【改訂版】
問題編
夕立が午後の空を黄灰色に染める中、林堂智視が外出先から家に帰ると、マンションの建物の前に、西永瑞穂がいた。
傘を差さずに佇んでいる瑞穂の体は、服が透けるほどに濡れてしまっている。
ポニーテールにまとめた髪をぐっしょりと濡らした瑞穂は、泣き顔だった。
「どうしたんだ?」
驚きのために、一瞬だけ声を詰まらせた林堂が、すぐに瑞穂を傘に入れ、訊く。
瑞穂は、物も言わずに林堂にしがみついた。
「……どっか、痛いところとか、あるか?」
林堂のその質問に、瑞穂は、無言で首を横に振った。
林堂が、瑞穂の体を抱き締める。
意外と高い林堂の体温が、雨に濡れた瑞穂の体を温めた。
「今、家に誰かいるの?」
震える声で、瑞穂が訊いた。
「いいや。俺一人だよ」
「――だったら、お願い。あたしのこと、すぐに抱いて」
瑞穂は、林堂の胸に額を押し付けるようにしながら、言った。
「お願いだから……うんと、優しくして」
「ああ」
林堂は、肯いた。
カーテンの引かれた、林堂の自室――
服を脱がし、体を拭いてやりながら、林堂はこっそりと瑞穂の体を確認した。
外傷は特に無く、何者かに凌辱されたような痕跡も無い。
林堂は、密かに安堵の息を吐き、そして、そんな自分を蔑むようにかすかに眉を寄せた。
「……智視ちゃんも、脱いで」
「ああ」
全裸になった瑞穂にそう言われ、林堂は真顔になって肯いた。
そして、いささかのためらいも見せず、やや痩せ気味の引き締まった体を、瑞穂の前にさらす。
どこかぼおっとした目で自らを見つめる瑞穂を、林堂が抱き寄せた。
そっと、壊れ物に触れるように、口付けする。
唇と唇の表面が、ほんのわずかに接触するだけの、軽いキス。
と、瑞穂は、さらに強いキスを求めるように、林堂に体を寄せた。
形のいい白い乳房が、わずかにつぶれる。
林堂は、瑞穂の意図を探るように、より濃厚なキスへと移行していった。
「ん、んっ……んふ……ふぅん……んふ……」
瑞穂が、うっとりとした声音を漏らし始める。
それを確認して、林堂は、瑞穂の体をベッドに横たえた。
そして、頬から首筋へと唇を這わせ、その指先で乳房を優しく撫でる。
「……ね、智視ちゃん」
瑞穂の声に、林堂は顔を上げた。
潤んだ瑞穂の瞳が、林堂の顔を見つめている。
「なに?」
「……あのね……あたしと、結婚してくれる?」
「ああ」
ほとんど間を措かず、林堂は答えた。
「……ありがとう」
ほっとしたように、瑞穂は言った。
そんな瑞穂の体に、林堂が、舌と唇、そして指と掌を滑らせる。
「あ、くぅん……」
瑞穂は、子犬のような声を上げて、軽くのけぞった。
そして、下から、林堂のペニスに手を重ねる。
「かたい……」
どこか濡れたような声で、瑞穂が言う。
そして、くすりと、瑞穂は笑った。
「ん?」
「ううん……最初に智視ちゃんのに触った時のこと、思い出しちゃった」
そう言いながら、瑞穂が、林堂のペニスを優しく撫で上げる。
「智視ちゃん、すごく困った顔してたよね」
「人に体を触られるの、苦手なんだよ」
「……今も?」
「ああ」
そう言いながら、林堂も、瑞穂の股間に手を重ねる。
「でも、瑞穂に触られるんだったら、今は平気だな」
「んっ……そ、そうなんだ……」
「ああ……何だか、安心する……」
「……うれしい♪」
にこりと、瑞穂が笑みを浮かべる。
林堂は、その顔に軽いキスを繰り返しながら、股間に重ねた手を優しく動かした。
瑞穂も、林堂の陰茎や睾丸を、柔らかく揉む。
普段の行為に比べるともどかしいほどに優しい刺激を与え合いながら、瑞穂と林堂は、次第に息をせわしなくさせていった。
林堂のペニスが瑞穂の手によってさらに固くなり、瑞穂のクレヴァスが林堂の指によって柔らかく綻びる。
二人の手は、互いが溢れさせた透明な体液によって、見る間に濡れていった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……さ、智視ちゃん……」
「んっ……なに?」
「お願い……もう、入れて……」
「……ああ」
いつもなら、意地悪く焦らすところを、林堂がひどく素直に返事をする。
瑞穂は、林堂を迎え入れるべく、ゆるやかに足を開いた。
林堂が、瑞穂の白い体に重なったまま、腰の位置を合わせる。
すでにぬるぬるに濡れている亀頭と秘唇が、くちゅりと触れ合った。
「ん……っ」
林堂は、ゆっくり、ゆっくりと、腰を進めた。
逞しく反り返ったペニスが、膣口を擦りながら、中へと侵入していく。
「あ……はふ……」
瑞穂は、自分の中が押し広げられるような感覚に、喜悦の吐息をついた。
奥へ、奥へと、着実に、林堂のペニスの先端が進んでいく。
そして、丸い亀頭が、瑞穂の膣奥に、ぐうっ、と柔らかくめり込んだ。
「あふぅ……」
甘いため息をつく瑞穂の華奢な体を、林堂は、両腕でしっかりと抱き締めた。
鋭くはないが、穏やかで温かな快感が、瑞穂の体内を満たしている。
「智視、ちゃん……」
潤んだ瑞穂の瞳が、林堂の目を見つめる。
林堂は、その整った顔にかすかな笑みを浮かべてから、抽送を開始した。
「あ……あ……あん……あぁ……あ……あぅ……あっ……」
ゆったりとした腰の動きに合わせて、林堂のペニスが、瑞穂の体内を出入りする。
愛液にまみれた二人の性器が、滑らかにこすれ合い、快楽を紡ぎだしていく。
それは、けして激しくはなかったが、瑞穂と林堂の性感を着実に高めていった。
「うん……んく……あっ……あぁん……あふ……はぁっ……」
ゆるやかに動く林堂の体を、瑞穂が下から抱き締める。
互いの息が、耳朶や首筋をくすぐる感触に、二人は、背中を震わせた。
「あん……あぁん……智視、ちゃん……すごく優しい……」
「そう、言われたからな……」
「んふっ……うれしい……あぁん……こういうのも、たまには、いいね……あうぅん……」
喘ぐようにそう言いながら、瑞穂は、さらに奥に林堂を迎え入れようとするかのように、腰を浮かした。
「んっ……」
林堂が、かすかに声を漏らす。
瑞穂の膣内が、可憐な外観を裏切るように、うねうねと激しくうごめきだしたのだ。
すでに何度も味わっているため、うろたえたり、とまどったりすることはないが、それでも、林堂は鮮烈な快感に息を荒くさせた。
「くっ……ふ……はっ……はっ……瑞穂……」
いつもなら、瑞穂の羞恥を煽り、それによってさらなる快楽を引き出そうとするのだが、今日の林堂は、それをしない。
ただ、しっかりと固定するように瑞穂の体を抱き締め、一定のリズムで腰を動かす。
「あん、あぁん、あん、あん、あぅん、あっく、あふ、あはぁっ……」
それでも、瑞穂は、次第に追い詰められつつあった。
緩やかだったはずの快感の高まりが、体奥での甘い刺激の累積によって、制御できない勢いになっていく。
「あっ、ああっ、さ、さとみ、ちゃんっ……! ああん、あん、ああああっ、あん、あああっ……!」
もだえ、くねり、のけぞる瑞穂の体に、林堂の腕が絡み付いていた。
その圧力に、瑞穂は、今まで自分を拘束してきたさまざまな拘束具の感触を思い出してしまう。
手錠――ロープ――革のハーネス――ラバーのスーツ――
それらは、全て、自分を抱き締める林堂の腕だったのだ。
そして今も――
「んああああああっ……!」
ずんっ、と子宮の入り口を、林堂のペニスが突いた。
重苦しく甘い痺れが、全身を貫く。
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ……んあああっ、ああん、あん、あああああああっ!」
瑞穂の体内で、高まった快楽が、ある一線に迫っていく。
まるで、極限まで膨れ上がった線香花火の火球が、じくじくと音をたてて震えているような感覚――
林堂は、そんな瑞穂の感覚の変化を察したように、抽送のリズムと角度を変えた。
「あ、あ、あ、あ、あ、あっ、あう、あん、あん、あん、あん、あんっ!」
快楽の高まりに比例するように、瑞穂の声も高くなっていく。
林堂自身も、かなりの快感を感じているのだろう。目を閉じ、歯を食いしばるようにして、腰を動かしている。
が、瑞穂は、そのことに気付く余裕すら失っていた。
体内で、巨大な線香花火が、今まさに火花を散らそうとしている。
「あ――さ、智視ちゃん……イクっ!」
思わず声に出し、そして、それがきっかけになった。
「あっ、あああっ、イク、イク、イク、イク、イク、イクぅ……イクうっ!」
ぎゅうううううっ、と瑞穂の膣内が収縮する。
それに逆らうように、林堂が、ピストンを激しくした。
ペニスが、愛液を撒き散らすように、クレヴァスを出入りする。
「あん、ああああん、あん、あーっ! イクっ! イクーっ! あああっ、す、すごい……また、またイっちゃう! あああっ! イっちゃう! イクーっ!」
絶頂の感覚が累積し、さらなる絶頂が到来し、絶頂し続ける。
五感がパニックになるほどの快感の中、瑞穂は、ただあられもなく叫びながら、林堂にしがみついていた。
「イク、イク、イク、イク、イクっ! イクイクイクイクっ! あーっ! あーっ! あーっ! イクっ! イクうぅゥーッ!」
激しく痙攣する瑞穂の膣内で、熱い何かが――弾けた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
瑞穂は、自分がクレヴァスから透明なしぶきを迸らせていることにすら気付かぬまま、まばゆい純白の絶頂に飲み込まれてしまった。
「ふーっ……」
瑞穂は、林堂に肩を抱かれ、同じシーツにくるまりながら、息をついた。
先程、どれだけ大きな声を出してしまったのか、かすかに覚えているのだろう。その可愛らしい丸顔には、恥ずかしそうな表情が浮かんでいる。
「落ち着いたか?」
憎らしくなるほどにいつも通りの声で、林堂が瑞穂に訊いた。
「うん……」
そう、静かな声で、瑞穂が答える。
林堂は、瑞穂の華奢な肩に回した手に力を込め、その体を引き寄せた。
それ以上、話を催促するようなことはしない。
しばし、時間が過ぎた。
「……お父さんにね、会ったの」
瑞穂は、不意に、そう言った。
「それは……」
林堂が、珍しく言葉を探す。
瑞穂の両親は、彼女が中学生の時に、離婚している。林堂はすでにそのことを瑞穂から聞いて知っていた。
「お父さんね――東京で、けっこう有名な占い師のアシスタントみたいなこと、してたの」
「占い師……?」
「うん。それとも、宗教の人なのかな? けっこう、テレビにも出てる人。牟津美星子っていうんだけど……」
「……」
林堂が、自らの頭の中の情報を検索するかのように、目を細める。
牟津美星子は、タロットカードを使った占いや精神世界に関する本を多数著した占い師だった。最近ではメディアでの露出も増え、雑誌に連載をしたり、テレビ番組にレギュラー出演したりもしている。
芸能界にもその信奉者は多く、また、彼女が経営している“牟津美スーパーサイエンス・アカデミー”では、多くの生徒が占いや超能力などについて学んでいるという。
牟津美星子は、ごく控えめに、自らにはいわゆる超能力が備わっており、占いはそれによって行っている“予言”なのだと主張した。そして、それを証明すべく、テレビのスタジオなどで、カードを使った予言や透視などのデモンストレーションを行うこともあった。
特に際だった容姿をしている訳でもなく、突飛な服装や演出をする訳でもないのだが、むしろそれが、牟津美星子の能力に説得力を与えていた。
「……でね、一月くらい前のことなんだけど、お母さんは、その人を東京に取材に行ったの」
瑞穂の母は、小説家兼フリーライターをしている。これまでは地元のミニコミを中心に活動をしていたのだが、最近は大手出版社の雑誌などに寄稿することが多くなり、いきおい、東京に出て行くことが多くなっているということを、林堂は知っていた。
「で、その時に、お母さんはお父さんに偶然会ったんだって」
「偶然、ね……」
「うん。でも、その牟津美って人は、お母さんが来るのは分かってたって言ったみたい。自分が運命を動かして、お母さんが取材に来るようにしたんだ、って……」
「……」
「で、取材が終わってからも、お母さんは、その人の学校――なのかな? とにかく、そこで、お父さんに会ってたみたいなの。で、いろいろとあたしのこととか、話し合ったみたいなんだ」
「それは――その牟津美とか言うのも、同席してたのか?」
「たぶん。それで、なんか、お父さんとお母さんは、あたしのために、また一緒になった方がいいんじゃないかって話になったみたいで……」
瑞穂が、自らの膝を抱くような姿勢で、目を伏せた。
「牟津美って人も、それがいいって言ったみたいなんだ。家族が離れ離れなのはよくないから、って――で、運命を動かして、離婚する前に戻してくれる、って」
「……小母さんは、その気になったのか?」
林堂が、固い声で訊く。
「分からない……。でも、だんだんそういうつもりになってきたみたいなんだ。そもそも、離婚してから、ずーっと仕事ばっかりだったから……そのこと、すごく引け目に思ってたみたいだし……」
「……」
「でね、あたしも、昨日、お母さんに連れられて東京に行って…今日の午前中に、お父さんと、その牟津美って人に会ったの」
「……」
林堂は、無言で、瑞穂の次の言葉を待った。
その手が、瑞穂の肩を、優しく撫でている。
「うまく言えないんだけど――お父さん、ますますヘンになってた」
瑞穂は、目を閉じながら、言った。
「もともと、お父さんって、ちょっと変わった人だったの。自分のすることを、誰かが邪魔してるとか、いつも誰かに監視されてるとか――それが、どんどんひどくなって、それで、離婚になっちゃったの」
林堂が抱いている瑞穂の肩が、細かく震えている。
「それでね……お父さんってば、今日、久しぶりに会ったあたしにも、延々と、牟津美って人の超能力の話しかしないの。過去や未来を見ることができるとか、運命を操ることができるとか……自分はこの人によって救われたんだから、お母さんやあたしも必ず救われるって……」
「小母さんは、どうだったんだ?」
「お母さんは――何も言わなかった。お父さんみたいに熱心に話はしなかったけど、でも、お父さんの話を遮るようなこともなかったんだ。だけど――お父さんのこと、また好きになったみたいには、見えなかった」
「瑞穂のために我慢してるようだった、ってことか?」
「うん――」
そう返事をしてから、瑞穂は、閉じていた目から涙をこぼした。
「――悪い」
林堂が、軽く唇を噛んでから、詫びの言葉を言う。
「ううん、いいの。本当にそうだったんだから……」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、瑞穂は言った。
「でも……でも、もし、あたしのためだけで再婚するなんて二人が言い出したら……あたし……あたしの居場所、なくなっちゃうよ……」
「そうだな」
林堂は、静かに言った。
「……それで、結婚してくれなんて言ったのか?」
「うん……。ごめん、ヘンなこと言っちゃったね」
「いや――嬉しかったよ」
「……もう」
瑞穂が、泣き笑いのような表情を浮かべる。
「で、その場で、牟津美星子はどんなふうだったんだ?」
「……牟津美って人は……ずっと、あたしたちのことを、見ていたの」
指で涙をぬぐいながら、瑞穂は言った。
「なんだか、薄暗い、気味の悪い部屋だった。丸いテーブルがあってね、で、その一番奥の席に、牟津美って人は、座ってたの」
「……」
「その人は、ずっと、笑ってた。別に、声をあげてるわけじゃなくてね、にこにこした顔で……テレビに映ってる時と、同じ顔だったな。それで、お父さんと、お母さんと、あたしのこと、ずーっと見てたの」
「……」
「普通に笑ってるだけなのに、なんだか、ちょっと怖い顔だった」
そう言ってから、瑞穂は、林堂の顔に視線を移した。
「――たまに、智視ちゃんも、そういう顔するよね」
「勘弁してくれ」
林堂は、渋い顔をして見せた。
瑞穂以外の誰にも見せないような顔だ。
そのことに、瑞穂は、安心したようにくすりと笑った。
が、その笑顔が、すぐに引っ込む。
「ね、智視ちゃん」
「ん?」
「――予言って、本当にあると思う?」
雨が上がり、雲が晴れると、すでに夕暮れだった。
沈む寸前の太陽が、西の空にわずかに残った雲を、朱色に染めている。
そんな中、乾燥機で乾かした服に袖を通した瑞穂が、マンションから外に出た。
「じゃあ、さっきの件、俺の方で調べておくから」
帰りかける瑞穂に、玄関から林堂が声をかける。
「うん……。ありがとう、智視ちゃん」
「気にするなよ。それより、何かあったら電話しろよな」
「うん」
そう返事をして、瑞穂が、濡れた路上を自分の家へと歩き出す。
林堂は、そんな瑞穂の後姿を、視界から消えるまで見つめ続けていた。
そして――
「……ふぅ〜ん」
わざとらしいその声に、林堂は、マンションのエントランスに素早く振り向いた。
「慧那……! いたのか?」
「あれが、お兄さんの彼女なのね」
少女が、林堂の背後に立ち、くすくすと笑っている。
年の頃は、十二、三歳。ちょうど思春期まっさかりといった、ほっそりとした伸びやかな肢体をしている。
顔立ちは幼く、表情もあどけない。が、その目の光には、どこか年に似合わない大人びた色があった。
彼女の名は、林堂慧那。林堂智視の妹である。
「お前――父さんたちと出かけてたんじゃなかったのか?」
ドアを閉め、家の中に上がりながら、林堂が訊く。
「生理だからってパスしちゃったわ」
「そういうことを明け透けに言うもんじゃない」
「家族の留守に女の子を連れこむようなお兄さんには、言われたくないわよ」
慧那は、平気な顔で切り返した。
が、妹のそんな口調はいつものことなのか、林堂はさして動じている様子ではない。
「もしかして、覗いていたか?」
「うん。お兄さんの部屋のクローゼットの中でね。勉強になったわ」
「まだお前には早いだろ」
少なくとも外見上は慌てる風もなく、林堂が言う。
「早くなんてないわ。生理が来てるんだから、私、赤ちゃんだって産めるのよ」
「生物学的にどうかはともかく、社会的に無理だし無茶だ。それに、体の方だって見るからに未成熟だしな」
慧那の際どい台詞に、林堂はさらに無遠慮な物言いで答えた。
慧那が、さすがに、むー、と頬を膨らませる。
が、すぐに、慧那は表情を和らげた。
「お兄さんは、あんな普通の子のどこがいいの?」
慧那が、どこか挑発的な口調で、林堂に訊く。
「……普通のところだよ」
「ごく普通の子を自分の趣味のままに変えていく快感?」
「そういうことじゃない。……男と付き合ったこともないくせに生意気言うなよ」
「ご挨拶ねー。慧那にだって、好きな人くらいいるのよ」
「人に特別な感情を抱くのと、人と特別な関係を維持するのとは、ぜんぜん別のことなんだよ」
いつになく説教臭い口調で、林堂は妹に言った。
「あ、そう」
慧那が、つまらなそうな顔をする。
「……ところで、お前のコレクションの中に、牟津美星子とかいう女のやつはあるか?」
「うん、もちろん。……見る?」
「ああ」
「じゃあ、とりあえず部屋に戻りましょ」
そう言って、慧那は、にっこりと笑った。
慧那が部屋のドアを開けると、何冊かの本が、どささ、と廊下に溢れ出た。
「お前、いいかげん部屋を掃除しろよ」
本と雑誌とビデオテープが散乱し、まさに足の踏み場もない、といった状態の妹の部屋を見て、林堂が眉をしかめる。
「これでも整理したのよ」
「ただ乱雑に重ねて積んだだけじゃないか」
「そんなことないわ。きちんとジャンル別に山になってるんだから」
「ジャンル別ね……」
「そうよ。あっちがUFO関係で、こっちが心霊現象。陰謀論はここで、これはUMA。お兄さんの足元のは超科学関係ね。えーっと、占いとか超能力はあそこの大きな山よ」
そう言いながら、慧那は、ほとんど床が見えない六畳間の中を、ひょいひょいと歩いた。
「いつも言ってるだろ。本棚は外に置くもんだ」
「だって、私の読みたい本って、あまり図書館に置いてないんだもの」
そう言いながら、慧那は、積み上げられた本やビデオテープを引っ掻き回し始めた。
「牟津美星子……えーっと、けっこう資料多いなあ。お兄さんは、どんなのが見たいの?」
「予言をやってるところを映したビデオがあれば、それを見たい」
「分かったわ。まあ、いつもタロットカードなんかを使ってるんだけど……ああ、ちょっと前にやった特番を録ったのがあったわ」
慧那は、目当てのビデオテープを山の中から見つけ、引っ張り出した。どちゃ、と積み上げられた本の塔のいくつかが、その煽りで崩れる。
「じゃあ、早速、見てみましょ」
「ここでか?」
「うん。いけない?」
テレビの前に積まれた本の山を左右にどかしながら、慧那が言う。
「いけないと言うか……どこに座ればいいんだ?」
「適当に見つけてよ」
そう言われ、林堂は、ため息をつきながら、ビデオテープの束をオカルト雑誌のバックナンバーの上に積む。
最低限のスペースを確保したところで、林堂は床に座った。
ビデオをセットした慧那が、器用に林堂の横に滑り込む。
青一色だったテレビにCM映像が流れた後、大袈裟な音楽と共に、番組が始まった。
番組は、牟津美星子本人についての特集番組らしい。まずは、彼女の紹介映像に、男のナレーターの解説が重なる。
慧那は、にこにこ笑いながら見ているが、林堂は仏頂面だ。
CMを一度挟んで、スタジオの映像になった。
司会者がひとしきり話をした後、暗かった照明が明るくなった。
芸能人や著名人に囲まれるような形で、牟津美星子が、ソファの上に座っている。
芸能人たちのあまり内容のないコメントを、牟津美星子が、穏やかな笑顔を浮かべたまま、聞いている。
恐らく五十代だろう。その顔には、年と共に自然に重ねられた落ち着きのようなものがある。
特に、変わった服装をしている訳ではない。高価そうではあるがごく普通の服に、ごく普通の化粧。パーマを当てた髪を暗い紫に染め、大きめの宝石をあしらった指輪などの装身具を付けているのが、特徴と言えば特徴だ。
番組も半ばを過ぎたころ、芸能人たちのトークが終わり、いよいよ牟津美星子が話をするパートになった。
「牟津美先生は、本当に未来が分かるんですかあ?」
そういう役割の担当なのか、ゲストのアイドル歌手が、おそろしく根本的な問いを放つ。
「……未来は、言わば織り物のようなものです」
牟津美星子が、静かな口調で言った。
「編まれた糸を正しく見ることができ、これまで織られてきた模様を正しく把握することができれば、未来を知ることは可能なのです。もちろん、この世界は複雑なものですから、運命を示すしるしをきちんと解釈するための技術と能力は必要です」
出演者が、真剣な顔で牟津美星子の話を聞いている様が、画面に映る。
一方、慧那は、コメディアンの登場するバラエティー番組でも見ているような顔でくすくすと笑い、林堂は聞くに耐えないという態度で口元を歪めていた。
「私には、幸いなことに、そのしるしを解釈する才能がありました。そして、長年の努力によって、その才能を伸ばし、人の未来を知ることができるようになったのです」
「いやあ、それはムリでしょう。人の運命なんて人には分かる訳がない」
否定派代表ということなのか、有名私立大学の物理学教授が、牟津美星子の言葉に噛み付く。
「未来を知るってことは知覚が光速を超えてるって事ですよ。しかし、どんな物質も光速を超えることはできない。だから、未来予知なんて不可能なんですよ!」
いっきにまくしたてる教授の言葉を、牟津美星子が笑顔で受け止める。
「動物の中には、人の見ることのできない波長の光を見るものがいます。でも、それを知らない人にとっては、そのことはまるで不可能に見えるでしょう? 自分にできないことを全て不可能事だと決めつけることはできませんよ」
「特殊なカメラを使えば人間にも紫外線や赤外線が見えます!」
「そう。つまり、私はそういう特殊なカメラを生まれながらに持っているということなのです」
「そんなことは絶対ない。ありえません!」
物理学者のその言葉に、スタジオ内に失笑が漏れる。
「第二次大戦中のイタリア軍だな」
疲れた表情で、林堂が言う。
「お兄さん、それどういうこと?」
「敵にするより味方にした方が被害が大きくなるってことさ」
「あははははははっ」
林堂の言葉に、慧那は、おかしそうに笑った。
その間にも、番組は進行し、牟津美星子が、出演者一人一人の過去と未来について占い始めた。
「――あなたは、新星のように今いる世界に現れましたが、その前の四年間は大変な苦労をしましたね」
牟津美星子の言葉に、アイドル歌手が驚いた顔を見せる。
「今あなたがしている仕事は、全てがあなたのやりたいことというわけではないでしょう。でも、それをきちんと続ければ、次の年には思ってもみなかった道が開けます。今、人知れずしている努力が、すぐに形になって現れますよ。それから――あなたの側に、一人の優しい協力者の姿が見えます」
そして、牟津美星子は、にこりと笑みを浮かべ、続けた。
「……最近、猫ちゃんを亡くしましたね」
「は、はい……!」
アイドル歌手の答えに、スタジオ内にいた観客がどよめく。
「私も猫ちゃんを飼っているから分かります。あなたは、いつもその子に励まされていましたね」
アイドル歌手が、手で口元を覆い、涙ぐみながら、肯く。
「あなたはたくさん悲しんだでしょう。でも、死ぬということは本当のお別れではないのですよ。その猫ちゃんのパワーは、死んだ後も、いつもあなたの近くにあって、あなたを助けてるんです」
牟津美星子の言葉が終わった時、林堂が、ビデオのリモコンの早送りボタンを押した。
「あーっ、面白いところなのに!」
「こんな占い、いくつ見ても同じだ」
「それがいいのよ」
「……まあ、小学生の社会勉強にはいいかもしれないけどな」
と、林堂は、早送りのボタンから手を放した。
スタジオの雰囲気が、少し変わっている。
「これから、牟津美星子さんの超能力に関する公開実験を行います」
薄暗くなったスタジオの中で、司会者が、カメラに向かって言った。
「牟津美さんは、ご自身の学校で、何度となく予言を行っています。その的中率は、まさに百発百中。失敗したことはありません」
そう言って、司会者が、布の敷かれた丸テーブルに歩み寄る。
牟津美星子はテーブルを前にして椅子に座っており、そして、テーブルの上には、トランプ大の一組のカードが用意されていた。
「ここにあるカードは、牟津美さんが占いを行う道具である、タロットカードと呼ばれるものです」
テーブルの上に置かれたのは、タロットのうち、大アルカナの1セットだった。
タロットカードは、一般に、22枚の大アルカナと、56枚の小アルカナによって構成される。小アルカナはトランプの起源とも言われる物で、一方、占いには大アルカナが使用されるのが一般的である。
『愚者』『魔術師』『女教皇』『女帝』『皇帝』『教皇』『恋人』『戦車』『正義』『隠者』『運命の輪』『力』『吊るされた男』『死神』『節制』『悪魔』『塔』『星』『月』『太陽』『審判』『世界』――大アルカナのカードには、様々な人物や事象が、象徴的に描かれている。占い師は、そのカードが意味するところを解釈し、占いに利用するのである。
「牟津美さんの相談を受ける人の運命は、このカードに示されるということです。そして、牟津美さんは、その能力によって、どのカードが示されるかを、あらかじめ知ることができるというのです」
司会者が、物理学者を呼んだ。
物理学者が、タロットカードを手にとって検分する。
「裏面に、目印となるような模様や汚れ、傷などはありませんね」
「ええ」
司会者の問いに、物理学者が答えた。
「では、牟津美さんに、先生自身の悩みと運命を占っていただきましょう」
司会者にそう言われ、物理学者は、眉を寄せながらテーブルに着いた。
「先生の悩みを思い浮かべながら、カードを切ってください」
牟津美星子が、にこやかな顔で、物理学者に言う。
物理学者は、馴れない手つきで、カードをシャッフルした。
「すり替えなどが行われないように、先生自身でカードを牟津美さんにお渡しください」
物理学者が、手に持っていたタロットカードの束を、牟津美星子に手渡す。
「すでに、先生には、カードの裏側に目印がないことを確認していただいてます。しかし、ここでは、より厳密な条件で実験を行うため、牟津美さんに目隠しをしていただきます」
司会者は、そう言いながら、アイマスクを取り出し、物理学者に渡した。
物理学者が、それを手に取り、実際に顔に当てたりして確かめる。
「視界は完全に遮られますね」
「……ええ」
物理学者はそう答え、牟津美星子がアイマスクを牟津美星子に渡した。
牟津美星子が、テーブルの上にカードの束を置いたまま、アイマスクを装着する。
そして、手探りで、物理学者がシャッフルしたタロットカードの山をテーブルの上で崩し、さらに、両手でそれぞれ円を描くようにして掻き混ぜた。
「タロットカードは、正位置と逆位置、つまり上下が正しいか逆さまかで、意味が違ってきます。そのため、このようにシャッフルするのです」
司会者がそう説明する中、牟津美星子が、手探りでカードを集め、再び山にしていく。
アイマスクで両目を隠した顔は、斜め上を向き、口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
牟津美星子が、カードの山を整えた。
ここで、すり替えなどが行われていないことを視聴者にもアピールするため、映像にカットが一切入っていない旨のテロップが、流れる。
「どうぞ」
牟津美星子が、カードの山を、前方に差し出した。
「私が予知の結果を言ってから、一番上のカードをめくってください」
牟津美星子にそう言われ、物理学者が肯く。
「先生は、私を――そしてあらゆる超能力者を、詐欺師だとお思いですね」
牟津美星子は、アイマスクを外しながら、言った。
「そして、それに対して知的なアプローチをしながらも、それに挫折し、悶々としてらっしゃる」
「そ、それはそうだ。しかし――」
「……あなたが目にするのは、『魔術師』のカードの、逆位置です」
牟津美星子が、物理学者の言葉を遮るように言った。
「……」
物理学者が、緊張した面持ちで、ゆっくりとカードをめくった。
「……!」
スタジオを、どよめきが包んだ。
物理学者がめくったカードには、ゆったりとした衣服をまとい、杖で天地を指した男が、地水火風の四元素の象徴を前にして立っている様が描かれていた。
“1”――『魔術師』のカードだ。
しかも、それは、牟津美星子の言葉通り、物理学者から見て逆さまだった。
「『魔術師』は、知恵と創造、そして出発のカードです。しかし、逆位置では、虚偽や詐欺、そして怠惰や迷走を意味します」
「……」
物理学者の表情が、強ばる。
「先生の、超能力を頑迷に否定する信念は、今やくじけかけている。それが私の心の目に映り、そしてカードもそのことを顕在化させました。同じ物を示しているのですから、私の言葉とカードが一致するのは当然のことなのです」
「そ、そんな……これは、トリックだ……カードに何か仕掛けが……」
物理学者が、声を震わせて言う。
だが、もしカードの裏に何か目印があったとしても、牟津美星子が自らがシャッフルする手元を見ることができなかったのは誰の目にも明らかだった。何しろ、アイマスクは、物理学者自身が確認したのだ。
「ご安心ください、先生」
牟津美星子は、勝利者の余裕に満ちた笑みを浮かべながら、物理学者に言った。
「私の力は非科学的な迷信などではありません。近い将来、先生の科学が、私の能力を科学的に解明してくれる日が来ます」
「それは、予言ですか?」
興奮した様子の司会者が、牟津美星子に訊く。
「私には、その時の様子がはっきりと見えます。そして、私自身も、それを望んでいるのです」
牟津美星子は、はっきりとした声で、言った。
画像の消されたテレビの前に座ったまま、林堂は、難しい顔をしていた。
「お兄さん、どう?」
「一流の超能力、ってやつなんだろうな」
「つまり?」
「三流以下の手品ってことさ。駆け出しのマジシャンだって、たった一つのネタであんなにもたもたと時間をかけたりはしないぜ」
「あら? もうトリックを見抜いちゃったの?」
「いくつか考えられるな。慧那はどうなんだ?」
「私は、超常現象のウォッチャーだもの。そんな野暮なことに頭を使ったりしないわ」
「……」
林堂が、かすかに眉をしかめる。
「お兄さんの彼女のお母さんがやられたのは、これなの?」
そう訊く慧那の声は、相変わらず事態を面白がっているような調子を帯びている。
「ああ、瑞穂の進学のことで悩んでるってことを言い当てられて、かなり参っちまったらしい。普段ならこんな馬鹿げた手品で心を動かされるような人じゃないんだが……元旦那に色々と瑞穂のことを言われて、動転してたんだろうな」
「へぇー。お兄さん、彼女のお母さんにもご執心なの?」
「そういうふうにしか考えられないのか? 子供だと言われても反論できないぞ」
「性的欲求不満なのよ」
あどけない顔に笑みを浮かべながら、慧那は言った。
「自分で何とかしろ」
そう言って、林堂が立ち上がる。
「別にお兄さんに何かしてほしいなんて言ってないわ」
「そいつは何よりだ。それから、ビデオを見せてくれたことには感謝してる。あと――今度、俺達のことを覗き見したら、物凄い目に合わせてやるからな」
「いやぁ〜ん、こっわーい♪」
妹の甘ったるい声を聞きながら、林堂は部屋から出て行った。