ARAHABAKI



第十一章



 土曜日の、正午。
 僕たちは、街外れにある廃工場の敷地に侵入していた。
 あの、萌木さんのメールが指定した時間と場所だ。
 萌木さんのメールは、僕と桐花ちゃんを、当面の脅威から逃がす手伝いをしたい、という内容だった。
 そして、その代償として、僕たち二人が知ることの全てを話してほしい、とも書いてあった。
 そのメールを見てもらいながら、僕は、桐花ちゃんに、萌木さんが何者なのかということを説明した。
 無論、僕の得ている情報が、完全に正しいものだという保証は無い。何しろ、萌木さんは、あの通り食えない人だ。そもそもどうして萌木さんが僕のケータイのアドレスを知っていたのかという疑問もある。恐らく、何やら非合法な手段で僕の個人情報を得たのだろうけど。
 それでも、僕は、ギリギリのところで、萌木さんは信用できるんじゃないかと思っている。
 一方、桐花ちゃんの方は、萌木さんについて、あまりいい印象は持ってないみたいだった。
 どうやら、アラハバキを統括し、監視する、本殿の側の人間なんかじゃないかと思ってるらしい。
 それでも、桐花ちゃんは、萌木さんと会おうという僕の提案に賛成してくれた。
 本当に萌木さんが僕たちに協力してくれるんだったら良し。そうではなく、何かの罠だったとしても、それを突破して死中に活を見出そう、なんてことを考えてるのかもしれない。
 実際、桐花ちゃんは、萌木さん本人じゃなくて、萌木さんがいつも乗ってるワゴン車の方を目当てにしてる、と明言した。
「それって、盗んじゃうってこと?」
「ああ。あの男は、おそらく車で来るだろうからな」
「確かにその方が萌木さんも便利だろうからね。でも、ドロボウは良くないよ」
「呑気だな、覚は……」
 桐花ちゃんが、やれやれ、って感じで苦笑する。
「車の有る無しで、私たちの逃避行はずいぶんと違ってくる。運転に関しては私に任せてくれればいい」
「うーん、でもなあ……」
 そんなことを、ボロボロになった工場の建物に隠れて、外を窺いながら、話をする。
 空はどんよりと曇り、外を吹く風は冷たい。その上、冷えた大気の中を小雪が舞っている。
 たぶん、この冬最後の雪だ。
 と、低いエンジンの音が、敷地の中に侵入してきた。
 見覚えの有るメタリックグリーンのワゴン車が、敷地の中央にあるスペースに姿を現す。
「あれは……あの男の車だな」
「うん、萌木さんのだね」
 車が停まり――運転席から、萌木さんが姿を現した。
「どうやら、本物のようだな」
 そう言って、桐花ちゃんが、建物の出入口に近付く。
「覚はそこで待っててくれ」
「そ、そういうわけにはいかないよ」
 僕は、桐花ちゃんの後に続いた。
「……何かあったら、とにかく逃げるんだぞ」
 その桐花ちゃんの言葉に、僕は、肯きを返さない。
 桐花ちゃんは、小さく溜め息をついて、建物の外に出た。僕も、それに続く。
 萌木さんが、こっちを向いた。
 その、いつもひょうきんな顔には――何の表情を浮かんでいなかった。
「へぇ〜、一発目で釣り上げちゃった♪」
 と、萌木さんの後ろから、小さな女の子の声が響いた。
「橘果姉さん……!」
「桐花ちゃん、門限破りはお仕置きだよぉ」
 緑郎さんが開けたままのドアから、和服姿の女の子が、姿を現す。
 この子が……桐花ちゃんのお姉さん? そんな、どう見たって小学生くらいなのに――
「読みが甘いんだから……こういう可能性は考えなかったの?」
 とん、と桐花ちゃんのお姉さん――橘果さんが、萌木さんの体を軽く押す。
 萌木さんは、まるで棒みたいにその場に倒れた。
 そのうなじに、かつての桐花ちゃんと同じように、針が一本刺さっている。
 萌木さんが橘果さんに何をされたのかは正確には分からないけど――でも、橘果さんが、萌木さんのことを支配下に置いていたことは確かだろう。
 となると、萌木さんが知っていたことの全てを、橘果さんは知っている可能性がある。
 いや、そうでなくとも、桐花ちゃんの話によれば、橘果さんは僕が“死んだ”ことを確認したわけで――
「まさか、本当に生きてるなんてね」
 橘果さんが、桐花ちゃんとそっくりな漆黒の瞳で、僕を見つめる。
「この人に聞いた時は半信半疑だったけど――自分が殺されたことの生き証人だなんて、笑えない冗談よね」
 橘果さんのあどけない顔に、こわい笑みが浮かぶ。
「姉さん……まさか……」
「まさかって……桐花ちゃん、この子を生かしておくわけにはいかないでしょう」
 橘果さんは、僕の方を向いたまま、桐花ちゃんに言った。
「この子はね、想像しうる限り最大の世界の歪み――時使いなのよ」
「時使い……?」
 僕は、思わず声を上げる。
「そう。横文字で言うなら、クロノキネシス……時間を操る超能力よね。全く、とんでもない化け物だわ」
「ま……待ってくださいよ。僕はそんな……」
「それ以外のどんな方法で、君は復活を果たしたって言うの?」
「ほ、方法って言われたって、そんな……」
「君は、完全に死んでいた。なのに、今は生きている。治癒とか再生とか、そういうレベルじゃないわ。もっと根本的な力――ううん、“歪み”が、君という存在にはあるのよ」
 どきん、と僕の心臓が跳ねた。
 橘果さんの言葉の中身より、その声の響きが、僕の背筋を冷たくさせる。
 僕は、今――生命の危機に瀕しているのだ。
「姉さん。彼に手を出すつもりなら――」
 言葉が終わらないうちに、桐花ちゃんの両袖からハサミが滑り落ち、その白い手に収まる。
「――桐花ちゃん、あなたは、その子と遊んでなさい」
 橘果さんが、桐花ちゃんに、その黒い瞳を向けた。
「……っ!」
 今まさに僕の前に出ようとしていた桐花ちゃんが、くるりとその場で振り向く。
 ぎん! という鋭い音ともに、火花が散った。
「なっ……!」
 いつの間にか現れてた、桐花ちゃんの贋物――そいつが、同じように両手にハサミを構え、本物の桐花ちゃんに繰り出している。




 そういうわけでね、妖怪を見ることができて、妖怪退治ができる人ってのは、妖怪を実体化できる――つまり、妖怪を呼び出すことが可能な、妖怪に近い存在だってことになっちゃうわけ。




 まさに電光石火と呼ぶにふさわしい桐花ちゃんの贋物の攻撃に目を奪われそうになりながら、僕は、ほとんど無意識のうちに体をのけ反らせていた。
 つい一瞬前に僕の頭のあった場所を、銀色の軌跡が貫く。
「へえ、よく避けられたわね」
 橘果さんが、ぞっとするほど長い――三十センチはありそうな針を逆手に構えながら、微笑む。
「時を操る君にとっては、少し先の未来を見るなんて、造作もないことなんでしょうけど――」
 そんなことを言いながら、橘果さんが、僕に襲いかかる。
「わあっ!」
 僕は、思わず悲鳴を上げながら、その場に身を投げ出した。
 そのまま、ごろごろと地面を転がりながら、橘果さんの針をなんとかしてかわす。
 速い――速すぎる――!
 未来を見るなんてこと、してるつもりはなかったんだけど、それでも、確かに、僕には人の動きがよく見えた。
 もちろん、それは、多少、人より目がいいってだけで、普通の能力だと思ってたんだけど――
 ともかく、そんな僕の目で追い切れないほどに、橘果さんの針は速いのだ。
 しかも、針は、橘果さんの手の中でくるくると位置を変え、どこからどういうふうに僕を刺そうとするのか、直前まで分からない。
 橘果さんが、針をどちらの手にもってるのか、それとも両手にそれぞれ握っていてるのかさえも、捕捉できないのだ。
 地面を転がり、這い回りながら、必死に立ち上がる機会を窺う。
 このままの姿勢じゃ、あの針の餌食になるのも、時間の問題だ。
 視界の端に、自分そっくりの贋物と戦う桐花ちゃんの姿がある。
 もし、僕に特別な力があるなら――いや、そうでなかったとしても、彼女を助けなきゃ――!
 僕は、ほとんどバランスを崩したまま、強引に立ち上がった。
「うああっ!」
 左の肩を、鋭い痛みが貫く。
「覚っ!」
 桐花ちゃんが、一瞬だけ僕に顔を向け、叫ぶ。
「あ、あぐっ……あうううっ……」
 痛い、痛い、痛い、痛い。まるで灼熱した鉄の棒を突っ込まれたみたいな、理不尽なまでに激しい痛み。
 その上、左腕全体が痺れて動かない。まるで、肩のところで腕を切断されたみたいだ。
 そんな馬鹿な。いくら長くて太いからって、針を刺されただけでこんなふうになるなんて――
「痛いでしょう? 痛いはずよ……そういう点穴を突いたんだから」
 橘果さんが、新たな針を構えながら言う。
 何も言い返すことができない。いや、痛みに脳を支配されて、何か言おうとすら思えない。僕の喉から漏れるのは、動物じみた唸り声だけだ。
 ようやく、刺さった針を抜こうということに思い至り、右手を動かす。
「あああああああああああああああ!」
 右肩の同じ場所を、針で突かれた。
 両手が痺れて動かない――けど、それ以上に、単純な苦痛が、僕を絶望させ、発狂寸前に追い込む。
「さあ、壊れちゃいなさい。時間を戻すなんて事、考えつかないくらいにね」
 残酷な笑みを浮かべながら、雪のちらつく空を背負って、橘果さんが三本目の針を懐から取り出す。
 その姿も、声も、痛みで寸断された意識はきちんと捕らえることができず、まるでモザイク模様だ。
 とにかく、逃げなきゃ、と思った時、右脚を切断された。
「ぎっ……あああああああああああああ!」
 違う、斬られて、いない、けど、痛くて、熱くて、痺れて、こんな、の、斬られ、たのと、同じ、だ。
 ぐるり、と世、界が半回転、し、風景が転、倒する。
 どう、やら、僕は、その、場に、再び、倒れ、たら、しい。
 だ、ら、し、な、く、も、が、く、僕、に、橘、果、さ、ん、が、針、を、持、っ、て、近、付、く。
「最後の××よ。さあ、×れちゃいなさい」
 視界は深紅。聴覚は乱調。全身は痙攣。思考は断裂。呼吸は停止。
 嫌だ。針が。脚に。迫る。今に。僕は。狂う。
「やめてよ! やめてよ姉さんっ! やめて!」
 桐花ちゃんが、こっちを向いて――
 キン。
 飛来したハサミが、橘果さんの手から、針を弾き飛ばした。
「桐花ちゃん――何てことを!」
 今まさに僕を×して×わそうとした××さんが、慌てたような声を上げ――
「あ――」
 痛みを、忘れた。
 こちらにハサミを投げ放った姿勢のまま、桐花ちゃんが、硬直している。
 そして――桐花ちゃんは、その場に倒れた。
 雪が、制服の布地に音も無く舞い降りる。
 その背中に、深々と、漆黒のハサミが突き刺さって――



「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」



 ――思い出した。
 あの夜のことだ。
 僕と家族の乗った車が欄干にぶつかりそうになった瞬間、僕は、ドアを開けて車を飛び出していた。
 そのまま乗っていれば、車の残骸の中で押し潰されることが分かったからだ。
 そう、僕は、未来を見ることができた。
 少し先に起こることが網膜に二重に映り、それに対応することができたのだ。
 もちろん、いつもじゃない。ただ、何か印象的な出来事が起こる寸前に、それを察知することができたのである。
 このことは、誰に言っても信じなかった。もちろん、家族もそうだった。
 それに、その力は、自由に制御できる類いのものではなかったので、人に証明することも難しかった。
 そのうち、多少の知恵がついて、自分のその力は、秘密にすべきものだということを悟った。
 他の人と違う能力を持っているということを吹聴するくらい危険なことはないと考えたのだ。
 だから、そのうち、口にするのをやめた。
 そもそも、この力は、咄嗟の事故を回避できるだけのもので――それだけでも大したものだろうけど――日常の生活を送る上で、常に意識するようなものでもなかったのだ。
 だけど、あの夜――僕は、まさにその“咄嗟の事故”を、自らの力で回避したのだ。
 母さんと、父さんと、姉さんを、車に残して。
 硬い道路の上に転がった僕は、浅くない傷を負った。
 いや、実際のところは、体のあちこちを骨折していたんだと思う。
 だけど――その苦痛よりも、自分一人が逃げ出したことに対する後悔の方が、大きかった。
 どうして――どうして僕は一人だけ助かろうとしたんだろう。
 他にどうすることもできなかったんだろうか。
 僕のこの力を、大好きだった家族たちを救うために使うことは、不可能だったのだろうか。
 できたかもしれない――できたかもしれないのに、僕は今、道路の上に無様に転がって、ただ一人まだ息がある――
 戻れ、と思った。
 事故が起こる瞬間より前に時間が戻れば、家族を救う試みをすることができる。
 もし、最悪でも、最期の一瞬まで家族と一緒にいて――そのまま、死んでしまうことだって――
 なのに――なのに僕は――僕の力は――
 僕の時間だけを逆転させ、ただ僕だけが助かるために、僕の傷をふさぎ、僕の骨をつなぎ、僕の体をいやして――
 どこまでも僕という存在はエゴイスティックで、ただ僕が助かるためだけに僕の力は働いて――
 僕だけが、僕だけが、僕だけが、僕だけが、僕だけが、僕だけが、僕だけが、僕だけが――!
 そんな力なら要らない。そんな能力なら必要ない。こんなつらい思いをして、後悔に後悔を重ねるだけなら、時を見、操る力なんて、自分自身を嫌いにさせるだけだ。
 だから、いっそ、時間が戻るその流れに乗せて、この後悔も、記憶も、力の全てを過去に押し流して……



 何て、自己中心的な。



 結局、僕は、自分の弱い部分を守るために、自分の力を使って、自分の時間の中を逃げ回ってるだけで――
 でも、思い出した。
 思い出す必要があるから。
 自らの過去を。
 自らの後悔を。
 自らの苦痛を。
 自らの惰弱を。
 自らの能力を。
 たとえ一瞬でも、繋がり、溶け合い、一つになれた、大好きなひとを――僕以外の誰か救うために――
「そんな――自分以外の時間を操るなんて――そんな馬鹿な――!」
 誰かが、叫んでいる。
 自分以外の、時間――それが――それがどうしたって言うんだ――
 桐花ちゃんは、僕の大事な人――僕の中に桐花ちゃんがいて、桐花ちゃんの中に僕がいる――
 だから――だから――だからっ――!




 静寂と、暗黒と、無痛――
 その中に沈み、停滞していた私は、突然、背中に釣り針を打ち込まれたような激痛と衝撃を覚えていた。
 この痛み。心の臓にまで達する、嘔吐すら催すようなその痛みは、かつて、覚が感じたものだ。
 私が、覚に与えた、死に至る痛み。
 それが、私の眠っていた意識を叩き起こし、覚醒する。
 あんな可愛い顔をしていながら、ずいぶんと思い切ったこととをしてくれる――
 泣きそうなくらいの痛みを感じながら、私は、妙におかしかった。
 瞼が開き、眩しい風景を網膜に移す。
 天より舞い降りていた雪片が、どういうわけか重力に逆らって空に還っているような……。
 いや、そんなことより――
「覚っ!」
 私は、いつの間にか自分の両足で地面に立ち、その方向を向いていた。
 橘果姉さんが驚愕の表情を浮かべ、その足元で、覚が倒れている。
 ミズヒルコの姿は、無い。
 私は、左手に持ったままの鋏で、スカートの裾を大きく裂いた。
「やる気なのね」
 橘果姉さんの言葉は、質問ではなく、確認ですらなかった。
 ただ、私と姉さんの間のこの張り詰めた空気を、少し調整しようというくらいの意図によるものだ。
 だから、応える意味も無いし、意志も無い。
「――桐花ちゃんの技は全て見切ってる。あなたに勝ち目は無いわよ」
 そう言いながらも、姉さんは、私が戦闘を停止するつもりがないことくらい、分かっているだろう。
「姉さんにまだ見せてない技くらい、あります」
 私も、自分の言葉でこの戦いが終わるとは思っていない。
 ただ、橘果姉さんと対峙しているという事実で乱れた“気”を、整えようとしているにすぎない。
「強がりでも嬉しいわ」
「…………」
「この子が――好きなのね」
「――はい」
 左手の指で、鋏の刃を弾き、展開させる。
「じゃあ、あたしに勝たないとね」
「そのつもりです」
「ふふ――」
 橘果姉さんが、微笑む。
 その淡い笑顔に向けて、私は、左手の鋏を投擲した。
 鋏が高速で回転しながら空気を貫く音を聞く前に、姉さんはそれをかわしている。
 私は、地を蹴っていた。
 太腿に仕込んだ鋏を両手に持ち、姉さん目がけ走る。
 ぞく――
 音でも、光でもなく、首筋を襲う寒気に反応し、私は立ち止まった。
 ――針千本!
 布地の至る所に縫い止められていた針が、姉さんの手によって投擲される。
 その数は、一度に二十本以上。しかも、投擲は間をおかず連続して繰り出される。
 逃げ場は無い。私は、手に持った鋏を、持ち手の穴に人差し指を引っ掻け、回転させた。
 二本の鋏を回し、襲いかかる無数の針を弾き飛ばす。
 キンキンキンキンキンキン……!
 鋭く澄んだ音ともに針が私の周囲に舞い――そして、弾き切れなかった針が、私に突き刺さる。
 姉さんを攻撃するどころではない。私は、その場に釘付けにさせられ、徐々に運動能力を奪われていく。
 と、姉さんが、いつの間にか私に向かって疾走していた。
 その右手に、杭と呼ぶのがふさわしいような、巨大な針が握られている。
 私が、左手の鋏を投げ付けてから、約八秒――
 ちょうど、計算どおりだった。
「……っ!」
 橘果姉さんがその動きを止め、振り返り様に左手で自らの顔を庇う。
 ずぐっ!
 嫌な音とともに、ほんの数滴、血が、姉さんの顔にかかった。
 鋏が、姉さんの小さな可愛い手を貫いている。
「ど、どこから――」
 言いかけてから、姉さんは、はっと悟ったようだった。
 私が最初に投げた鋏――それが、宙で方向を変え、ちょうど今姉さんがいる場所目がけて飛んできたということに。
 ブーメラン。
 南洋に浮かぶ大陸の先住民たちが使っていたという、奇妙なくの字型の武器。
 しかし、実際は、その形をしていなくとも、しかるべき空気の抵抗をかけてやれば、それは回転するうちに軌道を変える。
 鋏の開き方と投げ方を工夫するのに、数年――密かに、姉さんの後を継ごうとした時から、私は研鑽し続けていた。
 その果実が、まさか、姉さんの血に染まるとは……。
「…………」
 からん、と音がして、橘果姉さんの手から、あの巨大な針が転がった。
「あたしの、負けね……」
 その言葉を聞き、私は、覚に駆け寄った。
 そして、彼の両肩と太腿に突き刺さる針を、抜く。
「かっ……はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……!」
 覚が、大きく喘ぐ。どうやら今まで満足に呼吸もできなかったらしい。
「桐花ちゃん」
 姉さんが、私の背中に声をかけた。
 覚を抱き起こしながら、姉さんの方に視線を向ける。
 姉さんは、右手で左手首をつかみ、止血しながら、淡く微笑んでいた。
「あたしはもう戦えないわ。少なくとも、この手が癒えるまではね」
「…………」
「桐花ちゃんには、今、いろいろな選択肢があるわ。この場を逃げても、あたしは追うことはできない。もし、あたしに止めを刺そうというなら――ほぼ間違いなく、それに成功するでしょうね」
「しません、そんなことは」
「どうして?」
「私は、今日から、正式に姉さんからアラハバキの地位を継ぎます。そして、姉さんには、静かに引退してもらうつもりです」
「……いいの? それで」
 私の言葉が意外だったのか、姉さんが、少し驚いた顔をする。
「確かに、本殿のことを考えるなら、それが一番、波風立たない選択かもしれないけど……」
「本殿のことはあまり関係ないです。この管区には、まだミズヒルコが顕れる可能性がありますから……やるべきことをやるだけです」
「その子と一緒に?」
 姉さんのからかうような口調に、私は、思わず眉を吊り上げた。
「ごめんなさい。でも、桐花ちゃんの気持ちは嬉しいわ」
 姉さんが、懐から取り出した布で、左手の傷を片手で器用にくるくると縛る。
「……あたしたちとミズヒルコの戦いは、終わりが無いわ。ミズヒルコは、どこにでもいる。あたしたちは、モグラ叩きみたいにそれをやっつけていくしかないの。それでもいいのね?」
「ええ」
 私は、少しつっけんどんな口調で、短く答えた。
「強くなったわね」
 橘果姉さんが、見たこともないような優しい顔をする。
「時任君」
「えっ?」
 橘果姉さんに呼びかけられて、覚が、目をしばたたかせる。
「桐花ちゃんといつも一緒にいてね」
「え、えっと、それって……」
「もし、君の力が暴走しても、桐花ちゃんならなんとかしてくれる……その逆も言えるんだけど」
「そういう風に私達を見ないでください!」
 私は、覚が答えるより前に声を上げてしまった。
「ふふ……じゃあね、桐花ちゃん。油断しちゃだめよ」
「あ……」
 覚が、可愛らしくも間抜けな声を上げる。
 橘果姉さんが、萌木緑郎のワゴン車にするりと乗り込み、そのままエンジンをかけたのだ。
 そのまま、ワゴン車が、危なげの無い運転で、工場の敷地から走り去る。
「え、えっと……桐花ちゃん、よかったの?」
 しばらくしてから、覚が、私に問いかけた。
「何がだ?」
「だから、その……お姉さんをあのまま行かせちゃってさ」
「正面から戦って私が勝ったんだ。取り敢えず、心配することは無い」
「い、いや、そういうことじゃなくてさ……」
 覚が、なぜか妙に慌ててる。
「まさか、その、このまま別れたっきりになっちゃうなんてことは……」
「さあ、どうかな」
 私は、天を仰ぎながら、小さく息をついた。
 雪は、いつの間にか止んでしまっている。
 灰色の雲の隙間から、淡い金色の日の光が、顔を出していた。



 そして、結局、僕にとってはよく分からないうちに、事態は収束してしまった。
 どうも、桐花ちゃんのお姉さんは、本気で桐花ちゃんにこの街を任せてしまうつもりらしい。
 桐花ちゃんも、そのつもりで、ミズヒルコを退治するという話である。
 なお、最近では、そんな桐花ちゃんを、萌木さんがサポートしてくれている。
 萌木さんは、僕たちのことを探っているうちに、橘果さんに捕まってまんまと利用されたことを、それなりに申し訳なく思ってるようだった。
 萌木さんが回してくれる情報のおかげで、桐花ちゃんは、かなり助かってるらしい。
 それから――僕も、桐花ちゃんと一緒に、夜の街を歩き回っている。
 僕や萌木さんが桐花ちゃんに協力するのは、アラハバキという存在そのものの秘密を保とうとする“本殿”にとっては看過し難いことのようだけど、その辺は、萌木さんがうまいことやってくれてるらしい。
 そうやって、カラスだのトカゲだのの形をしたミズヒルコを片付けてるうちに、街を騒がせていた怪事件は、噂にすら上らなくなっていった。
 そして、季節は、いつの間にか春になっていた。



「じゃあ、今夜はここで」
 そう言う覚の唇に、私は、無言で唇を重ねた。
 場所は、覚の家のすぐ近く。彼が私に告白したあの公園だ。
 舌を少し触れ合わせただけで口を離すと、覚が、顔を真っ赤にさせている。
 もっとつながりたい、という気持ちを表に出さないように努力しながら、私は、覚に背中を向けた。
 もしかしたら、覚には気付かれているかもしれない。でも、それならばそれでいい。
 近いうちに、また、彼と体を重ねることになるのかも――という、予感というより期待が、胸の中にある。
 ならば、いっそ、彼をデートにでも誘おうか……。
 春の夜風に当てられたのか、つい、そんなことを思う。
 その時――
「…………」
 公園の中心。桜の大木の根元に、それは顕れた。
 ミズヒルコ。
 かつて、不定形の触手や、顔の無い男ども、そして、時任覚のカタチを取った、淀みと穢れの堆積。
 それは、今夜も、鏡に映った私自身の姿を取っていた。
 姉さんと戦い、別れたあの日、いつの間にか姿を消したソレが、じっと私を見つめている。
 その瞳には――狂おしいばかりの孤独があった。
 抑え込まれた苦痛と憎悪、そして、渇望が、その表情を歪ませている。
 私の顔をしたミズヒルコは、まるで、今にも泣き出しそうな子供に見えた。
「…………」
 鋏を構える事なく、両腕を広げ、ミズヒルコに歩み寄る。
 恐れることも、怯えることもない。
 彼女は――私だ。
 私自身が心の奥底に秘め続けていた感情が、外に顕れただけのものだ。
 だから……私は、ゆっくりと、そのミズヒルコに近付いていった。
 ミズヒルコが、おっかなびっくり、私に近付く。
 一歩。二歩。三歩。四歩。
 私が一歩足を踏み出すごとに、二歩分の距離が縮んでいく。
 そして、私は、彼女と体を重ね、しっかりと抱擁した。
 はらはらと桜の花びらが散る中、自分自身と抱き合う。
 腕の中で、かつて私だったミズヒルコが、私の中に帰っていく――
「…………」
 ミズヒルコが、まるで溶けるように消えた。
 いや、消えたのではなく、私と再び一緒になったのだ。
 今まで無理に目を逸らしていた様々な想いが、私の欠けていた心を満たしていくのを、感じる。
 私は、うっとりと目を閉じながら、ほう、と溜め息をついた。
「……おめでとう♪」
 ふと、上の方から、声が聞こえた。
 視線を、そちらに向ける。
 ざん、と今まで座っていた桜の大枝を鳴らし、姉さんが、闇の中へと消えていくのが、見えた。
「…………」
 気が付くと、私は、今来た道を引き返し始めていた。
 無性に嬉しくて、なのに寂しくて、ともかく、覚ともう一度会って話がしたかったのである。

あとがき

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