ARAHABAKI



第八章



 姉さんのおかげで落ち着きを取り戻した私は、トランクに寝袋を積み、車を西へと走らせた。
 さすがに姉さんの身長では、長時間の運転はきついし、警察にでも目撃されたらごまかすのが厄介だ。私なら、童顔の女ということで何とか言い抜けできる。偽装免許証も完璧な出来だ。
 もちろん、制服の上には、姉さんが持ってきてくれた上着を着ている。
 現場に全く人が来なかったのは幸いだった。
 道には血痕もほとんど無く、それも全て洗い流した。
 痕跡は皆無。目撃者もいない。
 あとは、トランクの中の寝袋を、決められた山林の中に埋めるだけだ。
 そこは、こういう事態のために、本殿が用意した処分場だった。私達アラハバキを前線に出す見返りに、本殿は、様々な便宜を図ってくれる。
 そう……こういうことは、実のところ、珍しくない。ミズヒルコを斃す過程で、無関係な人間が巻き添えを食うことは、本殿の想定の範囲内なのだ。
 自分がそのような羽目に陥るとは思わなかったが――しかし、遅かれ早かれ、こういうことは起こったのだろう。
 そう、自分を納得させる――いや、思考そのものを停止させる。
 ハンドルを握り、運転に集中しなくてはならない。絶対に安全運転。事故を起こしたらますます処理が難しくなる。
 何も思わず、何も感じず、ただひたすら、自分がしなくてはならないことをする。
 周りを走る車の数が減ってゆき、道が次第に細く、暗くなっていく。
 真夜中を過ぎた頃、ようやく、目的の山の中に入った。
 家の灯りも外灯も無い。ヘッドライトだけが、無表情なアスファルトを闇の中で浮かび上がらせている。
 もう少し先。そこを左に曲がり、けして誰も訪れないような場所へと、ひたすら進む。
 そうやって、運転している間――私は一度も、助手席に座る姉さんの表情を窺うことができなかった。



 ――おなかがすいたなあ。
 まず、ぼんやりと、そう思った。
 本当に、お腹が空いた。
 やっぱり人間、まずは食べる物を食べないと、何も考えられない。
 ああ、それにしても、お腹と背中がくっつきそうだよ。
 そんなふうに思い――なぜか、そのことに安心する。
 お腹が空いてるってことは、つまり、僕の体は――
 と、そんな僕の思索を、目を灼くような眩しさが中断させた。
「っ……!」
 思わず、両目をかばおうと身じろぎする。うう、何か、全身が痛い。
「え……?」
 僕以外の、誰かの声。
「おわあああああああああああああああああああああああああ!」
 そして、すごい悲鳴が辺りに響いた。
「ちょ、ちょ、ちょ、な、なんで、なんで生きて――」
「あ、うう……」
 口の中がねちゃねちゃする。それに、すごく生臭い。
 眩しい光の中、僕は、苦労してどうにか体を起こし、周囲を見回した。
 森の中だった。
 目が慣れたせいか、別に、そんなに明るいわけじゃないことに気付く。いや、どっちかと言うと、うっそうと木が茂ってるせいで、ちょっと薄暗い。
 そして、そんな森の中、僕は、泥に汚れた寝袋に下半身を突っ込んでいるのだった。
 体の右側には掘り返されたばかりの大きな穴があって、左側には――目を丸くした男の人が、へたりこんでいた。
「え、えっと――萌木さん?」
 例の、薄緑の作業服を着ていなかったからぱっとは分からなかったけど、その人は、僕の通う学校の用務員である、萌木さんだった。右手にスコップを持ってるところを見ると、地面の大穴は萌木さんが掘ったものらしい。
 そして、この寝袋が泥だらけであることを総合すると――
「埋められてた、ってこと……?」
 つい、僕は、言葉に出してしまった。
「生きてる……みたいだね」
 萌木さんが、鳶色の目で僕を覗き込みながら、言った。
「こりゃ驚きだわ……何がどうしてこうなったのか、ぜひとも聞かせてほしいとこなんだけど」
「え、えっと、そんなふうに言われても……」
 僕は、そう言って、思わず服の胸元に手を置いてしまう。
「…………」
 服に、穴が空いている。ちょうど心臓の上辺りに。
 そして――いくつもの風景が、脳裏にフラッシュバックした。
 僕は――あの夜――橋のたもとで――塞川さんに――
 ――コ・ロ・サ・レ・タ・?
 いや、でも、だって、僕は生きてる。生きてるからこそ、お腹が――
 ぐぅ、と恥ずかしい音が、響いた。
「お腹減っちゃったんだ?」
「……はい」
「ん、分かった。紅茶とサンドイッチなら、すぐ準備できるよ」
 そう言って、萌木さんは、よっこらしょ、と立ち上がり、そして、僕の手を取って立たせてくれた。



 話は、車の中でした。
 メタリックグリーンのワゴン車。学校でもよく目撃した、萌木さんの自動車だ。
「ちなみに、ここは関東地方の端っこにある山の中。住宅地とも観光地とも離れた場所だよ」
 ワゴンに砂利道を走らせながら、萌木さんが僕に言う。
 さっき、聞かせてほしい、なんて言ったくせに、主に話をしているのは萌木さんの方だった。
 一方、僕は、助手席に座って、ラップにくるまれていたサンドイッチと、魔法瓶の中の紅茶で、お腹を満たしている。
「この道は、どんな地図にも載ってなくてね。まあ、永遠に工事中ってことにされてるわけ。一見どこにも通じてないように見えるけど、実際は、覚ちゃんが埋められてた場所に行くための道なんだよね」
「…………」
「で、覚ちゃんが誰に埋められちゃったのか、そこら辺が問題なわけだけど――」
 ちら、と、茶目っ気のある目で、萌木さんが僕の方を見る。
 話の内容に反して、萌木さんの今までの口調や態度は、何とも軽薄だ。
 けど……僕としては、軽々しくあの夜のことを話すわけにはいかない。
 彼女が――塞川さんが僕にああいうことをしたのには、きっと、僕の知らない事情があるはずだから――
「話、してくれないんだ?」
「すいません」
「ん、まあ、覚ちゃんとしては、そもそも自分がどんなことに巻き込まれたのかさえ、分かってないだろうしねー」
「そう、ですね。それに、どうして萌木さんがあの場所にいたのかも、僕にとっては不思議ですし」
「だろうねー」
 屈託の無い口調で言って、萌木さんが口元を綻ばせる。
「覚ちゃんを助けるため、だったら話は早いかもしれないけど、実際はそうじゃないしねえ」
「そんな感じでしたね」
 僕は、あの時の萌木さんの悲鳴を思いだし、ちょっと笑ってしまった。
「まあ、そもそも普通の人に話して信じてもらえるような内容じゃないんだけど――」
 萌木さんが、ぐねぐねと曲がる道に合わせてハンドルを操りながら、言葉を続ける。
「覚ちゃんは、妖怪っていると思う?」
「妖怪、ですか?」
「うん。妖怪でも、魔物でも、怪物でも、名前はなんでもいいや。要するに、そういうヤツ」
「えっと……」
 萌木さんの言葉に、ちょっと面食らう。あの夜の塞川さんの行動と、その、妖怪ってのが、どうして結び付くんだろう?
 でも――
「あの、僕には分からないんですけど……いるんですか、妖怪って」
「それがねえ、オレにもよく分かんないんだけど、“いる”と“いない”の間だって言う人がいてねえ」
「はい?」
「例えば、オレとか覚ちゃんとかと同じ意味で“いる”ってわけじゃなくて、ある条件が整えば“いる”のと同じように感じられるだけなんだそうでね。どうも、そういう頼りない話みたいなんだにゃー」
「は、はあ……」
「だって、普通に“いる”だけだったら、それって新種の動物ってことになっちゃうしね。ま、ともかく、この場では“いる”ってことにしておいた方が話が早いんで、そうするけど」
「何だか、難しい話ですね」
「ごめんごめん。じゃあ、思いきり簡単に話すけど、世の中にはね、そういう妖怪だの魔物だの怪物だのがいて、この世の中をどうにかしようとしてるわけ。で、昔から、そういう連中を退治しようとする人達もいたんだよね」
「退治、ですか?」
「そう。いるかいないか分からないモノを退治するの。インチキくさいよねー」
「…………」
 塞川さんは、両手にハサミを持って、そして、僕に向かって何て言ったっけ?
 確か、彼女は――
「ともかく、退治する方としては、妖怪を“いる”ことにしないと退治できない。だから、そいつらをあやふやな存在から、きちんと名前と形のあるモノにして、それから退治するわけなんだよね。つまり、妖怪退治をする人たちってのは、妖怪を実体にすることのできる人でもあるわけ」
「それって、えーっと、悪魔祓いとか、そういう人たちのことですか?」
 昔テレビで観た古い恐怖映画のことを思い出しながら、萌木さんに訊く。
「エクソシストってやつだよね? ま、そういうふうに名乗るのもいるね。他にも、拝み屋さんとか退魔師だとか……オカルトっぽいスタイルをとる人が多いんだよね。その方が、妖怪の実体化もコミで、仕事がしやすいかららしいんだけど」
 まるで、普通にある職業について語るみたいに、萌木さんが話をする。
「でね、繰り返しになるけど、妖怪を退治できる人ってのは、妖怪を実体化させることができなくちゃダメなわけだ。つまり、別な言い方をすれば、目に見えない怪物を、きちんと見ることができないと、妖怪って退治できないってことなんだね。分かるかなあ」
 僕は、小さく肯いた。確かに、萌木さんの言うことは、一応、理屈が通ってる。
「例えば、ヨーロッパにジプシーって人たちがいるでしょ? あの人たちの中には伝統的に、吸血鬼退治の専門家がいるんだって。で、その専門家になれる条件ていうのが、姿の見えない吸血鬼を見ることができるかどうかなんだってさ」
「…………」
「もともと、日本の妖怪だって、普通の人には姿の見えないヤツが多いんだよね。鬼だって、あれ、昔はそういう透明人間みたいな妖怪だったんだって」
 それにしても……この萌木さんの話は、どこに向かってるんだろう?
 車の外を流れる景色みたいに、僕にとっては、行き先不明な感じだ。
「そういうわけでね、妖怪を見ることができて、妖怪退治ができる人ってのは、妖怪を実体化できる――つまり、妖怪を呼び出すことが可能な、妖怪に近い存在だってことになっちゃうわけ」
「でも……それじゃあ、そういう人たちがいなければ、その、妖怪も出てこないってことですか?」
「それがねえ、普通の人だって、なんかの拍子に妖怪を見ちゃうことがあるんだよね。見るだけじゃなくて――襲われたり、食べられちゃったりすることもね」
 萌木さんの声は、普段どおりのものなのに――ぞくりと、背中が震えた。
 僕の住む街に、最近起こっている、いろいろな怪事件――それは、まさか――
「だから、やっぱり、現代でも妖怪の退治屋さんにはニーズがあるわけ。で、その一つに、アラハバキっていう人たちがいるんだよね」
「アラハバキ……」
 いったい、どこの言葉だろう。聞いたこともない響きだ。
「アラハバキってのは、神道系の妖怪退治屋さんでね、言っとくけど、れっきとした日本語だよ」
 まるで、僕の思考を読み取ったように、萌木さんが言う。
「そもそも、アラハバキっていうのは、大昔の神様の名前らしいんだ。蛇の神様だとか、台風の神様だとか、火山の神様だとか言われてもいるけど、鍛冶屋さんの神様っていう説が一般的みたいだね。氷川神社っていう神社に、アラハバキ様の摂社――つまり本殿とは別になってるお社があるんだけど、そこには、鋏が奉納されたりするんだって」
「鋏――」
「そう」
 そう言って、萌木さんが、車を止めた。
 そして、僕の方をちらりと見てから、おもむろに車を降りる。
 フロントガラス越しに見ると、萌木さんは、砂利道の真ん中にある“工事中”と書かれた看板を、よいしょ、とどかしていた。
 そして、運転席に戻って少し車を進ませ、もう一度降りて、看板を元に戻す。
 砂利道は、狭くはあるけどきちんと舗装された山道に接続していた。
 萌木さんが、ワゴン車を再び発進させ、その山道を下り始める。
「……それでね」
 しばらくして、萌木さんが口を開いた。
「妖怪退治屋さんであるアラハバキってのは、その神様の名を取ってるみたいなんだよね。で、そのアラハバキを統括するのが、“本殿”って呼ばれる、やっぱ神道系の組織なわけ」
「統括……?」
「実際にやってることは、指令と監視だね。言ったでしょ。妖怪退治をする人は、妖怪と同じように警戒されちゃうわけ。だから、アラハバキが暴走しないよう、いろいろと締め付けてるわけなんだねー」
「…………」
「一方で、本殿は、アラハバキが妖怪退治をしやすいように、いろいろお膳立てを整えるわけ。前もって情報を収集したり、いろいろと必要なものを用意したりね。もちろん、アラハバキの生活や収入もきちんと保証するし、失敗した時のフォローにも気を配るわけだ」
「…………」
「例えば――普通の人を巻き添えにしちゃった時の死体の処分場を用意するとかね」
 その言葉に――たまらず、僕は、萌木さんの方を見た。
 萌木さんの横顔には、いつもの、ひょうひょうとした表情が浮かんでいるだけだ。
 むしろそのことに、ぞくぞくと背筋が寒くなる。
「あの、僕は……」
「殺されたはずなんだよ。あの場所に埋められてたってことはね。あそこは、死体を隠すとこなんだから」
「でも……」
「そう。でも、覚ちゃんは生きてる。その上、ケガらしいケガをしてる様子も無い」
「…………」
「だから、気になるわけ。昨日――おそらく、昨日の夜――覚ちゃんの身に、実際何が起こったのかね」
「ど……どうして、そんなことを訊くんです?」
 僕は、震える声で、反撃を試みた。
「え?」
「その……アラハバキ、ですか? そのことは、分かりました。いや、よく分かんないけど、でも……それはそれとして、萌木さんは何者なんですか? ただの用務員さんじゃないですよね? どうして今回のことに関わってるんですか?」
「んー、そう来たかあ……いやまあ、疑問はもっともなんだけどねえ」
 くすくすと、萌木さんが笑う。
「怪しい者じゃない、って言っても信じてくれないよねえ」
「い、今のところは……失礼な話ですけど……」
「うんうん。そりゃそーだ」
 萌木さんが、ハンドルを握ったまま、繰り返し肯く。
「まず、確認しておくと、オレはアラハバキとか、その上の本殿とか、そういう人たちじゃないんだ。立場的にはフリーってことになるね」
「けど、ただの用務員さんてわけでもないんですね」
「そりゃもちろん。じゃあ、何して食べてるかって言うと、今現在は用務員のお給金が一番おっきかったりすんだけどね」
「…………」
「オレはね、情報屋なんだ」
「じょうほうや……?」
「そう。それも、最近はオカルト方面のね。何やら怪しげな事件のあるところに首を突っ込んで、その現場でしか得られないよーな情報を仕入れちゃ、欲しがる人に売ってるわけ。元手はただなはずなんだけど、必ず儲かるってわけじゃないところがつらくってねー」
「それで……僕に何が起きたか、って情報を、誰かに売るつもりなんですね」
「買い手がいればね。まあ、最初はそんなつもりじゃなくて、目を付けてた美少女姉妹が何かやらかしたんじゃないかと踏んで、仕掛けていた発信機を追いかけただけだったんだけど……」
 萌木さんが、まるで僕に揺さぶりをかけるみたいに、いろいろと思わせ振りなことを言う。
 目を付けてた――つまり、この人は、塞川さんの秘密を暴いて、それでお金儲けをしようとしてるんだ。
 それも……僕が、こうして生きているという、塞川さんにとってはもしかすると“失敗”に当たる情報を――
「え、えっと、僕は……僕は、あなたに協力できないですよ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「その……申し訳ないんですけど、協力したくないんです」
「ありゃりゃ」
 萌木さんが、運転を続けながら、ちらちらとこっちを見る。
「どーしてだろ? まあ、確かにオレって信頼するにはちと頼りないかもしれないけど……」
「そういうことじゃないんですけど……すいません」
「うーん、そう正面切って言われるとまいっちゃうなー」
 萌木さんは、苦笑混じりの溜め息をついた。
「まあ、そもそも、今の状況からして覚ちゃんにとって突然過ぎなんだろうけどさ」
「…………」
「ま、いいや。ともかく、覚ちゃんちまでは送らせてよ。別に、それで恩に着せたりはしないからさ」
「すいません……」
「警戒して、ドアから飛び降りたりしちゃやだよ?」
「――!」
 僕は、自分でもびっくりするような勢いで、隣の萌木さんの方を向いた。
 萌木さんは、正面を見つめたまま、素知らぬ顔で運転を続けている。
 ここで……ここで何か訊いたり話したりしたら、萌木さんの思う壷だ。
 僕は、こっそりと深呼吸してから、フロントガラスの向こうに視線を戻した。



 萌木さんの車が僕の家に着いたころには、すっかり日が傾いていた。
「えーと、今日のところはここでお別れだけど、ちゃんと気を付けてね」
 車から降りようとする僕に、萌木さんが声をかけた。
「正直、現段階で一番のミステリーって、アラハバキとか本殿とかのことじゃなくて、覚ちゃんなんだよ。これは、オレにとってだけじゃなく、ね」
 そんなこと言われても、何をどう注意すればいいのかさっぱりだ。
「えっと、あの、ありがとうございました」
「ほいほい。じゃあ、明日、学校でね」
 そう言う萌木さんにお辞儀をして、助手席のドアを閉める。
 そして、ワゴン車が発進するのを見守ってから、僕は、家に入った。
「ただいま」
 もちろん、返事はない。ここには僕しか住んでないんだから。
 叔父さんや叔母さんには、高校卒業まで一緒に暮らそうって言ってもらったけど……でも、やっぱり僕の家はここだ。
 父さんと母さん、そして、姉さんの思いでの染み込んだ家の中で、僕は、まず、シャワーを浴びた。
「…………」
 温かな湯滴が体を叩く感触にほっとしながら、僕は、萌木さんの言葉を反芻した。
 あの場所は、アラハバキと呼ばれる妖怪退治の専門家が、死体を埋める所――
 つまり、塞川さんはアラハバキで、それで、どういうわけか僕を殺して――殺したものと思い込んで、あそこに埋めた。
 アラハバキに――塞川さんにとっては、僕みたいな一般人を殺してしまったことが世間に知られるのは、かなり大きなペナルティーにつながるのだろう。考えてみれば当然だ。妖怪退治をしてるからって、殺人が許されるわけじゃない。
 だから、その殺人が発覚しないよう、僕を、埋めた……
 ということは、もし、僕がこうやって生きていることを知ったら……?
「……また、殺されちゃうのかな」
 自分で言葉にしても、今一つピンと来ない。
 そもそも、僕が塞川さんに殺されたこと自体、悪い夢の中の出来事のように思える。
 実際、僕の体には、何の傷も残っていないんだから……
 ――いや、この考えは欺瞞だ。僕は、自分自身を騙そうとしている。
 僕の服には、しっかりと穴が空いていた。あの、塞川さんのハサミが突き刺さった場所にである。これは、紛れも無い事実だ。
 いや、でも、僕がこうやって生きていることも事実なわけだし……
「――明日、塞川さんに訊こう」
 そう、決心を口に出す。……やれやれ、我ながら呑気なことだ。
 でも、今まさに日常の中に身を置いている以上、出てくる結論はそういう常識的なものにしかならない。
 この僕を取り巻く非日常――その中では、常識的な判断こそが、非常識な錯誤につながりかねない。
 それでも――僕は、僕の日常と常識を守りたかった。
 だから――
 だから、僕は、いつものように、冷蔵庫の中に入っていた有り合わせのもので、自分の夕飯を作って食べたのだった。



 ――寝坊した。
 うかつにも、目覚ましのセットを忘れてしまったのだ。こういう時、起こしてくれる家族がいないと不便である。
 僕は、大慌てで着替えて、学校への道を駆けていった。
 学校で塞川さんにどう話しかけるかなんて、考える暇さえありゃしない。
 校門をくぐったのは、ちょうど、一時間目が終わる時刻だった。
 息を切らせながら扉を開けて教室に入る僕に、クラスのみんなの視線が集中する。
「はぁ、はぁ……お、おはよ……」
 どうにか呼吸を整えながら、目で、塞川さんの姿を探す。
 塞川さんは、教室のどこにもいなかった。
「あ、あれ……? えっと……」
「ねえ、時任くん」
 須々木さんが、その顔にネコを思わせる笑みを浮かべ、僕に近付いた。
「おととい、桐花ちゃんとどこに消えたのぉ?」
「き、消えたって、えっと……」
 僕の中では、はるか遠くにある遊園地での記憶を、ようやく手繰り寄せる。
「別に、あの時はただはぐれただけで……」
「ふぅ〜ん、まあいっけどぉ〜」
 須々木さんが、意味ありげな顔をする。
「今日も、二人そろって来なかったりするんだもん。みんな色々と想像しちゃってたんだよぉ」
「萌々絵っちの想像ははしたなさすぎるんだ。ブンちゃんなんか真っ赤になってたぞ」
「そう言うユッキもきわどいこと言ってたじゃんか」
「ナナミみたいに子供じゃないからな」
 ――そっか、塞川さん、来てないんだ。
 がっかりした反面、どこかほっとしたような気持ちになってしまう。
「でさ、桐花ちゃんは、あの後どうだった?」
 須々木さんが、僕の顔を覗き込む。
「どう、って……」
 ……彼女は、帰り道に僕を殺して、山の中に埋めたよ――なんてことが言えるわけがない。
「楽しかった、って言ってもらえた?」
「……ううん」
 僕の返事に、クラスの男子たちの七割が、あぁ〜、と声にならない声を上げる。
 そう言えば、僕と塞川さんのデートって、賭けの対象になってたんだっけ。
 何だか、あの大騒ぎが、すごく昔のことのように思える。
「そっかぁ……時任くんだったらやってくれると思ってたんだけどなぁ〜」
 賭けに負けたクラスメイトたちとは違った感じで、須々木さんが、残念そうな顔をする。
「あ、でも、これで諦めちゃったら、それこそ時任くんの負けになっちゃうよ?」
「……そうだね」
 僕は、須々木さんに曖昧に肯いて、そして、自分の席に着いた。
 予鈴が鳴って、他のクラスメイトたちも着席する。
 そして……結局、今日一日、塞川さんは教室に姿を現さなかった。



 放課後、僕は、少し迷ったあげく、用務員室を訪れた。
 呼吸を整え、用務員室の扉をノックする。
 萌木さんに、どんな顔をして会えばいいのか――そもそも、どういった話をするのかさえ、決めていない。ただ、どうしていいか分からなくなって、ここに来ただけだ。
 萌木さんは、たぶん、また僕から塞川さんのことを聞き出そうとするだろう。一方、僕は、塞川さんにとって都合の悪い話はしたくない。だから、できるだけ僕の方からは話をせず、それでいて、これから僕がどうすべきかということについて、何か参考になることを教えてもらえれば――
 自分の考えていることを再確認し、そのあまりの虫のよさに唖然としかけた時、用務員室から、見知らぬ男の人が現れた。
「どうかしたかな?」
 白髪混じりの作業服のおじさんが、不審そうな顔で僕を見る。
「あ、えと、その……萌木さんは、いますか?」
「ん? ああ、先週までこっちに来てたののことかい? いないよ」
「いない……?」
「ああ。何か用かね? どこか壊れたんだったら、先生を通してくれないとな」
「あの……萌木さんは、辞めちゃったんですか?」
「さあね。事務所の人間じゃないと分からないね。こっちは、会社から派遣されて言われるままに来てるだけだから」
 いかにも面倒臭そうな顔で、おじさんが言う。
「そうですか……すいませんでした」
 僕は、頭を下げて、その場を後にした。
 塞川さんも、萌木さんも、今日、学校に来てない――
 ほとんど人通りのない廊下を歩きながら、僕は、まるで心臓にヤスリでもかけられてるような焦りを感じていた。


第九章

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