春の別離



 そして、春。
 出会いと、別れの季節。
 私立星晃学園――
 生徒たちの晴れ晴れとした寂しさを写すかのように空は蒼く、そして、校庭を渡る風は、かすかに暖かだった。



 昼休み。
「ふえ〜ん、さとみちゃあ〜ん」
 西永瑞穂は、情け無い声で、林堂智視に訴えた。
「四月からお別れなんて、寂しいよオ〜」
「大袈裟な……クラスが別れるだけだろ」
「でもでもでもオ」
 林堂は、机の前で手を振り回す瑞穂に、苦笑いを向けた。
 星晃学園では、三年生から、コースが理系と文系に分かれる。そして、瑞穂は理系、林堂は文系のコースなのだ。
「しかし瑞穂が理系コースなんて、未だに違和感があるよなあ」
「だって、獣医さんになりたいんだもん」
「それもまた違和感があるんだけどな……」
「なんでよお」
 いささか乱暴にイスに座りながら、瑞穂は頬を膨らませる。
「いやまあ、なりたいものがあるってのはいいことだ」
 林堂が、あたりさわりのないことを言いながら、瑞穂に頼まれて購買部で買って来たパンとパックのヨーグルト飲料を渡す。
「智視ちゃんには、なりたいもの、無いの?」
「……無い、なあ」
 あっさりと、林堂は言う。
「じゃあさ、探偵になればいいのに」
「探偵?」
「そ。シャーロック・ホームズとか、明智小五郎とか、あと、金田一耕助とかさ」
 瑞穂の安直なイメージに、林堂は耐えきれなくなったようにくすくすと笑い出した。
「何で笑うのよォ」
「悪い悪い」
 そう言って林堂は、自分の弁当を机の上に広げた。
「いやでも、なかなか面白い話だな。考えてみるよ」
「でしょっ♪」
「けど、探偵の仕事なんて、素行調査や浮気調査ばっかなんだぜ。地味な、つまんない仕事がほとんどだよ」
「ふーん」
 残念そうにそう言って、瑞穂は、ちゅるる、とヨーグルトをストローで吸う。
「今回の件も、最後は、結局人探しだったしな」
「え、今回の件って……?」
「姫園克己による、久遠寺かずみ殺人事件さ」
 あっさりとそう言いながら、林堂は、弁当箱を開けた。
「謎、解けたの?」
「謎? ああ、あのアリバイか。いや、解けちまえば、ホントつまんない話だったよ」
「つまんないって……」
「結局、そこにいない人間には、犯罪を犯すことはできない。少なくとも、機械的な手段で犯行時間をずらしたり、遠隔操作で別の場所にいながらに犯行を行えるようにしない限りな。しかし、当時の克己には、そんなことができる余裕はなかった。それに、性格的にも、そんなことをするようなヤツでもなかったしな」
「うん……」
「となると、犯行時間において、姫園克己を目撃したって証言の方が、怪しくなってくるわけだ。ただし、複数の、しかも姫園の家にいい感情を抱いていない人間の証言だ。嘘をついているとは考えづらい。となると、見間違い、もしくは勘違いと考えるべきだな」
「かんちがい?」
「そうさ。瑞穂も見たろ? 使用人たちは、あのドアの小さな覗き窓から克己の存在を確認したに過ぎないんだ。もし、ベッドに寝ているのが別人であったとしても、気付く公算は低い」
「じゃあ……別の人が、寝てたって言うの? 身代わりに?」
「そうさ。ただし、主人夫婦に幽閉されていた克己が、平和的に自分の身代わりを頼めたとは思えない。無理やりに身代わりに仕立て上げたと考える方が妥当だろうな」
「仕立て上げた……って、どうやって?」
「これさ」
 つんつん、と林堂は、自分の弁当を箸でつついた。
「おべんと?」
「食事だよ。食事を部屋に入れるとき、使用人は、ドアの下にある小さなドアを開ける。その時、姫園克己は、使用人に強烈な一撃を見舞った」
「ど、どんな?」
「一番考えられるのは、電気だろう。床を濡らしておいて、導線をむき出しにした電源コードで電気を流すとかな」
「電気……」
「克己にしてみれば、部屋から出ることをまず考えてたんだろう。そして、食事を運ぶ係は、ドアの鍵を持っていた。克己は、使用人を感電させ、食事を差し入れるための開閉部から手を通して、使用人のポケットか何かにあった鍵を手に入れた」
「……」
「が、部屋を出るにしても、使用人の体をそのままにしておいたら、すぐにばれてしまう。犯行時間をごまかすとか、そういうつもりじゃなく、ただ単に脱走をさとられないようにするために、克己は、使用人をベッドに寝かせた。起きて騒いだりしないように、縛るくらいはしただろう。そして、鍵をかけ、どこかからナイフを持ち出し、家を出た……」
「その、縛られた使用人さんを、他の人は、あの人だと思った……ってことね」
「その通り。さて、このことを知った主人夫婦は、息子の犯行を隠すために、その身代わりになった使用人を口止めする。かなりの金を積んだと思うな。けど、その身代わりの方は、もうこんな家に務めるのはイヤだと言ったろう。まともな神経の持ち主なら、そう言うはずだ。それで、姫園家は、使用人の一斉解雇を行う。身代わりだけをやめさせたんじゃ、かえって目立つからな」
「それで……?」
「それでって、謎解きは、とりあえずこれだけさ。あとの仕事は地味だぜ。解雇された当時の使用人の中から、身代わりにされたやつを探す。恐らくは男、もしくは、当時の克己と同じくらいの長さの髪の女だ。ただし、凶暴な息子に食事をさし入れるような役目なんだから、やっぱり男と考えた方が無難だな。幸い、姫園家に務めてた使用人のうち、男ってのは数が少なかったから、追跡はそう大変じゃなかったけどな」
「で、見つかったの? その、身代わりの人」
「ああ。品川警部捕のありがたーい協力でな」
 そう言った後、林堂は、にやりと笑って見せた。
「けど、それでもう一つ、ちょっとした謎が発生したんだけどな」
「ちょっとした……なぞ?」
「ああ。その身代わりにさせられた男――やっぱ男だったんだけど、そいつが、奇妙な証言をしたのさ。自分が失神したとき、床は、濡れてなんかいなかった。そして、手に何かが触れて、強烈なショックを受けて、それで気絶したんだってな」
「それって……?」
「スタンガンだろうな、多分」
 こともなげに、林堂が答える。
「姫園克己は、武器マニアだった。バタフライナイフやグルカナイフなんかのナイフ類の他に、スタンガンなんかもコレクションしてたらしいんだよ。無論、ヤツが幽閉されていた部屋には、そんなものはなかったはずだ。が、まあ、警察は、克己が隠し持っていたんだろう、っていう線で通すらしいけどな」
「智視ちゃんは、違うと思ってるの?」
「まあな。多分スタンガンは、外から差し入れされたんだろ」
「……誰に?」
「分かんないか?」
「……」
「じゃあもう一つ。例の夜のことだ」
 そう言うと、瑞穂の顔から、さあっと血の気が引いた。
「――聞くの、よすか?」
 林堂が、その整った顔から笑みを引っ込めて、瑞穂に訊く。
「ううん……ココでやめたら、よけいに気分悪くなっちゃうよ」
「それもそうだな」
 そう言って林堂は、続けた。
「例の夜、姫園克己はどうやって地下から脱出したのか……。あいつが閉じ込められていたのは、なんでも頑丈な檻だったらしいんだな。つくづく、あいつの両親ってのは、息子を手元に閉じ込めることに情熱を抱いてたらしい」
「その檻って……やっぱり、鍵で開くの」
「そうさ。で、檻の鍵は、錠前に刺さりっぱなしになってたらしい。で、床は水浸しだったって話だ」
「今度は、水びたしだったの?」
「ああ。しかし、地下の方には電気はない。だから、鍵を持った人間を感電させて……ってパターンじゃないな」
「じゃあ……?」
「前に、瑞穂に見せてやったSMサイトがあったろ?」
「な……」
 いきなりな話題の転換に、瑞穂はその頬を真っ赤にする。
「何言ってるのよ、智視ちゃん!」
「大声出すなよ。聞かれるだろ」
 林堂は、涼しい顔だ。
「その中で、氷漬けの鍵の話があったろ?」
「え……ああ、セルフボンデージとか、そういうのだっけ? 氷が溶けるまで、拘束具の鍵とか外せないっていう……」
 さすがにひそひそ声になりながら、瑞穂が言う。
「今回は、多分アレさ。氷が溶けて、姫園克己が鉄格子ごしに鍵を手に入れたときには、そいつはもうどこかに行っている、って寸法だな」
「……誰が、そんなことを?」
「姫園克己の行動パターンを熟知した人間」
 林堂が、箸を持った右手で口元を隠しながら、言う。
「姫園克己を外に出して、最も利益を得る人間。今回の事件で、姫園家の莫大な資産を、一手に相続した人間……」
「ま、まさか……」
 瑞穂がそう言うのにも構わず、林堂は冷徹な声で続ける。
「あのクリスマスの夜、姫園家のクリスマス・パーティーに参加していなかった人間。姫園克己が逮捕されるまで、ずっとどこかに身を隠していた人間。そして、四月から、東京の学校に転校してしまう人間……」
「姫園くん、が……?」
「恐らく、な。五年前の事件で、部屋の中にスタンガンを差し入れしたのも、そうだろう。兄の克己がそれを手に入れれば、絶対に騒ぎを起こす。――そうなってほしかったんだろうな。まあ、脱走して、あまつさえ殺人を犯すなんてことはさすがに想定してなかっただろうが……。何にせよ、まだ小学生の頃だってのに、たいしたヤツだよ」
「警察には、品川さんには、そのこと、言ったの?」
「なんで?」
 不思議そうに、林堂が訊き返す。
「な、なんでって……」
「姫園が――姫園克哉がやったのは、家に閉じ込められたままの哀れな兄を、外に出そうとしたことだけだぜ。それが、どんな罪になるって言うんだ?」
「でも……」
「ヤツのことだ。自分が罪に問われるようなことはないって、きちんと分かってるはずさ。そんなヤツのことで、品川さんをわずらわせるのも可哀想だろ?」
「でも……でもさあ……」
「今回は、残念ながら、あいつの勝ちさ」
 その林堂の声を聞いて、瑞穂は、はっと目を見張った。
 今まで聞いたこともないような、かすかにではあるが、悔しそうな響き。
 瑞穂には、箸を持つ林堂の手が、ほんのかすかに震えているように見えた。
「探偵か……確かに、いいかもしれないな」
 そう言って林堂は、いつもの表情に戻り、弁当を食べ始めた。
「うん……智視ちゃんだったら、きっと名探偵になれるよ」
「そりゃどうも」
 瑞穂の言葉に、林堂は、微笑みながらそう言った。



 ホームに、アナウンスが響き渡る。
 うららかな太陽が街を照らす昼下がり、少年は、電車を待っていた。
 秀麗な顔に、すらりとした長身。しかし、その顔につねに浮かんでいた微笑みは、今は無い。
 ただ、どこか憂いを含んだような顔で、線路の脇に生えたタンポポを見つめている。
「姫園ォ」
 と、少年の背後から元気のいい声がかけられた。
 少年――姫園克哉が振り返ると、そこに、片倉浩之助がいた。
 浩之助は、普段の彼が浮かべることのないような、複雑な表情で、姫園の顔をにらんでいる。
「行っちまうのかよ」
 ぽつん、と石を放るような感じで、浩之助が行った。質問ではなく、確認のセリフだ。
「しょうがないだろう。兄が凶悪犯だってことは、この界隈じゃあ知れ渡ってるもの」
 肩をすくめながら、姫園が言う。
「それに、この街にはおっかない人が多いからね。……キミを含めて、さ」
 そんな姫園の言葉に、浩之助は、ふん、と鼻を鳴らした。
「郁原とはやりあったらしいけど……オレとは、勝負ついてねーんだぜ」
 そして、すねたような口調で、そう言う。
「キミは、いつもそうだね。うらやましいよ……」
 姫園は、ようやく、その顔に微笑みを取り戻した。
 が、それは、以前の微笑みとは、微妙に違っている。
「お前、何か変わったなあ」
 思ったことをストレートに、浩之助が言った。
「うん……ボクは、郁原くんに教わったよ。人を傷付ける痛みを知る、ってことをね」
「なんだよそりゃあ」
 浩之助が、思いきり顔をしかめる。
「キミは、そういうこと、考えたことないの?」
「殴れば相手が痛いし、殴られればオレが痛い。そういうことと違うのか?」
 浩之助の言葉に、姫園は、少しだけ驚いた顔をして見せた。
「……そっか、キミは、いつもそれを覚悟してるんだね」
「そりゃあまあ、親父に頭が割れるほどぶん殴られたからな。でも、最近じゃ、オレが親父に拳を当てることもあるんだぜ」
 そう言って、浩之助が胸を張る。
「うらやましいよ、ほんとに……」
 その姫園の言葉を、プラットフォームに滑りこむ急行電車の音が、掻き消した。
「あ、この電車か?」
 浩之助の問いに、姫園が肯く。
「――じゃあ、いつかまた、会えるといいね」
 姫園がそう言って、開いたドアから車両に乗りこんだ。
 出発のベルが鳴り響く。
「じゃあな」
 そう言って右手を上げる浩之助に、姫園も、手を上げて答える。
 ドアが閉まった。
 ゆっくりと、電車が動き出す。
 次第に速度を上げていく電車を、浩之助は、じっと見つめていた。
 そして、二年生になってから起こった様々な出来事を、しばし、思い出す。
 数え切れないほどケンカをして、失恋して、そして――
 この街を去る姫園は、まるで別人のような顔になっていた。
 自分は、どれだけ変わったのだろうか。
 そして、これからどれだけ変わるのだろう。
 遠ざかる電車が、視界から消えていく。
 視線を線路に向けると、去っていく電車が起こした風の名残に、タンポポが、ゆらゆらと揺れていた。
 小さく、可憐で、そのくせどこかたくましくて、そして明るい黄色の花――
 ふと、久留山亜美のことを思い出す。
 そして、そんな自分をちょっと意外に思いながら、浩之助は、改札口へと歩き出していた。




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