プロローグ
今朝も、若葉芙美子は仏頂面だった。
切るのが面倒だからという理由で伸ばされた髪は、オレンジ色の髪留めでいいかげんに後ろにまとめられており、メガネの分厚いレンズの上の眉は、かすかにしかめられている。それでもって、通った鼻筋の下の口元は、への字を描いていた。
「おっす」
「おはよ」
俺の挨拶に、玄関から出てきた芙美子が、ぼそっ、と応える。
およそ洒落っ気のないバッグを肩にかけたその肢体は、いつものことではあるのだが、学校指定の緑色のジャージをまとっていた。
「おいおい、またそれで登校すんのかよ」
「いいのよ、ラクだから」
そう言ってから、芙美子は、ほわ、と無防備にあくびをした。
何とも無愛想な態度だが、別に俺は気にならない。
「急げよ、50分の電車に間に合わねーぞ」
「次の電車に乗ればいいじゃない」
そう言いながら、芙美子が、どこか危なっかしい足取りで歩き始めた。
俺は、並んで歩きながら、どうにか芙美子のペースを上げようと、歩調を慎重に速めていく。
「また、徹夜か?」
「んー、貫徹じゃないけど、ちょっとね」
「お前な、まだ月曜日だぞ。少しセーブしろよ」
「うっさいわね。いいのよ。授業中に寝るから」
「ん、まあ、そうか」
俺は、納得せざるを得なかった。芙美子はこの宣言どおり、授業中に寝ることに躊躇が無い。
「で、また指されそうになったら俺に起こさせるんだな」
「別に頼んでない。透のお節介焼き」
そう言う芙美子の口調は、相変わらず素っ気なかった。毎朝こうやって自宅まで迎えに来ていることへの感謝の気持ちなど、みじんも感じられない。
だが、そんな態度にも慣れっこだ。こいつとは小学校時代から――いや、きちんと記憶には無いが、幼稚園時代からの付き合いである。そして、芙美子が言うところのお節介を焼くのは、すでに俺にとって第二の天性となっている。
俺は、こっそり苦笑いしながら、ちょっと視線を空に上げた。まさに五月晴れのこの空のように、俺の気持ちはなぜか浮ついている。もちろん、これは、芙美子と一緒に登校しているからではない。断じてない。
さて、駅の入り口まで来た時、ちょうど、電車が間もなく到着する旨のアナウンスが流れていた。
「お、来るぞ、走れ」
「なんでよ。だから、次のでいいじゃない」
「それだと向こうの駅から学校まで走らなきゃならないだろ。それでいいのかよ」
「遅刻したって構わないわよ」
「俺はいやだ。ほれ、行くぞ!」
有無を言わせず、線路をまたぐ駅舎の階段を駆け登ると、芙美子は、ますます口をへの字にしながらも付いてきた。
そのまま改札を走り抜け、二段抜かしで階段を降り、ちょうどホームに滑り込んで来た電車のドアに身を躍らせる。
ぷっしゅー、と音をたててドアが閉まり始めたその時、芙美子は、まだ階段を降り切ってさえいなかった。
「早くしろって」
言いながら、俺は、ドアの間にわざと体を挟む。
ガタン。
「うげ」
目算を誤り、肘で止めようとしたドアが俺の腹を襲う。うう、他のお客さんの視線が痛い。
ぷしししし、と音をたて、しぶしぶとドアがまた開いた。
俺の献身的な犠牲によって開かれたそのドアを、仏頂面の芙美子がくぐる。
「……頼んでなかったのに」
電車が走り始めてから、芙美子が、レンズの奥のジト目で俺を軽く睨んだ。
「ああ、俺が勝手にしたことさ」
そうそう。こんなことで恩に着せるつもりはない。
「それより、そこ、空いてるぞ」
都心とは反対方向を目指すこの電車は、この時間、それほど混んでるわけではない。俺は、一人分の空席を芙美子に指で示した。
「ん」
芙美子は、小さく肯くような仕草をして、意外と素直にその席に腰掛けた。
「着いたら起こしてやるよ」
「ん」
再び、返事ともいえないような返事を寄越し――芙美子は、かくん、と首を落とし、即行で寝やがった。
まったく、マジで睡眠不足らしい。
しかしまあ、そんな芙美子の無防備な寝顔は、普段見せてる仏頂面よりは、はるかに――
なんて思いつつも、いつの間にか、俺の視線は、その寝顔のさらに下、ジャージの上からも分かる豊かな膨らみへと移動していた。
甘く桃色な妄想が脳内を占めそうになるのを事前に察知し、慌てて視線を上げ、流れ行く窓の外の平和な風景を眺める。おお、俺ってストイック。
そして――朝方まで見ていた夢の内容を、ふと思い出しかけた。
最近では珍しいくらい、しっかりとした構成のある、面白い夢だったと思う。今朝、俺が何となくフワフワと浮かれたようになってるのも、夢見がよかったからに違いない。
にしても、どんな夢だったっけ……?
シーンの断片は脳裏によみがえるのだが、夢はあくまで夢だ。きちんとしたストーリーラインにはなかなか整理できない。
結局、俺の脳内ディレクターが諦めて肩をすくめようとしたところで、電車が目的の駅に着いた。
「ほれ、着いたぞ」
船を漕いでいる芙美子の頭を、こつん、と叩いてやる。
「ほあ?」
芙美子は、間抜けな声を上げながら顔を起こし、手の甲で口元を拭ってから、さすがに恥ずかしそうな表情を浮かべた。
俺こと枕井透と、そして若葉芙美子は、私立星倫高等学校に今年入学した新入生である。
一応は進学校に数えられていながら、公立校並みに暢気な校風ゆえに、よほどの覚悟がない限り、在学中にがくんと偏差値が落ちるという、そんな曰く付きの高校だ。
そして、俺も芙美子も、そんなのんべんだらりとした雰囲気に惹かれて、この高校を第一志望とし、どうにか潜り込むことに成功したわけである。
確かにウチの高校はのんびりしていた。この一カ月半で、早くも俺はその校内風土にどっぷり肩まで浸かってしまっている。
だが、芙美子のマイペース具合は、俺の予想の遥か斜め上だった。
いかなる天の配剤か、それとも出身中学校で適当にまとめただけなのか、俺と芙美子は同じクラスだった。
んでもって、芙美子は、入学式翌日以降、ずっとジャージ姿で授業を受けているのである。
もし、このまま夏になったら、こいつは体操服とブルマで一日を過ごすんだろうか? うーむ、興味はないでもないが、是非とも見たいという感じでもない。
そんな微妙なことを考えながら、すぐ斜め前方の席でこっくりこっくりやってる芙美子の方を見る。ってか、ただでさえ服装で目立ってるんだから、ちょっとは眠ってないように見えるように、姿勢で工夫するとかしろよな。
と、板書をしていた白衣姿の若い女教師――理科担当である烏丸先生が、くるりと生徒の席の方を向く。
そろそろ芙美子の列が当たる番のはずだ。俺は、消しゴムのかけらを芙美子目がけて弾き飛ばした。
そいつは、ぴし、と見事にヤツの後頭部に当たり、芙美子はがばっと顔を上げた。
付近の連中が、くすくす笑いを噛み殺してる。
まるで、余計なことして安眠を妨害するな、とでも言いたげな顔で、芙美子が俺を睨んだ。
「は〜い、じゃあ若葉さん、ここで挙げてる元素の性質って、どんなことを言うんだっけ〜?」
まるで、幼稚園の先生か保育園の保母さんみたいな口調で、烏丸先生が、訊いてくる。
芙美子は、烏丸先生がビビリを入れそうなほどのしかめっ面を作ってから、何ともズレた感じのことを、ぼそぼそと口にしたのだった。
ウチの学校には、食堂がある。
実を言うと、高校生になったという実感を初めて抱いたのは、中学時代よりもさらに訳分かんなくなってる授業内容に接した時でも、やたら本格的で力の入ってる文科系の部活を見学したときでもなく、ここでメシを食ったときだった。
だってさ、俺の通ってた公立中学校には、食堂はおろか、自動販売機すらなかったからね。
まあ、そんな感動も、ここで一月以上も昼飯を掻き込んでるとそろそろ薄れかけてくるわけだが――さて、話が前後して申し訳ない。俺と芙美子は、弁当派でも購買派でもなく、学食派である。
俺の場合は母親がもう弁当は作りたくないと一方的に宣言したためだが、芙美子の場合、親御さんが仕事で家を空けがちだからである。
今日の昼飯は、定番のA定食にした。ご飯と、味噌汁と、白身魚を中心としたフライ盛り合わせと、千切りキャベツ。この内容で、ワンコインでお釣りが来るんだから、安い。
俺は、プラスチックのトレイにのった食事を運びつつ、芙美子の姿を探した。
――いた。今日も一人で部屋の端っこに座ってる。
芙美子の目の前のテーブルにあったのは、かけうどんだった。
「お前、またそれかよ」
芙美子の隣にトレイを置きながら、俺は声をかけた。
「先週は、そばだったわよ」
「あー、そう言えば、一週間ぶっ続けでかけそばだったな。栄養バランス悪いぞ」
「ほっといてよ。大きなお世話だわ。あんた、あたしのお母さん?」
芙美子が、俺の方すら見ずにそう言ってから、つるるん、と、うどんをすする。
実は、入学当初、こいつの小母さんに、芙美子がきちんとした昼食を摂るよう指導してやってほしいと頼まれたんだが、これは、本人にはもちろん内緒である。
「バランス云々はともかくとして、飽きるだろ?」
「だって、これが一番安いのよ」
「えーと、昼飯代を節約してまた何か買うのか?」
「画材にはいくらお金かけても足りないもの」
ふぅ、と小さく溜め息をつき、うどんをつるるんと啜る芙美子。
画材と芙美子は言うが、芙美子が描くのは水彩画とか油彩画とか、そういうものではない。まして、パステル画とか水墨画とか、そういうものとも違う。
漫画である。
芙美子は、実に小学校5年生の頃から、インクとペンで漫画を描いてる。スクリーントーンやトレス台は中学時代から使い始めたらしい。最近ではパソコンで描く練習を始めたって話だ。
小学校の頃は、まあやっぱり子供の絵だよねって感じだったが、最近ではかなりしっかりしたものを描いてるように思える。俺は読むのが専門なんでよく分からないんだが、Gペンの抜きを覚えたので云々、と言っていた。抜くって何を抜くんだ。誤解するぞ。
ちなみに、芙美子にはお姉さんがいて、東京で下宿しながら、兼業漫画家をやってるらしい。で、そのお姉さんの作ってる同人誌に、芙美子も漫画を載せてるらしいのだ。その同人誌を見せてくれるよう頼んだら、聞いていた冊数の一部しか貸してもらえなかった。何か年齢制限で引っかかるらしい。俺と芙美子は同い年のはずだろ。読む方はダメで描く方はイイのかよ、おい。
というわけで、芙美子の夜更かしの主な原因は、漫画やイラストを描きまくってるからなんだそうである。
ちなみに、芙美子としては、自分が服装に無頓着な件についても、漫画を描いてるせいにしたいようだが、芙美子のお姉さんはきちんとファッションに気を使ってるように見えた。そのことを指摘したら、3日間、口をきいてくれなかったんだけどな。
「――お金、欲しいなあ」
しみじみとした口調で言ってから、芙美子は、どんぶりを両手で抱えてうどんのつゆを啜った。
「ずいぶんとまあ、露骨だな」
「お金も欲しいし、才能も欲しい」
「そう言えば、アイデアに行き詰ってるとか言ってたな」
何でも芙美子は、既存のアニメや漫画のパロディーではなく、オリジナルの方が主体らしい。もちろん、パロはパロで描くのは大変なんだろうし、元作品に対する知識なり愛情なりが必要とされるのだろう。だが、オリジナルは、設定やキャラクターを一から考えなくてはならず、しかもそれなくしてはスタート地点にも立てない。
「SFとかファンタジー、描いてみたいのよ。何て言うか、思い切りキャラを暴れさせたいの。動きのある漫画にしたいのよね」
漫画の話になると、芙美子はけっこう饒舌になる。その顔に浮かぶのも、仏頂面とはちょっと違う表情だ。
「SFとかファンタジーねえ……」
俺も、思わず一緒になって考えてしまう。
芙美子の絵柄は、あまり女の子っぽくない。どちらかと言うと少年漫画向けだと思う。となると、細やかな心理描写で読ませるような恋愛モノより、センス・オブ・ワンダーな話の方が映えるのかもしれない。そもそも、本人が描きたがってる。うん、俺だって、叩き上げの漫画読みの端くれだ。ここは一つ協力してやろうじゃないか。
「ファンタジーって、何でもありだよな」
「そうよ。だから難しいの。うまく読者を乗せられればいいんだけど、あんまり好き勝手に描きすぎると、ただ訳が分からなくなっちゃう。きちんと、その漫画の設定が読者に伝わるようじゃないとダメなのよ」
「かと言って、あんまり説明的なのもあれだしなあ……」
「要は、現実の読者と、接点っていうか、共有できるものがあればいいと思うのよね。うまく言えないけど」
「接点……共有……うーん」
確かに、俺たちのいるここ、現代日本とはまるきり違う舞台の話なんだから、そこに感情移入してもらうには何かの仕掛けが必要だ。
かと言って、ファンタジー世界の住人に、あんまり現代日本的なメンタリティーを持って欲しくないってのもある。
どうする? どうすればいい? えっと、つい最近、何かヒントになるようなことがあったような気がするんだけど……。
パチパチと、俺の脳内で脳細胞どもが小さな小さな電気の火花を散らす。
今朝まで見ていた、あの楽しい夢。あれは、本当にドキドキした。えーっと、どういう内容だったっけ……?
「あー、えっとさ」
「何?」
夢の中身の骨格が、意味のある言葉になり、それを俺の発声器官が自動的に日本語にしていく。
「読者と同じ――つまり、現代日本の高校生が、異世界に召喚されるってのは?」
「――ベタ」
一刀の元に、芙美子が切り捨てる。
「陳腐、有りがち、在りきたりよね……そういう話、たくさんあるじゃないの」
「あう……ダ、ダメか?」
「ダメってわけじゃないわ。そういう設定で面白い話、たくさんあるものね。今流行ってるアレとかコレも、そういう感じじゃない?」
「何だよ、じゃあダメ出しみたいなこと言うな」
「だから、それだけじゃアイデアにならないってことよ。そもそも、そういうネタなら、私もだいぶ前に考えてたわ。ただ、もっと一捻りっていうか、一歩先にって感じで……」
「先のことは気にしないで、いっそ出たとこ勝負で書き始めたらどうだ?」
無責任に、そんなことを言ってみる。
「まあ、それはそれで手でもあるんだけどね。あんまり先を決めて書くと、どうしてもパターンになっちゃうから……だけど、そもそも構成をきちんときめてページを割り振らないと……うーん……」
芙美子が、自らの思索に没入していく。
今までも何度も見てきた、お決まりの風景だ。
やっぱり眉はしかめられてて、口はへの字なんだが、その表情は真剣で、何だかとても――
――どきん。
う、何だ、この動悸は。
いや、いやいやいや、違う、これは別に、飽きるほど見てる芙美子の顔を目にしたせいじゃなくて――
朝方まで見た、あの夢。その中身。内容。
それが、唐突に、まるでパズルが組み合わさるように、まざまざと脳内に蘇ってくる。
そうだ、この――痛快で、甘美で、そして、自分の夢として考えるとあまりにこっ恥ずかしいストーリー。
俺は、どういうわけか、この学食の中で、それを最初から最後まで、鮮明に思い出してしまったのだった。