第五章
「んだよ時任。んなとこにいんじゃねえよ!」
私の襟首を掴んだ男子が、唾を飛ばすようにして声を上げる。
だが、時任覚は、そこに立ち続けていた。
誰よりも荒事の似合わない彼の顔に、毅然とした表情が浮かんでいる。
その目は、どきりとするほど真っすぐに、私の周囲にいる男子たちを見つめていた。
「何勘違いしてイキがってんだよ、おい!」
「聞こえねえのかよ。どっか行けって言ってんだぜ!」
かすかな苛つき表情に滲ませながら、連中が喚く。
しかし、時任覚は、こちらに向けて、さらに一歩踏み出した。
「塞川さんから、手を放して」
視線を逸らす事なく、時任覚が言う。
この目――この視線は、まさか――
いや、間違いようがない。
しかし、これは余りにも予想外だ。よりによって時任覚がこんな――
「テメエの知ったことかよ、コラ」
「勝負する度胸も無えくせにナマ言ってんじゃねえよ!」
「ヘタレはいつもみたいに柳の影に隠れてコソコソやってりゃいいんだよ!」
連中が、時任覚の視線の意味にすら気付かず、見当外れなことを言う。
こいつら――時任覚が、すでに臨戦態勢に入ってることが分からないのか?
普段の彼からは想像も付かないような、鋭い目付き――これは、相手がどう動いても即座に対応できるよう、覚悟を決めた目だ。
「僕のことなんてどうだっていいでしょ。それより、女の子に乱暴しちゃいけないよ」
まるで、年下の人間を諭すような、時任覚の口調。
この連中を挑発しているのか、それとも、芝居など全く入って無いのか――彼の目を見る限りでは、判断がつかない。
「じゃあ、テメエが代わりに殴られるか?」
「いいよ」
あっさりと、時任覚が答えた。
「何ぃ?」
「僕を代わりに殴ればいいよ。でも、塞川さんは放してよね」
「クソ――さっきからカッコつけてんじゃねえよ! オラっ!」
男子の一人が、時任覚に殴りかかる。
構えも動きもまるでなってない。ただの感情任せの一撃だ。拳の軌道が、ありありと見える。
そして、時任覚も、その拳を、終始、視界にとらえていた。
見ている――見切っている。
だが、時任覚は、避けることなく、その拳が頬に当たるのに任せた。
「んっ……!」
痛みに顔をしかめ、かすかによろめく。
だが、時任覚は、すぐに姿勢を直した。
「へへ、思い知ったか、おい!」
「……もういい?」
穏やかな口調のまま、時任覚が尋ねる。
「な――なめんなっ!」
男子は、再び、時任覚の顔を殴りつけた。
右の拳で再び頬を殴り、左拳で胸元を殴る。さらに殴る。殴る。
次々と繰り出される一撃を、目をつむることなくじっと見ながら、時任覚は、その全てを受け止めていた。
なぜ……? 避けようと思えば、いくらでもそうできるはずなのに……。
「や、やめろっ!」
時任覚の異常さに我を忘れ、叫ぶのが遅れた。
「時任君を殴るのはよせ!」
私の言葉が耳に入っているのかどうか、男子は、時任覚の胴を集中して殴っていた。
他の連中は、顔に薄笑いをへばり付かせながら、その様子を見ている。
しかし、なぜ、そこまで無抵抗なんだ、時任覚はっ!
いや、彼がどんなつもりだろうと、このまま殴られ続けるなんて間違ってる!
私は、私の襟首を掴んでいる男子の足を、思いきり踏み砕いた。
「ぎゃっ!」
悲鳴を上げ、そいつが私を解放する。
その時、時任覚は、腹に重い一撃を受け、その場にうずくまっていた。
暴力に酔った男子が――彼の頭を蹴り飛ばそうとしている。
いけない。あんな態勢で、見えない位置から蹴りを食らったら、命に関わる。
「時任君っ!」
私が叫んだ時には――時任覚は、見えないはずの蹴りを、大きく飛びのいてかわしていた。
あの、雪玉の投げ合いの時と同じだ。
彼は――信じられないことだが――見えない位置の攻撃までが、見えている――!
「このアマっ!」
不意に、背後からの衝撃を感じた。
驚愕に一瞬我を忘れた私の足を、連中のうちの一人が、後ろから蹴ったのだ。
「うっ……!」
私は、不覚にも、そんな素人の蹴りで転倒してしまう。
まったく情けない……。いくら時任覚に気を取られてたからって……。
「塞川さんっ!」
いつの間にか立ち上がっていた時任覚が、大袈裟な叫び声を上げる。
そんな彼を、例の男子が、横から殴りつけた。
かすかな打撃音。
完璧とも言える拳の一撃を顎に受け、無様に崩れ落ちたのは――例の男子の方だった。
針の穴を通すような正確さで繰り出されたカウンター。それを、時任覚は、私の方によそ見をしながら放ったのだ。
「な――何すんだコラぁ!」
時任覚の反撃に逆上した連中が、不格好な動きで彼に襲いかかる。
そいつらの攻撃を――時任覚は、ことごとくかわしていた。
しかも、かわしながら、そのたびにカウンターの拳を繰り出す。
さして重くないその一撃で、男子たちは、次々と昏倒していった。
顎の先端。鼻と唇の間。そして、こめかみ。――全て、急所狙い。
私ですら舌を巻くほどの鮮やかな手並みだ。
そして……最後の一人が、事態をきちんと把握することなく、前のめりに倒れた。
まだ意識のある男子が、どうにか立ち上がろうともがいている。だが、ただ立ち上がることすら、果たせない。
どうやら、手足が全く言うことをきかない状態のようだ。
「塞川さん、ケガは……」
「大したことない」
私は、立ち上がり、そう言った。
「じゃ、逃げよう」
「え?」
ぎゅ、と私の手を握り、時任覚が走りだした。
逃げる? なぜだ? 時任覚は、こいつら全員より強いのに……。
だが、驚きの連続で呆気に取られている私は、彼に引っ張られるまま、ともに校舎に戻り、階段を駆け降りたのだった。
「…………」
「…………」
僕の隣を、塞川さんが歩いている。
場所は、帰り道の途中にある公園の中だ。ここの遊歩道を使うと近道なのである。
とは言え、この公園が近道になるのは、僕だけのはずだ。
塞川さんの家がいったいどこなのかは分かってないんだけど、少なくともこっちの方向じゃなかったはずである。
なのに、塞川さんが横にいる。正確には、僕より一歩ほど斜め後ろに。
彼女は、まるで僕を責めてるみたいに無言だった。
何とも言えない居心地の悪さを感じる。
確かに、あんな乱暴なところを見せられたんだから、塞川さんが僕を非難するのも無理はないかもしれない。
僕がもっとうまくやってれば、あの場は丸く収まったのかもしれないのだ。
まあ、具体的にどうすればいいのかは、冷静になった今でも分からないけど。
でも、いくら塞川さんがあんなふうに乱暴されたからって、ケンカで物事を解決するなんてのは、やっぱり間違ってる。
僕は、どうすればよかったんだろう――
「時任君、ちょっと待ってくれないか」
「え?」
振り返ると、塞川さんは、水飲みの水道で自分のハンカチを濡らしていた。
そして、手近にあるベンチに座り――いきなり右足の膝を立てた。
「あ……」
すりむいたのか、赤くなってる右膝を、濡らしたハンカチで拭う。
それはいいんだけど……その姿勢だと、スカートの奥が……。
目を逸らすべきなんだろうけど、視線が、吸い寄せられてしまっている。
と、塞川さんは、自らの擦り傷を、ぺろりと舌で舐めた。
その仕草に、なぜか、かーっと頭が熱くなる。
「時任君」
「ひゃい?」
思わず、すごく変な声で答えてしまった。
塞川さんが、不審そうに眉を寄せながら、普通に膝をそろえて座り直す。
僕は、ほっとして小さくため息をついた。
「君は、どうしてあんなことをしたんだ?」
塞川さんが、本当に不思議そうな顔で、尋ねた。
「ご、ごめん」
「どうして謝る?」
「どうしてって言われても――」
「私は詰問しているんじゃない。単に質問しているだけだ。どうして、あいつらにおとなしく殴られた?」
「それは――」
どうしてか。
もちろん、なぜかは自分でも分かってる。あまりにも明白だ。
けど、それを言葉にするのは、なぜだがすごく大変なように思えて――
「君は、あの連中をあっと言う間に倒してのけた。つまり、最初からそうしてもよかったはずだ」
「え、えっと……」
「なのに、わざわざ殴られた。あんな手打ちの拳でも、それなりに効いたはずだぞ」
「いや、大したことなかったよ」
実際、僕が彼らにしでかしてしまったことの方が、ずっとひどいわけだし。
「嘘だな」
塞川さんが、断定的に言う。
「君は、かなり苦痛を覚えてたはずだ。なのに、ずっと殴られ続けていた。どうして?」
「そりゃまあ……やっぱり、こっちからケンカをしかけるのはよくないでしょ。……ん、まあ、結果としては、暴力に訴えちゃったけどさ」
「つまり、暴力を振るうよりは、殴られてる方がよかったと」
「うん」
一応、肯く。
結局、僕の行動は首尾一貫しなかったわけだけど、そういう気持ちは間違いなくあったからだ。
「そんなに暴力が嫌いだったら――どうして私を助けた?」
「それは――」
「ああいう場を、暴力を使わずに収めることはまず不可能だ。実際、君は心ならずも暴力を振るってしまったわけだし――そもそも、君はどうして私をつけてきたんだ?」
「え、えっと――」
僕は、どう言えばいいのかを、必死で考えた。
答えられないわけじゃない。理由はいたってシンプルだ。
シンプルだから、言葉にするのも簡単なはず。
なのに、それはなかなか言葉にならなかった。
塞川さんが転校してきてから今まで、そんなに長い期間じゃないけど、その間、ずっと抱いていた気持ち。
凛とした顔。颯爽とした立ち振る舞い。なのに、なぜかどこか危なっかしくて――
大きな瞳には不思議な光が宿っていて、実は意外と表情が豊かで、ちょっとしたことで顔が赤くなって――そんなところが、すごく、可愛いと思った。
ずっと意識してた。気になってた。惹かれて、いた。
ああ、何だ。つまり僕は――
「君が、好きだから」
「――何だって?」
塞川さんが、大きな目を見開く。
僕は、構わず、続けた。
「塞川さんのことが好きだから……ずっと特別に思ってたから……」
「いや、それは」
「今日もさ、たまたま廊下で見かけて、声をかけようとしたんだ。だけど……何だか、学校の中で迷子になってるみたいにも見えて、それで……」
「失礼な。私は迷子になんかならないぞ」
塞川さんが、むっとしたような顔になる。
「う、うん。そうだろうな、とも思ったよ。でも、本当に迷子になってるんだったら、声をかけたら恥をかかせることになるかな、とか、いろいろ考えちゃって……そしたら、その後、屋上でああいうことになって……えっと、それで、僕は……だから……」
ああ、もう、しどろもどろだ。こんなに簡単なことのはずなのに、どうしてきちんと伝わらないんだろう。
でも、今を逃したら、もう伝えるチャンスなんて無くなっちゃうんじゃないかって――そんな、根拠の無い焦燥感が、胸を焼いている。
「だから――塞川さんのことが好きだから――塞川さんを助けたくて、ああいうことになったんだよ!」
いつの間にかすごく声が大きくなってて、そのことに自分でびっくりしてしまう。
僕は、口をつぐんで、塞川さんの反応を待った。
塞川さんは――きょとん、とした顔をしていた。
「その、君が何を言いたいのか、よく分からない……いや、分かる気もするんだが、正しく理解できてるかが、分からないんだが」
言いながら、塞川さんは、ベンチから立ち上がった。
「君は……その……私のことが……えっと……」
顔を赤くしながら、ごにょごにょごにょ、と塞川さんが口ごもる。
「好きなんだよ」
僕は、はっきりと言った。
もう迷わない。この言葉でいいんだ。これで、きちんと伝わるはず。
塞川さんの質問に対する正確な答えになってるかどうかは分からないけど、でも、そんなことは些細なことだ。
僕の気持ち――僕が塞川さんのことをどう思ってるのか――言葉にしてようやく自信が持てるようになったこの想いを、とにかく伝えなくちゃいけないんだ。
「あー、えっと……時任君」
「何?」
「私は――私は、その、困ってる。えっと、どういうことを、君に言えばいいのか」
塞川さんのきりっとした眉が、今は、八の字になっている。本当に困ってる時の顔だ。
「今、無理に何か言ってほしいとは思ってないよ。ただ、僕の気持ちさえ、分かってくれれば」
「それは……まあ、分かった。分かったと思う。たぶん」
「よかった」
僕は、ほっとして、思わず口元を綻ばせた。
もちろん、人の気持ちが百パーセント伝わるわけがない。でも、それでも、ほんの少しだって塞川さんに分かってもらえたんだったら、それでいい。
「もう――私は帰るぞ」
「うん。気を付けてね」
塞川さんは、返事もせずに、自分の家の方向へと歩き出そうとした。
そして、ふと、足を止め、周囲を見回す。
「…………」
「塞川さん。公園の出口だったら、あっち」
「わ……分かってる!」
塞川さんは、そう言って大股で歩き出した。
「――また明日、学校でね」
そう、塞川さんの背中に言うと、彼女は、ああ、と小さな声で返事をした。
公園から家までの短い距離を、僕は、奇妙な気持ちで歩いた。
ついさっき、塞川さんに自分の気持ちを告白したのが、なんだか夢のように思える。
首から上がふわふわと頼りなく、それでいて、体に温かな何かが満ち満ちているような感じ。
明日、学校で塞川さんに会うことを考えると、それだけで胸がわくわくして――その一方で、たった今、一人でいることが、奇妙なくらい寂しい。
一人には慣れてるはずなんだけど……。
「あれ?」
家の前に、車が止まっていた。
メタリックグリーンのワゴン車だ。オフロード仕様で、銀色のごついバンパーが特徴的である。たぶん、4WDだろう。ただ、自動車には詳しくないんで、車種の名前とかは分からない。
なぜ、そんな車が僕の家の前に……?
と思った時には、そのワゴンは、家の前から発進していた。
エンジン音とともに、ワゴン車が僕とすれ違う。
あの車、どこかで見覚えがある――
別に珍しいタイプの車じゃないと思うけど、ちょっと引っ掛かる。
「……ま、いっか」
僕は、口に出してそう言ってから、玄関のカギを開けて家に入った。
「…………」
境内の手前で、私は、思わず立ち止まった。
顔が、熱い。
もしかして、自分は今、かなり赤面しているのではないだろうか。
「まったく……」
私と同じ年頃の男女というものが、一般的に色恋に強い興味を抱いているということは、知識では知っていたが――まさか、自分がその対象になるとは思わなかった。
そんなこと、私には丸っきり無縁だと思っていたのに……。
一つ溜め息をついて、鳥居をくぐる。
どうも、調子が狂ってる。
家に上がる前に顔でも洗おうと、私は、水盤に近付いた。
かすかに揺れる冷たい水面に、私の顔が写る。
と言っても、今はもはや日暮れ時。光線の加減で、表情までは分からない。ただ、黒いのっぺらぼうがあるだけだ。
いったい、私は、どんな顔をしているのやら。
それは、つまり、私が、あの時任覚のことをどう思っているかという――
「っ!」
ぴしゃっ!
鋭い音が弾け、水しぶきが飛ぶ。
水面で、何かが跳ねたのだ。
「しゃっ――!」
左袖に隠した細身の鋏を、右手で投げる。
自分の反応が、自分が想定していたより、一瞬遅い。
鋏は、石の水盤に当たり、キン、と音をたてた。
一方、水盤から現れたソレは、一直線に私の顔を目がけて跳んでいる。
「くうっ!」
私は、右の袖を振り、中に仕込んでいた鋏を右手の中に収めた。
そして、大きくのけ反りながら、鋏の刃を開き、ソレの胴を挟む。
キイイイイイイイ!
ぢょきん、とソレの胴を切断した時、細い悲鳴が響いた。
ソレが、小さな二つの黒いカタマリとなって、べしゃっ、と玉砂利の上に落ちる。
まるで、黒く、目の無いイモリのような、その姿。
キイ、キイ、キイ、と鳴きながら、ソレは、黒い煙を上げながら、次第に溶けていった。
「そんな……まさか、結界の中に……」
思わず、口に出してそう言ってしまう。
いやしくもここは神域だ。だというのに、そこに――ミズヒルコが出るなんて。
それは、ほっておけばいずれは消えて無くなってしまいそうなほど弱いモノだったが、それでも、凝り固まった穢れその物だった。
確かに、最近、この管区でのミズヒルコの発生率は上がっていた。だからこそ、私は、本殿に発覚した時の危険性を承知で、アラハバキ――ミズヒルコを狩るものとして、動いていたのだ。
しかし、そのアラハバキの本拠とも言えるこの境内で――しかも穢れを清めるべき水盤の中に、ミズヒルコを見ることになるなんて。
私は、深呼吸して、辺りの気配を探った。
空気は、そのまま凍りついてしまいそうなほど冷たく、静かだ。
――おかしい。
いや、おかしくはない。境内の空気は、このように清澄であるべきだ。
しかし……ついさっきミズヒルコが顕れたにしては、気に淀みが無さ過ぎる。
私は、二つに分かれたミズヒルコが落ちた場所に、目を向けた。
目とともに、心を凝らす。
だが――そこには、穢れの痕跡など、一片も残っていなかった。
「――おかしい」
口に出して、つぶやく。こんなことはありえない。
だが、どれほど感覚を研ぎ澄ましても、ソレが――ミズヒルコがいたことを示す印を見つけることはできなかった。
ミズヒルコを切断した鋏ですら、そうだ。
人を切れば、その刃は血に濡れる。それと同じように、ミズヒルコを斃した武器には、その跡が残っていなくてはならない。
なのに、それが無い。
「まさか、幻覚……?」
幻覚。幻視。まぼろし――存在しないものを視てしまうこと。
そうとしか、考えられない。
気の淀みが幻を作ることはあるが、その気配すら無いとなると――原因は、私の方にあるということだ。
実は、幻覚を見るのは初めてではない。
まだ子供のころの話だが、私の目や耳は、たまにありえない光や音を感知してしまった。
原因は、おそらく、将来のアラハバキとして、薬や鍼などで無理に知覚を鋭くしたせいだろう、ということだった。
十歳を超えるころには、ほとんどそんなことは無くなっていたのだが、しかし――
おかしいのは、世界か、自分か。
いや、考えるまでもない。今日の私はおかしいのだ。その証拠に、今も、何だか顔が熱い。
彼――時任覚の、せいで。
だから……おそらく、手水鉢の中にいた本物のイモリか何かを、ミズヒルコだと勘違いしてしまったのだ。
きっと――きっとそうだ。
「まったくっ……!」
私は、足元の石ころを蹴り飛ばしてから、境内を横切り、玄関の扉を開けた。
「――ただいま帰りました」
「おかえり、桐花ちゃん」
にこやかな顔の橘果姉さんが、私を出迎えてくれる。
「あれ? 桐花ちゃん、顔が赤いよ。風邪かなぁ?」
「え、えっと――そういうわけではないと思うのですが」
「じゃあ、何があったの?」
「…………」
姉さんには、隠し事はできない。
私は、場所を茶の間に移してから、時任覚に告白されたことを話した。
「きゃー♪ 桐花ちゃん、もてもてー♪」
橘果姉さんが、両手で頬を押さえながら、はしゃいだ声を上げる。
「か、からかわないでください」
「なんでー? こういう時、お姉さんは妹をからかうものよぉ?」
そんな話、聞いたこともない。
私は、出来得る限りの仏頂面を作って、姉さんがいれてくれたお茶を飲んだ。
「で、返事はしたの?」
「いえ。その、突然だったもので」
「そっかー」
橘果姉さんが、斜め上を見ながら考え込む。
「でも、ちょうどいいかもしれないね」
「何が、ですか?」
「その子を隠れ蓑にすれば、本殿の人たちをごまかすのに使えるんじゃない?」
「あ――」
思わず、間の抜けた声を上げてしまう。
そんなこと、考えもしなかった。
「人の集まる場所とか、夜中とか、桐花ちゃんみたいな女の子が一人で歩いてたらヘンでしょ? でも、彼氏と一緒なら、ある程度は怪しまれないんじゃないかな」
「それは、確かに――」
そう、橘果姉さんの言うとおりだ。
そもそも、私自身が、そう考えなければいけない。
なのに、私ときたら――
「もちろん、彼氏にバレないようにしないといけないけど……でも、そこらへんは、桐花ちゃんならだいじょうぶだよねぇ」
「え――ええ」
もちろんだ。本殿の連中にすら隠さなければならないことを、普通の高校生男子に気取られてどうするのか。
しかし――私の胸には、灰色の雲のような不安が湧き起こっていた。
まったく、時任覚ひとり騙し通せないでどうする……!
それに、もし、アラハバキとしての自分を知られてしまったら、私は、彼を――
「……桐花ちゃん、どうする?」
「はい――。彼を、利用します」
「うふふ、桐花ちゃんてば、悪女だね〜」
橘果姉さんの無邪気を装った声。
それが――
――ソレが、どういうワケか、ひどくカンにサワッタ。