出たとこロマンサー



第一章



 最初の風景は、真っ暗な闇だった。
 もちろん、真っ暗なままでは、それが夢なのかどうかさえ、甚だ心もとない。
 だからというわけじゃないだろうけど、すぐに、色彩のある情景が展開された。
 それは、何に喩えればいいだろう。
 まるで、真っ暗な映画館の中で、はるか遠くのスクリーンを立ち見しているような感覚が近いだろうか。
 ここから見るスクリーンは小さい。声もかすかで、とても何が起こっているのか、把握し難い。
 だから、俺は、一歩一歩、スクリーンに近付いていったのだ。
 次第に、スクリーンの中でどういう事態が進展してるのか、分かってくる。
 場所は、まるでストーンヘンジのような、石組みの遺跡の中。
 環状の石柱に囲まれた空間で、二人の人物が戦っているのだ。
 一人は、青と白の衣服をまとった、二十歳そこそこといった感じの金髪の美女。
 対するは、漆黒と灰色の衣に身を包んだ、髭面、禿頭の、中年のおっさんだった。
 これはもう、その構図だけで、どちらが善玉でどちらが悪玉か分かろうものである。
 それに加えて――おっさんの黒髭に覆われた口元には野卑な笑みが浮かび、その灰色の両目には狂気じみた光が宿っていた。
 一方、美人のお姉さんの緑の双眸からは、悲壮な覚悟が見て取れる。
 二人の武器は、それぞれ、装飾の施された杖だ。おっさんの杖の先端には不気味な髑髏があしらわれ、お姉さんの杖の先は、何やら抽象的な形の金属で飾られている。
 二人は、互いに向かって杖を振りかざし、そして、その先端からは、まばゆい光を放つ力場が、バシバシと放射され、干渉し合い、火花と破裂音を飛び散らせていた。
 つまり、二人は、単なるチャンバラをしているのではなく、魔法か何かで戦ってるってわけだ。
 おっさんの杖が放つ毒々しい赤色の光の矢を、優しい青緑の光に包まれたお姉さんの杖が、次々に弾き飛ばす。
 だが、明らかに善玉に見えるお姉さんは、おっさんに追い詰められつつあるように見えた。
 ここで、二人の周囲を巡っていた視点が、お姉さんの背後にズームする。
 お姉さんは、その背中に、何かをかばいながら戦っているのだ。
 お姉さんにかばわれているのは、人ではない。環状列石の中央の台座に突き立った、一振りの大きな剣だった。
 ゲームで言えば、グレート・ソード。両手持ちの両刃の剣に分類されるだろう。その剣の、刀身の三分の一ほどが、白い大理石の塊に突き刺さっているのだ。
 その剣の刀身は漆黒で、びっしりと文字が刻まれてる。
 何やら邪悪な雰囲気を感じないでもないが、ともかく、強力なマジック・アイテムであることは、これまた疑いようが無い。
「ええいっ!」
 お姉さんが、裂帛の気合を込めて、杖を突き出した。
「ぬおおっ!」
 思わぬ反撃だったのか、おっさんが、やや慌てた声を上げる。
 金髪お姉さんの杖から放射された眩い光の奔流が、おっさんの杖を打ち砕いた。
 バラバラの破片となったおっさんの杖が、薄い煙をあげながら、石畳の上に四散する。
 その結果に、お姉さんは、やはり油断してしまったようだ。全身に張り詰めていた緊張がわずかに緩む。
「小賢しいわ!」
 おっさんが、そんなふうに叫び、自らの衣の袖を振った。
「あっ!」
 お姉さんが悲鳴を上げる。
 なんと、おっさんの服の大きく開いた袖口から、おびただしい数の触手が溢れ出たのだ。
 粘液にまみれた、蛸のそれそっくりの赤紫色の触手が、お姉さんの体に殺到する。
「くっ!」
 お姉さんは、咄嗟に杖を構え直し、次々と襲い来る触手を弾き飛ばした。
 だが、お姉さんが、さっき以上のピンチに陥っているのは、火を見るよりも明らかだ。
 杖から放射される光の力場は、触手を捌くので精一杯で、とても攻撃に転じられるような状況ではない。
 一方、髭面のおっさんの方は、口元ににやけた笑みを浮かべ、まだまだ余裕ありげな態度である。
「うっ、くううっ! ハァ、ハァ……はっ! えいっ!」
 自らを叱咤するように上げられるお姉さんの気合も、次第に力を失っていた。
「ふふふ……所詮、王家の血に宿る神性など知れたもの……。お主の体は、この闇司祭ランズマールが、じきじきに嬲りつくしてくれるわ」
 舌なめずりせんばかりの顔で、おっさんが言った。
 その言葉は、とても日本語とは思われないのに、夢の中であるせいか、なぜか意味はダイレクトに伝わってくる。
 そして、自称、闇司祭のおっさんが、袖口からまろび出る触手をさらに増やし、お姉さんを本格的に追い詰めた。
 すでに何本かの触手はお姉さんの足元に絡みつき、その自由を奪いつつある。
 その時には、二人の戦いを映すスクリーンは、俺の視界の半分以上を占めるまでになっていた。
 俺自身、目の前に展開する光景に、すっかり没入してしまっている。
 まるで、自分がその遺跡の中でお姉さんを見守っているかのような臨場感。
 その時、俺の視点は、ちょうどお姉さんの背中を見つめていた。
 お姉さんの背後には、大理石に突き立った黒い剣が、妖しい光を反射させている。
 と――何を思ったか、お姉さんが、まとわりつく触手を振り払いながら、おっさんに背を向けた。
 ちょうど、黒い剣を挟んで、俺と向き合うような形だ。
「さ、させるかっ!」
 奇妙なことに、ちょっと焦ったような声音でおっさん――闇司祭ランズマールが叫び、お姉さんの体に触手を絡みつかせる。
 構わず、お姉さんは、杖を大きく振り上げ、よく通る声で何かを叫びだした。
「堕天の剣よ――炎に包まれし地獄の戦車を御するものよ――異界の神によりて鍛えられし多元宇宙の呪われたる放浪者よ――!」
 お姉さんの杖が、眩しいほどの光を放ち、それに呼応するように、剣が震えている。
「ここに願う! 汝の大いなる力によりて、我が希求の成就されんことを! 導け! 汝の来たる道のさらに遙か遠くより、我が民草を救う勇者を! 炎に包まれし地獄の戦車を御する汝すらも御する、永遠の戦士を!」
 朗々と歌うかのようなその声に、漆黒の剣が呼応し、唸るような、軋るような音を響かせる。
 そして、背中から翼を生やした、ぞっとするほど美形の男の映像――その天使みたいな野郎は頭を下にして空中に逆さまになって立ってやがった――それが現れ、黒い剣と重なった。
 奇妙なことに――
 その時、俺は、自分の背中を見ていた。
 寝巻き代わりのスウェットを着た俺の背中が、まるで、剣に重なった天使の映像に誘われるように、スクリーンの中に入っていたのだ。
 スクリーンの中の映像は固まってる。まるで、時間が止まったみたいに。
 両袖から無数の触手を繰り出すおっさんも、その触手に背後から絡まれてしまっている金髪のお姉さんも、ぴくりとも動かない。
 質量すら感じさせる静寂の中、俺の視界の中の俺は、スクリーンの中で、俺に背中を向けたまま、両手でもって、剣の柄を握っていた。
 逆さまに浮かんだ天使の野郎が、整った顔に、シニカルな笑みを浮かべてやがる。
 そして――スクリーンの中の俺が、力任せに剣を台座から抜こうとした瞬間――
 スクリーンが破れ、俺は、再び俺と重なっていた。
「きゃああああああああああ!」
 再び音が戻り、そして、高い悲鳴が俺の耳朶を叩いた。
「う、うわ……!」
 間抜けな声が、俺の口元から漏れる。
 目の前で――本当の本当に目の前で、お姉さんが、何本もの触手に絡み付かれ、体を浮かされてしまっているのだ。
 そして、その触手を操るランズマールとかいう名前のおっさんが、俺を、驚愕の表情で見詰めている。
「まさか――まさか本当に召喚してしまうとは――!」
 召喚? 召喚て、あのいわゆる召喚? 呼び出し? 誰を?
 えっと、この状況からして、つまり――俺か?
 両手でもって、逆手にあの漆黒の剣を持ったまま、思わず茫然としてしまう。
 素足の裏に感じる地面の感触が、やけに生々しい。
 ちなみに、あの憎々しいまでに美形な逆さま天使は、どこかに消えてしまっていた。
「くっ……死ねっ!」
 ランズマールが、叫ぶ。
 その時、最初に感じたのは、風だった。
「うわっ!」
 衝撃で、しばらく、息が止まった。
 ランズマールの左袖から伸びた何本もの触手が、俺を押し倒し、地面に叩きつけたのだ。
 もちろん、その右袖から伸びた触手は、あのお姉さんに絡み付いたままだ。
「ぐ、ぐうっ……うあ……」
 俺の口から、獣じみた苦痛の声が漏れる。
 四肢を戒め、喉にまで絡み付いたヌメヌメとした触手が、俺の全身を砕こうとする。
「ふ……ふふふ……他愛ない。伝説の勇者とはこんなものか」
 ランズマールのおっさんが、次第に余裕を取り戻していく。
「こんな餓鬼が、お主たちの最後の希望というわけか? 何とも拍子抜けよな」
 ランズマールは、そう言いながら、視線をお姉さんに移した。
「アイアケスの王家も焼きが回ったものよ……。では、その第一王女殿下の体を楽しませてもらうとするか」
「あううっ!」
 お姉さんが、先程とは違った感じの悲鳴を上げる。
 触手たちが、ヌルヌルした粘液を分泌しながら、お姉さんの体をまさぐりだしたのだ。
「あ、ああっ……い、いや……! くっ、や、やめなさい……んああっ!」
 豊かなバストとヒップの間で、きゅっとウェストのくびれたその素晴らしい肢体が、おぞましい触手の慰みものになっている。
 ――って、おい、俺は無視かよ。ふざけんな!
「ククク……お主はそこで、このイレーヌ王女が儂に犯される様を見物してるがいい」
 下卑た笑みを浮かべながら、ランズマールの野郎が言う。
 そっか、お姉さんの名前は、イレーヌさんていうのか。
 じゃなくて! くそ、何とかこの触手から自由にならないと!
「あうっ、あ、ああぁっ! や、やめなさい……あっ、あぁっ、やめてっ……!」
 イレーヌさんが、そのきれいな顔を真っ赤にしながら、空しく身をよじる。
 おぞましい触手たちは、その襟元や袖口、果ては裾の中にまで、無遠慮に潜り込んでいた。
「きゃうっ! あ、ああぁ……だめっ……そ、そんなところ……ンあああっ!」
 まるで触手自体が興奮しているかのように、その表面からヌメヌメとした粘液が分泌され、イレーヌさんの衣服を濡らしていく。
「ふはははは……伝説の勇者とやらの目の前で我が触手に犯される気分はどうだ? 格別だろう」
 どこまでもゲスなことを言いながら、ランズマールが、さらに触手でイレーヌさんを責め立てる。
「ううう……」
 イレーヌさんの目尻から屈辱の涙が溢れ、頬を伝う。
 畜生……俺は、この人を辱める道具にされてるのか?
 かつて感じたことのないほどの怒りに、視界が、真紅に染まった。
「う――おあああああああああああああああああああ!」
 込み上げてくる激情をそのまま叫びとして迸らせる。
 そして――俺は、再び、静止した時の中で、自らの背中を見た。
 俺が、いつのまにか、触手の戒めを抜け出し、地面の上に、剥き出しの両足で立っている。
 自由となった自分の背中に、俺の意識が遅れて飛び込んだ時――時間は、再び動き出した。
「な、なにっ!? いつのまに!」
 ランズマールの、驚愕の叫び。
 だが、俺は、それに構う事なく、手の中の剣を構え直し、頭上に大きく振りかぶった。
 剣道もフェンシングもスポーツチャンバラもしたことはない。だが、この曰く有りげな剣を振り下ろすことくらいならできる。
「うおりゃああああああ!」
 俺は、剣の刀身を、イレーヌさんを弄ぶ触手の根元――ランズマールの右腕に、思い切り叩きつけた。
「うおっ!」
 ランズマールが、声を上げる。
 だが、奴の腕は無事だ。
「小癪なっ!」
 ランズマールが、大きく後退しながら、左袖から伸びた触手どもを俺に伸ばす。
「でやぁあああああああああああああああああああっ!」
 俺は、襲い来る触手めがけ、無茶苦茶に剣を振り回した。
 まるでバットでタイヤを叩いいているような、奇妙な手応えを感じる。
 切れてない。弾かれてる。
 くそっ、これじゃあ、自由の身になっても同じことだ。
「痴れ者がっ!」
 ランズマールが、俺に対し、幾多の触手を同時に繰り出してくる。
 その半分を剣で弾き、残りの半分を――どうにか避けた。
 どうして避けることができたのか、自分でも分からない。まさに無我夢中だったのだ。
 だが、こんなことを続けていれば、俺はいずれまたあの触手に捕らえられてしまうだろう。
 その前に、どうにか、こいつに致命傷を与えなくては――!
「名前を!」
 その時、イレーヌさんの声が、興奮の極みに有る俺の耳に届いた。
「その剣の名前を唱えてください――早く――!」
 名前? こいつの?
 もちろん、知ってるわけがない。
 もしかするとイレーヌさんかランズマールの野郎がこれまで口にしていたのかもしれないが、記憶にない。
 なのに――それなのに――頭の中に、いくつかの連続した音節が、響いている。
 これが、この黒く不吉な剣の名前。
 まるで、生まれる前から知っていたかのような錯覚。
 余計な疑問を差し挟む事なく、俺は、その剣の名を高らかに叫んだ。
「――サタナエル!」
 俺の、知らないはずの名前。知らないはずの単語。
 その名を唱えた瞬間、剣の刃が、赤い炎を吹き出した。
「ぐわあああああああああああああ!」
 ランズマールが、叫び声を上げる。
 今まさに俺を襲おうとしていた触手のうちの一本がその炎に触れ、千切れ飛んだのだ。
 その切断面は黒く炭化し、薄い煙を上げている。
「くそっ!」
 ランズマールが、右の触手で抱えていたイレーヌさんを、乱暴に投げ出す。
「あっ!」
 イレーヌさんは、地面に倒れ臥し――そのまま動かない。
「この野郎っ!」
「死ねえええエ!」
 俺の怒号とランズマールの絶叫が、屋根のない遺跡の中で交錯した。
 触手の一本が、俺の左腕に巻き付き、肘をあらぬ方向に折り曲げてへし折ろうとしてくる。
 それを、俺は、右手一本で剣を振るい、切断した。
 さらなる触手が俺を襲い、そして、俺は、両手で構え直した剣でそれに対抗する。
 戦える。俺は戦っている。この、異形の怪人と、炎に包まれた剣で渡り合っている。
 勝利を確信したわけではないが、敗北する気はしなかった。ただ、ひたすら、襲いかかる触手を切り伏せていくのみだ。
 俺は、これまでの人生で味わったことのないような、陶酔に近い興奮に酔いしれていた。
「ぐおおおおっ!」
 ランズマールが、獣じみた声を上げながら、四方から俺に向けて無数の触手を繰り出す。
 ――避けられない。
 俺は、瞬間的に判断し、炎に包まれた剣を夢中で突き出していた。
「ギャッ!」
 悲鳴が、響く。
 熱いような、冷たいような、奇妙な高揚感が、両手で握った剣から流れ込んでくる。
 それは、手にした刃物の質量に比例して生じる、原始的な暴力への欲求だったのかもしれない。
 ともかく、俺は、体中に触手が絡み付き、締め上げているのを感じながら、裸足の足で地面を踏み込み、さらに剣を突き出した。
 漆黒の剣先が、深々とランズマールの胸元に食い込んでいく。
「ぐ、ぐぐぐ、ぐお……おぶ、おぶぶっ……ぐええええええっ!」
 ランズマールが、血の代わりに、どす黒い粘液を口から吐き出す。
 触手の力が呆気なく緩み――そして、ランズマールがその身を翻した。
 逃げるな、と叫びたかったが、それどころではない。
 全身を襲う激痛に膝を突きながら、俺は、その場でぜいぜいと喘いだ。
「あ、あああああああ、ああ、ああああああああああ!」
 ランズマールの様子がおかしい。
 いや、もともとその両袖から大量の触手を溢れさせてるようなヤツだ。おかしいことはおかしいんだが、その次元が違う。
 禿頭、髭面のランズマールの顔に、恐怖の表情が浮かんでいる。
「制御が――制御がきかん! やめろ、やめろ、やめろ! やめろおおおおおおおおっ!」
 そんなことを叫びながら、ぶんぶんと両腕を振り回す。
 袖口からランズマールの腕が剥き出しになり――触手が、奴の肘辺りから直接生えてることが判明した。
 そして、その触手たちが、やたらめったらに暴れまわり――ランズマール本人、というか、本体に、絡み付く。
「おわああああああああああああああああ!」
 腕ほどの太さの触手に押し包まれ、ランズマールの体が見えなくなる。
 そこにあるのは、もはや、単なる赤紫色の触手で構成されたカタマリだ。
「ごっ! おげっ! ぶべ、あばばばばばば!」
 聞いたこともないような悲鳴と――ボキボキという何かの折れる音。
 俺が茫然と見守っているうちに、それは、さらに収縮し――
 そして、灰色の煙をあげながら、溶け崩れ始めた。
「う、うわぁ……」
 何てこった。
 死んじまった。
 いや、きちんと確認したわけじゃないが、かつてランズマールだったそれは、今や、シュウシュウと音をたてながらさらに縮んでいくヘドロみたいなものになってしまったわけで、これは、もう死んでるとみるしかないだろう。
 俺が――殺しちまったのか? この剣で。
 胃の辺りに、重苦しい痛みを自覚する。
 さっきまでの高揚感は、もはや跡形もなかった。
 明らかに相手が悪役で、しかも正当防衛だったとしても、やはり、自分のしでかしたことに慄然としてしまう。
 俺は、助けを求めるようなつもりで、イレーヌさんの姿を探した。
 隙間から草の生えた、古い古い遺跡の石畳の上に、イレーヌさんが横たわっている。
 こわごわ覗き込んで確認すると、イレーヌさんの豊かな胸は、規則正しく上下していた。どうやら気絶しているだけらしい。
 俺が、長々と安堵の溜め息をついた時、イレーヌさんの大きな目が、パッチリと開いた。
「あ……」
 吸い込まれそうなほどに澄んだ緑色の瞳が、俺の顔に焦点を合わせる。
 しかし、改めて見ると、この人、本当に美人だ。
「勇者様……」
 乱れた胸元を掻き合わせながら、イレーヌさんが、上体を起こす。
「あの……ランズマールは……」
 俺は、思わず、奴の残骸の方に目を向けた。
 もはや、あの黒いドロドロは、小さな水たまり程度になっている。
 それを見て全てを察したのか、イレーヌさんは、痛ましげに眉を潜めた。
「愚かな人……自らを依代になどするから……」
 あれだけの目にあわされていながら、イレーヌさんの声音には、ランズマールに同情するような響きがある。
 そのことに、俺は、なぜか心底ほっとしていた。
「ありがとうございました、勇者様」
 イレーヌさんが、俺の顔に視線を戻して、言った。
 まるで、自分がしでかしてしまったことに少なからず動揺している俺をいたわるような、優しい声だ。
「勇者様のいらした世界では、どのように感謝を示すのか、私は知りませんが――私は、あなたに最大限の感謝を捧げたいと思います。本当に、ありがとうございました」
 キスを求めれば、そのまま真摯に応じてくれそうな調子で、イレーヌさんが言葉を続ける。
「私は、この一帯の統治を運命によって許された、アイアケス王国の第一王女、イレーヌ・アルル・アイアケアと申します。あなたの意志を無視する形で召喚してしまったのは、この私です」
「は、はあ……」
 俺は、イレーヌさんと、手の中の剣に、交互に目をやった。
 俺が、なぜか“サタナエル”と呼んだ剣の刀身は、すでに炎には包まれておらず、冷たく黒い光を反射させている。
「あなたにとっては、勝手極まりないお話だとは思います。ですが、私には――我々には、この方法しか残されていなかったのです。どうか……どうか、我々を、このアイアケス王国を救っていただけないでしょうか?」
「あ、えっと、その、すんません、ちょっと待ってください」
「はい」
 あまりにもみっともない慌てようの俺に対し、イレーヌさんが、静かに応じる。
「えっとですね、俺、今イチ、というか今二つか三つくらい、状況が飲み込めてないんですよ。それに、俺自身、どう考えたって普通の人間でですね、まあ、ここでは異世界の人間かもしれないけど、それだけの属性しかなくて、ともかく、勇者とか英雄とかそういう器や柄じゃないんですよ」
「……一つ目のお話については、申し訳なく思いますし、また、ご返事を急ぐことはできないと覚悟しています」
 俺が息継ぎをするのを待って、イレーヌさんが話し始めた。
「我々が――我が王国が、救うに値する存在なのか、それとも運命の歯車に運ばれるまま滅ぶべきなのかは、勇者様ご自身がご判断ください。ただ、もしもお救いいただけるというなら、私に――我が王家に可能な限り、返礼をさせていただきます」
 そして、イレーヌさんは、一拍おいて、俺の手の中の大剣を見つめ、そして、再び俺に視線を移した。
「もう一つのお話については――私は、あなたが伝説の勇者であり、救国の英雄となりうる方であると信じてます」
「ど、どうして、です?」
「その剣に呼ばれ、そして、その剣の名前を知っていたからです」
「でも、それは……えーと」
 俺は、イレーヌさんの言葉に口ごもった。そもそも、自分がどうしてこの剣の名前を知っていたのか説明できない身としては、論理的な反論を行うことができない。
「その剣は――勇者様が名前を示してくださったサタナエルの剣は、あらゆる次元に同時に存在する、72本の魔剣のうちでも、最も強力な力を有する一つです……。その剣に選ばれたあなたが……特別な存在でないなどということは有り得ません……」
「うう……」
 ダメだ、抗弁しようとしても、それができない。あえてそれをするとなると、俺がイヤだからあなたたちを救いません、という話になってしまう。
 そして、このあまりにも不可解にして不可思議な状況そのものについて、俺は、全く判断材料を欠いている。
 俺が何者なのか、勇者なのか英雄なのか、それは保留しておこう。ともかく、ここがどういう場所で、いったいいかなる状況の中にあるのか、それが分からないことには、俺としては何も決めようがない。
「今、この場で……全てを説明できるわけではありません……」
 まるで俺の考えを察してくれたように、イレーヌさんが言った。
「よろしければ、我が王家の宮殿までいらしていただけませんか? そこで、さらに詳しいお話を……」
 イレーヌさんがそこまで言ったところで、俺は、ようやく気付いた。
 彼女の顔が、不自然に紅潮している。それに、さっきから、呼吸も不自然だ。
「あ、す、すいません、失礼」
 俺は、思わず手を伸ばし、イレーヌさんの額に触れた。
「あ……」
「すごい熱だ! イレーヌさん、体調だいじょうぶなんですか?」
 だいじょぶなわけないじゃないか。彼女は、あのランズマールの触手に締め上げられ、その上、失心するくらい強く地面に叩きつけられたんだぞ。
 まったく、自分の疑問ばかりにかまけてて……俺はなんてバカなんだ。
「すいません、察しが悪くて……えっと、とにかくその、宮殿ですか? ともかく、イレーヌさんの家に帰りましょう」
「あ……あの……勇者様……?」
「話は後でいいです。あの、立てますか?」
 俺は、先に立ち上がり、イレーヌさんに手を差し出した。
「ありがとうございます……」
 イレーヌさんは、なぜか瞳を潤ませながら、白く優美な手を俺に差し出した。



「これ、なんて動物なんですか?」
「はい……竜馬といいます」
 俺の疑問に、イレーヌさんが答えた。
 りゅーま。何とも奇妙な動物だ。
 プロポーションや大きさは、俺の知っている馬とほとんど同じだ。長い首に、逞しい胴体。そして、そこから四肢がすらりと地面まで伸びている。
 だが、その白い体表は光沢のある鱗に覆われ、足の先端にはワシやタカのような爪がある。そして、その頭部は、尖った鼻先と牙のはみ出た大きな口が特徴的な、爬虫類のそれだった。しかも、耳の後ろからは、湾曲した角までが生えている。
 俺は、その竜馬の背中に、イレーヌさんとともに乗っている。俺が前に位置して鞍にまたがり、イレーヌさんはその後ろで横座りだ。どうやらイレーヌさんは、宮殿からあの遺跡までの行きの間も、横座りだったらしい。確かに、イレーヌさんの服装では、鞍の上にまたがるのは難しいだろう。
 イレーヌさんいわく、おとなしく賢い子なので、問題はなかったそうだ。
 なお、例のサタナエルの剣は、鞍の金具に紐でくくりつけ、ぶら下げている。そうした時、剣が不満げな唸りを上げたように思えたのは、たぶん気のせいだろう。
 宮殿までは、思いの外、距離があるようだった。
 と言うか、いけどもいけども、森の中の細い道である。
 おそらく往路は、このおとなしく賢い竜馬が、それなりに駆け足だったのだろう。しかし、復路である今は、かなりゆっくりとした歩調である。
 手綱を操る俺が不慣れということもあるが、問題は、むしろイレーヌさんだった。
 イレーヌさんの容態が、徐々に悪化してきたのである。
 今やイレーヌさんは、俺の体にもたれかかるだけでなく、ずり落ちないように両腕でしがみつくような格好になっている。
 息も荒く、苦しそうだ。服越しに体温の高さも伝わってくる。
 そして、俺の背中は、イレーヌさんの体温だけでなく、その豊かな胸元の、むにゅっというか、ぐにゅっというか、ともかくその感触まで、感じ取っていた。
 そのあまりに魅惑的なボリューム感に、頭がカッカと熱くなる。うう、なんて無節操なんだ。
「……勇者様」
「な、なんです?」
 イレーヌさんの、苦しそうな息の中から紡がれた言葉に、俺は、思わず声を裏返してしまう。
「あの……もし、よろしければ……勇者様のお名前を……」
 うん、そうだった。俺は、今まで、失礼なことにイレーヌさんに名乗っていなかったのだ。
 考えてみれば、そもそも勇者様なんて呼びかけ自体が恥ずかしい。
「俺の名前は……」
 その、極めて簡単かつ基本的な個人情報を口にしかけて、俺は、思わず口ごもった。
「えっと……トールです」
 あれ、なんかセリフの表記がヘンだ。これじゃ北欧神話の雷神様みたいじゃねーか。
 いや、でも、じゃあどんな字を書くのかというと……思い出せない。そもそも、俺の苗字は何ていったっけ?
 苗字、つまりファミリーネーム。家族や一族で共通する名前。それは、えっと……マクライ。そう、マクライだったはずだ。
 ファミリーネームがマクライ。ファーストネームがトール。で、ファーストネームという以上、トールの方が先にくるから、俺のフルネームは、トール・マクライってことになるよな。
「…………」
 なんか、違うな。漠然とした違和感がある。ミドルネームが足りないのか?
 いや、そもそも、自分の名前を思い出すだけでこんなにかかるってのはどういうわけだ?
 内心、いささか慌てながら、自分自身に関する知識を脳内で検索する。
 名前は、トール・マクライ。年は、確か15歳。住所は……立場は……家族の名前は……知人や友人は……えーと……うううううう。
 出ない。出てこない。あああ、俺、若年性の健忘症か何かにかかってしまったんだろうか。
「――あの、トール・マクライって名前以外は、思い出せないです。その、もっときちんとした名前のような気がするんですけど」
 我ながら情けない声で、そんなふうにイレーヌさんに言う。
「召喚の際に……この世界に馴染まない記憶が、欠落してしまったのかも……本当に……本当に、申し訳ありません……」
 イレーヌさんが、俺の背中に額を押し付けるようにしながら、詫びた。
「でも……トール・マクライ様……いい、お名前ですね……」
「そ、そうですか?」
 自分の属していた世界では、ありふれた名前だったような気もするんだけど……うーん、それすら思い出せない。
「トール様……」
 喘ぐような細い声で、イレーヌさんが呼びかけてくる。
「すいません……少し、休ませていただけますか……?」
「え、ああ、も、もちろん」
 俺がそう言うと、竜馬は、まるで意を悟ったかのように、その場に立ち止まった。
 その背中から先に降り、イレーヌさんに手を貸す。
「あ……!」
 地面に降り立ったイレーヌさんが、バランスを崩し、俺の胸の中に倒れ込む。
 いや、違う。イレーヌさんは、自ら、俺の体に抱き付いてきたのだ。
「トール様……」
 至近距離から、イレーヌさんが、俺の顔を見上げる。
 その時初めて、俺は、イレーヌさんの身長が俺より少し低いことに気付いた。
「申し訳ありません……私……」
 どうしてイレーヌさんが謝っているのか、さっぱり分からない。
 いや、そもそも、俺は、そういうことを考えるだけの余裕を失っていた。
 腕の中の、柔らかな肢体。胸元に押し付けられたたわわな膨らみの感触。
 この状況で思考能力を失ってしまった自分を、誰が責められるというのだろう。
「イ、イレーヌさん?」
 イレーヌさんの顔が、なぜか近付いてくる。
 いや、なぜかも何も、つまり、イレーヌさんが、俺の体に腕を回し、爪先立ちで背伸びをしているのだ。
 イレーヌさんの緑色の瞳が潤み、その白い頬はバラ色に染まっている。
 そして、その艶やかなピンク色の唇から漏れる吐息が、俺の口元をくすぐった。
「トール様……」
 むちゅ。
 柔らかい――これ以上柔らかいものはこの世に存在しないんじゃないかと思われるような、柔らかい感触。
 それが、俺の唇を覆うように触れてきている。
 あんまり近くにあるんでイレーヌさんの顔に目の焦点が合わない。
 ふぅ、ふぅ、という、イレーヌさんの鼻から漏れる可愛らしい息の音が、耳に届いている。
 いろいろ総合して判断することで、ようやく、俺は、イレーヌさんが俺にキスをしているのだということを理解した。
「んっ……ちゅ……ちゅむ……んちゅ……ちゅぷっ……」
 イレーヌさんが、俺の体にしがみつき、顔をねじるようにして、俺の唇に唇を押し付け続ける。
 さらには、その舌先が、俺の唇を割り、口の中をくすぐってきているのだ。
 その感覚のあまりの甘美さに、俺は、我を忘れ――そして、俺の分身は、股間で浅ましく反応しまくっていた。
 まるで、そんな俺の下半身を刺激しようとするように、イレーヌさんが、ぐっと腰を俺の方に突き出してくる。
 ああ、もう、何が何だか分からない。頭の中がシチューのようにグツグツ煮えたぎってる感じだ。
「んっ……ちゅぶぶ……ちゅぷ……ちゅぱっ」
 ようやく、イレーヌさんの唇が離れる。
 だが、それは終わりではなく、むしろ俺の知らない何かの始まりなのだ。
「イレーヌさん……」
 未知なる領域への戸惑いを声に滲ませながら、イレーヌさんに呼びかける。
「申し訳ありません、トール様……その……触手の毒で……体が……」
 ようやく、理解した。イレーヌさんは、あのランズマールの野郎の触手のせいで、こんなふうになってしまったのだ。
 いや、しかし、それが分かったからと言って、俺はいったいどうすれば――
「トール様……お願いです……」
 イレーヌさんが、消え入りそうな声で、俺に囁く。
「はしたない女だと蔑んでいただいて結構です……でも……どうか……どうか、私の体を……抱いて、ください……」
 語尾が、耐え難い羞恥と、それ以外の何かに、震えている。
 イレーヌさんが、俺に、何かを求めている。
 それが何であるか、俺は、理性や知識でなく、本能で理解した。
 そして――どうしてこんな言い訳をするのかよく分かんないけど――俺は、もといた世界のことも、あいつのことも、その時、忘れてしまっていたのだ。
 いや、そういう記憶が残っていたとして、俺は、自分の体のいちばん奥底から湧き上がるこの衝動に抗えたかどうか――
 ともかく。
 俺は、イレーヌさんに求められるまま、その体を抱きしめ……そして、柔らかな下草の上に、彼女を横たえたのだった。



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