第七章
塞川さんは、約束の時間より、ちょっと遅れてやってきた。
「桐花ちゃーん、こっちこっち〜!」
遊園地の入場ゲートの前できょろきょろと辺りを見回している塞川さんに、須々木さんが声をかける。
塞川さんは、ばつが悪そうな顔をして、こちらに駆けてきた。
快晴。空は青く明るく、吹く風はやや強いものの温かだ。
いつの間にか、冬は終わっていたらしい。
「すまない、遅刻だな」
駅からここまで走ってきたのか、頬をかすかに赤くしながら、塞川さんが言う。
「しかし、塞川、その格好は――」
須々木さんの隣に立っていた柳くんが、少し驚いたように言う。
「な……何か変か?」
塞川さんが、自分の体を見ながら、訊いてくる。
「え、えっと……」
僕は、しばし口ごもった。
塞川さんは、学校指定のコートを小脇に抱え、そして、濃い青色のブレザーとフレアスカート、そして、リボンタイをあしらったブラウスに身を包んでいた。
これは――僕たちが通う学校の制服だ。
で、塞川さんが、完璧にいつも通りなのかというと、実はそうでもなくて、白い花をかたどった髪飾りをつけている。
その、ワンポイントのおしゃれが、見慣れた制服とミスマッチで――僕には、すごく可愛く見えた。
「ううん、変じゃないよ。桐花ちゃん可愛い♪」
きわどいミニスカートと春めいた色のカーディガンに身を包んだ須々木さんが、にっこりと屈託の無い笑みを浮かべながら言う。ちなみに、柳くんは、上から下まで黒づくめだ。
かく言う僕は――厚手のシャツにジーンズにジャケットという、極めてオーソドックスなスタイルである。
「しかし……」
マルデ、シフクノタチエガジッソウサレテナイミタイダナ、と柳くんが小声でつぶやいたけど、僕には、よく意味が分からない。
「じゃ、さっそく入ろ! 新しくできたジェットコースターとか、お昼過ぎだと一時間待ちらしいよ」
須々木さんが、はしゃいだ声をあげながら、ゲートに向かう。
塞川さんは、顔を赤くしながら、須々木さんに続いた。
僕と柳くんは、何となく顔を見合わせてから、二人と後からゲートをくぐった。
遊園地の中は、大変な人出だった。
カップルや親子連れ、さらには、中学生くらいの子たちのグループなんかが、笑顔を浮かべながら園内を歩き、そして、目当てのアトラクションの前で行列を作っている。
確かに今日は温かで、思わず出掛けたくなるような日ではあるけど、これほど混んでるとは思わなかった。
「さーって、まずは、あれから乗ってみよっ♪」
須々木さんが指し示したのは、まるで前衛芸術のように過激な曲線を空中に描く、大型のジェットコースターだった。
ゴオオオオオ……という威嚇的な音とともにコースターが疾走し、楽しげな悲鳴が空中に尾を引く。
「あれか……」
柳くんは、ちょっと固い声で言った。
「乗るのは構わないが……あれは、終点はどこなんだ?」
塞川さんが、遊園地のマップを睨みながら言う。
「えーと、終点って言うか……乗ったところに帰ってくるんだけど」
そう教えてあげた僕に、塞川さんが、きょとんとした顔を向ける。
「それじゃあ、その……あれだけスピードを出していながら全くの無駄なのか?」
「ん、塞川、いいこと言ったな。確かに、位置エネルギーと運動エネルギーの浪費だ」
なぜか、柳くんがそんなことを言う。
「二人ともやだなぁ〜。遊びって、もともとムダなもんじゃない」
須々木さんが、ニコニコ笑いながら、マイペースな足取りでコースターの列へと向かっている。他の三人は、彼女にリードされるままついてってる状態だ。
見ると、塞川さんは、まだ不審げに口をへの字にしている。
「あの、塞川さん? ああいうの苦手だったら、あんまり怖くないやつを……」
「怖くなんかない」
むすっ、と僕に言ってから、塞川さんは、ぽん、と手を打った。
「そうか。つまりあれは度胸試しということだな!」
「ん、まあ、そういうトコもあると思うけど……」
「それなら納得いく。時任君、そして、他の二人も。私はあんなもので悲鳴を上げたりしないぞ」
不敵な笑みを浮かべながらそう言って、塞川さんは、須々木さんを追い越すような勢いでずんずんと歩きだした。
「…………」
「…………」
僕と柳くんは、またも、顔を見合わせてしまったのだった。
「キャアアアアアアアアァァァァァァ〜♪」
須々木さんが、物凄く楽しそうな悲鳴を上げる。
「ふふふ――」
塞川さんが、にやりと男前に笑いながら、前方を睨んでいる。
「わっ、わっ、わ、わっ……!」
僕が、カーブや急降下などの要所要所で、見事に驚きの声をあげてしまう。
「…………」
柳くんは、サングラスでよく分からなかったけど、多分、目を閉じているようだった。
目の前で激しく動き、すっ飛び、回転する景色。
風圧が頬と髪をなぶり、轟音が耳と骨をふるわせる。
安全装置で固定された全身が、為す術も無く揺すぶられ――腰から背中にかけてきゅーっと何かが這い上った。
そして――最後だけは違和感を覚えるほどに滑らかに、コースターはホームに帰還した。
「っはあああぁ〜♪」
須々木さんが、至福、といった表情で吐息をつく。
「なかなか面白かった……」
塞川さんは、あのカッコイイ笑みを浮かべたままだ。
「うう……僕、こういうのちょっと苦手かも」
危なっかしい足取りでコースターから降りながら、僕は、思わず本音を漏らしてしまう。
「同感だな。どうも、自分で制御できないスリルってのは気に食わない」
柳くんは、いつにも増して仏頂面だ。
そんな男性陣の様子を見て、塞川さんが、ククッ、と喉の奥で笑う。
「だらしないことだな。この程度で音を上げるとは」
「音を上げた訳じゃない。実際、俺は一度も悲鳴を上げなかった」
柳くんが、塞川さんに言う。
「なるほどな……。ならば、次の勝負と行こうか」
うーん、塞川さんは、どうも遊園地を根本的に誤解しているようだ。
とは言え、それが塞川さんなりの楽しみ方なら、付き合ってあげたいような気もする。
「えーっと、勝負するってなると……やっぱあれかなあ」
僕は、ゴーカートの方を指さした。
この遊園地のゴーカートは、けっこう本格的なコースを用意しているみたいだから、みんなでレースすることもできるだろう。
「なるほど。誰が一番早く目的地に着くかという勝負だな」
「あ、いや、あれも出発した場所に戻ってくるんだけどね」
やっぱり勘違いしている塞川さんに、こっそりと言ってあげる。
「そ、そうなのか……まあ、とにかく、その勝負、受けたぞ!」
「うう〜、萌々絵、ああいうの苦手だな〜」
「ならば実践で鍛えるまでだぞ、須々木さん」
とまあ、そんなわけで、第二ラウンドはレース勝負となったのだった――
「クラッチが無い! しかも、このハンドルはパワステじゃないじゃないか!」
塞川さんが、カートの運転席に座ってから、そんなふうに声を上げた。
「そりゃそうだよ」
「うう……ずいぶんと勝手が違うな……」
「……もしかして、塞川さん、ふだん車の運転とかしてるの?」
「え……? そそ、そんなわけないだろう。私は高校生だぞ!」
僕の問いに、塞川さんが、なぜかうろたえる。
……もしかして、親御さんの車をこっそり運転してたりするのかもしれない、なんてことを、考えてしまう。
「よし、ルールは単純。このコースを三周して、一着でゴールした奴の勝ちだ」
柳くんが、ほかの三人に告げる。
「それじゃ、合図は俺がするぞ」
「うん」
「了解だ」
「分かったー」
「それじゃ――スタート!」
その声に、ぼうんっ! という意外なほど大きなエンジン音が重なった。
ババババババババ……! と、何かが連続で破裂するような音ともに、カートが走りだす。
先頭は塞川さん。そのすぐ後を柳くんが追い、もう少し遅れて僕が続く。
「わーん! いやあぁ〜!」
須々木さんは、僕たちの後ろでハンドルを切り損ねて、早くもコースの縁石にぶつかっていた。
大きなカーブをぐるりと巡り、他のお客さんのカートを避けながら、僕らのカートは疾走する。
もちろん、大したスピードじゃないはずだけど、なかなかスリルがある。
コースを一周し、二周目に差しかかった時――柳くんが勝負を仕掛けた。
ぎょわわっ、と音をたてて、柳くんのカートが強引に塞川さんのカートを追い越そうとする。
「うおりゃっ!」
「させるものかっ!」
ぐいん、ぐいん、と二台のカートが蛇行し、互いの進路を邪魔しながら、インコースを奪い合う。
このまま二人の後を走ってると、いつ追突するか分からない。僕は、カーブで大きく膨らみ、アウトコースに位置を付けた。
そのまま、まるで冗談みたいにあっさりと、二人のカートを追い抜く。
「あれ?」
抜いた僕の方が、驚きの声を上げてしまう。けど、これはチャンスには違いない。僕は、そのまま思い切りアクセルを踏んだ。
気後れするほど激しい音ともに、カートがスピードを増す。
「待てぇっ!」
「このおっ!」
塞川さんと柳くんが、普段からは考えられないような声で叫び、僕を追いかけてくる。
僕は、ハンドルにしがみつくようにして、必死にカートを操った。
のんびり運転を楽しんでる他のお客さんのカートの間を縫うようにして、とにかく前に進む。
後ろの方で、ガツガツと何かがぶつかる音が響いた。どうやら、塞川さんと柳くんの二人のカートが、前に出ようとしてぶつかっているらしい。
僕は、ともかく他のカートや縁石にぶつからないように注意しながら、二周目を終えた。
と、後ろから、柳くんとの競り合いに勝利した塞川さんが、カートを強引にインコースにねじ込んでくる。
「うわあっ!」
僕は、その迫力に押されるように、塞川さんのカートを避けた。
「よし! 私の勝ちだ――!」
僕を追い抜きながら、塞川さんが声を上げる。
その時――縁石を乗り越えて、ピンク色のカートがコースに入り込んできた。
「きゃああああ! どいてどいてどいてぇ〜!」
ピンク色のカートに乗っていたのは須々木さんだった。どうやら、今までコース外の芝生を迷走していたらしい。
「ひやああん!」
「うわあああ!」
がっちゃん! と大きな音をたてて、塞川さんのカートが、須々木さんのカートにぶつかった。
二人のカートの衝突事故に巻き込まれないように、大慌てでハンドルを切る。
間一髪、という感じで、僕のカートがそのまま前に出る。
そして、最後の直線を走破すると――そこはもうゴールだった。
「ふうぅ〜」
「時任、一位だな」
大きく溜め息をついてると、二着でゴールした柳くんが、僕に声をかけてきた。
「よくあいつらに追突しなかったもんだ」
「いやあ、まぐれまぐれ。運がよかったんだと思うよ」
「まぐれじゃない!」
そう叫んだのは、ようやくゴールした塞川さんだった。
「今回の勝ちは、時任君のハンドルさばきによるものだ。実力による勝利を卑下するのは、かえって敗者を愚弄することだぞ」
あくまで真剣な表情で、塞川さんがそう続ける。うーん、なんだか本当に悔しそうだ。
「ふえぇ〜、やっぱり萌々絵がビリだぁ〜」
と、そう言いながら、須々木さんが、僕たちのカートの脇を通り過ぎた。
「おい、萌々絵、ゴールはここだぞ」
「まだ一周のこってるも〜ん」
柳くんに振り返ってそう声を上げた須々木さんのカートが、がこ! と音を立てて、またもやコース脇の縁石にぶつかった。
――そんなふうに、僕たちは、遊園地のアトラクションを遊び倒した。
ともかく、あらゆる機会を勝負事に結び付け、競い合う。
お昼ごはんの後には、ソフトクリームの早食い競争までやった。ちなみに、トップは須々木さんである。
とまあ、そんな感じで、次なる勝負のネタを探して敷地の中を歩き回っているうちに――僕と塞川さんは、他の二人とはぐれてしまった。
「……どこに行ってしまったんだ、二人は」
「さあ……この混みようだし、探すのは難しいよね」
そろそろ夕方だというのに、まだまだ周囲でごったがえしている人の波を見ながら、塞川さんに言う。
「冗談じゃない。私は、柳君には負け越しているんだぞ」
塞川さんが、腕を組んでむー、と唸る。
「まあ、いないものは仕方がないよ。勝負のことは忘れて、のんびりしない?」
「のんびり?」
「うん。例えば、あれに乗ってさ」
僕は、遊園地のちょうど中央にあるそれを指差した。
「――観覧車か」
「うん。もし、高いところが苦手じゃなければ――」
「苦手なわけないだろう」
「じゃあ、乗ろうよ」
「……確かに、上から探せばあの二人を見つけることもできるかもしれないな」
塞川さんが、何だかまた勘違いしている。
ともあれ、そういうわけで、僕と塞川さんは一緒に観覧車に乗ることになった。
ちょっと行列をならんでから、ゴンドラに乗って、そして、一息つく。
地面が、ゆっくりと遠ざかっていく……。
「…………」
「…………」
さて、何を話そうか。
せっかく二人きりになったんだし、何か気の利いた話題を振らないと――
なんて思って塞川さんの方を見ると、彼女は、じっと僕のことを見つめていた。
「あ、えっと、僕の顔に何か付いてる?」
「いや」
そう短く返事をしてから、さらに、僕のことを見る。
うう、なんか、その、全身がむずむずする……。
でも、なぜかそれはちょっと心地よくて――
「君に、訊こうと思ってたことがある」
塞川さんが、そう切り出した。
「え?」
「君は――何者なんだ?」
「な、何者って……えっと……」
僕は、思い切り当惑した。
「それ、どういうことかな?」
「つまり……私に、何か君自身のことで隠し事をしてないか、ということだ」
「…………」
ああ、そっか。
もしかしたら、塞川さんは、誰かから僕の事を聞いたのかもしれない。
だったら……好きだと告白した女の子に、僕のことを何も言わないでいるというのは、やっぱり不誠実だ。
「その……別に、隠してるつもりはなかったんだけど……」
「…………」
塞川さんの顔が、かすかに緊張する。
「僕ね……家族が、いないんだ」
「……え?」
きょとん、と塞川さんが目を開く。
「いない……それは……失礼だが、両親や兄弟が……」
「……交通事故でね……えっと……三年前に……」
「…………」
「今は、一応は伯父さん夫婦が保護者なんだけど……僕の家に住んでるのは、僕だけなんだよね」
「そ……そうだったのか……その……すまない、そういうことを聞くつもりじゃ……」
「ううん、いいんだよ。どうせ、いつかは話そうと思ってたことだし」
「……すまない」
ゴンドラの中に、沈黙が戻る。
やっぱり、ここで話すべきじゃなかったのかな?
でも……だとしたら、いつ、どういうタイミングで話すのが適当だったんだろう?
父さんと、母さんと、そして姉さんが死んで――そして、僕だけが生き残ったというのは、まぎれもない事実なんだから。
あの夜――車内から投げ出されて、道路に仰向けになって――そして、月だけが、僕の網膜に映っていた。
あまりの激痛に一時的に感覚を失い、ただ、その白い光だけを知覚して――
その時から、僕は――
「ねえ、塞川さん」
観覧車が、その円周の頂点に差し掛かったとき、僕は、ほとんど無理やりに塞川さんに話しかけることで、自らの思索を断ち切った。
「な、何だ?」
「塞川さんは、遊園地、初めてだったよね?」
「ああ」
「どうかな? その――」
「ここで“楽しかった”と言えば、君の勝ちになるんだったな?」
口元をわずかに緩めつつ、塞川さんが言う。
「あ、えーっと……そういうの、抜きにしてさ……どうなのかな、って思ったんだけど」
「……少し、不思議な気がする」
そう言って、塞川さんは、窓の外に視線を転じた。
「不思議?」
「ああ……どの乗り物も、出発した場所に戻るばかりだからな」
「……そう言えば、色々なとこで、そう言ってたね」
「つまり、ここにある乗り物には、目的地が無いように思える。それが、不思議だ」
「なるほどねえ……」
正直、塞川さんの言葉に感心して、僕はつぶやいた。
「あのやたらと高低差のあるトロッコも、回転木馬も、競争車も……この観覧車もそうだ。どこにも行かない。乗ったところで降りる。それが……何とも、私の感覚とずれているんだな」
「…………」
どうやら、塞川さんは極端な目的主義者みたいだ。
「まあ……平和な日常とは、そういうものかもしれないな。同じことを繰り返し、繰り返し……昨日と同じような今日……去年と同じような今年……ふふ……何だか……」
――羨ましい、と、塞川さんの唇が動いたような気が、した。
まるで――塞川さんが、そういった“日常のサイクル”に身を置いてないような――
「で、でもさ」
窓の外の、だんだんと暮れていく空を見つめている塞川さんに、僕は話しかけた。
「繰り返しに見えても、やっぱり、単純な繰り返しじゃないと思うんだけど」
「……そうかな?」
塞川さんは、まだ、外を見ている。その瞳は、普段の彼女からは考えられないくらいに、気だるげだ。
「だって……その、それでも、時間は過ぎるから」
何だそれ。いったい僕は何が言いたいんだ?
でも、やっぱり、それ以上の言葉は見つからない。
それでも――僕と塞川さんが、まるで別の時間を過ごしているみたいなのが悔しくて、僕は――
「確かに、時間は過ぎるな……もう、夕刻だ」
塞川さんが、そう、小さく言った。
観覧車のゴンドラがぐんぐん下降し、太陽も、次第に地平線へと近付いている。
夕日に照らされた塞川さんの顔が、赤く染まって見える。
「しかし……いささか、疲れたな」
そして、塞川さんは、イスに座り直して、なぜか、にっこりと笑った。
結局――柳くんや須々木さんとは、合流できなかった。
その上、困ったことに、塞川さんが急に体調を崩してしまったのである。
いや、急にじゃないかもしれない。観覧車の中での塞川さんは、何だか具合が悪そうだったし。
僕は、精一杯に塞川さんをかばいながら、電車に乗り、そして、最寄の駅で降りた。
もう、日はとっぷりと暮れている。
外灯の照らす道を、塞川さんを支えるようにして、並んで歩いた。
肩を貸そうかとも思ったけど、さすがに、それは拒否されてしまった。
空には星は無く、ただ昇りかけの歪んだ月だけが、街路樹の合間から時々顔を出す。
駅前から続く大通りから路地に入ると、急に、車の数が少なくなった。
ここらへんは、夜には人通りが絶え、本当に寂しくなる。
でも、家に帰るにはここが近道だし、塞川さんの家の方向も、こっちのはずだ。
道の両脇に、木が茂っている。
公園、というほど整備されてはいないんだけど、江戸時代に引かれた水道に沿って、遊歩道になっているのだ。
道の先に――あの橋がある。
車のほとんど通らない、小さな橋。コンクリート製の欄干は、僕たちの腰の高さくらいしかない。
そこに差しかかった時――塞川さんが、苦しそうに喘いでいることに、ようやく気付いた。
「塞川さん、大丈夫?」
「大丈夫だ……あ、いや、少し危ないか……」
よろりと、塞川さんの足取りが乱れる。
「んっ……ふぅ……」
塞川さんが、橋の欄干に、自らの腰を預けた。
そのまま、制服の胸元をぎゅっと握り、はぁはぁと息をつく。
「え、えっと……タクシー呼ぼうか?」
「そこまでは、必要ない……少し休めば……」
そう言ってうつむく塞川さんの白い肌が、じっとりと汗に濡れている。
「でも……」
「必要ない」
有無を言わせぬ口調で、塞川さんが言う。
けど、今の彼女の様子は、どう見たって普通じゃない。
まるで、何かの発作が出ちゃったみたいな、そんな感じで――
「缶ジュースとか買ってこようか?」
「ん……そ、そうだな……できれば、お茶を……」
「温かいやつでいい?」
「ああ」
言われて、僕は、近くにある自販機に走った。
まだそんなに遅くないのに、不思議なくらい、人にも車にも出会わない。さらさらと水の流れる音だけが、かすかに響いている。
ともかく、僕は、自販機で缶入りのお茶を買って、橋の方へと戻った。
「え……?」
僕は、思わず、立ちすくんだ。
欄干のところに、塞川さんの姿が無かったからだ。
けど、すぐに、塞川さんが橋の中央に立っていることに気付き、ほっとする。
それにしても……いくら狭いからって、塞川さんがいるのは車道の真ん中だ。そんなところに立っていると――
「……お前」
一瞬、僕は、その声が誰に向けられているのか分からなかった。
まるで、橋を塞ぐように、塞川さんが肩の広さに歩幅を広げて立っている。
その両手は――裁縫に使うような大きなハサミを、一本ずつ持っていた。
「お前か……」
塞川さんが、顔を上げる。
その顔に、今まで見たことも無かったような表情が、浮かんでいた。
きれいな曲線を描いていた眉は吊り上がり、大きな瞳には、どこか狂おしいような光が宿っている。
そして、その口は、尖った犬歯を剥き出しにするようにして、三日月型に歪んでいた。
「顕われたな……ミズヒルコめ……」
「さ、塞川さん、何を――」
塞川さんまでの距離は、およそ十歩――それを、九歩に縮めようと、一歩踏み出す。
「しゃっ!」
距離が、一気に縮まった。
塞川さんが、凄まじいスピードで駆け寄り、ハサミを持った右手を横に払う。
「わっ……!」
僕は、反射的に身をよじり、それを避けた。
ぞく――と全身が総毛立つ。
大きくよろけ、前後左右、どこにも足を踏み出せなくなった僕の胸元に、塞川さんの左手のハサミが――
――どん。
最初に感じたのは、衝撃だった。
次に、吐きそうなくらいの異物感。
熱さと冷たさを同時に感じ、苦しさと痛みは、最後にやってきた。
「う、あ……」
声の代わりに、生温かく生臭い何かが、気管を迫り上がり、口から溢れる。
全身を巡る血管の中心を鋭い鉄に刺し貫かれ、体中がパニックになる。
「ぐっ……あ、ああ……あっ……」
スローモーションになった世界の中、ぐるりと景色が回転し――ようやく、僕は路上に倒れた。
それは、あの事故の時と同じ場所だったかもしれない。
天を向いた両目のレンズを、斜めに月光が貫いている。
「か、はっ……あぐ……あああ、あ、あああああ……」
時間の流れはますます遅くなり、苦痛が無慈悲にも引き伸ばされる。
何が起こったのか分からず、それを考えようとする気すら起きず、ただひたすら、無様に苦痛におののき、震える。
寒い。寒い。ここは寒い。耐えられないくらいに、寒い。
景色が灰色になり、ただ、咳き込むたびに僕の口から飛び散る飛沫だけが、赤い。
「かひ……は、はぐ……あ、う、うう、う……うぐ……げぶっ……」
ごぼっ、とびっくりするような音が喉の奥から響き、息ができなくなった。
陸の上で、自分の血に溺れようとしている。
けど、それよりも先に、僕は、引き返しようの無い一線を超えて――
「もしもし……橘果姉さんですか……」
「そうよぉ。デート、どんな感じ? まさか、これからお泊まりなんて言わないわよね?」
「すいません……しくじりました」
「え? き、桐花ちゃん? 泣いてるの?」
「あ、あの……わ……私は……私は……とんでもないことを……」
「桐花ちゃん、ケガとかしてる?」
「ごめんなさい……私……私は……どうして……」
「桐花ちゃん! 答えなさい! あなたは無事なの?」
「は、い……はい……無事、です……私が、ケガなんてするわけ……」
「そこはどこ? とにかく、すぐに車を回すから――じっとしてるのよ。ヘンな考え起こしたら、姉さん怒るからね!」
「私……私、どうして……どうしてこんなこと……どうして……どうして……どうして……こ、こんな……どうして……どうして……どうして……」