ARAHABAKI



第二章



「桐花ちゃん、学校に行ってくれる?」
 橘果姉さんのその言葉に、私は思わずぽかんとした。
「学校、ですか?」
「うん」
 肯いてから、涼しい顔で、小さな湯飲みの中の緑茶をすする。
「それは、生徒として、ということですか?」
「あったりまえでしょ〜」
 姉さんが、おかしそうに笑いながら、羊羹に楊枝を突き刺す。
「桐花ちゃん、そういう年頃でしょ。えーっと、確か高校で言うと二年生よね」
「よく分かりません。私、学校に行ったことありませんから」
 そう言う私の表情は、すこし憮然としていたかもしれない。
「だいじょ〜ぶ。桐花ちゃん、頭いいもん。勉強についてけないこと、ないと思うな」
「それは……」
 どうなのだろう。これまで、様々なことを姉さんを始め色々な人に教わってきたのは確かだけど――でも、だからと言って、それが俗世の学校に通用するものだろうか。
 無論、一般常識として学校というのがどういう場所なのかは知識として知っている。だが、いわゆる義務教育機関に通ったことのない私が、いきなり高校生を演じきることができるかどうか、はなはだ心もとない。
 高校生らしい会話、服装、趣味、日常――全てが、私にとっては、ガラスの向こうの風景のようで――
「桐花ちゃん、目ぇきらきらしてるぅ♪」
 姉さんが、からかうような表情で言った。
「けっこう楽しみなんでしょ。じょしこーせーライフが」
「それは……」
 確かに――私の胸の中のざわめきは、不安だけによるものではない。
 これまで味わったことのないような高揚感――これは、いったい何なのだろう?
「よく、分からないです」
 私は、自分の今の気持ちを正直に言った。もとより、橘果姉さんに隠し事などできるわけがない。
「ふーん……。ま、ともかく桐花ちゃんには学校に行ってもらうからね」
 楊枝の先の羊羹を見つめながら、姉さんは、声のトーンを落とし、言った。
「行ってもらわないと困るのよ」
「それは……本殿が……?」
「一つの管区にアラハバキは一人……まったく、あいつらったら頭が固いんだから」
「…………」
 姉さんの顔を、まともに見れない。
 そんな私の心中を察してくれているのか、姉さんも、私に視線を向けなかった。
「すいません……私が未熟なばかりに……」
「あんまり自分ばかり責めちゃダメ。半分以上はあたしのせいなんだからね」
「でも……」
 自らの不甲斐なさに、きり、と歯を食いしばる。
 しばしの、静寂。
 自分自身の奥歯のたてる軋みだけが、聞こえる。
「ともかく、責任を感じてくれてるなら、学校には行ってね」
「……普通の人間を装え、ということですね」
「うん。どこに本殿の連中の目が光ってるか分からないから、ごく自然にね」
「…………」
 一つの管区にアラハバキはただ一人。それは、私達ではどうにもならない、絶対的なルールだ。
 本殿はアラハバキに対する恐怖ゆえにこのルールを課し、アラハバキは本殿に対する恐怖ゆえにこのルールを守る。
 共通の目的を抱いている私達をつなぐのは、恐怖という名の手綱だ。そして、どちらが馬でどちらが騎手であるのかは、言うまでもない。
 本殿の連中が駆る軍馬たるアラハバキ――
 つまり、私に選択の余地はないというわけだ。
「分かりました。きちんと、務めを果たします」
「ん、よかった♪ あんまり固く考えないで、楽しんでくれると嬉しいな」
 そう言って、橘果姉さんが、羊羹をほお張る。
 その黒い瞳が、じっと私のことを見つめていることに、私は、ようやく気付いた。




「転校生? こんな時期に?」
「ああ」
 僕の前の席に座る柳くんの答えは、そっけない。
 無愛想な態度に、おっかない顔。それで誤解されてるけど、柳直太くんはとてもいい人だ。
 ただ、いい人過ぎるせいか、たまにちょっと暴走する。
 二学期の始めのころ、人の宿題をせっせとやってる僕に近付き、いきなりノートを取り上げた時はびっくりした。
 しかも、柳くんは、それをいきなりびりびりに破いてしまったのだ。
 僕に宿題を頼んでたクラスメイトも、もちろんびっくりした。けど、柳くんは、問題のクラスメイトの抗議を一睨みで封じてしまったのだ。
 何でも柳くんは、僕が無理やりに宿題をさせられているのが、どうにもガマンできなかったようなのである。
 聞いた話だと、僕の代わりに殴られてやる覚悟くらいはできてたというのだが、この人の強面にパンチを当てようなんて度胸が、普通の高校生にあるわけがない。
 茶髪にパーマにグラサンにこめかみの傷。こう言っては何だけど、どう見ても本職の“こわい人”だ。
 その上、柳くんが、やはり本職の“こわい人”と親しげに話をしているのを、何人ものクラスメイトたちが目撃してる。
 柳くんによれば、その人はお姉さんの友達だというんだけど、そう言われても、これっぽっちも安心できない。つまり、柳くんのお姉さんまでが本職の“こわい人”に近しい人なんだと、そう思うばかりだ。
 まあ、ともかく、やたらと特定のクラスメイトたちに雑用を言い付けられる僕を、柳くんは助けてくれた。僕の方でも、頼まれたことを断るのが苦手なだけで、人の雑用に時間を取られるのには困ってたところだったので、大いに助かったのは事実である。
 ただ、僕を雑用に使ってたクラスメイトたちが、時折、僕や柳くんを険悪な目で見るのが、ちょっと窮屈ではあるけど。
 まあ、そのクラスメイト以外とはうまく付き合えてるし、人間関係のことであんまり贅沢は言うべきじゃない、とも思う。全ての人と仲良くしていたいというのは、あくまで理想だ。
「可愛い女の子だといいねー、直太くん♪」
 にこにこしながら、この話題を振ってきた須々木さんが言う。
 須々木萌々絵さんは、明るくて優しい女の子だ。顔もかなり可愛い。ちょっと天然なところがあるけど、他の人に言わせると、天然っぷりでは僕もどっこいどっこいなんだそうだ。
「特に興味ないけどな」
「そりゃあ、柳くんにはきちんと可愛い彼女がいるもんね」
 僕は、柳くんに言った。
「やっだ〜、時任くんたらあ」
「余計なこと言うな、時任」
 須々木さんが顔を赤くし、柳くんが口をへの字に曲げる。
 須々木さんは柳くんの彼女である。柳くんは否定するが、須々木さんはそう公言してはばからない。まあ、たぶん、須々木さんの言う方が事実なんだろう。
 須々木さんは、クラスの男子にも女子にも、人気がある。入学当初から、いつも一人ぼっちだった僕が、二年生になってからクラスに溶け込めるようになったのは、彼女のおかげだ。
 クラスの一員として認めてもらうには、クラスの誰かが、その人を受け容れないといけない。
 そういう意味でも、このクラスに来る転校生が寂しい思いをしないよう、今度は僕の方が、できるだけのことをしよう、なんて思う。
 まあ、そういうことは、須々木さんとかの方が得意なんだろうけど……。
「はぁ〜い、皆さんおはよう〜」
 教室に、白衣姿の烏丸雅先生が入ってきた。にこやかなその笑みは、高校教師というより、幼稚園の先生とか、保育園の保母さんを思わせる。
 教室の中に散らばってわいわい言っていたみんなが席に着き、委員長が号令をかける。
「さて――今朝は、みんなに転校生を紹介しちゃいますね」
 そう言って、烏丸先生が、まだ教室の入り口のところにいる女の子を促す。
 真新しいウチの学校の制服に身を包んだその子が、教卓の隣に立った。
 ほっそりとした体に、大きな目が印象的だ。ちょっと癖のある髪は、肩の上のところで切り揃えられている。
「サイカワキリカです。よろしく」
 澄んだ声で、彼女は言った。
 烏丸先生が、チョークで、カッカッと音をさせながら黒板に“塞川桐花さん”と書く。なかなか珍しい苗字だ。
 しかし、転校生が女の子となると――
「えーっと、空いてる席は……」
 先生が、ちょっとわざとらしい口調で言いながら、僕の方を向く。
「時任覚くん。君の席の隣ね」
 烏丸先生の視線を追うようにして、彼女――塞川さんが、こっちを向く。
 えっと……あれ? どこかで会ったような……。




 柔和な顔に、伸びた前髪。人に良く馴れた猫を思わせる、人畜無害を絵に描いたような少年。
 一目見て、気付いた。
 これは、偶然か、それとも、橘果姉さんの差し金なのか――
 間違いなく、あの橋の上にいた彼だった。




 ……だめだ。思い出せない。
 ま、いっか。今日これから仲良くすればいいんだし。
「えーっと、よろしくね」
 声をかけると、席に着きかけた塞川さんが、不思議そうな顔をした。
 その黒目がちの瞳に、警戒したような色が浮かんでいる。
 うーん、まあ、最初の最初だし、無理はないかな?
「――よろしく」
 それでも、塞川さんは、そう僕に返事をしてくれたのだった。



「桐花ちゃん、食事にしよっ!」
 塞川さんにどう声をかけたものか、などと考えていた僕より先に、須々木さんが彼女に声をかけた。
「あ、えっと……」
 塞川さんが、大きな目をぱちくりさせる。
「ほらほら、そっち、机くっつけてー」
 そう言いながら、須々木さんが、柳くんの机の上に、お弁当箱を置く。ここは、もう彼女の指定席なのだ。
 柳くんは、相変わらずの仏頂面で、それでも机を動かした。別に嫌がってる訳ではなく、本当は照れているのだと気付いたのは、ごく最近のことだ。
 自然、僕の隣の塞川さんも、このコロニーの一員になる。
 と、そこに、須々木さんの友達の女の子が寄って来て、空いている机に座った。何と言うか、ともかく、華やかなことこの上ない。
「萌々絵っちー、そのミートボールよこせー」
 いきなり、須々木さんの友達の一人が、フォークをもった手を伸ばしてきた。
「あ」
 須々木さんがびっくりしてる間に、お弁当の中身がさらわれてしまう。
「ちょ、ちょっと、七宮さん……! えっと、えっと、如月さん、止めた方が……」
「あー、ブンちゃん、その食欲魔人は止めようがないの。ほっといて静かに昼食を楽しもう」
「ユッキ! 人をおばけみたいに言うなぁー!」
「ぐー」
「それからァ! 人の悪口言った直後に寝るなぁー!」
 うーん、賑やかだ。ちょっとついてけない。
 塞川さんも、この雰囲気には面食らってるみたいだ。
「あはは、翔子ちゃんてば相変わらずだねー」
 おかずを取られた須々木さんが、にこにこ笑いながら言う。
「桐花ちゃんも、気をつけた方がいいよ。翔子ちゃんてば、何だって食べちゃうんだから」
「そ、そうなのか」
 塞川さんは、かなり警戒した様子で、お弁当箱の蓋を開けた。
「あのさー、あたしだって、転校したばっかの子のお弁当ねらうほど仁義欠いちゃいないよ」
「長い付き合いだったらいいってもんじゃないだろうに。って言うか、ナナミ、どんなに食ってもそれ以上大きくなんないんだから諦めな」
「まだ諦めてたまるかー! あたしはブンちゃんみたいにナイスバディーになるっ!」
「な、七宮さん、そういうことは――」
「あんまり目標を高く設定すると後で泣くぞ。せめて萌々絵っちくらいにしとけ」
「っつーか、確かに萌々絵っちの胸ってでかいよねー。何か大っきくするコツとかあんの?」
「あははー、やっぱ直太くんに――」
「も、萌々絵、その、お前、箸が止まってるぞ」
 何か致命的なことを言いそうになった須々木さんを、柳くんが牽制した。
 話を聞いていた他のクラスメイトたちが、意味深な笑みを浮かべたり、冗談を飛ばしたりする。まあ、柳くんが恐いのか遠慮がちではあるけど。
 さて――塞川さんは、どこか所在無げな顔で、お弁当を食べていた。
「……ずいぶん凝ったお弁当だね」
 僕は、素直な気持ちで、そう話しかけてみる。
 塞川さんのお弁当は、かなり気合の入ったものだった。夕食の余りとか、朝食の残りとか、そんな感じじゃない。その上、冷凍食品とかでもなさそうだ。
 つやつやした焼き色のついた魚の切り身に、しっかり味の染みていそうな野菜の煮物。出し巻き卵は色も形も綺麗だし、佃煮や漬物まで、どこか気品のある盛り付けをされている。完全無欠の純和風お弁当だ。
「い、いや、大したことはないんだ。そんなに難しい献立じゃないし」
「って、それ、塞川さんが作ったの?」
「ああ」
 当然のような顔で、塞川さんは肯いた。
「すごいな〜。けっこう時間かかるでしょ?」
「弁当を作るのにそんなに時間はかけないさ。一時間もあれば足りるし」
「え? 塞川さん、何時に起きてるの?」
「今日は学校に来る準備があったんで四時半だな。普段は、もっと遅いが」
「五時くらい?」
「四時四十五分」
「うわあ……」
 思わず驚きの声を上げてしまう。
 と、塞川さんは、僕の顔が面白かったのか、くすりと笑った。
「……君は、弁当じゃないのか?」
「え? あ、そうだね。いっつもパンだよ」
「しかもジャムパンばっかだよな」
 須々木さんの友達の会話から逃れるような感じで、柳くんが言う。
「ジャムパン……好きなのか?」
 塞川さんが、そう訊いてくる。
「いや、特には」
「じゃあどうして?」
「うーん、いつもこれしか売れ残ってないんだよね〜」
「時任は甘いんだよっ!」
 さっき須々木さんのミートボールを強奪した彼女が話に割り込んでくる。
「人を押しのけてでも好きなパンをゲット! そうでもしないと育ち盛りの体はもたないよっ!」
「ナナミ、さっき三つしか残ってなかったカレーパン三つとも買ったろ」
「そりゃまあ、放課後の部活の時の分も含めてだし……」
「うーん、けど、やっぱ買い過ぎだと思うな、ナナミちゃん。いくら好きだからって、過ぎたるはオナガザルがごとしだよ」
「違うだろ」
 仏頂面のまま、柳くんが、須々木さんにツッコミを入れる。
「あ、あれ? テナガザルだっけ?」
「及ばざる、だ」
 柳くんの言葉に須々木さんが照れ笑いを浮かべ、周りのみんなも笑っている。
 ふと見ると、塞川さんも、下を向いて、声を殺して笑っていた。
 なぜかそれがすごく嬉しくて、ついじっと見つめてしまう。
 塞川さんは、そんな僕の視線に気付いたのか、ちょっと僕を睨んでから、そっぽを向いてしまった。




「――学校、どうだったぁ?」
「疲れました」
 出迎えた橘果姉さんに、私は正直に答えた。
「ふ〜ん……友達は、できたかな?」
「その……まだ、そういうわけには……」
 思わず、そんなふうに口ごもってしまう。
 そもそも私には、同年代の友人というものがいない。
 ああやってただ一緒に昼食を取るだけの関係を“友達”と呼んでいいのかどうか――
 いや、それ以前に、私は友人を作るために学校に行ってるわけではないのだ。
「ところで、あの学校なんですが……どことなく、気の淀みのようなものを感じました」
 茶の間で座布団の上に座りながら、私は言った。
「モノやケガレにまでなってはいないのですが……霊脈的に、溜まり易い場所に思えます」
「ふーん、やっぱりねぇ」
 お茶をいれながら、姉さんが言う。
「やっぱり、と言うことは……」
「確信はなかったんだけどね。もし、危ない場所だったら、ついでに前調べもできるといいかなー、と思ってたんだぁ」
「なるほど……」
 私の立場を偽装するだけじゃなくて、斥候も兼ねてたということか……。
 もちろん、ひどいだなんて思わない。むしろ、姉さんが私を頼りにしてくれていることが、素直に嬉しかった。
 そう、私は、別に学校生活を楽しみたいなんて思ってはいないのだ。
「怪しい人、いたかな?」
「いえ……むしろ、場の雰囲気に紛れて、かえって分かりにくくなってるような気がします」
「だからこそ、隠れ家にはもってこいかもねぇ」
 そう言って、橘果姉さんが、少し考え込む。
「……本殿の監視役が、すでに入り込んでる、ってこともあるかもしんないね」
「そうですね」
「もし、ミズヒルコよりもっと恐いモノが顕れるようなところだたら、余計に本殿の方も目を付けるだろうし……」
 前線で戦う身として、後方を信用できないのは、つらいところである。
 だが、実際に約定を破っているのは私たちの方だ。それなりの事情があってのこととは言え、疚しいことがあるからこそ、こちらはこんなに警戒しているわけだし。
 何にせよ、四方に対して気を緩めるわけにはいかない。たとえ、学校の中でも。
 いや、むしろ、学校の中でこそ、私は常に気を張っていなければならないのだろう。
 ミズヒルコ、本殿の監視者、そして、そのどちらでもない、モノやケガレ――いつそれが目の前に出現するか分からない。
 用心に用心を重ねる必要が、ある。
「――オフロ入る? もう沸いてるよ」
 私の緊張をほぐすように、にっこりと笑いながら、姉さんは言ってくれた。



 一度湯船に浸かり、体を温めてから、洗い場の椅子に座った。
 ヘチマで体をこすりながら、思わず溜め息をつく。
 また少し、胸が大きくなってる――
 子を産むカタチになっていくということ自体が疎ましいが、それ以前に、ミズヒルコどもとの戦いにおいて、邪魔になる。
「…………」
 ……私は、どうして女に生まれたんだろう?
 もし私が男だったら、早々に姉さんの後を継ぎ、アラハバキとして一人立ちしていたのに。
 私が男でさえあれば……。
 いや――そうだろうか。
 結局、自らの未熟さを性差のせいにしてしまううちは、私はまだまだ一人前ではありえない。
 そもそも、橘果姉さんだって女だ。
 女――
 石鹸の泡を洗い流し、湯船に入りながら、学校で知り合った女子たちのことを考える。
「…………」
 憧憬、羨望、嫉妬……そういった名前が付くには至らない、淡い思い。
 私だって……私だって、本当は……。
 意識することすら許されない感情の淀みが、心の底に累積し、堆積して……。
 ――いけない。これは。
「……っ!」
 ぬるりと、お湯の中で、何かが動いた。
 まるで、目に見えない水蛇が中で動いたかのような感触。
「しまっ……!」
 ざぶりと、お湯が動く。
 立ち上がろうとして、失敗した。
 体に、何かぬるぬるとしたものがまとわりついている。
 そう意識した瞬間――湯船にたっぷりと張られたお湯が、まるでゼリーのように凝り固まった。
「あ……!」
 ぶじゅぶじゅと不気味に泡立ちながら、次第に病的な青緑色に染まっていく、湯船の中のお湯。
 それが、私の体を押さえつけ――そして、撫で回した。
「い、いやっ……!」
 思わず、悲鳴が漏れた。
 ぬめぬめとした何かが、体中を無遠慮にまさぐっている。
 それは、原始的でありながら、何か強烈な本能によって活動しているように思えた。
「あ、ひ――」
 ぞくり。
 体が、震える。
 すでに完全にイキモノと化したお湯が、私の体を刺激する。
 首筋、背中、乳房、太腿、指先――そして、下腹部。
「や、やだっ! いやあっ! くっ……あああああああっ!」
 私は、パニックになって、拘束されている体を暴れさせた。
 だが、お湯は――いや、粘液の固まりは、不気味な温もりを保ったまま、私の力を全て吸収してしまう。
 すでに、異形に飲み込まれ、体を弄ばれている私。
 そんな私の絶望をさらに煽るように、それは、ざわざわと激しく蠢いた。
「あ、うくうっ……あひ……や、やめ……ひうううううっ!」
 乳房をいいように揉みしだかれ、乳首をくすぐられる。
 何とも言いようのない痺れが、胸を中心にして、体中に広がった。
「は、うっ……やあっ……くっ……いいかげんに……あくう……!」
 意味が通じるかどうかすら分からない相手に対する、空しい言葉。
 もちろん、それは、活動を停止したりなどしない。
 私からある反応を引き出そうと、胸を蹂躙するその生きたゼリーの動きは、ますます激しくなっている。
「は、あううっ……あぐ……やっ……やだあっ……!」
 子供のような悲鳴を、上げてしまう。
 そんな私を嘲笑うかのように、それは、閉ざしていた私の脚を、無理やりにこじ開けた。
 何て力……! いけない、このままじゃ……!
 ぬるりと、体の中の浅い部分に、何かが侵入してくる。
「ああああああああああああっ!」
 私は、湯船の中で大きくバランスを崩した。
 ぐるりと体が動き、頭が温かな粘液の中に飲み込まれる。
「あぶっ! んぶうっ! ごぼ……おああああっ……!」
 口の中に、それが入ってきた。
 まるで、私の体の中をあらゆる穴から陵辱しようとしているかのように。
 息ができなくなり、視界が赤黒く染まる。
 それでいながら――私の肌は、誤魔化しようもない甘い痺れを感じて――
「あ……」
 そして、私は、次第に意識を失っていった……。



「――かちゃん! 桐花ちゃんっ!」
 よく知る声に、呼び戻された。
「ん……え……?」
 ゆっくりと、瞼を開く。
「桐花ちゃん、どうしちゃったの? お風呂で溺れちゃったりして!」
「え……姉さん……」
 滲んだ視界が次第に焦点を合わせ、像を結んだ。
 目の前に、服をお湯で濡らした橘果姉さんが、いる。
 その顔には、心配半分、呆れ半分といった表情が浮かんでいた。
 ここは、脱衣場……。
 体を起こし、開け放たれたままの扉から風呂場を見る。特に変わったところは無い
 湯船の中にあるのも、無色透明の、普通のお湯だ。
「あの……私……ヒルコが……」
「いないわよ、ミズヒルコなんか。ここを囲む結界を超えられるようなのがいるわけないでしょ?」
 ……ああ、そう言えばそうだ。
 でも、私は、どうしてミズヒルコのことなんかを口にしたのだろう。
 お風呂場で、何か、私にあったのだろうか……?
 思い出せない――思イ出シタクナイ――思い出せない――
「お風呂で寝ちゃったんでしょ? すごい声出してたわよォ」
 からかうような口調で言うが、姉さんは、この小さな体で必死になって私を助けてくれたのだろう。
「たぶん、あんまり疲れたからね。えーっと、お湯、飲んじゃった?」
「平気です……。すいません、姉さん」
 謝る私に、姉さんは、やれやれ、と笑顔で溜め息をついた。
 再び風呂場に視線を移す。
 そこは、いつもどおりの日常の場所で、怪しい気配など、全く感じられなかった。



第三章

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