血族

−第二章−



 ひとしきり鍋の中のものを食べ終わった飄次郎は、小鉢に残った汁をおもむろに茶碗の中の飯にかけた。
「あ」
 詩織が、ぽかん、と小さく口を開けるのにもかかわらず、そのまま、ざくざくと飯をかきこむ。まさに犬食いと言った風情だ。
 飄次郎が、とん、と茶碗をコタツの天板の上に置くと、詩織はふーんと声をあげた。
「……犬月さんて」
「ん?」
「あ、いえ、なんでもないです」
 自分が声に出して何か言いかけているのに気付いて、詩織が、わたわたと手を振る。
「俺が、どうかしたか?」
 久しぶりの家庭らしい料理を口にして、ちょっと満ち足りた気分になってしまった飄次郎は、つい、そんなふうに訊いてしまった。
「えと……気を悪くしたらごめんなさい」
 先に謝ってから、詩織は、意を決したように言った。
「犬月さんて……かっこいいのに、ご飯の食べ方が、何だか可愛いなあって」
「はあ?」
 生まれてこの方、可愛いなどと言われたことのない飄次郎は、思わず声をあげてしまった。
「だって、なんだか、男のコみたいな食べ方だなあ、って……あ、ごめんなさい、ヘンなこと言って」
「いや、その……」
 飄次郎は、何を言っていいか分からない、といった表情で、自分が今まで使っていた茶碗を眺めた。
「あ、あのっ、あたし、お茶いれますね」
 そう言って、詩織は、キッチンへと向かった。
 その頬が、桜色に染まっている。
 と、その時、電話が鳴った。
「はい、水島ですけど……お母さん?」
 コードレスの受話器を取った詩織が、声をあげる。
「うん、だいじょぶ……お母さんは? あ、そうなんだ……」
 器用に肩と頬で受話器を支えながら、お盆にきゅうすと湯呑を二つ乗せ、リビングに運ぶ。
「え? あ、うん……急だね……いつまで? そう……そうなんだ……うん、あたしは、だいじょぶだけど……」
 そう話しながら、詩織の顔が、寂しげにかげる。
「うん、分かった……うん、うん……えっと、お母さんも、気をつけてね」
 そして、詩織がさらに何か言いかけたとき、電話が、切れた。
 かすかに眉を曇らせ、詩織は、電話を置く。肩を落としているせいか、その背中が、飄次郎にはいっそう小さく見えた。
「どうした?」
 余計なことだと思いながら、つい、声をかけてしまう。
「え、ああ、えっと、今日、お母さん、帰ってこないって、そういう電話です。――よかった、犬月さんにおでん食べてもらえて♪」
 振り返った詩織は、その顔に笑顔を浮かべていた。
「帰ってこない?」
 遅くなる、としか聞いていなかった飄次郎が、思わず聞き返す。
「はいです。よくあることなんですよ。お母さん、テレビの仕事してて、ロケとかで急に出張したりするんです。犬月さん、視たことあるかなァ?」
 そう言って、詩織が、日本全国で撮影をするような、企画物のバラエティーの名前をあげた。全国ネットで放映している、有名な番組である。
「すまん。テレビは、視ない」
 そっけない口調で、飄次郎が言う。
「あ、そっかぁ。そんな感じですもんねー、犬月さんて」
 ふふっ、と小さく声に出して笑った後、その微笑みが、ひどく寂しそうな表情に変わった。
「実は、あたしも、視てないんです」
「……」
 話の接ぎ穂を失い、飄次郎は無言で頭をかいた。
「父親は、遅いのか?」
 そして、とりあえず、といった感じで、訊く。
「お父さんは、いません」
「……」
 また、無言。
「え、えと……」
 その静寂に耐えられなくなったように、詩織が、何か言いかける。
 と、それを遮るように、飄次郎は立ちあがった。
「じゃあ、いつまでもここにいるわけにもいかないな」
 そう言って、時計を見て時刻を確認する。
「え?」
 心底意外そうな声を、詩織があげる。
「だってそうだろ。一つ屋根の下に、若い娘と一緒に一晩いるわけにはいかない」
「屋根の下って、ここは、マンションです」
 飄次郎の年代物の言い回しを、詩織が大真面目に切り返す。
「……ヘンな噂が立つだろ」
「で、でもっ……!」
 リビングから玄関へ出ていきかける飄次郎の服の裾を、詩織が、ぎゅっ、と握り締めた。
「おい!」
 いつになく慌てた声を、飄次郎があげる。
「ご、ごめんなさいっ! で、でも、あたし、一人なんて、恐くて……」
「恐い?」
「だって、今日は、多田原さんのこともあったし……」
 しばし黙りこんだあと、飄次郎は、ふー、とため息をついた。確かに、あの男に公衆の面前で恥をかかせたのは自分である。
「……俺のことは、恐くないのかよ」
 思わず、飄次郎は、そんなことを訊いてしまう。
「えーっと……ちょっとだけ、こわい、かな?」
 そんなことを言いながら、詩織は、なぜかにっこりと微笑んだ。



 暗い、研究室の一室。
「ラムダ因子?」
 白衣の中年と向かい合いながら、恰幅のいい白人の男が、そう英語で聞き返した。
「私はそう呼んでますよ、中佐。あくまで仮説ですがね」
「……教授、それは、ウィルスとは違うのですか?」
「似てはいるが、次元の違うもの、と考えていただきたい」
 “教授”が、突き出た腹をゆすりながら、“中佐”に言った。
「細胞内に侵入し、その遺伝情報を書き換えて蛋白質合成などをコントロールする点では、確かにウィルスに似てはいます。が、ラムダ因子は、ウィルスのように盲目的に増殖するようなことはない。むしろ、コントロール下に置いた細胞を変質させ、宿主の運動能力や再生能力を爆発的に亢進させ、そして、各器官の外観や機能までも変化させてしまう。そういうものです」
「それによって、つまり、人が――狼男になる、と」
 “中佐”は、笑いもせずに、言った。
「そうです。ラムダ因子を取りこんだ体細胞は、もはや、ヒトの細胞とは根本的に異なる。いや、我々が今まで目にしてきたいかなる生物の細胞とも異なります。それは、微細な怪物の群体と言っていい」
「モンスター、ね……」
「が、何よりも謎なのは、細胞内に侵入した無数のラムダ因子が、どうやって相互に連絡し、宿主の体をあそこまで統一的にコントロールしているのか、といったことでしょうな」
「我々が相手にしているのは――何と言うか、もはや神の領域に属するものではありませんか?」
 そう言いながら、中佐は、黄色い口髭に半ば隠れた唇を笑みの形に歪めた。
「私は、クリスチャンではありませんからな」
 “教授”が、肩をすくめる。
「ブッディストですか?」
「無神論です」
「それはそれとして……あの、クドウ・アキラとかいう青年。あれは、おとなしく我々の目的に従ってくれるようなキャラクターではないようですね」
「疫病神ですよ、あれは。いずれ始末をお願いすることになるでしょうな」
「――殺すことができるのですか、そのう……」
「ラムダ因子の宿主と言えども、実際は無敵ではありませんよ」
 “教授”が、小さな目に危険な光を浮かべる。
「末梢神経ならともかく、中枢神経細胞……特に脳細胞などには、なぜかラムダ因子は侵入しない。よって、脳を殺すことができれば、あの疫病神と言えども、殺すことはできます」
「脳を……」
「ああ。心臓はダメですよ。ラムダ因子のコントロール下にある血管細胞にとって、心臓が再生するまで自力で血液を循環させることぐらい何でもない。しかし、脳に代わりはありません。直接破壊するでもいいし、脳への酸素の供給を遮断してもいい。長時間呼吸を妨げられたり、頚部を切断されれば、ラムダ因子の宿主とて、死を免れることはできません」
「銀の弾丸ではいかんわけですな」
 “中佐”の下手な冗談に、“教授”は形だけの笑みを返す。
「しかし、クドウが抜けることで、教授の研究が支障を来すのではないですか?」
「別に、研究の対象は、あの男だけとは限らないですからな。例の件、ターゲットを捕捉したのでしょう?」
 “教授”の目が、ますます鋭く光る。
「これはまいった。耳が早いですね」
 “中佐”は、困ったような声をあげ、そして続けた。
「おっしゃる通りです。――すでに、手は打っておりますよ」



 詩織が、電気の消された暗いリビングに入ってきたとき、コタツを置いていた電気カーペットの上で、飄次郎は毛布にくるまっていた。
 枕は、大きなイルカのぬいぐるみである。
 詩織の部屋は、ぬいぐるみだらけだった。大小様々なぬいぐるみの中から、詩織が枕用にチョイスしたのが、このイルカのぬいぐるみだったのである。
「名前があったんですけど、忘れちゃいました」
 ぬいぐるみを飄次郎に渡したとき、詩織は、まるで知人の名前を忘れてしまったような顔で、えへへ、と笑った。
 確かに、枕にちょうどいいぬいぐるみだった。
 そのせいか、飄次郎は、ぐっすりと眠りについている。
 ――少なくとも、詩織には、そう見えた。
「……」
 その幼げな顔に似合わない思いつめたような表情で、パジャマ姿の詩織は、ゆっくりと飄次郎に近付いていく。
「犬月さん……」
 そう、詩織が呼びかけたときには、飄次郎は、むく、と置きあがっていた。
 寝巻きの用意などなかったので、Tシャツにトランクスのみという格好である。
「あ……起きてたんですか?」
「お前が起こしたんだろ」
 飄次郎が、苦笑いしながら言う。たとえ眠っていても、近付いてくる足音で覚醒するくらいの鋭敏さがなければ、あの狗堂の追手は務まらない。
「どうした?」
 窓からさしこむ下弦の月の光が闇を蒼く照らす中、飄次郎は、訊いた。
「犬月さん……あの……すっごく、ヘンなこと言ってるってことは、自分でも分かってるんですけど……」
 ぎゅっ、と柔らかそうな唇を一度噛んだあと、詩織は、再び口を開いた。
「あたしを……犯して、ほしいんです」
「……なに?」
 飄次郎が、その一重の目を不審げに細める。
 詩織は、痛ましくなるくらいに真剣な顔のまま、それ以上は言わない。
 そして、かすかに震える指で、一つ一つ、パジャマのボタンを外し始めた。
 ブラを付けていない胸元の白い肌が、次第に露わになる。
 そして詩織は、パジャマの上を脱ぎながら、飄次郎の横に膝をついた。
 意外と豊かな半球型の胸の膨らみの頂点に、小粒の乳首がある。
 飄次郎は、そんな詩織の胸を思わず見つめた後、慌てて目をそらした。
「犬月さん……」
 耳元に口を寄せるようにして、詩織が囁いた。
 そして、その小さな両手で、飄次郎の右手を取る。
 飄次郎がはっと向き直ったときは、詩織は、その柔らかな胸に、右手を導いていた。
「おいっ!」
 掌に広がる、何ともいえないまろやかな感触に、否応なく血液の流れが速まるのを感じながら、飄次郎は乱暴に手を引いた。
「きゃ」
 その動きにかえってバランスを崩し、正座していた詩織は、飄次郎の胸に倒れこんでいた。
「どういう、つもりなんだ?」
 至近距離から、自分を上目遣いに見つめる詩織に、飄次郎が問いかける。
「あたし……ひどい女なんです」
 ぽつん、と詩織はつぶやいた。
「……」
「あたし、ひどいんです……優しくされたくて、男の人に、甘えるだけ甘えて……なのに、ホントは男の人が恐くて……だから、一線を越えられそうになると、逃げ出すんです……ずるいんです……」
 しがみつくように、ぎゅっと飄次郎のTシャツを握り締め、詩織は告白を続ける。
 その顔は、まるで父親に許しを乞う童女のように頼りなかった。
「だから……だから、多田原さんが怒るのも、当然なんです……」
「やっぱり、余計なことだったか?」
「そ、そうじゃないです。そんなんじゃないです!」
 静かに訊く飄次郎に、詩織はぶんぶんとかぶりをふった。
「ただ、本当に悪いのはあたしだから……あたしだけだから……」
 そう言って、詩織は、飄次郎の胸に顔を押し当てた。
 胸元が、熱い涙でじわーっと濡れる。
 これは、偽りの涙などではないだろう。細かく震える白い肩を見ながら、飄次郎はそんなことを思う。
 しかし――
「甘えるな」
 突き放すように、飄次郎は言った。
 びくっ、と詩織の体が、震える。
「お前は、自分の弱さに甘えてるだけだろう。それで、そんな自分に罰を与えるために、俺に抱かれようってのか?」
 言いながら、肩に手を置き、詩織の体を、そっと離した。
 冷たい口調に反して、それは、ひどく優しい力だった。
「全部自分が悪いなんて考えるのは、弱い自分に甘えてるんだ」
「……」
「お前、あの多田原って男に、好きだって言ったのか?」
「……い……いえ」
 詩織が、震える唇で、ようやくそれだけを言う。
「なら、勘違いしたあいつが悪い。その勘違いを潔く認めず、未練たらたらにお前に迫ったのはもっと悪い」
「でも……」
「そりゃ、お前にも悪いところがあったかもしらん。詳しい事情は俺は知らない。けど、自分のどこが悪くて、相手のどこが悪かったか。それくらいは考えろ。何も考えずに、自分で全部背負って、それで終わりにしようとするな」
「……」
 詩織は、どこか驚いたような顔で、飄次郎の顔を見つめた。
 そして、まるで聞き分けのいい子どものように素直な顔で、こくん、と肯いた。
「ありがとうございます……犬月さん……」
「い、いや、その……柄にもないことを言った」
 憮然とした顔で、飄次郎がそう言う。
「その……俺、妹がいてな……それで、つい、説教癖が出たんだ。悪かったな、何も知らないのに、えらそうなこと言って」
「ううん、いいんです……犬月さんの、言うとおりですから」
 詩織は、ぐい、と涙をぬぐってから、にっこりと微笑んだ。
「真剣にお説教してくれて、嬉しかったです」
「そ、そうか……」
 そう言って、飄次郎は、視線を落とした。
 それに誘われるように、詩織も、視線を下に向ける。
「あ……」
 飄次郎は、決まり悪げな声をあげた。はだけた毛布からのぞいたトランクスの股間の部分が、傍目にも分かるほど立派なテントを張っていたのである。
「あ、待って」
 そう言いながら、慌てて毛布をかぶせようとする飄次郎の手を、詩織が押さえる。
「待てって、どういうことだ?」
「だって、あたしのせいで、こうなったんでしょ?」
 妙に真剣な口調で、詩織が言う。
 言いながら、詩織は、飄次郎のその部分に、白い手を重ねていた。
「うゎ、かたぁい」
「大きなお世話だ!」
「で、でも、男の人って、したくなると、こうなっちゃうんですよね?」
「それは、そうだが……」
「じゃあ、あたしが、その……します」
「しますって、さっき言ったばかりだろ!」
 そう言いながらも、飄次郎は、詩織のぎこちない手つきがもたらすもどかしい快感に、その手を払いのけることができない。
「こ、これは、罰とかじゃありません! そのう――」
 ここで初めて、詩織は、その丸顔をかあーっと赤く染めた。
「これは、お礼、です」
 そう言って、構造がよく分かっていないのか、トランクスの布地のあちこちを引っ張りながら、どうにかしてペニスを外に解放する。
 そして詩織は、すでに血液を充填させてしまってるその器官に、そっとその白い指を絡めた。
「う……」
 その、おっかなびっくりな手付きが妙に新鮮で、飄次郎は、思わず小さく声を出してしまう。
「え、えと……」
 が、詩織は、浅ましく静脈を浮かす飄次郎のペニスをきゅっと握ったまま、どうしていいか分からない風情だ。
「お前、やり方わかってるのか?」
 蛇の生殺し状態の飄次郎は、思わずそんなことを訊いてしまう。
「し、知ってます! 知識と、しては……」
 そう言いながら、詩織は、すり、すり、と竿に添えたその小さな手を上下させた。
 ひどく優しいタッチで愛撫されて、飄次郎の意志とは無関係に、ペニスがひくひくと物欲しげに動く。
「えと……これって、気持ちいいんですよね」
「知るか」
 詩織よりも、彼女の未熟な誘惑を跳ね除けることのできない自分自身に腹を立てたように、飄次郎が言う。
 そんな飄次郎の様子に、詩織は、くすっと笑って、次第に大胆にペニスをしごきだした。
 鈴口から透明な液が溢れ、珠のようになる。
「あ……男の人も、濡れるんですね……」
 言いながら、詩織は、その先走りの汁の溜まりを、ちょん、と指先でつついた。
 そして、糸を引くその粘液を少し見つめた後、ぬるぬると亀頭に塗りつける。
「くっ」
「あ、い、痛かったですか?」
「い、いや……」
 ひりつくような、それでいながらけして不快でないその刺激に、他愛無く眉を寄せながら、飄次郎が短く答える。
 詩織は、両手の指先で、ぬるぬると亀頭部分を撫でさすった。
 その刺激で、ますますカウパー氏腺液が溢れ出る。
 目の前のペニスの快楽の反応に、詩織は、その丸い瞳を潤ませながら、いっそう熱心に愛撫を続けた。
 その花のような唇は小さく開き、目元がぽおっと染まっている。
 明らかに興奮しながらペニスを手淫する詩織の様子に、飄次郎の劣情はますます高まっていった。
 裸の上半身に手を伸ばし、おもいきりその乳房を揉みしだきたい衝動に耐えるように、ぐっと毛布に爪を立てる。
 しかし、このまま詩織の手に自らの浅ましいペニスを委ねていること自体が、自身の性欲に負けていることを示しているのだ。
 そのことを分かっていながら、飄次郎は、詩織を制止することができない。
 先端部分ばかりを重点的に責められ、快美感が、どうにかなりそうなほどに高まっている。
 いつしか飄次郎は、はぁはぁと犬のように息を荒げていた。
「苦しいんですか?」
 そんな飄次郎に、詩織が、心配そうに訊く。
「い、いや……頼む、最初にしたように、してくれ」
 顔から火を吹きそうなほどの羞恥を覚えながら、飄次郎は、とうとうそんなことを言ってしまっていた。
「こう、かな……?」
 すでに、ぬらぬらと濡れ光るほどに粘液にまみれた竿を、詩織が、にゅるっ、としごきあげた。
「……ッ!」
 さんざんに焦らされた後の待ち望んでいた刺激に、飄次郎は、声を抑えるのがやっとだった。
「感じてるんですね?」
 そんな詩織の問いに、半ば無意識に肯いてしまう。
「嬉しい……♪」
 詩織は、心底嬉しそうに目を細め、そして、しゅちゅっ、しゅちゅっ、と竿に手を滑らせた。
 細かく泡立った粘液がその白い小さな手を無残に汚すのも、まったく気にならない様子だ。
 それどころか、ペニスが放つ牡の匂いに惹きつけられたかのように、その可愛らしい顔を飄次郎の股間に近付けていく。
「犬月さんが……あたしの指で、感じてる……感じてくれてる……」
 まるで、うわごとのようにそうつぶやく詩織の息が、敏感な亀頭粘膜をくすぐった。
「嬉しい……あたし、なんだか、すごく嬉しいです」
 そして詩織は、さも愛しげに、飄次郎のペニスにすりすりと頬ずりした。
「あ――」
 思いもかけぬその仕草と、詩織の頬のすべすべとした感触に、飄次郎の性感が呆気なく限界を突破する。
「う、あ、あうッ!」
 不覚にも飄次郎が声を漏らしてしまうと同時に、ペニスの先端から、熱い精液が勢いよく溢れた。
「きゃっ?」
 さすがにびっくりして上体を起こしかける詩織の顔に、びゅるるっ! と精液が降りかかる。
 いたいけな少女の顔を自らの体液で汚してしまう罪悪感の混じった快美感が、ぞくぞくと飄次郎の背中を駆け上った。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
 荒い息をつきながら、飄次郎は、茫然と詩織の様子を眺めた。
 詩織は、呆れるほど大量の白濁液にまみれた顔で、やはり精液でどろどろになった自分の両手を見つめている。
「あは……あたし、すごいことしちゃった……」
 詩織は、誰にともなく、ぼんやりとそんなことをつぶやいた。



「ったくさ、もう!」
 ランは、思いきりむくれながら、朝の街を歩いていた。
 いつも見かける、同年代の少年少女達が登校している風景が、今日はない。週末なのだ。
「お兄ちゃんてば、いったいどこに泊まってるんだか」
 そんなことを言いながら、人通りのない道路を、コンビニに向かって、一人、歩く。
 昨日の夜、二人で借りているウィークリーマンションに帰らない旨の電話があって以来、飄次郎からは連絡がない。
「まさか……」
 ふと、イヤな想像にかられ、ランはかぶりをふる。
「そんなわけないよ。掟が、あるんだから……」
 そう、つぶやいた時、トレンチコートを羽織り、帽子を目深にかぶった男が、路地の影から踊り出た。
「な……んンーっ!」
 何か言いかけるランの華奢な体を後から抱きかかえ、その口元に、薬くさい濡れた布を押し当てる。
 つん、とした刺激臭に、ランの意識が、急速に遠くなった。
 コートの男は、そんなランに、手早く後手に手錠をかけた。
 と、けたたましい音をたてて、黒塗りの、スモークガラスの4ドアセダンが、ランと、コートの男の傍らに横付けした。
 まるでタクシーのように、左側のドアが自動で開く。
 コートの男は、まるで荷物でも放るように、後部座席にランの小さな体を押し込み、ドアを閉めた。
「It's so easy」
 陽気な口調でそんなことを言いながら、コートの男が、助手席に滑りこんだ。東洋系の顔立ちだが、英語圏の人間らしい。
「りありぃ?」
 と、あまり綺麗でない発音で、運転席に座る男が言う。
 そして、無造作に、左手を繰り出した。
「!」
 コートの男が、ものも言わずに、びくん、と体を痙攣させた。
「ほらお客さん、降りた降りたぁ」
 そんなことを言いながら、運転席の男は、コートの男を外に蹴り出した。
 そして、左手に持っていたスタンガンを助手席に放り投げ、ドアを閉めて急発車する。
「ふー、まっさか、連中の手がここまで早いなんてねえ」
 そう言いながら、巧みなハンドルさばきで車を操っているのは、緑郎だった。
「って、もう仲間を呼ばれたか。早すぎ!」
 バックミラーに写る何台かの同じような黒塗りセダンを確認し、緑郎が毒づいた。
 そして、スピンターンで大通りに出て、一気にアクセルを踏みこむ。
 慌てて路肩によける他の車のクラクションをあとにしながら、緑郎は、立て続けに三つの赤信号を無視した。
「んんん……」
「おやおや、お姫サマ、お早いお目覚めで♪」
 後部座席で起きあがるランの気配に、緑郎が陽気な声をかけた。
「頭、いたァ……って、緑郎!」
「おっはろー♪」
「あ、あんた、やっぱ悪いヤツだったのねえ!」
 そう言いながら、ランは、両手を戒められたままの不自由な態勢で、運転席のシート越しに緑郎の背中に蹴りを入れる。
「あばばっ! 危ないって! 誤解だよお!」
「何が誤解よオ!」
「だからオレは、ランちゃんをさらおーとしてるヤツらの運転手と入れ替わって、車を奪ってさあ……いってててて!」
「ウソばっかり! 早くこの手錠外しなさいよっ!」
「いや、オレ、けっこうそーいうシチュも萌えるヒトなんだけど……いだ!」
 緑郎の減らず口に、ランが、再び蹴りを繰り出したとき――
 びしっ! と音をたてて、リアウィンドの窓ガラスに、クモの巣状のひびが入った。
「な……」
「あはは、撃ってきた撃ってきた♪ あいつら、何て言い訳する気だろ?」
「ど、どういうこと……?」
「顔上げちゃダメだよ!」
 いつになく緊張した声でそう言われ、後を向きかけたランは、慌てて頭を引っ込めた。
「事情は後できちんと説明するし、手錠も何とかするから、今は、オレのことを信用しておとなしくしてくれる?」
 緑郎が、さらにスピードを上げ、時に対向車線にまで車をはみ出させながら、言った。
 ランは、思わず肯いてしまう。
「ありがと♪」
 緑郎は、ランにそう言ってから、バックミラー越しに微笑んで見せた。



「下手に動くな?」
 緑郎からの電話を受けた飄次郎は、思わずオウム返しに言った。
「それってどういう……何? いや、電波が届きにくいらしいんだが」
 言いながら、シンプルなデザインの携帯電話を耳に押しつける。
「移動中なのか……。カーチェイス? 一体、誰が相手なんだ?」
 緑郎の答えに、飄次郎の眉が険しく寄せられる。
「分かった……部屋には戻らない。おとなしくするさ。――ランは元気なんだな? ああ、俺もいつも元気過ぎて困ってる。お前もせいぜい困ってくれ」
 そう言って、飄次郎は表情を元に戻し、それからかすかに苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、その……ランを、頼む」
 そう言って、飄次郎は、携帯を切った。
 そんな飄次郎の様子を、詩織が、朝食の用意をしながらじっと見つめている。
 ワカメと油揚げの味噌汁に、焼き海苔と納豆と刻みネギ。フライパンから皿に移されたばかりの卵焼き。白菜の漬物。梅干。
「ランさんって、妹さんですか?」
 屈託のない笑顔を浮かべながら、詩織が訊く。
「そうだ……。盗み聞きか?」
「違いますよお。だって、犬月さんの声、おっきかったですもん」
「……」
 詩織の言葉に、飄次郎は口をへの字に曲げる。
「さ、朝ご飯にしましょ♪」
「あ、ああ……」
 すっかり詩織のペースに飲みこまれた飄次郎が、曖昧に肯く。
「和食ですけど、いいですよね?」
「ああ」
「犬月さんは、和食派ですか?」
「好き嫌いはないつもりだ」
「ふーん。じゃあ、お昼はピザでもとります?」
「――ちょっと待て」
 飄次郎は、取り上げかけた箸を置いて、言った。
「何だ? 昼って」
「あ、気が早かったかな」
 ぺろ、と詩織がピンク色の舌を出して言う。
「そうじゃなくて……俺は、そこまで世話になるつもりは……」
「お部屋には、帰らないんですよね」
 んふふっ、と詩織が微笑んだ。
「別に、行く当てくらいはある」
「でも、おとなしくしてるんでしょ?」
「お前なあ……」
「借金取りですか? それとも、前の彼女が追っかけてるとか」
「そんな呑気な話じゃない」
 そう言いながら、飄次郎は、再び箸を取り、味噌汁をすすった。
「飯を食わせてもらったことは感謝してる。が、あんまり立ち入ったことは訊くな」
「あ……ごめんなさい……」
 しゅん、としおれた花のように、詩織がうつむく。
「でも……でも、えっと、ご飯のことは、余計なお世話じゃ、なかったんですよね?」
 そう言いながら、詩織は、上目遣いに飄次郎の顔を見た。
「あ、ああ……」
「じゃあ、お礼、いいですか?」
「礼?」
 飄次郎は、怪訝そうな声をあげる。
「はいです。あ、言葉じゃなくて、そのう……態度で、示してもらえたらなあ、って……」
 気弱な小悪魔、といった感じの目つきで飄次郎の顔を見ながら、詩織は、そんなことを言った。

「……いいかげん、体がキツくなってきたんだが」
「ご、ごめんなさい。これで、最後にしますから」
「まあいいが……ほれ」
「きゃ、すっごく熱くなってる〜」
「そんなに乱暴に握るなよ」
 飄次郎が呆れたように言った。
「割れたらケガするぞ」
「はぁい。あ、コレ、新しいやつです」
 そう言って詩織は、古い蛍光灯を床に置き、新しいものをパッケージから出して渡す。
 イスの上にのった飄次郎は、ホコリまみれになった手で、最後の蛍光灯を取りつけ終わった。
「じゃあ、点けてみますね。……うわ〜、あっかる〜い♪」
 見違えるほどに明るく部屋を照らすようになった室内灯に、詩織は、無邪気な歓声をあげた。
「助かりましたあ。あたしもお母さんも、脚立とか出さないと、ぜんぜん手が届かないから」
「大したコトじゃないさ」
 カバーを取りつけ、イスから降りながら、飄次郎が言う。
「あ、何だか、ホコリまみれになっちゃいましたね」
 申し訳なさそうに、詩織が言った。
 今日一日、飄次郎は、水島家の掃除を手伝わされたのである。
 2LDKのこの部屋は、それなりにきちんと掃除されていたのだが、男手でないと動かせない家具の裏側や、住人の手の届かない場所などには、意外なほどに汚れが溜まっていた。
 最後に、切れかかった蛍光灯を総取り替えした時には、飄次郎は、頭からかなりホコリっぽくなってしまっていたのである。
 日が、すでに傾きかけていた。
 緑郎からの続報は、まだ、ない。
「えーっと、オフロ、沸かしますね」
 詩織が、ごく自然な口調で、そう言った。

「ふーっ……」
 温かな湯船につかると、さすがに一息ついた。
 バスタブの縁に肘をつき、ぼんやりと天井を見上げる。
 水島家の風呂は、ユニットバスでありながら、充分以上に広かった。
 薄いベージュの、FRP樹脂の天井が、白い湯気にかすんで見える。
「……」
 飄次郎は、ふと、昨夜のことを思い出した。
 淡い月光に照らされた、詩織の、柔らかそうな裸体……。
 華奢な、女として成熟する手前の、まだ少女らしさを多分に残した体。
 それでいながら、意外なほど豊かな、白い胸。まだ掌に残る、生々しいその感触――。
「俺は、何を考えてるんだ?」
 自戒するように、飄次郎はつぶやいた。
 ――我が一族の外に、血を漏らすべからず。
 ――我が一族の中に、血を迎えるべからず。
 そんな、血族の掟を、心の中で唱えてみる。
 しかし、体の中でざわめく血は、一向に治まろうとしなかった。
(いっそ、水でも浴びるか……)
 そう、飄次郎が思ったとき――
 からからから、と妙に軽やかな音をたてて、スライド式の扉が開いた。
「!」
 ざばっ、と音をたててながら、飄次郎が体を起こす。
 その、可愛らしい小さな口を、ぎゅっと結んだ詩織が、バスタオルを体に巻いて、そこに立っていた。
 白い、形のいい脚が、露わになっている。
「は……入り、ます」
 そう宣言して、詩織は、浴室に入り、扉を閉めた。
「ど、どういう」
「聞いてください」
 どういうつもりなんだ、という飄次郎の言葉を遮って、詩織が言う。
「あたし……あたし、まだ……男の人が、恐い、です……」
 飄次郎の方を向かないように、床の一点を凝視しながら、詩織は、続けた。
「あたし……最初が、その……レイプで……そ、それ以来……あたし……」
 その声が、細かく、震えてる。
「あ、同情してほしいとか、そんなんじゃないんです……そうじゃなくて……あたし……違う……こんなこと言いたいんじゃなくて……」
「……」
 飄次郎は、腰を浮かしかけた姿勢で、息をするのも忘れて、次の詩織の言葉を待った。
「あたし、犬月さんが、好きです!」
 顔を上げ、真っ直ぐに飄次郎の顔を見つめ、詩織は、言った。
「会ってまだ、一日しか経ってないし、どこの、どういう人なのか、ぜんぜん知らないけど、でも好きです! 好きなんです!」
「……」
 飄次郎は、まるで電撃に打たれたように、体を硬直させていた。
「俺は……」
 言うべき言葉が、頭の中でまとまらない。
(俺は――)
(名前を聞いたときに、気付いていた……)
(知っていたんだ。お前が――犯されたことを)
(半年前……狗堂が、お前の事を……)
(なのに、俺は、知っていて、拒んだ……傷ついているお前を……血の掟を守るために……)
(俺を……そんな卑怯な俺を……)
「俺……」
 飄次郎が、口に出してそう言ったとき、びく、と詩織の体が震えた。
 その目に、涙が溜まっている。
 力を込めて抱き締めれば折れてしまいそうな、華奢な肩のライン。
「俺は……」
 飄次郎は、湯船の中で立ちあがっていた。
 そして、洗い場に出て、詩織の前に立つ。
 詩織が、すぐそばの飄次郎を見上げた。
 詩織の黒い瞳に、飄次郎の顔が映っている。
「詩織……」
 初めて、飄次郎が、詩織の名を呼んだ。
「ひょ、飄次郎、さん……っ!」
 ぎゅっ、と詩織が、しがみつくように飄次郎の体に抱きつく。
 細い腕で、哀しいくらいに、一生懸命に。
 その詩織が、今抱いている男の体に対する恐怖におののいているのが、飄次郎には感じられた。
 飄次郎が、詩織の体を、抱き締める。
 その震えを、止めようとするかのように。
「詩織……」
 飄次郎の声に、詩織が顔を上げた。
 濡れた前髪が何本か、おでこにはりついている。
 すがるような、詩織の表情。
 飄次郎は、何を言っていいか分からない。
 だが、何をすべきかは、分かりすぎるほどに分かっていた。
 飄次郎が、胸にこみあげてくる痛いくらいの激情を感じながら、詩織の花びらのような唇に、唇を重ねる。
「んん……っ」
 詩織の閉じた目から、涙が一筋、頬を流れた。
 そして、詩織がかすかに身じろぎした拍子に、その体にまとっていたバスタオルが、洗い場の床に落ちる。
「ん……ん……んン……んっ……」
 二人は、互いの体に腕を回し、少しでも隙間をなくそうとするかのように、ぴったりと体を重ね合わせた。


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