盆にのせたメイドさんが、部屋に入ってきた。
「朝食をお持ちしました」
「あ、どうも」
「あと、ニケ様からご伝言をお預かりしています。お食事が終わったら、厩舎までいらしてほしいとのことです」
「厩舎? って、馬小屋のことだよね?」
「はい。中庭に出て左に壁沿いに進めば、正面に見えます。そこで待ち合わせをしたい、とのことでした」
「ん――分かったって伝えといてくれます?」
「かしこまりました」
サイドボードに朝食を置き、一礼してから、メイドさんが部屋から出て行く。
しかし、部屋に食事を持って来てくれるとはね。こういうことに慣れたら、人間がだめになりそうだ。
俺は、そんなことを考えながら、サタナエルのせいで洗いそこねていた顔を洗い、そして、朝飯を平らげた。
メイドさんに教えてもらった通り、王宮の中庭を歩いていく。
ちなみに、背中には、あの魔剣を背負っている。あんなことがあった後なので、さすがに気味が悪いけど、放置するわけにもいかないじゃないか。
さて、きれいに手入れされた庭園を抜けると、そこに、丸太で作られた巨大な厩舎があった。とても“馬小屋”なんて呼べるような規模のもんじゃない。
中を覗くと――俺の知ってる馬とは、似ても似つかない生き物がそこにいた。
イレーヌさんたちが乗っていた竜馬が十数頭いるのはいいとして、その何倍もの数のこの生き物は、一体なんだろう?
それは、ありていに言って、蛇の頭をした馬だった。しかも、全身が茶色い鱗に覆われ、細い足の先には、竜馬のそれに似た鉤爪がある。
「おー、待ったか?」
背後から、そう声をかけられた。ニケだ。
「ああ、おはよ……えっと、あっちの生き物、何?」
挨拶もそこそこに、俺はそう尋ねる。
「ん? ああ、ただの蛇馬だよ」
「ダバ?」
「ああ。別に珍しくもないだろ? って、お前のいた世界にゃ、馬がいないのか?」
「いるよ、それくらい……って、いや、竜馬や蛇馬はいないな。俺の世界の馬は、その……全然違う生き物なんだよ。ケモノなんだ。鱗じゃなくて、短い毛に覆われてるんだよ」
「へぇー」
さして感心した風もなく、ニケは、ずかずかと厩舎の中に入っていった。
「えーっと、アンタには、こいつがいいか」
そんなことを言いながら、ニケが、緑色の竜馬と、あと、彼女の乗馬である赤い竜馬の手綱を引き、外に出す。
「おとなしいのを選んでやったよ。こいつで遠乗りに出掛けようぜ」
「……遠乗り?」
「ああ。昨夜、母さんがアタシに言ってたろ。ここらの案内をしろって」
「そう言えば……」
例の嫁にしろ発言のインパクトがあまりに強くて、忘れてた。
「って、俺とニケだけで?」
「何だよ、不満なのか?」
ニケが、およそお姫様らしからぬ表情で、唇を尖らせる。
「いや、そういうわけじゃないが……普通、王女様が外に出るとなったらお供くらいは付くもんじゃないのか?」
「んなの連れてったら、かったるくて適わねーよ」
「……そう言えば、イレーヌさんも一人で遺跡に来てたな。あと、イレーヌさんを迎えに来たニケたちにも、お供がいなかったし」
「ああ、あの遺跡は――って言うかあの森全体が、王家の人間と、他の限られた人間しか入っちゃいけないってことになってんだよ。今回は、単にアタシがお供なんて足手まといを連れてきたくないって考えてるからなんだけどな」
そう言いながら、ニケが、俺に緑色の竜馬の手綱を渡す。
「俺、馬に乗ったことないぞ」
「そうなのか? じゃあ、アンタの世界じゃ、戦は戦車に乗ってやるのか?」
「ん、ああ、まあな……って、俺は戦車にも乗ったことないぞ。ただの学生だったんだから」
そう言いながら、俺とニケの話している戦車は、どうも違うもののように思えてきた。この世界には、九〇式もレオパルドもありはしないだろうしな。
「ともかく、こいつはおとなしい奴だから大丈夫。それに昨日は、アンタ、姉さんの竜馬に乗ってここまで帰ってきたじゃねーか」
「そりゃそうだけど……」
そんな会話を続けていると、不意に、小柄な影がその場に現れた。
ミスラだ。何やら巾着みたいな包みを、その手に下げている。
「姉上、これを。昼食です」
ミスラは、見事なまでに俺を無視して、手にした包みをニケに手渡した。
「おー、ありがと。中身は何?」
「分類7の12番の3号です」
「3号……新作か?」
「はい」
ミスラが、にっこりと微笑む。
なんだこいつ、普通に笑えるんじゃん。
しかし、ああやって素直な表情を浮かべてる分には、母親や他の姉妹と同じくらいに――
「何を横からじっと見ているんだ、君は。気持ち悪い」
じろ、とメガネの奥のオレンジ色の瞳で、ミスラが俺をにらむ。
「い、いや、別に見つめてたわけじゃ……」
「姉上にあまり迷惑かけないように」
そう言い捨て、ミスラは、その場を去っていった。まさに、取り付く島がない、ってやつだ。
見ると、ニケが、何がおかしいのかクスクス笑ってる。
「――何笑ってんのさ」
「いや、ミスラのやつ、ずいぶんと分かりやすいな、と思って」
「分かりやすい? って、何が」
「だからさ、アイツ、昨夜の母さんの話を意識してるんだよ。可愛いだろ?」
「…………」
俺は、肯きを返すこともできず、その場で目をしばたたかせた。
俺に言わせるなら、ゼルナさんの話とミスラの態度の相関性については、ちっとも分かりやすくないし、さらに言うなら、彼女の言動は可愛さとは程遠いものだ。
「で、それは?」
俺は、ニケがミスラから受け取った包みを指さし、尋ねた。
「弁当だよ」
「はあ?」
「あいつ、料理が好きでさ。自分でレシピ開発しては、番号振ってるんだよ。朝飯は分類1、昼飯は分類2、って感じで、分類7は弁当。その、12番目のメニューの、バージョン3つ目ってことさ」
「へえ……王女なのに、料理なんてするんだ。意外と家庭的なんだな」
どうも、あのミスラのエプロン姿なんて想像できない。どっちかと言うと、イレーヌさんの方がお似合いだ。
「そりゃあ、アタシらだって、王女だけやってるわけじゃないさ。それ以前に女の子なんだぞ」
ニケが、そう言って苦笑いする。
「しかし、アンタくらい王家の人間に物怖じしないのも珍しいよな」
「あー、そうかもな」
何しろこっちは、まがりなりにも民主主義国家の出身だ。
「やっぱ、別世界の人間だからな。無礼なのは許してくれ」
「気にしないさ。むしろ、その方がアタシは気楽でいいね」
さっぱりとした口調で言って、ニケが、赤い竜馬にヒラリとまたがる。
「さ、アンタも乗った乗った」
「――え? あ、ああ」
俺は、すでに鞍の取り付けられている緑色の竜馬に、おっかなびっくりに騎乗した。
「じゃあ、行こう」
そう言って、ニケが、ぴしりと手綱で竜馬の首を叩く。
俺は、見よう見まねで、同じように手綱を振るった。
緑の竜馬が、この下手くそめ、って感じの視線を、背中の俺に向けてから、とっとことっとこ速足で歩き出す。うわ、けっこう揺れるな。
「おお、なかなかやるじゃん」
ニケの言うとおり、まがりなりにも、俺はこの竜馬を乗りこなしている。もちろん乗馬なんてしたこともないはずなのだが、もとの世界の記憶を一部なくした代わりに、そういうスキルが脳みそにインプットされたのかもしれない。だとしたら、ありがたいことだ。
そして、俺たちは、衛兵に見送られながら、石造りの城門を抜け、街の外へと駆け出したのだった。