ARAHABAKI



第六章



 夢を見る。
 夢であるかどうか分からないほどに鮮明で、夢としか考えられないほどに奇妙な、そんな夢。
 その夢の中で、私は、背後から抱きすくめられていた。
 正座を崩したような姿勢で、その抱擁に身を任せている。
 二つの手が、全裸の私の胸を、やわやわと揉みしだいていた。
 十本の指が、繊細な動きを見せながら、二つの乳房を捏ね回している。
 膨らみの先端で、乳首が、切ないほどに固く尖っていた。
「やめて――」
 言葉だけで、そう抵抗する。
 だが、この愛撫を振りほどくことが、私にはできない。
 その理由は単純――本当は、やめてほしいなどと思ってないからだ。
 胸から湧き起こる快感で、体が芯からとろとろに溶けてしまいそうになっている。
「あ、あく――あん――あふぅん」
 甘えるような声が、唇から漏れる。
 その喘ぎに応えるように、両手は、さらなる快楽を与えてくれた。
「あっ、あううっ、あふ……だめ……だめぇ……っ」
 体が、くねくねと動いてしまう。
 そんな私を、まるで逃すまいとするかのように、指が、乳房に食い込んだ。
「はくうっ……!」
 かすかな痛みと、それを上回る悦楽。
 乳首が、恥ずかしいほどに勃起してしまう。
 その、恥ずかしい突起を、二本の指が、優しく摘まんだ。
「ひ……ン」
 それだけで、胸から全身に、電気が走る。
 指が、乳首を扱いた。
 優しく、優しく――触れるか触れないかという、もどかしいほど繊細なタッチで――
「あ、あぁ……あふ、うっ、んっ……ひやっ……」
 胸を突き出すような姿勢のまま、体をくねらせる。
 鋭く、そして切ない刺激が、チリチリと神経を苛む。
「や、はっ……あう……やめ……んっ、んあっ……くっ……ひいぃ……っ」
 乳首から発生した電気が体中を駆け巡り、そして、股間に溜まっていく。
 それは、痺れというより、熱い疼きとなって、私を悩ませた。
 じん、じん、じん、じん……。
 疼きに合わせて、私のそこから、恥ずかしい液が滲み出ている。
 そんな私を宥めるように――嬲るように――指が乳首を弄くり、手が乳房を捏ね回す。
「ああぁ、あっ、あふ、はひい……お……おぁ……あ……お、お願い……ひいいぃ……ン」
 腰を、もじもじと揺らしながら、私は背後の何モノかに、懇願する。
 この、全身を満たす切ない快楽を、さらに上の段階に押し上げてもらいたくて、情けない声を上げる。
 私をこんな恥ずかしい体にした、モノ――
 たった十本の指の動きによって、私は、ソレにいいように玩ばれているのだ。
「お願い……お願いっ……私、このままだと……あああっ……ね、ねえっ……!」
 欲しい、欲しい、欲しい、欲しい。
 次の刺激が、次の次の愉悦が、次の次の次の快楽が――
 体が――体の奥底が――体の奥底にある子宮が――欲しがっている。
 すでに、私は、毎晩のように開発され、そのように変えられてしまっているのだ――
 だから……だからだからだからだから……!
「あうっ……!」
 いきなり、背中を突き飛ばされた。
 その乱暴さに、私は、さらに股間を濡らしてしまう。
 両手と両膝をついた、屈辱的な姿勢。
 でも、それだけでは不充分。
 私は――私が欲しがっているものを与えてもらうために――ゆっくりと腰を持ち上げた。
「あ……あぁ……あう……うううううっ……」
 自分のしていることに、泣き声に似た喘ぎを漏らしてしまう。
 まさに、犬の姿勢。
 自分自身の、動物のような浅ましさに、全身の産毛が逆立つ。
 そして――すっかり愛液に濡れたそこに、熱く、固いモノが押し当てられた。
「あぁ……っ!」
 不安と、恐怖と――期待で、息が漏れる。
 いよいよ、私は――
「あひいいっ!」
 ずるり、と肉の割れ目を擦られた。
 脈打つ男根の感触を、敏感になった粘膜で感じる。
 背後のそれは、私の腰をしっかりと持ち、ずりずりとペニスを前後に動かした。
「あ、ああっ、あひ、あひい……ひっ、ひいん、ひいぃ……ひあああああ……!」
 待ち兼ねていた刺激が背筋を走り、脳を直撃する。
「いい、いひい、はひ、はひいっ……! うっ、うああっ、あふ……ふあああああっ……!」
 裂け目に食い込み、愛液にまみれながら、逞しい肉棒が暴れている。
 ぶちゅっ、ぶちゅっ、という、卑猥な音。
 ゾクゾクと全身がおののき、視界に火花が散る。
「あああっ、あっ、あっ、あっ、あはああっ……は、はああっ、はく……うああああああン!」
 今にも、そのまま私の中へと侵入してしまいそうな、肉棒の動き。
 そうなったら、私は、何の抵抗もできないまま、ソレを受け入れてしまうのだろう。
 危うい――あまりにも危うい、快楽の遊戯。
 いや、私は、間違いなくその瞬間を求めているのではないか。
 ソレがもたらす快楽を、毎夜のように楽しみ――私は、すでに精神的には純潔を失ってしまっている。
 この、欲張りな粘膜の奥にある些細な膜を破られたからといって、それがどれほどの意味を持つのだろう?
 いや、むしろ、そのことによって、次の段階へと進むことができるのなら――
「あ、あああっ、ねえ……ねえっ……!」
 私は、甘え媚びながら、声を上げた。
「欲しい……欲しいっ……お願いだから……奥まで……!」
 高まる性感。高まる声。
 私は、肩越しに、背後にいるモノに視線を向けた。
 華奢な体。真っ黒な顔。ただ、目だけが、薄青く光っていて――
「私を――犯して――!」
 絶頂が、近い。
 その瞬間に――私は――ソレを、ウケイれたくて――
「あ、ああああああああああああああああっ!」
 亀頭が、秘唇に食い込む。
 体内を押し広げられ、引き裂かれて――
 ソレが、まさに、そこに到達する……!
「きゃあああああああああああああああああああああ!」
 その瞬間、私は、歓喜の悲鳴を上げていた。



「――ああああああああああああああああああああっ!」
 叫びながら、体を起こした。
「あ……あああ……あ……ぁ……」
 汗に濡れた体。湿った寝間着。
 見開いた目は闇しか見えず、耳は、ただ自分の荒い呼吸を数えている。
「あ……わ……私、は……」
「――どうしたの? 桐花ちゃん」
「ひッ……!」
 思いがけない声に、私は、短い悲鳴を上げてしまった。
 障子越しの月光が、白い影を照らしている。
 訓練された私の目が、ようやく、その姿を捉えた。
「き――橘果姉さん――」
「どうしたの? 桐花ちゃん」
 夜具の傍らに立つ姉さんが、そう繰り返す。
 その顔に浮かぶ表情は、まるで、泉の水面のように穏やかで――そして、冷たかった。
「あ、あの……私……その……」
「どうしたの?」
 私は――どうしてたのだろう?
 冷え冷えとした部屋の中、自問する。
 しかし、出てきた答えは、あまりにも空ろで無意味だった。
「す、すいません……その……夢見が悪かったようで……」
 それで、隣の姉さんの部屋にまで届くような声を上げてしまった。
 それだけ……そう、それだけのはず……。
「…………」
 橘果姉さんは、無言だった。
 その大きな黒い瞳が、じっと私を見つめている。
 どうして――どうしてそんな目で、私を――
「な……何でもありません……すいませんでした」
「――別に、謝らなくてもいいのよ」
 静かな声で、橘果姉さんが言う。
 正体不明の疚しさが、私を苛んでいる。
 どうして――どうしてこんな気持ちに――
「だいぶ、うなされてたみたいだったけど……本当に大丈夫なのね?」
「はい……大丈夫、です」
「ならいいわ」
 つい、と橘果姉さんが私から視線を外す。
 私は、こっそりと、安堵の溜め息をついていた。
「それじゃあね、桐花ちゃん」
「……はい」
 私の返事を背中で聞きながら、橘果姉さんが、部屋から出ていく。
 私は、まだ温もりの残る布団の中に、潜り込んだ。
「…………」
 さっき――さっきの姉さんの顔は、いったい――どういう――



 ドウイウ目デ私ヲ見ルンダ、アイツハ――



 ――暗闇の中で、目が眩む。
 天井は既に星の無い夜空のような暗黒。自分が目を開いているのかどうかすら、判然としない。
 闇は外にあるのか、私が闇を作るのか。
 それとも世界には闇しか無いのか。
 闇と闇の狭間に光があるわけはなく、暗黒と暗黒が触れ合えば、刹那に融合してただその版図を広げるのみ。
 そもそも、脳は、光を感じる眼球の裏側――光の届かぬ頭蓋の奥にあり、それゆえに、脳は、闇を宿している。
 だから、だから、こんなにも闇のことばかり思うのだ。
 そんなことを、取りとめもなく考える。
 そして――
 ――そして、私は、再び眠りの闇へと落ちていった。



 その朝、僕は、胸騒ぎに似た何かを感じながら、登校した。
 朝の空気は、しだいに冷たさを緩ませている。春が、そう遠くないのだろう。
 昨日と同じように晴れた空が、昨日とは違って見える。
 もし、塞川さんに会ったら、何てあいさつしようか――そんなことを考えてるうちに、学校に着いてしまった。
 校門をくぐりながら、何とは無しに、校舎の脇にある駐車場に目を移す。
 そこに、見覚えのある緑色のワゴンが、駐車していた。
 あれは――僕の家の前にあった、あのワゴンだ。
 もちろん、同じ車種ってだけで、偶然かもしれないけど――
 ワゴンは、ちょうど今来たばかりらしい。運転席のドアが開き、中から人が降りてくる。
 ワゴンの主は、用務員さんだった。確か、名前は――萌木さん。
「や、おはよー」
 萌木さんが、屈託の無い表情でこっちに歩み寄りながら、軽く手を上げる。
 周りに人はいない。どうやら、僕にあいさつしたらしい。
「あ、えと、おはようございます」
 僕は、なぜかちょっと慌てながら、あいさつを返した。
 萌木さんは、私服だった。作業着姿でないこの人を見るのは初めてだ。普段よりも、さらに若く見える。
「あったかくなってきたねー、覚ちゃん。もう冬も終わりが近いかな」
「そうですね」
 並んで歩きながら、僕は、萌木さんと言葉を交わした。
 別に、これは珍しいことではない。クラスの雑用をついつい引き受けてしまう僕と、用務員の萌木さんとは、すでに顔見知りなのだ。僕だけでなく、何人かの生徒が、この若すぎる用務員さんに“名前プラスちゃん付け”で呼ばれている。
 そう、変わったことは、何も無い。
 なのに――妙な違和感を、僕は感じていた。
 萌木さんは普段どおりのはずなのに、なぜか、普段と違って見える。
 ばさりと前髪が額にかかった顔は、美男子と言ってもいいと思う。その顔にうかぶにこやかな表情に――何かが隠されているような気がする。
 髪の毛と同じ色の、鳶色の瞳――それが、まるで僕のことを探っているような――
 と、いきなり、その口元にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「覚ちゃん、彼女できたんだって?」
「なっ……! だ、誰がそんなことを……?」
「みんな」
 にやにや笑いながら、萌木さんが言う。
「からかわないでください。まだ別にそんなんじゃ……」
「ふーん、まだ、なんだぁ。なるほどねぇ」
 萌木さんは、そう言いながら、ふと、笑いを引っ込めた。
 ただ、それだけで――どきりと、心臓が跳ねる。
 この人……真顔になると、こんなふうなんだ……。
「覚ちゃん、女の子には気を付けなきゃだめだよ」
「き、気を付けるって、何をです?」
「だからさ、女の子は――化けるからね」
「……はあ?」
「あ、いや、男って奴は、どうしたって女の子の正体を掴めやしないってことだよ」
 再び、萌木さんが顔に笑みを浮かべた。
「女の子は男を騙してナンボなの。それを覚悟しといた方がいいよー、っていう、人生の先輩からの助言」
「え、っと……いったい何のことを言ってるんだか、分かんないんですけど?」
「今の段階で分かられちゃうと、こっちの立場が無いにゃー」
 へんてこな口調で言いながら、萌木さんは頭を掻いた。
「ま、いいや。たぶんオレが心配してるようなことは起こらないだろうし……とにかく、うまくやりなよ、覚ちゃん」
「いや、だから、いったいどういう……」
「もし女の子の正体を知っちゃったとしても、知らんぷりでいなさい、ってコト」
 萌木さんは、そんなことを言って、ひらひらと手を振りながら用務員室へ向かった。
 僕は、もう、茫然とするしかない。
 いったい萌木さんは何が言いたかったんだろう――そんなことを思いながら、僕は、校舎に入った。



「ダブルデートしない?」
 昼食の時間、須々木萌々絵が、いきなり私にそう言った。
「だ……だぶる、何だって?」
「だから、ダブルデート。要するに、カップル二組で一緒にデートするの」
「二組っていうのは、その、どういう――」
「もちろん、一組は萌々絵と直太くん。で、もう一組は、桐花ちゃんと時任くんだよー」
 彼女の言葉に、周囲が、ざわ、と声にならない声を上げる。
「その……須々木さんの提案は、私と時任君が、その、カップルであることが前提のようなのだが?」
「もっちろん。違うのー?」
「違う」
 私は、はっきりと断言した。
「あ、あれ? 違うの? てっきりもう付き合ってると思ったのにぃ」
「好意を告げられはしたが、まだ、私は返事をしていない」
 私の言葉に、さらに、周囲のざわつきが激しくなる。
「え、えと、それって、コクられたってことぉ?」
「ナナミ、ご飯粒を飛ばすな。あと、塞川さんは詳しく状況の説明すること」
「あの、あの、如月さん、あんまり立ち入ったことを聞くのは――」
「ブンちゃん、ここまで来て聞かないわけにはいかないでしょー! というわけで、教えろコラー!」
 一緒に昼食を取っていた女子たちが、私に詰め寄る。
「う、あ、何だ? こういうことはあまり人前で言うべきではなかったのか?」
 私は、焦りを覚えながら周囲を見回した。いけない。どうもこの手の話の機微が、私には分からない。
 それに、ここ数日続いている熱っぽさのせいか、私の注意力はかなり散漫になっているのだ。
 見ると――時任覚が、なぜか他の男子たちにばしばしと叩かれていた。
 本気の攻撃ではないものの、私のせいでそういう目にあってるのだけは確かだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。あの、その、この話は聞かなかったことに――」
「む、無理だと思うよー、桐花ちゃん」
 須々木萌々絵が、珍しく困ったような笑みを浮かべている。
 そして、彼女は、しょうがないなあ、と言いながら、椅子から立ち上がった。
「えーっと、男子男子ー! それ以上、時任くんのこといじめないでー!」
 ぱんぱんぱん、と手を叩きながら、須々木萌々絵が声を上げる。
「いじめてないぞー」
「励ましてるだけだー」
「抜け駆けに対する制裁も含んでるけどなー」
「はいはーい、それはいいけど、あんまり騒ぐとまとまる話もまとまんないでしょー」
 須々木萌々絵の態度は、まるで、聞き分けの無い子供たちを相手にする姉か母親のようだ。
「そもそも、みんなは時任くんを応援してるの? それとも応援しないわけ?」
「応援ー!」
「無論、応援してるぞ」
「うまくやれとは思ってる」
「いや、オレはむしろ応援しない」
 男子たちが、口々にやいのやいのと言っている。
「えーっと……直太くん」
「俺はどっちでもないぞ」
「じゃなくて、今のところのオッズはどれくらいかな?」
「オッズって、お前なあ……まあ、応援するが7で応援しないが3ってとこじゃないか」
 何だ何だ? 須々木萌々絵と柳直太の二人は、何を言ってるんだ?
「んー、じゃあ、そんな感じでいい? それとも、まだ乗る人いるー?」
「あー、じゃあ俺は応援〜」
「えーと、応援するに3口」
「時任に恨みは無いけど、純粋にギャンブルとして応援しないに2口かな。ところで、いつもみたいにチップは食券?」
「それでいいんじゃないか? あ、オレは応援」
「ひ、非モテのボクとしては、応援しないに1口でぶー」
「ピザでも食ってろ! あ、オレは応援ね」
 級友たちが何を言っているのかさっぱり分からない。
 だが、ともかく、事態が収束しつつあることだけは確かなようだ。
「はーい、じゃあ、ひとまずこれでしめちゃうね。で、判定ルールはどうしよっか? 直太くん」
「だから俺に振るなって。萌々絵が言い出しっぺだろ」
「うーん、それじゃあ、やっぱダブルデートで決めるしかないね! 時任くんが桐花ちゃんをきちんとエスコートできて、楽しかった、って言わせれば応援側の勝ち、って感じで、どうかな?」
「いいんじゃねえ?」
「それで異議なし」
「っつーか、時任ちゃんが塞川さんをどうエスコートするかに興味湧くよな。というわけで、報告ヨロ」
「まっかしてぇ♪ きちんとレポートしてあげる!」
 どーん、と須々木萌々絵が自らの胸を叩き、一方、柳直太は口をへの字に曲げている。
 時任覚は――困ったような笑みを浮かべて、こっちを見ていた。
 私は、どうしていいか分からず、とりあえずそっぽを向いてしまったのだった……。



「はいコレ。遊園地のチケット」
 放課後、須々木さんが、にこにこしながら、僕に二枚のチケットを差し出した。
 どうしたものかとは思ったけど、これはこれで、須々木さんの好意の現れなのだ。そう考えて、ありがたくもらっておくことにする。
 まあ、みんなの賭けのネタにされちゃった件については複雑な気分だけど、これは、うちのクラスではよくあることだ。実は、担任の烏丸先生を筆頭に、ほとんどの生徒が、いろいろな形でこういったゲームに巻き込まれている。
 塞川さんは、どうもこのノリに付いてこれなかったみたいだけど――知らぬが仏って言葉もあるし、あえて黙ってることにしよう。
「で、なんだ? 私は、時任君に“楽しかった”と言うと負けになるのか?」
 塞川さんが、眉をしかめながら、須々木さんに訊く。うーん、やっぱり、微妙に誤解してるみたいだ。
「桐花ちゃんの負けになるかどうかはともかく、時任くんにとっては勝ちじゃないかなー、と思うよ」
「そうか。ならば、やはり私の負けになるような気がするが……」
「まあ、あんまりそういうことは考えないでいいんじゃないかな」
 僕は、そう言いながら、チケットのうち一枚を塞川さんに渡した。
「油断させようったってそうはいかない」
 塞川さんは、そう言いながら、にやっと笑った。ううう、完全に勝負事になってる。
 ――ま、いいか、それでも。塞川さんとデートできるんだから。
 塞川さんがデートだと思ってないだろうことが難点だけど……。
「…………」
 見ると、塞川さんが、遊園地のチケットを両手に持ち、じーっと見つめている。
「塞川さん、もしかして、遊園地は初めて?」
「ばっ……馬鹿にするな! 遊園地くらい知っている!」
「あ、ご、ごめん」
「ん、まあ……知識だけで、実地で経験したことは無いが……」
 塞川さんが、僕から目を逸らしながら、頬を赤らめる。
 ふだんの塞川さんからは考えられないような表情――それが、いかにも彼女らしくて――
「じゃあ、今度の週末、よろしくね」
 僕は、思わず笑いかけながら、塞川さんに言ったのだった。



 夜――
 私は、問題の遊園地に、一人、来ていた。
 もう、とっくに閉園の時間だ。もちろん、中は無人だろう。
 私は、その遊園地の周囲の柵から、中を窺った。
 柵のすぐ内側に、目隠しのように木立があるため、中の様子は判然としない。ただ、背の高い建造物の黒々とした影が、一部、見て取れるだけだ。
 私の体術を以てすれば侵入はたやすいかもしれないが――それは、今はやめておいた方がいいだろう。
「…………」
 そびえ立つ塔のようなものや、鉄の骨組みに支えられた折れ曲がった軌道――
 ――あれは、どうやって遊ぶものなのだろう?
 ふと、そんなことを思い、私は唇を噛み締めた。
 まさか、私は浮かれているのか……?
 違う。そうじゃない。私は、ただ、この場所に来たときに、不自然な振る舞いをしないようにと、偵察に来ただけのはずだ。
 そう……私は、アラハバキ……本殿の尖兵にして走狗……人の世を乱すミズヒルコに対抗するための使い捨ての駒だ……。



 私が、そう望んダワケデモないノニ――



「ッ……!」
 おぞましい気配を、頭上に感じた。
 地を蹴ってとんぼ返りを打ち、その場から距離を取る。
 どっ――と、音をたてて、さっきまで私がいた場所に、影が下り立った。
 どこから……? すぐ側にあった電柱の上か?
 いや、その起源を探るなど、馬鹿馬鹿しいことだ。
 ミズヒルコは、人の気が淀む所、どこにでも現れる。そして、ここは、常日頃から人が集い、様々な感情を高ぶらせる場所なのだ。
 そして、夜には、その感情の名残だけが堆積し、夜の闇の底に沈む――
 ここには、ミズヒルコが発生する条件がそろってる。やはり、偵察に来て正解だった。
 そんなことを瞬時に考えながら、私は、コートの中に隠していた裁ち鋏を、両手に構えた。
 人のカタチを模した黒い影が、私に飛びかかる。
 私は、その影を誘うように、後ろ向きに跳躍し、道路を横断した。
 歩道に至る前。道路標識を支える鉄の柱が、私の後退を遮る。
 それが、奴の目には、私の失策と映っただろう。
 鋭い爪を備えた右手が、私の顔を目指し、迫る。
 私は、ぐるりと右に回転し、振り返り様に、右手の鋏を一閃させた。
 手応えが――無い。
 ――読まれていた?
 見ると、ミズヒルコは、標識の柱に抱き着くような格好で、そこに立っていた。
 鉄柱が、半ば、その体にめり込んでいる。
 二撃目を、と構えた時、バキン! という耳を聾するような鋭い音が響いていた。
 再び、鋏が空を切る。
 ミズヒルコは、道路標識ごと、その場から消え失せていた。
「くっ……!」
 何もいない前方に飛び、体を捻って、周囲に目をやる。
 思いがけない場所――道路の中央に、ミズヒルコが立っていた。
 その手が、引き千切られた道路標識を抱えている。
「くっついたのか……!」
 このミズヒルコは、多少、知恵のあるタイプのようだ。武器を使うことを知っている。
 私の目の前で、ミズヒルコが、両手に持った道路標識の鉄柱を、その半ばでさらに引き千切る。とんでもない怪力だ。
「――――」
 今や、ミズヒルコの両手には、二つに分断された太い鉄の柱が、握られていた。いや、握るというのは正確ではない。すでにあの鉄柱は、ミズヒルコと融合し、その体の一部となっているのだ。
 あの怪力で振り回されれば、標識は斧となり、斜めに千切られた鉄柱の切断面は槍の穂先となる。
 私は、十歩ほどの距離を保ったまま、大きく深呼吸した。
 手ごわい――このミズヒルコは、厄介な相手だ。
 カタチを真似ているだけでなく、頭の方も、人間並みかもしれない。
 と、私の懸念に同調するかのように、その、黒くのっぺりとした顔面に、すうっと切れ目が走り――それは、歪んだ笑みを浮かべた口の形になって、ぱっくりと開いた。
 体表にも、ざわざわとさざ波が立ち、次第に細部の形を整えていく。
 より精密に人の姿を真似ようとする、ミズヒルコ。
 それは、その内に、より強い歪みと淀みを秘めていることの証明だ。
 私で――勝てるのか?
 戦闘中に抱いてはいけないはずの疑念が、ふと、頭をよぎる。
 と、その瞬間を見切ったかのように、ミズヒルコが、アスファルトを蹴った。
 両手を斧と槍に変えたミズヒルコが、その姿を完成させながら、一直線に私に走り寄る――
「――わああああああああっ!」
 私は、悲鳴を上げ、右手の鋏を投擲していた。
 ずぐっ! と鈍い音をたてて、鋏が、奴の左手とくっついた鉄柱に深々と突き刺さる。
 不覚だった。ほとんど恐怖に駆られて自らの武器を手放すなんて――
 今や、はっきりとその顔に嘲笑を浮かべ、ミズヒルコが右手を繰り出す。
 私は――その顔からむりやりに視線を引きはがし、鉄柱の先端を見つめた。
 いっとき避けたとしても、それは、なおも私を追尾し――この体を貫くだろう。
 だから――懐に入らなくては――
 私は、左手の鋏を宙に放った。
 そして、迫り来る鉄柱の先端に両手をつき、くるり、とその上で前転する。
 私の体重が乗ったことで、鉄柱の槍が、大きく下に軌道をずらした。
 ガッ、と鉄柱が地を穿つ瞬間――その上に片膝立ちとなり、先程投げた鋏を右手で取る。
 ――取った!
 私は、必勝の気合とともに、鋏の刃をミズヒルコの顔に突き立て――
「――――!」
 一瞬、何が起きたか分からなかった。
 がらあん、という音ともに鉄柱が地面に落ち、私は、バランスを崩して地面に転がる。
 受け身を取って体を起こした時、ミズヒルコは、そこにはいなかった。
「な……!」
 ただ、静寂。
「き……消えた……?」
 鋏を握り締めたまま、茫然とつぶやく。
 そんな馬鹿なことがあるわけがない。まだこの鋏を突き刺してもいないのに、寸前でミズヒルコが消滅するなんて。
 私は、狼狽しながら、周囲を探った。
 無い。何の気配も存在しない。気の淀みの名残ですら。
 遊園地に隣接した暗い道路の上で――私は、たった一人だった。
「まさ、か……」
 幻覚か、とも思ったが、路上に転がる中央でねじ切られた道路標識が、そうでないことを証明している。
「じゃあ……あいつは、どこに……!?」
 私は、空いた左手で、自らの襟元をぎゅっと握っていた。
 冷たい汗が、じっとりと私の肌を濡らしている。
 そう、それに――あいつ――あのミズヒルコの顔は――
「どうして……」
 信じられないほどの悪意と嘲弄に歪んだ――少女を思わせる端正な顔。
「時任……覚……?」
 どうして……どうして……どうして……どうして……?
 答えの得られぬ問いを、心の中で繰り返す。
 そして、私は、自分の体が、恐怖で小刻みに震えていることに、気が付いた。


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