ARAHABAKI



第三章



 未明から降り出した雪は、僕が登校するころには、すっかり街を白く覆っていた。
 この季節にこんなに雪が降るなんて、珍しい。
 僕は、足を滑らせないように注意しながら、道を歩いた。
「ん?」
 前方に、見覚えのある後姿。
「おはよう」
「ああ、時任君か。おはよう」
 こっちを向き、挨拶を返してくれたのは、やっぱり塞川さんだった。
「寒いね」
「まあ、冬はこんなもんだろう」
 塞川さんのちょっとヘンな受け答えに、僕は思わず口元を綻ばせてしまった。
「む、何か可笑しかったか?」
「いや、その、別にそんなことは」
「だって、今、君は笑っただろ」
 別に怒ってるふうでもなく、それでも真剣な口調で、塞川さんが詰め寄る。
 間近に迫る、大きな瞳――まるで、吸い込まれそうな気さえする。
「何か可笑しいんだったら、指摘してくれないと、その、困る」
「ううん、別におかしくなんかなかったってば」
 塞川さんの言葉遣いなんかが人よりちょっと違うのは本当だが、けど、それを直してほしいなんてちっとも思わない。
 だから、僕はそう言った。
「ならいいんだが……」
 そう言いながらも、どこか釈然としない様子で、塞川さんが校門へと歩き出す。
 塞川さんは、どうも、自分が普通の子と違うんじゃないかと考えすぎる傾向があるみたいだ。
 それはそうかもしれないけど、でも、実際は“普通の子”なんて、少なくとも僕の周囲にはいやしない。
 柳くんも、須々木さんも、他のクラスメイトたちも、良くも悪くも、みんな違ってる。
 もともと違う人間なんだから、無理して人と同じになろうとしてもしょうがない。
「塞川さんは、塞川さんのままでいいと思うよ」
 だから、僕は、思わずそんなふうに言ってしまった。
「…………」
 塞川さんは、校門をくぐりながら、なぜか、僕のことをじっと見つめた。




 その時――視線を感じた。
 時任覚から視線を外し、周囲を窺う。
 建物の陰に……薄緑色の、作業服。
 またか……。
 私は、努めて表情を変えまいとしながら、時任覚と並んで、昇降口へと向かった。




 どういう経緯でそうなったのかは分からない。
 あえて言うなら、あまりに見事に校庭が雪に覆われてしまったせいだろう。
 放課後、なぜか、僕のクラスと隣のクラスで、雪合戦が始まっていた。
 クラスのみんなのうち、半分くらいが、参加してる。これは、隣のクラスの人たちも同じようだ。
 すでに雪はやみ、青い空の下、雪玉と歓声が飛びかっている。
「きゃー! きゃー! きゃー! きゃー!」
 派手な悲鳴をあげながら、雪まみれになった須々木さんが、僕たちのクラスの本陣である文学碑の陰に避難してきた。この場所は、一見守りが堅そうに見えるけど、十人以上が立て篭もるにはちょっと手狭である。
「うおー!」
「このこのこのこの!」
「おらおらおらー! 萌々絵っちばっか狙うなー!」
 須々木さんを追ってきた隣のクラスの子を、友軍が必死になって迎撃する。
 敵の突撃隊は去り、遠距離戦になった。
「ふええぇ〜、背中に入った〜」
 須々木さんが、笑い泣きのような表情でくねくねと体を動かしている。
「むこうはけっこうやるな……」
「運動得意なヤツ多いもんな。あっちは」
「地の利もあるだろ。連中、植え込みの中に潜んでるんだぜ」
 せっせと雪玉を投げ続けながら、相手の状況を分析する。
 確かに、相手クラスの本拠地は堅牢だ。たくさんの植え込みや大きな木が、天然の要塞になっている。
「くそう……こうなったら石でも中に入れるか……」
「おいおい、そりゃ南極条約違反だろ」
「どっちかってーとジュネーブじゃねーの?」
「何にせよ、もっと兵隊が欲しいよなあ」
 そんなことを言ってる男子たちが、ふと、昇降口に目をやる。
 つられて視線を移すと、ちょうど柳くんが出てくるところだった。
「柳か……」
「あいつに声かけんの? やばくね?」
「いや、案外と好きかもよ。こーいうの」
「じゃあ、誰が誘うんだよ?」
 と、みんなの視線が僕に集中した。
「時任……行ってくれるよな?」
 ぽん、と男子の一人が、僕の肩に手を置く。
「べ、別にいいけど……柳くん、そんな怖い人じゃないよ」
「そういうことが言えるのは天然和み系のお前だけだ」
「なんかそれ、ジュースかお茶のキャッチコピーみたいだなあ」
 ともあれ、柳くんを引き込むことに異論はない。
 そういうわけで、僕は、一時戦線を離脱して昇降口へと向かった。
「柳くーん」
「……何の騒ぎだ、あれ」
 声をかけると、相変わらずの仏頂面で、柳くんが訊いてきた。
「雪合戦、だけど。クラス対抗の」
「高校生にもなって……って、人のことは言えないか」
 なぜか、苦笑いする柳くん。
「で、俺にも参加要請が来てるってわけか?」
「うん」
「――面白いな」
 にや、と柳くんが凄みのある顔で笑う。前言撤回。怖い、怖いよー。
「分かった。そうだな……陣地を作るのにスコップが要るな」
「え? そんな本格的に?」
「勝つための努力を惜しむもんじゃない。それに、工兵を軽視する軍隊は自滅するぞ」
 言って、柳くんは足早に校舎の端へと向かった。行きがかり上、僕も付いていく。
 確かに、こっちには用務員室があって、スコップとかが何本も置きっぱなしになってたはずだ。まあ、あとで洗って返せば叱られたりはしないだろう。
「ん……?」
 柳くんが、足を止めた。
 僕も、思わず立ち止まり、前方を見た。
 塞川さん――彼女は、最初から雪合戦には参加してなかったんだけど――彼女が、そこにいた。
 しかも、校舎の陰に隠れるようにして、裏庭の方を窺ってる。
 確かに、裏庭の方からは塞川さんの姿は見えないだろうけど、僕たちの方向には、その背中をさらけ出しているという位置だ。
「……塞川さん?」
「わっ!」
 無防備な背面に声をかけると、塞川さんは声を上げて振り返った。
「なっ、き、きき、君か?」
「何見てたの?」
 思わず、裏庭の方を覗く。
 見ると……何てことはない。薄緑色の作業着姿の用務員さんが、シャベルで駐車場の雪かきをしてた。
 別に、特に変わった様子はない。あえて言うなら、“用務員のおじさん”と言うにはちょっと若いなってくらいで……それにしたって、特に不自然なほどじゃない。最近の用務員さんってのは、建物の管理会社の従業員さんだから、三十前だっておかしくはないわけだ。確か名前は萌木さんだ。
「用務員さんに頼みごと? 声をかけづらいんだったら、代わりに言ってあげようか?」
 僕は、あの用務員さんとは顔見知りである。軽そうだけど、気さくでいい人なのだ。
「違う。そういうわけじゃないんだ」
「じゃあ、雪かきに興味でもあったのか?」
「そんなところだ」
 柳くんの、冗談とも何ともつかない言葉に、塞川さんが大真面目に答える。
「まあ、それでもいいけど……もっと面白いことしないか?」
「面白い、こと?」
 柳くんの言葉に、塞川さんが胡散臭そうな顔をする。
 塞川さんのその表情も意外だったけど、柳くんが予想以上にノリノリなのもびっくりだ。
「雪合戦だよ。みんな、向こうで頑張ってる」
「みんなやってるのか?」
「ああ。それに、やっぱ戦いは数だからな。味方は多い方がいい」
「……合戦と聞いたらほっとけないな」
 塞川さんもやる気になってる。意外とこういうの好きなのかな?
 ともあれ、僕たち三人は、めいめいにシャベルをかついで、クラスの陣地へと向かったのだった。



 僕たちが持ってきたシャベルは、陣地の防護力を大いに上昇させた。
 結果、互いに陣地から出てきては、雪玉を投げ付け合い、雪まみれになって帰ってくる、という展開が続くことになった。長期戦だ。
「わ〜、時任くん、真っ白〜」
 塞川さんと一緒に陣地に戻ってきた雪まみれの僕を見て、須々木さんが言う。
「うーん、なかなか向こうの守りは崩せないね」
 僕は、コートについた雪を払いながら、言った。
「時任君」
 と、塞川さんが、くいくい、と僕の服を引っ張った。
 そして、陣地の隅っこへと引っ張っていく。
「何?」
「もしかして……君は、私をかばっていたのか?」
 何だか怒ったみたいな顔で、塞川さんが訊いてくる。
「あ、うーん、かばうってほどでもなかったんだけど……」
「私が雪玉に当たらないよう、盾になってただろう」
 断定的に、塞川さんが言う。
 えっと……良かれと思ってしたことだったんだけど、余計なことだったかなあ……。
「よく、あれだけの雪玉の飛んでくる軌道を、全部予想できたな」
「い、いや、そんな大したことじゃないと思うけど」
「…………」
 じっと、僕を睨み続ける、塞川さんの大きな瞳。
 なぜか胸の中で不思議な感情がこみ上がってきて、心臓がどきどきする。
 何だか、雪合戦の喧騒が、すごく遠くに聞こえた。
「――おーい、時任。作戦会議だってよ〜」
 と、クラスの誰かが、僕を呼んだ。
「ほら、塞川さん、作戦だって」
 僕は、ちょっぴり名残惜しさを感じながら、塞川さんに戦線への復帰を促した。
 そして、集まってるクラスの皆のところへと歩き始める。
「…………」
 どこか納得いかないような顔をしたまま、塞川さんが、僕についてきた。
 そして、僕ともども、クラスのみんなの輪の中に加わる。
「……向こうの主力は、葛城兄妹だな」
 城壁と化した文学碑から向こうの陣地を見やりながら、柳くんが言った。
「知り合い?」
 僕は、背中にまだ塞川さんの視線を感じながら、柳くんに訊いた。
「まあ、兄貴の方とはな。それはともかく、葛城兄妹はかなり手ごわい相手だ。こっちの戦力だとマトモにやったら対抗しようがないな」
「もう諦めるのか?」
 と、塞川さんが、僕から視線を外し、真剣な顔で柳くんに言った。
「まさか」
 柳くんが、凄みのある笑みを浮かべる。にしても、こんな楽しそうな彼を見るのは初めてだ。
「この雪合戦は公式ルールによるもんじゃないから、雪玉に当たっても退場ってわけじゃない。つまり、諦めて戦意を喪失するまでは負けないわけだ」
「雪合戦に公式ルールなんてあるの?」
 須々木さんが口を挟む。
「ああ、1988年に制定されたそうだ。まあ、それはともかく、さっきの逆を言うなら、相手の戦意を喪失させないことには、この雪合戦には勝てないわけだ」
「ずいぶんと勝ち負けにこだわるね」
「当然。勝負事は勝ちに行かないと楽しくない」
 僕の言葉に、柳くんが言う。
「というわけで、相手の戦意喪失を誘うのが目的なんだが……そうだな」
 柳くんが、グラサンの奥の目を塞川さんに向ける。
「玉を投げるのは得意?」
「自慢になるけどかなり得意だ」
 塞川さんは、胸を張って答えた。
「じゃあ、砲兵隊長はあんただ。他の女子は……騎兵だな。迂回して側面で大いに騒いでくれ」
「騒ぐの?」
 須々木さんが、目をぱちくりさせる。
「陽動だからな。萌々絵とか、そっちのかしまし娘たちとか、そういうの得意だろ?」
「誰がかしまし娘か!」
 女子の一人が、大きな声で柳くんに抗議する。
「そうだー。かしましいのはナナミだけであって、あたしとブンちゃんはおとなしいぞー」
「そんな感じで騒ぎながら、側面から攻撃してくれ。さて、砲兵の狙う目標だが――」
 まるで水を得た魚のように作戦指揮をする柳くんの言葉を、クラスのみんなは、意外そうな顔をしながら聞いた。
 そして――数分後。
「――わああああああああああ〜!」
 こっそりと迂回した女の子軍団が、敵陣地の側面10メートル位の場所に現れた。
「とりゃ、とりゃ、とりゃ、とりゃー!」
 あんまり迫力は無いけど、ともかく賑やかな感じで、雪玉を投げる女の子たち。
 敵陣から、迎撃の雪玉が彼女たちに降り注ぐ。
 びしゃ。びしゃ。びしゃ。びしゃ。
「きゃあー! 冷たいっ! 冷たいってばー!」
 派手に悲鳴を上げながらも、相手クラスの注意を引きつける。
 けど、あのままだと、あの女の子たちの戦意の方が、先にくじけてしまうだろう。
 それを狙って、相手クラスの人たちは、ここぞとばかりに雪玉を投げつけている。
 ああ、もう、見てらんない。
 そう思った時――ようやく、柳くんが号令した。
「砲撃開始だ!」
「よし!」
 元気良く答えて、塞川さんが陣地から飛び出す。
 少し遅れて、僕や、他の男子たちもそれに続いた。
「ていっ!」
 まさに気合一閃、びっくりするような剛速球を、塞川さんが放る。
 敵陣の、はるか頭上に。
 僕たちも、その雪玉を追うように、次々と斜め上に向かって雪玉を投げ付けた。
 ひゅっ! ひゅっ! ひゅっ! ひゅっ!
 にしても、塞川さんの手の動きはすごい。両手利きなのか、左右の手で矢継ぎ早に玉を投擲している。
 一方、後方では、すでに雪玉を投げるのも投げられるのもイヤになった人たちが、せっせと雪玉を作り、僕たち“砲兵部隊”に補給をしていた。
「おい、どこ狙って――」
 たぶん、葛城くんのお兄さんの方だろう。相手クラスのリーダーらしき男の子が、こっちに目標を変更しながら声を上げている。
 びゅっ――!
 葛城くんの、塞川さんを狙った雪玉を、思わず体を身を乗り出して顔で受け止めた。
 一瞬で視界が真っ白だ。はっきり言って、すごく痛い。
「君は、また……!」
 まるで叱るような口調で、塞川さんが言う。
 その時――
 どさささささささ――っ!
 重い音ともに、遠くから悲鳴が聞こえた。
 相手クラスの陣地である植え込み――その背後にあった木が、枝の上に溜め込んでいた雪を一斉に落としたのだ。
 もちろん、これこそが、僕たちの狙いだった。そのために、僕たちは、枝の上の雪の塊に、玉を投げ続けていたのである。
 体の半分以上が雪に埋まり、もはや、向こうは雪合戦どころではなくなってしまう。
「きゃー! 勝ったあぁ〜っ♪」
「やったぁ〜!」
 嬉しそうに声を上げる陽動部隊の女子たちに、相手クラスは、全く抗議してこない。
 つまり、そういうこと――敵方の戦意は、あの一撃で、完全に失われたのだ。
 見ると、塞川さんが、すごく晴れ晴れとした顔で笑ってる。
「……やったね」
 僕がそう声をかけると――塞川さんは、顔を耳まで真っ赤にした。



「ただいま帰りました」
「お帰りなさい」
 そう言って私を出迎えた橘果姉さんの顔は、紙のように真っ白だった。
 足元も、わずかにふらついている。
「姉さん……体の方が、つらいんじゃないですか?」
「え? ああ……さっき、ちょっと発作が出たから……でも、もう大丈夫よぉ」
 姉さんが、その幼い顔に笑みを浮かべる。
 だが、その表情は、いつものそれではなかった。
「無理しないで寝てください。食事は、私が作りますから」
「ん……悪いけど、そうしてくれるかなぁ?」
 今夜の食事当番という役割を、姉さんがあっさりと明け渡す。
 無類の料理好きである姉さんのそんな態度に、私は、胸を締め付けられるような感覚を覚えた。
「すいません……私が未熟なばっかりに……」
「気にしないで。桐花ちゃんは、うまくやってるわ」
 本当に、そうだろうか?
 もし私が一人前であったら、姉さんは、とっくにその体を治すことに専念できてたはずなのに――
「学校、大変でしょう?」
「いえ、そんなことは……」
「今はそうかもしれないけど、いずれ、大変になると思うわ」
 ああ、やはり私は未熟だ。
 あの学校は、大きな危険を孕んでいる。今は顕在化していなくても、ミズヒルコか、本殿の監視役か、もしくはその両方が潜んでいるかもしれないのだ。
 だと言うのに、私は――
「だからね、大変なことになるまで、うんと楽しんでほしいな。あたしの分までね」
「え……?」
「あたし、学校って所に、けっこう憧れてたし……桐花ちゃんから、今日あった出来事を聞くの、けっこう楽しみにしてるんだよ」
 そう言って、姉さんは、やや危なっかしい足取りで、居間へと歩き出した。私も、それに続く。
 と、廊下の途中で、橘果姉さんが振り返った。
「言うまでもないけど……あんまり楽しくても、油断しちゃダメだからね」
「――はい」
 私は、姉さんに向かって、深く肯いた。



 時任覚――
 寝床の中で、私は、今日の出来事を反芻した後、彼のことを考えた。
 ごく一部の例外を除いて、クラスの誰もが、彼のことを好いているように見える。
 それも、当然のことかもしれない。彼は、誰にでも親切で、優しく、それでいながら、ちっとも押し付けがましくない。
 一方で、どこか頼りなく、危なっかしくて、ついつい手を貸してやりたくなる。
 およそこの世の誰にも悪意や敵意を抱いたことがないような、そんな態度――隠し事や下心などまるで無いような、そんな表情――
 私が注意すべき種類の人間とは、まるきり正反対の存在だ。
 むしろ、あの用務員の若い男の方にこそ、警戒すべきだろう。
 奴は――私に特別の注意を払っているように思える。
 どちらかと言うと優男で、一見、危険な人間には見えないが――たまに見せる身のこなしが、どうにも素人離れしているのだ。
 その上、あの学校に通うようになってこのかた、学校の中で、どういうわけか奴を目撃することが多い。
 しかも、その前後には、どこからか視線を感じたりもする。
 あの男――確か、名札には“萌木”と書いてあったが――どうにも、気になった。
 だが、あまりに予断を抱き過ぎていると、足元をすくわれるということもある。
 本殿の監視役が、そもそも、あの学校にいるかどうかも分からない。
 ただし、あの学校に気の淀みがあるのも確かだ。
 その気の淀みから顕れるミズヒルコを斃すのが、アラハバキの役目――そして、そのアラハバキを監視する人間が、あの学校を潜伏場所として選んだとしても、それは不自然ではない。
 監視役は、いるのか、いないのか。
 もしいるとして――そして、あの学校にミズヒルコが顕れたとしたら、どうするのか――
 橘果姉さんに始末してもらう、という方法だけは、採用できない。これ以上、姉さんに負担をかけるわけにはいかないのだ。
 ならば、私が――私だけで、そのミズヒルコをどうにかしなければならない。それも、本殿の監視役に見付かることなく。
 そんなことが、果たして可能なのかどうか……。
 眠りに落ちる直前、意識はまとまりを欠き、あちこちへと分裂し、拡散していく。
 何か、大事なことを、忘れてしまっているような……。
 お風呂で……寝床で……こうやって意識のレベルが下がっていく時に、それは顕れて……。
 体が、重い……肉体の方は、すでに眠っている……けど、意識と感覚は、まだかすかに目覚めているような……。
 ――もぞり。
 何かが、動いた。
 自分の体温で温まった布団の中に、何かがいる。
 ぬる――
 それが、私の足の指に触れる、感触。
 もぞもぞ、ぬるり、ぬたっ……にゅむ……ぺたり……にゅぬぬぬぬ……。
 足元の方から、次々と、何かが私の下半身に纏わりつき、絡みつく。
 思い出した――ようやく思い出した――でも、もう遅い――
 私は、あのお風呂での出来事の後、毎晩のように、こいつに……!
「あ……!」
 わずかに漏れる、小さな声。
 大声で悲鳴を上げたいのに、そうすることができない。
 それは、私の寝巻きの下を、掴まえ、ずるずると摺り下ろしていた。
 露わになっていく太腿に、ぺたり、ぺたりと、粘液質のおぞましい感触が張り付いてくる。
 嫌悪と、恐怖と――そして、期待に似た何かが、自由の利かない私の体の内側を徐々に満たしていく。
 期待……? そんな……まさか……!
 期待などするわけがない。する理由が無い。こんなのは嫌なだけ。嫌に決まっている……!
 でも、それなら、どうして私は逃げないんだろう。
 それは、もちろん、体が動かないからだ。
 もし、金縛りになんてなってなければ、すぐにでも私は――
 ああ、でも……本当に私は金縛りなんだろうか?
 何本ものぬるぬるとした触手状の何かに、太腿を無遠慮に撫で回されながら、私は自問自答する。
 もちろん、決まってる。私は体が動かない。動かすことができない。
 だって、体が動くのなら、このままでいるわけがないんだから。
 すでに、触手は、寝巻きの上の裾から入り込み、脇腹や、乳房にまで、這い登っている。
 イヤ――イヤだ――こんなのはイヤ――!
 イヤなのに……脇腹をまさぐられ、乳房を揉まれ、腋の下をくすぐられ、首筋までも愛撫され、イヤなはずなのに……!
 なのに、私は――
「あ、くぅ……」
 動かない体を自由にされ、望んでいない感覚を味わわされ、存在そのものを弄ばれて――
「あふ……うくっ……あ……や……あっ……」
 ぬらつく触手の先端が、足の付け根を撫で回している。
 強すぎず、弱すぎず、絶妙なほどの力加減で。
 まるで、私以上に、私のことを、知っているかのように。
「や……ああぁ……あう……うっ……あはぁ……は……ひんっ……」
 声が、漏れる。
 いや、漏れてるのは、声だけじゃない。
 腰の芯が熱く疼き、そして、恥ずかしい部分から――いやらしい潤みが――
 そんな、どうして……体が動かないのをいいことに、いいように辱められているのに、なんで……?
 体が、動かないのに……。
 ウウン――違ウ――
 体ハ、動ク。
 ダッテ、私ハ……マルデ、コノ触手ヲ迎エ入レヨウトスルカノヨウニ――両脚ヲ、徐々ニ――
 徐々に……開い、て……。
「あン……!」
 それが、触れた。
 粘液に濡れた触手の先端が、さっきから固くしこっている私の肉の芽に。
「ひ……はっ……! あう……! ンッ……!」
 敏感なその突起に、むにゅっとした感触が吸い付いて――
「あひ……ひあああああっ……!」
 全身を貫く甘い電流に、私は、背中を大きく反らせていた。
 にゅる、にゅるる、と、触手が、より大胆に私に絡みつく。
 それは、もはや馴染みになった感触。
 夜になるたびに味わわされ、私を狂わせる禁断の愉悦だった。
「はふ……ひあああっ……あっ……あうう……あン! ひあああああ……っ!」
 肌の上を肉質の何かが這いずる感触に、悶え、喘ぐ。
 そんな私の反応をさらに引き出そうとするかのように、触手のうちの一本が、私の秘唇に浅く潜り込む。
 次にどんな感覚が来るのかを、私の体は、すでに知ってしまっていた。
「あうううううう……! や……ダメぇ……それ……ンはあああっ……!」
 激しく震え、入り口の部分を掻き回す触手。
 ぐちゅぐちゅという感触は、その触手自身の粘液と――私の溢れさせた恥ずかしい液によるものだ。
 さらに、クリトリスに吸い付いた触手が、細かく震えだす。
「はふ……ひいいいいいン……! やっ……やはああっ……! ダメ、ダメっ! ダメぇ……うあああああっ!」
 唇から漏れる、空しい拒絶の言葉。
 ダメと言ってもやめないことを知ってるから、私は、安心してそれを繰り返す。
 そんな私の声をうるさく思ったのかどうなのか――生温かな触手が、私の口に潜り込んできた。
「おむっ……うぐうっ……ふぐ……んむむむむ……っ!」
 息苦しくはあったが、驚きは感じない。
 何度も、何度も、経験したことだから。
 口の中で暴れるそれが、自らの胴を私の舌にこすりつける。
 まるで催促するようなその動きに、私は、うねうねと舌を動かすことで応えた。
 触手が、悦びにのたうち、さらに私の口内を蹂躙する。
「んむっ……うぐうっ……うぐ……ンおおおお……おぶ……ふううううっ……!」
 口からは涎が溢れ、股間では、愛液がじくじくと漏れ出ている。
 体内で高まる、被虐の快楽。
 翻弄され、陵辱されながら、私は、粘液まみれの体をくねらせていた。
 背中が反り返り、腰が浮く。足の指がぎゅっと丸まり、手はシーツを握り締めている。
 来る――あれが――あれが、もうすぐ来る――!
 私を犯すこの触手が教えてくれた、あの瞬間が――
 それを境に私はまた気を失い、そして、このことをすっかり忘れてしまうだろう。
 でも、体は忘れない。
 夜になるたびに思い出し、身悶えしながら、またこの触手たちを呼んでしまうのだ。
 ああ、もう、そんなことどうでもいい。
 欲しい――欲しい――早く欲しい――あのカンカクを味ワイタイ――!
 全てを――ミズヒルコのことも、アラハバキのことも――姉を、本殿を、私自身を――自分と世界の全テを忘レサセテホシイ――
 来る――来ちゃうっ――あの瞬間が――白くて、熱いバクハツが――来ル――ッ!
「あ――イ、イク――! イクううううううううううううっ!」
 かつて彼女が、犬に似た姿をしたソレと交わりながら叫んだ言葉。
 大きな声でその言葉を叫んだような気がして――私は、意識を闇に沈ませていった……。



第四章

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