血族

−第一章−



 JRのターミナル駅の近くの、大規模な工事現場。頭上には、電車の通る高架が走っている。
 時は深夜。無論、現場作業員はすでに一人もいない。隣接する道路に、ごくごくたまにタクシーが通るのみである。
 その工事現場に、数人の男が立っていた。
 月明かりが、その男たちの影を地面に落としている。
 革製のジャケットとブラックジーンズをまとった、長身の若い男と、一目でそのスジの者と分かる数人の集団……。
「服を、脱ぎな」
 集団のうち、リーダーらしき中年の男が、言った。
 言いながら、まとったコートの内懐から、拳銃を取り出す。
 旧ソ連で設計された自動拳銃の、粗悪なコピー品である。しかし、その小さな殺人道具からは、本物のみが持ちうる迫力がかもし出されていた。
 若い男が、素直にジャケットを脱いだ。
「全部だ」
 拳銃で狙われながらそう言われ、若い男は、グレーのシャツも脱ぎ捨てた。
 服の上からは想像できなかった、意外と逞しい肉体が、外気にさらされる。
 が、その若い男は、寒そうなそぶり一つ見せない。
「なかなかいい覚悟だな。……それとも、まさか、まだ助かると思ってるんじゃねえだろうな?」
 拳銃を持った男が、口元を歪めながら、言う。
「言っておくが、これは脅しじゃねえ。服を脱がしたのは血で汚さないためだ。後始末に苦労しないようにな」
 相手の恐怖を煽るかのように、拳銃を持った男は、言う。
「もうすぐ、最終電車が上を通る。ちょうどこいつの音を聞こえなくするにはおあつらえ向きだ。お前は、その時、こいつで撃たれて死ぬんだよ」
 そう言って、拳銃を軽くゆする。
 そんな言葉を聞いて、若い男は、その秀麗な顔に――にっこりと微笑みを浮かべた。
「野郎――っ!」
 拳銃を持った男が激昂したとき、かすかに、最終電車のアナウンスが聞こえた。
 電車が動き出し、そして、頭上の高架を、轟々と音をたてて走っていく。
 その轟音に紛れ、数発の拳銃弾が、続けざまに発砲された。

 犬月飄次郎がその場所に着いたときには、冷たい空気は、生臭い血の匂いに満ちていた。
 月は雲に隠れ、巨大な即席の塀に囲まれたその場所には、外灯の明かりすら届かない。
 が、飄次郎の目は、剥き出しの地面に累々と転がる幾つもの死体を捕えていた。
 いずれも、喉笛や顔面などに深い傷を負っている。恐らく一撃で絶命したのだろう。
 死体のうち一人は、その手に、拳銃を握っていた。
「好き放題ちらかしやがって……」
 飄次郎は、眉間にしわを寄せながら、ぽつりとつぶやいた。
 身長一八〇はある長身に、黒いコートを袖を通さずにまとっている。通った鼻筋と一重の鋭い目が印象的なその顔には、しかし、人を寄せつけない冷たい雰囲気がある。
 二十歳前後に見える若々しいその顔に対して、髪は、半白だ。それも、やや長めの髪の根元に向かって、次第に白くなっている。
「五人……六人か……この街は、人の命の値段が安いな」
 そう、飄次郎がつぶやいたとき――
 ゆらりと、死体のうち一つが、動いた。
 いや、それは死体ではなかったのだ。
 下に、ブラックジーンズのみをまとった、上半身剥き出しの、しなやかな影。
 雲が流れ、工事現場を、さあっと蒼い月光が照らす。
 満月――
「狗堂……」
 飄次郎が、犬が唸るような声で、言う。
 その影は、飄次郎と同じ血族につながる男、狗堂章だった。
 年のころは、飄次郎よりわずかに上――二十代半ばほどだろうか。
 その秀麗な顔は、どこか飄次郎に似ている。身長も、ほぼ同じくらいである。
 二重の大きな目と、笑みをたたえた唇、そして、ゆるくウェーブした髪がかもし出す雰囲気は、一見、物柔らかだ。
 しかし、観察力に優れた者なら、その顔を見つめているうちに、微妙な違和感を感じるだろう。
 完璧に見える微笑みの中にある、かすかな歪み。
 目が、少しも笑っていないのだ。
 その目が、闇の中で、飄次郎の鋭い視線を受け止めている。
「よくここが分かったね、飄次郎」
 狗堂が、ややかすれた声で、言う。
「狗堂、お前……」
「僕を連れ戻しに来たのかい? それとも、長の命令で、掟破りの痴れ者を殺しに?」
「……村に戻るつもりは、ないのか?」
 苦悩に満ちた声で、飄次郎が言う。
「僕が自分から戻るのを期待しているのかい? 甘いなあ」
 そう言いながら、狗堂が、全身を緊張させた。
 血に濡れた胸板が、ぐうっと膨らむ。
 と、その傷口から、数発の拳銃弾が、筋肉に押し戻されて弾け飛んだ。
 銃弾は、そのまま放物線を描き、ころころと地面に転がる。
「飄次郎は、本当に甘いよ。まだ体に弾が残っているうちなら、僕を取り押さえることもできたかもしれないのに……」
「……」
「いくよ……!」
 狗堂が、地を蹴った。
「ちっ!」
 舌打ちして、飄次郎が、肩にかけただけのコートを、右手で狗堂に投げつけた。コートの下は、この寒空の下、薄手の黒いワイシャツ一枚だ。
 コートが、狗堂の体に半ば覆い被さる。
 と、そのコートを易々と貫いて、狗堂の貫手が、飄次郎の喉元に迫った。
「くあッ!」
 強烈な一撃を、飄次郎は、首を左に振ってかわした。
 狗堂の貫手が、飄次郎の右の頬を、深々と削ぐ。
 飄次郎の顔から、熱い血が溢れた。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
 咆哮が、夜の闇を、貫いていた。



 遠くで、サイレンの音が響いている。
 ビルとビルの間の狭い路地に、奇怪な獣が、いた。
 いや、それを獣と言っていいものかどうか。
 直立した姿で、大きく肩で息をしながら、ビルの壁に背を預けている。
 そのプロポーションは、逞しい人間のように見えなくもない。
 が、その全身には、灰色の獣毛が生え、上体は大きく前かがみになっている。
 指先の爪は、長く伸び、そして鉤のように歪曲していた。
 そして、その顔――
 その顔は、けして人のそれではありえなかった。
 長い口吻に、はみ出た牙。短い毛に覆われた、三角形の耳。爛々と光る眼。
 狼の、顔だ。
 首から上が、完全に犬科の猛獣のようになった男が、東京の片隅で、息を整えている。
 獣人とでも言うべきか。
 その獣人の吐く息は、荒く、白い。
 獣人がまとっているのは、黒いワイシャツの残骸と思われる布地の切れ端と、ずたずたに裂けたスラックスのみである。靴も、履いていない。
 と、路地の入口に、気配がした。
 ぴくん、とそれの耳が、動く。
「お兄ちゃん……?」
 ささやくような声が、路地に響いた。
「ひょうじろーお兄ちゃん、そこにいるんでしょ?」
 まだ幼い少女の声だ。その声の合間に、くんくんと鼻を鳴らすような音が聞こえる。
「だいじょぶ。ケーサツは、こっち来てないよ。あの工事現場は、たくさん死体が見つかったって、なんだか大騒ぎになってたけど」
「URRRRRR……」
 少女の言葉に応えるその声は、きちんとした人間の声にならない。
「匂いをたどるのに、ちょっと手間取っちゃった……。着替え、持ってきたよ。気が利くでしょ」
 そう言いながら、路地に、声の主が入ってくる。
 オーバーオールにジャンパーをまとった、中学生くらいの少女が、獣人の前に現れた。野球帽をかぶり、髪は、その中に押しこんでいるらしい。眼鏡の奥で、利発そうな大きな眼が、くるくるとよく動いている。
「Fuuuuuu……」
 獣人が、何か言いかける。
「あーあ、ボロボロじゃん。ずいぶんとハードだったんだねえ」
 言いながら、少女は、恐れ気も無くその獣人――犬月飄次郎に近付いた。
 少女の名は、犬月ラン。飄次郎の妹だ。漢字では「嵐」と書くのだが、彼女自身は、カタカナで通している。
 ランは、肩にかけていたスポーツバッグを下ろし、中からタオルを取り出した。タオルは、あらかじめ近くの公園の水道で濡らして、固く絞ったものだ。
「狗堂さんには、会えたの?」
 タオルで飄次郎の体を拭きながらランが訊くと、飄次郎が、その狼頭で肯いた。
「じゃあ、これは狗堂さんにやられたんだ……」
 言いながら、ランは、飄次郎の胸元の傷を、優しくぬぐった。その傷は、しかし、ほとんど塞がっている。
「……もう、狗堂さんをかばうのは、やめたほうがいいよ。お兄ちゃん」
 やや太めの眉をしかめながら、ランが言う。
「お兄ちゃんだって、分かってるでしょ。この傷……。狗堂さんは、お兄ちゃんを殺すつもりなんだよ。あたし――見損なったよ」
 そのランの言葉に、飄次郎が、首を左右に振る。
「あたしの気持ちなら、もう決まってる――。狗堂さんのお嫁さんになんか、ならないよ。もともと、あんまりタイプじゃなかったし」
 再び、飄次郎は首を左右に振った。
「もう、ガンコ者!」
 そう言って、ランは、飄次郎のひざまずいた。
「男衆ってば、ホントにガンコで、ケンカばっかして……そのくせ、尻拭いはみーんな女衆にさせるんだから」
 そう言いながら、ぼろきれのようになったスラックスに、小さな手を伸ばす。
 飄次郎の長身が、わずかに身じろぎした。
「何よォ、初めてじゃあるまいし」
 ふっ、とランは、その幼い顔に似合わない、妖しい笑みを浮かべた。
「こんな満月の夜に、後先考えないで“変わっちゃう”から、こんなことになるんでしょ。ほら、いいから覚悟決めて」
 そう言いながら、もはやほとんど機能を果たさないようみ見えるファスナーを下ろす。すると、スラックスの残骸は、ぱさ、と地面に落ちてしまった。
 その下のトランクスも、ほとんど衣類としての形をとどめていない。
 ランは、慣れた手つきで、そのトランクスの間に、両手の指を差し入れた。
 半ば血液を充填させた、浅黒いペニスが、露わになる。
「んふ……すっごい匂い……」
 兄のその部分が放つ強烈な牡の臭気に、うっとりと目を細めながら、ランは、ちろ、と小さな舌で亀頭の先端を舐めた。
 そして、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、と鈴口の辺りにキスを繰り返す。
 ランの小さな手の中で、飄次郎のペニスが、次第に硬度と容積を増していった。
 天を向いていく飄次郎のペニスの裏側に、ランが、ねっとりとピンク色の舌を這わせる。
 口内に唾液を溜め、それを塗りつけるようにシャフトに舌をからませるその姿は、娼婦顔負けの淫らさだ。
 羞恥と興奮に、その可愛らしい顔を染めながら、ランは、兄のペニスを唾液で濡らしていく。
 ますます硬く強張る男根に、愛しげに頬ずりしながら、ランは、その細い指で、飄次郎のペニスをぬるぬるとしごいた。
 逞しいペニスが、快感に、しきりにひくつく。
「あむ……」
 ランは、目を閉じて、ペニスの先端を咥え込んだ。
 そして、口内で、れろれろと舌を動かし、亀頭を刺激する。
「んふ……お口の中で、またおっきくなってきた……」
 嬉しそうにそう言うランの言葉通り、飄次郎のペニスは、妹の口内で、さらに大きさを増したようだ。
 その小さな口でフェラチオするには大きすぎるペニスを、ランは、喉奥まで飲みこんでいく。
 柔らかそうな唇が、静脈を浮かして節くれだったペニスをスライドする様が、無残なくらいにエロチックだ。
 ペニスの、3分の2ほどを口内に収めたところで、ランの動きが止まった。どうやら、そこが限界らしい。
「ん……んむ……ん……ふん……」
 媚びるような鼻声を漏らしながら、ランが、ゆっくりと頭を前後させた。
 生温かい口腔粘膜と、ひらひらと動く舌が、飄次郎のペニスを上下から刺激する。
 ちゅぶっ、ちゅぶっ、ちゅぶっ、という、唾液の弾ける水音が、淫猥に響く。
 ランは、右手をシャフトの根元に添え、左手で剛毛に覆われた陰嚢を優しく撫でるように揉みながら、ディープスロートを繰り返した。
 ランの可憐な唇を出入りするシャフトが、唾液にぬらぬらと濡れている。
 兄のペニスを口唇愛撫することに興奮しているのか、可愛らしく小鼻をふくらませながら、ランは、いよいよ熱心にフェラチオに没頭した。
 ふうン、ふうン、という鼻声が、ひどく艶めかしい。
 唾液が、ランの顎を伝い、地面に滴った。
「Guuuuu……」
 飄次郎が、喉の奥で、獣そのもののうめきを上げる。
 まるで、妹の舌と唇がもたらす快感に耐えているかのように歯を食いしばっている兄の人ならぬ顔を、上目遣いでちらりと見つめ、ランはますます激しく頭を動かした。
 硬い獣毛に覆われた飄次郎の腰に両手を当て、頭をねじるようにして、ペニス全体を口腔で刺激する。
 その口内では、唾液に濡れる舌がシャフトに絡みつき、雁首の部分をえぐるようにしてなぞっていた。
 飄次郎は、こみ上げる快感に、思わずランの頭を両手で押さえていた。その拍子に、野球帽が地面に落ちる。
 長い、腰にまで届きそうなストレートの黒髪が、はらり、とランの背中に広がった。
 その長い髪を激しく揺らしながら、ランが、最後の追い込みをかける。
「――!」
 飄次郎は、唸り声を噛み殺しながら、熱い精をランの口内に迸らせた。
 とても飲み込むことができないほどの大量の精液が、ランの小さな口から溢れる。
「んぶっ!」
 たまらず口を離すランの可愛らしい顔を、びしゃっ、びしゃっ、と勢いよく放たれ続けている白濁液が叩く。
 かけている眼鏡がずれてしまうほどの強烈な射精を顔に浴びながら、ランは、どこか恍惚とした顔を浮かべていた。
 がっくりと、飄次郎が、背中を背後のビルに預ける。
 と、その顔に変化が現れた。
 灰色の体毛がぞろぞろと抜け、顎が、次第に引っ込んでいく。
 曲がっていた背筋が伸び、耳や鼻の形も、元に戻っていった。
 べっ、と飄次郎は、その足元に血の塊のようなものを吐き出した。
「やだあ、汚いなあ」
 ランが、あわてて飛びのく。
「すまん……」
 そう言って、飄次郎は、口元をぬぐった。手の甲に、べっとりと血の跡がつく。
「いつ見ても、ホント、大変そうね。ま、顔の形が変わっちゃうんだから、血ぐらい吐くと思うんだけどさ」
 そう言いながら、ランは、新しいタオルで自分の顔を拭き始めた。
「あーあ、メガネべとべとお……。やだあ、髪に付いたのがとれないよお」
「すまん……」
 大騒ぎをしているランにもう一度謝ってから、飄次郎は、大きく伸びをした。
 ばきばきと威勢のいい音をたてて、全身の骨が鳴る。
 冬の朝日が、このビルの谷間を、ようやく照らし始めていた。



 その日の夕刻。首都圏にある、研究施設の一室。
「これは、君の仕業かね、狗堂くん」
 そう言って、白衣を着た壮年の男が、机の上に新聞を投げ出した。
 その一面に、駅近くの工事現場で、六人の暴力団構成員の死体が発見された事件についての記事が、大きく載っている。
「ええ」
 狗堂、と呼ばれた若い男が、涼しげな表情で肯く。
 そんな狗堂の顔を不快げな顔でにらみ、白衣の男は、突き出た腹をゆすりながら言った。
「一週間もどこに雲隠れしたのかと思ったら……。勝手な事をしてもらっては困る。今、君の存在が世間に知られるのは、私にとって最も避けねばならないことなのだ。それは、君だってそうだろう」
「それは、その通りなんですけどね」
 狗堂は、優美な仕草で、両手を広げた。
「しかし、なにぶん、東京に出たばかりの頃は、右も左も分かりませんでしたから。どうしても、心ならずも人様の恨みを買うことが多かったのですよ」
「怪しげなローンを踏み倒した挙句、取り立てに来た組員を次々と半殺しの目に合わせていれば、こうなるのは当たり前だ」
 白衣の男は、丸々とした指で、新聞をいらいらと叩いた。
「まさか、あんな法外な利子を請求されるとは思わなかったもので」
 くつくつと、狗堂が、人の神経を逆撫でするような笑い声をあげる。
「それだけじゃなかろう。この街でも何度も騒ぎを起こして……いつまでも揉み消すことができると思ったら大間違いだぞ」
「教授――」
 すっ、と狗堂が立ちあがった。
「僕は、教授のモルモットではありませんよ」
 そう言いながら、デスク越しに身を乗り出し、白衣の男に顔を寄せる。
「そ、それは……無論だ」
 目の前に迫る歪んだ笑みを前にして、教授と呼ばれたその男は、やや声を上ずらせる。
「そうですよね」
 狗堂は、その指先を男の首筋にあてがい、まるで女を愛撫するような手つきで、ゆっくりと撫でた。
 そして、伸びた爪を、じょじょに男のたるんだ顎に食い込ませていく。
「あなたは、犬神の血――僕の血族の秘密を手に入れたいのでしょう?」
 囁くように、狗堂が言う。
「そして、あなたの背後には、大きな勢力がある。どこかの国……おそらくは、合衆国あたりがスポンサーなのでしょうね。それも、国防関係のお役所が」
「き、君は……」
「僕だって、馬鹿ではないつもりです」
 すっ、と狗堂が身を引いた。男の顔には、じっとりと冷や汗が浮かんでいる。
「あなたは、ずいぶんと僕によくしてくれた。全てが金で解決できる世の中とはいえ、単なる学問的興味だけでできることではありますまい」
「……」
「あなたは――いや、あなたのスポンサーは、僕の血族を、軍事利用するおつもりなんでしょう?」
「……そうだ」
 観念したように、白衣の男が言う。
「今は、もう、大量破壊兵器の時代ではない。冷戦は終わり、核はその存在のみに価値の置かれる、使用不可能な兵器となった。これからは、カウンター・テロのための、より繊細な運用のできる兵器の時代なのだ」
「そして、僕と同じような兵士を“生産”して、アラブ・ゲリラにでもけしかけるんですか?」
 狗堂は、来客用のソファーに腰を下ろしながら、続けた。
「まあ、悪い考えではないかもしれませんね。いささか、その発想はステロタイプのそしりを免れえませんがね」
 そして、またくつくつと笑い出す。
 が、可笑しそうに笑いながらも、狗堂の目は、やはり少しも笑っていなかった。



「いよお飄次郎ちゃん、相変わらず恐い顔してんなあ」
 明るい、と言うよりも軽薄な声でそんなことを言いながら、萌木緑郎は、すでに二人の座るボックス席についた。
 夕刻の、都内の真っ只中にある喫茶店である。営業回りらしいスーツの男や、学生らしい男女などで、店内は混み合っている。
「その代わり、ランちゃんはいつもどーり可愛いねえ」
「そりゃどーもありがとーございます」
 むすっとした顔で、飄次郎の隣に座るランが言う。
 優男、という表現がいちばんしっくりくるような顔に、何かに驚いたような丸い目。額に、ばさりと前髪がかかっている。年は、飄次郎より少し上だろうか。
 緑郎は、そんな顔にへらへらとした笑みを浮かべながら、ウェイトレスにアメリカンを注文した。
「とりあえず、先週の件では、礼を言っとく」
 飄次郎が、礼を言うにはいささか無愛想な顔で、そう言った。
「いいっていいって、たいしたネタじゃなかったからねー。でも、結局は逃げられたんだよねえ」
「そんな呑気な声で言わないでよ。あたしもお兄ちゃんも、真剣なんだからぁ」
 ランは、ぎろっ、と眼鏡の奥の目で緑郎の顔をにらんだ。
「ランちゃ〜ん、そんな顔しちゃ、美人が台無しだよ」
「だからあ、そーいう態度をやめてって言ってるのお!」
 ランの剣幕に、緑郎は、ひょい、と首をすくめた。
「じゃ、早々に次のネタ、行っとこうかな」
「悪いな。そうしてくれ」
 さすがに苦笑いしながら、飄次郎が言う。
「でもねー、東京……っつーか、首都圏も含めての広範囲で、人一人追跡するのは、けっこう難儀なんよ。いかにオレが腕利きの情報屋さんでもね」
「だろうな。恩に着る」
「まあ、今回は、ターゲットが行く先々で騒ぎを起こしてくれてるんで、助かるって言えば助かるんだけど」
 そう言いながら、緑郎は、抱えていた封筒から、何枚かの書類のコピーを取り出した。
「それに、今回のネタは、自分で言うのもなんだけど、かなりイイよ。何しろ、相手さんのねぐらを突き止めたんだから」
「ねぐら……住んでいる場所か?」
「うん。どうやら、半年近く前から、ここに世話になってたみたいなんだな」
 そう言って、緑郎は、書類の内の一枚を取り上げた。
「……大学?」
 飄次郎が、書類にざっと目を通しながら、眉を寄せる。
「ん、そう。千葉……っつーても、房総の方じゃなくて、東京のすぐ近くの方なんだけどさ。そこにあるガッコだよ。いわゆる臨海開発地区って辺りの、その一角にあるのさ」
「その大学に、狗堂が?」
「正確には、大学付属の研究所に出入りしてるらしいんだわ」
「研究所って、何の研究所よ?」
 今までしかめっ面だったランも、興味を引かれて緑郎に訊く。
「大まかに言うなら、生物学」
 緑郎が、答える。
「細かく言うと、キノウケイタイガクとか、ソシキケイタイガクとか、そういうのの研究所らしいんだけどね」
「……わかんない」
「安心してして。オレもわかんないから」
 人差し指で自分の顔を示す緑郎に、ランが、ふん、と鼻を鳴らす。
「しかし、よく嗅ぎつけたな」
「まーね。ウワサの狗堂章ちゃんは、例によってここでも騒ぎを起こしててねえ」
「……」
 飄次郎が、眉を曇らせる。が、そんな表情におかまいなしに、緑郎は続けた。
「だって言うのに、これがまたなかなかケーサツ沙汰にならないわけ。どうも、この大学の研究所自体、かなりでっかいバックがついてるみたいで……ま、官僚機構の腐敗なんてありふれたネタは、オレとしちゃもう飽き飽きなんだけどさ」
「その、騒ぎとかいうのの情報は、手に入れているのか?」
「ん」
 こともなげに肯いて、緑郎ががさごそと封筒をさぐる。
「えーっと、これこれ。ケーサツの皆さんが不法に破棄しようとしていた調書を、独自の流通ルートから手に入れたシロモノだよん」
 飄次郎が、鋭い目で、その書類を睨みつける。
 ランは、そんな飄次郎の顔を、心配そうな顔で横からのぞきこんでいた。

「あたし、あいつ、きらーい」
 マンガだったら、ぷんすか、という書き文字が書かれそうな膨れっ面で、ランが、並んで歩く飄次郎に行った。
「萌木のことか」
「そ、ろくろーのことぉ」
 ランが、十歳は年上の男を呼び捨てにする。
「どうして?」
「だって緑郎、あたしのこと、からかってばっかなんだもん」
「けど、悪い奴じゃない。仕事は確かだし、信用の置ける男だ」
「ぜーんぜん、そうは見えない」
 大またで元気よく歩きながら、ランが言う。
「ま、血族以外の男に気を許さないのは、いいことだ」
 そう言いながら、飄次郎は、交差点の信号を待つべく立ち止まった。
「また、掟の話?」
「そうだ。俺たち犬神筋の血族は、外の連中と血を交わらせてはいけないんだ。絶対にな」
 赤く灯る信号に鋭い一重の目を向けながら、飄次郎が言う。
「でも……あたしは、狗堂さんのお嫁さんになんか、ならないよ」
「もう、それは分かった。それに……」
 飄次郎が、その顔に苦悩をにじませながら続けた。
「どの道、狗堂は数えきれないほど掟を破っている。本家はあいつを許したりはしないだろう」
「……でも、お兄ちゃんは、狗堂さんを、助けたいんだよね?」
「それは、あいつ次第だ」
 信号が青に変わり、通行人が動き出す。
「だが、このままでは、他の追手が来るのも、時間の問題だな……」
 人々の動きの中に身を置きながら、飄次郎は、誰にともなくつぶやいた。



 大通りに面した、小奇麗なファミリーレストラン。
 そのカップルは、店に入ったときから、険悪なムードだった。
 学校指定のブレザーを着た少女と、大学生らしい大柄な男。
 席につき、ぞんざいにコーヒーを頼んですぐ、男は、少女をなじり始めた。
 最初は、低く抑えた声で。
 その声が、次第に大きくなっていく。
 夕食時にはまだ少し早いが、週末で、客は少なくない。男は、そんな周囲の視線が気にならなくなるくらいに、興奮している。
 少女は、終始、うつむいていた。
 人の好さそうな丸顔に、高校生らしいショートカット。やや伸ばした前髪を、左右に分けている。睫毛が長く、鼻や口元がちまちまとしてて可愛らしい。笑ったところを見たくなるような、そんな顔だ。
 その顔を強張らせ、くりっとした目を涙で潤ませながら、少女は、下を向いている。
 どう見ても、男の方が悪者に見えるような、そんな構図だ。
 そのことが、ますます男を苛立たせている。
 少女は、膝の上に置いた手をぎゅっと握りながら、男の罵声に耐えている。
 男は、どうやら少女の煮え切らない態度を責めているらしい。
「――あんなに媚びておきながら、さんざ焦らやがって!」
 荒げた声で、男が言った。
「そのくせ、高田や岩本にも色目使いやがる」
「ち、違います、あたし、そんなんじゃ――」
「お前、男をからかって楽しんでンだろうが!」
 ばあん、と男が、平手で合板のテーブルを叩く。
 派手な音をたてて食器が床に落ち、少女が、身を縮めて小さく悲鳴をあげた。
 一瞬、店内が静かになり、周囲の視線と囁きが、男に突き刺さる。
「くそ……ッ!」
 男が、顔を赤黒く染めながら、テーブルを回りこんで、両手で耳を押さえたまま目をつぶっている少女に手を伸ばそうとする。
 思いもかけない修羅場に、客たちが、はっと息を飲んだ。
 その時――
「そこらへんにしてくれ」
 そんな言葉と同時に、黒い影が、男の前に身を滑らせた。
 飄次郎である。黒いジャケットに濃いブルーのシャツ。それに、白いスラックスといういでたちだ。
 男の方は、長身の飄次郎よりも、さらに上背があり、横幅も大きい。その逞しい体は、一見ラガーマン風だ。しかし、飄次郎はその顔に、いかなる緊張も浮かべていない。
「何だてめえは! まさか、お前もこの女の……?」
「初対面だよ」
 言いながら、飄次郎は、まだ辛うじてテーブルの上にあった水の入ったグラスを、男の前に差し出した。
「とりあえず、水でも飲んで落ちつけ。そんなんじゃ話もできないだろうに」
「大きなお世話だ!」
 男が、乱暴にグラスを払いのける。壁に当たって砕けたグラスが、細かな水と破片を飛び散らせる。
「てめえには関係ねえだろおが!」
「ああ、関係ないね。けど、関係ない他の客に、迷惑になってるんだよ、お前」
 飄次郎が、すっ、とその一重の目を細めながら、言う。
 男が、一瞬、その瞳の迫力に圧倒されたように、沈黙した。
「お前、狗堂って男を知ってるか?」
 飄次郎が、男にしか聞こえないような小声で、訊いた。
「し、知らねえよ! それが何の関係があんだよ!」
 内容的にはもっともなことを、いささか大きすぎる声で、男が言う。
「知らないなら俺も用はない。帰っていいぞ。グラスは、俺の方で弁償してやる」
「ざけんなッ!」
 そう言って、男が、飄次郎にその太い腕を伸ばす。
 重く、そしてけして遅くはないその一撃をゆうゆうとかわし、飄次郎は右手を繰り出した。
「げは!」
 奇妙な声をあげて、男が、後方に倒れる。
 飄次郎の貫手が、男の喉元をしたたかに打ったのだ。カウンターの、しかも急所への一撃である。
 だと言うのに、それでも立ちあがった男の体力は、褒められていいだろう。
 が、飄次郎は容赦しなかった。
 まだ体制の整わない男の懐に、そのしなやかな長身を滑り込ませる。
「ッ!」
 また、喉への一撃。
 今度は肉を削ぐような手刀だ。
 テーブルを巻きこみながら、男が再び倒れる。
 飄次郎が、ゆっくりとそちらに近付いた。
 ぜいぜいと喘ぎ、喉を押さえながら、男が、ようやく立ち上がる。
 その、押さえた手の上から、さらに喉への執拗な一撃。
 三たび床に転がり、その姿勢のまま、男は、恐怖に満ちた目で、飄次郎を見上げていた。
 ――殺す気か?
 ごつい顔が、そんな原初的な怯えに、歪んでいる。
 飄次郎は、そんな男を、ひどく冷徹な顔で見つめていた。
 狙っているのは、あくまで喉だ。突きか、蹴りか、締めか……。とにかく喉めがけての攻撃をする、と、その一重の目が告げていた。
 起きあがれば、またやられる。男は、そんな恐怖に、尻餅をついたままじりじりと後ずさっていた。
「帰っていいぞ」
 飄次郎が、再び言う。
 男は、喉を両手でかばうように押さえたまま、物も言わずに逃げ出した。
「……余計なことをしたな」
 そう言って飄次郎が振り返ると、少女が、目に一杯の涙を溜めて、こちらを見ている。
「あ、あの、多田原さんは、だいじょぶなんですか?」
 少女は、両手をもみ絞るようにしながら、そんなことを言った。
「ん? ああ、あいつか? まあ、しばらくは声が出にくいだろうが、静かになってちょうどいいだろ」
 そんなことを言う飄次郎に、背後から、この店の店長らしき男が、緊張した面持ちで近付いてきた。

「すいません、あたしのせいで、いろいろ弁償させちゃって……」
 しゅん、とした顔で肩を落とし、少女が言う。
「こっちが、勝手に暴れただけだ。気にするな」
「でも……」
「彼氏を殴って悪かったな。俺は、見ての通り短気でね。あんたから謝っといてくれ」
 言いながら、飄次郎は、暮れなずむ街を歩き始める。
「か……彼氏なんかじゃ、ありません」
 ててて、と小走りに飄次郎の後を追いながら、少女が言う。
「普通の……ただの友達のつもりだったんです。あの人、タカコとも付き合ってるって話だったし……なのに、最近になって急に……そりゃ、はっきりしなかったあたしが悪かったのかもしれないけど……」
「いや、いきなりそんな話をされても、困る」
「あ、ごめんなさい……」
 少女が、また謝る。
「えっと、でも……せめて、お礼、させてくれませんか?」
「礼?」
「はい。あの、家に、おでんがあるんです。お昼食べた後で作って、それで作りすぎちゃって。それで、今日はお母さん、急な仕事で帰ってこなくて、家に一人だし……。だから、食べてもらえると嬉しいんです。えーっと、き、嫌いですか? おでん」
 奇妙なくらい真剣な様子で、少女が言う。
「いや、わりと……特に大根なんか」
 そんな少女の雰囲気に飲まれてしまったかのように、飄次郎は、ついそんなふうに答えてしまう。
「よかったァ。お大根、うんと味が染みてますよっ♪」
 嬉しそうに頬を染めながら、少女が、満面の笑みを浮かべる。
 花が咲いたような、可愛らしく、魅力的な笑顔だ。
「妙なことになったな……」
 飄次郎が、口の中でつぶやき、そして言った。
「えっと、あんた……」
「あ、すいません、言い忘れてました。あたし、水島っていいます。水島詩織」
「みずしま……しおり……?」
 飄次郎の眉が、ぴくりと動く。が、そんな彼の微妙な表情の変化には、少女――詩織は気付いていない様子だ。
「はいです。えーっと、お名前は……?」
「犬月飄次郎」
 思わず飄次郎は本名を答えてしまう。
「いぬづきさん、ですか? 変わった名前ですねー。どう書くんですか? やっぱり、あのお、ワンちゃんの犬に、空にある月?」
「あ、ああ」
「ステキな名前ですねっ♪」
 そう言って、また、ひどく開けっぴろげな笑顔を見せる。
(隙の多い女だな……)
 内心、飄次郎はそんなことを思っていた。
(これだけ隙があれば、勘違いする男も出てくるな。ま、要するに、子供なんだ)
 などと思いつつも、詩織の微笑みを見ていると、それだけで、何かなごんでしまいそうになってる自分がいる。
 いかんいかん、などと思っている飄次郎の顔を、詩織が、上目遣いで見つめた。
 並んで立つと、ひどく身長差があることに気付かされる。飄次郎が長身な上に、詩織が小柄なのだ。
「――じゃあ、犬月さん、うんとご馳走しますね!」
 そう言う詩織に、飄次郎は、いつになく曖昧な表情で肯いていた。


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